水産増養殖生物の増加と生産物に要求される形質の多様化が急速に進んだ昭和30年代後半から40年代初めにかけて、(社)日本水産資源保護協会は藻類および魚類の育種に関する研究協議会を開催し、当時における研究の現状と方向性が議論された。特に、昭和41(1966)年に、水産庁委託事業として主催した「魚類の育種に関する研究協議会」では、水産育種に関する研究成果の把握とその問題点整理が行われ、稲葉傳三郎(東京水産大学)を座長に同年3月と11月に研究協議会が開催され、その議事録が冊子として印刷された。これを嚆矢として、昭和50(1975)年には、同種の事業として「水産育種に関する研究協議会」が発足し、同年1月と9月に開催された協議会では、当時進行中の主要な種類の研究成果について議論された。その内容は、須藤俊造(東北大農)、鈴木亮(淡水研)、沼知健一(東京大海洋研)、藤野和男(北里大水産)により取り纏められ、冊子として(社)日本水産資源保護協会により印刷された。
時をほぼ同じくして、水産育種に関する研究の必要性から、昭和50-51(1975-1976)年度文部省科学研究費補助金(総合研究B)の課題として「水産生物の育種に関する研究連絡(代表:須藤俊造)」が採択となり、昭和50年度は第1回(昭和50年11月、於東大海洋研)、第2回(昭和51年1月、於東京水産大学)、昭和51年度は第1回(昭和51年10月、於淡水研上田支所)、第2回(昭和52年1月、於東北大)の研究連絡会が開催された。以上の昭和50年に開催された研究協議会(日本水産資源保護協会・水産庁)と研究連絡会(科学研究費補助金・文部省)の活動を背景に、須藤俊造らを中心に、上記の協議会と連絡会の関係者や賛同する研究者等の尽力で「水産育種研究会」が発足した(昭和50年11月)。水産生物の育種に関する昭和50年度、51年度の研究連絡会の記録は「水産育種研究会記録第1号(昭和51年2月)」、「水産育種研究会記録第2号(昭和52年2月)」として印刷配布され、これらが水産育種研究会会報の母体となった。水産育種研究会記録第2号の会員名簿によると、発足時の会員数(昭和52年3月取り纏め)は113名で、会員の所属は大学、水産研究所、水産試験場、栽培センター、関連業界団体、民間企業等の多岐にわたっている。水産育種研究会の会則、会費、役員、事業計画は昭和52年10月3日開催の総会(於東北大学農学部、仙台市)で認められ、会誌の編集内規とともに、水産育種第3号(昭和53年3月発行)に掲載された。この時、会誌「水産育種(英名:Fish Genetics and Breeding Science)」の名前が決められ、以前に発行された水産育種研究会記録に続き3号とすることも認められた。総会開催にあわせて研究集会も初めて開催され、和田克彦(真珠研)により「米国における水族遺伝・育種研究の近況–二枚貝を中心として」と題した講演が行われ、この年より会誌の発行と研究集会の開催を中心とする本格的な活動が開始された。
発足以来の歴代の代表幹事(会長)と役員体制、および事務局を別表に示す。