水前寺成趣園は,肥後細川藩の初代藩主細川忠利が国府に御茶屋を置いたのが始まりで,3代藩主・綱利公によって大規模な作事が行われ,寛文11年(1671年)に完成した.2021年が350年という節目の年に当たることから,長い歴史に育まれた細川文化と築庭当時の姿を今に残す貴重な大名庭園「成趣園」の魅力を国内外に発信する記念事業が実施された.令和4年1月10日(月・祝)には, 築庭350年の記念番組『水前寺成趣園と細川綱利』がRKK熊本放送で放映された.
水前寺という寺については,飛鳥時代から存在したという言い伝えが存在することもあり,改めて史料を調べてみた.
続日本紀
水前寺の名称は,飛鳥時代末の肥後の名国司,道君首名(みちのきみのおぶとな,天智2年ー養老2年(663-718),又は道首名)を紹介した際に記したが,再度説明しておきたい.道君首名は肥後熊本藩初代藩主の加藤清正(1562-1611)より900年位前に筑後・肥後を治めた良吏であり,肥後を治めた人物として記録に残っている最も古い国司である.彼が亡くなると,百姓は祠を立てこれを祀った.郷土史家によると,「熊本市より北の方に多く祀られていたおぶとさんという小さなほこらや熊本市高橋東神社(通称天社さん)は首名を祀るもの」とのことである.そのほか,水前寺,味噌天神なども.道君首を祀ったものであり,道首名の住居跡に水前寺を造ったという話は「日本書紀」によるとの説があるが,その有無を確認するには至っていない.
千年後の江戸時代初期に,水前寺とその名の付いた御茶屋が登場する.御茶屋は第1代藩主細川忠利の時代寛永13年 (1636)に国府御茶屋として開設されたもので、藩主一族の「別荘」であったと言われているが,寛永9年 (1632)と記載している史料もある.入手可能な関連史料を調べてみた.
肥後国誌
肥後国誌(校訂 上 後藤是山(1886-1986)編 国立国会図書館デジタルコレクション)の本庄手永(コマ番号130/366)には以下の記載がある.
神倉荘 今村 高六三五石余
水前寺川 當村所々ノ田野ヨリ流出ル川筋ニテ寒冷水也
成趣園 水前寺ノ御茶屋ト云清凡ノ活水アリテ風景絶勝ノ地アリ,初メ水前寺ト云ル禅刹也,忠利君後ニ此寺ヲ近辺二移シ其跡ヲ遊休ノ亭トシ給フ故二里俗水前寺ト称ス
成趣園十景アリ左ニ記ス
阿蘇白煙 龍田紅葉 瀬田山雪 国分院鐘 前林梅花
飯田夕陽 厳泉清流 健宮杉嵐 水隈乱蛍 松間新月
綱利君御自筆ニ題シ給フト云
玄宅寺降龍山の項では寛永9年となっている.
禅洞家府ノ禅定末寺也或説鎮国山ト號ス云々 豊州羅漢寺ノ前住傅室玄琢和尚忠利君ニ従テ寛永九年当国ニ来ル源君此所ニ一寺ヲ建テ水前寺ト號シ玄宅ヲ開山トシテ居シメ自ラ水前寺ノ三字ノ額ヲ給匕今ニ存ス 五十石の寺領寄付ノ印証ヲモ給フ
水前寺は,御茶屋と同時に建立された寺で,豊前耶馬渓羅漢寺の僧,玄宅を迎えて開山した.小倉藩初代藩主細川忠興は羅漢寺に深く帰依し,寺領を与えている.
熊本藩年表稿
熊本藩年表稿(2013年,熊本大学レポジトリ,PDF版)を紐解いて,水前寺御茶屋について調べてみた.
熊本藩年表稿で「水前寺」で検索すると,最初にヒットするのは第2代藩主光尚の時代である.
正保3(1646)丙戌(家光)光尚
9.3 水面寺御茶屋を以後寺造りにして、 義解院を祀る予定のところ、資力がないので一時返上し、勧進のうえ行なう予定を申出る(奉書)。
第3代藩主綱利(1643-1714)の時代に行われた大改修については以下の記載がある.
寛文10 (1670) 庚成 (家綱) 綱利
2月 水前寺御茶屋見物は藩主在江戸中のみ許可、在国中の見物は大身歴々でも禁ずる慣例なり (奉日・奉覚)。
3.10 水前寺作事、元田八右衛門が奉行として指揮す、日雇賃1日8分の定めを1匁宛とするも応ずる者なく、鉄砲衆・長柄衆を主としその他家中役人を動員 す (奉日)。
延宝5 (1677) 丁巳 (家綱) 綱利 (別ページ)
水前寺御茶屋の掃除など御郡奉行支配とす (大覚)。
水前寺御茶屋は,1646年光尚が改築を計画したが,財政難のため先送りしている.3代藩主・綱利の寛文10年(1670年2月)には,参勤交代で藩主が江戸に居る時は見物を許可している.同年3月10日に,元田八右衛門が奉行として水前寺御茶屋の本格的改修工事に着手したものの,日当を2割増し(約1250円)にしても応ずる者がなく藩役人を動員して翌年に完成させている.「成趣園」は陶淵明の詩からとって名付けられた.光尚が計画した水前寺改修を完成させたのは綱利27歳の時である.延宝5 年 (1677) には,水前寺御茶屋の掃除など御郡奉行支配としている.
綱利の事績については稿を改めて紹介するが,1712年に隠居した際には,財政困窮のため,6箇所の御茶屋を廃止し,水前寺を含む3箇所だけを残している.
神水、畠山、白糸、柳井谷、八景水谷、高野辺田の御茶屋を廃止。水前寺、 岩下、酒石の三ケ所を残す(本・奉覚・大覚)。
西区島崎にある釣耕園は江戸時代の中頃に造られた細川藩のお茶屋の一つで,細川家家臣續弾右衛門が藩主綱利から頂戴したものである.八景水谷公園(綱利,御茶屋跡),必由館高校内にある採釣園(1670,家老米田是長),熊本県立図書館横にある旧砂取細川邸庭園は当時の庭園形式をいまに残している.
存亡の危機
綱利の跡を引き継いだ第4代藩主の細川宣紀は,治世の大半は,旱魃,虫害,地震,大風,飢饉,火災に悩まされ多難を極め,前藩主の借金返済や幕府から命じられた大規模公共事業等も大きな負担になった.注)第4代藩主細川宣紀については2012年に紹介した.
第6代藩主 細川重賢(1720~1785)は,28才で藩主になるや藩財政を回復させたことで知られているが,藩の財政緊縮のため酔月亭を残し他の建物は取り壊された(1755 宝暦5年).肥後国誌には「昔よりありける廣き別館を皆毀(こぼ)たせた」とある. 注)第6代藩主 細川重賢の事績については2012年のブログで詳述した.
明治時代に水前寺成趣園は官有となったが, 御茶屋「酔月亭」および玄宅寺は西南戦争 (明治11年,1878)で焼失し, 桃山式の回遊庭園, 泉水, 築山なども荒廃してしまった. 最終的には元の姿に蘇らせたいと熱望する有志に国から払い下げられ, 細川家の歴代藩主とガラシャ夫人(明智光秀の娘で細川忠興の正室)を祀る出水神社が園内に創建された.庭園は出水神社の社地として払い下げられた.1929年(昭和4年)12月17日には,「水前寺成趣園」として. 国の名勝および国の史跡に指定された. 第二次大戦中の空襲(1945年7月1日?.健軍に三菱重工業熊本航空機製作所や飛行場が在った)によって,出水神社は焼失したが,1973年(昭和48年)に再建され現在に至っている.なお,2016年4月の熊本地震で8割方底が露出した池も一月後には湧水が復活し,倒損壊していた出水神社,表参道の鳥居も平成21年10月に再建され築庭350年を迎えた.
まとめ
平成25年第29回歴史研究会に於ける講演では以下のような見解であった.
細川家文書によると,初代藩主忠利が,寛永13年(1636)に作事した「国府の御茶屋」が始まりで,当時は露地と草庵風の数寄屋だけであったという.「水前寺」は御茶屋と同時に建立された寺で,豊州国羅漢寺の僧玄宅を迎えて開山とした.その後まもなく御茶屋は水前寺の所有となり「水前寺御茶屋」と呼ばれるようになった.
寛文5年(1665),水前寺は無住となったため,御茶屋は寺地とともに熊本藩に引き上げられ,寛文10年(1670)に細川綱利により大規模な作事が行われた.作庭は茶道役萱野甚斎,二代目古市宗庵を中心に進められ,池辺の御茶屋「酔月亭」も作事された.
追記
水前寺成趣園には, 忠利の祖父・細川藤孝(幽斎)が後陽成天皇の弟・八条宮智仁親王に『古今和歌集』の奥義を伝授したといわれる古今伝授の間がある. 八条宮の本邸から長岡天満宮に移され, 明治4年(1871年)に桂宮家から細川家に贈られ, 解体保管されていたものを, 大正元年(1912年)に酔月亭の跡地に移築された.
宝暦13年 (1763年) に秋月藩の遠藤幸左衛門が筑前国下座郡屋永村 (現在の福岡県朝倉市屋永)に沸き出でる清泉(現在の黄金川)に生育している青紫色の苔を発見した.幸左衛門はノリの名前を『川茸』と名付け,板状のノリに加工する製法の研究を開始した.天明八年(1788年).幸左衛門の息子,遠藤喜三右衛門共は父の志を継いで独特の乾燥法を確立した.寛政五年(1793年).秋月藩主に献上したところ大変喜ばれ.御狩りの鴈を添えられ.ノリの名称も『寿泉苔じゅせんたい』と賜名された.その後,『寿泉苔』は将軍家にも献上され,『献上品につき,誰も川に入って,川茸や魚を捕ってはならない』といった御触れの石碑を川の畔に立て,清泉が汚されないように大切に守られてきた.(出典 創業寛政五年(一七九三年) 秋月藩献上御用品 - 遠藤金川堂)
このように,スイゼンジノリは「水前寺苔」,「寿泉苔」,「清水苔」,「紫金苔」,「川茸」などの名で地方特産の珍味となっている.現在は生息数が減少し,幻の存在になっている「菊池苔」も同じものと思われる.
熊本藩年表稿には以下の記述がある.
安永6年 1777 御進上用菊池苔の御用受込を河原手永原村の地侍𠩤陸右衛門に命ぜられ、勤料として毎年米1石5斗あて下附す(年覚)。
御進上用菊池苔の屑苔は売払い上納の足にしたき旨出願あれど許ざず上納苔の値段で買上げを示達す(年覚)。
安永7年 1778 御献上御用清水苔立方が多いので苔師三人話方を願 うも許されず(年覚)。
天保10年 1839 水前寺苔場へ野水流込に付 本庄手永長嶺村に野水堀作る(年覚)。
安政2年1855 水前寺苔育生につき達(年覚)。
寛政10年(1798年) 神水村苔立方少なきにより釣漁取締の件(藩法713)。
1759 宝暦9 平賀源内著「物類品隲」で水前寺菜が紹介されている.
「スイゼンジソウ」 , 「水前寺草」は, いつの間にか「水前寺菜」になった.
金沢で栽培されているものは, 「キンジソウ」と呼ばれている.
水前寺公園にまつわる幼児期の話(約80年前)
私は3〜4歳の頃(昭和17〜18年),水前寺公園に花見に行った際,築山の富士山に駆け上ったとのことである.そして,事もあろうに近くにいた兵隊さんに向かって,「兵隊さんのまんじゅ食うて,屁ふらした」と言ったらしい.兵隊さんは「おら,ふっとらんぞ」と言ってうまくかわしてくれたとのことである.寺社の境内で罰当たりな行為をしたものである.
いきなり団子?
「御茶屋の類型」について考察した論文の紹介
「御茶屋」とは細川藩独自の名称であり, 一般的には「本陣」と呼ばれるものである. 参勤交代などで,藩主が宿泊・休憩する施設であった. 熊本藩では,24個所存在した. 水前寺御茶屋は寛永13年(1636)に国府御茶屋として開設されたもので、藩主一族の「別荘」であった。 注)寛永9年(1632)と記載されているものもある.
南関, 高瀬, 山鹿, 植木, 川尻, [水前寺], 小川, (種山, 柿迫), 八代, 日奈久, 佐敷, 水俣, 大津, 的石, 内牧, 坂梨, 笹倉, 九重, 野津原, 鶴崎, 長洲, 三角, 佐賀関
敷地が街道に面する御茶屋には.蔵,奉行住宅,軍事施設が併設されていない.
山鹿,日奈久,大津,的石
街道から引き込んだ位置にある御茶屋には軍事施設が併設される例が多い.
高瀬,川尻,佐敷,九重,野津原,鶴崎
詳細は文献, 熊本藩の御茶屋の類型について - J-Stageを参照.
参考資料
お知らせ
水前寺成趣園350年記念祭事業テレビ放映について
今回の事業に関しまして、下記のとおりテレビ番組により放映される
ことになりましたのでお知らせいたします。
記
1.放送日時 令和4年1月10日(月・祝)
午後3時49分~午後4時20分(30分番組)
2.放送テレビ局 RKK熊本放送
3.番組名 築庭350年記念番組
『水前寺成趣園と細川綱利』
水前寺成趣園のホームページのトップに掲載された写真
肥後の国司 道君首名(良吏, 713年, 続日本紀)
熊本藩年表稿(熊本大学リポジトリ,418頁,48.3 MB) 現在はダウンロードできない.
島崎地区の名所・旧跡(シリーズ島崎) 釣耕園について
肥後藩に お け る江戸時代申期 茶道方に つ い て - J-Stage
熊本市歴史的風致維持向上計画(くまもと歴史まちづくり計画) 第2章-7 豊かな湧水にみる歴史的風致 (PDF:3.06MB)
2012-22 田舎は田舎らしく(細川重賢)(身近な歴史)
2012-23 細川重賢の倹約令(飲食)(身近な歴史)
2012-24 重賢の節約令(衣服)(身近な歴史)
2012-26 細川重賢の事蹟(身を切る改革)(身近な歴史)
2012-34 三賢堂の建立(安達謙蔵の想い)(シリーズ島崎,身近な歴史,国会図書館)
(資料)歴史研究会の全国大会(第29回,平成25年10月18-20日) の記念講演
演題:「近世史研究の最前線 ー永青文庫細川家史料からー」
講師:稲葉継陽氏 (熊本大学文学部附属永青文庫研究センター副センター長)
演題:「古代ロマンの宝庫くまもと」
講師:島津義昭氏| (元・九州考古学会会長、 崇城大学講師)
(2022.1.25)
(編集資料)玄宅寺降龍山
禅洞家府ノ禅定末寺也或説鎮国山ト號ス云々 豊州羅漢寺ノ前住傅室玄琢和尚忠利君ニ従テ寛永九年当国ニ来ル源君此所ニ一寺ヲ建テ水前寺ト號シ玄宅ヲ開山トシテ居シメ自ラ水前寺ノ三字ノ額ヲ給匕今ニ存ス 五十石の寺領寄付ノ印証ヲモ給フ 其後二世斧山退寺玄宅モ複豊州ニ帰国シ宗悦看司タリ此時寺領公取ス且此地ヲ茶店ニ設ケラル,故替地ヲ賜リ今ノ地ニ引移ス 寛文五年宗悦府ノ禅定末寺ニ周シ禅定六世愚岑周賢和尚ヲ当寺ノ中興開山ト称ス 其後御茶屋ノ名ニ憚リ寺號ヲ開山玄宅ノ名ニ依テ玄宅寺ト改ム 本尊釈迦佛年貢免許ノ地ナリ