ウィトゲンシュタインの「規則のパラドックス」を解消するために規則に注目するのではなく、「人々の実践が一致することが規則になるから規則に解釈は関与しない」というような問題を消去する考えは今までになかった発想だったので、今後なじませられるようにこれから使っていこうと感じました。しかし、答えになっていないといわれたら困るので、自分なりの解答も持つことが重要なのかなと感じました。「規則」が人々の「行動の一致」によって決まるのであれば、歴史的に見る革命運動はそれによく似ているのかなと感じました。また、殺人は規則の面で見れば悪いことだが、戦争になれば殺人を行うことが良いことだとされると考えられます。人々の行動の一致は規則に大きな影響を及ぼすのだと考えると理解しやすいのかなと感じました。ペンネームは完全につけ忘れました!(無知の知)
今日の授業はアンチ近代哲学としての現代哲学を学び、ヴィトゲンシュタインの哲学について学んだ。今日の講義で印象に残ったのは、規則のパラドックスについてである。これについて、例えば普通の子供はある事柄をこのように解釈するが、a君は別に解釈した。このとき、a君が特段異なった解釈をしているのではなく、その解釈とはa君にとって極めて普遍的な解釈であり、これがヴィトゲンシュタインの主張の要旨である、ということだった。さらに、よってここから規則という絶対的普遍なるものがはっきりとした理論で成立しているのではなく、規則とは多くの人が同時に行うものであり、規則とは多くの人の実践に起因する、ということを聞き、なるほどな、と考えた。
今回の講義で扱ったヴィトゲンシュタインで、「実践」が「規則」を可能にしているという考えに納得できたが、生徒に今回のような「規則」から外れたようなことを言われたときの対処方法が分からないので、考えていきたいと感じました。(超越論的存在)
今回の講義で、ルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタインの規則のパラドックスについて様々な例から解消の方法を考えた。解釈を否定せず、解消する方法について、規則自体を先に説明し、共通認識を持たせるということが自分の考えであった。規則に従うことは「解釈」ではなく、「実践」だということについて、実施の一致が規則を作っているということに気づくことができた。
今回の授業で扱った「永遠回帰」について感じたことですが、教師という職業は同じことを教える職業だと思われがちですが、学習指導要領などの改訂とともに変化することも多い職業であると考えられます。また、生徒も必ず同じところでつまずくわけでもないし、いじめなどの問題も毎年起こるわけでもありません。そう考えると教育という観点からすれば「意味も目的もなく繰り返す」という「永遠回帰」から遠いものなのかなと感じました。先生はどう思いますか?
また「生きる意味」についても考えた。考えるとわからなくなってきたので、生きる意味なんて考えずに毎日を笑って生きることが生きる意味なんかなと思います。生きる意味の答えを求めるとネガティブになりがちなのかなと感じたので、楽観的な考えを持ちつつ楽しんで生きるといいのかなと思います。子どもに聞かれたときには「自分はそんなこと考えずに笑って楽しい生活を送ることだけ考えているよ」と言ってあげると思います。先生の意見もぜひお聞きしたいです。
――永遠回帰によれば、指導要領の改訂や、生徒がつまづいたりつまづかなかったり、いじめが起きたり起きなかったりすることを込みで回帰するということになります。とはいえ、お尋ねの趣旨はそういうことではなく、もう少し現実世界にひきつけた永遠回帰の意味だと思いますので、それに答えます。このように尋ねられてわかってきたのですが、ちょっと慣れてきてパターン化しはじめると、永遠回帰的なニヒリズム的雰囲気が漂ってくるようです。「また指導要領改訂だってよ、文科省は何年後かにまた改定するんだろうね」とか「まあ例年3割の生徒はここつまづくよね」のように(類比的にゲームに飽きるときもだいたいパターンがわかったときですね)。逆に言えば、パターン化しないで常に新鮮な気持ちで物事に対峙することがニヒリズム克服の一つの方法かもしれません。次の問題は、ではいかにパターン化しないように生きられるか、ということになります。というのもパターンを見つけようとするのは人間の本能とも言えそうなので。このような発想は尋ねられて明確になったので、どうもありがとうございます。
後半部分について、かつてのひねくれた私なら「答えになっていない」と不満に思ったはずですが、今は一つの有効な応答にも見えます。そもそも「生きる意味とは何か?」と問うのは生きていることに何らかの不満や苦痛を感じている人なので(「算数をやる意味なんてあるのか?」と問うのはふつう算数が苦手な人であって、算数が得意で好きな人はそんな問いを発しないのと似ている)、そのような(答えのなさそうな)問いに答えるよりも、生きることは楽しいと感じさせることによってそのような問いを消滅させるということでしょうか。ちょっと違うか。これは問題の「解決」(問題に答える)ではなく「解消」(問題を消去する)を目指すという、けっこう哲学的に高度な応答の一種ともいえる。とはいえ、(かつてのひねくれていた私のような)生徒はどうもごまかされたという印象をもつのも事実。さてそんな生徒にどう対応しようか。
前回ニヒリズムを聞いてなんとなく負の印象を受けたのですが、なんにでも価値や目的といった大義名分を持たずとも十分生きていくことができそうにも思えました。様々な趣味を持っている友達が周りに何人かいるのですが、その人たちが口々に何のためにもならないし、その趣味が上達しようがそんなに価値はないかもしれないけどただ楽しいから夢中になってしている。と言っているのを聞いて意味や価値がないからこそ楽しいということに通じそうだと思いました。ただ、そこでは上達するということが目的にあるのではというニヒリズムに矛盾することも考えられたのですが、明確な目的意識や価値意識も持たずに無我夢中になる、というのも幸せな生き方に思いました。
――おそらくその状態が非常にポジティブで明るいニヒリズムの形態なのではないかと思います。いわゆる「フロー状態」というのがそれに近いのではないかと最近は思っています。
生きる意味を考えるのは、人間だけだから、人間以外の動物が共通して行っているものが生きている意味なのかと感じた。どんな動物にも、食欲、睡眠欲、性欲があると思うので、他の生き物を食べて食物連鎖の繋がりを壊さないこと、そして、自分自身の種を断絶しないよう、子孫を残すことが生きる意味なのかと思った。ただ最終的には、屁理屈な気もするので、やはり生きる意味を考えるのは弱者がすることなんだろうと改めて感じた。(超越論的存在)
――強いて言えば、「生物としての自然な特性に従って生きること」に意味を見出すということか。
すべてのものが意味も目的もなく繰り返している永遠回帰なら、なぜ私たちは生きているのかということについて考えた。私は答えとして、他との関係を考えた場合にいなくなることで他者にマイナスの感情を与えることにならないように生きているというふうに考えた。これは私自身もそう感じる場面が人生においてあるからです。また近代哲学の特徴として、自己意識が中心であることや、理性主義ということも習い、新たに近代哲学を見る視点が出てきた。
――強いて言えば、「他者との関係において意味は成立する」ということか。
今日の授業はニーチェなどの哲学とデカルトなどの近代哲学の違いを比較した。講義によると、デカルト等の哲学は、理性を使って何かしらの真理を探ろうとするという点で、ニーチェなどとは大きく異なる、という事だった。印象に残ったのは、ある物事に意味・目的・価値を求めることとは、弱者の特徴であり、真理とは自分に都合よく物事を解釈したものであるという事である。私も、ゲームをするときに、なんで自分はゲームをしているのだろう?と考えることがよくあるが、講義でも言っていたように、何かを求めている訳ではないからこそ楽しい、というのが、自分にとっての最適解だと思った。(スタープラチナ)
――わたしもけっこうゲームが好きなのでずいぶんとやってきたのですが、年齢を重ねるに従い「なんでゲームやっているんだろう?」と思うのが早くなってきていることに気づく。かつては朝までやったり、何十時間やっても、そんなことを思わなかったが。類比的にリアルな人生においても「なんでこんなことをやっているんだろう?」と思う頻度や速度が高まっているように思える。この事実は何を意味しているのか?
近代哲学者の考え方の特徴で、自己意識中心主義というのがあった。自分の意識内の「観念」が哲学の主題であり、それ以外のものは不確実、不可知であるという極端な考え方である。「外界懐疑論」や「独我論」に陥りやすい。この特徴は、デカルトやヒュームの考えからとてもわかりやすいなと思った。極端な考えの多い近代哲学から現代哲学への移行で、考え方がどのように変化するかが楽しみだ。
――現代哲学は1回くらいしかできないのでちょっと残念。
社会的地位の相互承認として、自分が承認する他者からの承認が合ということは自分自身の経験からも納得できた。ニーチェのニヒリズムの原因について、弱者を勝たせるために価値を転倒させるということは、こちらも普段からの生活でも感じることだったので、とても考えやすかった。
――ヘーゲルもニーチェも実はかなり理解しやすいですよね。逆にいえば、一部の人にとっては「普通のこと言っている?」という印象。
今回の講義では、ニーチェのニヒリズムについてが印象に残った。内容を要約すると、弱者が強者に対抗するための価値体系の捏造が道徳であると個人的には理解しました。この考えは面白いなと感じた。少し意味合いは変わるかもしれないが自分は大学生になっても陸上を続けているが友達に「自主的に走る奴なんて常識的に考えてバカだろ」という人がいる。自分は軽く受け流していたが内心ムカついていた。しかし、ニヒリズムを聞いてその人の常識というのは自分が走るのが遅く私と比べて弱者であるから、その人の中で常識を捏造したのではないか。ただの負け惜しみなのではないかと考えると急に可哀そうに思えてきた。これがニヒリズムとつながるかはわからないが、ニヒリズムを学んだことで得た視点なのでコメントした。やはり私はコペルニクス的転回のような発想が180度転換するのが好きである。だが、哲学を学ぶことでどんどん皮肉的な人間になっているようにも思える。(無知の知)
――ニーチェを学ぶことで相手のなかに「弱者のルサンチマン」を読み込むことができるようになる。しかしながら一方で「可哀そう」に思うことで相手に勝とうとしているともいえるから、自分の方にも「弱者」的な要素がないともいえない。まあ、このようなマウントの取り合いの螺旋階段から降りるために、ヘーゲルの相互承認論を活用するといいかもね。「皮肉的」という性質は、ソクラテスにもさかのぼる哲学者のメンタリティーとして伝統的で正統的なものであり、それを身に着けつつあるということは、哲学にしっかりとなじんてきたということでありうれしく思っている。
最初の時代状況を鑑みるに、人生の意味を提供するキリスト教が衰退したから「ニヒリズム」が生じたのかと思ったが、そうではないと言われたとき不思議に思った。しかし、最終的に力への意思から弱者のルサンチマンと続く過程か納得できた。ニーチェの道徳の考え方には個人的に理解し、肯定できた上に、他の哲学者とは違い疑問に残る点もなかった。
――ニーチェってなんでこう現代日本人に理解されやすいのかね。
ニヒリズムにおいて、すべてが無価値、人生も無価値だと考えると、自分の場合、それではなぜ自分は生きているのか?なぜ努力するのか?と自分自身に問いて、苦しくなりそうだと思った。確かに強いことや反映していることを普通は臨むけれど、それを強要しないこと考え方をまるっきり変えるものが道徳や多様な価値観だと考えることができそうだと思った。何かとてつもなくつらく耐え難い経験をすると、自分のこれまで信じてきたことやよりどころを否定的に捉えがちになるので、そこであえて信じ続ける同じ信念を貫くのでなく、開き直って否定した方が生きやすくなるかもしれないと思った。
――おっしゃることは「ニヒリズムをいかに克服するか」という重要な点にかかわり、次の授業で話します。
まず、私は最初カントの二元論を聞いた時は少し疑問が残った。例えば、警察は泥棒や犯罪者がいるから成立するというが、警察の役割は犯人を逮捕するだけではなく、市民が困ったときに手助けをすることもある。よって悪人が存在するからと言って警察が存在する、という対立構造は少し単純であると思った。逆に一元論は対立しているものは実は一つであるということだったがこれも少し疑問が残った。しかし、二元論に比べ、突き詰めて考えていくと、わかりやすかったとは思う。
――まず、この例は「対立するものは相互依存的に成立しているから実は一つともいえる」という一元論の例として提示したものなので、そこにちょっと混乱があります。で、肝心のおっしゃる内容についてはまさにその通りで、警察には他の役割もあります。この点を「Aが警察ならばAは市民が困ったときに手助けをする」という「推論関係」で表すこともできます。他の役割も考慮すると、「警察」という概念は「犯罪」などの対立関係、「人助け」などへの帰結関係を含み込んだ推論ネットワークによって捉えることができるでしょう。つまり、概念の意味は推論ネットワークによって規定され、ある存在は推論ネットワークによって構成される、ということです。これはヘーゲルから大きな影響を受けている現代の哲学者ブランダムが「推論主義」として構築している立場であります。推論主義へとつながる指摘ありがとうございます。
ヘーゲルは、カントの考えよりも分かりやすく、自分も疑問に思っていたカントの図式に二つのフィルターがあるということも否定していて考えやすかった。<存在>の弁証法で、生物と無生物の対等関係まで考えたが、生物と無生物を合わせたものを固体としたら、対立関係にあるものは液体と気体になる。それらを合わしたものと対立関係にあるものはあるのかと思った。
――概念というかカテゴリーには階層関係があって、例えば、チワワ→犬→哺乳類→脊椎動物→動物→生物などと、下位のものを包含する一般的なものに進んでいきます。それを突き詰めていけば、すべてを包含する概念があるはずであり、それは定義からして対立物をもたない概念ということになります。ではそれはどんな概念か? あたなが言うように、個体と液体と気体を合わせたものは「存在物」とすると、その対立関係にあるのは「非存在物」でしょう。それらを合わせると、、、何なんでしょうか?「実体」?「神」?――すべてのものを包含するところの最上位カテゴリーがあれば、たしかに対立物がない概念が少なくとも一つ存在することになりますが、それはどんな概念であり、そもそもそんなもの存在するのか、ということはかなり大きな問題です。
認識の対立概念は何かを考えようとする時、私たちが認識することなく世界を捉え、見ていくことなどできないという考えに行きつくように思いました。それが認識の弁証法という考えに通じます。では認識の対立概念は何だといえるのでしょうか?
――なかなか大変な問いだ。
存在と認識の弁証法については少し理解できたかなと感じた。授業を理解してくれない生徒がいるから先生という仕事は成り立つのだという視点はこれから教員を目指す人やそのほかの場所でも役に立つ発想の転換。また、コペルニクス的転回の一つでもあるのではないかとも感じた。認識の弁証法からの教訓ではバイアスが必ず含まれるとあったが、自分にもそういったものの見方の偏りがあるかもなと改めて感じられた。(無知の知)
――うん、その発想はとても教員をホッとさせます。
先週に引き続き、超越論的観念論を学びましたが、すごく難しいと感じました。現象界は実体に依存しているとする観念論の考え方を持ちつつ、普段は考えもしない超越した視点で物事を考えるという経験が新鮮でした。
ルールを守らない生徒に、超越論的観点で説得しようとする時、学校が成立するのは、暗黙のルールがあってみんながそれを受け入れ、従っているからだと説明できるのだと分かりました。学校という場にいたいなら、そのルールには従うしかないし、あなたのようにそのルールを守ろうとしない子がいたら学校が成立しないと言えると学びました。
その説得の仕方は、すごく理にかなっているし、筋が通っていると感じました。感情的になったり、ルールを守ることが当たり前だと頭ごなしに説得するのではなく、そのように超越した視点で物事を捉えると納得できることが他にも多く在りそうだと感じました。
嫌なことや、面倒だと感じることが正直たくさんあるけれど、そのようなことをする意味や価値にばかり目を向けると、あまりやる気にはならないと日々感じます。でも、そのようなことを実行することが可能になる条件を考えると、山ほど出てきて、むしろ自分の置かれてる環境や状況を前向きに考えられたり、幸せに考えられたりできそうだと授業を終えて感じました。
――可能になる条件を考えると前向きになる、幸せになる、という点がとても興味深い。
本日の講義では、実践の可能性の条件について、カントの思想を用いて考えた。普段生活している場面や学校現場における可能性の条件について、それを疑ったらこれは成り立たないという当たり前のことを改めて考えることになったが、自分としては難しかったため、内部の中でしか真指揮[認識?]していないのだと自覚することができた。ルールを守らない生徒にどう対応していくかという問いについても、ルールを守らないことで学校の実践を崩壊させてしまうため、学校に来て生活を営みたいなら学校を成り立たせるために従おうということを、理解することはできたが、これを児童生徒が理解することは難しそうだと感じた。
――たしかに(笑)。大学生でもギリギリなのに児童生徒は無理か…。でも何とかして「強制」や「ダメなものはダメ」以外の説得法を考えたいのです。
どのような実践でも可能性の条件というものが存在し、それらがあるから実践が成り立っているということを自分たちで考え、改めて感じた。当たり前だと思っていたことを疑った時に納得するためにはどういう考え方が必要かと考えたときに、そういったものがあってこそ、成り立っているということを理解することの必要性を感じた。教師としてルールを守らない生徒に対して、「ルールだから守らないといけない」という決まり文句だけでは、本質的に生徒に伝えることは難しいということも感じた。
――そう、でも上のコメントに関連するが、じゃあどうやって説得するのがよいのだろうか。
今回の講義では、カントの超越論的な思考になれるためのアクティブラーニングを行いました。しかし、なかなか難しい課題であり、満足のいく回答もできませんでした。ルールを守らない生徒に対してどう対応するかという問いには、ルールを守らないと学校という集団に所属していないのだという理由で生徒に注意するのは面白い視点だと感じました。今後もアクティブラーニングを行うのであれば、満足のいく自分なりの解答が持てるようにしたいです。(無知の知)
――問題レベルについて反省したのですが、一方で、うまく回答できないという経験もたまにはいいかもと思った。テレビゲームは適度にクリアできる難易度でおもしろいのだけど、それって問題設定者の枠の中で遊ばされているだけだということでもあるしねえ。
アクティブラーニングでカントについてより深く学ぶことができた。しかし、カントについてまだ全然わからないため、プロレゴメナ等を読んで、わかるようにしたい。
――すばらしい心がけ。
アクティブラーニングで他人と意見を共有する授業のはずだったが、カントの理論の意味が誰もわからずにあまり深い理解を得られませんでした。もう少しで授業が終わってしまうので、どうにか終わるまでに少しでも理解できるように頑張ります。
――そう、それがアクティブラーニングの問題として指摘される点の一つだ。あと、「哲学の難しさ」については重要なので口頭でコメント。
今日の授業は久しぶりに哲学のアクティブ・ラーニングを行った。今日の授業はカント哲学の「超越論的手法」についてだったが、まず意味を理解するところから難しく、議論をするとだんだん訳が分からなくなることがあった。しかし、サングラスをかけることにより「悟性」と「感性」が働き、今我々が見てものは、現象界と名付けられ、その存在は自分自身(主体)に依存するというカント哲学は確かに理解することは難しいが、哲学しか生み出すことの出来ない面白さがあると思う。
――「議論するとだんだん訳がわからなくなる」という感覚は私も哲学をやっていると日々経験することなので、哲学の学びとして間違ってはない。
今回の講義では、ヒュームの結論を何とかしようとするカントの認識論について学んだ。ヒュームの結論は、因果関係とは人間の心の副産物だというものである。自分は否定したいわけではないので単純な疑問になるが、飛行機というものが現在はあるが昔は空を飛ぶなんて人間の心の中だけであったと思う。しかしその想像力から飛行機が空を飛ぶという因果関係を人間が生み出したのですべてヒュームの結論を否定しなくてもいいのかなと感じた。また、カントの認識論と超越論については難しかったが因果関係の必然性が伴う理由はなんとなくわかった気がした。コペルニクス的転回は個人的に好きな言葉で超越論的に…なども語感がいいので、日常的に使って体で覚えたいです。(無知の知)
――前半面白いですね。実際に想像力で因果関係を作っていることもあり、いやむしろ科学技術とはそういうもんではないか、ということですね。なるほど。
今日はヒュームのまとめ・結論とカントの哲学について学んだ。今日の講義で印象に残ったことは、因果関係とは自然に行われるものではなく、人間自身の思い込みや一種の思い込みのようなものであるということだった。自分自身でも、実際、「このことが起きたら次にはこれが起こる」ということを半ば信じ込んでいるようかもしれない、と考えた。さらに、カントの例では「赤いサングラスを付けたとき、周りが赤く見える」のも赤いもの以外を遮断して見えていると考えてみると、また新しく哲学的に社会全体を見ることが可能になったと思う。
[…]カントがなぜヒュームを超えたかったのかが気になった。
――教科書的な説明では「科学的知識の客観性が失われるから」というものですが、もっと一般的に「なぜ超えたがるのか?」ということならなんででしょう。哲学者(というか研究者一般)は先人を超えたがりますが、それはなぜか?
自分たちが何かを認識しようとしている時、その対象は、私たちの感性と悟性によって可能になる範囲のものに限られているということはとても感慨深かった。また、自分たちが可能な範囲のなかでしか、認識できないからこそ、カテゴリー化して因果関係を生じさせることができているのだという考え方は、物事の捉え方や考え方の多様性のなかにも共通するものがあるのではないかと考えられるなと思った。
恒常的連接から必然的な結合を導こうとする時、自然の斉一性という帰納でしか説明のできないところに行き着くのが面白く感じた。また、恒常的に連接しているものから、必然的結合を導く際に、「理性によっては」正当化できないとあり、何によってであれば正当化することができるのだろう?と感じた。理性という概念の反対に感情があるので、感情的に捉えるのか?とも思ったが、説明のしようがないので断念した。
話がそれると思うのだが、必然的結合というものから、確率的に生まれる事象について興味を持った。自分が抽選に当選したり、赴いた地で自然災害にあったりなど因果関係があるとは言えないことも、世にあふれていると考える。そのうえで、恒常的に連接するものは、前にあるものが後ろに続くものの手段や目的としてあるという前提的な意味合いを含んでいるからこそ必然が成り立つと捉えられるのでないかと考えた。
――「感情的に捉える」という発想を断念しないでがんばってみると…ヒュームになれるかも。
観念論で、確実に知ることができるのは自分の観念のみとし、それ以外の存在が疑わしいという考え方によく納得した。また、ボタンを押すとジュースが出るのも、故障などで出ないこともあるから「必然的な結合」であると必ずしも言えないと思った。
――実際、因果関係の定式化はなかなか難しく様々な試みがなされています。おっしゃるように「故障」があるとジュースは出ません。このような因果関係の阻害要因(他にも「いたずらっ子がボタンの配置を換えた」「誰かが電源コンセントを抜いた」など無数に考えられます)を排除するために「他の条件が同じならば(ceteris paribus)」という文言が使われたりします。「他の条件が同じならば、このボタンを押すならばオレンジジュースが出る」と言われるときには、「ボタンを押す」と「オレンジジュースが出る」という二つの関係のみに注目し、「故障」etc.の可能性は無視するということが意図されています。「他の条件が同じならば」という文言は、何か因果関係を主張するような学問分野ではしばしば使われる文言なので慣れていってください。
ヒュームの因果論について、今回は難しかったが、例もありつつ何とかイメージすることができた。
――やっぱり難しいですよね。
ヒュームという名前は初めて聞きました。しかも、内容がとても難しくて分かりにくかったです。これを踏まえてのカントとなると、前提条件が非常に厳しいものになると思うのでより一層頑張っていきたいです。
――やっぱりそうですよね。難しいのですが重要なので丁寧にやっていきましょう。アクティブラーニングに馴染ませるというのもよいかもしれません。
今回の講義では近代哲学の特徴についての導入部分について学んだ。デカルトの影響を強く受けた、認識論や観念論は個人的にはほとんど理解できませんでした。その後のヒュームの「因果に関する議論」では、因果関係にはどういう特徴があるのか、「必然的な結合」とはなにか、「恒常的連接」から「必然的な結合」を導き出すのは正しいのかなど様々な用語や問いが出てきたが、今の段階では全く見当がつかないので今後の講義でどれだけ理解し、哲学的な思考に近づけるのか楽しみです。(無知の知)
――近代の観念論的世界観というか思考方法って慣れないと理解が難しいですよね。理解というか身体的に納得するのが。
今回の講義で、原因と結果の因果関係に関して様々なことを習った。因果関係の中で、当たり前だと思っていたことを再度ちゃんと考えさせられた。どのようなことであっても、原因と結果が存在しており、その二つの「恒常的連接」を観察により、見つけ、必然的結合を読み取るということについても初めて知った。其れが、個々のデータを一般化する帰納ということの重要性についても知れてよかった。
今日の授業は先週のデカルトに続いてヒュームについて学んだ。特に印象に残ったのは、「因果に関する議論」だった。自分自身がイメージしていた哲学のイメージは先週のデカルトの話だったが、今回は因果関係にはどういった特徴がある?という問いのもと自分にとって新しい哲学的な考えであったと思う。例えば、今日の講義で例示された「ボタンを押すとジュースが出る」という日常に潜む何気ない事柄も哲学的に考えられるのだと認識した。
(前回のコメント)グループでの意見の交換は、眠くもならないし色んな人の考え方を共有することが出来るので定期的に取り入れて欲しいです。
今日の授業は哲学のアクティブラーニングを行いました。今日の授業を通して、哲学的に考えて出た意見を他人と交換することを初めて経験した。哲学のことについて議論をすると話がだんだん難しくなると思った。慣れない授業体制であったが、楽しい授業であったので、まだやってみたいと思いました。
――たしかに楽しそうな雰囲気があった。楽しくない人もいるはずだということも忘れてはならないが。
今回の講義では、全面的懐疑論にどう応答するかというテーマでアクティブ・ラーニングを行った。いろいろな意見を出した後に、それって結局すべて夢なのでは?と言われると何も反論できなくなったのには少し腹が立ちました。しかし、全面的懐疑論自体が無意味であるという点に関しては納得しました。言語には必ず対立する概念が存在するというのは対立しないものを見つけられませんでしたし、対立するものがあるからこそそれ自体は存在できているという考え方に共感できました。答えのある問いではないからすっきりはしませんでしたが、こういった話し合いで自分たちの考えを共有するのがアクティブ・ラーニングの醍醐味だと感じているので、自分の知識としての学びは薄いかもしれませんが、哲学的な思考を体験できる有意義な時間であったと感じました。(無知の知)
――哲学者や懐疑論者ってちゃぶ台返しを得意とするので人をいらだたせますよね(こればかりはしょうがないので慣れていってください)。この人もアクティブラーニングに肯定的だな。
今回は全面的懐疑論について考えることができた。どのようにすれば、夢ではないか答えるか難しかったが、話し合いは楽しかった。結局、無理という答えに流石哲学だと感じた。
――最後笑える。
今回の授業では、全面的懐疑論「すべて夢(幻覚や誤り)なのでは?」にどう対処するのがよい?ということについて議論し合った。他の人の考えを聞いていく中でこういう考えもできるのかという新鮮さを感じた。また授業中に内向型と外向型の話があったが、自分は内向型の人間のなので、外向型になりたいです。
――いやここは無理に外向型になる必要はなく、内向型でうまくこなす術を身につけるのもいいんじゃないか。特に外向型の先生ばかりだと内向型の生徒はつらいはずなので、あなたの存在は貴重だ。私も内向型なので一緒に頑張っていかまいか。
「すべて夢なのでは?」という問いに対して考えた。初めにこの問いに 違和感を覚えた。しかし、話し合いを進め、夢かどうか疑う時点で夢と現実を知っており、区別がついているからではないか、同じ時間を他と共有している時点で夢ではなく現実であるのではないかなど、様々な話合いを行う上で、夢というものについて改めて考えることができた。さらに、先生が最後におっしゃっていた、対立する概念がないと、それは無意味な概念になるということはとても納得した。
――傍から聞いていて「良い論点をだすなー」と感心していた。
全て夢なのでは?という全面的懐疑論における問いについて、皆で話し合ってみて楽しかったです。夢と現実を区別することを試みるのに、現実の証拠や存在が根拠になりうるのかということが確かに疑問に上がると感じました。そっから、言葉という概念に考えが深まるのは、とても驚きだったけど確かに腑に落ちると思いました。言葉は反対となる概念が存在しているから成立しているということから、最初にできた言葉とは何を意味するものだったのだろうかと感じました。また、夢について、その人だけの記憶である夢が多くの人と共有され、現実とは異なる概念の「夢」がいつどのようにできあがったのかと不思議に思い、言葉の起源について謎に思いました。
――「最初にできた言葉とは何を意味するものだったのだろうか」とはいつもながら良い問いを発しますね。対立する二つの言葉が同時に誕生するということになるのではないか。つまり言葉は一人では生まれることができないということ。こうした話題は哲学的に考えるだけでなく、言語学などで調査しても楽しいかも。
デカルトの全面的懐疑論について考え始めていろいろ思いました。
全てを疑う=信じるものは自分自身だけとなると、生きづらいのではないか?すべてが疑いの対象となると、生きていく上での心のよりどころがなくなり、常に疑心暗鬼になり自身を苦しめるのではないか?
自分は今教室にいる→本当にそうか?→教室にいないのではないか?→教室という場は存在するのか?→存在しないとしたら自分は今どこにいるのか?→今という空間は本当にあるのか?
今自分が教室にいることを疑い始めた時、無限に疑問が生じてくるのではないか?結局として何一つ真理に届かないのではないか?何か信じることがなければ、すべてにおいて証明することはできないのではないか?
あらゆるものを疑問の対象として再考するという行為自体が疑うことの対象となるとすればどうなるのか?
全面的懐疑論にどう応答できるか?
夢だとすればいつかそれが現実ではなく、夢だと気づくときが来るはずだ。→現実と夢の区別はどのようにつけられるのか?→その判別は自分にしか感じ取れない。しかし、これは夢と現実の両方を自分が知っているからできる。あらゆるものを疑うという行為ができるのは、そこに疑う対象が存在しているからである。
あくまでも疑う主体である自分が疑っているのは、そこに存在しているもののみである。そこに自分が存在しているから疑うことができる。(=夢ではなく、真にそれが存在している)
――懐疑論は「苦しい」という観点がいいね。全体の思考の流れもいいと思います。
時間は疑うことができないと思う。
個人的には時間という概念や、地球の公転や自転などは疑いようがないものだと考えました。しかし確信があるわけではないので、ほかの人の意見や先生の意見をきいて、学びを深めたいと思います。(無知の知)
――「時間」は人気だな。なぜそう思うのかを聞きたいところだ。
もし自分が見ているものが、全て夢や幻覚ならば、その夢を見せている人も夢を見せられているかもしれないし、その人もみせられているかもしれないと無限に続くためあり得ないのではないかと思う。
――「無限にためにあり得ない」という理由は興味深いので、さらに追求したいところ。
今回の講義では、アリストテレスについて学んだ。「万学の祖」であり、様々な学問を生み出していることが知れた。幸福の究極目的が哲学を学ぶことであるという点で、哲学は幸福になるための出発地であると同時に目的地でもあるのだと感じました。徳(アレテ―)を充実させるには、教育と習慣化が大切であるが、もし授業で道徳をあつかうのであれば、私なら生徒のグループワークの際に、クラスの人のいいところを見つけ出し、それを真似してみるという授業を行います。迷ったときには真ん中を選ぶような人生で、徳を充実させていきたいです。(無知の知)
――「哲学は幸福になるための出発地であると同時に目的地でもある」とは良いこと言うねー。子どもがどのような性質を「いいところ」として挙げるのかは気になりますね。年齢によって違うのか。時代や文化や地域によって異なるのか等。
徳倫理について調べてみて、人の徳についてどう図るか何を基準にするか具体的に明示することは容易でないと感じた。自分自身「徳」とは、人としての「善」とは何かと聞かれたら、自分を犠牲にして、人のために行動することだと思っていた。ただ、人のための精神は利己的な動機によって生まれるものであれば、決して善とは言えない。そのため、自分自身の信念として相手を尊重し敬うという気持ちを持っているということがポイントでないかと考えた。
また、幸福について究極的な幸福は知的活動であるという考えに行き着くことで、自分の学びの意味や学びの楽しさを改めて再認識することができると感じた。確かに、安直な快楽も一見幸せに感じることに間違いはないと感じた。生きる意味は幸福を追い求めているためだという結論に多くの場合なるように感じるが、その幸せの究極は知的活動だという認識を持つと、それだから人間が発展してこれたのかもしれないと感じた。
今回の授業で、学んだアリストテレスという人物は、現実主義でありながら、様々な分野で活躍したということを知った。その中でも、「幸福」についてである。今していることをなぜなぜという風にどんどんさかのぼっていくと、幸せに行き着くということについて、私も現在行っている行為について考えてみた。私の行動もほとんど幸福につながっており、意識せずとも幸福になりたいと考えている人間の本質について考えさせられた。
今日の授業ではアリストテレスについて学んだ。アリストテレスは、様々な学問の基礎を築いた人物であり、万学の祖と呼ばれている。今日の授業で印象に残ったことは、アリストテレスによる幸福の定義だった。もともと自分は、幸福とは、お金をたくさん持っていることや、他人からチヤホヤされたり、他人に比べて何かしらの能力が優れているということだった。しかしながら、アリストテレスの定義によれば、上記の幸福の基準とは、不完全なものであり、ある学問をただ学び、一種の知的興奮を得ることこそ、幸福の真なる基準であるという。自分は今日の授業を通して、幸福についての新たな考え方が確立できたと思う。
ニコマコス倫理学では、幸福について、「なぜAをしている?」―「Bするため」「なぜBをする?」―「Cするため」…「なぜYをする?」―「Zをするため」とそれ以上さかのぼれないところまでいくことで究極目的である幸福にたどり着く考えがあることを知った。「なぜ教師になるのか」も突き詰めて考えていくと、やはり最終地点は幸せになることであり、その幸福もトミヤ快楽のためではなく、知的活動こそが真の幸福であるという考えは納得することができた。
アリストテレスは名前はとてもよく知っていましたが、色んな学問の祖であるということは初めて知りました。理想主義のプラトンと対照的にアリストテレスは現実主義だということも初耳でした。また、哲学と聞いたら「なぜA?」にBだから」「なぜB?「Cだから」ということが永遠に問われ続けるイメージでしたが、それもアリストテレスが始めたものだということに驚きました。今まで漠然と「すごい人」というイメージがあったアリストテレスですが、今回の授業でよりアリストテレスに関する知識を得ることが出来てよかったです。
今回の講義では、プラトンという人物について学習して「イデア」と「魂の不死性」について知りました。まず、「イデア」という単語は初めて聞きましたが、何となく理解できたかなと感じています。自分がいつ学んだかもわからないがいつのまにか猫や三角といったものを識別できるのは不思議に感じました。「魂の不死性」では4つの証明がされていましたが、どれもあまり納得のいく証明ではなく、強引だなと感じました。個人的には、魂は不死ではあるが、生まれ変わるとは思いません。例えば、自分が見守りたいと感じた人を第三者視点から見ることができるようなものなのかなと想像しています。納得のいく説明はできませんが、そういった照明がほかにも示されているのであれば知りたいなと思いました。(無知の知)
「人は死んだらどうなるか?」私はこの問いに対して、魂だけが生き続けると答えた。これがプラトンの「魂の不死性」とつながっているように感じた。また、死とは魂が肉体から離れることでそれが哲学とつながっているということを初めて耳にした。また、魂の不死性の証明では、「想起説」による証明が一番腑に落ちた。完全な三角形を見たことがない私たちがなぜ完全かそうでないかを見分けることができるのかということを考えた時に過去に魂として、イデア界で完全な三角形を見ているからである。このことから、私たちは生まれる前から、魂として存在していたという考えにつながるということを聞き、とても納得した。このようにどこかで完全な物を見ていないとそれらを完全かどうか判断することは困難であると感じた。ほかの証明は、あまり腑に落ちなかったが、この想起説だけで私は「魂の不死性」について肯定的な考えが深まった。
イデアという考え自体がとてもsfチックに感じた。死んだ後のことは、死んだ人にしか分からないのに、現世で生きてる人が考えることはある意味夢が広がることだと感じた。完全なものを知っているということから、イデアについて話があがったのだとなんとなく理解したが、生死の境も私たちで決めた境界だとかんがえれば、そもそも死ぬという概念ってなんだろうと何となく感じた。
プラトンの哲学について、イデアの概念について知ることができた。イデアはふわっとしたものでしかなかったが、白川先生の分かりやすい例えでイメージしやすかった。また、魂の不死性に関する4つの証明についても、生成の循環構造による証明における、一般に物事は〈反対のもの〉から生じることから、「生きているもの」は「死んでいるもの」から生じたこと、想起説における完全な三角形は現実世界では出会えないことから、我々がかつて魂であったときにイデア界で完全な三角形(三角のイデア)を見ていて、今はそれを思い出していることについて、深い見方だと感じた。
今日は、プラトンのイデア論というものを学んだ。イデア論というものは、ものそのものを指し、人々の頭の中に存在する概念、といったものである。イデア論については、言葉自体は初めて聞いたけれども、似たようなことを高校の現代文の授業で習ったことがある。それは、丸山圭三郎の「言語と記号」と呼ばれる作品の中で、モノやヒトの名前が先に存在するのか、それそのものが先に存在するのか、という主題だった。今日の授業を通して、日常に存在する事柄を哲学的にみることが少しだけ可能になった、と思う。
――近世以降はイデア(idea)という言葉が「観念(idea)」と変化し、「意識の中、頭の中にある内容」になったことを考えると、プラトンのイデアが「人々の頭の中に存在する概念」というのは微妙かも。プラトンにとってのイデアは「頭の外」にあってそれを魂が捉えるということかな。
ソクラテスの問答法によって、「無知」を自覚することになったことが、その当人にとって真理の探究につながるかはイコール関係でなく、ソクラテス自身のみにとってだけではないかと感じた。ただ、ソクラテスの批判の矛先は、無知であるその相手にではなく、メタ的態度で捉えた自分自身そのものであると捉えると、それもソクラテスの哲学を考える方法と納得することができると思った。アイロニーの精神から考え出される、メタ的態度=哲学には、アイロニカルな雰囲気が漂うということについては、肯定したいという気持ちや好意的に思うことに対し、一方で素直になれない否定的感情も持ち合わせていることも自分にあると感じた。
――たしかに言われてみると「無知の自覚」から「真理の探究」へのムーブって普通じゃないですよね。一般人は「無知の自覚」から「自分は無知ではない」という自己正当化の方向性に進みそうです。その点やはりソクラテスは普通ではありません。自己否定を好むというか。
今回の講義で学んだソクラテスという人間について、知らなかったことがこんなにも多いと思わなかった。高校の倫理でも、長い時間をかけて「無知の知」を説明されたという記憶しかなかった。今回でソクラテスのイメージが180度変わった。無知を屁理屈でまとめこんでいるイメージががあったのですが、真理を探究していて、決して論破や説得ではないということに一番驚いた。今回のことで、ソクラテスを全部知ることができたというわけではないので、もう少し深く知りたいと感じた。
――ソクラテスを対象とした無知の知を実践しておりますね。
今日の授業では、ソクラテスの問答法やアイロニーの精神について学んだ。私はソクラテスについてあまり知らず、上記二つのことも初めて聞いた。問答法は、ある一種のコミュニケーション能力のようにも感じられ、アイロニーの精神はブリティッシュ=ジョークのようなものも感じられた。古代の偉人の考えに触れることによって、日常の様々な事象を、哲学的に考えられる、ということが再認識できたと思う。
――ソクラテス、イギリス、京都にはなぜ皮肉的な雰囲気が漂うのだろうか? 哲学とは関係ないが興味が出てきた。
ソクラテスと言う人は名前しか聞いたことがなかったけれども、今回の講義で概要はしれたのかなと感じました。特に、問答法はひろゆきさんの例を出していて、分かりやすかったです。真理の探究のためとはいえ、話を聞く限りでは僕もめんどくさい人だなと感じました。アイロニーの精神に関しては何となくしか理解できなかったので哲学を学ぶことを通してまた理解していくことが出来ればなと思いました。(ペンネーム:無知の知)
――度直球のペンネーム!
ソクラテスについて何も知ら無かったので、得る知識の量が多くてとてもためになりました。ソクラテスの弁明の議論を聴いてて、理にはかなっていると思いましたが一方で屁理屈にも聴こえました。ソクラテスの弁明は聴いてて面白かったです。問答法というものは使い勝手がよさそうで、相手を論破したい時には最適だと思います。僕もどちらかというと熱血ではないので「アイロニーの精神」的なものがあるかもしれません。先週は、哲学は難しいものという印象が強かったですが、今回の講義で少し楽しめたのでよかったです。
――問答法は「相手を論破したいとき」に使ってはいけないのだ!
ソクラテスの無知の知こそ、自分が分かっていないことを知ることこそが、客観的に自分を外側から見ているメタ的態度の代表例だと感じた。
――その通りである。
高校の時、世界史でソクラテスの名前と無知の知についてだけ知識的に習いましたが、今回の授業で無知の知とはなにか理解できました。しかし、問答法などは理解できない点もあったため、これからもう少し哲学について理解できるようにしたいです。
――その調子だ。
「メタ」という言葉は初めて聞いたが、勉強中や何かの作業中に何でこんなことをしているのだろうと考えたことは何度かあったので共感できました。幸福をなぜ求めるのかについても僕は解答が浮かびませんでした。教員とはクラス内での「権力者」であり、「独裁」になってしまうことがあるということに共感するとともに、そうならないためにも哲学を通じて、メタ的態度で教育を見つめていこうと思います。
――授業ではいきなり本質的な質問をして困らせてしまった気もしますが、おそらく「幸福」とは「なぜ求めるか?」という問いを拒絶するものですよね。
哲学というと、抽象的な概念で難しいイメージの学問だと思っていたが、この哲学について、教育学部の視点から見る哲学の意義について考えることは、自分たちが教師になって、児童や生徒たちに指導していくうえで、教師の言うことは時に絶対的なものとして子どもたちの中に植え付けられていくと思うため、独裁的であったり強制的であったりしないためにも、メタ的態度について考えることは大切だと感じた。
――その通りなのです。
今回の授業で初めて哲学のことを専門的に学びました。哲学と聞いてもピンと来なかったけど、今回の授業で「メタ的態度」という言葉を学んだので、少しは哲学に触れることが出来たと思います。人名についてもソクラテスみたいな有名人しか知らないので、今度の授業からもっと色んな人を知っていきたいです。
今日は初めての授業で、哲学とはどのようなもので、教職とどのような関わりがあるかを話してくださった。この講義で哲学について学んでいきたいと感じた。
――はい、頑張っていきましょう。
僕は今まで、どうして勉強するのか?、どうして生きるのか?という疑問は暇があるときには考えることがあったので、哲学の授業でこれらの疑問について考えていけるのは、とても楽しみです。哲学の勉強を頑張っていきたいと思います。
――「暇があるときには」というのがポイントですね。哲学は基本的に暇がないとできないものですから、何時間も哲学にかまけることができる大学生(と教員)は本当にぜいたくな時間の使い方をしているといえます。税金様々というか。
私は、哲学は身近にはなく難しい学問だと勝手に思い込んでいました。しかし、今回の授業を聞いて、「なぜ勉強するのか?」や「なぜ生きるのか?」などの問いを追求する学問と知り、答えを見つけるのは難しそうでも、考える点では興味深く感じました。それでも、わかったようで分かってないので、これから話を聞きより深く理解したいです。そして教師になったら、「なぜ子供に教えているのか?」など考えられるようになりたいです。
――「なぜ子供に教えているのか?」と問う教師って良いですね。
先生が10年間考えてきたという、言葉が、それが指し示すモノの意味をあらわすということは確かに考えてみればそうだと感じ、興味がわいた。
メタ的態度という言葉自体初めて聞き、物事について俯瞰して考えていくことが、なんとなく面白そうだと感じた。また、先生の話がとても面白く、時間がとても早く過ぎたように感じたので、今後の授業も楽しみだと思った。
今後自分も、先生のホームページに載っていた学生のように、授業を受け、自分で考えを深めていけるようにしようと思った。
――前の授業ではコメントを通して同じクラスの学生同士が刺激を与え合っていたのですが、このように他大学の学生とも刺激を与え合えるなんて感激ですわ。