こんにちは。前回は『おくのほそ道』がどういうものなのかについて学習しましたが、みなさん覚えていますか。ちょっと不安な人は、前回書いたまとめを読んで、『おくのほそ道』の概要を振り返ってみましょう。
松尾芭蕉は弟子に会いに大垣へ。様々な人と会ったり景色を見たり歌枕を訪れたりするため、大垣へ直行しなかった。「おくのほそ道」はその旅を紀行文としてまとめたもの。紀行文は旅日記とは違い、読み手が面白さを感じられるようフィクションを織り込んでいたり後に手直ししたりしている。蕉門で大事にされた考え方「不易流行」。俳句には意味の切れる「切れ字」がある。また最初の句で切れるものを「初句切れ」という。
松尾芭蕉は、おくのほそ道の作者。おくのほそ道は、江戸時代前期の紀行文で曽良と共に大垣まで旅をした時に書かれた俳句や文章が収められている。弟子たちに会いに大垣へ行く際、直行せずわざわざ遠回りしたのは景色や人々との出会いも大事にしたかったから。紀行文は、旅行の行程をたどるように体験した内容を記した文であり、旅日記との違いは、より芸術性の高い文章にするため、後で手直しした部分やフィクションの内容が含まれている。
「平泉」というのは地名で、今の岩手県にあります。芭蕉(ばしょう)さん一行がこの場所を訪れたときの文章です。
さて、この部分は『おくのほそ道』の中でもかなり盛り上がる部分だから、気合を入れていきましょうね。ちなみに、今回は平泉の前半部分をやっていきます。
前回、芭蕉さんが源義経(よしつね)ファンだったって言ったでしょ? 諸説あるけど、平泉は義経の最期の場所でもあるんだ。だから、芭蕉さんはずっと平泉に行ってみたかったんだね。今でいう「聖地巡礼」っていうとわかりやすいかな。
「平泉」前半の文章を読んで、この文章の工夫や面白さを見つけることです。
まあ、まだ何が書いてあるかわからないだろうから、まずは、本文をわかりやすく解説している動画を見て、クイズを解きましょう! 下のリンク(eboard)からアクセスして、動画を1つ見て、クイズ7問に答えましょう!
三代の栄耀一睡のうちにして、 大門の跡は一里こなたにあり。秀衡が跡は田野になりて、金鶏山のみ形を残す。まづ高館にのぼれば、北上川南部より流るる大河なり。衣川は、和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落ち入る。泰衡らが旧跡は、衣が関を隔てて南部口をさし固め、夷を防ぐと見えたり。さても、義臣すぐつてこの城にこもり、功名一時のくさむらとなる。 国破れて山河あり、城春にして草青みたり。と、笠うち敷きて、時の移るまで涙を落とし侍りぬ。
夏草や兵どもが夢の跡
卯の花に兼房見ゆる白毛かな 曾良
まず、「三代の栄耀」というのは、藤原清衡(きよひら)、基衡(もとひら)、秀衡(ひでひら)ら親子三代にわたって栄華を極めた人たちのことだ。でも、その栄華も「一睡のうちにして」、一夜の夢のように終わってしまったんだね。
「大門の跡は一里こなたにあり」って、彼らの城はめちゃくちゃ大きかったんだね。すごい勢力だね。でも、「秀衡が跡は田野になりて、金鶏山のみ形を残す」とあるように、そのお城はもう残っていないんだね。
「まづ高館にのぼれば」の「高館」っていうのは、義経の館だ。さすが、義経ファンの芭蕉さん。真っ先に義経が住んでいた館にやってきたんだね。「北上川南部~に落ち入る」は、「北上川」と「衣川」について書かれているね。詳しく川の場所を理解する必要はないよ。ただ、川の話をしているな、ってことだけ覚えてて。「泰衡らが旧~と見えたり」は泰衡の城について書かれているね。
「義臣すぐつてこの城にこもり」の主語は義経。「義経が忠義のあつい家臣を選りすぐって、この城に立てこもって」という意味だ。(動画では「義臣=義経」って言っているけど……)「功名一時のくさむらとなる」の意味は、「名声は一時的なもので、今はもうくさむらになっている」ということだね。
ここで芭蕉さんは「 国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と口ずさむ。これは中国の杜甫(とほ)という詩人が詠んだ「春望」という漢詩から来ている。
最後に俳句が二つあるね。
芭蕉さんが最初に『おくのほそ道』を書きあげたとき、「草青みたり」のところを「草青〃たり(くさあおあおたり)」と書いていた。それを曽良が「草青ミたり(くさあおみたり)」と見間違えて書き写した。芭蕉さんはこれを見て、「草青みたり」の方がいいなと思って、こちらに変更したんだ。偶然、この表現が生まれたんだね。
ここは「三代にわたって栄えた奥州藤原氏は、一睡の夢のように消えて」という意味だ。
ところでさ、こんな風に、「権力を得た者が衰退する」っていう話を中学のときに聞いたことない? 多分暗記したんじゃないかな?