history

鳥取大学障害児教育研究会(障研)の歴史について、現時点で分かる範囲で記していきます。欠けていることも多く、また現存している資料も少ないため、ぜひ皆さんが分かる情報があればお寄せください。

創部

障研の創部の年月日は、2023年9月時点で判明していません。2014年頃に作成された障研HPに「1973年」とありますが、これは誤りです。過去に部員によって作成されたHPで、そのように記載されていたことが発端だと思います(元々のHPを作成した本人がそう言うので)。なぜ1973年としたかですが、部室に残されていた障研の規約の制定年から、それを創部の年と理解していましたが、どうやらそれ以前から存在していたようです。

では、いつ頃から存在していたかですが、確認できているところでは1970年には存在していたことが分かっています。

この年、西日本で初の重症心身障害児施設「びわこ学園」(滋賀県)の療育を記録した映画「夜明け前の子どもたち」の上映が、鳥取で行われました(映画は1968年に完成)。びわこ学園は、鳥取市出身で戦後の「障害福祉の父」と讃えられる糸賀一雄さん(1914-1968)が創設した施設です。糸賀さんと言えば、「この子らを世の光に」という言葉が有名です。糸賀さんの故郷・鳥取での映画の上映に関わって編纂された冊子「この子らを世の光に」は、表紙で「鳥取大学障害児教育研究会」とクレジットされています。奥付等からも、当時学生だった方々が編集されたことがうかがえます。

では、障研の歴史を、鳥取大学における養護学校教員養成との関連からも考えてみます。

鳥取大学で養護学校教員、現在でいう特別支援学校教員の養成が「課程」として開始されたのが、1965年のことです。当時は、学芸学部養護学校教員養成課程で、鳥取市立川町がキャンパスでした。翌年、1966年に現在の鳥取市湖山町へ学部は移転し、学部名も教育学部となりました。

おそらく、1969~1970年頃に障研は創部されたのではないかと推測されます。当時の鳥取県内には養護学校は鳥取市立養護学校白兎学園(1960年認可)、米子市立養護学校皆浜学園(1962年開校)、鳥取県立養護学校米子皆生学園(1963年開校)が存在していた程度です(鳥取盲・聾はそれ以前より存在)。現在の鳥取大学附属特別支援学校のルーツである、附属小学校特殊学級の設置は1962年です(1964年附中にも設置)。

戦後の学校教育法制で養護学校が用意されていたにもかかわらず、障害が重いことを理由にした就学猶予・免除により、義務教育を保障されない子どもたちが存在しました。教育を受けたくても受けられない子ども、就学させたくても就学させる義務を果たせない親、そのような思いを全国的に束ねて、行政による養護学校の設置義務を求める運動が、1960年代後半から始まります。結果、1973年に当時の文部省から、1979年度より養護学校の設置義務を行うことが政令として発出され、それに向けて全国各地で養護学校の設置が進んでいきました。

このような障害のある子どもの教育権保障のうねりが高まる中で、障研は創設され、活動を開始していったのではないかと思われます(違っていたらごめんなさい)。

1974年度入学の方々によれば、当時の障研では名称に関する議論もあったそうです。「障害者問題研究会」とするか「障害児教育研究会」とするか。この頃の障研の活動は、子ども対象の活動ではなく、施設訪問・交流など障害のある成人の方々との関わりが中心的だったそうです。その流れで言えば、「障害者問題」でもよいところですが、当時の社会情勢を踏まえると、運動論的要素が会の名称にも反映されてしまうということで、「障害児教育」として現在までその名が引き継がれます。ちなみに、当時の教育学部における養護学校教員養成課程での授業科目は、「障害児」という表現ではなく、「異常児」として表現されていました。

文集「秋ばれ」

養護学校義務制がはじまった1979年11月、障研で発行された文集「秋ばれ」の3号があります。この号は、特集として「障害者に関するアンケート調査」と題されています。鳥取市民・鳥大生を対象としたアンケート調査の考察、市民や障害当事者からの寄稿で構成されています。

障研のメンバーは子ども会や施設訪問等で障害のある人とかかわってきたが、では一般市民や他の学生はどうか。そのようなところから、アンケートは出発しています。自分たちが活動する上でも、一般市民の経験値や感覚を理解しておこうということのようでした。全世界で取り組まれた国連の「国際障害者年」は、1981年のことです。その前夜的な時期に、当事者の声に注目し、そして手記を依頼・掲載している点は評価されるでしょう。

この「秋ばれ」がいつからいつまで発行されていたのか、全く分かりません。バックナンバーというか、世話人の手元にあるものも1冊のみです。

1996年運動会


1977年キャンプ


2012年クリスマス

どんぐり会(子ども会活動)

障研の活動として代表的なものは、子ども会活動です。運動会、キャンプ、オリエンテーリング、クリスマス会など、会員のご家族とともに行事を実施してきました。

子ども会当日は、「ころりん村」という設定で行われ、「村祭り」としてその日の行事が進められていきます。進行役は「村長」という役割で、学生の中から選ばれていました。子どもにはボランティアがマンツーマンでつく形で、部員以外に多くの学生ボランティアに毎回協力していただきました。子どもたちは班ごとに分かれますが、班を担当するリーダーと運営役としての「本部」を、部員が毎回交代して努めます。

子ども会当日、村祭りの始まりは「南の島のハメハメハ大王」の音楽でスタート。みんなが集合したところで、村長の掛け声により「ころりんむらのうた」(「うさぎとかめ」の替え歌)の大合唱。歌詞の中には「すいかのはた」が登場しますが、すいかが描かれたころりん村の村旗が掲げられました。

子ども会の準備は、毎回1~2か月ほどの時間をかけていました。会場の手配、保険の加入といった事務的なこと、企画を検討する部会とレジュメ作成、名札づくりと段ボール集めなど。携帯電話が普及する以前は、会員のご家族へ連絡を入れるために、テレフォンカード片手に大学の公衆電話BOXで電話をかけたりもしていました。

「どんぐり会」は、1980年に規約等の準備、1981年より活動開始ということのようです。しかし、それ以前の段階でも子ども会活動は存在しており、「どんぐり会」という名前を用いたのは、80年代以降となります。その前史となる活動は、1976年より始まったようです。鳥取大学附属小・中学校の特殊学級の子どもたちを中心に、砂丘でのデイキャンプの活動がそのルーツになると考えられます。翌年には、佐治でキャンプを実施していることが分かりました。この前史の段階で、「ころりん村」の設定と「すいかのはた」が登場しています。

キャンプなどの活動を開始したころは、障研の活動比重は施設訪問・交流などが中心で、その合間に子ども対象の行事の企画が開始されました。養護学校義務制前の時期で、鳥取県内に存在した「願う会」(養護学校設置を願う会、1973年~)に集っていた家族の子どもたちや、附属特殊学級の子どもたちが参加していきます。やがて、県下にも養護学校が設置されていく中で、養護学校設置を求める運動自体は解消されていきますが、障研の活動も成人から児童生徒への活動へと、その比重を変化させていく形になったようです。