2024年9月20日(金) 15時15分開始~18時ごろ終了予定(延長の可能性あり)
一橋大学国立キャンパス(東キャンパス) 第3研究館3階共用会議室
濵本鴻志(一橋大学大学院社会学研究科 総合社会科学専攻 博士課程) https://researchmap.jp/ko_hmmt
葛谷潤(東京大学大学院人文社会系研究科・文学部 助教)https://researchmap.jp/kuzuyajun
ko.hmmt[at]gmail.com ([at]を@に変える)
フレーゲ研究の大家として知られる分析哲学者のダメットは、『形而上学の論理学的基礎』(1991)において、次のような見解を明示的に表明している。彼によれば、言語が機能する仕方の記述である意味理論の成否は、言語実践に関する私たちの観察に照らして評価可能であり、それゆえいかなる形而上学的前提もなしに取り組みうる。それだけではない。ダメットによれば、意味理論の構築を通じて、形而上学的問題を直接的に(かつことごとく)解決する手段が与えられる。ピーコックは『形而上学の優位性』(2019)において、このようなダメットの見解を「意味ファースト(meaning-first view)」と呼んだ。ピーコックによれば、ブランダムもまた意味ファーストにコミットしているという。そして発表者の研究対象であり、現象学の祖として知られるフッサールもまた、意味ファースト(に相当するもの)にコミットしている。
このような意味第一の見解に対して、ピーコックは(ほぼ)逆の見解を擁護している。彼によれば、基本的には、意味理論や志向的内容の理論に先立って、私たちがそれについて考えたり指示したりする存在者が属する領域の形而上学に取り組むことができるし、また取り組むべきである。このようなピーコックの立場は(実際には少し留保が必要だが)「形而上学ファースト」と呼びうるものである。もちろんこの形而上学ファーストは、ピーコック独自のものというわけでは全くなく、むしろ今現在においてはどちらかというと「標準的」と言える見解だろう。実際、とりわけ1970年代以降、主に自然的対象についての思考や語りを、自然的対象やそれに成り立つ自然的(例えば因果的・情報的・法則的等の)性質や関係に訴えて説明する理論は大きな力を持つようになっていった。例えばドレツキやミリカンといった論者の自然主義的意味論は、まさにこのような見解の典型例だと言える。
では、この両者のどちらが正しいのか。ここにおいて、両者の議論は平行線を辿るように見える。例えば、パトナムの双子地球の事例を考えよう。形而上学ファーストの側から見た場合、この事例が示すのは、私たちと対象との間の(因果的であれ情報的であれ)何らかの自然的関係を考慮に入れることで初めて適切に区別できるような、意味における違いの存在である。しかし、意味ファーストの側からはそうは見えない。というのも、問題の違いを私たちが理解可能なのであれば、その違いは、私たちに有意味に理解できる事柄の範囲を決定するような(言語・推論・認識)実践において潜在的にであれ何らか違いをもたらすはずだからだ。そして、もし問題の違いが私たちの実践に潜在的にすら違いをもたらさないのであれば、それはそもそも意味の理論とも関わりがない。このような応答に形而上学ファーストの側は納得しないだろうが、かといっていわゆる「内容外在主義」を擁護するような事例に基づく議論も意味ファーストの側を納得させられるわけでもない。両者の議論は平行線を辿るように見える。というよりそもそも、両者は本当になんらかの意味で対立しているのだろうか、とすら思えてくるかもしれない。
このような状況に対し、本発表はこの両者の見解を意味の理論のモデルとして何を考えるかにおける違いから整理することで、両者の議論が噛み合う場所を見つけることを試みる。とりわけ本発表が注目するのは、ダメットやブランダムがボードゲームとの類比を多用するのに対して、ミリカンやドレツキは比較的単純な道具や生物活動との類比を多用するという点である。より具体的には、本発表は次のように進む予定である。まず、主にダメットの意味ファーストを支える議論を確認しつつ、そこにおいてチェスのようなボードゲームとの類比が本質的に登場することを確認する。次に、形而上学ファーストに与する論者の代表としてミリカンやドレツキの議論を確認しつつ、比較的単純な道具や動物の活動との類比を多用するという点を確認する。その後、このような対比が一見示唆するように見える、「両者は思考や言語行為という多層的で複雑な事柄に異なる側面からアプローチしているという違いしかなく、実際には対立していない」という見解を検討し、却下する。そして最後に、両者の対立は実は(ボード)ゲームの類比をどこまで強く取るべきかという点で整理可能だという仮説を提示する。それによれば、意味ファーストか形而上学ファーストかの対立は、「多様に存在する合理的で意識的な実践の中で、とりわけ(ボード)ゲームこそが最も核心をつく比喩だ」と考えるかどうかの対立である。