今回の講義はプラグマティズムに客観性を確保する方法についての議論が面白かったです。「未来の他者」を組み込むことで客観性の肝である批判可能性と「正しさ」の両立を図るという考え方はパースの真理観に少し似ていると思いました。パースの言う真理は信念と疑念を反復する探究が無限に続いた先にあるもの、未来の共同体において一致する意見でした。疑念・批判可能性を確保しつつ未来の何者かに頼って定義づけることで懐疑論を回避するところが似ているように思います。自分も課題を考えていた時に、かつて正しいと信じられていたものが現在では否定されて他の考えが取って代わっているのは、当時の正しさを客観的に評価しているという事のような感じはしていたので、未来の他者を使って現在の考えを客観視しようとする発想が浮かばなかったのが少し悔しいです。
また、春学期の講義で度々登場したメタの考え方からしても未来からの視線を使おうとするのはある意味自然なのではないかとも思いました。何かを超越して外側からそれを捉えるということは、一旦内側に入った状態になっていて、その後に外に出るという事だと思います。メタの大事なところは外に出た「後」の観点にあるはずです。自分をメタ的に見ようとしても、完全に同時に今現在の自分を捉えられず、必ずほんの少しは以前の自分しかとらえられません。このように、メタ的な視点とはそもそも時間的に捉える対象の「後」(=未来)からでしか生じえないので、メタの考え方と未来を使った考え方は相性がよさそうに見えるのではないかと思います。
ーー全体的に的確だなー。パースとの異同はまさに今考えているところです。「メタ」と「未来」をつなげる発想は参考になる。
客観性とは、ある主体が正しいとみなしていることで、実際に正しいことではないということ、正しさとは相互承認であることがいかにもプラグマティズムぽく感じました。正しさは現在の相互承認で確立できるが、客観性は未来の他者が承認してくれるだろうという緊張感によって確保されるのが、「未来」と「他者」という2つの不確定要素で、承認してくれるだろうという期待がしにくくなっている=客観性を持たせることに緊張感を持てるのでいいと思いました。ただ、これだとずっと主張が不確定なのが落ち着かない気がします。こういう常に確定しないところが学問であり、プラグマティズムなのかなとも思いました。(もなー)
ーー「不確定要素」「期待しにくくなっている」「緊張感」という言葉でとらえるのがいい理解だと思います。
今回の講義では、未来の他者を想定したものを面白いと感じました。最初は「それはアリか?」と疑問だったのですが、説明を聞くにつれて整合的であると考えるようになりました。
私は、初めの内は未来を、自分の死後のような何年も後のことと捉えていました。しかし、未来とは現在より後ということで、厳密には1秒後も未来に含まれます。つまり、論文の発表のように自身がアウトプットした直後から批判可能性に晒されるということで、これを受け入れるのなら、確かに客観性は確保されていると思いました。(コミットメントの引き受けにも通じているかもしれない。)
また、地動説が否定された歴史などと照らしてもなるほど、と感じさせられました。過去、地動説が信じられていた時代では、宗教上、地動説に異を唱えると異端者として排斥されました。これは、地動説という自身の持つ(少なくとも自分の中では正しい)概念を他者に強要し、批判可能性を摘み取る行いであり、言ってしまえば稚拙で、かつ客観性のないものと言えます。
現代は白い目で見られたりすることもあれど、自然科学が批判可能性を認めているので、過去に比べると社会とそこにある人々は客観性を得つつあるとのだろうと思います。この流れで未来においても客観性の獲得を目指し続けることで新しい客観性の視野を得られるでしょう。
加えて、この未来の他者を想定した考え方を聞き、パラダイムシフト、大阪の「知らんけど」に秘められた精神を想起しました。
パラダイムの転換によってまったく新しい思想に触れることで、大衆が一歩引いた客観的なものの見方ができるようになりますし、「知らんけど」は、「自身はこう考えてますが、違うかもしれないです。お気をつけください。」という意味が込められているらしく、これはまさしく批判可能性を受け入れていることになるのではと感じました。
(これらはふと頭に浮かんでしまったものを書き散らしただけなので余談程度のものです。文章が稚拙で申し訳ありません。)(ハッシュ=ド=ビーフ2世)
「未来の他者に訴える」というブランダム(先生ブレンド)の客観性の確保の仕方が、デューイの真理論で出てきた「現時点の共同体で検証・保証されているが将来覆る可能性がある」という話に通ずるものがあるような気がして、何か繋がりはあるのだろうかと疑問に思いました。(P.N 田中)
ーー可謬主義を基本とするプラグマティズムは似たような話になるのではないかと思います。
私は多くの他者から承認されることが客観的正しさになると考えていたので、逆に批判可能性があることが客観性の確保において重要だということにはそんな考え方もあるのかと感心しましたし、説明を聞いていくうちにとても納得しました。そしてその客観性や正しさの保持を未来の他者に託すというのはロマンティックというかエモいというか…私たちが哲学を学ぶある種の意義や必然性のように感じてとても興味深かったです。
今回の講義内容について簡単に触れますと、未来の世代への「信頼」が客観性を担保するというプランダム、あるいは白川先生の論旨は、中二病心をくすぐるといった内容で、最後まで楽しませて頂きました。
ーーロマン、エモさ、厨二病からは逃れられないかも。
正しさの確立と客観性の確立を「未来の他者」に訴えるという発想はなかったので面白かったです。「未来の他者」への信頼は結局主観的だと批判されないのかな〜と少し思いました。でも、私は「信頼すること」が健康に生きる秘訣だと考えているので、自分にとっては凄くピッタリな理論だなあと思いました。ブランダムさんをあまりちゃんと勉強したことがないので、先生の本を買って勉強しようと思います!
ーーさすが。まさにそのような反論は後で多くの人がします。
今日の講義を聞いて批判と承認が大切だと学んだ。間を目指しても主観的に間だと決めつけてる可能性もあるので、絶えず批判と承認を繰り返すのが必要だと感じた。
「正しさ」と「客観性」を両立するために、未来の他者を持ち出してきて、未来の他者を信頼し、批判される可能性を認めるという態度は、歴史(学)に顕著ではないかと思った。例えば、「1600年に関ヶ原の戦いがあって、石田三成率いる西軍が敗れた」という歴史的出来事は客観的に正しいと言えるかと問われればつい頭をかしげていた。そこで、研究が進み未来の他者に覆されるかもしれないことを想定すれば、客観性が担保されるのではないかと自分の中で理解した。
「未来の他者への信頼が客観性を確保するカギ」私はその哲学からあるものが思い浮かんだ。それはスティーブジョブズさんが開発したiPhoneをはじめとするAppleの製品である。もちろん、その他にも過去の時代から現代(過去の時代でいう未来)に通して信頼を得ているものがあると思うが、私はこの製品を例に挙げて議論する。開発当時は誰からも信頼を得ることができなかった製品が未来で必ず役に立つということを信じて形になるまで研究した結果、現代世界ではなくてはならないものかのように、また、依存する人が多発してしまうくらい親しまれている製品となったわけであるが、初めは全く信憑性がなく客観性を得ることができなかった。しかし徐々に他者から信頼を得られるようになり、開発に成功したわけであるため、ここでの他者は未来の期待にかけた信頼であったはずである。だから私は、Appleの製品と今回の授業で出た結論が結び付くと考えた。もちろん、先生の哲学がこのようなことを表しているわけでもなければ、スティーブジョブズさんがこのような哲学の上で製品を開発したわけでもないと思う。しかし事実との一致を訴えることなしに客観性を確保するためにはこういう考え方もできそうだと考えた。(私の考え方が間違っていたら申し訳ございません)
客観性を持たせる方法として未来の他者の存在が示されました。若干ニュアンスが違ってくるのですが、この未来に託すという考え方は創作活動に通ずると感じました。誰かが何かいいアイデアを思い付いたとき自分の中ではいいと思っているし、他者から理解されることで同人グループが形成されます。しかし、いくらその仲間内が良くても大衆に「面白い」や「良い」と言ってもらうためには未来の第三者に託すということが必要です。漫画家とかなら編集者に、芸術家ならギャラリーにといった感じで。
プラグマティズムが抱える問題について、客観性を未来の他者に訴えるということは、真か偽かを判断するにはやっぱり結果が大事なのではないかと思いました。例として、菅総理が総理大臣にふさわしいかどうかは、任期中は判断できないが、後の世代が真偽を議論するとき、その判断材料は結果からもたらされるものであり、未来に託す=結果になってしまうと思いました。
今回、最近のプラグマティズムの課題の「客観性の確保」についてやりました。「客観性の確保」をするためには『未来の「他者」に訴える』という話を聞いて、ふと「シュレーディンガーの猫」を思い出しました。1時間後に50%の確率で猫が命を落とすかもしれない装置の中に猫がいるとき、1時間後にその装置の中の猫は生きているし、同時に命を落としている状態になる、というものです。これに当て嵌めて考えると、未来の「他者」に訴えるという行為が猫を入れる装置で、その中にいる猫が「客観性」だと考えると、その装置にいる限り猫(=客観性)は命を落としていると同時に生きている(=確保されているし確保されていない)ということかな、と思いました。ですが、これだと同時に不確実性も出てきてしまうので、ちょっと違うような気がしますが……。
ちょっと読みづらいので()内だけの文章も置いておきます。
未来の「他者」に訴える事で、客観性は確保されているし同時に確保されていないということかな、と思いました。(きりん)
ーーかなりいいところを突いていると思われる。さすが。
プラグマティズムに客観性を確保するブランダムの方法について、未来の他者を想定し批判可能性による客観性の確保と承認の信頼によって為せるという部分で、承認されるだろうと信頼するという部分が引っかかりました。いくら未来の他者を想定しているとはいえ、承認してくれるだろうという信頼は盲信のように思えたのです。信頼するという言葉の放つ圧倒的な主観性も不可解に思えます。その信頼は客観的に正しいのでしょうか。このこともまた未来の他者を想定し、信頼することで正しいと主張するのでしょうか。これでは無限に問が生じてしまい、パラドックス的な問題が発生しているように思えます。私の中でうまくいかない理由は正しさの根拠を未来の他者への信頼に対する客観性であります。これが客観的に想定された未来の他者となり、その承認が客観的となるならばしっくりくるのですが、そんな未来の他者が客観的であることを成立させる方法があるならばそもそも未来の他者に正しさの客観性を頼ることはできないように思えます。結局、未来の他者という存在に頼ることは解決になっていないのではないか、というのがブランダムの論に対する私の率直な感想でありました。
ーー本当に的確なんですが、そのような「信頼の客観的正しさ」を云々し始めると、おっしゃるように無限後退がはじまるので、客観的正しさを求める作業をどこかで止める必要があるのです。しかし、早めに止めすぎると主観主義的になりすぎるので、バランスが重要なのです。そこで「信頼」あたりが落とし所だろうというわけです。ですので、信頼についての客観的正しさを求めてはいけないということになります。ただ信頼する。それだけ。この信頼の正しさを問いたくなるが、問わない。このように考えざるをえないのではないか、と考えております。もちろん、このように言えば、「結局主観から逃れられていないよ」と批判されるでしょう(以下の多数のコメントのように)。この批判にいかにして応えるかが今後の課題。
少なからず未来の他人は自分が所属していたグループの影響(教育や思想、価値観への影響)は受けている可能性があることも考慮して考えると、どうも未来の他人との命題の一致というのはどうなのかなーと思ってしまって(同じグループを抜け出せていないのじゃないかと思ってしまって)あまり納得はできませんでしたが、自分の中に他に何か良い方法があるわけでもないので妥協案的に理解はできました。(ダノター城好き)
最後(第15回)の客観性の確保について、方法の1つとして「未来の他者」に訴えるというものがあり、承認してくれるだろうと「信頼」するとなっていましたが、個人的にはその信頼も現在の人たちからの一方的な押し付けのようにも見えてあまり客観的なもののように思えませんでした。未来の他者が批判しようと思っても、その未来の段階ではその物事が既に手遅れになっていたり、批判は有効ではなくなっていたりすることもあると思うので、やはり現在の人に都合よい考え方なのではないかと感じました。
前回の課題について、客観性を得るために他人の承認を重ねることは最初考えていたのですが、さらに難しく考えすぎてしまっていました。今回の授業でその答えを教えていただきましたが、未来の他者という可能性を無限大に秘めた神ではない存在を考えることで客観性を確保すると知って、そのような考えは全くなかったと感服致しました。ただ、一つだけ疑問に感じたことがあります。それは、未来の他者により客観性を得ることができる仕組みは理解出来たのですが、結局、未来の他者に承認されないと考えることも、承認されることを信頼することも、その人自身の主観的な感情なのではないのでしょうか?元も子も無い疑問で申し訳ありません。
今回の講義から、客観性が無くなるというプラグマティズムの悪い点が一応解決という説明がありましたが、未来の他者の承認に委ねるのは、難しいのではないかと思いました。確かに、相互承認では主体的になってしまい、客観性はなくなります。しかし、未来の世界は予測することが難しく、どれくらい未来なのかなどの範囲も限定できるものでは無いと思います。未来の他者の承認から客観性が保たれることは、時が経って初めて認められることで、今はプラグマティズムの客観性はあるとは言えないと感じました。
最近のプラグマティズムの課題である、客観性の確保のために相互批判と相互承認の間を目指すのは、哲学に限ったことではないと思った。「未来の他者」に訴えることは、他の人にこう批判されるかもしれない、ここは承認してもらえるだろう、と自分の頭の中で想像することなのでどちらかというと主観に寄りやすいのではないかと思ったが、「未来の他者」を考えないよりは考えたほうがいいと思うので、私もこの考え方を使っていきたいと思う。研究対象は、好きでもっと知りたいと思うものや嫌いで批判したいものになりがちだと思っていたので、客観性のためには好きなものを研究するのも嫌いなものを研究するのもいけないという話が印象的で、卒論の題材を考える時に生かしたいと思った。
前回の課題だった客観性の確保というものに対して、私は他者を複数人用意することで客観性を保とうとした。未来の他者という発想には至らなかったので、感心した。しかし、自分が考えることはすべて主観に過ぎず、結局客観性を持つことなど不可能なのではないか?
正しさと客観性を確保するために、「未来の他者」に訴えかけるということに関して、持論を展開していくために都合良く未来の他者を捉えているのかなと感じました。
未来の他者への信頼が客観性の確立の関わる、と聞いて少し納得ができませんでした。なぜなら、信頼はその人のことを信じようとしたいと感じているという主観であると思うし、他者の批判もその人の主観に基づく発言になると考えるからです。しかし、このように客観性や正しさを主観のないものにしようと試みるといつまでも答えが出ないため、結局正しさや客観性を求めている人にとって良いものであればそれでいいのかなと思いました。
「未来の他者に訴える」というのは、他者という物理的にいるけれど今現在はいない、実体と空想の中間的な感じがしてバランスがとれている気がしてとても面白かったです。「現状を過去の自分が見たらどう思うか?」という話はよく聞きますが、「現状を未来の他者が見たらどう思うか?」というのも聞いたことがある気がするけれど、これまであまりその有効性を考えた覚えが無くて、どうしてだろうと思いました。また、今すぐに答えが返ってこない「未来の他者」に訴えるというのは、都合の良いこじつけをして自分を無理やり正当化しないように気を付けないといけないと思いました。査読くらい熟考した考えであれば有効ですが、大して考えてもいないものを「信頼してくれるだろう」と言い聞かせることに利用されることもありそうな気がします。
今回の授業で、現代のプラグマティズムの課題に触れました。それは「正しさ」と「客観性」の確立を両立させることだそうです。そこで、その両立のために「未来の他者」に訴えるという解決策を用いているというのですが、未来の他者とかを出し始めたら割となんでもよくなるんじゃないかなと思いました。承認してくれるだろうと「信頼」することで、「正しさ」を確保とありましたが、これは、「信頼」を根拠に「確保」ができるのかやや疑問でした。
ーーはい、皆さんごもっともであります。結局主観的だよねー?という意見にどう答えましょうか。これは追求しがいがある問題。以下の人も言うように、もう少し突き詰める必要があるだろう。
客観性の確保の対処法が「未来の他者」に訴えることだとありました。現在の他者との間では客観性がなくなるということに納得できましたが、未来の他者が絶対客観性を持っているのだろうかと、少し腑に落ちないところがありました。ですが未来の他者を頼らないと客観性を確保できないというのも分かります。この考えが間違っているとは思いませんが、もっと突き詰めることができるのかもしれないと感じました。
ーーそして、以下にあるように実際に突き詰めてくれている人がいる。
今回の授業によると未来の他者からの批判可能性を踏まえた上で「彼は承認してくれるだろう」と信頼することで正しさの客観性を確保できる。確かに、特定の集団に属さないという特質を持つ未来の他者から得る承認は客観性の証明を意味するだろう。しかし、この「未来の他者」と「信頼」は正しさを検証している主体自身が形成するものであることを踏まえると、必ずしも客観性を確保できるとは限らない。そもそも、未来の他者は検証する主体自身が想像した架空の存在である。また、信頼はあくまでもその主体が行う推測でしかない。つまり、この理論は唯一正しさの客観性を確保できる方法であるが、同時に客観性のない正しさを客観的であると評価してしまう危険性をもつのだ。
そして、この危険性に対処するために、正しさを検証する主体は未来を予測するための情報量と多様な他者への理解度を高める努力が必要であると考える。未来の他者とは、かみ砕くと「未来」という時代に影響を受けながら生きる他者である。そのため未来の他者を想像する材料となるのは、未来を予測するための情報と多様な他者への理解である。そして、この情報量と他者への理解度が高ければ高いほど「未来の他者」の客観性は確保されるが、その度合いは検証している主体の知っている範囲に依拠する。よって、客観性を確保する上で未来を予測するための情報と多様な他者への理解度を高めることは必要不可欠だ。また、「未来の他者が承認するだろう」と結論付けるまでの過程を大切にすることも客観性の確保の上で重要である。前述のように「信頼」とはあくまでもその主体が行う推測でしかない。そのため、事実上、客観性が確保できる正しさであるか否かはその命題を形成した主体自身が決定するのだ。このように最終的な決定権はその主体に委ねるという「信頼」の持つ特質から、「未来の他者が承認するだろう。」と結論付けるまでの過程を入念に検証する必要があるのだ。
以上のように未来の他人を利用して正しさの客観性を確保するには未来を予測するための情報量と他者への理解度を高める必要がある。そして、信頼を得るまでの過程を入念に対処するのも重要である。
ーーこれは「盲目的な信頼」を避けるための方法を述べていると理解した。私は「信頼」を認識論的な観点から捉えない(=その正当性や正しさを問わない)としていたが、それでは不十分だろうということなのかもしれない。要検討。
時空を超えると急に話がファンタジーに聞こえてしまう。しかし、話を聞いて納得した。でも「未来の他者」という言葉は分かりにくいと感じた。未来の他者を想像するのは自分であるから、「もう一人の自分」とかでいいのではないだろうか?と思いました。
半年間フィクション感のない哲学を主に学んできたわけであるが、私たちは現実世界で生きている以上、現実のことを考えて生活する必要があると思うため、プラグマティズムは非常に興味深い授業だったと感じる。私は形而上学を取り込んだプラグマティズムは過去の時代から現代の時代までで成り立っていると考えた。電気がない世界で「電気」というものはフィクションであるが、今の時代ではノンフィクションのものである。インターネットのない世界に「スマホ」は形而上の存在であり、だれの頭にもなかったはずであるが、今は世界の大半はその存在を知っている。だから、私たちが生きているこの世界がまさに形而上学を取り込んだプラグマティズムであると考える。これからの世の中、すでに体にチップを埋め込んでいる人もいるが、体がデジタル化される世の中にシフトするかもしれない。まさに地に足をつけつつ超越している状況である。このように考えることができることが人間の最も優れた特徴であるため、私はデジタル化しすぎる世の中に哲学がなくなるのではないかと感じている。
ーー面白いこというね、あなた。
形而上学を排して発展してきたプラグマティズムに、形而上学を組み込もうとするというのはとても野心的で興味深いアイデアだなと感じました。自分事であると同時に、どこか空想的な思想。もしそんな思想が生まれたらこれまでのどんな思想よりも面白いものになりそうですね。
ーーほんと、そうなんです。
今回は本授業のまとめとして形而上学とプラグマティズムの関係について触れました。形而上学を否定するために生まれたはずのプラグマティズムにおいて説明に形而上学を必要とすること、つまりその存在自体が形而上学という従来の哲学に依存していることは非常におもしろいと感じます。これからのプラグマティズムとして形而上学を取り込むということですが、自分ごととしてのプラグマティズムと自分ごとを超越した形而上学は両立可能であると私は考えます。いわば理想とも言える形而上学は目指すべき姿、現実的なプラグマティズムはその中での過程であると思えるからです。実際私は哲学ではありませんが人としての理想像を書いた本からインスパイアを受けつつ理想像に近づく行動を起こしているからです。プラグマティズムをどのような位置関係として捉えるかという問題にも思えます。
最後の授業で哲学の魅力が形而上学にあり、形而上学を取り込んだプラグマティズムを作る結論に至りましたが、最初は哲学の形而上学を否定し現実で意味をなすプラグマティズムを考えたが、形而上学を否定したプラグマティズムを考え続けているうちに大切さに気づかされたと聞いて、最初は敵だったキャラが最後に味方として登場する漫画やアニメの展開のようで驚きました。
ーー授業中盤まではこんな展開になるなんて自分でも予測していなかったんですけどね。
最後の方で述べられていたプラグマティズムとは何か?というところでプラグマティズムの哲学の魅力というものは少ないと言い放ったことに今まであんなに熱心に講義していたのに⁉と衝撃を受けました。確かに哲学の魅力はないかもしれませんが、私のような一般庶民にはこの世のすべてを疑うなんてことはできませんし、他人事のような考え方をしていても結局その事態に対面するのは自分なのでプラグマティズムのような日常の中の哲学というのは別の面白みがあるように感じます。
まさか最後の最後に、プラグマティズムはおもんないという話とは思いませんでした。確かに、この授業を15回受けてきて、個人的に徐々に面白みがなくなってきたなと思っていたのですが、それはプラグマティズムは哲学の魅力をそぎ落とした哲学であったからなんだと気が付きました。プラグマティズムはこれまでの形而上学的な話を否定するために生まれた概念なのに、最終的には否定したいものにすがってしまうなんて、本末転倒な気がします。
ーーここに本末転倒さを感じるか、趣を感じるか。
プラグマティズムは形而上学を必要としているというまとめは個人的に納得のいくものでした。私自身講義の中盤から終盤にかけてより厳格な存在になろうとするプラグマティズムに面白みを感じられなくなっていきました。どのような学問でも明確化しにくい不可思議な・人間的な発想が無い限りつまらなくなると思います。先生自身もどこかプラグマティズムに懐疑的ことをおっしゃっており、ある種のつまらないという気持ちを共有できたことがうれしかったです。
ーーそうだ、その感覚が重要なのだ。
私が考える哲学の魅力は、今までの自分の常識を壊すような思想を学べるところにあると考えます。例えば、文字を書いているシャーペンの色や形や重さや感触もわかりますが、目の前にあるシャーペンが本当に存在するかどうか質問されたら私はわからないと答えると思います。なぜなら、本当はこの世界は自分の創造の空間であり、このシャーペンは実在しないかもしれないし、この世界は実はバーチャルの世界で、私が観て、触れて、聴いて認識するものは、データだから存在しないかもしれません。このような答えのない問題に頭を悩ますことが楽しいと感じたのは初めてです。私が今まで経験したことなない世界への好奇心、自分の中に凝り固まった常識ぶち壊してほしいという好奇心の発生が哲学の魅力だと考えます。
個人的に哲学の魅力とは、一人で静かに世界を探求できる学問であることだと思います。もちろん、本格的な学問として探究するならば査読の目にかかるなど、単身で全てが完結するわけではないと思います。それでも、根本には自身の思考があり、その段階では誰にも邪魔されることなく突き詰めることができます。その一種のマイペースさが、ある意味ではとても気楽な学問になっていると感じました。
哲学の魅力についての先生のお話を聞いていて、「他人ごと感」「超越」というのは自分を救ってくれるんだと感じました。たまに、「もっと数学面白がれるようになっときゃよかったなー」と思うことがあります。Twitterに溢れている批判や嘲笑を見てイライラする一方、そういうことでしか脳みそを刺激できない自分がいるのでスマホを手放せません。紙とペンだけあれば楽しい気持ちになれる、実用的かどうかも問わずに考えることを楽しめる、そんな風になりたいです。
プラグマティズムについて、フィクション感がないことが地に足がついているという長所がある一方で哲学さが無いことが短所として挙げられるのが、哲学の持つフィクション感が哲学者を虜にしているんだなと感慨深いです。美容師、バーテン、バンドマンの3Bが、ハマったら最後と言われる一方で人間としてモテるのと似ていると思いました。やはり人間は本質として現実を見続けるよりも空想の世界や超越した世界に思いを馳せる方が単純に考えることが楽しいし、楽しいと人生が潤う気がします。ではなぜ、哲学者は最後には自ら命を絶つ人が多いのでしょうか。考えすぎて辛くなるのでしょうか。虜になっているうちに飲み込まれてしまうのでしょうか。哲学者を飲み込む鯨が思い浮かびます。人間が空想の世界や普段考えることのない世界に魅力を感じるのなら、異世界転生系や悪魔、呪物が出てくる少年漫画が流行することにも納得ができます。
哲学の魅力は「今ここの実践」、「自分」からの「超越」というのにとても共感いたしました。実践を超越した「客観性」を望むべく哲学は存在していると言っても過言ではありません。初めは哲学=固定概念、難しい、興味ないかも、としか思っていませんでした。しかし授業を受けるごとに身近に哲学がある事を感じ、親しみやすい哲学へと変わりました。理解度は高くはないかもしれませんが、そのわからない所を自分の中で消化して考えを作り上げていくのも一つの哲学だと感じました。
私は哲学Ⅰを受けたことが無いので、比べても想像できなかったので哲学の魅力が減るというのはすごく興味深い言葉でした。個人的には何言ってんだという話は理解に苦しみ楽しくなくなってしまうので、今のところプラグマティズムの方が好きです。(プラグマティズムしか習ってないですが…)哲学初心者にとってはプラグマティズムはとっつきやすく、哲学って面白い!と思うことができたので、プラグマティズムを哲学Ⅰにすべきではないのかと思いました。
ーーそういう意見は参考になる。
哲学Ⅱを通じて、とにかく対話が大事であることを学びました。コロナ禍に入ってから、人と話す機会が少なくなり、自分の考えがどんどん狭くなっている感じていました。そんな中受けたこの授業で、対話をすることの重要性を学び、また、他の方のコメントを見ていると、思っていることを上手く言語化されている方や自分には思いもつかなかった考えや疑問をコメントされている方がたくさんいて、改めてそういった多種多様な価値観と対話を通じて関わりたいなと思いました。
自分が考えるプラグマティズムの本質とは、前回のコメントシートに書いた言語ゲームに環境の要素を取り込んだブランダムの推論主義にもよく現れた「会話」だと思います。実用性に価値をおいたプラグマティズムという哲学において、常に付き纏ってきたテーマは言語や会話がキーワードだったように思います。古代哲学は「思考」、近代哲学は「感覚」に頼った哲学だったように思ったのでここが大きな違いだと感じました。15回の授業を通してもコメントシートを通じた会話を先生が重要視していたように感じました。人間間のコミュニケーションの道具である会話こそがプラグマティズムの道具主義的な部分であると感じました。
全15回の講義をすべて受講して思ったことは、哲学というものはやはり他の人とのディベートしていくことが醍醐味であると感じました。もちろん今回の講義でも説明されたように「客観性」を確立させるために「他者の批判的視点」ばかり受け入れたり、「正しさ」を確立させるために「相互承認」ばかりに訴えるといった極端なことが良いというわけではありません。あくまでも他の人の意見に対して自分もまた迎え打つといった形が自分の考えの発信、新しい知見の会得を可能にすることが哲学の魅力なのではと思いました。
実際に私は閲覧する余裕があれば、先生のサイトを少し覗き、自分のコメントシートが掲載されてるか確認しつつ、掲載されているコメントと何が自分と意見が違って、何が自分の書いた内容と同じであるだろうかと講義前に閲覧をして楽しんでいました。
哲学の歴史をみても過去にスコラ学に疑問を持ち、近代哲学の基礎を築いたデカルトのように、停滞していたプラグマティズムを後のネオプラグマティズムとして確立させたウィトゲンシュタインのように、他の立場の人による既存の定義に疑問をぶつけ新しい定義を築かせることは哲学の歴史からみても大きな活性化をもたらすことがわかります。今回の講義においてもプラグマティズムを「地に足がついて現実的な哲学」と結論つけている現状に対して、講義においても私が書き込みました「机上の空論を楽しむ」ことができていないのが欠点であるとし、実際にウィトゲンシュタインやブランダムの哲学には最終的にプラグマティズムの中に形而上学を含めていると説明されていたことからどのような魅力的にみえる哲学にも必ずデメリットというものはあるし、こうしたデメリットに対してどう根拠づけて批判するのか、またどのようにこのデメリットを補填させていくのか、さらに批判に対する対応法があるのかといった形でディベートするのが哲学を活性化させることに繋がり、醍醐味になるのではと思いました。
今までの哲学Ⅱの授業ではたくさん考える事ができたので楽しかったです。私は元々「考えること」は好きなのですが、哲学Ⅱの授業を受けるまでその興味の中心は「自分のこと」ばかりでした。そのため、内向的になってしまっていたところはあると思います。しかし、この哲学Ⅱで「存在」や「真理」について考えているうちに「他者の中にいる自分という存在」という視点がうまれ、「自分のこと」だけではなく「他者」についても考える時間が増えました。個人的にはこの成長を得られたので哲学Ⅱを受けてよかったなと思っています。
普段寄ることのなかった本屋の哲学コーナーも寄るようになりました。授業で学んだことをその1週間に実践することで、哲学と言ってもたくさんの種類があり、哲学という言葉一つでは括れないと感じました。私が持っている夢的にも、哲学に関する本をたくさん手に取って、色々とインスピレーションを受けたいなと思います。
講義の序盤でプラグマティズムやその真理観についての説明を耳にした時、正直なところ『いい加減そうだな...』というような事を考えた記憶があるが、何回か講義を受けていく中でその真理観に辿り着くまでの様々な議論について学び、最終的には受講を決める前よりプラグマティズムについて肯定的な態度を取るようになった。春学期に哲学Ⅰの講義を取ってから哲学について興味を持っていたことや、Ⅰで学んだ内容とは少し異なる思想について知り異なる視点を持つ事ができたことを踏まえて、今学期哲学Ⅱを受講する事にして良かったと思う。"哲学の理解の仕方"として挙げられていた、その哲学を受け入れて何日か生活するということを自分なりに実践することができたのではないかと考えている。また、コメントシートを提出するという形式もとても良かった。単純に毎回の講義で学んだ内容を咀嚼できることや、他の受講者の意見(自分と反対の考え方を持つ人が現れたりして面白かった)を見ることで新しい発見を得られるなど、哲学の授業の形式として優れたものだったと思う。私は思考にあまり瞬発性がなくじっくり考える方が好きなので、後から自分のペースで考えることができたのは有難かった。
結局、哲学者は哲学という枠にとらわれずに自分の疑問を正直に追求することが大事なのかと思いました。これは、哲学者以外にも当てはまり自分の想いや考えに正直に向き合い、誰かに否定されても突き通す(良い反対意見には耳を傾けながら)ことが人生の中で大切であると思いました。
今回の哲学Ⅱの授業を履修してみて、やはり哲学というのは難しくて、考えれば考えるほどわからなくなるということを感じました。哲学を専門に勉強している方は、頭が切れるような人なんだと思いました。しかし、先生のどこか大学の授業ぽくなく、雑談とかも交えながらなんとなく柔らかいような教え方をしていただけたので、なんとかわかろうとする努力はしてこれました。この授業がなければ哲学というものに触れることはなかったので、この授業を受けてよかったなと思います。
最後になりましたが、春学期から通して一年間ありがとうございました。大学入学前から哲学には興味があったのですが、もっとお堅くて難しいイメージだったのであまり触れられていませんでした。この講義で哲学の楽しみ方が分かってきたので、これから自分でもっと色々な哲学に触れていきたいです。とりあえず、先生のブランダムの本から読んでみようと思います。
最近、村田沙耶香著の『コンビニ人間』を読みました。以下若干のネタバレを含みます。
主人公はいわゆる「普通」の感覚を持っておらず、非常に合理的な性格の持ち主です。あまりにも合理的すぎて、他の人からはその言動を不気味に思われます。主人公は、自分はみんなとは違うんだというのを理解していますが、かといって社会に溶け込むような普通の人にどうすればなれるのかがわかりません。そのため、処世術として、その時々に自分の周りにいる人間の言動を真似るようになります。主人公はコンビニで働いており、同じ職場の人達の言動を参考にします。しかし、人の入れ替わりが激しい職場であり、主人公の参考にする人も変わるため、主人公の言動は数年前と現在で異なっています。
この主人公をプラグマティズムの視点で考えてみると、短期的な視野か長期的な視野かで、実践が有用か否かの評価は異なると思いました。主人公はその時自分の身近にいる人々(主に職場の人達)を真似て上手く擬態しようとします。実際これまでそのやり方で主人公は上手くしのいでいたため、特に不審がられずに社会に溶け込めているようでした。短期的視野ではこのやり方は主人公にとって有用なやり方と言えます。しかし、この処世術は結局その場しのぎであるため、根本的な解決にはならないので長期的視野では有用ではありません。この小説を読んで、実践の有用性をどの時間軸で見るかは非常に重要な視点だと改めて感じました。主人公はまるでカメレオンのように擬態していくのですが、それはいろんな人の要素のつぎはぎのようで一貫性がありません。短期的に有用な実践を繰り返し続けても、時間は過ぎ、主人公も歳を取り、これまでの実践のやり方が通用しづらくなってきました。短期的な有用性に満足してしまうことは、長期的な有用性への関心を薄れさせるのかもしれないと思いました。短期的な視野のみで有用な実践を続けることが、長期的視野ではそのデメリットを助長させることがあるかもしれません。
それは逆も同じことが言えると思います。例えば教育政策では、ある政策が良かったのかどうかの結果は数十年後にわかります。もし悪いところがあれば改善点が見つかり、よりよい政策のヒントにもなり、後世の生徒にとって役立つので、長期的視野では有用な実践かもしれません。しかし、被験者として実際にその政策の影響を受けた当時の生徒にとっては、彼らが生徒であるまさにその時に有用な教育がなされたのかという短期的視野の方が重要になります。彼らが受けたその時の教育の経験は2度とやり直しや修正ができないからです。
そして短期的・長期的視野の観点は先週の授業で登場した「未来の他者」というのにも関わりがあります。短期的な視野から見た実践の有用性の判断は現在を生きている私たちが担い、長期的な視野からは未来の人達がその有用性の是非を判断するという役割分担が、ある実践を評価するために重要になると思いました。これは先週の授業で説明された「未来の他者」による客観性の確保につながると思います。このように考える「未来の他者」という存在はやはりなくてはならない存在だと思いました。
ところで、『コンビニ人間』という小説に対して今回のコメントのような感想を抱けたのはプラグマティズムというのを哲学Ⅱの授業で学んできたからです。プラグティズムを実践に基づくという意味でリアルなものと捉えると、小説というフィクションの世界をプラグマティズムの視点で考えることは、虚構と現実をリンクさせているようで非常におもしろいなと思いました。4年生の秋学期という滋賀大学最後の学期でプラグマティズムに出会えて本当に良かったです。授業を履修する前と比べて、プラグマティズムというレンズを手に入れたことで世界がよりクリアに見えるようになった気がします。これからもいろんなことを知ってレンズを増やしたり、矯正したり、磨いていきたいと思います。
ーー村田沙耶香さんは問題意識というか感覚がウィトゲンシュタイン的で私は両方とも好きです。クレイジーなところも。
今回の講義をもって、プラグマティズムについての授業が終わりましたが、非常に有意義な時間でありました。最初は、哲学に対して難しく理解しづらいイメージを持っていましたが、シラバスに初心者でも大丈夫だと書かれている言葉を信じて、履修を決めました。勿論、実際授業を聞いてみて、難しい内容も何度かありましたが、全体的に思ったよりも理解しやすく、人生において良い影響を与えてくれたと思います。特に、パースの可謬主義からは失敗してもやり直せば良いという勇気を、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインからは、自分では当たり前のように思っていたことも、確実性の定義により、新たな方法で捉え、見つめ直す機会を、ブランダムの推論主義からは、発する言葉の重さを改めて気づかせてくれた、良い経験だったと思います。
また、プラグマティズムについて、多くの哲学者が反論に反論を重ねていましたが、結局、これは間違い、これが正解だという論争よりも、それぞれの哲学の良さが感じられて良かったと思いました。最後に、物理学を学ぶことによって、もっと広い視野で自然界を見れるようになるのですが、今回の授業を通して、やはり哲学はあらゆる学問の基礎でもあるため、自然界に加えて社会に対する視野も少しは広がったと思うので、履修して良かったと思います。
プラグマティズムと哲学の魅力の話について、本当に個人的な感想なのですが、プラグマティズムが「既にある道を舗装する作業」であるのに対し、形而上学は「何もないところに土を盛る作業」であるというイメージを抱きました。
話は少し変わりますが、以前読んだ『ここは今から倫理です。』という漫画のあとがきで、自殺した叔母さんが倫理や哲学に救いを求めていたという話が出てきました。偉人の言葉の中から自分を助けてくれるものを探す、生きるための勉強の跡だったと作者の方は評しています。作中でも有名な哲学者の言葉がたくさん登場するのですが、それらは「生き方」や「善悪」についてという、どちらかと言えば形而上学的な言葉が多い印象を受けました。
プラグマティズムの良い点には「地に足がついている」というものがあり、そのフィクション感のなさや自分事としての哲学であることは紛うことなきプラグマティズムの魅力であると思います。ただ、今足をつけている地面が崩れるような深い絶望に陥り(先述の漫画で「どんな理由でも命に換わる程重い絶望になる」という言葉が出てきます)どうしようもなくなった時には、「いまここの実践」や「自分」から超越した形而上学が漠然とした指針を示してくれるのではないかと思いました。もちろんそれだけが形而上学の良さだというわけではなく、また、プラグマティズムと形而上学のどちらが優れているというわけでもない、本当にただの個人の所感だという一点に尽きます。
高校の倫理の授業では「天才が新しい体系を作る哲学」を学ぶことが多かったので、この授業で出てきた「共同体としての哲学」はすごく新鮮で興味深かったです。先生が授業の最後で仰っていた「地に足をつけつつ超越を希求」の話も興味を惹かれたので、来年からは滋賀大学にはいらっしゃらないことがとても残念です。短い間でしたがとても面白い授業をしていただきありがとうございました。(P.N 田中)
相互承認による正しさと客観性の溝を埋めるための「未来の他者に」その仲介を担ってもらうという発想と、プラグマティズムにはない、哲学の魅力としての、フィクション感、他人事感、超越的な思考をなす形而上学を取り込んだプラグマティズムを作るという発想はやっぱり最後までプラグマティズムだなあと感じました。未来にゴールを持っていく、そしてプラグマティズム史では、批判さえした思想をとりこんで目標に向かっていく様はやっぱり強靭だなと、ニーチェの超人思想を思い出した。僕は昔から極論があまり好きではなくて、どちらかというとその中間がを好むというか、世の中そんな単純に物事決められないだろうという考えで生きてきたのですが、白川先生の15回の講義を受けてきて、極論(何を極論とするかはまずそこが問題ではありますが) 思い切った思想、それは思い込みじゃない?ちょっと根拠が薄いなあという思想に触れながらプラグマティズムが発展、進んできた 議論されてきたと感じて、そういった両極 左右に揺れながらその中間にただよって生きていくのもいいなあと思うことができるようになりました。誰も思いつかないような思想、哲学を誰かが作ったとしてそれが自分にとっては理解できない、ばからしいとしか感じえないものでも、それにふれることで自分をさらに強くすることができるかもしれないというプラグマティズム的思考を獲得することができました。半年の間、ありがとうございました!! ただの記号でしかなかった哲学が、先生の授業で僕の中で少し形あるものになりました。先生の著書も春休みに読むために購入しようと思います。
15回の講義全て聴いて、プラグマティズムを通して今まで自分に無かった物の捉え方や言葉を使った表現の受け取り方の違いを学ぶとこが出来て、とても感謝しています。相手の立場を考えて物事を伝えるという方法のヒントにもなった気がします。また、白川先生の話し方や雑談、就職の話などとても興味深く、チャットを利用した参加型の授業も楽しかったです。秋学期の15回の講義ありがとうございました。
哲学を理解するのは難しいと常々思っていたし、現実的じゃなくて身をもって感じることができないなどと感じることは多くあった。私は勝手にこうした考えが哲学に否定的な意見であり、哲学を学ぶためにはこうした意見を捨てなければならないと考えていた。しかし、今日の授業でこうした考え方はむしろ哲学の魅力という部分に繋がるんだと感じた。理解するのが難しいからこそ問い続けることができ、思考を深めることができると考えられるし、また、現実的じゃないフィクション的要素が強いからこそ普通に生きている限りでは経験し得ないことを思考の中でのみ経験することができるとも考えられる。哲学は机上の空論であるというのは哲学批判によく使われる言葉であるが、この言葉がむしろ褒め言葉に聞こえるようになった。机上の空論は経験的でない事を学べるという意味で重要であり、その重要性を学べる最たる学問は哲学であると感じた。こうした哲学の魅力が、私がとても身近に実感できるという意味で好むプラグマティズムに組み込まれるような新しいプラグマティズムは哲学の強みを存分に活かしつつ、弱点を克服したほぼ完全体の哲学理論になるのではないかと感じた。
p.s. 新たな哲学の魅力をこの授業を通して知ることができました。4回生として最後の学生生活でこうした授業を受けることができて良かったと感じました。ありがとうございました。
正直、講義を聞く前は「哲学って面白そうだけど、すごく難しそうだし、学んでも現実に生かすタイミングって無いだろうな」という考えを持っていました。ところが、白川先生の授業は、とても楽しそうに話してくださったウィトさんの話を始め、例え話も分かりやすく、楽しく聴けました。
また、他の学生の意見や考えをサイト上でみたり、授業の中で取り上げて話してくださったため、同年代でこんな思考力あるなんてすごいと刺激された上に、多様な価値観に触れることができて、とても良い機会でした。
哲学を15回学んでみて、やはり難しいとは思いました。しかし、分からないながらも話を聞く上で、自分の中の価値観や固定観念がぶっ壊されるタイミングがいくつかありました。”存在するとはなんだろう?正しいってなんだろう?”小学校の頃は考えていたようなことも、いつの間にか歳を重ねるにつれて考えなくなり、”これはこう”と言った固定観念や、ありもしない当たり前に縛られて窮屈になってるなと感じました。
少し大袈裟に聞こえるかもしれませんが、今後、”当たり前”に苦しくなった時、白川先生の講義を思い出して、前向きに考えていくことができそうです!
自分は高校の時も倫理といった哲学系の科目は受けたことがなく、哲学に対して全くの知識もない状態でした。哲学という学問に対しても、「なんか堅そうな学問だなぁー」と思っていました。しかし講義を受けてみると「堅い」ということはなく、むしろ可謬主義的な柔軟な対応をする学問で、驚きました。特に経済学部だと、理論的なものを教わる講義が多い中、先生のご経験やご研究なさっている内容を講義でたくさん聞くことが出来、自分の知的好奇心を刺激するような内容で毎回の講義が楽しみでした。高校までと違う、大学での”学問”に触れているようで楽しかったです。コメントシートもたくさん取り上げていただき、ありがとうございました。毎回の講義前に、自分のコメントが載っているのを確認するのがとても楽しかったです。14回目のコメントシートの返答で、”鋭いね”とおっしゃっていただいたのは、自分の考えが認められた感じがして(勘違いかもしれません…)うれしかったです。(ピンチヒッター二岡)
哲学Ⅱの集大成となる最後の授業は結局のところプラグマティズムとは何ぞやという講義であった。最終的に形而上学を取り込んだプラグマティズムを作るという結論に達したのは哲学的矛盾への宣戦布告感がありとても面白いと感じた。全授業を通してプラグマティズムのフルコースを味わった訳であるが、これらは白川先生の哲学的レンズでの味付けがあったからこそ楽しめたのである。今学期限りで滋賀大学を離れてしまうのはとても寂しいが、この授業を受講することができて貴重な経験になったと強く感じた。もし、またいつか開講される機会があるのならば迷わず受講するだろう。半年間ありがとうございました。
「形而上学を取り込んだプラグマティズムを作る」という発想は私の考えになかったので、とても新鮮でした。正直私はまだその段階まで辿り着いていません。しかし議論や講義の過程で考えが変わっていくこと、その変化を否定しない柔軟さは哲学の魅力なのかなと思いました。人は生きていくなかで価値観や考え方を変えていくものです。変わることに否定的な人も一部いますが、私はそれが良い方向に進むものなら問題ないと考えています。変わることを恐れない、むしろ楽しむという哲学の姿勢をこれからも大切にしていこうと思います。あとは他人の考えをきちんと聞き、自らの価値観に縛られないようにしようと思いました。
今回が最後の授業でした。思い返せば、5回目くらいまではいい感じに内容が入ってきていたのですが、6回目以降(おやおや?となり)、先生及び周りの人達のコメントシートを見て、自分との理解に差を感じ、哲学って難しいと考えるようになっていました。結局最後までそれは続いてしまって、今も哲学は難しいと思っていますが、逆にこの講義を履修したことによって、もっと哲学を理解したいと思えたので、本屋に行った時は哲学コーナーに足を踏み入れてみたいと思います。
掲載されたコメントシートを見ると、周りのレベルが高くていつも驚かされます。
今回が哲学の最後の授業でしたが、プラグマティズムとあまり相性が良くなかった形而上学との組み合わせは先生自身も授業を通して新しい発見があったことを知り、相互に影響しあう授業というのも面白かったです。
私は、授業の内容がわからないから諦めるのではなく、分からないなりに自分の答えを見つけるというのも非常に大切だと特にこの哲学の授業を通して感じました。実際、哲学の入門書や解説書の類を読んで、それだけで理解した気になっている自分がいました。原本を読んでも難しいから、まずは入門書からというような構図だと考えていましたが、著者が書いた生の文(訳されているので生とはいいがたいですが)を読んで、「わからないなあ」とか言いながらとりあえず読んでみようというような精神が先生のおかげでもつことができました。そして、プラグマティズムとは全く関係ないですがレヴィナスの「実存から実存主義へ」という本を借りてみました。見た目からして難解そうな本ですが、何とか脳内に先生を召喚して春休みに読んでみたいと思います。
ーーレヴィナスは私いつも挫折しているので、召喚しない方がよいかも。
前期の「哲学からの問い」も受講していたので、1年間お世話になりました。哲学の講義を1年間受けてみて感じたのは、自分は哲学に向いていないということです。でも哲学は好きなので、先生が講義の最後に仰っていたように、自分の哲学みたいなものを作り上げていきたいと思います。
ーーむいてないことがわかるということもよいことだ。
ラジオみたいにペンネームをつけての意見の共有(この授業の特徴であると勝手に思っている)とても面白かったです。(ダノター城好き)
15回にわたる授業、ありがとうございました。全てオンラインで受講したのですが、先生の黒板の見やすさへの配慮やゲームなどについての雑談、コメントが掲載された時の喜びのおかげで、前のめりで授業に臨むことができました。 (ハッシュ=ド=ビーフ2世 )
私は前回の出された選択問題を考えるのにとても苦労したので、他の人がどのように考えたのかを知ることがとても楽しみでした。実際に自分では思いつかないような視点から考えている人がたくさんいて刺激的でした。毎回の授業で、自分が考えたことと、他の人が考えたことはどう違うのかについて、コメントシートを通して知ることができたので、この授業のスタイルはとてもよかったです。
今回少し驚いたことは、先生が当初思っていたことが、授業やコメントシートを通して「生徒が面白そうでなければ、自分も面白くないのでは」と気づきを与えられ、変わったという話をされたことです。哲学は不変的でなく、時代に合わせて変化するんだ。ということがふと頭に浮かびました。違ったらすみません。
ーー全体として「対話的な授業」はなかなかよいということかな。
哲学のことが一つもわからない中、先生の授業は毎週とっても楽しみでした。終わってしまうのが悲しいです。これからも哲学を学んで、いつか白川先生の本を買いたいと思います。 (もなー)
ーー「いつか」というのがよい。
ここからは感想となってしまいますが哲学Ⅱの授業が2年間のなかで、1番面白かったです。来年以降白川先生の講義が受けられないのが寂しいですが、少しは哲学という学問に興味を持てた気がします。そのうち先生がお薦めしていた本を手に取ってみたいと思います。
ーー「そのうち」というのがよい。
人生初の哲学授業の終わりを迎えました。日曜日から4日間で今までの先生が載せたみんなのコメントを見ました。なんかもう一回授業を受けたように本当に勉強になったなと思います。これから毎週固定の先生からのまとめメールがなくなると寂しくなりますね。
ーーはい、皆さんのお顔とお名前とメール内容がまったく一致していないのに、けっこう濃密なやりとりをするという独特のコミュニケーションでした。
15回の授業お疲れ様でした。先生のおかげで、僕にとって単位の一つでしかなかった哲学について興味が出ました。具体的にはKindleにあった論理哲学論考をDLして読んでみるくらいには興味を持ちました。読み始めて15分で気が狂いそうになったので、他の本を読み始めてしまいましたが、、。哲学に関する他の本もこんな感じなのかと思うと、事前知識のない状態から興味を持つことができるほどに噛み砕いてわかりやすく説明していただけたのだなと思ったのと同時に、教授というものの偉大さをひしひしと感じました。白川教授は、哲学について研究されていて、それ以外のことにあまり興味がなさそうというか人間味をあまり感じなかったのですが、ゲームが好きという話を聞いて、一緒な部分もあるんだなぁと思って少し嬉しくなりました笑
就活についてのアドバイスもとても楽しみにしてました。私は公務員のみを考えていたのですが、一般企業やベンチャーなど他の業種にも興味を持つきっかけ(就活から逃げないという意味も込めて)を頂きました。
何よりも、私の興味のある学問のなかに経済学や経営学などと並んで、哲学というものがラインナップされたことが一番嬉しく思います。やはり大学の勉強というのは、人生を豊かにしてくれるヒントを与えてくれるのだなぁと感じました。
ーー興味のある学問分野を増やせたことをうれしく思う。
自分はなんとなく経済学部に入ってしまったので、哲学の授業を取ることができてとても嬉しかったです。とても居心地のいい空間でした。「哲学からの問い」から合わせて一年間大変お世話になりました。
ーー「とても居心地がいい空間」なんて感激。
新しい大学への赴任おめでとうございます。今回の講義を通してプラグマティズムや分析哲学へのイメージが変わりました。受講出来てよかったです。まだ講義内容を飲み込みきれていないので、また先生の講義を受けたいなと思ってました。もう先生の講義を受けることが出来ないかと思うと、個人的に少し残念です。こんなことなら恥ずかしがらずにもっと初めから質問しておけば良かったと後悔しています。これからは先生の資料や本を読んだりして、自分にできる範囲でプラグマティズムへの理解を深めていこうかと思います。そして僕もプラグマティズムの可能性や他の思想について、少しずつ自分なりに考えてみようと思います。これまで思想を鑑賞してきた僕にとって難しいことですが、とりあえずやってみます。最後に先生がおっしゃられていたように、個人で考えるだけなら自由ですからね。改めておめでとうございます。先生の更なるご活躍をお祈り申し上げます。
ーーはい、皆さんのご活躍も期待しております。
秋学期の間、お世話になりました。欲を言えばもっと先生の授業を受けてみたかったのですが……。この1年限り、ということなのでものすごく残念です。今度彦根に来るようなことがあれば、是非彦根城のお堀周りを歩いてみてください。春だと小指の爪ぐらいの子亀や日向ぼっこする亀、桜の木がみられます。秋は紅葉、白鳥などが見れるので、1年通して結構楽しめます。(きりん)
ーー亀を出す辺り私の好みを的確に見抜いていて、さすがきりんさん。
まだもうちょっと講義を聞きたいと思ったのはこれが初めてです。 […]今回で最後となってしまいましたが冒頭にも述べたようにもう少し受けてみたかったなぁという気持ちが強いです。自分の創作活動の肥やしとなればと思い受講した講義にここまでのこと感じることになるとは思ってもいませんでした。また機会がありましたら自分がずっと座っていた99番席くらいの位置からお話を聞きたいです。たった講義15回分の短い間でしたがありがとうございました。面白かったです。
ーー99番の人を思い出し中。
白川先生は生徒の反応を大事にして、自分の考えを柔軟に変えつつ、自分の考えや意志を持って研究しているのはとても哲学者、1人の人間として尊敬します。僕が大学入学してから抱いていた国立大学教授の堅苦しいイメージは、先生の人柄によって少し覆りました。哲学IIの授業ありがとうございました。お疲れ様でした。
ーーわたし「国立大学教授」じゃないからな。
15回の授業で哲学を学んできて、高校での倫政の授業とは全然楽しさが違い、毎回の授業が一瞬でした。哲学の魅力として、自分自身の「超越」だなと感じました。実際に正しいことと、ある主体が正しいとみなすことにはギャップがあるが、そのギャップこそ哲学だなあと感じれるようになりました。毎回楽しい授業をありがとうございました!滋賀大から離れてもお元気でいてください!
ーーうれしい!
本学期も貴重な講義、ありがとうございました。先生の哲学からの問いを受講してから今日に至るまで、自分の持つ哲学の考えを180度変えたいただきました。実現的で地に足がついたプラグマティズムは非常に興味深かったです。悪い点として、哲学の魅力が減るとおっしゃっていましたが、私は先生に教わったおかげで、全くそんなことは思いませんでした。一番日常に落とし込みやすいプラグマティズムを活用して、これから生活していきたいと思います。
ーー人を喜ばす文章!
まずは今学期、講義ありがとうございました。僕にとって最も面白い授業でした。先生には春学期に「哲学からの問い」で、今学期は「哲学Ⅱ」で大変お世話になりました。僕は、この2つの講義を通して何よりもプラグマティズムへの理解と関心が深まりました。高校生の時にも倫理の授業でプラグマティズムに触れましたが、軽く学んだだけだったので、ここまで面白い考え方だったとは思って居ませんでした。推論も非常に楽しかったです。哲学の楽しさに気付くことが出来る素晴らしい機会でした。それと授業の余談がたまらなく好きでした。僕が想像していた大学の授業そのもので楽しかったです。コロナが流行り、決められた内容を決まった時間で、編集された動画で授業を受ける事がとても多いので、こう言った余談から得る知識の面白さを存分に楽しめる講義でもありました。来年度以降に先生の授業が無い事を知って、寂しい気持ちが強いです。 1年間本当にありがとうございました。
ーー余談好きとしてうれしい!
白川先生の授業だけが唯一の楽しみだったので、終わってしまって凄く悲しいです…あわよくば来季も取っちゃお〜♪と思っていたので、就職(?)されたと聞いて若干泣きそうになりました。先生の「形而上学を取り込んだプラグマティズム」、、魅力的過ぎるので教わりたかったです。今までの授業で、先生が孔子やソクラテスも好きだと仰ってましたが、私もとっても好きです!本も沢山読みました!ニーチェやウィトゲンシュタインなどなど、好きな人が一緒で嬉しかったです。先生に私のつまらないコメントを褒めて頂いたことも、認知という神ファンサ頂いたこともとっても嬉しかったです!またいつかどこかで会えることを祈りながら生きていこうと思います。面白い天才がいたら教えてください…
ーー知的な分野で感覚が似ている人を見つけることに超える喜びはない。
受講者のリアクションによって新しい結論が出たとおっしゃられていましが、ただ自分の知っていることを教えるだけではなくて自分の考えも深めながら更新していらっしゃることが素敵だなあと思いました。就職先が決まったとのこと、おめでとうございます。白川先生が滋賀大に携わった短い期間の中で、たまたま哲学Ⅱを取って、講義を受けることができてよかったです。これまでに受けた講義の中で好きな講義TOP3に入りました。
ーーTOP「3」というのが正直(誠実)でよい。
全15回の講義ありがとうございました。この授業のおかげで、プラグマティズムに対する理解を何倍も深められました。友人におすすめするくらい白川先生の授業が好きだったので、滋賀大学での講義は今期限りと聞きとても寂しいです。また機会があれば、ぜひお話伺いたいです。新たな環境でのご活躍をお祈りしています。
ーー口コミうれしい。
滋賀大学での授業お疲れさまでした。僕は、春学期の哲学からの問いの授業も履修していたので、白川先生の二回の滋賀大学非常勤授業を完全制覇したことになります。最初に白川先生の授業を聞いた時は、話のテンションが低くて、「これが哲学者かぁ」といまいちな印象を受けましたが、話を聞いていくうちに白川先生の話や人となりが好きになってきて、秋学期の授業まで取ってしまいました。楽しい授業をありがとうございました。本当にお疲れ様でした。
ーー笑った。
15回の授業のうち、特に後半の内容が難解であった。しかし、哲学の講義を受けるときは、心が洗われるような気がした。1週間のうちのわずかではあるが、とても貴重な時間となった。これからは、人生で疲れたと感じたときなどは、哲学の本を開けてみようと思う。
ーー心を洗える時間!
最後になりましたが、春に続き秋も哲学を勉強できてとても楽しかったです。今まで無関心だった哲学に興味を持ち、友達と語れたことはいい思い出です。これからも日時的に哲学に触れていこうと思います。ありがとうございました!
ーー「友達と哲学を語る」などという大学生の至高の思い出に寄与できて感激。
「哲学からの問い」からはじまり、通年白川先生の講義を毎週木曜日に聞かせて頂きましたが、先生は講義の内容を私たちと同じ視点から語ってくれており、そういった姿勢は他の教授と比較して、とても大きな魅力だと感じます。来年度からは新天地での活動となるそうで、上から申し上げるようで無作法ではございますが、今後もそういった先生らしい魅力を活かして頑張ってください。一年間お世話になりました。
ーー何度も読み返そう。
先生が行った授業を先生自身が否定している姿は大学に入って初めて聞きました(笑)すごく面白かったです。今期で授業が最後だとは思いませんでした…先生が他の授業を開講するならばぜひ取りたいと思っていたのですごく残念な気持ちと共に、哲学Ⅱを受講して本当に良かったと思いました。ありがとうございました。
ーーやはり別れは徐々にですね。
白川先生が最後の授業だということで前期から受けさせていただいた身として授業全体の感想を書こうと思います。大学生になって取りたい授業をとって学びたいことを学びたいと思っていたがやはり必修や卒業要件を考えるとそう上手くはいかないことが多かった。実際に前期も今期も毎週の授業が楽しみだという気持ちではなく義務的な気持ちで受けていた授業が多かった。しかし、この哲学という授業は私自身高校の時に文学部に行って世界史や哲学について深く勉強したいという気持ちもあり、本当に学んでみたいものだった。実際に新たに知ることや高校では体験できなかった、いわゆる大学生らしい授業が本当に楽しくて充実していた。自分がどういう思考をしがちな人間で、周りの人は同じ問題に対してどのくらい違う見解を持っているのか、たくさん学ぶことがあった。白川さんの思想を聞いていたり、これまでの勉強を考えるととても哲学者になりたいとは思えませんが、日常生活の中でも一度立ち止まってメタ的視点で考えたり、相手の言葉から本当の意図を推論したりと生かしていきたいと考えている。本当に一年間ありがとうございました。また機会があればお話聞きたいです。
ーー「大学生らしい授業」が実現できてうれしい。何が大学生らしさを構成しているのかわかっていませんが。
最後に、先生が思うこれは読んでおけ!っていうおすすめの本(哲学以外でお願いします。)を教えて頂きたいです。
ーー哲学以外という条件がよい。やはり日本文学の古典がよろしいのではないでしょうか。谷崎潤一郎、三島由紀夫、芥川龍之介、夏目漱石など。三島さん以外はkindleで大部分の作品が安く読めるから素晴らしい時代ですね。
答えらしい答えを出せなっかたが、①で考えたことを記す。まず、自分が「これは○○だ」のような認識を持つ。次に、他者にも同様に、それぞれ認識を持ってもらう。ただし、他者は1人ではなく、3人ほどの複数人であるとする。そして、他者は自分に対し、それぞれの認識を伝える。もし、自分と他者の全員が「これは○○だ」と言えば、客観性を確保できたと言える。しかし、1人でも「これは△△だ」と言えば、客観性を確保できたとは言えない。
客観性を得るにはやはり他者を頼るしかないと思います。ある人にとっては正しくても、別の人にとっては間違っているかもしれない。そうした場合多数決を取ることが一番客観性を得ることができると思います。難しいので的外れな回答をしていたらすみません。
一対一や少人数のグループの会話などにおいてはいわゆる身内ノリのようなそこでしか通じないような事柄においても、共通の認識を推論できるのならばその集団内では客観性を確保できると感じた。しかし、例えば国会演説などといった大多数の聞き手がいる場合は、聞き手によって受け取り方が変わるため、絶対的な客観性は存在しないと思う。そのため、インターネットなどにおいて述べた意見が曲解されることがしばしば起きてしまうが、一番ベターな方法としてはある言葉に対して、他者が受け取る認識や理解が一番多い考え方が客観性が確保され「やすい」と考える。統計で例えると信頼区間95%に入るように大勢の他者が受け取る言葉は大体客観性はあるのではないかという考え方だ。
客観とは主観の対義語であり、主観から離れた独立する視点のことである。つまり客観性は「他人の過半数がこう考えるだろう」という考えによって成り立っている。その時点で多少の主観が入ってしまっている気もするが、客観性を確保する方法はとしては、さまざまな他者の意見にふれあい、他人がどう考えているかの統計をとれるようになることだと考える。
事実と信念が一致していなかったとしても、人々がそれぞれの信念に基づいて何かをするときに、その仕方が一致して規則とみなせるような場合は客観性が高いと考えられると思う。自分がある信念を持っていて、他者もその信念を持っているとみなせる場合に、それぞれがそのことについて共通理解しているとみなせるのだと思う。だから、その基礎的な共通理解の組み合わせで説明できるようなことであれば、それについても客観性が確保できると思う。そのため、観察報告から統計的な方法で組み立てられた科学というものの客観性を、みんな信じているのだと思う。(Martin Tait)
他者が発言したことと自分が発言したこととが一致すれば、客観性が確保できるのかなと思いました。でもその他者が自分と思考が似ている人を選んでしまうとただの自分の意見の補強になるし、コミュニティの違う人を複数集める必要があると思います。(もなー)
相手と考えを共有することが重要である。1対1の個人間から、徐々に人数を増やして1つの集団で共有することで、客観性が確保される。 つまり、主観で考えて行動する際に、常に人を監視役として置いておくことでプラグマティズムの欠点である客観性が確保できると考える。
自分で考えたことが他者の考えと一致していれば客観性を確保でき、一致していなければ客観性を確保できないとする方法。
自分がもつ信念が他者と一致するのかを延々と確認し続けていく 。
多数の他者の支援を得ること 。
「事実の一致」という図式は、単独に存在する、とある人が見ているものであると仮定して考えます。単独に存在する人が考えることが「事実の一致」という図式であるので、単独でなくなれば、ある程度の客観性は保証されると思います。例えば、Aという人物が持つ世界とBという人物が持つ世界(人数は多いほうが精度は増すと思います)を対話によってお互いに共有し、合致していることを確かめることで客観性を確保することができると思いました。「ある程度」と書いたのは、AとBの持つ世界に違いがあった場合、どちらかが譲歩する、間違っていたと認識するなどしないといけないので、「完全に」とは言えないからです。今回出された問題についてずっと考えていたのですが、考えすぎて「まず客観性とは何か」という疑問に至りそうになってしまったので、深く考えずシンプルにとらえることにしました。[…]ふと思ったのですが、誰もが納得できる客観性というものは存在するのでしょうか。私たちが客観的だと思っているものは、誰かの主観的なような気がしてきて、わけがわからなくなってきました。(きりん)
――いずれも、全員ないし大多数が正しいとみなすものが客観的に正しいという趣旨のことを述べているようだが、これだと「集団が正しいとみなすこと」と「実際に正しいこと」の区別がつかなくなるのでは? つまり、「個人」に関しては客観性は成り立つとしても、今度は「集団」に関しての客観性が問題になるのでは? この点は、以下のコメントが的確に捉えている。
他者を活用することであらゆる真理や正しさの客観性を確保しようとしても、最終的には人類という特定の集団が正しいとみなすことにならざるを得ず、客観性の確保はできないのではないかと思った。完全な客観性のようなものを目指しても実現できないような気がしたから、客観性を求めるときにもどこかで妥協をしなければならないのかなと感じた。
「事実と一致」という図式に訴えることなしに、客観性を確保する方法に関して、もし他の人の意見を求めて集団の意見で証明するという方法がありますが、集団的な誤りが発生する可能性があります。ですから、私は他の人の力で証明するより、他の人の力を借りて、その推論を実現することはできるのかと考えています。例えば、「机の上に猫がいる」という推論がある時、他の人の力で猫を机の上に置くことによって、「机の上に猫がいる」ということを実現させます。
――後半で言われる方法が良く理解できていない。
まず自分が正しいと考えていることに客観性を持たせるには言わずもがな他者は必要です。そして自分が正しいと考えていることはウィトゲンシュタインの考え方を用いるとその人の中では規則、決まりであるため疑いえないといえます。しかし、それはあくまで自分の中だけの話なので他者からすれば偽であるかもしれないし、客観性を持っているとは言えません。しかし今回扱ったブランダムの考え方である他者から適切とみなす推論が行われた場合客観性を持つのではないかと考えました。(降伏論)
ある個人や集団の主観に客観性を持たせるには、異なる個人や外部の集団の主観に頼るしかないと思います。
他者というフィルターを通して真理を検証する。自身の思考が介入できないため、どのような「他者」を通しても同じ真理が認められたならば、客観的な真理に近づく。
主観的な真理が複数人の他者で共通すれば、客観的な真理になるのではないか。課題は複数人の他者が特定の共同体に属している可能性が排除できないこと。
――他者に頼るのはいいのだが、なぜそこから客観性が生じるのかもう一歩踏み込んだ議論が欲しい。
他者の観測によって、「事実の一致」の図式無しに真理に客観性をもたらすことができるのではないかと考えました。個人でも社会的集団でも、導く真理はそれぞれ主観的であるが、そこに全く関係の無い第三者がその真理を観測し、それが真理であると考えることができるのならば、それは客観性を確保していると言えるのではないでしょうか。例えばデカルトの「我思う故に我あり」は、全てを疑った末に、考えている自分自身の存在は疑うことができないという主観的なものであり、実際に考えているデカルトが存在するかは確かではないが、デカルト以外の他者が考えているデカルトを観測することができれば、その真理は主観的視点だけでなく客観的な要素も確保することができているのではないかと考えました。
――その第三者はなぜ真理を観測できていると言えるのかな?
この講義では度々哲学を良いレンズとして扱う、という言葉が出てきます。私はこれに起因して、「他者をレンズとして使う」ことで客観性を確保できると思います。
①事実がまずあります。
②そしてそれぞれの主観を持った人間が70億ちょっとあります。これらの人間にはそれぞれに価値観や人生があるせいで、事実をちょっと歪んだ形で捉えてしまいます。
③かくいう自分も人間なので、主観を持った歪んだレンズです。
①のとおり純粋な事実は確かにあるが、それを誰かを通して見る場合、それは②のとおり歪んだレンズを通していることになる。なので、そのレンズがどんな歪み方(価値観、人生を持つか)をしているか把握し、それを加味して修正を加える。ちなみに③のとおり自分も歪んでいるからそれを忘れてはならない。
このプロセスを経ることで、他者を使っての客観的な理解に近づけるのではと思います。(ハッシュ=ド=ビーフ2世 )
――「ゆがんだレンズ」を複数組み合わせることでゆがみが矯正され正しいレンズが得られるということかな。
個人の経験則に基づく推測が伴って形成された信念や文は客観性を確保できない。よって、客観性を確保する対象となるのは推測を伴わない信念や文である。そして、客観性を確保する方法は正常であると判断された他人と自分が導く真理が同値であると確かめることだ。
そもそも、客観性が確保される条件は信念や文の正しさの決定が特定の個人と集団から独立されていることだ。そして、推論を伴う信念や文は特定の個人に依存するため客観性を確保できない。例えば、深夜、駅で寝ている男性を観察し「彼は不幸な人間だ。」という文を形成した場合、その文の客観性は確保できない。この文を形成する過程には、個人の経験則に基づいた推測が含まれているからだ。つまり、この個人は「駅で男性が寝ている」という事実から「駅で一夜を過ごす人はホームレスであり、ホームレスは貧困状態にあるのだから不幸な人間である」という経験則に基づく推測を行い、「彼は不幸な人間だ。」と判断し文を形成した。このような文の形成過程から「彼は不幸な人間だ」という文はその文を形成した主体つまり特定の個人から独立していないといえる。よって、客観性を確保することは不可能である。以上の例のような経験則に基づく推測が行われて形成される信念や文は客観性を確保することはできない。つまり、「駅で男性が寝ている。」のような推測を伴わず事実から直接的に形成される信念や文のみ客観性を確保することができるのだ。
そして、正常であると判断された他人と自分が導く真理が同値であると確かめることによって、その信念や文の客観性を確保できる。この方法によって特定の集団からも独立した真理の決定を証明できるからだ。そもそも、私たちは物理的に特定の集団から独立することはできない。一般人が芸能人に会えないように個人の行動範囲には限界があり、個人は特定の集団内で生活せざるを得ないからだ。そのため、特定の集団から独立して真理を決定することは不可能であるように思える。しかし、すべての人間が共通してもつもの、つまり、刺激を認知し処理する視覚や脳などの身体の組織に注目することで特定の集団と独立して真理を決定することと同義の状態を達成できる。自明ではあるが、すべての人間に異常でないかぎり刺激を認知し処理する視覚や脳など身体の組織が備わっている。そして、それらの組織が正常に機能していれば、特定の集団外の人も同じように刺激を認知し処理していると考えられる。つまり、それらの組織が正常であると判断された主体の認知や処理自体が特定の集団に捉われていないといえる。そして、推測を伴わない信念や文は刺激を認知し処理する身体の組織のみを通じて形成されるため、正常であると判断された主体の導く信念や文は特定の集団から独立した信念や文であるのだ。そのため、ある信念や文の真理が刺激を認知し処理する組織が正常であると判断された他者と同値であれば、その信念や文は客観性が確保されているといえる。
以上のように、信念や文の客観性を問う上で対象となるのは個人の経験則に基づく推測が伴わない信念や文である。そして、信念や文の客観性を確保する方法は、それらの真理と刺激を認知し処理する組織が正常であると判断された他者と同値であることを確認することだ。
――これも結局は、「正常であると判断された人」のあいだでの合意説ということかな。
プラグマティズムで客観性を確保するには、より多くの第三者の視点を取り入れることで達成されると思われる。具体的には自分以外のもう一人の他者からみてその真理・正しさを判定してもらうことを繰り返していけばいいのではないかと思う。授業中にも述べられたように、二人だけだと自分ともう一人の間でのみ正しいとみなされていることになるので、さらに人数を増やしていくことで客観性もより確保されると考える。世界のすべての人から正しいとみなされるのならば客観的に判断する第三者はいなくなるが、別の真理・正しさをとなえる集団も存在しないのでそれが一番正しいということになる。また第三者がいなくなるまで繰り返せば客観性も最大限確保されたことになると思う。しかしすべての人の意見が一致することはそもそも無いだろうし、世界中の人に片っ端から聞いて判断してもらうのも現実的に考えて無理があるやり方だと思われる。それでも、例えば二つの集団がそれぞれ正しいとみなすことが別であるときなど、それぞれの集団に利害関係を持たない公平な視点を持つ他者を間に入れることで互いの主張を理解し、どちらかの集団の方がより正しいとなったり、あるいは互いに納得できる新しい基準ができることもあると思う。そしてこれを繰り返していけば客観性を確保されたおおよそ正しいとされるような真理も生まれるのではないかと考える。
――うん、私もこの「繰り返す」という要素が重要だと思われる。疑問なのは世界中の人に聞いた結果正しいものが「客観的に正しい」と言って良いのかということ。これさえも批判される観点が必要ではないか。ではどのようにしてそのような第三者視点を導入するか。
他者との真実心理の違いがあっても事実が等しいことを理解することであると考える。例えば「人をひいてはいけない」という信念があり、「人をひいた」という事実があるとする。ひいた人をA、ひかれた人をB、見ていた人をCとすると、この人たちの信念と事実は一致するが真理だけが異なることがある。Aは自分にはひく気がなく無過失であると主張。Bは自ら逝くつもりだったと主張。CはAが過失があるように見えた。この事件が起きた世界で「人をひいてはいけない」という信念があり、「人をひいた」という事実があるならば、心理がどうであれ、「事実は一致する」ということができると考える。 (フラワーの鍋 )
別解。(事実との一致に関連しているので間違っていると思います)
二種類の他者がそれぞれに真理を提示した際、二人の位置関係を検証することで、客観的に正しい真理が導き出せるのではないだろうか。
例えば、日本で太陽が沈むとき、アメリカでは太陽が昇っている。どちらにとってもその地点では真だが、地点を入れ替えると偽になる主観的な真理である。しかし、地球の形状などから太陽の見え方などを導き出せば、どちらも同じ太陽を見ていることが認められるため、客観的な真理になる。
三角点測量的な手法で、複数の他者の提示した真理とその他者間の位置関係を検証していけば、より客観性の確保された真理に近づくのではないだろうか。
――ご存知かも知れませんが、三角測量というのはドナルド・デイヴィドソンという20世紀アメリカ哲学の重要人物が好む概念で、そのあたりと関連するかな。
まず、真理の対応説が使えないという事なので、真理の整合説を使ってみようと思いました。ただ、整合説は「一つの」体系の中で整合的である事を真理の条件としているので、客観性の「特定の個人・集団から独立して」という部分と相性が悪いです。なので、客観性は他の体系においても整合的であるとされることで増していくとして考えてみました。プラグマティズムの考え方に客観性を持たせるという例で考えると、プラグマティズム以外の体系でもそれが整合的である事で客観性を得られそうに思えます。全く異なる前提からスタートした議論・体系と整合する事は特定の立場から独立して正しいと言えそうです。よって、他の体系との整合を示すか、プラグマティズムとできるだけ無関係のところからプラグマティズムと整合的な体系を新たに生み出せば客観性を強められると考えました。ただ、他の体系との整合を客観性の条件とすると相性の悪い体系(プラグマティズムに対する懐疑論、〇〇主義に対する反〇〇主義)においては整合的で無いとされ、客観性を損ねることになります。相性の悪い体系はどんな体系に対してもあり得るので、完璧な客観性はあきらめざるを得ない欠点は解決できませんでした。
それぞれの実践で規則として機能する命題は、その実践の「主観(内部)」では誤りえない。だが、実践の「客観(外部)」では確実ではない。という晩年のウィトゲンシュタインの原理を応用(曲解)して、常識に関する命題や自身の記憶や知覚に関する命題の客観性を外部との一致によって確保する。例えば、Aが一匹の犬を見て、「あの犬は大きい」という命題(A主観)をいだく、BがAと同じ犬を見て「あの犬は大きい」という命題(B主観)をいだけば、AもBも命題が一致する。つまりAとBの命題には客観性があるといえるのではないだろうか。確かに、内部の定義が正確にできないことや正常・健全じゃない者同士の命題の一致が起こってしまい事実と違った命題に客観性が確保されてしまうことにもなるだろう。しかし、それで大丈夫なのだ。なぜなら、宗教上の神や生物といった存在に対する命題にも客観性を確保させることが可能になるからだ。「事実との一致」では客観性を確保することはできないものでも、『「内部の命題」と「外部の命題」の一致』ではそれができるのだ。このように、内部、外部の定義は何なのかという問題以外、『「内部の命題」と「外部の命題」の一致』という外部(他者、他グループ)を活用した客観性を確保する方法はうまいこと機能する。(ダノター城好き)
――ここで言われていることを厳密に理解できているとは言えないが、私が一時期考えていて結局お蔵入りになったアイデアと似ている気もするので感慨深い。
「事実との一致」に訴えず客観性を確保する方法について、私は10回目の授業で出てきた実践の内部・外部の話や、12回目のコメントシートで出てきた話(Petrosky Tomioさんのコメント)を利用するのが最善ではないかと考えます。完璧に客観的というのはなかなか達成しづらいのではないかと思うのですが、慣習や統計などからいったん規則を決め、その規則を前提に新たな理論を生み出すグループ(実践の内部)と規則自体の正誤を判断するグループ(実践の外部)に分かれて、たまにそれぞれの意見を擦り合わせることを繰り返すことで客観性の度合いが徐々に高まっていくのではないかと思いました。また、実践の外部のグループが一つだけだと意見が偏っていく危険があるので、領域の大小などで複数グループ作るのが良いのではないかと思います。(例:ミクロ経済学とマクロ経済学)
プラグマティズムの課題であるという客観性の確保についてはいつも不思議に思っており、ローティの言っていたことに近いと思いますが、プラグマティズム的な主観的正しさを重視する考え方は極論を言えば、どのような問題もある個人が良ければどんな答えでも問題ないと考えてよいように思え、ならばそのことについて考える意味はあるのかと、哲学の終焉を感じることは何となくありました。
そのうえで今回の課題である「事実との一致」の図式を必要としない客観性を確保できる方法を私なりに考えてみたい。単に他者にとっての真理・意見と一致しているだけではそれがさらに他の個人や社会と一致するとは限らないので良くないということで、そもそも客観性が確保された状態がどのような状態であるかから考えてみる。読んで字のごとく、客体が観測できている状態であると考えると、事実を観測することで真理の客観性を確保しているのがプラグマティズムでない真理の対応説を持つ哲学だと考えられる。するとプラグマティズムでは何を観測すれば真理であると他者は考えるだろうか。事実でなく観測できる文の持つ要素を考えると、私には言語しか思いつきませんでした。言語自体を観測し事実と比較しない、と考えると直前に触れていた推論主義しか出てこず、ここに解決の糸口があるのだろうと考えます。先に感想で述べているように推論主義の思考では共感せずとも理解できる考え方ができます。さらに推論主義では指示対象なしで意味を持てるということで、事実なしで他者も観測・検証できます。ゆえに、事実との一致なしで客観性を確保する方法は命題を推論主義的思考で観測することだと考えます。
――前半に関しては、ローティはそんな風に言って善かれ悪しかれ一世を風靡したのですが、「さすがにそれは言い過ぎでしょ」「哲学者の仕事がなくなる…」という反発もあって、何とかして客観性を復活させようというのが最近の流れです。推論主義の活用の所は興味深いのだけど、もう少し説明が欲しい。
そもそも、ある真理について自分自身で正しいかどうかを判断できる範囲は物凄く限られているので(宇宙の存在など)、他者が疑うことなく信じていて、自分も疑うことなくその真理を有用に使っており、かつ皆に(困難であっても)検証可能性があるならば、その真理はやはり「客観性」を持つものになるのではないかなあと考えました。例えば「一気圧で水は100度で沸騰する」という命題は、ほとんどの人が「確かめた」ことはないだろうけど、皆その真理を疑わず有益に使っていて、「確かめようと思えば確かめられるし、疑う必要性も感じていない」真理として扱われているならば、そこには明らかに客観性が存在していると思いました。勿論、「自分で確かめたこと以外は信用出来ない」という人もいるでしょうが、生きていく上で何もかも確かめることなんてできないし、そんな懐疑的な生き方は苦しくなってしまうのでやめた方がいいなと思います。全て確かめるなんてあまりにも不可能なので。
結論から言うと、この問いの私なりの答えとしては客観性を確保する方法は「その確保したい対象にどれだけ説得性や論理的整合性があれば客観性があると判断できるか」と「どの集団で客観性があると認識されれば良いか」を、その時々の状況において恣意的に定義し、そのうえで他者を活用する方法である。また、可謬主義の立場をとると真実は変わりうるため、100%「事実との一致」をするものはないと考えられ、恣意的な客観性[1]を定義することが認められる。
さて、この問いを考えるためにはまず、「客観性が確保された状態とは何であるか」「何をもって客観性があるとするか」を考えなければならない。ここで必要になってくるのがその“定義”である。一般的に客観性とは“いつ誰もがそうだと認める(納得する)性質”のことであり、いわゆる説得性や論理的整合性などと言い換えられる。この定義を用いた場合、“いつ誰もがそうだと認める“というのがどれだけの期間、どの集団の間で認められればよいかを同時に定義しなければならない[2]。そうしなければ世界中の人々がいつ何時も認める絶対的な客観性(いわゆる真実)しか認められず、相対的な客観性が認められなくなってしまう。また、相対的な客観性においてはどれだけの説得性や論理的整合性があれば客観性があると言えるのかもまたその時々において恣意的に定義しなければならない。そうしなければどこまでも客観性が求められるようになり、「事実との一致」という図式の訴えることなしには客観性を確保できなくなってしまう。
そして、客観性における説得性pと論理的整合性qはこれらを分けて考えることができ、それらの関係はq⇒pの包含関係にあるといえる。なぜならば、ある対象について論理的整合性があれば同時に説得性があると言うことはできるが、説得性があるからといって論理的整合性があるわけではない場合があるからである[3]。つまり、ある状況において①客観性が必要な時に論理的整合性及び説得性が必要な場合と、②説得性のみが必要な場合に分けて考えられるということである。①については主に法則的な事柄や慣習的に定められてきた法律、道徳、規範などが当てはまると考えられる。②については集団の総意が必要なものなどが当てはまると考えられる。
そして、これらを定義したのち、その客観性を図る方法としては、他者を用いた方法で考えられる。そして、その他者の種類を4パターンに分けて考えると、一般集団、専門家集団、外部集団、神の4つとなる。一般集団で客観性を図る場合はアンケートや投票などによってそのマジョリティの賛同を得ることがその集団において客観性があると考えられる[4]。その場合、どれだけの賛同や投票率があればしかし、一般集団では知識が足りない場合は専門家(有識者)集団のマジョリティの賛同を得る必要がある[5]。次に、一般集団では客観性があると認められる場合も、外部集団(外国人の集団など)を取り入れるとその客観性が変わってくることもある。また、集団に頼らずとも、神という他者に客観性を求める方法もある。しかし、これらの方法による求め方は集団の総意による客観性の確保の仕方であり、説得性があるが必ずしも論理的整合性があるとは言えない。論理的整合性を求めるためには観測と論理の展開、その実証によってより真実に近いものを見出さなければならない。
注
[1] たとえば、「投票率3分の2以上なら可決」「アンケートで9割が犬と答えたので犬」などの恣意的な客観性の割合の決定。
[2] 集団の範囲を定義してしまえば、ガキ大将の問題は発生しない。ガキ大将の問題が発生するのは、外側にまだそれ以外の集団がいるはずだとしてしまうからである。
[3]例えば「給食の牛乳はみんながそう言っているから、飲むべきだ」という説得性は、必ずしも論理的整合性が付随しているわけではない。
[4] AIで統計を出す方法なども一般集団であると考えられる。
[5] かつて天動説から地動説へパラダイムシフトしたように、有識者のマジョリティが賛同しそれが客観的に正しいと考えられていても、真実のマイノリティが観測と実証によって論理的整合性を唱え客観的な正しさが逆転する場合もある。
プラグマティズムとは、人類そのものを表す、もしくは人類を肯定しようとする思想であると考えます。プラグマティズムの特徴として可謬主義と反懐疑主義が挙げられるが、「間違うこともあるよね。でも、そのたびにまた更なる進歩があるかもしれない・・・・。批判されるかもしれないけど、それでも実践の内部、もしくは私的な事柄・異常 障害によっての誤りは「誤り」ではないというスタンスのもと実践を重ねていくのだ。」という志向が感じられる可謬主義と、ウィトゲンシュタインの哲学にみられる、「誤り」という概念は「正しい」という概念との対比において成立する、つまり全面的懐疑論は成立しないそして、帰結は同じであるのにもかかわらずそれに至るまでの経路をただ思考するだけの形而上学を否定し、完全主義の裏返しで完全な社会・他者・権威を求める反懐疑主義が、これまで数々の過ち、虐殺、格差問題を引き起こしている人類に対し、これらの問題にコミットメントさせようとしていると考えます。また、これまで人類は様々なパラダイムシフト、思考の転回を繰り返してきましたが、この歩みを絶対主義や相対主義よりも的確に指摘していると思います。プラグマティズムは一見すると「有用であればなんでもOK」という思想であると捉えられるかもしれないが、その時に重要なのは他者に対するコミットメントであると考えます。他者に対して自分の思想・発言・行動に対して責任を持つことでたとえそれが100年後には事実ではなくても、その場でのやり取りの中、その実践の内部では事実となりえると考えるからです。
プラグマティズムとは哲学を民主化した思想だと思います。近代以前の哲学ではアリストテレスやカントなどの偉大な哲学者がいて、その次に思想がありました。そしてその思想が非常にユニークなものであり、世界と観念との関係を興味深い視点で考察しています。どうしてそんなことを思いつくのだろうと感心してしまうものもありました。そのため、手の届かない、どこか高尚なもののように感じてしまいます。
それに対してプラグマティズムは、誰でも考えることができるものを目指したため、奇抜なアイデアを生み出すことではなく、アイデアにたどりつく考え方に重きを置いてきたのかなと思います。実際、言葉が何を表しているのかではなく、何を意味しているのかに力点を移していきました。その結果、近代以前の哲学以上に理屈っぽい、数学的なものになった。つまり、直観的に理解することが難しくなった代わりに、手順さえ守れば誰でも同じように哲学に参加できるようになったのだと思います。参政権をもつ人々は投票という手続きさえ守れば、誰もが政治に参加できるのと同じように、です。
だからプラグマティズムは、近代以前の一部の人だけのものだった哲学を民主的なものにしたものなのではないかと思います。
推論主義も面白いと思いましたが、個人的には近代以前の直観的なアイデアや視点を提供してくれる哲学も好きだったので、もうそんな思想は出てこないのかなと思うと、少し物悲しいです。
概念的ではあるのですが、プラグマティズムはどんな個人も許容してくれる思想だと考えた。人間は孤独で、自分の世界を認めてくれる人、理解してくれる人、同じ世界を持つ人を求めているが、自分をすべて許容してくれるような完璧な存在はそう簡単には現れず、プラグマティズムはそんな人間を支えてくれるようなおおらかな思想だと思った。それゆえに形而上学的にもなるし、「実践に役立つものが真」であったり、「ペガサスが庭にいる」という文でさえ真になり得てしまったりという面からもそのように感じた。だからウィトさんみたいな個性的な人(ぶっとんだ人)の哲学も結果的にプラグマティズム的になったのかなと考えたり、、、。
個人の観念や他者理解を含有して実行できる、あらゆる主義の中間にいるような柔軟性のある哲学。
プラグマティズムとは、チューニングの思想だと考えます。どんなに完璧に調整されたピアノの音も時が経てばだんだん狂ってきます。それを耳馴染みにいい音に調整するのがチューニイングです。この良い音は今チューニングされたのであれば、2022年の人間にとって良いう意味ですが、未来でも同じとは限りません。例えば、100年後、生存環境が変わることで進化したために未来の人間の耳にとって心地よい周波数が変われば、チューニングのする際に良い音とされる基準もその未来の人間にとって良い音に基づくと思います。なぜなら、2122年でピアノを弾く人間にとって有効な音にチューニングされるからです。こう考えると、今の基準でチューニングされた同一のピアノが、100年後には、その時代の実践で有効なチューニングの仕方で異なる音を奏でているかもしれません。しかし、どちらもチューニングされたピアノであるので、音の保証は担保されていると思います。私はこの捉え方がプラグマティズムにも当てはまると考えます。つまり、プラグマティズムは、絶対的な真理や客観性の根拠とすることは難しいかもしれないが、それに近づく方法や視点を提供してくれるというものです。それまで真理や客観性と見做されるものが、場所や、時間・時代によって合わずにぐらぐら揺れた時に(音が狂うように)、否定するのではなく、実際の実践現場から、その時々に有効であるようにチューニング(調整)できるという可能性を与えてくれるのがプラグマティズムだと思いました。これまで絶対的な真理であると考えられてきた説の一つに、「人間は誰しもいつか必ず死ぬ。」というのがあると思います。今のところ不老不死の技術は確立していないので、この説は現段階では真だと言えます。しかし、現代社会では技術がめざましく発展し、未来においてもこの説が真であるとは限らないと思います。例えば、まだまだS Fに基づいた考えですが、人間の意識をデータ化して、肉体的には死んでも意識はコンピューター上に存在する場合と、IPS細胞の技術がさらに発展して、自分の細胞から自分と同一の遺伝子構造を持った臓器を作ることができれば、肉体的に老いても若い臓器の移植を繰り返すことで、身体的老化を防ぐ場合などを考えてみます。この場合、「人間は誰しもいつか必ず死ぬ。」とは一概に断言しづらいと思います。そしてこの時に、プラグマティズムの観点で死について考えてみます。意識のデータ化は、たとえ肉体がなくても意識があれば本人や周りの人間にとって有用であれば、それは「死」ではなくなると考えられるかもしれません。もしくはやはり身体的接触やリアリティがないと有用でない場合にはそれは「死」であると言えるかもしれません。今ここで行っている議論はかなり粗いですが、主張したいのは、「死」についての定義が現在と未来で一緒とは限らないということです。そして、その場合にどうやって「死」という概念に向きあうべきかについて、その時に実際に生きている人々の実践から、ヒントを経て調整する役割としてプラグマティズムの思想は役立つと思います。プラグマティズムは可謬主義でありますが、この特性を活かして真理と言われるものをいつの時代でも、どこの場所でも良い感じに適合させることがプラグマティズムの強みではないかと思いました。
先生が求められている解答とはかなりずれていると思いますが、プラグマティズムとはずばり「親しみの持てる哲学」だと思います。私は、神などの実体のないものを対象とする形而上学的な哲学は、親しみを持つことはできません。想像をすることはできますが、単なる想像にすぎないように感じてしまいます。実体のあるものを対象とする「プラグマティズム」は、ずばり親しみやすいと思いました。
「現実に裏付けられた温度を感じる哲学」だと思います。最初のうちはプラグマティズムを現実的な冷たい感じなのかなと思っていたけれど、むしろ身近で確かにそこにあるなという印象に変わりました。(もなー)
白川先生の授業を受け、プラグマティズムは一人称「私」の哲学だと強く感じた。ウィトゲンシュタインの確実性は、私の正常性を前提にしている。ブランダムの推論主義では、自身の発言が及ぼす影響、受け止めるべき責任について学んだ。そして近年のプラグマティズムは客観性の確保を課題としている。私は哲学を難しいものと思っていたし、今でも分からないことはたくさんある。しかしこれまで講義を受けてきて、「プラグマティズムは机上の空論だ」という感想は一度も抱かなった。それはプラグマティズムを毎回自分ごとにできていたからだと思う。「人生は壮大な自己満」と考えている私からすれば、客観性の確保はさして重要ではない。プラグマティズムにはこれからも100人に当てはまる普遍性ではなく、1人が納得できる確実性を訴えていってほしいなと思う。
「それが自らにとって都合が良いならばそれを正しいとすれば良いではないかという誰しもが抱く感覚に素直に従いつつ、それがただの自己中心的・独善的なものにならないようにするために様々な観点から補強を試みた」思想であると考える
真理を導く中での「過程」における真理を見出す思想であると考える。真理がいかにして真理になるか、それは何故か、そして、その真理は有用性を孕むかなどと、真理を導く過程において真理を追求するからこそ、キリがなく終わりのない追求の学問となるのではないだろうか。真理を導く過程の真理、その過程の真理を導く真理、などと果てのない思想。
プラグマティズムとは一体どんな思想なのかズバリ述べるとするならば「妥協の哲学」と言えるのではないだろうか。プラグマティズムは実用主義と呼ばれ、その人にとって有用であれば真であるなど主観的な視点に立つことが多いが、古くから哲学が培われてきたヨーロッパ的な形而上学的哲学を否定したのである。この否定はこれまでの哲学の捉え方を一新するものであったため当然他の哲学者からの批判もあったであろう。しかしながら、科学技術の発展に伴い実学的な研究が重視される時代になったことにより、哲学もこのような変革を迫られたのだと思う。たとえ哲学者としては無意識であったとしても、時代の流れに応じた哲学を発達させた、そういう意味での「妥協の哲学」である。プラグマティズムの発達の頃には哲学の本質だけを探究できる時代は終焉を迎えたのかもしれない。しかしながら、時代の流れに応じた哲学は本当に哲学といえるのだろうか。そもそも本当の哲学とは何なのだろか。ここからメタ哲学が発達したと考えると、益々プラグマティズムはその足掛かりとなる「妥協の哲学」として述べることができると感じた。(T.T)
この授業で、今まで興った様々な思想を交えながらプラグマティズムを学び、「飽和した末の哲学」という印象を受けました。 絶対的真理を追ってきた哲学を経て、結局そんな真理はないと結論付けたので、こんなことをいうのは大変失礼かもしれないけれど、錬金術は失敗したなと、お伽を暴いたなと、そんなふうに感じてしまいました。主観的だと言われるプラグマティズムですが、ある意味一番客観的な思想だと思います。(あらゆる哲学者に悪口を言ったようなコメントになってしまいましたが、私はどんな思想も面白くて好きです。)
プラグマティズムとは、誰でも始めることができ、どこまででも行ける自由な思想だと思います。実用主義であるプラグマティズムは、身近なものから考えることができる上に、人それぞれの考え方がありの多元的真理観で自由さがあり、最も哲学らしくない哲学だと感じました。(非公認会計士)
今、月9で「ミステリという勿れ」というドラマがやっている。その中で、菅田将暉が、冤罪を引き起こしたと世間で騒がれた刑事に対して「真実は人の数だけある。でも事実は1つだけだ。あなた(刑事)の真実はどうでもよくて、被疑者の真実、目撃者やその他の真実に目を向けなければいけない。被疑者は本当に罪を犯していたのか。たった1つの事実は何なのか。」と言っていた。(うろ覚えですが)
これは、他者理解への含意に通ずるものがあると思った。人には人の哲学があり、自分の推論体系をもって人の話を聞くだけだと、偏見を持ってしまい、その人の真実を理解できなくなってしまう。刑事が取り調べをするとき、クロだと決めてかかって圧迫しているのをよくフィクションで見るが、それは推論主義的にはいまいちだと思う。刑事がするべきなのは、被疑者の推論体系を把握し、有罪ならばなぜ罪を犯したのか理解すること。あるいは無罪ならば、なぜ自分はクロだと考えたのか、証拠となるものに対する理解は十分だったかを考えることである。と、推論主義の良さby白川を聞いて思った。 また、他人とのコミュニケーションが難しいと感じるのは、合わない人に対して無理に「共感」「同意」しようとするからではないかと考えた。推論主義によれば、合わない人を「異質な他者」だと認めてしまえば、かえって理解しやすくなり、円滑なコミュニケーションがとれるのかもしれない。
――後半部分は名言っぽい。
推論主義について、相手が認める推論体系の把握をすることで相手の考え、言葉の理解に共感、同意が必要なくなるというのは、確かに便利だと思いました。正義について考えるとき、例えば代理母の是非や、累進課税や所得税の是非など対立する思考がこの世には乱立していますが、どれが正しい、間違いなのかを決めるというのではなく、そういう考えもあるよねというスタンスで、ただコミットメントに注目してそれらを俯瞰すればよいというメッセージを感じました。
――「ただコミットメントに注目してそれらを俯瞰すればよい」というのがよい。
今回授業で話した推論主義の面白みである俗っぽく面倒な言葉を捉えられるという点で、地域・文化によって意味が異なるというところにとても同感です。自分は初めて日本人と交流している時、相手が「今度日本に来たら、また、一緒に食事とかしましょう」といてくれてすごく嬉しかったけど、実際に日本に行ったら、本当に相手を誘ってもいいか、それとも、相手が忖度してこの話をしてくれたかとすごく悩んでいました。結局、勇気を出して誘てみて、成功しましたけど、これは本当に正しいか、私今でもわかりません。
――「これは本当に正しいか」という点ですが、推論主義的に言えば、相手の日本人が「正しさ」を決定するわけではないので、あなたが相手を説得してそれが「正しい」ということにすればいいのです。これが異文化交流の面白みですよね。どちらかが一方的に正しいというわけではないのだが、その場その場でとりあえず正しいものが決まるという。
部活動の忖度については、私自身もよく経験したことであると感じた。中学校に入学したての頃は、今日は自主練なので、参加するかは個人に任せます。という連絡が来た時、参加しなくてもいいのかと素直に捉えて、参加しないことがあった。しかし、次の日に部活動に行ってみると先輩は全員参加してるのに、1年生は参加していないのはなぜか、やる気がないのか、と説教された。何と分かりにくい連絡だと思ったのを覚えている。参加しなければ怒られるのであれば、それはほとんど強制参加である。それから私自身が先輩の立場になった時には、後輩が怒られるのを見たくなかったことから、自由参加は強制参加って意味だよ、と教えてあげるようにしていたが、今思うと1度理不尽な怒られ方を経験しておくのも必要なのかもしれないと感じた。
――ほんと「自由参加」と言うことで、ある種の責任は回避しているので嫌ですよね。
「そんなつもりはなかった」としても自分の発言の「帰結」には責任が生じるという話について、自分の発言を曲解した「帰結」(いわゆる「クソリプ」)に対しても責任が生じるとすると結構しんどいなと思いました。
例えば「プリン美味しい!」という発言に対して「ゼリーは不味い」という推論の仕方をする人がいた場合です。個人的には「プリン美味しい!」に対して「ゼリーは不味いってことですか?」なんて返答があれば責任など放り出して「お前の頭をプッチンしてやる!」と大暴れしたくなるのですが、暴れる自分を想像しながら、ふとそもそもここで言う「責任」とはどういう扱いをすればよいのかがよくわかっていないことに気づきました。
発言に「責任」が伴うのであれば意図していない帰結に対して「それは違うよ」と言う「権利」もあるのではないか、もしくは相手の誤解(ある人の推論を「誤り」とするのは不適切な気もするのですが)を正すことこそが「責任」を果たすことになるのだろうか、と様々な疑問が浮かぶばかりでよく分からなかったのですが、「責任」とはどのようなものだと捉えればよいのでしょうか。(どつぼに嵌ってしまった感があります、的外れなことを聞いていたらすみません)
――「社会一般が適切と認めるような帰結」には責任が生じると言えるでしょう。だから「曲解」によって導かれた「帰結」には基本的には責任を負う必要はありません。そんなものには責任は負う必要はないと抗議する「権利」があります。ややこしいのは、「社会一般が適切と認めるような帰結」は容易に変化するということです。あるいは、コミュニティごとでもずいぶんと異なります。自分には「曲解」と思われるものであっても、そのような曲解に支持者が増えていけば、適切な推論とみなされるようになる可能性もあります。ここでは「推論」や「意味」に関するいわば権力闘争がなされるということであります。
今回の講義では、推論主義のいい所が取り沙汰されていたように思いますが、私は部活動のキャプテンの例や京都人の皮肉の例のところは、あまり好ましく思えませんでした。
以前お話があったコミットメントの引き受けという考え方は、自分の発言、ひいては思考に至るまで責任を負い、自身に責任が帰属するという認識を与えるもので筋が通っていいと感じましたが、忖度の強要や皮肉は、コミットメントを引き受けないことと同義に感じ、正直嫌いです。続けておっしゃっていた「そんなつもりはなかった、は通じない。その発言による全てに責任を負うべき」という考え方を忘れてはいけないと感じました。
ですが、同時に受け取り手が捻くれた人や悪意のある人だった場合、発言の曲解によって貶めることも可能です。発言の意味は結局多数決で決まるような所があるので、大衆を扇動してしまえば「そんなつもりはなかったは通じないんですよ!」の一言でトドメです。
なので、聞き手側もコミットメントの引き受けを意識すべきなのかなと思いました。コミュニケーションは人と人との間のことなので、片方にコミットメントが集中するのもおかしく、双方に帰属すべきものです。
推論主義の良いところで、異質な他者への理解について言及がありました。私はこれを他者への「納得はできないけど理解はできる」の考え方が良いよねというふうに解釈しました。
先の聞き手側のコミットメント引き受けの考え方は、初めに誰かの発言を聞いて受け取った意味でキレ散らかすのでは引き受けておらず、相手の背景を推し量り、理解したうえで納得できないとバッサリいくのならコミットメントを引き受けている。こうすれば推論主義を良いレンズとして、良く生きていることになるので、自分はそうやって生きようと思います。(ハッシュ=ド=ビーフ2世 )
――話し手と聞き手の両方のコミットメントの引き受けが大事というのは同意。最近見た「新聞記者」というドラマで「君が総理夫人に勝手に忖度したからこの問題が生じたんだ」というセリフがあったが、とても興味深い。意味の責任問題は、次の現代文試験の目的とも関わる。
今回の講義は初めに推論主義について学びました。推論主義はこれまでの14回哲学のことをたくさん学んできた中で最も身近で理解しやすいという印象でした。特に具体例として挙げられた「野球部のキャプテンの話」や「ピアノの話」や「失言の話」などのおかげでとても理解しやすかったです。もし、自分がその状況に置かれたときにどんな反応をするか考えながら学ぶのが、国語の問題を解いてるような感じがして新鮮で面白かったです。
――しばしば現代文の入試問題って「著者でさえも間違えることがあるのだから変な試験だ」なんて批判されることもありますが、その批判はおかしいですよね。「現代文は出題者の意図を当てるのだ」などと言われることもありますが、これもちょっと違いますよね。そうではなく、その文章が「社会的に」どのように理解されるのかが問われています。社会的な意味は、もちろん著者や出題者が一方的に決めるものではなく、聞き手や読み手を含めて社会的に決まります。おそらく全員一致することはないでしょうが7~8割は一致するでしょう。この7~8割が答えるであろうことを把握できているかが問われているといえますが、そう考えると現代文は多数派を選別する試験だと言えるかもしれません。
私は京都に住んでいるので、ピアノを褒められた時にはうるさいですよという皮肉が込められていることに気づくことができた。京都人は皮肉を遠回しに気づかせてあげるという意味で品位のある行動だと考えている。このように京都人には上品に見せかけた上から目線な行動が多々見られるように感じる。(自分が京都人だからそう感じるのかもしれませんが。)他にも「ええ時計したはるなぁ」と言われたら、「そろそろ帰ってくれ」という意味だったりと多くの皮肉がある。
京都のピアノの返し方、授業では書きませんでしたが自分なら「ずいぶん長いこと聞いててくれているんですね。ありがとうございます。」って返すと思います。(ダノター城好き)
――さすが。今後参考にしよう。
京都に21年住んでます。ピアノ上手にならはったなぁみたいなやつは、正直性格の悪いおじいちゃんおばあちゃんしか使わないと思います。あとは俗に洛中と言われる所に住んでる人くらいじゃないでしょうか。ただただプライドが高いだけだと思います。田舎に住んでるのでわかりません。(多分こういう卑屈っぽいところが京都っぽいのかなとは思います)
――洛中の人は使うですね。こんは発言はさすがに都市伝説かと思っていたのですが。(これも皮肉?)
京都人なので、京都人の皮肉的な推論が僕も好きです。自分が直接言うことは気が引けるが、相手が推測してくれると責任転嫁というか、自分が言った感がないので、そうするのだと思う。
――「自分が言った感がない」という点がポイントだな。
私は京都人なのですが、京都人が今皮肉を言ってるなって分かってて敢えて満面の笑みでありがとうございますって言うようにしてます。その時の相手の「そういう意味で言ったんじゃない」って顔を見るのが好きです。この場合の「ありがとうございます」も皮肉になるのでしょうか?
――うん皮肉なんでしょうが、その「ありがとうございます」にはどんな意味が込められているんでしょうかね。
非京都人(?)の見解
「最近ピアノが上手になりましたね」と京都の人が言ったら言葉の本当の意味は「ピアノの音がうるさい」であり、言葉を推論しなければならないと講義で紹介されていましたが、たとえ親しい間柄で、ある程度性格を理解している人に言われても自分は気付かないと思いました。もし、隣人が弾いているピアノの音が壁越しでも聞こえていると感じて、自分もピアノを弾く趣味があるから私のピアノの音も隣人に聞こえているかもしれないという経験をふまえて、隣人から「最近ピアノが上手になりましたね」と言われたら、もしかしてと推論に行き着くかもしれませんが、これくらいの条件が重ならないと私なら推論に行き着くことすらなく、言葉の意味をそのままとらえてしまうと思いました。
――いや、それで良いのだと思います。ピアノの例はほとんどネタ的なものなので(そうですよね…?私は京都に15年くらいしか住んでいないので真相はわかりません…)、あまり真に受けるとよろしくないと思います。
講義で、相手が認める推論体系の把握をすることが相手への理解となるので、理解に「共感」「同意」が必要なくなるから異質な他者との相互理解が必要[可能?]とおっしゃっておられましたが、推論体系の把握のみで理解すると換言することが出来るなら、それは本質的に理解したとは言えないのではないでしょうか?
先生は最初に「哲学を理解の仕方は、気持ちを共感すること」とおっしゃっておられましたが、それと矛盾することになるのではないかと思いました。推論主義はそのようなものなのでしょうか…?(ピンチヒッター二岡)
――鋭いね、あなた。このままだと矛盾している。以下に訂正。共感的に理解できるのならそれに越したことはない。しかし共感できなくてもそれで諦める必要はなく、推論体系を思いを馳せるという理解の仕方もあるぞ。「文化人類学的な理解」と言ったのは、後者の意味。
他者理解への含意に関して、相手の理解に「共感」や「同意」をする必要がなくなるということはわかったのですが、相手が考えている推論体系の把握をするために、具体的にどういうことがありますか。相手の推論体系を把握するためには、なにかアクションを起こさなくてはならないと思うので、初めから他者理解をすることは不可能ですか。
――相手の言っていることや書いてあることを、「わかるー」「その通り」「間違っている」等の評価なしに「なぞる」ということかな。一見して「無理」な相手の話を聞くことや、意味不明な哲学書を読解することで、その力は鍛えられるはず。実際、以下のようなコメントがあります。
「帰結を考えながら話をする」が印象に残っています。今後の自分の人生にも特に役立ちそうです。他者理解への含意ですが、確かに理解すること自体に共感はいらないと思います。私自身もこの講義を通して様々な哲学者の考えに共感こそあまりできませんでしたが相手が認める推論体系を把握することはできた気がします。共感できる部分もあって、確かに私も友達と会話する際、踏み込んだ話をするときは相手が何を言うか考えながら予防線を張って話す傾向にあるのでそこは自然に受け入れることができました。
相互理解の話が出てきて推論によって理解に「共感」や「同意」が必要無くなるというのは斬新な考えでした。推論は想像力と似たニュアンスでしょうか?
――「相手の推論体系」を把握する際には、想像力も必要になりますね。しかし何かを想像する際には「自分基準」が入ることも多いので、理想的には「自分要素をゼロ」にする必要があると思います。
推論の面白さが僕には哲学ぽくないなと感じました。個人の性質が推論に反映されるのは、確かに俗っぽい面倒な言葉を捉えることが出来るという利点がありますが、規則的に(数学的に?)思考する哲学の方が個人的にはわかりやすくて好きです。個別の事象に踏み込んでいける推論のような哲学よりは、概念の外枠や思考の大枠を捉えて大きな視点で捉えていく哲学の方が好みだなと感じました。もちろんそれは推論がダメだと言っている訳ではないのです。
――哲学を「俗化」し過ぎたかな?
授業中にゆーきやこんこんが流れてきましたが、この時に我々日本人は(私は日本人では無いですが)「あぁ冬が来たなぁ」と思う事でしょう。これも何か哲学的な現象なんでしょうか。あとは今思いましたが、私たちが〇〇人だというのも、自分達の勝手な解釈であり、明確に言うならば何をもって我々は自分を〇〇人だと定義付けるんでしょうか。
――一般的な話として何らかの目的のもとに「差異」をつけたくなるときに人は「定義」をするものですから、差異を付けると都合がよいことが色々あったんでしょう。
今回の授業は哲学の授業っぽくなくて、わかりやすかったです。(非公認会計士)
――おもろい。
先生が男はつらいよが好きということで第一作目をみてみました。面白かったです。生まれてもいない時代の映画なのにどこか懐かしさを感じる帰郷とドタバタ劇に魅了されました。教えていただき、ありがとうございます。
――個人的には、6, 8, 9, 10, 11, 13, 15, 17, 22, 25, 30, 32, 34, が好き。
私は現在4年生で、就職活動をしました。そして再び大学で専攻を変えて学ぶことを決めました。就活と大学の受験勉強を同時並行でやっていたのですが、就活でのエントリシートやその職場でやりたいことを考えるうちに、これまでの経験で感じた疑問やもっとこうしたら良いのにという改善点が見えてきました、そしてそれを実現するためには大学でその分野について勉強する必要があると思い、学生を続ける道を選びました。世間では、新卒で働いた方が良いとか、文系で学問を極めても就職が難しいといったいわゆる一般論があります。しかし、プラグマティズムのその人にとって有用なことが真である、という視点で考えれば、私の進路選択は自分にとって有用であるので、大学で再度学ぶというのは自分には真である選択といえると思います。そしてこの選択は、これまでの人生経験や就職活動を実践していないと、気づきもしない、やろうとも思わなかった選択だと思います。就職活動や進路選択は私にとってまさにプラグマティズムの実践でした。
――すばらしい。だいたいの人は一般論を言うときには深く考えていないので話半分に聞いておこう。研究者の就職が厳しいというのは最近では世間的にも問題視されていることであり、我々としても改善に向けて一歩一歩進めているところなので、将来は良い状況になっていると信じる。
授業後に白川先生の乱文(ブランダムの規範的語用論について)の一部を拝見しました。
――「乱文」は笑える! 「論文」の間違いということでよろしいでしょうか。
今回の講義はブランダムの言語理論の推論主義のでしたが言語=理由の空間でやり取りする道具ではなく、言語=世界を表すものであることや言語実践を規範的地位や規範的態度で捉えることなど所々理解・共感できる箇所が今までの哲学者に比べて多くありました。
――逆で「言語=世界を表すものではなく、言語=理由の空間でやり取りする道具」です。
その推論主義のコアの規範的語用論の中で言語実践を規範的地位と規範的態度で捉えるとありましたが、この両者の関係性がいまいち理解できていません。コミットメントの引き受けまでは理解できましたが、それが資格の帰属とイコールで繋がることがなぜなのか理解が難しいです。ぼんやりとしかわかっていない気がしています。理解が足りずすみません。
――「コミットメントの引き受け」=「資格の帰属」ではありません。例えば、私が授業中に「来週は対面授業はしない」(P)と言えば、それに対してコミットメントを引き受けます。それに対して責任を負います。学生さんは「へえなんでー?」と思うでしょう。それに続けて私が「来週は試験会場の設置準備で大学に入れないからです」と言えば、皆さんは私がPと主張する資格があるとみなすでしょう。しかしもし私が「移動が面倒になってきたからです」などと言えば、Pと主張する資格はないとみなすでしょう。このように、コミットメントと資格の有無は独立に判定されます。
反表象主義については、未だに理解に苦しむところはありますが哲学は世界を正確に表象するものの探究という前提のもとで成り立っているということは納得しました。
――反表象主義は、「これまでの哲学は世界を正確に表象するものの探究するんだという表象主義の前提に立っていたからダメだ」という立場です。
「規範的語用論」は、いわば「辞書的な意味」という理解で良いのか気になった。
――いや、辞書的な意味ではなく、それぞれの現場の規範的なやり取りを記述しようとするものです。
規範的語用論がよくわかりませんでした。言葉は主張に対する責任を負い、主張に対する責任の正当性を得るために用いられる、のような解釈で良いのですか。
――そういう理解でOK。
規範的地位や規範的態度という専門用語からなる規範的語用論の理解は難しかった。会話は責任、正当性の投げ合いと考えればいいのですか?それでなければ会話は成立しない、もしくはその会話から離脱するという理解であってますか?
――そういう理解でOK。しかし他の人が疑問を提示しているように、そのように規範的なものを強調すると、とりこぼしてしまう会話もたくさんありますね。
今回学習した推論主義だが、ノートを見返してもいまいち概要が掴めませんでした。私なりに1時間ほどかけて理解しようとしたのですが、以下の解釈であってますか?「Pである」という言語に対して、「なぜ?」という疑問が問いかけられる。それに対して、「なぜならQだから」という説明を行う。この「なぜならQだから」が、最初に提示された「Pである」を正しいと結論づける根拠になっている。「なぜならQだから」は、「Pである」という言語が正しいことを保証する責任を背負っている。つまり「なぜならQだから」を示せない限り「Pである」の正しさは証明できず、言語的な正当性は認められない。未知の事柄を論じる際に、命題の根拠を提示することで言語の正当性を証明するのが推論主義である。すみません、難しかったです。もしとんでもなく的外れなことを言っていたら、メールでもコメントでもいいので訂正いただきたいです。
――だいたい良いのではないかと思います。推論主義が重視する言語実践は、「規範的な言語実践」=「理由を与えたり求めたりするやりとり」=「『理由の空間』でのやりとり」ということです。
言語とは、対象を指示するものであり、それが正しく指示できているかに議論が終始していたため進退窮まるという感じであったのが、言語を「理由の空間」でやり取りする道具としたことで、可動域が増えて議論が進展しそうな感じがした。以前は、言語に過度に重要な役割を担わせていたが、プラグマティズム的展開で言語の担う役割が少しカジュアルになったと思った。 規範的地位と規範的態度で、一個人の具体的なコミュニケーションを抽象化、記号化し、巨視的に言語実践を捉えることができそうだと感じた。
推論主義のお話の中で、我々は「理由の空間」で生きているとして、言語を理由の空間でやりとりする道具と捉えるという説は僕にとっては1番しっくりくる。推論的意味論も興味深いものだった。推論的意味論とは、ある文章中の意味はその文と他の文との推論関係にあるとする考え方だが、大学で履修した論理学とも一部共通するものがあり、知っている事柄が出てきたので他の話と比べると分かりやすかったように思う。
――推論主義と一番相性がいいのは論理学の用語(「かつ」とか「または」といった論理結合子)なんです。
規範的語用論についてです。私は大学のとある部活で主将を務めています。それゆえミーティングなどを主体となって進めていかなければなりません。コミットメントを必ず意識しなければならないため、私も先生と同じように毎回緊張しています。なかなか意見を出すにしても、進め方にしても参加者に適切だと認められることは難しいです。参加者に適切だとみなしてもらうため、自然と規範的語用論のするよう意識していたので、授業とは逆の流れですがとても理解ができました。規範的語用論は難しく、この形をとるためには言葉一つをとっても深く時間をかけて考えなければいけません 。
今日の講義を聴いて,言語の価値の重大さを認識しました。実は私は昨日,ある先輩から言われた一言でとても落ち込んでいるところです。先輩からその言葉を言われたとき,とても傷ついて言葉が持つ力の大きさを痛感していた所でした。推論主義のコアの内容において資格の帰属という言葉が出てきたとき,私たちはが発した言葉には責任が伴うものであると感じました。
理由なしにダラダラ生きているのは人間的ではないとも思いました。正月の私は人間ではなかったかもしれないです。
プランダムさんの推論主義はとても興味深いものだった。PならばQ。だからQ。に当てはめ、「○〇だ。なんで?△△だからだ。確かに」で式の理解を深めることができた。PならばQの公式が仮に間違えているものであればQをいう権利を剥奪されてしまう点に着目して自分で論理つけてみた。
私は12回の哲学Ⅱの授業を受けたがコメントシートを提出することを忘れてしまったため、出席したという証拠がない。しかし、なぜ授業を受けたといえるのかと聞かれたのならば、「ローティさんの反表象主義について学修したから」ということができる。一方で、授業を受けていない人がコメントシートを授業予定のものに合わせて提出した場合、その人は出席した証拠をコメントシートによって伝えることができる。しかし、同様になぜ授業を受けたといえるのかと聞かれたのならば、授業と異なった回答があるかもしれないし、現に先生は授業に参加していないと判断し、後者が授業を受けたという権利を剥奪することができる。
哲学的に考えなければ、一言で表すことができることも、哲学的な考えることで、哲学の面白みである「良いレンズ」を覗くことができるということも同時に理解することができた気がする。
また、哲学者一人一人、考えていることが異なるという点に趣を感じた。前回の授業のローティさんの反表象主義とプランダムさんの推論主義をとっても、反表象主義は世界を正確に表象することを否定する哲学であり、一方で推論主義は表象とは別に言語を活用して事実を正確に伝え、事実対象=意味とあらわす哲学であるため、まったく異なる考えについて学修することが面白いと思った。また、このようにして様々な哲学者の研究を知ることで、自分の世界を見るレンズが多様化し、今まで以上に様々な箇所に目を向けて生活できる喜びを得た。 (フラワーの鍋 )
今回主に扱っていた推論主義についてかなり興味深いと感じました。今まで習ってきた考え方は事実対象を観測している人がどう見えているのかということに重きを置いている考え方が多かったのですが、今回の考え方はその人の中だけでなく、他人が同意するかどうか決めるという他者の存在あるのがいいなと感じました。人は社会的動物であるということは常々言われていますが、自分の中だけでなく他の人がどう思っているのかも日常生活の中で大事な指標なのでようやく素直に納得できる考え方が来たように感じました。また、正当化というよりもその人たちの理由の空間の中では正しいと言うことができるという考え方は少数派、異端な人たち(精神疾患を患っている人たちなど)にとって良いなと感じました。ただ、今回のこの規範的語用論は陰謀論者などのコミュニティにおいて自分たちの思想をこじらせ、傷のなめ合いをする閉鎖的な空間が出来上がってしまうと感じました。思想を受け入れるかどうかは置いておいて陰謀論者やカルトの構造に似たようなものがあると感じました。
メールを送る直前に思い出したので文に組み込むことができなかったのですが、この理由の空間はウィトゲンシュタインの確実性についての考え方に似ていると感じました。(降伏論)
――推論主義のメリットと問題点をよく捉えている。
規範的語用論の話は、言語は世界と自分の間にあるものではなく他者と自分の間にあるものだと認識しているのがよく伝わってきました。他者の評価が合っているとざっくり書きましたが自分の発言に正当化する責任を持ち、他者からのなぜ?(掘り下げ?)に対して他社が正しい、納得だと思うように言語で説明し、それで資格の帰属ができるというプロセスがあるのが分かりました。 (もなー)
「理由の空間でやり取りする道具」である言語を用いる事で発生する「コミット」についてですが、この話を聞いたときに自分は、ネットの匿名性の異質さ、というものを強く意識させられました。言語を用いるうえで、コミットというのは対応する相手がいるからこそ発生するものだと思います。聞き手が明確に存在することでその二者間でのコミット、いわば「責任」が発生するわけですが、ネットでは片方の話者しか明確には存在しないので、このコミットの形成が不完全になるのかなと推測しました。コミットが発生しないことを、理論ではないにしても肌感覚で理解している匿名者たちは、本来のコミュニケーションではありえないような言語を使うことができてしまう。ここがネット社会と言語の間にある危険な問題なのだと思わされましたし、今回の授業を聞くことで、その関係をより具体的に理解できたような気がします。
今回の推論主義は理解することが難しく、板書ノートを何度見返しても要点を掴むことができませんでした。しかし、わからないなりにふと思ったことを書いていこうと思います。ちょうど今週に提出し終えた卒論の内容はAIと対話教育についてです。私は、AIは教師の役割を担えるのかという問いに対し、教師の役割としての対話を論点にしました。そしてAIには対話ができないので、対話の役割はやはり人間の教師にしかできない、故にAI時代であっても人間の教師の役割は失われず、むしろ重要であるという内容で書き進めました。そこで、AIが対話をできない理由として、サールの「中国語の部屋」とシンボルグラウンディング問題に焦点を当てました。これらの論点を踏まえた主張を簡単にまとめると、一見AIは対話しているように見えるが、AIは記号化された表面的な言語を発しているだけで、その言葉の本当の意味や概念を理解しているわけではないので、実際には対話をしているとは言えない、というものです。しかし、ブランダムによる推論主義はこの主張の反論になり得るのではないかと思いました。推論主義では言語を「理由の空間」でやりとりする道具と捉えますが、言語の概念を理解していなくとも表面的なやりとりができていれば、推論主義の言語実践をできるのではないかというものです。板書で書かれた、Aさん「◯◯だ」、Bさん「なぜ?」、Aさん「なぜなら△△だから」という例に実際の言葉を当てはめてみます。Aさん「このチョコはおいしい。」、Bさん「なぜ?」、Aさん「なぜならGODIVAだからだ。」、Bさん「たしかに。」という会話を考えてみます。Aさんは自分の発言に対して理由を述べています。ここで、仮にAさんが実は人間ではなくてAI(人工知能)だとします。この場合も推論主義で考えれば、AIは会話しているように思えます。なぜなら、AIが「チョコ」や「GODIVA」といった概念を理解していなくとも、記号化された表現としての文字列である「チョコ」と「GODIVA」はAIのプログラムによって表現可能だからです。AIの言葉の表現は単にパソコンやスマホなどの画面上だけでなく、ペッパーくんなどの言葉を発するロボットなどいろいろありますが、どの表現手段であっても会話内容が「理由の空間」であるならば、それはAIが言語実践を行い、対話をしていることを意味するように思えます。そして、このように考えると、推論主義はAIに対話が可能であることを支持する有力な根拠の一つになり得るのではないかとも思います。
――そうそう。私も推論主義の一つの良さは「心の存在」の有無にかかわらず「人格」を認めることができる点にあると思います。しかし以下の「英語」に関するコメントに見られるように、「推論できるだけでは本当の理解ではない」と言う人も出そう。
参加者が変われば適切とされる推論が変化し、文などの意味もまた変わってくる可能性もあるのかなとも思った。
――まさにその通り。それが「実質的推論material inference」の特徴なのだ。
推論主義は言葉の意味を推論で果たす役割とすることをテーゼとする言語哲学であるということが説明されたが、これによれば推論で果たす役割が複数存在するような場合は言葉の意味は一意に定まる必要はないと考えられる。ならば極端に言うと推論で役割を果たすことが意味を生むのだから言葉自体といったものには意味は存在しないし求められないということになりうるのではないかと思った。
――前半はその通り。そこから「意味は存在しない」という議論は興味深いが、単純には言えない。
推論主義の話を聞いていると、言葉の意味もやり取りの中で決まるような印象を受けました。具体的に言うと、現代の生物学で「ネコ」に分類されている生き物を「イヌ」と呼んだとしても、参加者がそれに納得すればその生き物は「イヌ」とみなされるように感じました。(ふわっとしか理解できていない気がするので違うかもしれません)。また、一旦決められた言葉の意味も会話が進むにつれ、別の意味に修正・更新されうるのではないかと思いました。もしそうなら、可謬性がある?という点で、すごくプラグマティズムっぽいなと思います。(P.N 田中)
規範的語用論の説明で、「なぜ?」の回答に対して、「なぜなら、Qだから。」という説明がありましたが、このQが「何となくそう思った」といった抽象的な回答でも、資格の帰属になるのでしょうか。(非公認会計士)
――その会話に参加している人が「適切な回答」と判定すれば、資格が帰属される。あくまでも現場の人が判断し、客観的なルールブックは存在しないというのがポイントである。
コメントシートにもコミットメントがあると考えると緊張感が非常に高まりました。しかし、その責任がコメントシートを書く人物に100%帰属するのでしょうか。例えば、オンラインで受講している場合、先生の話した内容が、スマホのスピーカーで一度解釈されてそれをその人物が解釈することになるので、先生、スマホ、書き手の最低三人?のコミットメントの上にこのコメントシートも成り立っていると感じます。
「資格が帰属する・コミットメントの引き受け」と言った規範的地位と規範的態度で言語実践を捉えるという事だとは理解しましたが、規範的であるとは結局なんなのかを自分なりに解釈出来ませんでした。ここはもう少し学んでから考えていこうと思います。
規範的語用論について考えているときに、1つ疑問が生まれました。それは、規範的地位は規範的態度によって制定されるということについて、根本的に規範的地位とはどのように制定されたのだろうかということです。規範的語用論によって、「資格」が帰属することが分かったのですが、「資格」がない状態であれば、規範的地位は制定されないのではないかと思いました。
――「規範とは何か?」「規範はいかにして生成・成立するのか?」というのは哲学的な大問題であり、簡単には答えられません。推論主義はとりあえず、そのような問いはパスして、規範が成立している状況から話を進めます。ただそのような姿勢に不満を持つ人もいるでしょう。
私たちは自分の発言に対してコミットしているという規範語用論について、気になったことがあります。私の生活や今までの経験に照らし合わせて考えてみたのですが、すべての発言に対してコミットしているとは思えませんでした。確かに授業で発表するときやプレゼンするときは慎重に言葉を選んでいますが、友達と他愛のない会話をしているときにまで自分の発言に責任を持った記憶がありません。私の意見としては、責任にも重さがあるのだと考えました。今までの友達との会話にも、私は発言にコミットしていたのだと思います。ですが、その責任は意識しないほど軽い責任なので、私は友達との会話の時に自分の発言に責任を持った記憶がないのだと思いました。
推論主義に関しては、内容が大体こうなのかなっていうのはわかったが、言語は理由の空間で利用される道具であるということに関しては、限定的過ぎていると感じ、会話等で利用される言語はどういった分類になるのか疑問に思いました。
――まさにそうです。だから推論主義や規範的語用論は適用範囲が狭いと言うこともできますが、「他愛もない会話も規範的語用論のレンズで眺めると、実は規範に縛られていることに気づくのだ」と言うこともできますようね。私としては規範的語用論の魅力はこのような点にあると感じています。
言葉は「理由の空間」でやり取りする道具とありましたが、理由の空間でないものには言葉は存在しないのでしょうか?
――上のコメントにも関わるが、良いコメントだなー。
今回のトピックの一つであった推論主義は私にとって、イメージの掴みにくいものでした。というのは言語が世界を表すものという見方からプラグマティズム的転回が起こって言語が「理由の空間」でやり取りする道具へと変わった点が、言語が現実世界から切り離されたように思われたからです。プラグマティズム的な道具とする見方は確かに推論をするうえで非常に便利だと思うし、そこに道具以上の価値を見出そうとするとこれまでのクワインやセラーズのように言明などの正当性や信頼について考えざるを得ないと思われ、その克服のために道具としてみることで言語を使用する際にその言語の正当性の証明の必要を消し去ることができていると考えます。ただ、やはりそれは言語が世界から独立したものとなっており、それが現実世界で役に立つのかは疑問が残るのではないでしょうか。推論のための言語が実際社会で役割を果たす保証が見つからず、そこに私は推論主義がプラグマティズム的転回を経ていながら役立つのかわからないという逆転が起こっていないか、と思ってしまいました。曲解をしていたら申し訳ないです。
――非常に良いところを突きますねー。推論主義とは言葉と言葉のつながりに注目するので、言葉と世界との関係がよくわからなくなってしまうのですよね。そういう事態を指して「推論主義は(言語的)観念論だ」と批判されることがあります(私含め)。推論主義がこの批判に応えるのは実はけっこう難しく、最近のブランダムはヘーゲル哲学を動員して応えようとしています。非常に形而上学的な話になってくるのが興味深いことです。
先生が使っていた「コミットメントしてるわ〜」という言葉が、コミットメントを日本語に訳せないということもあり、よく理解できませんでした。主に、どういった状況で使いますか。(非公認会計士)
――少なくとも私は普段は使いません。ビジネスマンなら使いますかね? 「この立場にコミットしている」とかなら使います。
ひとつセラーズさんのところで書き忘れていたので、書いておきます。
セラーズさんの考え方を聞いたとき、荘子の「胡蝶の夢」を思い出しました。「私」が蝶の夢を見ているのか、蝶が「私」の夢を見ているのか、という「現実が夢で夢が現実なのか」という内容とセラーズさんの「感覚的データによって観察報告を正当化することはできない」という考えとはよく似ているな、と思いました。春学期に学校の授業で諸子百家についてちょっとやっていたのですが、距離も年代も離れているはずなのに諸子百家たちの考えと哲学的な考え方は結構似ているのがすごく面白いと思いました。(きりん)
今回はブランダムさんについてやりました。規範的語用論の説明で「参加者が適切とみなす推論がわかる」とありましたが、これはAという人物とBという人物がいたとき、この二人以外に「参加者」という第三者がいて、その第三者が「適切だ」とみなしているのか、それともAとBのどちらかが参加者として「適切だ」とみなしているのか気になりました。(きりん)
今回のブランダムさんの考え方は、まだ途中なので自信が持てないのですが、「孤立した世界」の邂逅、または融解を図ったものなのかな、と思いました。例えるとすれば、今まで「小説を書く→投稿サイトに上げる」だったのが「小説を書く→出版社ら第三者による推敲→出版」という風に今まで自分の視点だけから見ていた自己満足、自己完結な作品を第三者の視点から見てもらい世間に出すことのできる状態にする、という感じなのでしょうか。ちょっと例としてはわかりづらいのですが…。なぜ投稿サイトにしたのかというと、投稿サイトに上げるのはだれでも自由ですが、その分投稿サイトで読んだ人の声が届かない、たとえ届いたとしても「私が好きで書いたんだ。それを無料で読んでいるのだから、文句は言えないだろう」となるのであくまで自己満足的、独善的なものであると考えたためです。それから、自分に都合のいい部分だけを見ても誰も何も言えない・いわない、というのもあります。
――まさに第三者がいないというのが重要なところなんです。ゲームの「参加者」自体が「審判」を兼ねているというのが規範的語用論のポイントなんです。だからそのような「適切だ」の判断の客観性が問題になりますね。「孤立した世界」の邂逅または融解という捉え方は純粋に関心。胡蝶の夢についてはちょっと理解ができないが、きりんさんが言うのなら正しいのだろう。
先生が授業でもおっしゃっていたように、人間は言葉の持つ意味を込めてものをみるので、言語に理解が汚されているのは間違いないとして、表象主義は「言葉がもつ意味」と「人間の理解」が切り離せないということを無視し、人間が無意識にしている推論をないものとしているような印象を受けました。また、前期ウィトゲンシュタインのいう「完璧な言語」が世の中に広く浸透していない限り、表象主義は成り立たないのではないか、そして言葉が世界をそのまま正しく表すものだとしたら、後期ウィトゲンシュタインの「常に変化しているルールに則り言語を用いる」ことは不可能なのではないかと感じました。
哲学の古代から現代までの流れを聞いて、近代までの哲学は自分の中だけで考えたものをまとめ上げ、主張している、いわば自己完結的ともいえるものな一方で、現代の哲学は他者の存在を前提に考えを作り上げるものなのかなと思いました。なんとなく拗らせた中2病の子供が成長し、一人で延々と考えるのをやめて、他者と交流する姿を連想しました。言語相対仮説の「思考は言葉に汚染されている」という表現は過激で気に入りました。
僕は大学に入って初めて受けた哲学の授業ですごくがっかりしたのを覚えています。
大学受験が終わったばかりの僕にとって、哲学とは昔の賢い人たちが考えに考え抜いた思想を知り、それを自分の中でも再現し、意味合いを噛みしめるというものでした。遠い昔に生まれた数々の思想に触れることを通して、自分が言語化できていなかったことや思いもつかなかった考えを知ることができ、また数々の格言が僕の中二心を刺激したので、僕は大学でも様々な思想に触れてみたいと思っていました。そんな期待を抱いて受けた哲学の授業では数学で見たような論理記号に関する話が中心でした。そのため僕はコレジャナイ感に包まれ、あまり集中して授業を受けることができませんでした。
しかし、今回の哲学Ⅱの授業をうけて、また先生との会話を通して、僕は現代哲学との向き合い方が間違っていたのだなと思いました。
高校までの哲学、つまりその大半を占める近代までの哲学は、知っているだけで楽しめるものでした。一個人の心の中から生まれたものであるため、思想ごとに格言のようなものがあり、想像しやすかったです。そのため哲学を学ぶということは、受け身の姿勢でもその意味合いを十分味わえる、絵画鑑賞のようなものでした。
一方で、分析哲学やプラグマティズムといった現代哲学は、言葉を中心に考える思想であるがためイメージがしづらく、知っているだけで楽しむのは困難です。言葉が意味するところを理解し、それが指し示すものを積極的に想像する必要があります。受動的な姿勢ではとても自分の中に落とし込むのは困難です。理解するのを面倒に思い、考え抜かなかったため、僕は以前分析哲学を味わうことができませんでした。ただ絵画を鑑賞するのではなく、自分で絵を描いてみて、その上で考える必要がありました。
近代までの哲学のようにひたすら自分の内側に閉じこもるのではなく、現代哲学は言葉や他者との対話の中で真理を探究していくという性質があるため、誰かと一緒に考えた方がイメージしやすいものなのかなと今回授業を受けて思いました。
そういう意味で考えてみると、今回の一連の授業で自分の中だけで考えるのではなく、コメントを通してみんなと一緒に考えることができたおかげで、分析哲学を楽しむことができたのかなと思いました。
もし解釈に間違いがあれば指摘していただけると幸いです。
――分析哲学の「味気ない」言葉や表現は逆に言えば誰でも理解できるということであり、なぜそのような言葉や表現を使うのかというと、他者と共同して哲学をやっていこう、という気持ちがあるからです。わかりやすい表現が尊重されるのは、その方が他人と協力しやすいからです。その点で最後のコメントは分析哲学の美点を突いている。
”哲学の面白み”についての話題に興味を惹かれました。私にとっての哲学の面白みは「固定概念を壊すことができること」です。先生の授業を聞いていたりして、哲学に触れていると、これってこうだよね、みたいな暗黙の了解である概念に対して、本当にそうなのか?なぜそうなのか?と自分の意見を構築することができる機会が多いなと思います。「なんのために人は生きているのか?」「善とは何か?」「人が認識していることは〜〜」など大小様々な問いが出てきて、今まで考えようと思っていなかったことを意識したり再確認したりします。それが何になるかなんてことはないかもしれないけど、ちょっぴり自分の人生の助けや発見になったり、楽しみになったりするなと思いました。義務教育の内容もそうですけど、直接これを学んだからここに使えるみたいなことってなかなか無いし、でもそれが無意味なものではないなと思います。
毎回私は哲学の授業を聞く度に日常生活の中で感じる様々な感情を思い出してそれらが講義の内容と関連付けられていきます。内容は正直簡単ではなく,理解し切れていないところもありますが,日常生活の中で感じる様々なことと哲学の内容がどんどん繋がっていく感覚がたまらなく面白いです。
最近、言語について考えることが増えてきました。単に気になって自分の中の理屈が通る理論を探しているだけではあるのですが、言語哲学の考え方はそこで別の可能性を見せてくれます。実生活で物質的に役立ったことは今のところ感じ取れていませんが、精神的な世界の広がりを感じて以前より悩んでも自分の気に入る答えが出せてきたようにも思っています。明日の講義も勝手に自分の助けになるように頑張りたいと思います。
推論や表象という言葉の意味を、授業の文脈で適切につかむのが難しいですが、まさにこの授業で主になっている問題だなあと思い、面白いです。最近、哲学へのモチベーションが下がっているのですが、哲学はまさに良いレンズを授けてくれるものだとずっと思っていて、世の中への解像度が上がるのはとても気持ち良いというか嬉しいというか心地よいです。自分の解像度をあげることで、他者への解像度もあがると考えているので、色んなレンズをくれる哲学は最高です。
哲学の面白みとして良いレンズでバチッとはまると世界が広がるというのは個人的にすごく納得できました。授業を通して少しずつ哲学への理解は深まってきていますが、今はまだこの人は面白い!この人はあんまり…といったくらいでバチッとはまる!といった感覚は掴めてはいません。きっとその人の著書を読んで深く理解しようとしなければならないのでしょう。 これから先自身で哲学の本を教養として読み、そのような哲学者と出会い、自身の世界が広がるその時が今からもう楽しみです。
――ある程度有名どころの哲学者を見てバッチリ合わなければ、自分で作るしかないですよね。自分にとってもっともしっくりくるものは自分が一番知っているはずですから。
新年あけましての哲学はブランダムらによる推論主義についてであったが、身近な例を交えながら説明してくださったこともあり、その背景についてよく理解できたと感じた。特に印象に残っているのは言語は「理由の空間」でやり取りする道具とした点である。人間は主張に対して理由を求める生き物であるというのも、喧嘩が起こる原因となるのは言語からだという説明を聞きとても腑に落ちた。確かに無言から始まる喧嘩など聞いたことがない(喧嘩をして無言になることはあるが)。誰かの主張に対して理由を求めなくなったときはその人に対して人間として興味を失ったときなのであろう。このようにして考えていくと、哲学者は他の哲学者に対する批判は鋭いが自分の主張は弱いということになると、他の哲学者に対して強い興味を示していることとなる。今まで哲学者に対して他者と関わりをもたず孤独で寡黙に探究に勤しむイメージを持っていたが、実際は他者に興味を持っているが一歩が踏み出せないツンデレで人間味のある一面があるのかもしれないと思うと愛おしく思えてきた講義であった。
入試の時に国語で「元から存在しているモノに名前をつける」のか「名前を付けて初めてそのモノが存在するようになる」のか、といったような話が出てきた気がするのですが、先生の授業を聞いていると度々その話を思い出します。哲学っぽくて面白い話だな~と思いながら読んでいたのですが、哲学にそのような分野はあるのでしょうか。軽く調べてみてソシュールがそうなのかなと思いましたが、よくわかりませんでした。
――「言語相対論」とか「言語的観念論」という言葉で調べると良いと思います。
疑問に思ったのですが、イヌイットはさまざまな白の観念をもっていると授業の中でおっしゃっていましたが、私たちが感じる白をイヌイットは理解することができるのでしょうか。
――言語相対論者ならば、「無理」と言うでしょう。
推論主義と検索をかけてみたら、候補に「推論主義 白川」と出てきて、少し感動しました。またYouTubeも拝見しました。普段あまりみない笑顔レベルの高い笑顔が見られて、少しホッとしました。 (とまそん )
――授業中ももう少し笑っていこうか。
ブランダムについてインターネットで検索していたところ、白川先生がYouTubeで著作について説明している動画があり、ブランダムの研究者として有名であることを実感した。
ネットでブランダムについて調べるとさまざまな資料が出てきたんですが、ほぼ全て白川先生が書いたものです。先生は主にブランダムを中心に研究されているんですか?「ブランダムの推論主義の哲学」の内容を少し見ました。興味があって本を買いたいと思っています。本当に白川先生を尊重しています。
※YouTubeでブランダムを検索してみたら一番上に先生が出てきて面白かったです。
推論主義についてググってみたら書籍やイベント、出演youtubeなど、白川先生関連のサイトばかりがヒットして少し笑いました。
話は逸れるかもしれませんが、以前から日本の哲学者は名前を聞く数が少ないなぁと感じており、個人的には国土の広さ的な理由かなと勝手に思っていたのですが、今日の冒頭の話を読んでもしかすれば日本は規範や当たり前を重要視しがちで同調圧力も強いようなイメージがあるのでそれらが要因で日本では哲学はしづらいため哲学者が少ないのかもしれないとこれまた勝手に考えました。
言語論と推論主義の話を聞いていると、思考と言語が直結していることをより強烈に感じました。ただそうすると言語が違う民族間では人類に共通的な哲学は存在しないのではないか?と思ってしまいました。確かに言語は他言語で翻訳可能であるとはいえ、そのニュアンスは一様に同じとは言い難いし、言い回しにしても全く異なる言い回しが多数あります。この点について哲学者の意見としてはどのようなものがあるのか気になりました。
なぜ?を何度も何度も大人に繰り返した結果「なに、お前厨二病やん」と言われて以来、人と深い議論をするのが少し怖くなった。全員に対して深く考えろとは思わないが、深く考える人を変な人だと思うのではなく、そういう視点もあるのかって温かい目で見てくれたら平和な世の中になるのになと感じました。
講義とは直接関係のない話ですが講義の初めに「研究対象は好きすぎるのも盲目にさせる。」という言葉に共感を持ちました。というのも9〜10月から始めた卒業論文の執筆を本日ようやく終えて、提出して振り返って思ったのですが、自分が取り扱ったテーマは大好きと言えるものではなかったのですが、そうした立場であったからこそ結論と考察においてある程度中立の立場をとって論文を書くことができたのではないかと思いました。
授業内でDeepLについての話がありましたが、我々大学生と同じようにDeepLを論文を読む際に使っていることに驚き、親近感がわきました。
白川先生のような大学教授の方でもDeepLを使って自動翻訳したものに頼る(もちろん、ざっと読んだ後に原文に当たるのだとは思いますが)というのは、なんだか意外な感じがしました。でも、考えてみたら効率面で言うとその方が圧倒的に効率的だし、時間を無駄にせずに問題の本質に向き合うための時間を作れるのですね。使えるツールはどんどん使っていくべきですね。それも巨人の肩に乗ることと言えるかもしれません。
ただ、自動翻訳の技術がどんどん進化していっているとはいえ、英語を学ぶ必要がないかと言えば、そんなことはないのではないかと思っています。「AI vs 教科書が読めない子供たち」という数学者である新井紀子という方が書かれた本があるのですが、その方はAI開発にも携わっており、開発者ならではの視点でAIや自動翻訳の問題点や課題について書いています。この本の主な主張は「AIは知能があるように見せかけているにすぎず、実際には知能なんてない。さらには、今後ほんとうの知能を実現できるような見通しは今のところない」ということです。だからこそ、人間ならではの力を磨いてAIに負けないようにする必要があるということですね。この本では自動翻訳について、「AIは意味を理解しているわけではなく、未解決の根本的な問題点がある」と言います。自動翻訳は日本語と英語が対応付けられた例文を大量に用意して、それを学習させて実現しています。だから、例えば日本語を入力すると、それに似た日本語の例文を探して、それに対応する英文を適当につぎはぎして翻訳を実現しているわけです。そのつぎはぎ方を、いかに上手く翻訳できているように騙せるか工夫するという技術がどんどん上達していっているわけです。世界中の開発者が競って開発するので、上手いつぎはぎのアルゴリズムはどんどん出てくるかもしれませんが、根本的な問題を上手く避けて発展してきた以上どこかで限界が来るでしょう。やはり、哲学をやるにあたっては、前にも白川先生がおっしゃっていたように、「その言語で思考できるようになる」のが理想といえるのでしょう。(Martin Tait)
――上の「推論主義とAI」のコメントと関連して面白い。
この一週間、コメントシートを出さなきゃいけないことは忘れなかったのですが、いざ書き始めてみると板書はしてあるのに先生が実際に発した言葉をほとんど忘れていました。人間の記憶は1日経ってしまえば半分以上忘れてしまうそうです。そりゃ1週間もたてば90%は忘れていますよね。あんなに楽しみにしている先生の雑談でさえ忘れてしまっています。当時の僕に「なぜメモしなかったんだ?」と問い詰めたいですが、卒論に追い込まれていたので、仕方ないでので許してあげようと思います。明日と来週はちゃんとメモを取り、覚えてるうちにコメントシート送りたいですね。あと、卒論制作は先生のおっしゃった通り地獄のような日々でした。人生において二度と経験したくないと心の底から思いました。授業の内容に対するコメントでもないのに長々と失礼しました。
卒論を書く際のアドバイスが欲しいです。(まだ二回生なので卒論を書くのは先ですが先輩方が苦労している話を聞き少し心配になりました。)
卒論が本当に終わらなくて初めてオンラインで授業を聞きましたが哲学のピリピリ感に置いていかれるところでした。家から聞けたのは楽でしたが、ある意味大変でした。(もなー)
憂国と聞いて、憂国のモリアーティという漫画をお勧めしたく思いました。シャーロック・ホームズの悪役であるモリアーティ教授の視点から謎が解決されていくもので、事件の答え合わせの時には感嘆させられますし、社会の闇を悪役視点で見ることができる所が魅力的なのでぜひご一読ください。
前回のクワインがとても難しかったので、セラーズは難しいと言ってもクワインほどではないだろうと思っていたら、予想を遥かに超えてきてもはや感動する勢いでした。クワインを「呑み込む方法がわからないもの」だとすると、セラーズは「そもそも口に入れる方法がわからないもの」でした。基礎付け主義の発想の部分が難しかった影響かと思います。最後の〈まとめ〉の部分で突然お茶漬けのようにサラサラ呑み込めるものになった感じがしたのですが、あれはきっとセラーズの出汁で、身の部分は呑み込めていないのだろうと思いました。
所与の神話批判の結論部分では「感覚的データによって観察報告を正当化することはできない」と書かれ、〈まとめ〉の部分では「私たちはふつう観察報告をするために感覚的データに訴えない」と書かれていました。それに関して「ふつう利用しないから(≒机上の空論だから?)感覚的データが観察報告を正当化することはない」ということなのか「感覚的データが観察報告を正当化することはないからふつう利用しない」ということなのか、順番はどうなっているのだろうと疑問に思いました。(P.N田中)
セラーズによれば感覚的データによって観察報告を正当化することはできない、とありましたが、セラーズはこの世界をどのように捉えていたのでしょうか。この世界にあるものはほとんどが感覚的データに基づくものである、と話を聞いていて私は感じました。セラーズの主張も汲んだ上で、言語的なものでも、非言語的なものでも正当化することはできない、と納得できましたが、結果としてセラーズはこの世のものをどう捉え、どう自分に落とし込んだのでしょうか。セラーズは言明の是非を明らかにするためにどうすれば良いのかの結論を出せたのでしょうか。
今回の授業で、セラーズの「所与の神話」批判について学んでとても興味深く感じました。自分の感覚に与えられるデータが、観察報告を正当化するのだろうかということについて、授業を踏まえて自分なりに理解してみました。
今までは「ペン」の感覚的データが、「これはペンだ」という命題と対応するときに、命題は感覚的データによって正当化されると思っていました。しかし、感覚的データが命題と一致すると判断するのは、感覚的データが典型的なペンの形と似ているからだと思います。命題と感覚的データだけでなく、典型的なペンの形と比較していることから、類似性が用いられていると思います。また、典型的なペンの形についても、「これは典型的なペンだ」という信念が用いられています。「これは典型的なペンだ」という信念もまた、何らかの信念を用いて正当化されています。これが無限後退なのだと解釈しました。
ある像をペンとして認識するためには、たくさんのペンの像を知っていて、個々の感覚的データについて「これはペンだ」という命題と対応させていると思います。感覚的データからだけでは観察報告は正当化されず、それに加えて別の正当化された信念を用いていて、それもまた別の正当化された信念を用いています。この点から終わらない永遠のサイクルだと思いました。
私の考え方において、間違った解釈をしている部分があれば指摘してもらえると嬉しいです。
――間違っておりません。
セラーズの所与の神話批判は衝撃的でした。前回のコメントで真逆の主張をしてしまったので、その分ショックも大きかったです。
経験を信じるかどうかというところが、哲学と科学の分かれ目なのかなと思いました。あるいは、どこまでを自明なものとして扱うのかという領域によって、棲み分けがされているのかなと思いました。科学と哲学、数学と数学基礎論、法律学と法律解釈学・法哲学、道徳と倫理学、、、というように暫定的に規則を決めてしまって、その上に理論を構築していくものと、その基本となる規則について問うていくものに役割が分かれていくのでしょう。
観察報告が、必ず誤りうる可能性を含むという性質を持つ言語によってなされるために、絶対的な客観性というものを保証することは不可能であると証明されました。そのため、科学はどのような方法においても完全な客観性を獲得することはできないわけですが、その不安定なものを土台にして体系的な理論を作り、現代の素晴らしい成果を生み出しました。
つまりは、どうしようもないことは放置して、その上でいかに信頼性の度合いを高めるかを工夫をする方向を目指したわけです。そして、実験観察から信頼度の高い情報を得るための統計学の理論が確立され、統計的に信頼度を保証するという方法が生み出されたのです。そうすることで、真実を追い求める哲学から人類の役に立たせるための道具としての科学にシフトしていったのだと思います。(Petrosky Tomio)
哲学も医学と同じように人々を救っているという点で社会的意義があるという考え方は新しい感覚であった。人々の間では医学は人のためという共通認識があるにもかかわらず、哲学に対してそれはまだ広く認められていない。それにもかかわらず哲学者が哲学を極めているのはやはり孤独であると感じた。医学のように直接人を助けるわけではないが、逆に時代を変えて未来の人々をも救う可能性もあり、面白いと感じた。所与や神話のように普段他の授業でも使う言葉の意味を哲学を通じて理解している気がする。今までの授業もそうであったが、哲学を学ぶことで言葉に対する深い理解が得られているのが面白い。先生が問うていた問題に対して、僕は「このデータは客観性があるから」だと感じました。そのデータが正しかったら客観性があり、それが共通の事実になると考えた。先生の話を聞いた後でもりかいができなかった。先生の話を踏まえて、僕と先生が考えている「椅子」というものが実は異なる可能性があるということであっているのですか?明確な正当化ができないと客観的であるものはこの世にはないというところまで発展しても間違いではないですか?このように考えた結果、所与の神話批判というものがわからなさすぎるとわかり、逆に興味が出てきた。今までの議論を更新したり、方向転換したりするのが哲学であると授業を通じて感じていたが、その考え方を終わらせにいくローティは意外性があり、おもしろいと感じた。
セラーズの「所与の神話」批判を学んで、確かに観察報告を正当化する根拠を示すことは難しいと思いました。言語化しようとすると正当化の無限後退に陥りますし、言語でないものではそもそも厳密な正当化ができません。そうなると正当化の根拠としては、多くの人がそういっているから、ということになるのかなと思いました。そこで、言語はそもそも厳密なものなのかという疑問も抱きました。言語は他人と繋がれるツールです。言語があるから会話できますし、文を書いて自分の思いを表現して他人に伝えることができます。しかし、言語が真に客観的だとは思えません。例えば、普段の会話で「今日の朝パンを食べた。」と人に言うとします。話し手は四角の食パンにバターを乗せたバタートーストを思い浮かべて話していますが、聞き手は菓子パンをよく食べるので、菓子パンを頭に思い浮かべます。そして聞き手は「今日はご飯を食べた。」と返します。この二人は違う種類のパンを想定して「パン」という単語を話していますが、それは会話の妨げにはなりません。この二人の間ではその単語を発した人が思い浮かべるパンへの特徴という文脈を切り取った、表面的なもしくは中心的な「パン」というやりとりだけがなされていますが、それでも会話は成り立ちます。「パン」とは何かをお互いにそれ以上追究しなくても会話はできるのならば、たとえみんなが思い浮かべるものが多少異なっても、共通のものとして実際の現場で理解しあえるならばそれでいいのではないかと思ってしましました。これはウィトゲンシュタインが「人々の実践の一致」が「規則」を可能にしていると主張したことに通じるものがあると思います。観察報告という言語化されたものに対して、絶対的な正当化の根拠を求めるのではなく、みんながその観察報告から同じような解釈を導けるのならば、それで十分信頼性があるように思えました。
今回のコメントシートですが、少し自分で調べて分かりやすいと思った例を取り上げています。家のWiFiの不調により途中でzoomの接続が切れてしまった為、もし授業でも同じ例を取り扱っていた場合は申し訳ありません。セラーズは感覚と言語には越えがたい壁があるとしましたが、ここの言語を描写に置き換えて、芸術家の行動から理解する例を見つけました。もし感覚と描写に壁がない場合、芸術家は自分の感じたものをそのままキャンバスに描いていることになる。しかし、実際は見たもの感じたものを直接キャンバスに描くのではなく、それに近くなるよう知識や技術を駆使して表現している。つまり感覚的データとは、見たもの感じたものを自分の知識や経験から言語化したものであり、それは実際に感じたものと同じものであるとは必ずしも言えないことになる。基礎づけ主義はそれを正当化不必要とし、他の命題の正当化に用いている為、セラーズは批判したと理解しました。
セラーズの「所与の神話」批判において、感覚的データを言語による正当化をしようとすると無限後退するとされたが、私はそうは思ってません。
言語というのは、思考を伝えるためのものということにする。
そうでなければ、私たちは絵や身振りなどの曖昧にしか伝わらないものに思考の伝達を頼ることになる。
言語が間違いないのであれば、感覚的データに間違いがあるのだろうか。
感覚的データを判断するのは思考である。
感覚的データを判断する思考を全否定しようとすると、全面的懐疑論に陥ると私は考える。
なぜなら、自身の考えていることが本当にそうなのかと疑っている状態であるからだ。
なので、感覚的データを判断する思考は正当化できる。
ならば、思考を伝える言語が正しい使われ方をしているなら思考は伝わる。
言語の使われ方は、言語を使う全員の一致によって正当化される。
なぜなら、言語とは思考を伝える道具であるからだ。
そのため、使う人たちの使い方によって使われ方(あり方)が変わる。
なので、感覚的データを言語による正当化をしようとすると無限後退することはない。
という感じに思ってます。
なぜセンスデータが批判されるのか納得できない。ラッセルのセンスデータやウィトゲンシュタインの独我論は、自分の知覚・感覚を最も確かなものと位置付けている。私はその考え方に深く共感したし、自分の感覚を信じないことには何もかもが疑心暗鬼になってしまうと思う。感覚的データを正当化の最終根拠にするのは無茶であるという主張には、確かに一理ある。言語哲学を学んできたことで、感覚と言語化の関係性の複雑さは痛いほど理解できる。しかし「所与の神話」批判を認めてしまったら、自分自身の目で見て耳で確かめたものには何の正当性もなくなってしまうのではないだろうか。私は自分で見たものを正しいと思いたい。これまで紹介されてきたプラグマティズムには共感できる点が多かったが、今回初めて疑問を抱いた。100%正しいと思える理論に出会っても、それを批判する新しい理論が次々に出てくるので、哲学はとても難しいし面倒くさい。でも、それが醍醐味なのかもしれないと思ったりもする。
ペンを正当化しようとすることがあんなに大変だとは思いませんでした。正当化するには言語で自分の感覚的データを説明しますが、自分の感覚的データがいくら正しかったとしても、説明するのに使用する言語が正しいとはいえないと言われてしまってはもうペンじゃなくていいよと考えることを放棄したくなりました。
観察報告は感覚的データによって正当化はできないとするなら、どうすれば正当化できるのでしょうか。そもそも正当化する必要があるのかどうかということも気になりました。そんなことを考えてネットで調べていたら、偶然にも白川先生の論文が出てきて驚きました。
今回の授業は自分の中で理解しづらく、正直要領を得ません。自分なりにはペンという言語の物である場合、その判断はまた言語的なものに委ねられ、それが続くことで正当化の無限後退がおこるということ。という非言語的な物である場合、正当化は言語化によって起こるためそもそも正当化できないと言うように噛み砕きました。だからこそものの正当化は起こらないということですが、私は非言語的コミュニケーションの可能性について考えました。人間は古来より言葉が使えなくても非言語的コミュニケーションによって意思疎通をおこなうことができました。そこについていかがお考えでしょうか?
セラーズなりの検証方法も述べて欲しかったと思いつつ、批判だけでは物足りなさを感じました。
今回扱ったセラーズの所与の神話に関しては疑問を感じます。授業で挙げられていた「これはペンだ」ということを正当化するときに感覚的なデータは証拠としてなりえないということだと説明がなされていました。観測者が知覚した「これがペン」や「これは赤い」といったことを否定するのであればいったいどのようにしてこれがペンであることや赤いということを証明するのでしょうか。一般的に考えて日常生活の中で感覚的なデータによって認識することは往々にしてありうると思います。(降伏論)
所与の神話批判はこれまた偏屈な考えだなと感じました。
セラーズが登場したからこそプラグマティズムの常識が確立され、新たな扉を開いたように感じました。所与の神話での正当化は特に理解が難したかったです。非言語的なものの場合では正当化できないとするならば、それ自体を正しいとするにはどうすればよいのかに頭を抱え、頭が燃えそうでした。既に議論はなされているとは思いますが、正当化を言語でするにしても、その言語がそもそも正しいのかが問われるため、どちらにせよ無限後退が一生続くと考えました。言語に頼っていることは事実であるし、言語がなければ人間は何一つなし得ることができないのかと、言語に対してもっと正面から向き合おうと思い知らされました。
プラグマティズムを徹底すると哲学は終焉するというローティの考えは、哲学者、特にプラグマティストにとっては重大なジレンマだと感じました。その感覚に陥ったプラグマティストのことを想うと、なんとも言えない(いわゆるエモい)という感情が芽生えました。(ピンチヒッター二岡)
今回の授業に登場したリチャード・ローティという人物は、哲学にとって救世主のような人物だと思いました。僕がこれまでの授業を受ける中で感じていた、哲学の批判の応酬が泥沼化しているようなカオスな感覚は、彼が整理した哲学の系譜的なものによって、ある程度秩序のあるものになり、近代哲学から現代哲学に至るまでの議論の変化を知ることができました。
ローティについては、「哲学」という学問が前提としていることへの疑問といったところから、これまでの哲学者が様々な視点で考えてきた「真理」や「客観性」といったものの存在自体を否定するというかなり極端な立場をとるに至ったのが、少し早計、あるいはもう少し砕けた言い方をするなら言い過ぎなのではないかと感じた。
ローティーは、反表象主義であり真理や客観性など存在しないという極端な立場をとっていたわけだが、ローティは何を求めて哲学をやっていたのだろうか。真理や客観性を求めなければ他の学問でも良いのではないか。ただ批判するためにやっているわけではないと思うので気になる。
リチャード・ローティの反表象主義の考え方にも共感しました。絶対的な真理だと考えているものさえも以降、何度でも覆される可能性があるということを、歴史から簡単に学べるので、客観性はそもそも存在しないと思った方が良いかもしれません。その反面、試験の結果が悪いだろうと分かったとしても、なるべく良い点数を取るために最後まで頑張るように、客観性が存在しないという結果が分かったとしても、それに近づこうとするという努力の過程は必要なのではないかと、その過程自体こそが哲学だと個人的に思いました。
――いかにして客観性を確立するかがローティ以降のプラグマティズムの課題。
話は逸れますが個人的な意見として、近代の観念論を聞くたびに、プラトンの唱えたイデア論と比べてどこがどのように発展・成長したのかわかりません。どういった潮流で観念論が発展したのか少しだけ気になりました。
――イデア論のイデア(idea)は「人間から独立して実在するもの」でしたが、デカルト以降は「意識内容全般」を意味することになりました。イメージとしては心の外側にあったものを心の内側にもってきた、という感じです。それだと哲学が内にこもり過ぎるということで、19世紀末からより公共的な言語を題材にするようになったのですが、これまでの授業でもわかるように、言語には言語の問題がありますね…
言語に縛られているのは何となく気持ちが悪い。映像をそのまま表現できる別の言語があれば? そういうことを考えるのはナンセンス?
現代哲学にありがちが言語定義からもう一度見つめ直している節もあった。私は何度この考えを聞いても好きになれない。言語の定義を考察していっている時の生産性のなさというか、他の形而上学的哲学のようなワクワク感がないからであろう。言語定義についてもイデア論に片づけられないだろうか。これは私がプラトンのことを好きなだけだろう、、
「私たちはふつう観察報告を正当化するために感覚データに訴えない」の「私たち」は一般人も含めた人間全般のことを指しますか?哲学者だけのことを指しますか?(非公認会計士)
――哲学者は「人間全般」を指しているつもりですが、「それ当てはまるの一部の人だけですよ」と批判されることが多いです。
今回の授業でよく出てきた「正当化」という言葉が聞けば聞くほど意味が分からなくなってきたので意味意味を調べると (客観的には正しくない可能性もあるが)ある物事・自分の言動が正しいものであるように「見せかけること」と書いてありました。分かりやすく正当化するためにデータとして言語は必要ですが、非言語的なものでも絵で書いたり行動や結果で示したりなど、正当化できなくはないのではないか(実際にしようと思うとすごく難しいですが…)と思いました。
実際に話せない、手が動かせないといった障害を持った方や言語が全く違う国の方など、世の中には様々な人がいますが言語を使わず正当化しているように思えます。私のこの意見を詳しいデータがないのですが…
――うーん、そう言われると、「哲学者が勝手に『正当化』の意味を決めるな」という感じになる。
普段何気なく生活していて、当たり前となっている共通認識やもの、ことに対して難しく考える哲学の意義がわからなくなりそうです。いろいろな人たちが考え抜いた結果、世界を正確に写し取ることはできず、またその考えがナンセンスとされていて、それでも正しさを求めて思考する人間は不思議であり、尽く考える生き物なのだと感じました。結果を重視するのか、その結論までの思考の過程に意味があるのか、興味深いところです。当たり前のことをわざわざ考えなくても不自由なく生きていけますが、それらに対して疑問の視点を持てることが大切なのかと思いました。
授業の終盤がチラ見えしてくるような時期になってきました。冬休みの間に今までの板書を見返していたのですが、今までの授業でやってきた哲学者の考え方はあくまで「人間の目から見たもの、脳が感じ取ったもの」に着目して自身の説を立てているような気がしました。哲学者は「人間」という「思考することができる生きもの」が見て(考えて?)作り上げた枠組みからは抜け出していないんだな、とふと思いました。(きりん)
――プラグマティストだからかもしれません。
回を重ねるごとに哲学ってなんでずっとこんなことをしているんだろうという疑問が湧いてくるとともにこの果てしなさが哲学の沼なんだろうなと感じます。 (降伏論)
先生がなぜ哲学を教えているのかという話はとてもすてきだなと思いました。自明とされている事の正しさの根拠を問わずにはいられない人々に居場所を与える、もしくは彼らに共感できるように知識を提供することこそ哲学の意義である。やはりこのような考えに至ったのもプラグマティズムのもつおおらかさの影響なのでしょうか? 僕も少しでも彼らに鷹揚になれるよう残りの授業を聞いてみようと思います。
哲学をする意味を考えてみたのですが、自分なりの答えとして出したのが哲学はいつの時代も常に絶対に必要だということです。私たちはいつも数えきれないほどの物事を前提にして生活しています。それを問い出したら「なんでそんな当たり前のことに疑問を持つのか」と思われることもあるかもしれません。世間で当たり前だと思われる一つに「人を殺してはいけない」があります。「何で人を殺してはいけないのか」に対して「そんなの当たり前だよ」とだけ答えるのは危険な気がします。そう答えられるのは、相手も同じく「人を殺してはいけない」ということを当たり前と捉える規範、文化を持っていることを前提にしているからです。しかし、食人文化や戦争中ではその当たり前が通じなくなります。こういった自分の思う前提が成り立たなくなった事態で、なお自分の意見に説得性を持たせるにはやはり哲学が必要になると思います。特にコロナ禍では、マスク着用やワクチンの是非、ステイホームといった未曾有の出来事を我々にもたらしました。それまで当たり前だったことが、当たり前でなくなったことも多々ありました。前提が壊れて何が正しいのかわからなくなって迷ってしまった時に、私たちに「こうすべきだ」という方向性を示してくれるのが哲学ではないかと思いました。
私が幼い時にダンゴムシが好きで、暇がある度にダンゴムシを捕まえたり、観察したりしていた。ダンゴムシは足が多いことから、ダンゴムシは足を伸ばして動かせば空を飛べるのではないかと本気で思っていた。しかし、それを母に言うと、「そんな気持ち悪いこと言わんといて」といわれたことを覚えている。だから、どうして1+1が2であるのかという質問について大人が聞いてほしくないという顔をしているのを見て、空気を読んで自分の疑問を解消することを我慢するという経験がとても共感できる。しかし、成長して塾講師としてアルバイトしている視点から言えば、基本的な公式のようなものをなぜかと質問されたり、歴史において歴史的事実が起こった原因を突き詰めて質問されたりすると、生徒の納得のいく回答を出すことができる自信がないので、そのような質問をしてほしくないという大人の気持ちも分かるようになった。何かを説明するにはデータを持ってこなければならないという論理実証主義は大人になるにつれて分かるようになる考え方なのではないかと考えた。
なぜ殺人をしてはいけないのかという疑問は幼い頃から浮かんでくることがなかったので、そういう疑問を掲げる人は大勢の中で尖りたいのかと思っていました。哲学の授業で、純粋に本当に疑問に思っている人がいて、そういう人を救うために哲学があることを知れて良かったです。
哲学の意味に関する話が面白いと感じました。物事の意味を考えるのが好きなので、先生が考えた哲学の意味合いは気になりました。そして先生の言う「変な考えを持っている人を救うため」という説明は個人的にしっくりきました。ヒトは考える葦とパスカルが述べたように、ヒトは考えることで意味を持つ生き物だと思います。だとすれば、変な考えに囚われてそこにのめりこむのは様々な不利益があると考えられます。それを解消するために哲学があると考えるのは理にかなっている気がしました。
今日の講義を通して感じたことがあります。きっとこの世の中に存在する物事が正しいかそうでないかは,それぞれの解釈の仕方でなんとでもなるのかもしれないということです。きっと今日の講義の内容ももちろん白川先生がたくさん勉強や研究を重ねて作り上げてくださった内容だとは思いますが,やっぱりどこかに白川先生の主観や気持ちが含まれてしまっていると思います。そしてこの講義の内容を受け取る私たちにもそれぞれ考え方や理解の仕方があるのでおなじように理解はできていないのだろうなと感じました。
講義中に「ここはどうなんだろうか、コメントシートで書いてみよう」と思ったところが悉く次の先生の話題だったことが少し悲しいと同時に自分はなかなか筋の通ったことを考えられているという喜びが混ざり合った複雑な気持ちになります。
講義の初めのコメントシートのおさらいで分からない人が多かったり、自分のコメントが取り上げてもらえていないことを考えると、自分が授業内容を他の人と同様にきちんと理解出来ているのか急に不安になってきました。同じ講義を受けていて、もし別の理解をしてしまっているとすれば、それは私だけなのだろうかと心配です。晩年のウィトさんの解釈を参考にすると、私が正常でないと考えるべきなのでしょうか。(阿吽の呼吸困難)
――いやむしろ自分にとって正しいのならば、世界中の人が反対しようが自分を信じるのが重要だ、ということだ。
今回の講義はなかなか理解が及ばず頓珍漢にことを申し上げているかもしれませんが、かなり熟考したうえでこれなので、成績を下げないでいただきたくお願い申し上げます…。(ハッシュ=ド=ビーフ2世 )
今回の講義も面白かったですが、内容が難しいです。前回の講義は本当に分からず、前回のコメントシートについて書くという逃げの手段を取り、みんな理解していたらどうしようと思っていたのですが、みんな同じで安心しました。クアインについて色々調べてみたのですが、どこの記事も文章自体難しく内容は理解できませんでした。笑
哲学はやはり一度分からなくなるとヤバいです。
年内最後の授業ということで、何か深いことを言いたいのですが、今日の授業はあまり理解できませんでした。先生も駆け足とおっしゃっていたので、僕の能力不足のせいとは思いたくないところですが、、、
コメントシートをホームページに載せることを哲学で解説するあたり、白川さんらしいなと失礼ながら思いました。らしいって何ですかと言われそうですが…
なぜ我々が国会の人が作った法律に従わないといけないのかを問うたら危険と考えられると先生が仰っていましたが、民主主義国家を採用していることからそうせざるを得ないと断言できるため、この例は適していなかったのではないかと感じました。
――それなら「なぜ頼んでもないのに民主主義国家の一員にさせられているのか?」という問いになるかな。
明けましておめでとうございます。まだ間に合いませんか!!コメントシートすっきり忘れてしまいました。昨年12月29日(水)は提出期限だと思っていますが、友達に聞いて次の授業の前日だったら大丈夫かもと言われて少し安心しました。
次から全部雑談ですみません!人生初の記録破れの大雪にあいました。地元も雪が降りますが、こんなに大きな雪見たことがなくてびっくりしました。雪が降る前日京都に行きました。そして、大雪のため彦根に帰れなくなり、友達が米原まで迎えに来てくれて一緒に米原から雪の中で徒歩で帰りました。一生忘れないものです。友達に感謝しています。
こういう話になってすみませんが、哲学の授業を受ける時には、哲学の知識以外、先生の雑談内容も楽しみにしていることを発見しました。
話の間間で出てくるひろゆきトークを見てひろゆきが好きなことが伝わってきました。
他の人も書いてそうなのですが、先生がひろゆき好きなの納得できます、なんかどこか似ています。笑
ひろゆき私も好きです。知識量もそうですし、想像もしなかった角度からの考えがポンポン出てきて、すごいなと思います。 (ひろゆきたい )
白川先生がひろゆきを好きというのが、哲学の先生でもひろゆきを好きな人がいるんだと思い少し嬉しかったです。
感覚的データは、いわゆるひろゆきさんが言うような「それってデータあるんですか?」の「データ」としては妥当ではないということでしょうか?
前回のコメントシートのまとめから、どうしても言いたかったことがあるので送ります。わたしも男はつらいよめっちゃ好きです!!!びっくりしました。
2月ごろに発売予定のエルデンリングというゲーム、絶対面白そうなのでお勧めです。
少し前にダークソウルシリーズやSEKIROが安くなってました。エルデンリンクが楽しみです。
お正月にゲーム三昧はとても羨ましいです。ぜひ休息と共に娯楽を楽しんでください。ちなみに私もデトロイトビカムヒューマンはお勧めしたい作品です。
あとsteamだともうやってるかもしれないですがUndertaleとPortalは是非やってください。
本日の授業で、信念のネットワークを村社会のヒエラルキーになぞらえる解説は非常に分かりやすかったです。クワインが唱えた全体論においても、信念の真偽は経験によってフィードバック的に変化し得るという、やはり実践を第一に据えたプラグマティズム的観点が通じているというのは興味深い観点でした。しかし、命題が経験によって裏打ちされるというのは分かりましたが、そこから発展して経験が超越する命題がないという結論に至る部分は論理の飛躍に見えて、少し理解が難しいところがありました。
――同様に「経験が超越する命題はない」 と書いている人が何人かいましたが、板書のミスです。「経験から超越する命題はない」が正しいです。以下に示すように、今回はこれまでにもまして「難しい」という意見が多かったのですが、この板書ミスにも由来するかも。「経験が超越する命題はない」はナンセンス! これで哲学的命題はナンセンス!と言いたくなる論理実証主義者の気持ちわかりましたね。
今回の内容は本当に分からなかった。クワインは経験主義の2つのドグマがあると言っているが、そもそも分析的真理と総合的真理は明確に区別されるということと還元主義というものを理解しきっていいないので、どこが独断主義なのかよく分からなかった。
クワインの経験主義の二つのドグマについて、哲学Ⅰでも聞いた覚えがあるものの、何度説明を受けてもしっかり理解できたという気がせず、どこかもやっとしている部分があるように思う。
今回の講義はいつもよりも哲学哲学していて、あまり理解ができなかった。
これまでは授業を聞いてメモを見返せば大体の理解はできることがほとんどだったのですが、今回ばかりは難しくて理解が追いつかなかったです。
今日の講義を理解するのは非常に難しかった。補助仮説が無数に存在するが故に反証が成り立たないとするのは、理論上納得はできるまでも、どうしても屁理屈のように感じてしまった。
今回の講義も難しかったです。デュエムクワインテーゼの赤いのくだりがふわっと分かったようなわからないような気がしました。哲学難しいです。
安定に難しいですが、残りの授業も食らいついて頑張ってきます。
所々表現や説明が難解で(特にウィトゲンシュタインの回ではより一層難しく感じました…)「ん?」と一筋縄には飲み込めない部分もありました 。
デュエム・クワインテーゼの「いかなる事実が生じても『総合的命題』を守り続けることができるし、事実に応じて『分析的命題』を変更することができる」という部分が難しかった。
――ほんとすみません。今回は難しかったかもね。これはクワインの議論が難しいということもあるが、私自身がクワインの議論を「頭」で「知的」に理解しているレベルに留まっているということもあるでしょう。つまり、泥酔した状態でクワインの議論を再現できるかというとできない、それくらいの理解に留まっているということです。自分が「身体的」に理解しているものは泥酔してもクリアに話せるのだ。ちょっと反省。
講義の内容は小難しくて大変でしたので、就活の話についての感想ですが、 [以下略]
――「小難しい」という言葉が色々表していて笑える。
今回の授業は難しかった。他の人はどのくらい理解しているのかと不安になった。
―― 今回は他の人もあまり理解していないので安心してくれ。
いろいろな名前といろいろな主義の説明で先生のおっしゃっていた通りお勉強会はやはり自分の頭で整理するのが難しいし、自分の実体験などと合わせて考えるのが難しい。やはり思想自他も難しいし、主義の微妙な差、何が何を批判しているのかといったようなものの理解が大変だと感じた。正直パンクしました。でも授業内でもコメントシートでも他の人と比べるとすこし悲しくなってしまいます。
――うん、教える方が完全に理解していないと聞く方もそういう状態になるのは自然かもしれない。
今回の授業はとても眠くなりました。眠くなるということはおそらく難しくて理解できないから体が拒否反応を起こしてしまったのだと思います。そこでふと思ったのですが、哲学者は何に面白さを感じて研究しているのでしょうか。気になったので質問させて頂きます。(生涯竜党)
――私もクワインに対してそこまで楽しさを感じるタイプではないのでちゃんとしたことは言えませんが、分析哲学の楽しさの一つは「論理に身を任せて議論に乗っかる」ことかな。ちなみに私は少し若い頃はこれこそ哲学の楽しみだと思っていたが、最近はもっと他の要素が欲しくなってきた。「論理も気持ちが良いけど、ねえ…」という感じ。
クワインへの批判として分析的真理と総合的真理の区別についてよく取り上げられています。この議題について文献をあさったのですが正直よくわかりませんでした(専門用語が多すぎて頭が痛くなりました)。初学者でもこの議論を理解できるような具体例などありましたら教えて欲しいです。
――日本語で読めるクワイン哲学の解説の名著は丹治信治(2009)『クワイン ホーリズムの哲学』なので、とりあえずこれを読もう。
クワインが主張した「経験主義の2つのドグマ」について、春学期の哲学Ⅰの終盤でも触れられていたもののあまり理解ができていなかったが、当時の講義資料と今回のレジュメを合わせて読むことで理解が深まった。分析的命題は論理的な文なんだから経験とは関係ない、とぼんやり思っていたが、それらも経験によって変更され得ること、分析/総合の区別はなく経験から超越する命題は無いことを学んで、私が今まで捉えていたよりも「経験」のパワーは強いと感じた。
――その通りである。あ、ここは「経験から超越する命題」になっているな。
リンゴは本当に赤いのかということについて、私はあることを思い出した。私の知り合いで、色盲・色弱の人がいる。その人はとてもファッションセンスがあるが、私たちが見えている色とは違う色を見ている中でのファッションセンスは良いと言えるものではないかもしれない。その人のことを思い出して私は、もしかしたら、私たちが赤だと思っているものは、本当は赤ではないかもしれないし、遥か昔の世界では色盲といわれている人々が捉えている色が大多数を占めていた可能性も否定できない。そうであれば、その世界では赤は緑であった可能性もあるかもしれない。色盲のメカニズムがどうであるかを理解していないので、そのような可能性を感じてしまったが、赤の定義によってはリンゴが本当に赤色であるかどうかわからないということは、そのようなことであると考えた。この文章を書いている間でさえ、既に頭の中がこんがらがっていて、他の方々のような高度な考察はできないが、この講義が終わるまでにもう少しレベルを上げていきたいと思う。
――このような例が挙げられることはあまりないが(論文や解説書でこのような例を挙げるのは倫理的に問題あるからだろう)、検証には補助仮説が必要という点はうまく捉えられていると言えよう。
デュエム・クワインテーゼで、分析的真理と還元主義の2つのドグマをとても鮮やかに否定した事に感動しました。 僕はよく信念がぼやけていると人に言われることがあるのですが、これからそんなこと言われた時には信念の真理は状況に応じて変化するというプラグマティズム的真理観だよと言いたいと思います。 (ピンチヒッター二岡)
今回の授業は非常に痛快でした。プラグマティズムを批判していた論理実証主義が実は脆い、いかようにも事実に応じて分析的命題を変更することができるし、総合的命題を守り続けることができる仲良しこよし、自分の命題のために仲間を切り捨てることもある と論理実証主義者であったクワインが指摘したのは興味深かったです。ウィトゲンシュタインとは違って信念の真偽は状況に応じて変化するという立場をクワインがとったのは、あとからプラグマティズム的と指摘されたウィトゲンシュタインと自らその道に行ったクワインとの違いがでてるなあと思いました。 (哲学の使徒 )
デュエム・クワインテーゼは数学の証明みたいで面白かったです。「総合的命題が正しいと仮定したとき、本来不変であるはずの分析的命題が変わってしまうので、ドグマ①は誤り。」といったような考え方は背理法みたいだなと感じました。また最後の信念のネットワークで、「一番弱い信念が経験によって改訂されうるということは、それより強い信念も経験に改訂されうることを導き、最終的に中核的信念も改訂されうる。だから信念を超越する命題はない。」というような考え方は数学的帰納法みたいで面白かったです。
――分析哲学の議論の特徴って、おっしゃるように数学の証明みたいだ、ということなんですね。論理をもって有無を言わさない議論がなされるということです。この点により明確に好みが分かれます。
形而上学と自然科学の境界が曖昧になるという帰結がおもしろかった。物理学者に言ったら荷電粒子砲で撃ち抜かれそうな帰結だと思いました。
――予想通り、哲学者って物理学者に嫌われがちです。
クワインの、ドグマの脱却からプラグマティズムへの転換の解説がとても面白かったです。どんな言明も同じ体系の中のひとつの要素にすぎない、というのは、仏教の縁と同じような前提なのかなと思いました。クワインの考え方によると、経験に基づかない知識も正当化されうると思うのですが、プラグマティズムはそのような弾力性が魅力的ですね。プラグマティズムを学べば学ぶほど、絶対的な真理に頼らずとも自分自身をしっかりもって生きていこうという気になれるので、とても良いです。そして、私にはまだまだ理解が足りていないし、クワインはとても面白いと感じたので、入門書などでもっと勉強しないといけないなと思いました。。
――いつもよく理解しているなと思います。
クワインの経験主義の2つのドグマについて、還元主義の考え方の場合、総合的命題の解が直接的経験による一義的なものになってしまうが、そこに補助仮説を加味して考えた時、命題への解釈を多様化させることが出来るため、命題に対して想定外の事が起こった場合にも対応ができるようになると噛み砕いて考えましたが、考え方としては合っているでしょうか? (zoomでの参加 ペンネーム: アンガージュマン)
――「総合的命題の解が直接的経験による一義的なものになる」ということの意味は正確にはわからないが、「補助仮説を加味して考えた時、命題への解釈を多様化させることが出来る」というのはその通りだと思います。どうでもいいですが、zoomで参加するアンガージュマンって何か良いですね。
デュエム・クワインテーゼについて、ドグマ2(還元主義)が否定される話はまだ理解できたのですが、ドグマ1が否定される話は難しかったです。〈いかなる事実が生じても「総合的命題」を保つことができ、事実に応じて「分析的命題」を変更できる〉とすると、「誤り」という概念が存在しなくなるような気がしました。前回の授業でウィトさんが全面的懐疑論をナンセンスとしていましたが、「誤り」という概念が「正しい」という概念の対比でしか成立し得ないように、「正しい」という概念も「誤り」という概念がなければ成立しないではないかと思い、デュエム・クワインテーゼやその帰結はしっくりきませんでした。(正直今回の内容は個人的に本当に難しかったので、私の理解の仕方が根本から間違っているという可能性は大いにあるのですが…) (田中)
――口頭。なかなか興味深い指摘なのですが、仮に「いかなる命題も経験による裁きを受けない」とするのならば「誤り」という概念はなくなってしまうように思うのですが、クワインのポイントは、「命題はグループになって経験による裁きを受ける」ということなので、「誤り」という概念がなくなることはありません。もちろんある命題Aさんについて「いやいや私は誤っていない。だって、同じくグループの命題Bさんがおかしいだけだから」と言い逃れができるようになるのですが、グループ内のどれかの命題は「誤り」であることが否定できないからです。ですから、「正しい/誤り」という区別はしっかりと成り立っています。
2つのドグマのお話を聞いて、天文学の論理は分析的真理と総合的真理のどちらに含まれるのか疑問に感じました。「地球は太陽の周りを回っている」や「太陽は遥か遠くにある」といったことは、当たり前に感じますが事実として検証することがとても難しいと思いました。しかし、「地球は回っている」といったことは頑張れば事実として検証できるようにも思いました。そのため天文学の論理は、分析的真理と総合的真理のどちらの要素も持つということになるのだろうかと考えました。
――一般的には天文学に関する事柄は総合的真理に属します。しかし言いたいのは、天文学の「論理」、つまり、学問体系の中心部にあるようなものはどう捉えるのかということでしょう。これはまさに分析的命題と総合的命題の両方を併せ持ったものといえましょう。ウィトゲンシュタイン『確実性について』で登場する無数の経験的命題も、同様の性質を持つものと言えます
今回の講義内では、クワインの理論についてあまり理解ができなかったので、自分で調べてみたのですが、ドグマの2つ目である還元主義に対するクワインのテーゼは、以下の解釈で合っているでしょうか。
ある経験と言明は必然的に一対一で結びついているわけではない。ある経験に対して一対一で結びつくと考えられる言明は、それぞれの世界観(背景となっている理論全体)によって支えられている。一つの経験には多様な言明が対応する可能性があり、どの言明であるべきかどうかはプラグマティックに、つまり便利さなどによって決められる。
―― その通りです。このように言ってくれると、「観察の理論負荷性」という科学哲学上の立場とも関連していることがよくわかります。
信念の真偽が状況によって変わるというのはその通りだと思いました。お前はもう勝てないとみんなに思われていた人が、1回戦2回戦と勝ち進むにつれて、その内容や結果からこいつはもしかしたら優勝するんじゃないかと周りの人の信念が変わっていくのもこの話の例になるでしょうか?
――うーん。信念の確信度合いは変わっている感じがしますが、真偽は変わっていないのではないかな。
信念の真偽は状況に応じて変化するとあるが、中核的信念が変わるようなことはありうるのだろうか。水は100℃で沸騰するとか、科学的な証明まで行われてるような物はどうなっても変わりようがなさそうに思える。それこそ、アニメの世界に出てくる常識変更マシーンのようなものがあれば話は変わってくるのだろうが。例としてどのようなものが挙げられるのか気になる。
――そのような科学的な知識に関しては、日本が沈没して富士山以外では住めなくなったら「水は100℃で沸騰する」も容易に変化するのでは? しかしまさにウィトゲンシュタイン『確実性について』でやったように、中核的信念はそう簡単に変化しないし、変化してはいけないだろうという考えもある。この辺りウィトゲンシュタインとクワインの考えを比較するのも面白そう。
クワインはとても誠実な人だと思いました。先生はどう思いますか?(避けるcheese)
――正直、人格レベルまで理解していません。
クワインは論理実証主義を批判した帰結として、信念のネットワークという考えを持ち出しました。これはデカルトを批判したパースが真理を未来の共同体で一致する見解と主張したり、デューイが真理の保証を社会的要素に基づかせたり、というのと似ているように思えます。個人の意識という究極的な主観に真理を見出したデカルトの考えも、言語という、みんなと意思疎通を図れるツールとして客観性を担保しているように思えるものを武器にした論理実証主義のどちらも批判されて辿りつくのは、共同体という人間の集まりでした。このように考えると、確かに共同体は、複数人いて言語を媒介にして意思疎通をしているので、真理を個人の意識だけに依拠させたことによって生じる不都合を乗り越えられる可能性を持っています。しかし、ある共同体での信念はそこでしか共有されていない可能性もあるので、真に客観的とも言いづらいです。共同体は主観的すぎず、客観的すぎない、ちょうど折り合いがつけやすい終着点なので、デカルトからの批判と論理実証主義に対する批判の着地点として選ばれたのかなと思いました。
――ほんと良いこと言っている。
デュエム・クワインテーゼについてですが、ただ「赤い」ということを証明するためには無数の仮説が必要なのだとしたら自然科学という学問が成立しないように思えます。反証したり、論理的に違うなどの指摘は理解できますが、このテーゼに則って考えると主張をしても無数の仮説が必要だということになり物事の議論が発展しないと思います。このテーゼが蔓延ると実験環境とか条件ばっかりに気を取られることになってしまい、本当に大事なことを見落としてしまうことがありうるのでこのテーゼには疑問を感じました。 (降伏論)
――科学者たちは基本的に無数の仮説を前提として研究を進めていくのだろうと思います。クワインの議論は、そのような科学者の実践をどのように「理解」「解釈」するか、ということに関わるのであり、科学者の実践に何か影響を及ぼすものではないのでしょう。これは科学と哲学の関係をどう考えるかという大きな問題に関わります。科学者はどうも哲学的な議論は科学の発展に貢献して欲しいと考えているようですが、哲学者の方はそのようなつもりはありません。科学に貢献するというよりも、科学とは何かということを理解したいということです。この辺りのズレについては、須藤靖・伊勢田哲治(2021)『科学を語るとはどういうことか 増補版』(河出書房新社)でよくわかります。
今回の講義で、デュエム・クワインテーゼの内容の時、「リンゴは赤い」という総合的命題を守り続けることができるというお話がありました。私は、これだと屁理屈を受け入れてしまうことになるのではと感じました。なんらかの命題について議論することになったとして、真である方がいいor偽である方が都合がいいというような、思想の違いが反映されてしまうように感じます。前提を意識することは大切ですが、総合的命題という村社会的な考え方でいると、哲学の領域を出てしまうのではないでしょうか。と、言っておきながら、晩年ヴィトゲンシュタインの障害などを加味すると私的な事柄について誤り得ないという考え方に立てば、観測者によって見え方,捉え方は違ってくるので、「自分にとっては偽だけどこの人には真なのだ」という場合も出てくるでしょう。そうすると「それもまた真」と認めなくてはならないような気がしてきました。ですので私としては、今回の講義で「思想,自分の利益のためにチクチク補助命題をつつくのは避けるべきですが、障害などによる違いは容認する余地がある。」という日和見な感想に行きつきました。(ハッシュ=ド=ビーフ2世 )
――うん、そうなんですけど、まさに「事実(真理)」についての議論に「思想(ないし価値)」が入り込んでいる、ということこそが現実なのではないか、ということです。そういうことになるからダメなんではなくて、それが現実では? ということです。このように基本的にプラグマティズムは「事実」と「価値」は分離できないと主張する傾向があります。
ウィトさんは前期において「有意味でないことについては語りえない」とスパっときれいに線を引いて分割していたようなイメージだったが、対してクワインは2つのドグマを用いて形而上学と自然科学の境界線をあいまいにしたのは、なんだか胸熱展開みたいになってきました。ただし今回は少し難しかったのも事実です。(忘れられたムーア)
盛りだくさんであったウィトゲンシュタインの哲学ともお別れを告げ、今回の講義ではクワインについて学んだ。クワインは20世紀中頃以降の分析哲学やプラグマティズムに多大な影響を与えたとされているが、私はそんなクワインの中でも還元主義を否定した点が印象に残っている。有意味な言明はすべて直接的経験を指示する名辞の論理的構成物である、つまり、部分的な理解だけで全体的な理解は可能であるとした還元主義は私自身も腑に落ちない点が多かったのである。身近なところでも数学などにおいて公式だけを丸暗記するだけで数学の全体を理解した気になっている人がいたが、数学の本質的な理解はできていないと教師から怒られていたという一幕があった。こうして考えてみると、やはり還元主義は誤っているのではないかという疑問がでてきたのである。クワインはそんな還元主義を根本的に否定してくれたため親近感が湧いた講義であった。(T.T)
帰結であがった信念の強さの順位ですが、経験に応じて順位は変化することにとても共感を覚えました。しかし、中核的信義が下位に下がることはないのではないでしょうか。なぜなら中核的信義は自分の考え方の中心であり、昔からの経験や環境によって徐々に形成されるものであると考えるからです。そのためこの中核の順位が変わるということは、考え方の根本から変わるということなので、何か大きなきっかけがないと滅多に変わるものではないと思います。したがって、二つ目、三つ目が逆になることはあったとしても、中核は変わらないと考えています。
――うん、基本的には変わらない。その点でウィトゲンシュタイン『確実性について』で提示された無数の確実なものと似ている。しかし「おおきなきっかけ」があれば変わるのではないか。それでも変わらないものは何か。「我思う故に我あり」はいつでも変わらないと思うが、それ以外にあるだろうか。この辺りを考えるのは面白いですね。
講義の内容とズレますが、還元主義に関連して少し思うことがありました。科学は世界や私達を構成するものの単位を徐々に小さくしていき、それを研究することで様々な事実を解明し、私達の世界に対する理解を深め、人類の発展に貢献してきたと思います。しかし一方で、どれだけ小さな要素に分解しても、それだけではわからないことが多くあるように感じます。例えば、炭素原子にはそれ固有の化学的・物理的な性質がありますが、ダイヤモンドと黒鉛のように、炭素原子の結合の仕方が変わるとその結合体はそれを構成する炭素原子にはない性質を持つようになり、構成するものが全く同じでも異なるものができあがります。他にも、脳神経細胞の機能や構造が完全にわかっても、欲求や感情がどこから来るのか、といった問いに対して答えを与えることは難しいでしょう。この世界に存在しているものや起こっている現象は、様々な要素が組み合わさり、複雑に作用し合い、不確実な外部からの影響を受けて成り立っているように思います。そう考えると、この世界についてより深く理解しようとしたときに、還元主義的な発想だけでは限界があるのではないかと思いました。何かを理解しようとしたとき、それを構成する要素に目を向けることも非常に重要ですが、要素同士の作用、全体としての繋がり、外部との関係など、より広い視野をもって考えることも大切なのかなと思いました。(アサヒ)
還元主義の批判について、無数の補助仮説が必要であり、それらの仮説が全て真であると断定できないから還元主義は誤っているとクワインは批判したのだと私は捉えました。しかし、その理解では直接的経験を指示した名辞を疑っているように考えられ、デカルト的懐疑論に近く感じました。帰結の部分で図示していただいた中核的信念がそれを支える少し弱い信念などで作られていて、経験によってそれが変わっていくというプラグマティズム的真理観も不変で確実なものを想定していない、懐疑論の要素を含んでいるように思いました。懐疑論の中で自己の意識にとって役立つことを真とするプラグマティズムは懐疑論を克服した1つの形のように感じます。しかし、経験を踏まえて信念の形が変わるという点がデカルトの提唱した演繹法とはよく対に置かれる帰納法的な考え方にも思えました。還元主義を批判するときに疑っていた直接的経験なども信念に影響を与える経験に入るのであれば、結局クワインは経験は論理的には役に立たないと考えたのか、感覚的経験とやらがこのことに深く関係しているようにも感じたのですが、どうも私の頭ではこれ以上はごちゃごちゃしてしまい迷宮入りとなりました。クワインの認める経験がどのような経験であるのか、頭の整理がついたら考えてみたいなと思います。
――基本的にプラグマティズムは「可謬主義」なのに「反懐疑論」と特徴づけられています(パトナムによる規定)。クワインもそうなのですが、おっしゃるようにここから懐疑論(的な議論)に進むこともできそうです。後で見るローティは、クワインと(後に見る)セラーズの議論を踏まえて、「世界のありかたを反映した真理など存在しない」という過激な論を展開しました。クワイン自身はもちろんこんなことは言わないのですが、その萌芽を嗅ぎ取ったということですね。
脳内では「どうせ私の思う赤色と白川先生の思っている赤色は一緒でしょ。赤なんてほぼ原色で誰でもわかるじゃん。一色じゃん。」と思っていました。
ですが、世界人類共通の哲学(言語は違えど考えてることは共有できると言う意味での世界人類共通)において、もし「日本の青信号は一体何色なのか」というお題があれば、先ほどの私の脳内会議は間違っているといえます。
青信号は私にとっては緑色だからです。緑信号です。来日したばかりの外国人にとってもあれは緑色でしょう。ですが、ずっと日本の青信号だけを産まれてから見続けた人にとっては、それが「完璧な青信号の色」と捉えられるでしょう。
完璧なというと語弊がありますが、先週のように、ウィトさんの言う己の感性が正常であるということを前提におけば己の意見に誤りはないので、この時点で、同じものなのに、2つの色の捉え方が矛盾せずに生まれてしまうなぁと思いました。(うまく言えなくてごめんなさい)
ですが信念の強さは経験によって改訂されうるというように、青信号の色を「日本の青信号色」としか知らなかった人でも海外旅行などを通じておかしいと思い始めるかもしれません。なので、信念の真偽は状況によって変化するというのには共感しました。
ところでこの写真のドレスをご存知でしょうか??先生は何色に見えますか??一時期Twitterで世界規模で大論争があった写真です。(ちょぬちょぬ)
[画像を埋め込みできなかったので、リンクで https://www.huffingtonpost.jp/2015/02/28/shirokin-aokuro-thats-why_n_6777126.html]
――どうも「白と金」か「青と黒」で分かれるようですが、私は「青と金」 ですね…。あと日本で生まれ育った私も「青信号」と呼ぶのはおかしいとずっと思っていました。「みどり」よりも「あお」の方が言いやすいからだろうと勝手に理解していたのですが、なぜなんでしょう。
私は、小さい頃に「自分が見ている色と他の人が見ている色は本当に同じなのか」という疑問を抱いたことがあります。りんごを例として挙げると、物質的に同じものを見ているのだから、色も同じように見えているのではないかという考え方もできると思います。一方で、光の反射を考えると、知覚的に人それぞれ感じ方は違うのではないかという考え方もできます。答えが分からなかった小さな疑問を、哲学の授業を通して改めて考えてみることは面白いと思いました。
――そうですね。そのように言えばわかりやすいのですね。つまり、例えば、光の反射がどうなっているかを指定しないと色については議論できないということ。
「当たり前を指摘できるということは哲学に慣れている」という先生の言葉が印象的でした。自分は「これは赤い↔赤は一対一で検証できるか?」という問いに全く答えが浮かびませんでした。今何が問われているのか、その問いはどのあたりに答えの糸口があるのかといったことを、わからない問題に直面するとどうしても冷静にひとつひとつ考えずにサボってしまい、何がわからないかもわからなくなり、最終的にわかろうとするのがめんどくさくなって置いていかれるという事態によく陥ります。「論理を学ぶ」ということは、わからない状態をいかに適切に解決するかを見出す力をつけるのにとても効果的なんだなと、改めて感じました。いつも哲学の授業を聴いていて、論理を積極的に学ばないといけないなと思わされます。
はじめに哲学の時代の流れに合わせた板書(哲学者がたくさん書かれていた)を見て、哲学者はたくさんいるのだと思いました。こんなにもそれぞれの世界を広げているのだと考えると、すごいカテゴリなのだと思いました。そう思うのと同時に、哲学は私にとって理解しがたいものかもしれないと感じました。それは、いろんな方の真理の考え方について聞くたびに、考え自体は理解できるけれど考えるということがよくわからないと思ってしまうからです。真理は一人一人の生き方によって異なると思います。どんなものに何を感じてどう影響を受けてきたかで価値観が決まってくると思うからです。ですから、人によって異なるものを、これが正しいんだと主張されてもよくわからないのです。たしかに自分の真理を探したい人にとっては支えになるのかもしれませんが、それだけだと思います。このようにいつも考えてしまって、真理の話というか人によって全部変わるものではないかと、講義全般思ってしまいます。やはり、自分は哲学というものに向いていないような気がします…。
授業の途中で仰っていた日本独自の哲学が終戦後になくされてしまった話がとても気になりました。また授業の合間とかに時間があれば詳しく聞いてみたいです。
クワインがプラグマティズムへの転回をしたのは元々論理主義だったけれど、それとは異なる考えに対してダメなところを探したりしているうちに好きになってしまう、嫌いと好きは紙一重って感じがする!と勝手に考えてました。
シンプルな疑問なのですが、日本は人口が比較的多い国なのに、なぜ日本の哲学者は少ないのでしょうか。(非公認会計士)
――本質的な部分で哲学を信頼していないからではないかな? つまり本質的なところで議論や理性や論理といったものを信頼していないということ。
哲学というのは、意外と「経験」というものを非常に大切にしているなと今回の講義で改めて感じました。
ペンネームを書く人が少ないのはびっくりしました。私は、自分の文章が取り上げられるとものすごくうれしい人間なので(「もはやファン」とも言っていただけてとてもうれしいです)、すぐさまペンネームをつけてコメントシートを書きましたが、(匿名性があったとしても)もしかすると書くことは好きだけど自分の文章が取り上げられるのが分かるのは恥ずかしいと思う人は意外と多いのかな、と思いました。(きりん)
毎回キリンさんのコメントのレベルの高さに驚かされています。授業を聞いて,ここまで理解しきった上でこのようなコメントを書くことができるのが素晴らしいなと感じました。
コメントシートの記入は5分間くらいかかります。
コメントは早いときは約5分、長ければ30分くらいで書いています 。
講義の初めに先生が疑問に感じていたコメントシートの書くのに費やす時間についてですが、私は書くこと自体は大体15〜20分くらいで文字に起こして書いています。これに加えて、講義の後すぐに書くのは頭が整理していないと言うこともあり、難しいため、後日(といっても今回の講義コメントのように毎回火曜や水曜の夜くらいと遅く、さらにうまくコメントできないことの方が多いですが)改めて講義内容を確認したり送信するコメントを推敲したりする時間があったりしますので実際には20分より多く費やしているのかなとは思います。
課題にかかった時間は1時間ほどです。
私は講義を聞きながら、琴線に触れた部分に「コメントに使えそう」と添えておいて、講義後にそこを吟味するようにしています。お風呂の時などふとした時に浮かんだ考えをまとめて形になったらメールを送信しているので、合わせたら1時間くらいは考えているかもしれません。文科省の方の望む予習復習ではないかもしれないんですけども…。 (ハッシュ=ド=ビーフ2世 )
前回のコメントシートにかかった時間は大体4時間くらいです。寝落ちもはさんでいるので正確な時間はわかりません。先生の授業は今期一番楽しみにしているくらい好きですが、これを書くとなると間違っている気がするしうまい言葉が出てこないし皆はすごいしで毎回苦しんでいます。
――5分から4時間まで幅がある。しかしクオリティと時間はかなり比例している。
文章を書くモチベーションは人によって様々だと思いますが、自分自身の理解の振り返りなどもあるのではないでしょうか?私は自分が書いたことと、先生が毎週送ってくださるコメントまとめを振り返って同じ授業を受けていてもこんな捉え方の違いがあるのかといった「見比べ」をするために文章を書いているというのがあります。
疑問に思っているうちはそれについて書けそうな気がするのに、一度理解してしまうとそんな感覚が雲散霧切してしまいます。のどに魚の骨が刺さっているときは、痛くて痛くて気になって仕方がないのに、一度取り除かれると痛かったときのことをすっかり忘れてしまうみたいな感じです。改めて他の皆さんの文章力のすさまじさを実感しました。
哲学の授業は好きですが、授業関係のコメントは優秀な学生が書いたもののほうが出来が良く、私は授業と関係ないコメントのほうがとりあげられる率が高いので、そういう路線で行こうかとおもっています、、、笑 難しいことを考えるのは得意ではないので、哲学に関しては考えるより感じろ!ですね。
承認欲求よりも自分の意見に対する不安の強い性格のためペンネームがつけられないのですが、みんなそんなものなのでしょうか。そのうえで自分を外に表現できている人たちを尊敬し、尊敬できる自分にいつかなりたい…と思いつつペンネームはまだつけれませんでした。
先生の最後のアイデアの出し方の話を聞いていてカントや西田幾多郎のエピソードを思い出しました。カントは毎日決まった時間に散歩していたそうですし、幾多郎先生の散歩道は哲学の道として親しまれています。
文字を考える作業はゾーンに入れば案外いけると錯覚するのですが、後々見返せば「あれ?」と思うことがしばしばあります。大学の教授の方々もそういった経験はあるのですか。
――というか、少なくとも私にとってはそれが基本です。ゾーンに入って勢いで文章を書いて、後から冷静になって推敲するという作業が必要です。たまに推敲なしの文章を見せる人がいますが、うわーって感じになります。
授業も11回目を迎えウィトゲンシュタインについてたくさん学んできましたが、白川先生についても知りたいです。好きな映画となぜ好きなのか教えてください。見てみたいです。
――やっぱり「男はつらいよ」ですかー。なぜなのかは説明できない。
授業の終わりが近づいていると実感しました。難しい科目なのに、なんかもし終わったら木曜が寂しくなりそうです。先週の授業を一応タブレットで録画しましたが、見ようと思ってファイルを開いました。なんと音がないんで泣きました.... 。新しく出てきた?フレーゲとラッセルは二人とも数学の哲学の分野ですが、彼らは数学の中でも数学という学問を論理化し、論理学で数学を勉強するのが望ましいという理解でよろしいでしょうか。
――そうです。数学を論理学に還元しようとする「論理主義(logicism)」という立場です。
「就活シリーズ」は自己肯定感が上がるとともに、一回生でありながら、四回生の時の焦り具合なども聞けるため、わずか数分間のトークタイムでありながらも非常に有意義な時間です。今後ともよろしくお願いいたします。(フラワーの鍋 )
話は変わりますが、勉強することはある意味楽というのは、とても納得出来ます。僕は今までの人生で、受験勉強がとても辛かったと思いながら生きてきたのですが、最近、社会に出る時の方がよっぽど辛いのではないかと思うようになりました。それを考えると、難しい社会のしがらみに囚われず勉強が好きなようにできる大学生時代は、とても楽であり幸せな事だなって思いました。 (ピンチヒッター二岡)
現在一年生なんですが、就職に関する余談から、未来の自分にも様々な経験がもらえるそうです。
就職講座に感化されて、自分の将来について最近考えるようになりました。これからも楽しみにしています。
みんなお待ちかねの就職講座は今回も充実した時間でした。他人と比べることをモチベーションにすることは確かに理に適ていると思った。しかし私はあまりにも自己肯定感、自己愛がない。比べて、劣っていると思ったら「そこから頑張ろう」というモチベーションにできない。どんどん沈んで行ってしまう。だからといって、鬱になるとかではない。それは俺なんて、、というある意味楽観的な自分もいるからだ。20年近く自分の体を扱っているがいまだにうまく使いこなせない。
好きなことを仕事にするとそれを嫌いになるということですが、大学教授の仕事は好きじゃないと研究が進まず続かないのではないかと想像します。そのことを考えると、ずっと同じことを研究し続けられる大学の先生は結構特殊なんじゃないかと思いました。
――私も博士論文くらいの頃は「これはリンゴだ」という文をどう検証するのかということを3,4年考えていたのですが、今思うとちょっとおかしいですよね。別にそれが好きなわけではないので、なんでこんなことを続けているのかずっと疑問でした。最近気づいたのですが、私の哲学の対象になるのは「好き」なものではなく「嫌い」なものです。一般に「正しさ」とか「規範」というものが嫌いなので、正しさや規範について考えているということです。上野千鶴子さんも同じようなことを言っていたので面白かったです。フェミニストは嫌いなものに向き合わなければならないので因果なものだ、的な。これと似ていますね。「嫌うこと」のエネルギーが研究を駆動しているということです。
クワインの話は、これまでの話よりも理解しにくかったです。それよりも、就職講座の話が印象的でした。好きなことを仕事にすることは、すごく良いことだと思っていましたが、白川先生のおっしゃられたことも一理あるなと思いました。確かに、仕事以外の楽しみや生きがいといった事を中心にした方が良いのかもしれません。また、そもそも「好きなことで生きていく」ことはそもそも難しい事だと思うので、初めから仕事は仕事と割り切って考えて就職した方がいいと思いました。白川先生の哲学(仕事)以外の生きがいは何ですか。気になります。
――ゲームかな。ゲームが生き甲斐なんてむなしいと思うかもしれないが、「やっている時間はずっと心地よい時間が続く」なんて本当に素晴らしいものでなかろうか。
好きな事を仕事にするのではなく、好きな事は趣味に残しておいて、仕事はそれ程好きでもない事をするという考えは、「好きな事で生きていけ」や「仕事はつまらない物だから社会人はクソ」といった両極端な考えからは離れた現実的な考え方だなと個人的に思いました。
この話を聞いた時に、あのイチロー選手が「もう一度プロになりたいとは断言できない」というような事を言っていたのを思い出しました。あれ程一つの事に力を注ぎ込んで結果を残してきた人でも、好きな事が仕事になると相当の苦悩を抱えてしまうのかと思い、残してきた結果や能力は違えど、彼も僕らと変わらない人間なんだなと不思議な気持ちになった事を覚えています。
就活の失敗エピソードがもっと聞きたいです。
――口頭。人は他人の成功よりも失敗を聞きたがるものである。
就活の話についての感想ですが、好きなことは仕事にしないほうがいいというのに私も同感でした。私は音楽が好きで、ピアノやギターを弾くのも好きですが、学校の伴奏は嫌いでした。「やらなきゃいけない」という強制力があると好きなものが義務化してしまいます。義務化されたものに魅力などないのでやっぱり仕事にするのは仕事と割り切れるものにすべきだなと思います。たまに好きで好きで仕方がなくて仕事にしちゃったという人がいますが、ああいうひとはほんとに稀なんだなと思います。定年退職して趣味のコーヒーをお店に、ならなんかわかります。でもどちらであってもそういう人たちってどこかで余裕があるんだろうなと思います。脱サラして蕎麦屋になった人には献身的な奥様が、コーヒー店を開いたリタイア後のおじさんにはある程度の貯金が、といったように。わたしにはなさそうな余裕ですので私は大人しく淡々と仕事をして好きなものと仕事との棲み分けに勤しもうと思います。
就職活動で適度に力を抜くべきだとのお話をなさっていたので、4年生の自分が後輩に是非伝えてほしいと思うのが、3,4月は書類選考や1次面接で落とされても当たり前だから「気に病むな!」というアドバイスです。僕も随分精神をやられて3月に2回も高熱を出してしまいましたが、結局誰でも4年生の8月あたりにはなるようになっているので、なんとかなるさ精神を忘れずに頑張ってください。と時間がある時みなさんにお伝え下さい。 (ハッシュ=ド=ビーフ2世)
卒論にとても苦労しているのですが苦労するのは当たり前と仰って頂き楽になりました。今はずっと先行研究を読んでいます。授業たくさんとりながらでかなりきついので、下級生の皆さんには4秋まで単位を残すのはお勧めしません。 (もなー)
最近だんだんと講義内容を理解することができるようになってきていると思います。皆んなのコメントシートはそれぞれ味があって知見が広がっていくのが嬉しいです。
ウィトさんの哲学は年を重ねるにつれ進化している。前期は「語れないものには口を出すな」「この世に存在するのは私だけ(独我論)」など、とにかく尖っているという印象だったが、後期は「実践の外部」に目を向けている。それは世界は多様性で溢れていて、自分の常識だけが正しい訳ではないことにウィトさんが気づいたからではないだろうか。「自分の当たり前だけが当たり前ではない」ことに気づいていない人は意外と多い。そんな人には是非とも、ウィトさんの確実性を学んでもらいたい。
ただ、ウィトさんの素晴らしい点はそこだけではない。外部の多様性を認めつつも、自分自身を決して否定しないところに、私はウィトさんの魅力を感じた。何が正しいか、間違っているかを考え続けていると、ときには自分の思考そのものを疑ってしまうことがある。しかし、たとえ誤っていたとしても、とりあえず自分だけは正しいと信じていようという主張はそんな悩みを吹き飛ばす。
私たちは、ウィトさんのスタンスを見習うべきだ。ウィトさんは人使い荒いし子供に暴力振るうし結構やばい人だと思うけど、多様性に配慮し、人生を通じて自分を信じ続けた。終わりのない問いに対して、人類はどのように折り合いをつけるべきなのかを考え続けた人なのだと思う。そして、自分自身の正当性を信じることが、ウィトさんの導き出した答えのひとつなのかもしれない。
――ほんと全体を的確に理解しているので純粋に感心する。後期は実践の外部に目を向けつつも自分を否定しない、という捉え方がいい。
もう第十回目の授業が過ぎてしまいましたが、ウィトさんは意識してプラグマティズム的な哲学を考えたのではなく、「なった」というような印象でした。前期は言語の限界を考えたが、後期で実践あった規則が存在するというように言語のもつ性質を多次元的に拡張されたように思えた。そして、晩期には一周回ってまた言語の限界、つまり何が確実といえるのかという後期を踏まえたうえで再考しているように感じました。それが結果的に「プラグマティックで超越論的な確実性」などと後世の人に言われて、ウィトさん自身は「そんなこと考えてねえよ」と思っていたのでしょうか。
――これまた的確である。
同じウィトゲンシュタインという人物の中で、前期、後期、晩年と細かく分けられるというのは、ウィトさんの中で常に考えを更新している賜物なのではないでしょうか。他の哲学者は人生で1つの考え、思想を磨いていくのに対して、ウィトさんはどんどん考えを改めようと進化し続けるのは容易ではないことだ、と感じました。
――そう、容易なことではないのだ。思考とは疲れるものだから。ウィトゲンシュタインも日記で「今日は少し考えられた」「今日は何も考えられない!自分はどうしようもない!」などと記しております。自分でもやってみればわかりますが、哲学的思考ってほんと疲れますので、私も最近やっていない。
何限もかけてヴィトゲンシュタインの思想などを学んできました。まだ初歩の初歩だと思いますが。初めの印象は、こんなことを考えておもろないやろとか思ってました。僕自身、生まれてから言語に対しての不満も感じることはありませんでした。ここまで言語の追求を行う人は変わってる人なんだろーなーとずっと思っていました。しかし最近、ヴィトゲンシュタインはめちゃくちゃ真面目な人だったのではないかと考えるようになりました。誰も考えたことのない、言語の壁と言うか語りえぬものについて向き合っています。真面目な故の結果かと思いました。
授業でウィトゲンシュタインについてかなり学んだ気がしますが、結局ウィトゲンシュタインがなにを目指していたのかはよくわかりません。可能性を明らかにしてから限界を見定めたり、確実性を提示したりと、かなり現実味のある人なのかなとはおもいました。
――うん、まあ、でも、そもそも90分×4くらいでは人のことを理解できませんよね。
確実性といった、抽象的で分かりにくい話が始まったと思いましたが、意外と内容は頭に入ってきました。春に哲学からの問いで超越論的観念論についての話は聞いていたおかげです。プラグマティズム的かつ超越論的な展開をしているウィトゲンシュタインですが、白川先生がいかにも好きそうな人だと思いました。
――「いかにも好きそう」という判断って高度な人間理解です。
確実性の2つ目に出てきた、「物事の正誤を判断するためには自分は正常・健全であると前提せざるを得ない」ということについて考えた時、内容こそ全く違えど「考えている自分の存在は疑い得ない」としたデカルトの考え方のプロセスと、結論の真偽は確定しないがそれの前提が存在していることは疑い得ないという点において似ていると感じました。しかしデカルトががっつり懐疑論を展開したのに対してウィトゲンシュタインは全て誤りということは成立しないと真逆ともいえる立場だったので、主張が大きく異なっていてもアプローチの仕方が似ているように思えたのが面白かったです。
超越論的な確実性のお話について、私は自分が言っていること(信じていること)は間違ってるかもしれないとよく考えてしまうので、なるべく主観的に考えるのをやめて客観的に考えようとしているのですが、それは自分の中の客観性というものは疑い得ないと信じるしかないので、結局自分の実践の内部(主観的なもの)からは抜け出せていないのかなと思いました。というよりも、抜け出してしまって自分の信念を疑ってしまうとやはり混沌に陥ってしまう(この表現好きです)のではないかと思いました。
もう1つの「私的な事柄については謝ることはありえない」という確実性はデカルトの「疑っている自分だけは疑えない」という論に通ずるものがあるなと感じました。
―― 分析哲学でもプラグマティズムも「デカルト批判」からスタートし、(授業ではカットしたが)『哲学探究』では「私的言語批判」という(実質的な)デカルト批判をしつつも、最後の最後ので「デカルト的な私的な確実性も大事」ということに気づいた――このようなストーリーは、思想のダイナミズムというかとても感慨深いものがあります。以上のストーリーには白川解釈が濃厚に含まれているので注意が必要なんですが、この解釈は10年くらい前に指導教官が授業中にボソッと「最後にデカルトに戻っちゃったわ」と言っているのを聞いたことから始まっています。ボソッと言うのも大事ね。私はまだ若いのでついつい「わかりやすく説明」しがちですが、すべて説明しないというのも大事ね。
晩年のウィトゲンシュタインは確実性について明らかにしようと試みていたが、とても難しい議論だと感じた。ウィトゲンシュタインによると、確実性とは「誤り」が論理的にありえないことであるとしている。この点については現在論理学を受講しているため頭では理解できるのだが、やはり腑に落ちない部分もある。論理学は言葉や思考などの筋道が通っているかを主に探究するものだと認識している。しかし、もちろんこの現実世界は言葉だけで成り立っている訳ではない。そのため、ウィトゲンシュタインが現実世界を包括して論理的に確実性を定義してしまうことに疑問を覚えたのである。さらに言うならば、なんとかして確実性を定義したいというウィトゲンシュタインの心理的な一面も垣間見えた。何回にも渡ってウィトゲンシュタインについて学んだが、論理的な側面と心理的な側面のどちらも感じ取ることができたため、そもそも論理と心理を明確に区別することはできないのではないかという気もしてきた。(T.T)
ウィトゲンシュタインはこの世界の確実性というものは、そこでこの世界を信じて日常における実践をしている限りにおいては、もう既に確実なものであるということを言った。それは、世界のルールの中で実践を行う場合には、それを疑うことはできないからである。でも、この世界の確実性について疑っている人もいる。それは哲学者である。もちろん、日常における実践を行うときには、哲学者であってもこの世界について疑うことができないわけであるが、哲学をしているときには疑っているのである。そういうところに対して、ウィトゲンシュタインやプラグマティストなどは自己欺瞞的であり、フィクションを語っていると批判するわけである。しかし、ある意味では哲学というものは、自分の存在している世界から一度出て、そこからメタ的な視点で外から世界の理について考えるというものであるため、世界について疑うことができるわけである。たしかに、それは一貫性に欠ける態度かもしれないが、そういうような取り組みがあってもいいのかなとは思う。(Petrosky)
実践の内部で実践を可能にする規則を疑いえないという考え方は、逆に実践があって初めて疑いえない確実なものが存在しうるという様に言うことが出来ると思うので、この点でもプラグマティズムっぽいと感じました。
ある物事が確実であることをどのように定義すれば良いのかという問題について、その確実性を実践の内部、また私的な事柄に限定するのを見て、それぞれの個人、集団ならではの命題をすべて認めていると考えました。その点、やはりプラグマティズム的思考は、多様性を重視する今の時代に最も適している考え方だと思いつつ、多くの人種が集まっているアメリカだからこそ、生まれた哲学だと感じました。
――前半はまったくその通りなのだが、ウィトゲンシュタインに関してはアメリカとほとんど関係ないということに注意。たしかに『確実性について』のノートを書いていたのは、たまたまアメリカのノーマン・マルコムの家に滞在していたのだが、思想的にはほとんどアメリカとの関係はなさそう。
「猫は木からはえない」といったような常識的な命題は、正しい、誤り、疑う、信じるとかいう以前の問題だな、と感じました。そもそもこのような命題は、常識に従って判断できる人間が、日常的に疑問に感じるようなものではないし、誰かが疑っているから信じていると表現するしかないだけであって、ただ「事実であると受け入れられている」ものとして、共同体のなかで続いてきたものだと考えます。つまり、このように受け入れられているものは、決して自分の経験に基づく判断だけに委ねられたものではなく、今まで自分と関わりをもち、その常識的な知識を自分に与えたり、それを共有した上で、疑うことをしていない多数の他人に支えられていると考えました。
――まさに、そのような常識的な命題には、正しい、誤り、疑う、信じる、知る、といった「認識論的な概念」が適用できないということであり、それゆえ、『確実性について』の始めの方では、「ここに手があることを知っている」と言うムーアが批判されています。「知る」対象ではないとして。でも最後に「ムーアは正しかったのかも」と考え直しているので、笑えるのです。
確実性は同一の実践を行う人々の間の中で合意されているものだろうか。同一の実践の内部で一人が誤りと判断しても、それが他者に認められない
道路上での走行車の位置(左側通行)など、日本やイギリス以外の土地では異なる規則は確実だろうか。
↑道交法の範疇外は実践の外部?
確実性は議論の土台を定める段階から進むため、土台を整備したような印象を受けた。確実性を芯に据えることで、それを起点にさらなる哲学を考えることができる?
物理法則は普遍的な実践?
地球外の惑星でも不変。
高校野球と高野連の関係性があげられました。この内容を聞いていて私は高野連という命題が高校野球を包含している場合、命題の正誤関係がどうなるかのついて疑問に思いました。
――仮に「高野連」が「高校野球」を包含している場合は、「実践の内部で高校野球のルールは誤り得ない」とはなりません。
高校野球のルール変更を例に挙げて、実践の外部に出れば、確実じゃないとのことを話されていたのに対して、私は、サッカーのルールが毎年変更されているように、内部でもルール変更はあると思ったのですが、この場合どのように考えますか。(非公認会計士)
――私が言ったのは、毎年変更されるとしても、それはサッカーの試合中ではないよね、ということです。会議などで変更されるのでしょうが、その会議は「サッカーの実践」には含めていません。
私が考えた大学の講義における規則として機能する命題は「教授が学生よりも哲学という学問に長けている」ということです。
――すると例えば「自分の方が教授よりも哲学を理解している」と言う学生は自動的に誤りということになってしまうのですが、それでいいのかな? いいのかな? というのは論理的な話というよりも、面白みの観点からの疑問です。
「大学の講義における受講生のマスク着用」はどうでしょうか。もはや誰もが疑わず、正誤判断の対象にはならなくなったことだと思います。もちろん数か月後には変わっていることかもしれませんが。
――マスク着用に関してはそのように言えそう。重要なのは、明示的に定めたわけでもない命題がいつの間にか「規則」として機能するようになるということです。いわば社会の空気によって規則が制定されていくということ。
私は、晩年のウィトゲンシュタインが言っていることは、聞いているともっともらしく感じられる。なぜなら、言っていいることが理解しやすいからだ。確実性についての原理で、それぞれの実践で規則として機能する命題はその実践の「内部」では誤りえないというものがあったが、これは当たり前だと思った。そこで誤っていたら規則とは何なのか分からなくなってしまう。実践の「外部」では確実ではない例で、高校野球連盟は野球のルールを変更するとというのを例にしていた。これの当たり前のことだと思った。もしかしたら、ウィトゲンシュタインの哲学とは当たり前のこと難しく言っているだけなのではないのかと思った。
――ウィトゲンシュタインはどこかで「人が沈まないところで哲学者は沈んでしまって、もがいていると浮かび上がることができて、やっとで人と同じことができる」という趣旨のことを言っていたっけ? つまり頑張った結果、一般人になれるということですね。
確実性というものを定義する時、結局自分以外の視点を持てないし、自分以外の誰も自分の視点を持てないのならば、普遍的に正確な物事の捉え方を得ることは究極的には不可能である為、それならば自身の精神の健全性だけは損なわないよう自分の物差しは誤っていないと考えるべきだというアイデアは、ある種人が持つべき最低限の護身術であるなと感じました。授業で仰った内容が中々難解な為、この解釈で合っているのかはわかりませんが、少なくとも自分の中ではこういう事だろうと信じる事にします。
晩年のウィトゲンシュタインが、物事の正誤を判定するためには自分は正常健全であると前提せざるを得ないと考えていたことには正直驚きでしたが、私はこの考えはとても支持できます。例えば美容整形をしている人を知った時、よく「親がくれた体に傷をつけるなんて」という声が聞こえてきますが、親がくれたといえども自分の体であるその体に、傷をつけることがなぜ非難されるのだろう?と思っていました。私は自分のことをどこかで正常健全だと思っているから自分の考えが正しいと思ってしまいますが、実際私は異常な状態であり私がなんで?と思っている考えの持ち主である他者が正常健全であるかもしれないので、そもそもこの話には本人の意思が重要であり外野の正誤の判断などナンセンスではありますが、勝手に正誤を判断するならば、やはりそれは難しいよなあと思います。正誤の判断が難しいとなると多様な考えを認めなければなりませんが、それはある種多様性を尊重することに繋がるけれども、違う側面では危険を避けることのできない無法地帯的な境地へと到達してしまうので統制は必要だけれど、そう考えると多数派なだけで本当に正常かどうか分からない常識が人間の行動を統制しているこの世の中は少し狂っている側面もあるのかなと思いました。
前回に弾き続き、ウィトゲンシュタインの物事の捉え方には惚れ惚れする思いです。多くの哲学者の考え方は天才的というか、常識では到底思いつかないような発想の世界を見せてくれますが、一見すると奇想天外に思います。それと比べてウィトゲンシュタインの考え方は論理的に展開されており、本人がゲーム理論として発表しているように、言葉を扱う人間ならば誰にでも通じるような展開で説明してくれるため、受け入れがたい理論がほとんどないように感じました。他の哲学者が無茶苦茶を言っているとは思いませんが、ウィトゲンシュタインと比べると自身の世界観を持っているように思ってしまいました。
そんな筋の通っているように感じたウィトゲンシュタインの理論ですが、強いて言えば板書の確実性⑵で紹介いただいた自身が正常健全であると前提せざるを得ないというのは、冷静に捉えれば丁度いい妥協点だと思いますが、やはり限界を決めてしまって諦めているような印象を受けなくもないです。正常健全であることの定義を決めることができれば、そこに完全な確実性を認めるあれるようにも思いますが、健康面で正常健全であることでさえ現在の科学力でも精神面など難易度の高い面もあるので、独断的な定義になってしまいウィトゲンシュタインらしい論理的な哲学とは合わなくなってしまうことを踏まえると彼にはそんなことは言えないだろうと複雑に思いつつも、何か革新的な定義が生まれないだろうかと思いました。
―― 私的な確実性という概念は白川の解釈が濃厚に影響しているので注意。
確実性の話で「私の名前はルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタインである」が自身の記憶や知覚に関する命題の例として挙げられていました。それに関連して、日本では結婚すると片方の人の苗字が変わることが多いですが、先の例を見るに、苗字が変わる(=自身の記憶に関する命題が変わる)というのは個人にとってすごく衝撃が大きい出来事なのだと思いました。
――うん、でも普通の手続きで苗字が変わる場合は、私的な確実性も変わります。
私的な事柄の確実性について、何故それが誤りえないのかその原理があまり腑に落ちませんでした。実際は自身の異常によって誤っているかもしれないが、正誤判定のために正常健全だと見なさざるを得ないというのは少し強引ではないかと思いました。
調子が悪いときに間違える、勘違いするなどの誤りはウィトゲンシュタインさんにとっては誤りに当てはまるのでしょうか?
障害などで、全てが誤りということを合意すると板書されていたばめんにおいて、例えで手の話があったが、どうして結論として全てが誤りとなるのかが上手く捉えられなかった。
今回の授業で確実性について学びましたが、私的な事柄につて誤ることはあり得ないということは、つまり自分の記憶に関する命題においては、記憶を正誤の判断基準なので、誤ると判断できないということですか?
私的な事柄についての論は、理論は理解できるけれどいまひとつ実感できませんでした。たぶん自分が正常かどうかを自分で疑うのは実践の内部でそれを可能にする規則を疑うようなものなのではないかと思った。
2つ目の確実性で自分の記憶や知覚に関する命題について、「ここに手がある」、「私の名前は○○である」といったことは確かに普通間違えようがないと思う。ただ、原理の所で私的な事柄について誤ることはあり得ないとのことだったが、見間違いや思い込みは誰であっても実際にあり、実際はどうあれ物事の正誤を判定するためには自分は正常・健全であると前提せざるをえないというのはやはり少し違和感を覚えた。
――ちょっと言い方が良くなかったですが、知覚・記憶に関するもののなかで「自分にとって確実性の度合いはそれ以上ないもの」に関して論じています。普通に調子が悪いときは見誤るし、勘違いや記憶違いもあるでしょうが、自分の手を見ながら「これは手である」とか、「自分の名前は○○である」ということを誤っていると想定することはできないということです。こうした事柄を疑う人には逆に「じゃあ何を根拠に判断するのか?」を聞きたくなるということです。他人の証言? しかし、こんな状況で他人が信頼できるとか、その人が言っていることを正確に理解しているなどと思うことができるでしょうか?
今回の講義で晩年のウィトゲンシュタインが確実性を求める際、「物事の正誤を判定するためには自分は正常健全であると前提とせざるをえない。(実際は異常障害に陥っているかもしれないが)」と黒板に記載および説明がされていましたが、正常健全の基準自体はどう判断されるのでしょうか。前回の講義にて、後期のウィトゲンシュタインは「人々の実践の一致」こそが「規則」を可能としていると説明したことと今回の講義のまとめで「プラグマティック(実践)で超越論的(可能性の条件)な確実性」という説明がされたことから晩年のウィトゲンシュタインは後期のこの考え方を継承している前提で確実性を説いているということで解釈して良いのでしょうか。
――このレベルになると、正常健全の基準を「人々の実践の一致」のような公共的なものに訴えることはできないと思います。つまり、世界中の人から「お前はおかしい」と言われても、自分はおかしくない、正常である、と判断しなければならない状況があるように思うということです。この「判断しなければならない」 で表現される規範性はいったいいかなる種類の規範性なのかということは非常に興味深いのですが、話し始めるとまた長くなりそうなので、ここで止めます。
確実性ではまず自分が正常健全であると前提するとあったが、大方人はそうやって物事を判断しているし、自分が正しいと考えて行動しているから、とても的を得ていると感じました。一方で、自分を基準にすることの他に、社会共通のことを基準にする場合もあるため、その場合には自分が正常健全であるかどうかは必要なのか?と疑問に思いました。当たり前のことを疑問を持たずに飲み込んでいることがおかしいのか、はたまた当たり前なのだから飲み込んでおかしくないのか、自分の中での疑問解決にはまだまだ時間がかかりそうです。(俺のリリックノート )
――もちろん社会共通のことを基準にする場合もあるのですが、そのような社会共通なものを認識するためには、基本的な知覚・記憶は活用せざるをえなくて、その意味で自分が正常健全であることを前提せざるをえないということです。
先生の解釈の、物事の正誤を判断するためには正常健全であると前提にせざるを得ない。ということは、腕を失っている人が、腕があるかのように感覚が残るという人に対して、その人が腕が痛い、私にはまだ腕があると言っていても実際腕は無いので、そういう人の意見を聞いていては正しい判断はできないということでしょうか。日本語がめちゃくちゃで申し訳ございません。(ジャスティン・ブリリアーナ)
――他者からすれば間違っているということになるでしょうね。でもポイントはそこというよりも、本人にとっては確実なんだ、ということを踏まえて他者理解することだと思います。それに関して良いことを言っている人が以下。
自分の記憶や近くに関する命題において「正誤の判断は異常や障害に陥っていたりしても正常であると前提する」ということにもしかしたらこれは精神疾患の方とのかかわり方の姿勢に応用できるのではないかと感じました。自分の周りには精神疾患の方はいないですが、この否定せずに受け入れ、相手の障害を前提とせず、全て正常であるとする考え方がもっと広まればいいかなと思います。ちょっと調べたところウィトの家系にはうつ病や自殺者が多いという記述を見かけたのでそのことと関係していたりするのでしょうか。
――まさに「自分には正しいと思えないのだけど、相手には正しいと思えるのだ」という態度は精神疾患のある人はもちろん他者一般を理解するためにとても重要な態度だと思います。私これまで、この態度は(いつか述べる)ブランダムの推論主義の帰結だとして、そんなことを書いたことがあったのだけど、私的確実性に由来していたのだー! というか、私的確実性という観点からウィトゲンシュタインやブランダムを解釈している帰結だったのだー! と、自己理解が深まりました。このような理解の深まりは非常にうれしく、そのきっかけをくれたコメントに心より感謝します。
物事の正誤を判定するためには自分は正常健全であると前提しなければいけない、というお話の中で、特に「実際には異常障害に陥っているかもしれないが」という前置きが日常生活では大事だと思いました。他人と生活する中で、相手の言動に違和感を感じることも多いと思います。それに対して、「間違っている」であったり、「〇〇することこそが正しい」と言いたくなりますが、相手にとってはそれが正しいことであるために、伝えてしまうと関係に不和が生じてしまいます。そこで意固地になって自分のほうが正しいのにと考えるのではなく、実際には自分が異常障害に陥っている可能性もあると考えることで、他人と生活していくことが少し楽になると思いました。私が全くお話を理解できてなくて、頓珍漢なことを言ってしまっているかもしれません。その場合は申し訳ございません、資料を読み返してもっと勉強します。
――まさに「自分には完全に正しいと思えるのだけど、間違っているかもしれない」という態度は他者とやっていくには重要な態度と言えます。
実践のところで話していた確実である内部を私、確実でない外部を他人と理解できるなと思いました。(非公認会計士)
自分の話になるが、私にとって今までの経験で確実なことが一つある。それは、「白川先生の授業を受けているときは、家の付近に豆腐屋が来る」ことだ。前期の哲学からの問いの授業でも豆腐屋さんが家の付近に来ており、今期の哲学Ⅱのでもそれは続いている。まあ、木曜の14:30ぐらいに来ているだけだろうと思うが、授業中一度も豆腐屋が来なかったことがないので、もしかしたら次期以降に違う時間帯の白川先生の授業を受けても豆腐屋が来るかもしれないと少し思っている。
――これは「帰納的な確実性」と呼べるものだな。
私は、未来や死後の世界など「不確実性」がある人生を楽しもうと決めているので、「確実性」のある事象はつまらないと思ってしまい、わざわざ「確実性」とは何か議論する必要ないじゃんと思いました。
――哲学者は「確実性」を希求する人が多いと思うので、期待には添えないかも。
今日の講義で印象的だったのは誤りという概念は正しいものとの比較によって成立するものであって、全てが誤りということは成立しないというお話です。このお話を聞いたとき,習い事の先生に言われたある言葉を思い出しました。私はダンスを習っているのですが,始めた年齢も決して早くはなく,劣等感などをたくさん抱いてきました。これができていないからだめ、このやり方は誤っている,私はみんなより遅れているなど否定的な考えばかり抱いていました。しかし,あるとき,ダンスの先生が,この世の中に誤っていること,間違っていることなんて一つも存在しない,正しいと感じることも人によって異なるから誤っていると感じることも人それぞれで,あなたが間違っていると思っていることが誰かにとっては正しいと思ってもらえるかもしれないとおっしゃってくださりました。今日の講義を聞いてそのお話を思い出しました。哲学を学ぶことによって前向きな考え方ができるようになりかもしれないなと感じました。
やはりといっては何ですが、哲学を通して人間の”限界”を探求するという行為には、厭世的な思考が垣間見え、カントからショーペンハウアー、ウィトゲンシュタインに通底する悲観主義的思想に感じ入り、個人的に今回の授業で少しだけ憂鬱な気分になりました。
――超越論哲学とペシミズムを関連させる発想はなかったので興味深い。しかしカントにはペシミズムはないのでは? いやしかしカントにペシミズムを読み込むと面白いかもしれない。
今回は晩年ウィトゲンシュタインさんについてやりました。『確実性について』という本が死の二日前のノートからということなので、ウィトゲンシュタインさんにとって哲学という学問は、死の間際まで続けてしまうほどの何か惹かれるものがあったのかな、と思いました。私はまだそういうものはないので、ウィトゲンシュタインさんがそういう意味ではうらやましいです。 (きりん)
「それぞれの実践で規則として機能する命題はその実践の『内部』では誤りえない」、「私的な事柄について『誤る』とすれば、異常、障害によって『すべて誤っていること』を含意するが、これは『誤り』ではない(ウィトゲンシュタインさんの定義)ので私的な事柄について誤ることはあり得ない(白川先生解釈)」というこの二つの原理から特定の条件下(実践または自分の内部のみ)において「誤ること」はないということだと思うんですが、それはあくまで一つの実践または一個人の内部においては成り立つ事柄なので、あくまで孤立した「世界」にあるのだな、と思いました。そうであるとすれば、この孤立した「世界」同士で議論が行われるとしたら永遠に議論が結論を出すことはないのかな、と思いました。
今回の晩年ウィトゲンシュタインさんの考えはいろいろなところに影響を与えているような気がします。授業で聞いている最中に思い浮かべたのはルイスキャロルさんの「不思議の国のアリス」の小説でした。読んだのが随分と前なのでうろ覚えで間違えていたら申し訳ないのですが、この話も結構アリスと不思議の国の住民との「常識」(?)の差異の表現がよくみられるので、もしかするとルイスキャロルさんも晩年ウィトゲンシュタインさんが好きだったりしたんでしょうか。 (きりん)
まさか、私の文章がまるまる取り上げられて、先生から「なんか面白い」と言っていただけるとは思っていませんでした。うれしいです。「前期ウィトゲンシュタインさん」「後期ウィトゲンシュタインさん」「○○についてやりました」という表現についてなのですが、先生から言われるまであまり違和感を持っていなかったです。言われてみると確かになんか、あれだな、と思いました。
ちなみにペンネームについてですが、話の区切りごとにあったほうが切り取ったりするときに楽かな、と思い各話ごとに入れていました。(一ヶ所だけなかったのは見落としてました。すみません。) (きりん)
――今回もいいですねぇ。ウィトゲンシュタインの哲学で提示されるものは結局は孤立した「世界」であるという鋭い洞察と文体のギャップが醸し出す雰囲気。 『不思議の国のアリス』は1865年出版なので、ウィトゲンシュタインよりもずいぶんと前です。ウィトゲンシュタインとルイスキャロルは直接的な関連はないと思いますが、しばしば規則のパラドックスは「ルイスキャロルのパラドックス(推論規則をすべて明示化しようとすると無限後退に陥る)」と類比的に説明されます。ペンネームの繰り返しはそのような配慮のもとだったのですね。そこに思いが至らず、ただ面白がっていた自分の浅はかさを反省。
それぞれの実践で規則(ルール)として機能する命題はその実践の「内部」では誤りえないという原理を聞いて思い出したことがあった。それはエジソンにまつわる逸話で、学校で『1+1=2』を習った時「どうして1+1=2になるのか」と先生に聞いて困らせたという話だ。このときエジソンは実践の外部に立っていて『1+1=2』に疑問を持ったが、内部にいる先生からすると『1+1=2』は規則でありその正誤を疑ったことがなく説明ができなかったということなのだろうと思った。改めて、『1+1=2』に疑問を持つなんて、やはりエジソンは幼少期から他の人と考え方が違ったのだと感じた。
――うん、そう、まさにそうなんです。私も最近「学校の先生は実践の内部と外部を柔軟に行き来すべきだ」と某所で叫んできたところだったので、興味深く読みました。
授業で紹介されたウィトゲンシュタインの2番目の確実性に関して、自分の記憶や知覚に関する命題とありましたが、これは絶対的な確実性とは言えないと思います。記憶に関しては、録画、録音などの客観的な記録ならともかく、過去の記憶はしばしば自分の中で無意識に書き換えられていることがあります。昔の記憶は実際以上に美化されていることもあります。知覚に関しても例えば、ホットコーヒを飲むときに、猫舌の人はそれをとても熱い飲み物と認識するだろうし、そうでない人は単に熱い飲み物と認識するなど、「熱い」という基準は人それぞれです。人の記憶や知覚の命題の根拠が主観性に依拠するならば、それを確実という絶対的な言葉で表現できるものなのかは疑わしく思いました。とはいえ、これまで授業コメントで、毎回ウィトゲンシュタインの考えを批判してきましたが、白川先生が以前に批判するのは哲学の論文を書くときに取り組みやすいというような趣旨の発言をされていたことを思い出しました。どんなに偉大と言われる哲学者の考えも完璧ではなく、どこかには批判の余地はあると思います。確かにこれまでの授業で批判箇所を見つけるのはそんなに大変ではなかったです。しかしどんなに批判が的確であろうと、一番偉大だと思うのはその批判対象を提示してくれた哲学者だと思いました。批判対象であるその斬新な考えを自分が思いつくかと問はれれば、無理だと思います。批判をするのは1から2や3というように有から有を作るようなものだと私は解釈していますが、0から1のようなオリジナルな考えをつくり出した哲学者がいないと批判対象も生まれません。ウィトゲンシュタインはオリジナリティあふれる考えを編み出した点で偉大な人物だとしみじみ感じました。哲学者は斬新な考えを生み出すこと、的確な批判をすること、どちらにより心を燃やすのか気になりました。
――私に関して言えば、博士号取得までは批判ばかりしていたが(その方が業績を作りやすいので)、その後「批判ばかりする人生なんなの?」と疑問になって、多少は穴はあっても自分のアイデアを言うことを目指すようになった。他の研究者も同じような人が多そうな印象はある。
「それぞれの実戦で規則として機能する命題は、その実践の内部では誤りえない」ことは最初聞いた際には理解できませんでした。そのあとの例をあげられた際によくわかりましたし、納得ができました。また、そのような考えを言語化したり、分かりやすく言い換えたりすることに尊敬を覚えました。特に前者について、自分は考えることは好きですが、それを言葉に言い換える工程が苦手です。その工程をやってのけた人は(時間はかかったのかもしれませんが)すごいなと感じます。
また、私は概念的なお話が苦手であると思いました。例えば私は簿記が好きなのですが、それはつまり、答えが1の位まであらかじめ決まっているものです。反対に文章を読み解いて、問いに対するあなたの考えを何文字で書きなさいとかが苦手です。答えがこれであるといったものはもし理解できなくても覚えてしまえば何とかなりますが、答えが明確でないと理解してもまた間違えることがあり得ます。講義ではやはり概念的なお話が多いので、もっとそれに触れ、考え、慣れるしかないのかもしれないと思いました。
超越論的な哲学に関して限界を見極めようとする哲学であると教わりましたが、文字面を見る限り「越」という文字を使っているので何か越えているように思うのですが結局何を超えているんでしょうか。何個か辞書やサイトを見たのですがさっぱりわかりません。
――カントの場合は「認識」を限界を越えようとしています。しかし認識の外側は認識できないということは自覚しているので、実際に「超越」することはしません。つまり、志向としては超越しようとするけれども、実際には超越しない(ように抑制する)ようにしているということでしょうか。ウィトゲンシュタインの場合は「言語」「思考」の限界を越えようとする。
最後の超越論的な哲学についてですが、物自体が存在するというのは決して人間という直観察者が決めるんで、どうして物自体が存在と言えるんでしょうか。
――もちろん、もの自体の存在は認識の外側にあるので、もの自体を認識することはできません。しかし、もの自体が存在しないとすると認識の材料になるものがどこからやってくるか説明できなくなるので、もの自体があるものと想定せざるをえないということです。
カントの認識論を説明する際に話していた、赤いメガネしかないから、赤色の認識しかできない、という話がよくわかりませんでした。(非公認会計士)
――
今週も就活のお話とても心に響きました。白川先生が就職お悩み相談会を開催したら、絶対人気になると思います。
――じゃあもっと話そうかしら。ネタは色々あるんです。
もう第10回目のコメントシートを書いていることに時の流れの速さを感じます。この調子だと就活まであっというまなんだろうなと思いながら、先生の就活話を聞いています。非常に参考になるので、これからも時間があればぜひ話してください。
――やっぱりそうなのか。じゃあもっと話そう。
最後に話して下さった進路に関して質問があります。私は割りといろんなことにチャレンジする方なのです。その中でやってみても、いまいちしっくりこないとか自分には合ってない気がする、向いていないと思うことがあっても、それは慣れていないからで、はじめは全部そんなもんだろうと思います。そんな時先生がおっしゃっていた苦手なものは苦手だからある程度で切り替えた方がいいというお言葉はすごく理解出来るのですが、次に進むタイミングが分かりません。なんでも「できるようになったら楽しいだろう」と考えてしまいます。
――そうなんですよね。見切りが早すぎるのもよくありません。でも、物事によってできるようになる(慣れる)期間には明確に差がないですか。一番よくわかるのは、同じような状況にいる他人と比較することでしょう。同学年の仲間と比べれば、自分の得意・不得意がはっきりします。しかし他人の比較は不幸の始まりなので、やりすぎには注意。
就職に関する余談で、苦手なものと得意なものを区別するために、多くの体験をしてみることが大切であるという言葉には非常に共感しました。また、個人的には好きなものが得意になるのは難しく、得意なものは比較的に好きになりやすいと思うため、嗜好よりも得意・苦手の判断を優先すべきなのではないかと考えてたりします。
今回就活の話で楽しいことを優先した方が良いという先生のアドバイスでしたが、先生は哲学が嫌いになったり、距離を置いたりしたことはありますか? 私自身が就職活動では好きなことや趣味を仕事にしない方が良いとお聞きしたので先生の意見をお伺いしたいです。
――私自身前期の授業では「好きなことを仕事にしない方がよい」と言っていたなー。うーん。どうなのだろうか。
ここ最近卒業論文の執筆を追われていて、立てた仮説がなかなか立証できずにツラいのですが、先生は卒論で行き詰まった時にどのようにして乗り越えましたか?先生のいい意味で緩い感じの授業が毎週の癒しとなっています。
――口頭。
これを書いている今日(15日)が誕生日なんですが、いまだに誰一人として祝福の言葉が来ません。もしかしたら私が異常、障害で誕生日を勘違いしているのかもしれないのですが、この場合でも自分が正常であるとせざるを得ないのでしょうか。つらいです。プラグマティズムの中で何か言いとらえ方ができるようなことはないでしょうか。
――逆に私これまで「誕生日おめでとう」と言われてうれしくなったことがないのだが、やっぱり普通は言われたいものなの? 一応「ありがとう」とは言うのだけど、何がめでたいのだろうか。
先生が授業の終盤で仰っていた「苦手なものは諦める」というのはやはりその通りで、私の場合勉強がとても苦手です。しかし大学にきた以上はしなければならないのでなんとかしのぐことはできています。。。ですがこのまま社会に出たときに勉強が苦手で諦めるというのはやはり難しいので残り少ない期間で好きにさせることにしました。
――これまでけっこうやってきても苦手ならもうそういうもんだと思った方がよいのでは?無理に好きになるよりも。
あと雑談ですが、今週はオンラインで授業を受け、先生のASMRのような声と温かい部屋で途中で居眠りをしちゃいました。起きた時「私の名前はLWである」というメモがありまして、自分の名前のアルファベットと同じで少しビックリしました。
前回(9回目)のコメントシートを出し忘れていたことを木曜の朝起きた瞬間に思い出し、「臍を噛む」とか「苦汁を舐める」とかいった単語がぐるぐる頭を回っていたのですが、そういえば人間は嫌な思いを口に含みがちだなと思いました。ハンカチを噛むのもこの類似でしょうか。(P.N 田中)
今回は後期ウィトゲンシュタインさんについてやりました。個人的には後期ウィトゲンシュタインさんのほうが好きです。前期ウィトゲンシュタインさんからはなんとなくなのですが、突き放されているというか、冷たくされているような気がして少し寂しいと感じていたことに後期ウィトゲンシュタインさんをやって気が付いた、ということが一番の理由です。後期ウィトゲンシュタインさんは冷たい雰囲気がなくなって柔らかくなった感じがするので、後期のほうが好きです。(きりん)
始まってすぐぐらいに黒板に書かれた「無が無化する」(ハイデガー)という言葉は、「頭痛が痛い」と似たような文章で結構違和感がありました。日本語で読むから不思議な感じがするのかなと思って、「nothing is made unify」(英語) 「nichts wird vereint」(ドイツ語) 二言語に訳してみました。(訳したとは言っても翻訳サイトで訳したので原本などの表現とは変わってくるかもしれません。)
ドイツ語部分
nichts 何も~ない 動詞wird →werden(~になる) 形容詞vereint 一致した、統一した
英語部分
「unify」=「統一する」
こうやって見てみると違和感を感じるのは日本語だけのような気がしました。ただ、違和感は感じるけれど、みただけでぱっとみの意味が理解できなくはないので日本の翻訳家さんはすごいです。(個人的にですが、日本では抽象的な表現でも割と伝わることが多いですよね。)
「規則のパラドックス」の説明について聞いたとき、そもそも規則とは従うというか、その規則がしかれている施設内においては普通にみんなの常識として定着しているとばかり思っていたので、このような考え方は新鮮でした。固定観念を壊された感じです。漫画でいえば後ろに雷がぴしゃーんってなりそうなレベルでびっくりしました。 (きりん)
規則のパラドックスに対処せよという問題に最初答えが全く思いつかなかったのですが、「ウィトゲンシュタインさんの手法:問題の『解消』」というヒントを見ててっきり「解釈をすることをしない」だと思ってしまいました。解釈するから規則の崩壊を招いてしまうので、規則を解釈しなければ文字通りの意味をとらえるだけになりますし、解釈していないのだからだれが何をしようと否定(または肯定)する道理はないので規則のパラドックスに対処できるのでは、と思ったんですが…。ウィトゲンシュタインさんの考えだと「規則に従うこと」の裏にある意味までしっかりケアしていてすごいな、と思いました。 (きりん)
この前、Twitterを見ていたら哲学書の読み方について
「哲学書を読むときには、まずはその哲学者の言いたいことに共感的に、悪い言い方をすれば全面擁護するつもりで読むべきなのだが、それはその哲学者の信者になるということではなく、その哲学者の思想を真に吟味するためには、その哲学者を自分のなかで「最強」にしないといけない」
Twitter 戸谷洋志 さんのアカウントより引用
と言っている方がいて、今後哲学書(それ以外のジャンルの本でも)を読む際はこういう風に読めばいいのかと参考になりました。ちなみにTwitterのプロフィールに書いてあるのですが、関西外国語大学の准教授で哲学と倫理学を専門にしていらっしゃるようでした。 (きりん)
Twitter 戸谷洋志 さん
https://twitter.com/toyahiroshi/status/1464212887971385346?s=21
――特に「後期ウィトゲンシュタインさんについてやる」という表現と繰り返されるペンネームが良い。ちなみに「無が無化する」はもともと"Das Nichts selbst nichtet"です。最近の翻訳ソフトは、有意味な文章にするためにずいぶんと意訳をするので注意が必要です。Deep Lなんかは、わからないところはすべて(自然に)飛ばしていたりして、器用な生徒のようです。
後期ウィトゲンシュタインは前期の写像理論を批判したとのことでしたが、対応する事態がないものをナンセンスと捉える考え方も批判したのでしょうか。(元妄想族総長)
先生が「規則のパラドックスは感動的だ、」とおっしゃっていたので、どこが感動的なのかを意識しながら、授業を受けてみたのですが、イマイチ把握できませんでした。実践を重視しているプラグマティズムと実践の優位が重なったあたりが感動的なのでしょうか。(豚に新宿スワン)
今回の授業は言っていることは理解できたのですが、「プラグマティズム」や「プラグマティズム的転回」などの用語が出てきた瞬間、頭がごちゃごちゃになってしまいます。授業も折り返しに来たのに、用語に慣れていないのはそろそろやばいでしょうか。(マイケル富岡義勇)
普段ラジオにメールを投稿しているので、実際に使っているラジオネームを使おうか迷ったのですが、やっぱり恥ずかしく思い、適当に考えたペンネームで送らせていただきます。(非公認会計士)
―― あの、一人一ペンネームでお願いできますでしょうか?
今回の授業は今までと比べてもトップクラスで理解することが難しかった。私のプラグマティズムへの理解の薄さと白川先生と私のプラグマティズムやウィトさんへの熱量の改めて感じる機会となった。
しかし毎度毎度コメントシートのまとめの資料を見るとみんながすごく深い理解をしている。さらにそこから新たな疑問点まで提示し、次の授業で説明されている。悔しいがその疑問を見ると私も気になってしまうようなものばかりである。
言語ゲームに関しては高校生の時に習うものだったが暗記していただけということもあり、実際の意味をしっかり理解していたとは言えなかった。改めて知っている言葉の意味を理解しなおす機会ができたのはとても良いものだと思った。
その話の流れで同じ言葉でも表現方法によって伝えたい意思は変わってくるということの説明を受けた。失礼ながら、白川先生の演技を見ているのは面白かった。なんと表現してよいかわからないが、とても頭が良い人のぶっきらぼうな演技を見るのは面白かった。(すみません。。)
規則のパラドックスの解消、「規則に従うことは解釈ではなく実践。近杏奈氏[根拠なし?]の実践。
人々の実践の一致が規則を可能にする。これらの言葉すごく納得したし理解できたと思い込んだのだが、これを誰かに説明しろと言われるまるでできる気がしない。つまり私はまだ言葉としての理解しかできていない。今までいろいろな人に哲学が好きだと豪語してきた自分が恥ずかしくなった。
―― まあこの辺なると「哲学」って感じがしますよねー。
今回の内容は難しすぎて知らない世界に連れていかれました。
規則のパラドックスの話は自分にとって難しすぎました。考えれば考えるほどよく分からなくなってくるし、なぜ?を繰り返して行った時に根拠は無いけどそうすると答えざるを得ないところに行き着いて、それ以上は深掘りしないでくれと言いたくなりました 。
規則のパラドックスの解決法として根拠のない実践が体育会ぽくて好きだなと思いました。難しくてこのくらいの感想しか書けません。
規則のパラドックスは非常に面白いと思いました。実は今回の講義以前から、似たようなことは考えていました。なので内容自体はスッと入ってきたのですが、ウィトゲンシュタインの提示した規則のパラドックスへの対処には少し鳥肌が立ちました。実践が規則を可能にしているという論理の転回は先生が惚れるのも分かる決まり具合だと思いました。(この部分が気に入ったわけではないかもしれませんが…)
ウィトゲンシュタインの言語ゲームの考え方もしっくりときました。多様性について触れることの多い現代では、むしろ言語ゲームの考えを前提に置いておかないとすれ違いが生まれるだろうと思います。自分と相手が同じ言語ゲームで会話をしているのか、考えていると少しだけ自分が隔離されているのでは…と怖くなりましたが、実際に人と話していると片方が情報不足である以外に会話で支障をきたすことはなかったので私の周りの人は私と同じ言語ゲームで話しているようでした。安心しました。
言語が規則に従うという点で、あまり哲学とは関係ないかもしれませんが、思いを表現する方法として絵や楽曲なんかもあると思います。そちらにもある程度の規則はあると思いますが、言語・言葉よりは自由度が高いように思います。絵に関しては言語と同じくらいの時間続いてる文化の一つだと思いますが、普通は使わない方法を敢えて使う表現方法や今でも新たな手法が開発されたりと進化もしています。それに比べると言語は普通と異なる表現方法ではどうしても違和感を覚えてしまうように思いますし、単語が生まれることがあっても文法などの規則的な面は劇的な進化はしていないと思います。規則に従う言語は他の表現とは伝達における正確さの点でずば抜けており便利になりましたが、あやふやな感情を伝える点では不自由に思えるところもあるのかなと思いました。
9回目の講義はウィトゲンシュタインの論理的思考に目からうろこの落ちる思いが強く、自分でもよくわからない方向へ感想が走って行ってしまいましたが、規則による正確性を以て様々な知識や理論を生み出す学者や、規則に縛られながらも複雑な感情などを表現する小説家たちはすごいなとしみじみ感じていました。
――私もそういう「論理の転回」的な洞察に惹かれるのだ。そういう意味ではカントも好き。一言でいえば、超越論的な発想法が好きということなんでしょう。
規則のパラドックスについて、論理を保証するための絶対的な解釈というものが存在するのか、すなわち人によって規則に関する解釈がバラバラでありうるのではないかという問題は、小中学生の時から勉強をする中で薄々感じていた疑問だった。小中学生の勉強内容はそんなに難しいものではないが、「なんでそうなるの」という素朴な疑問を積み重ねていくと、簡単には答えられない哲学的な問題に入ってしまう。そうなると、途端に勉強がわからなくなるので、そういう問題から上手いこと目をそらしながら、でもたまには表層的な理解にならないように個々の問題から本質のようなものを見つけ出すという矛盾した作業をしなければならなかった。これは熱心に勉強をしていた人なら誰しもが一度は考えたことがある問題だと思う。これに対処する方法は「なんでそうなるの」という問いを「問う意味がありそうな段階まで」繰り返して、いい感じのところでやめてしまうということしかない。
そこで、結局のところ、そうした根本的な問いに答えがあるのかどうか。1+1=2だがなぜ、それが成り立つのか。成り立つことはなぜかわかるが、理由は説明できない。そこで、私なりに考えた結論としては、「論理とは『すべての人間が共通に持っているセンス』を前提になりたっている」ということである。これは、ウィトゲンシュタインの答えと少し違うが、私は人間の力を信じたい。あらゆる人間の間における実践の結果がたまたま一致しているから、それを俯瞰してみたときに、その一致が規則に見えるというのは写実的な解釈だと思う。事実をそのまま言っているという感じがする。そこに、たまたま実践の仕方が一致しないような変な人がいれば、そのグループに入れないことになる。でも、私はその人も人間である以上、必ずその規則を理解するような基礎的なセンスを持っていると思う。だから、そういう人に教育する場合には、その人が潜在的に持っているはずの人間的なセンスが引き出されるまで、繰り返し、機械学習的に同じパターンのサンプルを与えれば十分である。(Petrosky)
ウィトゲンシュタインの規則が実践を可能としているのではなくて、実践が規則を可能にしているというプラグマティズム的思考の転回は鋭すぎて「おお~」と感嘆の声をあげてしまいました。途中まで後期ウィトゲンシュタインの説明を聞いているうちは(特に規則のパラドックス)は、規則や意味の崩壊を指摘してウィトさん終わっちゃうのかなあと思っていましたが、鋭すぎる答えを用意していてただただ感動しました。先生が最後に指摘していたように、たまたま人々の実践の仕方が一致するのは、精神病棟や義務教育の段階での矯正で、そういった「一致しない人」を消去しているからかもしれないし、そういったかろうじて矯正されなかった生き残りが「天才」として新たなパラダイムをつくるのかなあと思いました。エジソンは学校にほとんど通っていなかったそうですし。ただ、「天才」たちや学校反対論者が僕たち「実践がたまたま一致した者」を馬鹿にすることはできないだろうと思います。それは一種の実践の仕方の違いであって、人々の能力や人格には関係ないからです。社会を形づくるという面からも人々の実践の一致は重要かもしれないと感じました。すいません。少し話が脱線してしまったのですが、総じて僕はゆたぼんの考え方が嫌いだと後期ウィトゲンシュタインの説明を聞いていて感じました。 (哲学の使徒 )
――パラドックスを提示するだけで満足する人もいますが、やっぱりその後もしっかり面倒を見る人の方が良い感じですよね。
後期ウィトゲンシュタインは先生の例もあり、理解をしたというと語弊があるかもしれないが比較的イメージしやすかった。言語は規則があっての解釈が存在するのではなく、実践があってはじめて人々のの間で一致している規則が存在しているというのは、まるでイギリスの慣習法のように思えた。
慣習法も成文化された規範があったのではなく、昔からの伝統や慣習をもとに規範を作ったというような人びとの暗黙の了解のようなものが社会のルールになった点でウィトゲンシュタインの規則のパラドックスに類似していると感じた。このような例はほかにもたくさんあるのではないかと思う。
例えば、日本でいう「行儀」もこれにあたるのではないかと感じた。これは行儀がいい悪いという明確な分類があるのではなく、なんとなく善悪があって行儀の規則としているように。これらのように実践が先行して人々の中で規則、規範となっているのを探していくのも面白いと思われる。 (底が取れるティファール)
――慣習法との類似を見て取るのは良いですね。まさに実践によって規則が形成されているのでその通りです。ブランダムという人も同様の文脈で慣習法を例に出すことが多いです。
規則のパラドックスについて、規則が先に、実践が後にあると想定した場合、それは規則という概念そのものが元々存在する実在論の立場であり、逆に規則が後で実践が先であるという想定は、唯名論の立場に基づくものではないかと思った。そして、今回の例のように規則を解釈次第で正統からはずれたものに改変できうるという意味で規則は実践を規定しない。すなわち、実践が規則に先行する唯名論の方に軍配があがるのではないかと思った。
――良い捉え方をします。まさに、規則に関する実在論と唯名論(ないし反実在論)との対立として見て取ることができる。プラグマティズムは基本的に何でも実践によって構成されると主張する傾向があるので、だいたいにおいて反実在論的な特徴があると言えます。
ウィトゲンシュタインの「規則のパラドックス」の解消法、理屈では理解出来たのですが、どうも腑に落ちない、納得し切れないような印象でした。「人々の実践がたまたま一致する」というのは、少し根拠として薄いような気がします。仮に共同体中の人々の行動に一定のパターンを見たとして、そのパターンは従うべき「倫理」とか「道理」になり得るのでしょうか?確かに、その共同体の中で生活するには「周囲に従う」ことは賢明な判断だとは思いますが…誤解していたら申し訳ないのですが、やや違和感を覚える主張のように感じられました。
今回の講義で、後期のウィトゲンシュタインが「人々の実践の一致」が「規則」を可能としているとし、こうした「実践」こそが大事であると説いた点について、私は、おそらく慣習的と化した既存のやりとりや規則に対してであれば成立すると解釈をした。しかし、こうした「規則」を成立するためにはどれほどの年月が必要となるのだろうかと考えた。具体的な例で言えば、「コロナウイルスのワクチンは接種すべきか、しないべきか」という現在進行形の問題を科学的な根拠とかを加味せずに人々の実績の一致で「規則」の成立を認める場合、まだ過半数の人類が必要回数のワクチンを摂取していないし、まだ効果が実証されてもいない。科学的な根拠とかの話となれば、おそらく後年によりその効果は明らかになるだろうがこうした誕生したての問題に対して、大まかにどれほどの年月と人々の一致によって「規則」として成立するのか、課題を現状のみで加味しないプラグマティズムの観点も鑑みて少し疑問に感じました。
――まさに良いところを突いている。「ただこのように実践する」とか「実践の一致」は「事実」であり、それは「~すべし」「~するのがよい」という「規範」とは違う。「事実からは規範を導くことはできない」というのは大原則であり(「ヒュームの法則」)、このギャップをいかに埋めるかは大問題である。私も卒論以来十数年にわたってその点を考えていると言えよう。この問題意識を共有できたのはうれしい。
疑問に思ったのは実践が規則の前に来るのであれば実践の前には何があるのでしょう。そこにあるもの、実践の一致を生むものは一体何なのでしょうか。頭を悩ますばかりです。
ウィトゲンシュタインはこの問題をどう解決するかではなく、問題自体を解消するという発想が出るところが本当にすごいと思った。ただパラドックスの解消についてまだ理解しきれておらず、規則に従うことは解釈ではなく実践であるとし、人々の実践の仕方がたまたま一致するので問題はなく、むしろ人々の実践の一致が規則を可能にするということであるが、人々の実践がなぜ一致するのか、どのようにして一致するのかというあたりがまだよくわからないなと思った。
規則のパラドックスの解消法としてウィトゲンシュタインが提案した実践が規則に先行するという考えに関して、人々の実践の一致が規則を可能にしているということですが、その実践は人々が規則というものに縛られず、自然に行うという意味で本能や先天的なものを意味するのか、それとも子供が大人の振る舞いを見て学んでいくように後天的なものなのか気になりました。辞書に新しい言葉が追加されるのは、まさに実践から規則なったことを意味すると思います。例えば、「エモい」の言葉は2018年1月発売日の広辞苑第七版には載っていませんでしたが、人々が実践で当たり前のように使用するとそのうち辞書に掲載されるのかなと思います。このように「エモい」が辞書に掲載されれば、日本語の規則の人として認められることを意味するので、それはまさにウィトゲンシュタインが言った実践が規則に先立つことを意味するのかなと思いました。流行語の中には実践はされたけれど、辞書に載らず規則までは辿りつかない言葉もこれまでたくさんあったと思います。これは実践が規則には成り得なかったことを意味するのかなと思います。とすれば、どの程度の実践が規則の成立に必要で有用なのか疑問に思いました。全員一致でなくてもある程度の多数派が実践していれば、全員に影響を与えることになる規則として成り上がるのでしょうか。また一度成立した規則は実践によって変更可能なのでしょうか。例えば、ら抜き言葉の「見れる」は「見られる」の誤った言い方とされますが、日常会話では「見れる」と発言することもあります。形式上はまだ「見られる」が優勢な気がしますが、もしも「見れる」も許容されれば、それは実践による規則の変更を意味するので、まさに「ら抜き言葉」は実践と規則の攻防戦を見ているようで、今後の行き先が気になります。現実世界では規則と実践が相互に影響を与え合っているのかなと思いました。
――うん、そこも大問題なんです。その点について他の受講生は「人々の実践の一致は、本能的なものと、教育的なものがあるのではないかと考えました」 「我々が普段生活している世界では、規則以外に慣習等があることによって、多くの人が同じような解釈で物事が行えるようになっているのではないかと感じました」と言っております。「本能」「教育」「慣習」という要素に訴えられています。そしてこれは哲学者たちも考えるものであります。特に「本能」に訴えるものは「自然主義的解釈」と呼ばれるもので、以下のコメントもその一種です。
解釈ではなく、人々の実践の一致が規則を可能にする、ということについて驚くような観点だと思いましたが、とても納得できる点もありました。人々が社会や集団に属するとき、他者と関わるとき、「大多数」と異なる行動をしたり、異なる意見を持っていたりすると、蔑まれたり、不当な扱いを受ける可能性があります。社会的な心理として、大多数(=普通)と同じでありたい、また異質なものは排除したい、関わりたくない、という側面があると思います。そうした心理を一つの要因として、集団にとって不利益になるものは排除され、排除を避けるために同質化が起こり、そこから規則が生まれてきたと思います。歴史的にも、人と違うことで迫害を受ける場面はよくあったことと考えます。規則のパラドックスは単なる机上の論理ではなく、現実にそうした側面が起こってきたんだと思いました。
ウィトゲンシュタインは、規則の解釈どうこうというより、それ以前にある誤解をなくそうと奔走し、人々の実践の一致が規則を可能にしているから規則のパラドックスはそもそも無意味であるという結論に至ったのだと思います。規則は私的に正当性を維持することはできないが、それを保証された主張可能性などによって共同体での一致が認められればその規則は正当性をもつ規則になりうる、ということでしょうか。これはとてもプラグマティズム的な考え方だし、人間が共同的実践を行う上で欠かせない前提であると思いました。しかし、結局授業内で取り上げられた「矢印は右なのに左に行く」というようなことを実際に信じている人にはどう説明すればいいのでしょうか。根拠なしの実践ならば、皆がそうしているから一致するようにしろ、言語実戦の現場をみよとしか言いようはないのでしょうか。前期の授業でも「アキレスと亀」のような議題は上がっていて、その時私は確かに色んな解釈があるけど、それを許容できないこともあるし心が狭いのかなと思ったのですが、普通はこうだ、という感覚がない人と巡り会ってしまった時は避けるに徹してきたので中々難しかったです。
――根本的に相容れない人であり、同じように規則に従うことができない人なので、円満にお別れするしかないのでは?
今回の講義までに後期ウィトゲンシュタインの考えは自分の考えを変えてくれるような感動的なものかもしれないと期待していましたが、規則のパラドックスの解釈で、「規則に従うことは解釈ではなく実践であり、実践の仕方が一致するから問題がない。むしろ実践が一致するから規則を可能にする。」というプラグマティズム的解釈が僕にはすんなり納得できません。パラドックスの例では、規則を自分と違う規則として捉えていることをどう対処するか。が問題でしたが、実践が一致しない場合を元々考えないという答えをウィトゲンシュタインはしているように感じ、問題に関して「解なしです。」と答えているように思います。もちろんウィトゲンシュタインのポイントとして、問題の解消という手法をとったということは理解できますが、ある出来事には必ず原因があると信じる僕にとってウィトゲンシュタインの解釈は物足りなく感じました。
――ウィトゲンシュタインなら、「出来事には必ず原因がある」という思い込みが哲学的混乱の元であると言うでしょう。
今回の講義では後期ウィトゲンシュタインの規則のパラドックスについて学びました。個人的には、「規則ではなく実践が先行する」という発想は前期ウィトゲンシュタインよりも私生活とのつながりを認知できることから概ね納得できました。一方で、「実践の一致」は前提条件として多くの人々の存在が必要不可欠なことに抵抗を覚えました。例えば、他者が存在しない世界(大量絶滅で自分1人しか生存していない世界等)が成立した場合、1人の実践が規則を決めることになります。Ⅰ人であるが故に実践の内容も変化していく可能性があると思います。このような条件において実践の一致をどのように適応していけばいいのか気になります。
――ウィトゲンシュタインは『哲学探究』でまさにそのような個人的な言語としての「私的言語」が存在しないと言いました。規則に関しても「規則に私的に従うことはできない。なぜなら、規則に正しく従っていると思っていることと、実際に正しく従っていることの区別が付かなくなるから」とします。
後期ヴィトゲンシュタインが前期のそれを批判する際「あー」や「えーと」、「どうも」といった日常会話の意味をカバーできないからとしていましたが、哲学でそこまで考える必要があるかなと思いました。たしかにこれらは事実と事態に照らすと意味のないものになってしまうかもしれませんが、日常会話(自然言語)の意味については国語辞典を作る人たちに任せてしまってもいいように感じました。哲学の範疇は、神とのような超越的なものや、言語を介しての人間同士の意思疎通の仕方についてまでで、日常会話は除外していいように思います。(ハッシュ=ド=ビーフ2世)
――これは後期ウィトゲンシュタインからも影響を受けた「日常言語学派」というものへの批判ですね。
とにかく哲学において言語は必要不可欠であるのにその言語に惑わされているようで頭がついていかなかったのが今日の講義でした。
――ウィトゲンシュタインは言語によって惑わされているのが哲学者であり、その混乱を解消するのが自分の役目だと言っております。
また後半に出てきた例をつかった問題で先生がおっしゃられていた「自分が異常」という言葉がすごく怖くなりました。世の中の人がみんな今日の授業のような「何しても否定することができない」ということを思い出したら崩壊すると思い、恐怖を感じました。今日はデカルトの考えがすごく理解でき、授業の途中まで自分もデカルトになりそうでした。しかし、人々の実践の仕方がたまたま一致するので問題なし。→「人々の実践の一致」が規則を可能にしている。ですごくスッキリとした授業の終わり方でした。それと同時になんだそんなことかというような不思議な気持ちになりました。
――「なんだそんなことか」という感覚こそ、哲学がもたらしてくれるものだと思います。
規則のパラドックスの例2で、実際に自分がこのような解釈をする人になったという事を考えると、「そういった解釈をしてしまうせいで正しい方向に行けない」ことも恐ろしいが、それ以上に「人々から見て"変"とされる考え方を自分がしているということに自分で気づけない」ことが恐ろしいと感じた。私がこのような事態に陥った時には、「→」を見て左に行った結果何もなく、右に行って目的物を見つけるという行動を何回か繰り返す内に"「→」を見たら左に行くものだと私は解釈しているけど実際に物があるのは右だから右に行く"という風に自らの行動を修正するようになり、修正した行動を繰り返した末には"「→」を見たら右に行く"と、行動だけでなく思考の方も実用性の面から最適化されていくのではないだろうかと思う。
人々の実践の仕方がたまたま一致していく過程で、その一致から外れた人は排除されるかもしくは前述のように自らの実践の仕方を修正し適応していく必要があると思われるが、その一致の過程で着いていけなくなるという事を考えると恐ろしく感じた。
そもそも、"「→」は右"という規則がなぜ規則として成立しているのかを考えると、実践の中で人々の間に広く受け入れられていったからだと考えられるし、さらに言えば「右」という言葉がなぜ右を意味するようになったかというのも、この文字をそういう意味で人々が広く使うようになったからだと思う。文字や単語を学習する際、「この文字にはこういう意味がある」と聞いた時に「なぜこういう意味があるのか」という事を考えるとキリがないが、その理由を追い求めると実践という観点に帰結するのかなと思った。
今回の授業で、ウィトゲンシュタインがプラグマティズム的と言われる所以をようやく理解した。私は、「ウィトゲンシュタイン=論理哲学論考」のイメージが強すぎて、話を聞いていても「これは、身近な哲学なのか?」とずっと疑問だった。しかし、言語ゲームを実際の事例に落としこんだり、規則は実践を前提に成り立つとする後期の考え方は、まさに自分ごとの哲学だと感じた。言語ゲームは方言なんかが代表例として挙げられると思うし(※関西弁の「このゴミほっといて」は、他の地域の人になど伝わらないと聞きました)、規則のパラドックスは先生があげたもの以外に合言葉が挙げられると思う(※私の実家では最寄駅に着いたことを「の」と言います。妹が言い始めて、いつの間にか定着していました。実践→規則の例かなと勝手に思っています)。哲学は、あるあるネタくらいの感覚で接する方が面白い。着々とプラグマティズムに感化されている気がする。
前期のウィトゲンシュタインのモノローグ的な言語論から一転してプラグマティックな言語論を展開した後期のウィトゲンシュタインについて学んだが、まず第一に、ここまで大きく自分の考えを変化させた要因がとても気になった。その点を意識して講義を受けていくとある傾向に気が付いた。それは、ウィトゲンシュタインが人とのつながりを重視しているということである。後期のウィトゲンシュタインは言語使用の規則を「人々の実践の一致」すなわち社会の慣習から捉えるため、前期のウィトゲンシュタインのように各自の経験などに依存してしまうような独我論に陥ってしまうことはない。前期の頃と比べて明らかに他者を意識しているのではないかと考えられるのである。この傾向と白川先生が以前、前期のウィトゲンシュタインは若さを感じるとおっしゃったことを含めて考えを深めていくと、ウィトゲンシュタインもたくさんの人と関わりながら年齢を重ねていくにつれて性格が丸くなった(表現が正しいか分からないが)ため考えが変化したと推測できる。このようにまとめてみると、ウィトゲンシュタインの人間味溢れる点が浮き彫りになり親近感が湧いてきたため、新規ファンになろうという気が湧いてきた。(T.T)
それと2を足していく話や、彦根駅の方向の話ですが、それもすごく面白く、またジャルジャルというコンビのお笑い芸人のネタに少し似通ったものがあって、それを思い出しました。彼らが哲学を意識して作っているとは考えにくいですし、僕も本当に少しだけ共通点があるかなあと思ったぐらいなのですが、個人的には面白いと感じました。https://www.youtube.com/watch?v=PIiLsb9a2Ig 『相方を理解できない奴』 一応、リンクを貼っておくのでお暇な時、みてください。
先日、藤子・F・不二雄の「気楽に殺ろうよ」というSF短編集の話についての動画を見かけた。主人公がある日突然、性欲と食欲に関する常識や倫理観がひっくり返った世界に来てしまうという話で、講義で知った規則のパラドックスとよく似ていると感じた。自分の知っている常識が通用しないことを想像すると不気味だが、同時に興味深い議論だとも思う。また、作中では主人公一人だけがその世界の人間と違った常識を持っているため、ルールに従わない精神異常者のように扱われるシーンがあるが、ウィトゲンシュタインの「実践の一致が規則を可能にする」という主張と合致しているように思えた(バルバロイ)
午前中に就活の面談があったので、少し疲れていた。ただでさえ理解が難しい授業なのに、疲れた状態で受講すれば、頭の中がこんがらがるのではないかと心配だった。しかし、なぜかいつもより心地よく聴くことが出来た。疲れているときに哲学をするのも悪くないのかもしれない、と感じた。
今までの授業では、頭が痛くなるほど複雑な考えが多く、学生の意見のレベルの高さに驚かされてきました。しかし、今回は先生の専門的な範囲ということもあり、頭が痛いと感じることがありませんでした。教える人がより深く理解していればいる程、教えてもらう人も分かりやすいということは本当なのかもしれないと初めて思いました。今回の授業でパラドックスについて取り上げられていましたが、とても身近で分かりやすく、言語そのものについて疑問を投げかけているのではないので、2ずつ足していく命題でも、意味は分かるけど、どう言ったらいいのだろう、となぞなぞを考えているようなもどかしさを感じました。また、安部公房という名前が出ました。私は、国語の読解問題が得意で、ある程度どのような種類の文章でも対応できる自信がありました。しかしながら、安部公房の「棒」という文章だけは、筆者が何を伝えたいのか、候補がたくさん考えられたことと、不思議な世界観が相まって、とても苦戦したことを今でも覚えています。この授業を受け終わって、考え方が少し変わったという実感が持てたとしたら、再度安部公房に挑戦してみようかなと思いました。
これまで哲学Ⅱの講義を受講してきて、ただただ感心するしかないようなコメントを同年代の人が書いていることに嫉妬心を覚えたり卑屈になったり焦燥感を感じたことがありました。そういった感情に急き立てられて精進することは非常に大切なことですが、自分の不得手なことや熱中できないことで優れた結果を出そうとしても仕方がないので、程よく手を抜いたり肩の力を抜いて取り組むことが大切なのかなと考えるようになりました。自分の得意分野や熱中できる分野では自分から進んで競争の場に身を置いて、そうでない分野ではのほほんとやるくらいが精神衛生的にも良いのかなと感じました。
――これは就職にも関連してちょっと話ができそう。
コメントシートに何人か書いてあるように本当に他の受講生のコメントシートのレベルが高いと感じます。私はこの授業で初めて哲学を学びました。中学生まで哲学という言葉は聞いたことがなかったし、高校でも学んだことはありませんでした。フランスかオランダ?では中学生くらいの早い段階で学ぶと聞きました。日本でも私の学校が違っただけで、中学とか高校で哲学を学ぶのでしょうか?
――哲学に関しては学校で習ったとかではなく、普段からそういうことを考えているか・感じているかによって理解度に違いが出てくるのではないかと思います。
前回のコメントシートで拝見した、外国語で哲学をする事に関連して、ウィトゲンシュタインさんを初めとする多くの哲学者は、外国語を母語としているので、日本語で完全に理解するというのは不可能だと思います。(どうしても日本語と外国語にはニュアンス等違うので)ですが実際に論考などの本を日本語に翻訳した人がいる訳で、そのような翻訳した人はどんな思考をもって外国人が書いた哲学に向き合っていったのでしょうか。。。非常に気になります。(R.N. ピンチヒッター二岡)
――どうなんでしょう。私も昨日、一日中、英語の本を読んでいましたが、何と言いますか完全にスッと理解できないイライラに悩まされていたので、私も得意な人に聞きたいところです。
同じく外国人として、第二外国語で哲学を勉強するのは難しいと思います。しかし、先生が説明していることを理解していた時に、喜ぶ感じも他の授業よりうれしいです。ですので、頑張って勉強していきたいと思います。
――理解できないものが理解できるようになった瞬間ほどうれしいものはないですね。
今回のコメントシートでは、直接授業に関係はないのですが、先生にききたいことがあったので、それについて書こうと思います。
滋賀大学のある教授が、授業の合間に「理系で1番賢い人は数学や物理学を極め、文系で1番賢い人は哲学を極めるが、どちらもなかなか収入に繋げることは難しい。ずば抜けて頭のいい人は損をする世の中になっている。」とおっしゃっていました。私は現在3回生なのですが、自分のやりたいことや就職先について悩んでいます。先生はどうして哲学を極めようと思ったのか、差し支えなければ教えていただきたいです。
――賢い云々はちょっと何とも言えないが、これは重要なテーマですねー。口頭でしょうか。
哲学の授業も面白いが、やっぱり自分はちょっとした雑談が好きなので少しでもいいので雑談を増やしてもらえると嬉しいです。(オイベ)
毎回この哲学Ⅱのレポートは授業を聞いた後に考えるのでいつもぎりぎりになってしまいます。書いてみるとなんか違うなぁという気持ちになりながらも期限があるので納得のいかないまま出すのが毎回です。コメントシートで掲載されている思ったことを言語化できる能力が優れているなという方々のコメントを見るとうらやましく思えます。自分も語彙力をつけていいコメントができるようになりたいです。このペンネーム付けんのが一番悩みました。貼り付けした後も悩んでるのでもし提出遅れたら名前のせいです。(降伏論)
(例)
ウィトゲンシュタイン大好き。でも、授業回を消費しすぎでは?(彦根梅子)
どうも先生は哲学というものを完全に誤解しているようです。(彦根)
「ウィトゲンシュタイン」という固有名はなぜウィトゲンシュタインを意味するのですか?(HU)
「哲学を学ぶなら岩波文庫を全部読め」という言説をネットで見たのですが、本当ですか?(ポチ子)
今日は何も感想がないので、何も言いません。
今回の授業内容は私にとってなかなか理解しにくいと思います。書いたノートを何回も繰り返し見ましたが、深くまで考えるのができていませんので、時間の結構最後にコメントシートを書くことになりました。そもそも哲学という学問は難しいものであり、母語以外の言語で勉強するのはさらにハードルが高くなるので、周りの友達はみんな哲学を履修していません。ですが、せっかく哲学を勉強する機会があり、いろいろと考えることができるのは幸せのではないだろうかとよく思っています。また、毎週先生が載せたコメントシートを見るたびに、みんなは凄すぎ、哲学について研究しているなのと思いますね。私にとってできる限りに先生のもとで哲学を理解していくことは目標です。
――私も外国語(英語)で哲学をやるのは非常に困難を覚えます。数学ならば数式という共通言語があるし、自然科学ならば事実という共通項があるのですが、哲学は思考そのものが題材なので外国語でやるのはとても大変なのです。自分も外国語で同じように思考できるレベルではないと話をスッと理解できません。ですから、このような状況でも忍耐強く取り組んでいるのはすばらしいことです。一ついいことを申しますと、そのような困難な状況でも一生懸命に理解しようとするのを続けると、「理解する能力」がものすごく向上します。母国語の話なら、たとえどれほど難解なものでも、ほとんどのものは寝ながら理解できるようになるということです。
今回の授業は結構難しいような気がしました。理解ができないというよりは、理解するために時間がかかる、パソコンで例えるなら一気に大容量の情報をダウンロード、ダウンロードした情報は暗号化されていて手動で暗号を解く必要性があるっていう感じでした。文章を読んだうえで自分の中にわかるように落とし込む作業は結構大変で、家に帰ってからも何回か板書を読みなしたんですが、読むたびに(物理的に)頭が痛くなりました。これこそまさに頭で理解することの外側にあることなのかな、と思いました。
――頭が痛くなるというのは神経細胞が活動しているということなので、よいことなのでは?
他の方のコメントを拝見して自分自身はあまり内容をつかめていないなぁと感じ、もう一度講義資料を一から見直してみたのですがやはり難しいです。面白いなとは感じられるのですが、理解してあのような考察をするのは一筋縄ではいかないなと思いました。
前期とは違い良いコメントは授業内だけでなく、資料として先生が送ってくれているので毎度毎度楽しく読ませてもらっているのだが、同じ大学生のコメントシートのレベルが高すぎて驚いている。プラグマティズムの方々やウィトさんの話は私が苦手だということもあり、周りの方たちのコメントには恐怖すら感じた。
前回のみんなのコメントシートを読んだり、それについての先生のコメントを読んだりしていると面白くてつい読み込んでしまいました。みんなのコメントを読んでいると自分の能力のなさに落ち込むこともありますが毎週楽しく講義を受けています。
――まあ大学ってそういうものですよね。「あ、こいつデキる!」という奴に出会うと焦って心臓がドキドキしてきますけど、だからこそ精進しますよね。あと自分よりも賢い人間って恐怖を与えるというのは、共感。
私は論理学がすごく好きで、ウィトさんの論理的な面が推しなのですが、「論理と湿っぽい人生を両方持っているのはウィトさんぐらい」というような先生の話を聞いていると、ウィトさん好きが量産されそうだなと思いました。論理学も出てきたし、心なしかいつも以上に饒舌な先生の話も聞けたので、体調悪かったけど授業受けてよかったです。
――日本にはウィトさん好きが多いのですが、このあたりが関係しているのかな?
今回で前期ウィトゲンシュタインについて一通り学んだ訳ですが、前回の講義も踏まえて前期ウィトゲンシュタインの全体的な印象としては自分の視点や考え方を中心に置いていて少々荒っぽく哲学を展開しているといった感じでした。これは哲学的命題には対応する事態がないといったある種独断ともとれるような結論を出したことや、語りえぬものには沈黙せねばならないと言い切っていること、さらに独我論の立場を取ったということからも分かりますが、私はここから前期ウィトゲンシュタインの性格も垣間見えるような気がしました。そして先生のお話の中でウィトゲンシュタインがどのような人生を歩み、周りの人(特にムーア)に対してどのように接していたかを聞いてまさしく想像通りであったので非常に面白く感じました。
他にも同じ意見の人がいましたが、今日の授業を聞いて、より一層前期のヴィトゲンシュタインが嫌いになりました(すみません)自分の言語を限界としているし、自分中心の独我論すぎるからです。でも、ナンセンスと言いたいだけなのかと思うとちょっと子供っぽいというか、可愛く思えなくもないです。
――私も前期ウィトゲンシュタインはそこまで好きではないので謝る必要はありません。
私は哲学的な命題は間違っていると考えていた。なぜなら哲学そのものに答えが存在しないからである。そこで、今回の講義を聞いて、間違っているのではなく、ナンセンスであるという表現にとても納得した。たしかに間違っているというよりは、その問い自体に意味がなく、そもそも答えがないのに間違ってるものあってるもないと、そう感じた。
哲学的な命題に対して、真偽に限らずナンセンスという判定を出せる余地が生まれたことで、架空の生き物や概念について「間違っている」以外の考え方ができるようになったことは、大らかで良いと感じました。
――「実際に検証されていること」と「検証可能性」の区別をすることで、よりきめ細かい見方ができるようになったということですね。
要素命題に関しての定義を説明せずいることは、後々に研究する人からすれば不親切だと感じると思うが、要素命題というものの定義をそれぞれがすることで、新たな考え方や価値観を生み出せるという可能性を残してくれたのかと感じていました。
――ほう。いいこと言うね。
写像理論についてですが命題の写し取る言葉は皆が共通して想像、理解できるものでのみ成立するのかが気になりました。例えば「テーブルの上にリンゴがある」という命題は日本語話者だから意味をもつのであって、「طاولةの上にتفاحがある」(文字の意味はアラビア語でテーブルとリンゴ)や「譛コの上には繝ェ繝ウ繧エがある」(同じくこちらも文字化けしているが意味はテーブルとリンゴ)といった言語としては存在し、意味も確立されているが、話者ではないため意味を理解することができない場合や言語として成立していないがきちんと戻すことができれば意味が通る場合にも命題は真といえるのでしょうか。理解できる言語に翻訳してから意味をとる作業をするのかそれともそのままの文字面をみて意味をとる作業をするのかが気になりました。
――『論考』には「他者」が存在しないので、そもそも「皆が共通して」という観点がないのですが、ややこしいので口頭。
私はナンセンスの意味があまり理解できませんでした。ナンセンスというのは何も言えていないということだと思うのですが,うまく理解できませんでした。他に分かりやすい表現はありますか?
――その文の真偽はもちろん、それが表す事態を想像できないということです。つまり、仮に真だとしたらどのようなことが成り立っているのかが想像できないということです。その文の真偽を確かめろと言われたときに何をすればいいかがわからないということです。「テーブルの上に総理がいる」は検証しようと思えばできますが、「テーブルの上に悪が満ちている」はどうでしょう。検証できないのではないでしょうか。だからウィトゲンシュタイン的な意味ではナンセンスです。
哲学の命題に対応する事態は存在しないとすればは私たちはどうやって哲学の命題を正しく理解することできるのだろうか。「語りえぬものについては沈黙せねばならない」とありますが、それでは哲学の命題は「わからない」という答えになり、それで伝播されるのはウィトゲンシュタインやその他哲学者にとっては許容されていたのでしょうか。(考え方は人それぞれでいいよということ?)
――うん、本当はナンセンスなのだけど、理解できてしまっているのはおかしな話ですよね。
ウィトゲンシュタインが述べた、「哲学的な命題は誤りではなくナンセンス」という主張に対して、私はその主張がナンセンスではないかと、ふと感じた。なぜなら、その主張通り、哲学的な命題がナンセンスだとすれば、哲学的な命題に対してのアプローチをしなくなってしまうと考えたからだ。それほど、ナンセンスという単語は批判において過激な意味を持つのではないだろうか。実際、私もナンセンスだと述べたが、素人の私がそれを口にし、いわばプロの研究者に対して言及することに、かなり怯えている。怯えながらの感想でした。
写像理論について、対応する自体が無いものはナンセンスとのことでしたが、それは哲学の命題以外にも適用されるのか疑問に思いました。例えば「ネス湖にはネッシーがいる」という命題は、対応する事態があるとは言い難いと思うのですが、これもナンセンスなものになるのでしょうか。神の存在は肯定していたと聞いたことがありますが、UMAと神を同列にするのは違和感があるように思い、ネッシーたちはどのような扱いになるのか気になりました。UMAもある種の哲学なのでしょうか。
――オカルトの扱いですね。
ウィトゲンシュタインの写像理論において、例えば「テーブルの上にリンゴがあった」のような過去形の命題の扱いについて疑問点がある。命題に対応する事態はある為この命題は有意味ではあると思われるが、真偽の判断については難しく感じる。"リンゴがテーブルの上にあった"という事は現実と一致しているため、また「リンゴがあった」=「今はリンゴがない」とするならば、この命題は"リンゴがない"という事実と対応しているため真となるのだろうか。
――過去の事態の扱いですね。
言語の表現できる限界が言語ごとに異なってくるのではないかという考えが少し気になっていたので、このことについて考えてみました。
そして私が思いついたのは、語彙の多い国の方が当然より多くの命題を扱うことができるという考えが、表現の方法は必ず単語を用いねばならないなどというルールは存在しないということで却下できることです。例えばリンゴは必ずリンゴと呼ばねばならないことはなく、こぶし大サイズの表面の赤い果実という、定義じみた説明の呼び方でも命題は成立すると思うのです。物事に対応する単語がないとき、それが何か尋ねられた時にいくらかの人は沈黙せずに説明を試みるかと思います。ここで私は思考できることは言語化できることの限界に等しいという言葉を真に理解できたように思います。全てのことに対して人は説明を試みることができ、それが何らかの間違いがあったとしても言語化はできうるのだと共感出来ました。言語によって思考できるレベルが変わるという点は語彙の豊富さに影響を及ぼさないのではと考えました。
ただ、そもそも他の国では言語にならないような独特の視点を持つ言語の存在可能性はやはり無視できないものではあると思います。やたらと背景的な部分を重視するような文化がどこかの国で発達していればものの見え方は大きく異なってくるであろうし、その文化の影響が言語に強く反映されて他の言語ではありえない思考が生まれうるのかな、と。文化的な視点であった場合、おそらくその思考は無意識のものであり、意図的に言語化したものとは言いずらいのではないか、とも思います。そう考えると言語に無意識領域の影響が及んでいた場合、ウィトゲンシュタインはこの言語を思考だと言い切るのか、この点について疑問を持てるかなと思います。言語化された思考であるが、本人の意図せざる無意識の何かが混ざっているような命題があれば、それは思考の限界を超えた言語と捉えられないこともないのかな、ということです。ウィトゲンシュタインは言語は思考で思考は言語と言った訳ではないので少し筋違いではあると思いますが、彼の無意識への考え方は気になります。
事実と事態について。起きうる全てが事態で、その中の現実に成立している(真である)ものが事実と考えると、事態が事実を包括していることになると思います。となると事態の中には真も偽もあることになり、現実に成立した瞬間に真、しなくなれば偽というどっちつかずなものもあることになり、少しモヤモヤしました。それか哲学といわれれば飲み込むしかないのですが…。
――まさに的確に理解していると言えよう。
哲学的命題には対応する事態がないということは独断であり独我論的であるとありました。しかし、プラトンの頭の中にはイデアがあり、それはプラトンの中では事態であるため、哲学的命題にも対応する事態が存在しうるとのことでした。そうした場合、他人の頭の中で、ヴィトゲンシュタインの中で事態として存在しなかったものが事態として存在する場合、ナンセンスな哲学的命題は存在しないということにならないか。また、真なる命題を集めたものが自然科学であるとありましたが、ヴィトゲンシュタインは自然科学の命題のみを語るべきであるとしました。もう真である事が確定している命題について話すべきことなどないのではないのですか。もし話すのであれば何を話すべきなのでしょうか。
――色々重要な論点が含まれているが、大変なので口頭。
今回の授業で出てきた真理表は、論理学の授業で習ったばかりの知識だったので理解することができました。この真理表が、ウィトゲンシュタインと関係していることは知らなかったので驚きでした。
真理表の話が一番印象に残った。私が数学的に物事を解釈することが得意というより好きで、こういった話は興味もあるし理解もしやすいなと思った。論理学、哲学と聞くと圧倒的文系の話だというイメージだが数学的理解も必要になるときがあるというのが面白いと感じた。
僕は論理学を既に勉強していたのですが、当初論理学と哲学は関係のない学問だと思っていたのでそれが繋がったのは興味深かったです。哲学を理解するために論理学が必要とされるというのはこれまで哲学を非常に読み取りづらいものだと思っていた僕にとって少し光となりました。
――フレーゲやラッセルの数理論理学的な研究からはじまった分析哲学は、哲学のなかで一番、理科系的な雰囲気をもっています。だからこそ私は分析哲学が好きなのですが、数理論理学ゴリゴリだと今度は味気なくなってくるんですよねー。
「テーブルの上に善がある」という命題に対応する事態が存在せず無意味な命題であることはピンと来るのですが、「あれは善い行いだ、悪い行いだ」といった善悪の基準のような哲学的な問題にも対応する事態があるような気がしました。命題と事態の対応関係がどのように決まるのか理解しきれませんでした。
――現代のメタ倫理学という分野では、「認知主義(cognitivism)」と「非認知主義(non-cognitivism)」の対立があります。以下、wikipediaのメタ倫理の項目 「認知主義とは、道徳判断はなんらかの事実についての認知であり、真偽の区別が可能である(truth-apt)とする立場である。それに対して非認知主義(non-cognitivism)は、道徳判断は事実についての認知ではなく真偽の区別が不可能である、あるいは少なくとも事実についての認知以外の要素を含んでいると考える立場である」。あなたのような感覚は認知主義と相性がよいでしょう。この辺に興味があれば、佐藤岳詩 (2017) 『メタ倫理学入門』(勁草書房)という大変優れた入門書をおすすめします。
『論理哲学論考』について学んでいくと納得いかない部分が多かったので、根本にある思考の限界は言語の限界だという考えが自分と違っているのではないかと思った。言語によって思考がある程度方向づけられるとは思いますが、言語というのは物や事象、思考に対応するようにそれらを切り取って他者と共有できるようにしたものだと思うので、思考は言語より広い範囲をカバーしている(そもそも言語が生じる以前にも思考はあった)はずだと思います。言語の限界とは思考の限界というよりも文章として書き起こしたり他者と共有したりできる範囲の限界でしかないのではないかと思います。なので理由は違うけれど「語りえぬものについては沈黙せねばならない」という結論の部分だけは同じような考えだと思った(沈黙せざるをえないの方が近いかもしれません)。また、思考の限界が言語の限界だとしても言葉がどんどん新しく生まれていくように、言語の限界が広がっていけば哲学的な命題も事態に対応する形に変えていくことができるのではないかとも思った。個人単位でも、母語に加えて外国語を第一言語レベルで学べばその言語での思考の範囲を拡張するのは不可能ではないはずです。
――思考と言語の関係は非常に議論がなされるところです。この授業で関係する人では、パース、ウィトゲンシュタイン、セラーズ、ブランダムなどは、思考と言語は密接不可分と考えますが、もちろん「そんなことないだろう」と考える人も多いです。思考に限らず、経験や認識に対する言語の影響に興味があるなら、「言語相対論」とか「サピア=ウォーフの仮説」といった問題領域が面白いかもしれません。
ウィトゲンシュタインさんが前期、後期でなぜ考え方が変わっているのかが不思議でした。ですが、人の食の好みや読んだ本の解釈(これは学校の先生が「夏目漱石の『こころ』に対する解釈が年を重ねるごとに変化している。」とおっしゃっていたので書きました)が年を重ねると変化してくるのと同じように、一生を通してずっと同じ考え方を持ち続けるほうが難しいだろうという結論に至りました。ただ、ウィトゲンシュタインさんは結構大きく変わっているので、どこかのタイミングでウィトゲンシュタインさんにとって常識を覆されるような大きな出来事があったのかな、と思いました。(それか単純に年を重ねて、経験を積んでいったりしていくうちに変わったかとかなんでしょうか。)
ウィトゲンシュタインについて自分でも少し調べてみたのですが完全に個人的な感想として前期の語り得ぬものについては沈黙せねばならないというような考え方は戦争の前線で書かれたということもあり、様々な思考からの自己防衛のための理論といった印象を受け、歳を取り余裕ができたことで思考というものを受け入れ、自身の考えとうまく共存できるようになったのかなと感じました。
――真相はわからないのですが、「こうなんじゃないか?」「ああなんじゃないか?」と色々と考えたくなりますよね。
「語りえぬものについては沈黙せねばならない」 この言葉はプラグマティズムを遺憾無く表しているように感じた。哲学的命題には対応する事態はなく語りえぬものであり、逆に自然科学は対応する事態が存在するので語りうるものである。だからこそ、自然科学は「役に立つ学問」であって、またプラグマティズムの有用性に重きを置く性質とも一致する。確かにプラグマティストに好まれそうな思考であり、納得できることも多くあった。
――繰り返すように、「前期」ウィトゲンシュタインは一般的にプラグマティズムとみなされていないのですが、おっしゃるように、親近性もありますね。
前回と今回の授業でやっとウィトゲンシュタインの全体像が少しつかめた気がします。ウィトゲンシュタインの考え方は後世のプラグマティストから批判を受けたようですが、なんだかプラグマティズムの香りが彼の思考から漂っているなあというか、少し似ている部分があるなあと感じました。ウィトゲンシュタインは言語を用いて思考できること、思考できないことを探る、つまり限界を定めるという作業をしましたが、これはプラグマティズムの大好きな相対主義とどこか親和性があるなと思ったのです。「普遍的な美とかの一つ一つの哲学的な問いって答えようがないよね、それならその答えることのできる境界線を定めよう」という姿勢はプラグマティズムの何が真理かという事を探るのではなく、どのように真理を導き出すかという事に焦点を当てたことと似ています。プラグマティズムも神の存在、宇宙の存在理由などを思考する形而上学を批判しましたが、「論じ得ないことについては人は沈黙せねばならない」としたウィトゲンシュタインのスタンスと似ています。
――そうですね。実際に言っていることはプラグマティズムと親近性があります。ではなぜ前期ウィトゲンシュタインはプラグマティズムとみなされないのでしょうか?それはおそらく最終的な主張に至るまでの方法が非常に「独断的」であり、(形而上学を否定するという目的からすると逆説的ですが)そこで提示されているものが一つの壮大な「形而上学」であるからでしょう。独断や形而上学はプラグマティズムと相反するものなので、前期はプラグマティズムとはみなされないのですね。
曖昧さのない完璧な言語とは一体何だったのでしょうか。その点が本当によくわかりませんでした。ウィトゲンシュタインの中に答えはあったのでしょうか。私は以前、懐疑論に対して「日常性を捨てた学問に意味はないと思う」とコメントしたのですが、この『論理哲学論考』では、完璧な言語に重きをおいて、日常言語は軽んじています。ですが、おそらく「完璧な言語から日常言語ができた」わけではなく、「日常言語がまずあり、その上で完璧な言語を探究する」わけなので、重きを置くべきは日常言語の方ではないのでしょうか。また、事実と命題は一対一で対応しているとしていましたが、その命題が文脈のないものであったら、日常言語でいくつかの意味をもちうる言語は意味が確定しません。ウィトゲンシュタインは、事実と事態を捉える場合には、時間的、空間的に切り離されて成立するものはないので、ものとものとの繋がりを重要視している印象を受けましたが、言語に対しては、言語どうしの繋がりなどをすべて無視して信頼し切っている印象を受けました。
――後期ウィトゲンシュタインの先取りだわ。
論理哲学論考では対応する事態がない命題は意味が分からないから、論理的ではないし何を表すものでもないとされているが、実際の会話の文脈では必ずしもナンセンスではなく、意味が通じることもある。ということは、ある命題に意味があるかどうかは対応する事態があるかどうかではなく、文脈で決まるのではないかと思った。お互いに共通了解していることのなかで、最も可能性の高い意味で解釈されることによってコミュニケーションが取れるのだと思う。そうだとしたら、抽象度の高い哲学的な問題も、お互いの意図をくみ取って議論することくらいはできるのではないかとも思った。
――同上。
私はウィトゲンシュタインに対して否定的だったプラグマティスト達の意見に賛成です。講義中提示された「はいどうも」の真理条件をめぐる反論は的を射ていると思います。個人的な意見としては、文を要素分解していっても現実的に分解可能な要素自体の解釈が多様であるとも思います。信号機やリンゴの色は言語上においては「青」と表記されることが多いものの、人によって緑と解釈される場合があります。青という対応する事態が成立し、有意味かつ真の状況が存在しているのに人々は有意味かつ偽の状況に引っ張られています。このようなことが現実世界で起きているため私は前期ウィトゲンシュタインの解釈に対する批判に賛同します。
――同上。
言語は、時代の流れによって意味合いが変化したり、消滅したり、新たに生み出されたりするため、命題の有意味性や真偽がある時は真である時は偽といった場合も考えられるのではないか、確実に言い切ることは難しいのではないかと感じました。
――同上。
ウィトゲンシュタインは、人工言語を用いて命題の真偽などを論じましたが、なるほど確かに自然言語よりも単純明快で論理的で、分かりやすいと思いました。命題は無意味な場合でも、あるいは偽の場合でも、現実には成立する例があると思いました。例えば、建前と本音、あるいは皮肉は、表向きで言っていることと真意が異なるため、言語分析には少し工夫を施す必要があるのではないかと思いました。
――同上。
表象主義の話の中で、白川先生が授業のはじめに使う「はい、どーも」という言葉は何も表象していないとのことでしたが、表象の存否というのは発話者しか評価できないのでしょうか。もし聞き手側が、先生の冒頭の挨拶に授業開始時の心的状態を読み取ったとしても、発話者の意図と異なれば表象ではないのか確認したいです。
――大変な問いである。どちらの立場もあるでしょう。発話者の意図のみによって決まるとする立場と、発話者と聞き手を含めた共同体の慣習等によって決まるとする立場。これは「言葉の意味とは何か?」という言語哲学の一大問題であり、「話し手の意図によって意味は決まる」とする立場は「意図基盤意味論」と呼ばれます(P. グライスなど)。三木那由他(2019)『話し手の意味の心理性と公共性: コミュニケーションの哲学へ』がこの分野の優れた研究書です。難しいけど。
真理表のP=0、Q=1の時にP→Q=1であるというのは、感覚的に捉えると偽ならば真というのはなんだか変な感じがしましたが、確かに前提が偽であればそこから何が導かれようが、最初が間違っているから真だというのは、考えれば納得できました。こういった感覚的に考えることと理性的に考えることで生まれる違いは日常生活にも多々ありそうだと思いました。ウェイソン選択課題の4枚のカード問題でテーマが日常的になると正答率が上がるのもその例の一つだと思います。感覚は主観的で、理性や論理はみんなが共通に持っているものとしての意味で客観的と考えるなら、ウィトゲンシュタインが言った「自然科学の命題だけ語る」というのは、自然科学が客観性を持つものならば、哲学は客観的なものだけを扱うことを意味するのかなと思いました。「神がいるか否か」についても神を信じていたり、いてほしいと思っていたりする人は「神がいる」ということを論理的に証明しようとしますし、いないと考える人は、神がいると考える人の主張を批判したくなります。しかし神がいる、神はいないというのもやっぱり、個人の主観的な考えだと考えれば、その個人の主観性を論理という道具を使ってみんなが納得するような客観性に導いていくことを哲学は意味するのでしょうか。客観的な事柄から客観的事柄を導くことはともかく、主観的な事柄から客観的な事柄を導くのはすごく難しそうだと思いました。また哲学は主観的問題を扱うのか、それとも客観的問題を扱うのか、どちらに長けているのだろうかという疑問も湧きました。
――まず 「P=0、Q=1の時に P→Q=1」は論理学を学ぶ9割くらいの人が疑問に思うところなので、疑問に思って当然です。これは直観的に受け入れやすいというよりも、論理学を進めていく上での都合でそのように決めたという側面があるので、そういうもんかと思っておいて下さい。哲学が主観を扱うのか客観を扱うのかはとても難しいですが、少なくとも私は「あくまでも客観性を希求するが主観性も尊重するもの」と理解しています。これに対して自然科学は「あくまでも客観性を追求するもの」であり、文学や芸術は「主観性を追求したもののなかでたまたま客観性をもっているもの」とでも言えましょうか。
真理表に関する話題の中で先生がおっしゃっていた「ウィトさんは論理も好き。だけどそれだけじゃなくてこういう湿っぽい(実存哲学)のも好き。湿っぽいんだけど乾燥している。自分はこういうものを求めてしまう」という言葉に、先生のウィトゲンシュタインに対する愛着を感じるとともに、哲学というどことなくとっつきにくく感じてしまうものに対してどのように付き合っていくのかのひとつの道標を見たような気持ちになりました。哲学という学問と向き合うに当たっては、ただ学説を知るだけでなくその学説を立ち上げた人間の生き様や、その学説が立ち上がるまでの過程、そして自分にとってその学説が自分の人生にとってどのような意義を持つのかといった面まで含めて熟考することが必要になるのだな、などと思いました(他の学問に関してもそうなのかもしれませんが、とりわけ哲学においてはそうであるように感じます) 。
――いいこと言うわ、あなた。何も付け足すことがない。
今回の授業で出てきた内容はどれも難しい内容ではあったが、一つ気になったことがあった。自然科学の命題は真であるということである。どれも自然科学の命題は真であると思うが、私が小学生の頃「地球に隕石がぶつかって人類滅亡する」というニュースがあったことがある。当時は本当に隕石がぶつかるのだと思っていたため、人生で初めて「死」について考えたが、結局その事態は起こらず、今は何もなかったかのように日常を過ごしている。ここで私が気になったことは、隕石がぶつかるかについての真偽である。
――この場合の「地球に隕石がぶつかって人類滅亡する」の命題も有意味であると言いたいので、有意味性の基準は、「実際に真偽が検証されている」ということではなく、「真偽の検証可能性」となります。検証可能性が重要なので、その命題は、真偽はわからないが有意味だということになります。
言語について着目したウィトゲンシュタインは偉大ではありますが、人間の社会生活における基礎部分である言語に踏み入るとはかなり勇気がいるというか、一歩進めば狂いかねないなあと思いました。
――後期ウィトゲンシュタインの「規則のパラドックス」は、もっとそうなりますよ。乞うご期待。
哲学者は哲学が好きだから哲学を追求していると思うのですがこの哲学の授業を聞いていて思ったのがどの哲学者も苦悩がすさまじいです。愛する気持ちだけでは幸せになれないのかと辛く感じています。
――おほほ。
ウィトゲンシュタインの「対象のない哲学的な命題は誤っているのではなく、ナンセンス」「自然哲学の命題だけを語る」「語り得ぬものについては沈黙せねばならない」という言葉について、これまでの授業を聞いていてもそうなのですが、哲学者の多くが哲学はこうあるべきものだということを論じていることに違和感を感じます。物理学者や法学者が物理学・数学はこうあるべきということをこんなにも論じているのはあまりイメージできません。哲学者が哲学自身をどうあるべきかを考えているということは、哲学は他の学問と比べて遅れているということなのでしょうか。それとも、非常に難解かつ解釈の幅の広い学問であるため、基礎的なことから再確認する必要があるということなのでしょうか。
――哲学者はメタ的な観点が好きなので、いつもいつも「哲学とは何か?」と問うているのです。今日もメタ的なコメントをずいぶんと取り上げています。
先生がおっしゃっていた「哲学は間違っていても価値が減るわけではない」という言葉が印象的でした。「哲学勉強したいなぁ」という気持ちになりました。
――この推論いいねえ。
授業で先生から聞いたことがあるので、少し言語哲学について興味が湧いてきたが、もしよければ、先生のおすすめの入門書を教えていただけませんか?
――言語哲学に限らず様々な分野の入門書について鈴木貴之さんがまとめてくれています。https://tkykszk.net/teaching/graduate_program/
英語に抵抗がなければ、wikipediaでならした後に、Internet Encyclopedia of Philosophy やStanford Encyclopedia of Philosophy に進むとよいでしょう(後者の方がより専門的)。ただし「入門」かと言われると微妙かもしれません。
授業の最後に超越論的哲学を少しお話されてましたが、前期で「可能性の条件」が主題になっていた講義が1番楽しかったので、今期でも聞けたら嬉しいです。
――「可能性の条件」を楽しめるとは良いセンスだ。
ここ2週間ほど、ものが盗まれたりなどショックなことが続いて気分が落ち込んでいるのですが、プラグマティズムをうまく活用することで、気持ちに折り合いをつけて前を向くことはことは可能でしょうか?個人的にですが、宗教を信じるように、今の辛い状況に意味を与えられれば、乗り越えられるのかもしれないと感じています。
――うーん、無理矢理つなげれば、ある事柄の価値は将来になるまでわからないということかな。「ものが盗まれた」ということが将来役立つかも知れません。少なくとも、同じような状況にある人の感情に共感できる優しい人にはなれるでしょう。
私はこの授業で哲学を勉強するまで哲学という学問に偏見を持っていた。しかし、祖母のおすすめで朝日新聞デジタルに掲載されていた古田徹也さんの哲学についての連載を読んだことがある。その頃は、小説が好きでボキャブラリーも多くなかったが、理解できるくらい非常に分かりやすい内容であった。しかし、全く興味が無かったこともあり、深い興味を持とうと思わなかったので、今少しだけ哲学の知識を持った状態で再度古田徹也さんの連載を読んでみたいと思った。
――古田さんの悪口言ってすみません。
若者の就職先ランキング2位が講談社なのは驚きました。
――どういうことかな?
就活の話も面白いのでこれからもお願いします。
就職の際の具体性の大切さについての話はすごく勉強になった。今後もこのような話が聞くことができると嬉しく思う。
就職の話もとてもためになると感じた。これからもぜひ続けて欲しいです。
――先日就職の話をしたとたんzoom受講者が10人くらい退出したので、やはり哲学を取る人たちはこういう俗っぽい話はダメなのかと思ったのですが、やっぱりしていこう。
既にプレイされているかもしれませんが、一人でできるゲームならデスストランディングもオススメです。平たく言うと「荷物を運ぶゲーム」なので、BF2042やDays Goneのように銃をブン回す爽快感はさほどないのですが、困難を乗り越え荷物を運びきった時の圧倒的な達成感が病みつきになります。
――やりました。とても面白ですよね。でもやっぱり私は銃をブン回すのが好きなようで、クリアまで行きませんでした。
個人的に北欧史やヴァイキングが好きなのでアサクリヴァルハラの感想楽しみにしてます。
――今はDays Gone 中なので、もう少し後になります。
今日11月25日は先生にありがとうを伝える日だそうです!いつも素敵な授業ありがとうございます!
――おほ。
今回の授業では、前回まで授業にて取り上げてきた古典的プラグマティズムをまとめた後に1950年代に停滞していたプラグマティズムを復活させたものとして、新しく「ネオ・プラグマティズム」を取り上げましたが、先生が次回の授業で詳しく述べるとおっしゃったことを考慮してもこのネオ・プラグマティズムの全体像は、今回の授業だけでは理解しがたいものであると感じました。特にウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」は言語の限界と思考の限界は等しいとしている点について、確かに明確な思考の限界の線引きとして言語を基準にするのは分かりやすいとは感じましたが、言語で限界を決めるというのは新しい事象の度に新しい言葉を作る傾向にある漢字圏出身者が説くならともかく、元からある単語を拝借し、意味を増やすだけにとどめておく傾向にあるドイツ語(ラテン語?)圏出身者であるウィトゲンシュタインが説いてしまうのかという疑問が生じました。今までプラグマティズムというものはおおらかな、敷居の低い哲学だと感じていたので、こうして言語で限界を決めてしまうとかえってプラグマティズムの発展を萎縮させてしてしまう気がして、なぜネオ・プラグマティズムとして論理哲学論考を取り上げられているのかなど、ネオ・プラグマティズムに対して疑問を感じました。
――(口頭)重要な点は、後のプラグマティズムに影響を与えるのは「後期ウィトゲンシュタイン」(『哲学探究』)であり、「前期」(『論理哲学論考』)は直接的に影響を与えていないということだ。(おっしゃるように)「前期」のような独断的な哲学は、プラグマティズムと相性が悪い。
また、「言語」という観点からアプローチをしており、言語が世界の事実や事態を写し取っていて、対応しているという点が興味深いと思いました。やはり、プラグマティズムは論理学的で、身近に考えやすいと感じました。
――上と関連するが、『論考』のような言語観を基本的にプラグマティズムは否定します。今後話しますが。
ウィトゲンシュタインは言語という点に重きを置いており、その点においてはパースの考えを受け継いでいるなと感じました。
――たしかに両方とも言語に重きを置いているというのはその通りなのだが、ウィトゲンシュタインが直接的にパースから影響を受けているわけではない。ウィトゲンシュタインはジェイムズの本ぐらいしか読んでいなかった。むしろ現代の分析哲学もプラグマティズムも両方とも言語に注目している、と捉えるのが正しい。それは両方とも近代哲学に特有な「観念を道具立てとする哲学」に限界を感じていたからだと言える。
雑談で初めて知って驚いたこととして、ウィトゲンシュタインの兄弟が全員自殺している、という話だった。
――ほんと細かいことですが、4人の兄のうち3人が自殺しています。自殺しなかった兄パウル・ウィトゲンシュタインは、第一世界大戦で右腕を失いながらもピアニストとして活躍しました。
「論理哲学論考」において、目的は「『思考』の限界を『言語』の限界として画定」とありましたが、もしそうであるとすればウィトゲンシュタインさんは「神」をどう捉えたのか気になりました。もし、「神」が存在していると考えた場合、その「神」という存在は言語化されたもの、つまり聖書、または神話及び口頭で伝えられた話の存在となってしまい、私たちが生きる世界上に存在する「神」というものは言語化できないため、現代において「神」が存在しない、つまり神の「実質的な死」になってしまいそうな気がしたのですが、ウィトゲンシュタインさんは「神」をどうとらえていたんでしょうか?
――今日話しますが、「神」は語り得ないことの筆頭です。それゆえ、神が存在するかどうかを考えたり議論したりするのはナンセンスです。
私は春学期に哲学Ⅰの講義を受けていたので一度ウィトゲンシュタインについては学んだのですが、個人的には後期のウィトゲンシュタインの方が好みです。というよりは前期ウィトゲンシュタインの「語りえないものについては沈黙せざるを得ない」という考えを受け入れたくないだけでもあります。思考の限界は言語の限界というような考え方などはとても面白いと思いますし、建設的な議論をするうえであやふやにならないために重要な概念だとも思います。しかし、現在言語化できないことが将来になって言語化できるようになることが、現代の技術などの進化を考えるとどんどん現われかねないと思います。もちろんウィトゲンシュタインの言った語りえないことというのが、単純に分からないことについて考えるなと言ってる訳でないことは理解してるつもりですが、ウィトゲンシュタインのメインテーゼである事実・事態を考えても、可能な事柄を指す事態が可能であるかどうかを判断するための知識が更新されることがありうると思います。さらに造語のように言語もアップデートされうるのではと思います。このように考えると、語りえないものとは何であるのか、このことが非常に曖昧になってしまいます。以上の理由で前期ウィトゲンシュタインとは相いれませんでした。正直、後期が好みというより前期が好かないだけでした。 私の頭の中で「語りえないもの=知らないもの」のように思考が引っ張られてしまうため、本来のウィトゲンシュタインの論点とはずれてしまっているかもしれないなと思いつつ、やっぱり無駄なことをしてこそ視界であるとか行く先の幅が広がるような気がしますし、そう願っているので、語りたいことを考えたいなと思います。
――『論考』の重要なポイントをついていると言えよう。まさに『論考』の言語観って「静的」なんですよね。「現時点の私」にとっての言語を出発点にその言語の限界を考えているのです。世界や他者との出会いによって拡張される可能性は考えられていません。で、「他者」が登場するのが後期ですね。
ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』では、その目的として、「思考」の限界を「言語」の限界として画定するというふうに聞きました。そこで、授業の内容とは少しズレますが、「言語」にも国や地域によって違いがあり、思考やその哲学にもその地域ごとによって違いがあるのではないかと考えました。また、言語は世の中の事象を切り取って名付けているものであるため、その切り取り方が細かい(語彙数が多い)言語が、哲学するのに適した言語(思考の限界が遠いもの)になるのではないのかなと思いました。少し調べたところ、英語・日本語は語彙数が他の国々に比べて比較的多いそうです(ただし、語彙数は推計するのが非常に困難なため不確実なものだそうです)。もしかしたら、良い哲学者が多く輩出される国はその言語の語彙数が関係しているのかもしれません。しかしながら、1人の人間が知り得る語彙の数など知れてるでしょうし、哲学する際に難解な語彙を知っている必要があるのかというのも疑問に思いました。また、現代では、ほとんどの哲学書が翻訳され誰でも読めるようになりますし、哲学において言語の違いはさほど関係ないのかなとも思いました。
――「哲学において」ではなく、「前期ウィトゲンシュタイン」においては、言語は一つのようです。理想的な言語は一つであり、異なったものがあることは想定されていません。そしてそれがどのような言語なのかは具体例を一切示さないのでわかりません。
「論理哲学論考」は、高校のとき哲学の先生にたくさん話を聞かせて貰いましたが、おそろしく難解だが終わり方がスマートなものだと認識しています(語彙力がなくてすみません)。記号や関数のような、数学的な言葉が出てくるので、少し頭が痛かった記憶があります。また、これを機に考えてみると、「語りえないことについては、人は沈黙せねばならない」という文章について、ウィトゲンシュタインは存在論や神学、倫理学といった形而上学的なものはすべて無意味だ、と言い切ったにも関わらず、最後に「〜せねばならない」という倫理的な文体を用いてる点に少し疑問を持ちました。この一文だけ示されていたと記憶していますが、それこそこれ以上は語らない、ということの表れだとも取れるんですが、ウィトゲンシュタインはどのような意図をもちこの文体を用いたのでしょうか。
――ほんといいところつきます。なんでわざわざそんなことを言うのでしょうか。言わなくてもいいのに。ここは大きな謎であり『論考』の魅力をもたらしているところです。「ナンセンスであると自覚しつつも言い聞かせる必要がある」と考えたからではないでしょうか。次に疑問になるのは「誰に対して?」ということですが、そんなことを考えていると沼にハマっていきますねー。
今回扱った前期ウィトゲンシュタインの言おうとしていた、思考の限界とは言語の限界であるという事について、少しだけ観念論に似たような感じがあると思った。観念論は人間が観念を介してその内側でしか外界について認識できないとしていましたが、前期ウィトゲンシュタインは言語の内側でしか思考できないという事を言わんとしているように感じました。
――その感覚は正しいです。余裕があれば話しますが、前期ウィトゲンシュタインの体系は、カントの「超越論的な観念論」の言語ver.と言えます。つまり、カントが認識の可能性の条件を分析することで認識の限界を明らかにしたように、ウィトゲンシュタインは言語(意味)の可能性の条件を分析することで、言語(意味)の限界を明らかにしようとした、ということです。こうした「超越論的哲学」という特徴はその後のウィトゲンシュタインを理解する上でも重要なので、機会があればお話しましょう。
ウィトゲンデュタインの論理哲学論考の話題で、言語の限界を思考の限界として、思考の限界を捉えるというものがありました。私はどうにも言語に重きを置く考え方に賛同できません。春学期に哲学Ⅰを受講していて、その中で言語哲学に触れたときも思っていたのですが、言語を扱う人間には、正確に言葉を出力する能力があるように思えません。忘れたり、知らなかったり、認識にズレがあったりして、入力された情報を完全な形で出力することはできない存在に過ぎません。それに哲学において、逆転のクオリアという名前の、実は人間の間に認識のずれがある可能性を指摘する概念があるそうですが、この概念の言う通り人間は他の人の視座に立って物事を扱うことができない以上、モノの感じ方などにズレがあって、結果思考≠言葉の関係になってしまうと言わざるを得ません。日常においても、上司からの指示を曲解して仕事に支障が出るとか、伝言ゲームで頓珍漢な解答になってしまうような、言葉で思考が伝わらないケースがあると思います。私としては、思考に限界はなく、人間は、限界を超えた扱いきれない物事を考える生き物で、それがいいところであるというロマンのある考え方をしたいと感じました。
ウィトゲンシュタインは「思考」の限界を「言語」の限界と画定しましたが、なるほどと納得すると共に疑問も生まれました。論理的に考える際、論理式等で命題から結論を導くようにまず言語化から始まります。哲学で最も重要な論理的思考は確かに言語から出発しているように思えます。言語はその規則や読み方さえ理解すれば、みんなが共通に理解できる事柄だと考えれば、言語は、人間の思考という外部からは見えないものを見えるようにさせるのに非常に有効な道具です。しかし人間の思考を表現するものは言語だけではないと思います。音楽や絵画と言った芸術も思考を表現するためのツールの一つと考えます。音楽や絵画にはあまり詳しくないですが、例えば、音楽に関して、一般的に短調は暗く、長調は明るいイメージを持っているので、音楽の曲調を利用して感情を表現することは不可能ではないと思います。また、怒っている人の顔が描かれた絵から、この絵は怒っている人を表現しているなど、絵によっても人に何かしらを伝えることは可能のように思えます。例えば、この音は、りんごを意味する、この音は人を意味する、というように音と特定の事象や意味を結び合わせて、それが共通認識として当たり前にある世界があるとすれば、その世界では音によって思考することが可能なのでしょうか。もし可能であるとすれば、言語以外でも論理的に思考できるツールがあるのではないか、と考えてみました。
ウィトゲンシュタインは言語に注目して哲学を捉えようとしているがやはり思考と発言はつながってはいるものの一致するのは難しいのだと思う。
――「言語中心主義」や「言語=思考」という前提は、言語哲学やプラグマティズムに特有のものといえましょう。もっと「非言語的な思考」や「非概念的な認知」があるんじゃないか、というのはまったくその通りで、最近の「認知科学の哲学」とか「心の哲学」などではそういうものを扱っているようです。しかし個人的には「思考や認識に言語が深く関与している」という感覚は強いです。物理学者なんかはイメージで思考するようですから、脳の特性の違いなのかもしれません。
今回から待望のウィトゲンシュタイン編で嬉しい。哲学Ⅰは言語哲学を体系的に取り上げていたので、ウィトゲンシュタインは数ある哲学者のうちの一人という印象だった。しかし、今回の授業で初っ端からウィトゲンシュタインのぶっ飛んだ経歴を聞いて、一気に引き込まれた。(先生の話し方もすごくお上手でした。)個人的には、卒論が認められず大激怒したウィトゲンシュタインのせいで、ムーアが体調を崩した話がお気に入り。第7回目の授業は「事実」と「事態」の説明のみだったが、次回以降からどんな哲学が展開されるのか、楽しみにしている。前回、前期推しか後期推しか聞いたものです。私は前期推しなのですが、先生の話を聞いて後期にも興味を持ち始めました。確かに、前期は後期よりも若さゆえの勢いを感じさせる主張ですよね。私の考えも、年長者から見ればまだまだ若いのかもしれません。
――私もそのエピソードがお気に入り。
今回の『論理哲学論考』の内容はとても理解しやすく、これからの『哲学探究』『確実性について』も早く知りたいと思いました。また、今回のようなわかりやすさは比較的に現代に近いことが影響しているのかなと思い、これから学ぶネオプラグマティストとニュープラグマティストが全般そうであればいいなと思いました。
ウィトゲンシュタインの考え方は、自分の中ではこれまでの哲学者の意見よりも共感できることが多く、身近に感じました。
哲学の話の中でもヴィトゲンシュタインの話は飲み込みやすいです。彼が哲学者や論文雑誌を嫌いということでもしかしたらほかの哲学者より哲学っぽくないところがあったからかもしれないと思いました。
――ウィトゲンシュタインの話は飲み込みやすいというのはちょっと意外です。僕もその気持ちに共感しますが、なぜでしょう。
哲学者を生業としながらも哲学を良しとしないウィトゲンシュタインの生き方は、それ自体が自傷行為のようで、とても悲しみを感じてしまいます。
――まさに。精神的に自殺するというか。
ウィトゲンシュタインの、哲学に否定的なのにその分野にかかわることを学ぶという姿勢が理解できませんでした。言語に注目して、哲学の問題を解消することによって、何がしたかったのでしょうか。
――何をしたかったのかがよくわからない、というのが一つの魅力なのです。
哲学者が小学校の先生になるのは意外だと感じたが、体罰をするのは最低だと思った。その後先生を辞め修道院に入ることもできなかったが家を設計して気持ちを持ち直した話を聞くとこんな人がいるくらいなら私もなんでもできそうだという不思議な気持ちになった。
――笑。
巷では、ウィトゲンシュタインはいわゆるASD(アスペルガー)だったのではないか、という説が囁かれているようですが、彼はそのようなハンデを補って余りあるほどの魅力があるような哲学者だったのかも知れません。
――彼のエピソードにはASD傾向が見られます。後期ウィトゲンシュタインには「規則の従う」ことに関する議論があるのですが、ドナ・ウィリアムズ『自閉症だったわたしへ』とかグニラ・ガーランド『ずっと「普通」になりたかった』など自閉症の方が書かれた本を読んでみると、非常に問題意識が似ていることに気づきます。自閉症的な感覚を哲学的に表現したのがウィトゲンシュタインと言えるかもしれません。そして、このような可能性は「病跡学(pathography)」という分野で追求されています。
ヴィトゲンシュタインこれまで色んな哲学者が何世紀にもわたってアレコレ考えて来た哲学の問題、抽象的な話題を「それは問題ではない」として解消させたというのはすごく近代的というか、斬新で現代の哲学の概形のような考え方を示したな〜と思ったのですが、問題が解けない生徒を殴っていたという話を聞いて一気になんか説得力ね〜!となりました。ヴィトゲンシュタイン自身はむしろ哲学について懐疑的批判的でありただただ自分の知的好奇心を満たしていただけな(という印象をもった)のに、こうして哲学の授業で後生取り上げられる結果となったのはイロニカルだなと思いました。
――笑える。
ウィトゲンシュタインについての話は前期での授業でも話されていたことでもあったので、復習のようにお話を聞くことができたし、改めてウィトゲンシュタインの面白さを感じられました。また、白川先生が「ウィトさん」と呼んで嬉しそうに時系列を追って歴史を説明しているのはアイドルのことを推しているファンのようで、言葉が間違っているかもしれないけれどかわいいなと思いました。また前期でも感じた熱を改めて感じてやっぱり好きなんだなと感じました。
先生が「ヴィトさん」と呼んでいるのを聞いて、本当に彼のことがお好きなのだろうな、ということが伝わってきた。
今回ウィトゲンシュタインについて授業をしていただきましたが、白川さんの声が力強く、抑揚もあり、熱がこもっていてとても好きなのが伝わってきました。
授業が進むにつれムーアの扱いが散々で、だんだん愛おしく感じ、ほんの少しですが興味がわきました。
お話の中で一番印象に残ったのは、ムーアの人柄の良さです。何歳も年下のウィトゲンシュタインにパシリのような扱いをうけるなんて、それだけで激怒してし、嫌いになってしまうと思います。しかし、ムーアはウィトゲンシュタインの素晴らしいと思ったところは素直に褒めたりしていたと聞き、どんな人だとしてもいいところを見つけられるなんてすごい人だと感じました。
――ちなみに晩年の『確実性について』では、はじめ「ムーアは完全に間違っている」として延々と批判されるのですが、最後の方になって「ムーアは正しかったかも」と見直されています。
先週、「哲学を勝手に定義されたくない」と書きましたが、私は色んな哲学者の、色んな主張を沢山学びたいと思っています。相反する主張のどちらにも共感し、新たな知見を得た気分になり、凄く楽しいです。なので、いつもいつも自分の言ってることが違うような気もするんですが、誰かの思考だけに傾倒したくないです。自分にピッタリ当てはまるものはもちろんずっと心の中にあるんですが、自分の感じ取れる範囲のものはすべて、色んな見方で、色んな捉え方をしながら生きていきたいです、人を一概にこうとは言えないので、、。この助けをしてくれるということが、哲学を学んで1番良かったと感じることです。あと、ウィトゲンシュタインの授業が始まってとても嬉しいです。自己中心的な天才がすごくタイプなんです。ドンピシャです。
――中盤まで良いこと言っていて、最後に笑わせる。
前回からのネタを擦って露骨に狙ってる奴みたいでものすごい嫌なんですが、哲学談義おじさんの哲学知識見せびらかしの時にちょうどヴィトゲンシュタインの名前が出たのでここぞとばかりに「あ、ヴィトゲンシュタインってプラグマティズムの人ですよね」といったところ、その時乗っていた新快速よりも早口でヴィトゲンシュタインはプラグマティストではないと捲し立てられました。当時の私は授業で扱うのにプラグマティストじゃないのか?という疑問と同時に哲学談義おじさんに対し微かな疑問を抱いていましたが、授業の中でプラグマティストといわれたらきっとヴィトゲンシュタインは怒るだろうという言葉を聞いて彼はきちんとした豊富な知識を元に話していたと認識したと同時にとんでもない変人に出会ったなと思いました。京都駅から乗車してきて本の紹介から始まったわずかな時間は、私が彦根駅で降車するときに「あなたは将来苦労することになるよ」という何とも不安になるような言葉を残して別れを告げました。どうやら米原に生息しているらしいのでもし話しかけられましたら付き合ってあげてください。
――ほんと面白い。このおじさんもこの文章も人を惹きつけるものがある。
古典的アプローチを表でまとめてくれたのでわかりやすい×多数
――じゃあ今後も表を書いていこう。
少し哲学とは話がそれるのだが、今まで私は講義を受けて自分自身で個人的にまとめの表を作る方が自分自身のさらなる理解に繋がるのだと思い込んでいた。なぜなら、人それぞれ理解している部分には差があるため、自分の理解の足りない部分を補うようにオリジナルの表を作成する方が良いと思っていたからである。しかし、今回白川先生が作成した表は必要な情報を簡潔かつ包括的におさえた完璧なものだと感じた。 テストで良い点をとるような賢さはもちろん大切であるが、効率的に表にまとめることができるような賢さも身につけていきたいと感じた講義であった。
――上と矛盾するが、むしろ自分で書く努力をした方がいいかもしれない。きれいな表にするためには、それぞれの思想のポイントをつかんで一本の線を通す、というエネルギーを消費する作業が必要なのだが 、それをやると本当に理解が深まる。なので、自分でやろう。
白川教授とヴィトゲンシュタインは哲学はあまり人に勧められる学問ではないとおっしゃっていましたが、私は哲学も立派な学問だと思います。自分では考えもしないことに悩み、真理を追究している人が私にとってとても興味深いです。自分と違う価値観や考え方から発信される意見は有意味なものが多いです。知らなかったことを知るということは自分の視野を広げ、成長しているように感じるのでとても楽しいです。少なくとも私は哲学に対して有意味性を感じているので、立派な学問であると考えます。
――ありがとうございます。
特に役に立たないし知ることで辛いこともあると思いますが知った後には知りたくなかったとは思えない、不思議な魅力を持っている学問が哲学なのではないかと思います。
――「知った後には知りたくなかったとは思えない」とは良い表現です。
ふと思ったのですが、哲学の研究って、どのような手段を使って行うのでしょうか。実証、実験や計算とかはそぐわないイメージなのですが…。
――本を読んで、自分で考えて、他人に話す、かな。
全然関係ないんですけど、先生の哲学ギャグが毎回面白いです。そして話し方もすごく上手で引き込まれるのですが話すコツ何かあるのでしょうか。
――その辺を滔々と話すとバカみたいなので、話しません。
先生が口頭で説明されたことは黄色のペンでメモを取っているのですが、今回はノートがみかん畑みたいになって驚きました。先生がウィトゲンシュタインのことをずっと「ウィトさん」と呼んでいたので、内容は難しかったですが親しみやすさが持ててよかったです。
――「みかん畑」という表現がいいねぇ。私は尊敬する人はついつい「さん」づけしてしまうのです。谷崎潤一郎もついつい「谷崎さん」と呼んでしまいます。
話は変わりますが、はまっていたゲームをスパッとやめられてしまうことは、とてもすごいことだと思います。自分なら今までそのゲームに費やした時間がもったいないというか、過去の自分を否定する行為になってしまうのが怖くて、ついついやめられなくなってしまいます。
冒頭のbattlefield2042に寝食を忘れてプレイし続け、終わった後に虚無感を感じてゲームを消すことが何よりも共感しました。
――訂正します。いったんアンインストールしたのですが、先週の土曜日にまたダウンロードして長時間やってしまいました。勝つためにゲーミングマウスまで買ってしまいました。でも、またしても虚無感に陥りました。虚無感はおそらく「オンライン」ゲームに由来していると考えたので、一人でできる「Days Gone」と「アサシンクリード ヴァルハラ」を購入しました。
先生の就職の時の話はとても面白いです!なぜ大学教員という道を選んだのかが気になります。
――定期的に話していきましょう。
昔の哲学者は、いろいろな学問を学んだあとに、哲学の道を歩む人が多いですが、先生の周りでも初めから哲学ではなく、他の学問の専門だったが、哲学の分野に来たという方はいますか?
――もともと理系志望だったが哲学やっているという人が多いし、私が好きな人はそういう人が多い。ちょっと前だと、大森荘蔵さん、野家啓一さん、野矢茂樹さん、最近だと井頭昌彦さん、森岡正博さん、山口尚さんとか。私も大森荘蔵およびその門下がいなければ、哲学をやっていなかったかも。あ、『現代思想 2021年12月号 特集=大森荘蔵 ―生誕一〇〇年―』なんていう本が11/27発売ですね。
クワインについて書いている人がいるが(!)、未来の授業へのコメントは加点されない。ウィトゲンシュタイン好きからも示唆されるように、私は誠実性を最重要視するので、むしろ減点するかも。
――もはや定番。そろそろ難しいことにも慣れてきたはずである。人間何にでも慣れるものだ。
概念や事物は対立物があるから存在しているという考えは頭の隅に置いておくと有効だと思います。もし自分が政治に詳しくて、それを生業にしている場合、世論の動きに不満があったとしても、「そもそも知らない人がいるから私は知っている人になれて、職業に出来ている」と思うことができれば、世論を馬鹿にしたり蔑んだりする行動は間違っているかもしれないという気持ちになるかもしれません。「知らない人」と「知っている人」は対立概念と捉えると差別的な発想になる可能性もありそうなので必ずしも良い考え方ではないと思いますが、自分が抱いた感情が健全か、妥当かを検証するのには対立概念の考え方は有効だと思います。
デューイの考え方についてほとんどはなんとなくでも理解出来たのですが、二元論の否定は難しかったです。矛盾・対立するものは同一と主張していますが、それはある人を批判した時、その人の中に批判の対象の人についての知識が存在しているため同一と言えるという解釈で合っているのでしょうか?しかし、その解釈が合っていたとしても、私はこの主張が正しいとは思えません。なぜならそれは両者の存在を表しているだけであって同一とまでは言えないと思うからです。そもそも矛盾・対立しているのであれば、それぞれ違う要素を持っているということなので同一と言うのはおかしいと思いました。
矛盾・対立するものは同一とありますが、指示するものが全く同一というわけではなく、一方が欠落したら他方が成立しないという相互依存関係にあるということだと思いました。
――(若干応用)授業では曖昧にごまかしましたが、まず(相互)依存関係については少なくとも「存在」「概念」「認識」の三つのレベルを区別するのが重要です。
存在論的な依存:Aが存在するためにはBが存在しなければならない。例:徳川秀忠が存在するためには徳川家康が存在していなければならない。
概念的な依存:Aという概念が成立するためにはBという概念が成立しなければならない。 Aという概念を理解するためにはBという概念を理解していなければならない。例:「親」という概念は「子」という概念に依存している。
認識論的な依存:Aということを知るためにはBということを知らなければならない。例:古典的プラグマティズムについて知るためにはパースの哲学を知らなければならない。
AとBとがたとえこのすべての意味で相互依存関係にあるとしても、同一であるとは言えないのではないかという疑問ですが、それはもっともです。が、考えようによっては、相互依存関係になるのならば「すべては一つである」とも言える気がしませんか。かなり宗教的に感じるかもしれませんが。これは「世界は一なのか、多なのか」という根本的な問題なので、ここあたりでやめておきましょう。
また、ヘーゲル哲学の説明部分で「二元論の否定(矛盾、対立するものは同一)」とありましたが、二元論を否定するとすれば今回のような考え以外にも「二択の狭間にあるものを許容する(例えるとすれば、黒色と白色だけが存在するのではなく黒色から白色へのグラデーションしていく色も存在すると考える)」という考えもあると思うのですが、ヘーゲル哲学ではこういった考えはしなかったんでしょうか。
――おっしゃるとおり。参考になるのは、命題は「真」か「偽」かのいずれかの真理値をもつという「古典論理」を否定する「非古典論理」です。古典論理と違って、真と偽とのあいだに「グラデーション」があるとするものに、「ファジー論理」や「多値論理」があります。また古典論理の「矛盾はダメ」という前提を反旗を翻すものに「矛盾許容論理」があります。ちなみにヘーゲルがグラデーション的なものを考えていないような気がしますが、はっきりとは言えません。
今回はデューイの哲学史観、知識論、真理論を扱いましたが、それぞれに繋がる所があって面白いと思った。まず哲学史では「人間は安全・確実なものを求める」から始まり「知識と行為(理論と実践)の二元論が生じる」に終わっていました。知識論では道具主義をとって二元論を否定しており、加えて真理論では可謬主義をとることで確実性を諦めています。知識論ではそれまでの哲学で考えられてきた結果としての二元論を否定し、その根本にある確実性の追求も真理論で否定しているという所に歴史的観点の重視という特徴が表れていると感じた。また、真理論ではパースとジェイムズの真理論の弱点が補われているように思った。パースの真理論に欠けていた今現在使える真理が定められているし、ジェイムズの真理論の客観性の欠如も解消されていました。ただ、真理に有用性という色付けがされていたジェイムズよりは、未来の共同体での一致という中立的な見方をするパースの真理論に近いように感じた。
デューイの哲学史の流れは人間の生き方にも似ていると考えました。私が考えるに、人間はまず自分の周りの地盤を固め、確固たるものにしようとします。例えば新天地では住居を決め、衣食住をその土地でまず行い、友人関係を構築します。その後、生活を便利にするために様々な道具を用意していき、自分の置かれた環境での刺激などによって新しい考え方や価値観を生み出します。そしてその考え方をさらに広げたり構築していくことが、私の大学生活での実体験から人間の生き方だと考えています。これがデューイの哲学史の流れと似ていると講義中に気づき、不思議に感じていました。土俵は全く異なることではあるにもかかわらず、人間という共通点からか似ていることもあるのかなと、1人で面白く思っていました。様々なことが不確実ではあるけれど、確実なものにしていきたいという人間の欲望が存在するのだとヒシヒシと伝わってきました。哲学者でも哲学の他に何を学んだり専攻しているかによって考え方がこうも異なるのかと興味深かったとともに、我々も何に触れ何を学ぶかで考え方ががらりと変わってしまうことは面白いなと思いました。
デューイは「共同体による保証」で「客観性」を確保としていますが、確かに一人よりもみんなが「保証」や「主張」したという社会的要素がある方が真理に近いような気もします。しかし、その共同体の価値観自体が他から見て異様な場合はどうなのかと思いました。「ミッド・サマー」という映画では、主人公を含む外部からきた旅行者がある共同体の祭に参加するのですが、そこではさまざまな異様なことが起こります。しかし、その共同体で生きる人にとってはそれが当たり前で誰もおかしいとか異を唱える者がいません。これはフィクション映画ですが、「みんなが同じように思っているから保証できる」という保証は確かではないと思いました。時にはみんなが思っているからこそ、外部から見れば異様なことが正当化されることも起きてしまいます。例えば、纏足や割礼の文化はそれに当てはまると思います。これらの文化は明らかに身体を傷つける望ましくない行為ですが、それを外部の人間がやめたほうがいいと言った時に、その文化で生きる人が「自分にとって有用だとか、自分たちの文化だから」と言われた時には、プラグマティズムの視点から考えれば、その文化が正当化されてしまうことになります。しかしこの問題を文化はそれぞれだからと多文化共生として尊重するのも間違っている気がします。社会的要素があるからこそ、本来望ましくないものが正当化されてしまうことを防ぐには、やはり共通の真理が必要ではないのかと思いました。これは考え過ぎかも知れませんが、もし仮に人類共通の真理が見つかったとして、それが本当に正しいとは言える保証もないのではないかと思い始めました。なぜなら、人類もまた一つの共同体であり、外部から見れば(この場合は宇宙人になるのか?はたまた神なのか?)その人類共通の真理が間違っている場合も考えられるからです。そう考えると真理の範囲を人類が認識できる範囲までに限定するのか、もしくはそれ以上まで広げて限定せず、究極の真理を追求するのかという視点も重要だと思いました。
カルト的な陰謀論など、多数の人を巻き込んだ怪しげな主張に関しては排除しきれないのではないか、そして、その問題が残っているのではないかと考えました。
『「朝ご飯を抜いた方がいい。」という言葉には、保障付きの主張可能性を意味があり、真理である』と聞いた時、「それなら何を言っても真理なのでは?」と思い、社会的要素や客観性による区別についてあまり理解できませんでした。それに合わせて、一人でできる「信念」と一人ではできない「主張」の具体的な区別も知りたいです。他者からの共感があれば、「主張」になるのでしょうか。
――口頭。いずれも的確。「結局、相対主義のレベルが「個人」から「共同体」に移行しただけでは?」ということですね。まさにそこをどうするかがプラグマティズム全体の問題と言えよう。人によっては「どうしてプラグマティズムはそんなところで苦労しているの?」と思うかもしれないが、安易に神に訴えたり、素朴な形の真理の対応説に訴えたくないので、頑張っているのだ。
デューイの意見にはおおむね賛成します。「ただ見るだけ」「ただ考えるだけ」の科学者は科学者とは呼べないし、答えが二元論になるものは知識とは呼べないし考える必要すらないのかもしれないな、と思いました。しかし、私はデューイの哲学史には疑問を覚えました。「自然をコントロールできる確実なものが欲しい」から哲学が誕生したとされていますが、そのようには思えません。「生活」をしているだけでふと自然に湧き出てくるような疑問を如何にして紐解いていくか、というのが哲学の始まりだと考えます。人の数だけ考え方も答えへの過程も全然違うだろうし、それはそれで複数の答えがあっていいという多元的なものだと思います。「知識の傍観者説」でなるほど、と思ったし、「行為」することはもちろん重要だと思うのですが、実践的な人も傍観者的な人もいていいと思います。というか、確かめようのない疑問に対する「行為」はどうすればいいのでしょうか。そんな疑問や議論はそもそも無駄なのでしょうか。私はどうしても生活をしているだけで、確かめようのない疑問に出会ってしまうし、それを1度知ってしまえば忘れることはできないし、どうにか自分の中で自分なりに答えを導きたいと思うんですが、、。
――「別に確実なものを求めて哲学やっているわけではないのですが…」という感想はもっとも。でも事実として西洋哲学はそのようなモチベーションでなされているものが多い。ということは、デューイの意見というよりも、西洋哲学に対する異議申し立てになるのかな。「勝手に哲学を定義しないでくれるかな」という感覚は大事だ。
知識とは環境に働きかけて問題を解決するための道具であるという解釈は、納得感がある反面、本当にそれだけでいいのだろうかと漠然と不安な気持ちになりました。知恵が血の通った、物語性のある知識であるならばその不安が解消できそうなのですが、哲学では知恵をどのように扱っているのでしょうか?
――「物語性のある知識」というのはいい表現ですね。正確な内容はわかりませんが。「知恵」について色々考えられますが、ソクラテスならば「たんに道具的な知識を得るだけでは知恵があるとは言えない。そうした道具的な知識の不十分性をも自覚してこそ知恵のある者だ」的なことを言うでしょう。ソクラテスに限らず、自分の能力や知識を俯瞰的に眺めてバランスよく活用することができる能力、単なる知ではなく「メタ的な知」を知恵と呼ぶことが多い気がします。
デューイの知識論の第一条項として、「ただ見る」だけの科学者はいないというものがありましたが、いきなり科学者という言葉が出てきてすこし気になりました。哲学者と科学者の包含関係はどのようなものなのでしょうか。私のイメージでは哲学者と科学者は真理の探究という共通点がありながらも、観測・実証できるかどうかなどで棲み分けがされているのかなと思っていました。プラグマティズムの哲学はどんどん科学者的なイメージに近づいていくような感覚があります。
――口頭。「哲学と科学は連続的である」と考える立場は一般に「自然主義」と呼ばれます。問題はプラグマティズムと自然主義の関係。 一見するところプラグマティズムは自然主義と相性がよいように思うのですが、最近では「科学では解明しきれないところがあるから、やはり哲学は科学から独立している」と考えている人たちもいます(後でみるブランダムなど)。鍵になるのは「規範性」です。
心理学における”対象のありのままを観察しデータを収集する自然観察法”は、傍観者に該当しないのか少し疑問に思いました。
――自然観察法を厳密に理解していないので正確なことは言えないのですが、ちょっと調べた限りですと、たしかに傍観者ですね。
哲学史の話で知識の傍観者説が出てきましたが、外山滋比古さんの書いた思考の整理学という本の第一次的現実という章とも関連する話なのかなと思いました。そこでは『第二次的現実とは、第一次的現実(つまりわれわれがじかに接している外界)についての情報、さらには、第二次的現実についての情報によって作り上げられる観念上の世界である。そして、哲学への志向が生まれ、人間の営為はすべてこの第二次的現実の形成に向けられていたと考えてよいほどである。』というようなことが書かれており、やはり人間は行為を軽視して知識を大事にする傾向があったようです。行為の重要性が哲学の中で言われるようになったのは、実践家のマルクスやプラグマティストたちが現れた最近になってからのことみたいですね。
結局はデューイが言っていたことというのは、知識だけでも行為だけでもだめであって、状況に合わせて行為の中で知識を道具として活用すべきであるということです。そしてそれは、道具である以上万能であるわけではないが全く使えないわけでもないということで、パースやジェイムズの考え方を取り入れつつさらに発展させた保証付きの主張可能性ということになるのですね。
アクティブラーニングについては賛否両論がありますが、国語教育の専門家である福嶋隆史さんは「良い見本を示したうえで、それを適切に真似させることが大事」というようなことをおっしゃっていました。つまりは、なんでもかんでも自由にやらせても身につくものではないから、適切な型・汎用的な技術を教えてそれを演習を通して使いこなせるようにするべきだという考え方のようです。
コメントシートのやり方は一つのベストな形かなと思います。アクティブラーニングの一種とも言えますし、先生の目で見て良いと思ったものを取り上げるので、そこから成長の方向性を見出すこともできると思います。また、レポートほど堅苦しくないので、気軽に書けるというのもいいと思います。
日本と少し関わりがあったのに、今の日本の教育では全くデューイの考えが活かされてなくて、悲しいと思いました。
教育への応用で「受動的な学びから能動的な学びへ」とありましたが現代の小中高生は受動的な学びが大半で能動的学びはほとんどありません。しかし、大学生になり授業・ゼミ・就活で急に能動的な学びを求められる現状があるため、普段から能動的に学んでいない学生にとっては厳しいと感じます。そのため、小中高生の時から能動的な学びの重要性や必要性を教えてほしかったなと思いました。
しかしながら、この考え方を応用したアクティブランニングの考え方には一部違和感を覚えました。私たち大学生にとっては必要な物だと思います。一方、初等教育段階の子供達に推奨することは興味の対象が子供の私生活の内容に限定されるのではないかと思いました。デューイは教科書主義的な教育を嫌いましたが教科書という前提があって初めて生まれる経験や行為というものも尊重して欲しいと思いました。
デューイの教育論について、デューイは能動的な学び(課題解決型学習)を重要視したとのことでしたが、個人的には受動的な学びをしているとたまに訪れる「伏線回収」の瞬間が好きなので、受動的な学びも結構重要ではないかと思いました。「伏線回収」というのは、例えば「テストに出るから覚えるか〜」と丸暗記した内容が、後日別の勉強をしている時や日常のふとした瞬間(クイズ番組を見ている時など)に登場して「読める、読めるぞ…!」となる瞬間のことです。能動的な学びをしていても同じような瞬間はあると思います。しかし、能動的な学びで得た知識が他分野のことと繋がる瞬間に、順序立てて綺麗に組み上げたジグソーパズルが完成した時のような達成感があるのだとすれば、受動的な学びで得た知識が他分野のことと繋がる瞬間には、どこのかわからないパズルピースが唐突にピッタリハマった時のような、達成感とは趣の違う感動が得られるように感じます。回収されないまま終わる伏線が多いのが欠点ではあるのですが、個人的には受動的な学びも良いものだと思いました。
ある程度の知識は一方的に教える必要があるような気がしました。子供の自発性を尊重しすぎることもよくないと思います。当時のアメリカではデューイの考え方に対して、批判の声は上がらなかったのか気になりました。
――もちろんあがりました。「先生はたんに教室を歩き回っているだけ」などと批判されます。デューイもこうした批判に何とか応答しようとしています。 『経験と教育』『学校と社会』『民主主義と教育』などで。
先生はよく「わからない」「難しい」という言葉を多用されますが、その姿勢に非常に好感を覚えます。特に哲学において、考えを理解するのは難しい、哲学者の考えを完全に理解するということは難しいということでしょうか?それともその理解は将来覆る可能性があり得るもの、いわゆる可謬主義的な考えをお持ちだからでしょうか?哲学に向き合うその姿勢に感銘を受けました。(非常に生意気な意見で申し訳ないです。)
――両方。哲学者に限らず他人、もっといえば自分のことも部分的にしか理解できていないと思うし、「こういうことだ!」と思ったことも将来覆ることがあるので、できる限り「わかった」と思わないようにしている。「わかった」と思わない限り、間違えることはない。
プラグマティズムが面白いと思い始めたところでプラグマティズムの範囲が一旦終わってしまい、なんだか悲しいです。
――「古典的プラグマティズム」が終わるだけで、プラグマティストはまだたくさん控えているぞ。
余談だが、来週からウィトゲンシュタインをやると聞いてとても嬉しい。前期の哲学Ⅰで「語りえぬものについては沈黙せねばならない」ということばを聞いてから、ウィトゲンシュタインをもっと勉強したいと思っていた。先生が「前期推し」なのか「後期推し」なのかも気になる。授業をしっかり聞いて、知識を深めたい。
――私はもともと「後期推し」だが、最近になって「前期もいいかも」と思ってきた。
講談社を5日で辞めた話はとても印象深いので今後もそういった雑談もしていただけたら幸いです。
――ほんと講談社ネタは飲み会でウケがよいのですが、今後は授業でも活用していこう。話のネタになるという点であのときの努力は無駄ではなかった。
ZOOMで授業を受けていると、チョークで黒板に書く音が非常に心地よいです。ASMRってやつですね。
――ちょっとうるさいかもと思っていたのですが、そんな効果が。
黒板すごく見やすかったです。試行錯誤してくださってありがとうございます。
――プラグマティストですから、試行錯誤は得意。
先日知らないおじさんが哲学談義を何故か僕に仕掛けてきたのですが、この講義をとっていたおかげで何とか耐え忍ぶことができました。大半何を言っているのかはわかりませんでしたが、授業で言ってたなぁというところもあったので面白かったです。これもまた知識の道具主義ともいえるのかなぁと思った出来事でした。
――ほんと興味をわかせる文。あなたがどんな生活を送っているのか聞きたくなる。余裕があればもう少し詳しく書いてくれない?
今日の授業を改めて振り返ってとても難しかった。正直なところ私自身全然理解できていないと思う。
正直に申しますと、全体的に難易度が高く、私自身の理解が追いついていない部分が多々あります。特に、真理の有用説の帰結は、述べていることはわかるが、理解しようとすると私の頭ではわからなくなっています。
今回の授業は難しかったです。
――口頭。理解できないという状態に忍耐強く耐えるという経験はとても重要。特に現代では。でもそれにも限界があるよねー。どうしましょうか。とりあえず次のデューイで一区切りなので、そこまで頑張りましょう。それ以降はちょっと違う話になります。私自身が古典的プラグマティズムをガチ専門としていないので、逆に難しくなるのかも。次からが私の専門ですので安心してください。
懐疑論や真理論を通して様々な考え方を聞いていて、誰の考えだったのかということや、プラグマティズムとの関係性などが複雑で、少しずつ整理が追いつかなくなっています。
――そろそろ混乱が出てくる頃なので自分で整理していって下さい。
授業の内容を少し減らしたとのことですが、私としては少し物足りなかったです。もう少し量を増やしていただけるとありがたいです。
――多様な意見を総合するのは大変だ! 民主主義大変! 政治家を尊敬し始めた!
真理は「後」から成立するという帰結は、非常に納得できるものだった。先生は講義中「教育」を取り上げて話をしてくださったが、これに当てはまる例は至る所にあると思う。例えば、コロナ政策だ。アルコール提供が感染者増加の直接要因となる具体的な根拠はない。「アルコール提供自粛が新規感染者を抑え込む有効な施策である」という真理は政策を打ち出した時点ではわからないことだった。しかし、現時点で確実に真理だと言い切れることしか実行に移さない人間は、悲劇を未然に防げない。教育者でも政治家でも、リスクを冒して未来を見据える人間は皆尊敬に値するなと感じた。白川先生の話を聞けば聞くほど、思考がプラグマティズムよりになっている気がする。
――今の状況を見ると「S元総理は正しいことをしていたのかも」と思いますね。教育でも政治でも「国家100年の計」ですから、そんなに簡単に批判できるものではありません。ますます政治家を尊敬し始めた!
ジェイムズの真理論における「事実(真理)と価値が明確に区別できる」という前提こそが偏見なのではないか、何が真理であるかという哲学的論争は自分の価値観を投影しない純粋な理性的な営みであると一般的にはみなされているけれども、実はそれぞれの人の「気質」や「感情」の争いなのではないか、という着眼点は実に的を射ているなあと感じました。現在世界で様々な道徳、信条が互いの領域を確保しようとひしめき合って様々な問題を引き起こしています。例えば、妊娠のアウトソーシング。体外受精が可能になった現在、代理母の外観を気にする必要がなくなったため、インド人の代理母がイギリス人の子供を産み報酬を得るというビジネスが成り立っています。代理母には料理人、医師つきの集合住宅が提供され、報酬は、代理母であるインド人の女性が15年かけて稼ぐ額を上回ることも多く、彼女らの実の子の養育費や、住宅の購入資金になるそうです。ジェイムズが言うように、どちらが正しい、どちらが間違っているなんてことはそれぞれの人の気質や感情、価値観によって左右されるため、決められないという現象がここで起きています。インド人の代理母にとってみれば、代理母になることで自分の子供に満足な教育を受けさせることができる、もっと楽な暮らしができるかもしれない、もし代理母という仕事がなければ、路頭に迷っていたかもしれない人もいるかもしれません。この場合、功利主義者たちは、子供を産むことができない夫婦も子供をもつことができて幸せだし、代理母も巨額の報酬を手に入れて幸せになることができるため、この行為は正しい とします。一方で女性の体と生殖能力を道具扱いすることは人間としての尊厳を貶めるとする人もいて、マイケル・サンデル氏は代理母たちは自由な選択をしているように見えて、そうせざるを得ないという状況に貶められていると指摘します。数々の哲学者が様々な真理を打ち出してきましたが、それらの真理が価値観、感情と不可分であることを指摘したジェイムズには先見の明があるというか、すごいなあと感じました。ニーチェとかカントとかの哲学を見てみて、どうしたらこんな発想になるんだろうとか思っていましたが、ニーチェやカントと同じ時代、価値観、感情を体験できたら(できるわけないし、多分気が狂うと思うが)少しは彼らの哲学もわかるかもしれないと思いました。
――そうだ。おっしゃるように、哲学者を理解するには「気質」や「感情」の共有が必要なのだ、と私も思う。だが逆に言えば、違った文化や時代に生きる哲学者を理解することには限界がある、ということでもある。
ジェームズの心理の有用説のなかで例として挙げられた、神の存在についての考え方が、日本人の宗教観と似ていると考えた。あくまで自分の体感だが、日本人は絶対的な神を信じているわけではないが、神を信じている人の存在は「その人にとってはそうなんだろう」といった感覚で受け入れている人が多いように感じる。プラグマティズムはさまざまな考え方に対して寛容であると説明されていたが、このような日本の宗教観もまた寛容であると形容されることがある。日本人は知らず知らずのうちに身近なところでプラグマティズム的な考え方をしているのかもしれないと思った。
日本でも、縁起でもないことを言うなという言葉が使われます。これについては、何か悪いことが起こった時に、その物事が起こるよりも前にマイナスのことを言うと、その言霊通りに悪いことが起こってしまうというような考え方だと思うのですが、少しジェームズの考えと似ていませんか?個人的には東洋と西洋で昔だと距離もあるし、似たような文化ではないのに、似たような考え方が生まれるのは面白いと感じています。
――後でしばしば指摘される「予言の自己成就」「予祝」とも関連する。
その人がそれを自分に有益かどうかによって真か否かを決定できるというのは、本人がどう思うか、どう思いたいかによって真が変わってしまうことだと思います。その真は本当に真なのでしょうか。僕の中であまりはっきりしません。
真理の有用説では一部の人々に有用ならば真であるとする限定的な真理が認められているのが驚きだった。これは明晰判明なものは真だとするデカルトの哲学と似ていると感じたからだ。「神が存在する」が限定的な真理の例として挙げられていたが、これは神を信じる人たちにとっては明晰判明なことであり、それが真理とされるならデカルトの「明晰性」という規準を認めることになると思った。
真理の有用説はほとんど相対主義であるのではないかと思いました。
これまではプラグマティズムの懐の深さという良い部分に目がいっていましたが、今回の講義で、ある人が認識する事実が当人にとって有用であったとしても、それを真理とするのはやはり適切ではないように思い、この哲学のマイナスの部分を感じました。
――口頭。限定的真理の方は、主観的で相対主義的で使い物にならないということですね。まさにそうです。この主観性を脱するにはどうすればよいでしょうか? ちょっと考えてもらえます?
実証的な真理と限定的な真理の両立と真理の有用説の帰結4つのことを板書しましたが、はっきり言ってよく理解できていません。一番理解できていないことは、限定的な真理は「後」から成立するが、実際どのような地点で真理となるのだろうかということです。何人かの人がその真理をいだいたとき?その人の中で限りなく論理的にその真理の有用性を導き出せたとき?それとも、論理的じゃなくとも有用性がなくとも有用だと思ったとき?授業の内容を聞いていた限りでは、現在だけでは成立しないということしかわかりませんでした。
――それらをすべて含むんでしょう。だからこそ基準が曖昧である、とか、主観的過ぎる! と批判されがちです。
真理は「後」から成立し、現在だけでは成立しないとのことでしたが、あまり納得できませんでした。人間は過去を判断材料として物事を考えるので、真理を認知した時、必ず物事の「後」になってしまうだけで、真理自体は過去でも現在でも未来でも変わらず成り立っているものだと思います。
――あなたのような人は「真理について実在論的な立場を取っている」と言われます。そしてプラグマティストと闘うことになります。
ジェイムズのひとびとにとって有益ならば真という限定的な真理が、そもそもの真理のイメージとやはりかけ離れているように感じます。有益ならば真というのは確かに現実的で無駄な部分を捨象できているようにも思うが、それ以上に本来の真理としての役割を放棄しているように思えてしまいます。役に立つから真理なのではなく、真理であるから役に立つことこそが本来の真理としての役割だと思うのです。決してジェイムズの真理の有用説が間違っているとか受け入れられないなどというつもりはないのですが、なんだかめんどくさいこと考えないで使えることを考えようよといわれているようで少し委縮してしまいます。役に立つことをしたいとは思いますし、それはいいことだと思うのですが、私が学問を勉強するのは役に立つことを意識しているのではなく、単に学ぶことや知ることが楽しいからです。私としては将来役に立つとか自分のためになるんだよとか、そういったことはどうでもいいと思っていました。私にとって役に立つことはどうでもいいことなのです。しかしそのどうでもいいことこそが真理だと言われ、そのことこそ考えるべき真理だなどと言われてしまうと私の中での価値観の軸が否定されるようで少し気が乗らなくなってしまうのです。もちろん学問として哲学を学び、その中のプラグマティズムに触れることは私にとって楽しいことであり、自分の世界を拡張する手助けになると思います。ただ今後の私にとって、「役に立つ」という価値観を持って生きることは、向上心の薄めな私には疲れてしまうように感じられました。総括しますと、ジェイムズの真理の有用説を心に留めて生活を送れるような人たちはとてもストイックでかっこいいなと感じますのが、今回の感想になります。
――プラグマティズムに対する典型的な反感と言えよう!
→関連して、
真理の有用説の結論でおっしゃられていた違いのない立場の論争は不毛ということに関して思ったことですが、私も哲学という学問に対して、何の役に立つのだろうと思っていました。語学や数学など役に立つ学問をすればいいのにと思っていました。でも、哲学という人生とは、人間とはというふうに考える学問は、ただ生きるだけでなく、考えて生きることで自分の人生を豊かにしてくれるのかなと思いました。
――口頭。「役に立つ」というのは道具的価値に過ぎず、それ自体に価値があるわけではないから、「役に立つ」という言い方ってある意味でそれの価値を貶めているんです。それ自体に価値があるということは本来的価値と呼ばれるのですが、哲学をやっている人は、哲学に道具的価値ではなく本来的価値を認めているからやっているんでしょう。だから「何のために哲学をやっているの?」とか「哲学は世の中にどんな役に立つの?」と聞かれても答えられないのは当然の話であります。それ自体が目的であり価値であるので。そのような質問に上手く答えられるということは、むしろそのものの価値を貶めているということになります。もちろん語学や数学も手段としてではなく、それ自体を目的としてやっている人もいるでしょう。研究者はだいたいそうだと思います。
「真理は後から成立する」という真理の有用説の帰結を聞いて、占いと予言の自己成就が頭に思い浮かびました。例えば占い師に「あなたは将来夫と離婚することになる」と言われた女性Aさんがそれを防ぐため夫に対して疑心暗鬼になってしまい、夫はそんな妻の様子を怪しんで結局夫婦仲がぎくしゃくしてしまい離婚に至ってしまいます。この時妻がやっぱりあの占い師のいうことは正しかったと思えば、真理の有用説の帰結から考えるとAさんにとって占い師の言葉は真理になってしまいます。しかしこの場合占い師の言葉がのちに真理になり得るかどうかはAさんが占い師の言葉をどれだけ信じるかにもよると思います。その占い師が有名で人気でもあり、また友達からのお墨付きもあるような凄腕の人物ならば、その言葉を信じる傾向は高くなると思います。一方、人気もなく、あまり当たらないと思うような占い師の言葉であれば、その言葉を信じないので、たとえ離婚すると言われてもそこまで気にせずこれまで通りに生活を送れば占い師の言葉がきっかけで離婚に至るような結果にはならなさそうです。「真理は後から成立する」ということは、まずはその真理に至るような行動を起こす必要があり、その行動を起こそうと思える要素が必要で、占いであればそれは「信用」にあたるのかなと思います。しかし占い師を信用するか否かはまた他の信じられる要素から判断することになりそうです。「友達も占ってもらって実際に当たっていた」を信用の根拠にするのであれば、その友達が予言の自己成就で占いの信頼性に加担した場合に、その占いは本当に当たっているのか怪しいです。実は占い師は当てずっぽうでそれらしいことを言って、たまたま当っていて、それを信じたAさんが占い師の言葉を信じて予言の自己成就によりその占いが「真」になってしまい、さらにその占いの「信頼性」が増す、ということもありえます。この場合、占い師はインチキなのに、占いは正しいということになり、「真」とは思えない本質(占いの中身)から「表面的な真理(予言の自己成就によって生まれた結果)」につながるため、「真理は後で成立する」は説得性があるのだろうかと疑問に思いました。個人的には「真らしきもの、真かどうかはわからない」ものから「真理」が生まれる考え方には若干抵抗を感じます。
現在でいう「予祝」がジェイムズの話に似ていると思い、興味を持ちました。
――まったくもって的確である。有用説的な真理観に対しては「信念が真であることは行為が成功するために必要でも十分でもない」などと批判されることがあります。まさにそのあたりを指摘しているのでしょう。しかしちょっとジェイムズ寄りの発言をすれば「自己成就でも、成就すればいいんではないか」とは言えないでしょうか。まさに占いとはそういうものではなかろうか。上の人も書いているように、神頼みによって自己暗示をかけることで影響を及ぼすとか、プラシーボ効果とか、予祝とか。こういった曖昧な領域の「真理」を捉えたいということでしょうか。
→これに関して、よい補足がある。
講義の本質とは少し離れてしまうかと思いますが、私はウィリアム・ジェームズの法則とされている「それを信じたい人には信じるに足る材料を与えてくれるけれど、疑う人にまで信じるに足る証拠はない。 超常現象の解明というのは本質的にそういう限界を持っている。」という文章に関心を持ちました。超常現象について述べた文ではありますが、これを形而上学と読み替えた時、他者に対して好意的(?)なスタイルを取るプラグマティズムの良さ、あるいは限定的真理について端的に述べている素晴らしい一文だと思います。
限定的な真理の考え方で「有用なので真」とみなされたことでも、例えば「おまえのものはおれのもの」のように、他者を害するようなものだった場合、ジェイムズは「真理ではあるけど、行為はしたらあかんよ」と言うのでしょうか。言い換えると、春学期の授業で言われていた「ヒュームの法則」のような話をジェイムズもしていたのでしょうか。
ジェイムズの唱えた限定的な真理について、例えば「死は救済である」が一部の人にとって有用、有益だから真だ、というのは倫理的な問題が許さないと思います。このような倫理的な問題を抱えた場合、真か偽かどのように評価されるのでしょうか。
ただ、疑問に思ったのですが、有用であれば真なのであれば教育現場で体罰を用い生徒の成績を伸ばそうとした場合それが成績が伸びたら先生にとって有用になると思います。その経験を積み重ねてしまうと真という風になってしまい危険で諸刃の剣の考え方になってしまうのではないか思います。そしてこの方法で結果を出し続けた場合も教師サイドでは真であるということは変わらないのでしょうか?それともジェイムズの論にも可謬主義を用いるのでしょうか?
ジェイムズの有用なものは真という考えは物事の帰結から検証して生み出される点で真理としてもっともらしくみえる。しかし、例えば、核兵器の利用が有用として人々に認められば、その行為が真理に近づく可能性があると思うと恐ろしく思えた。
――口頭。ジェイムズ哲学の倫理学ですねー。パッと答えられないですねー。いやそもそもプラグマティズムと倫理の関係がよくわらないんですよね。ちょっと待って下さい。ジェイムズはそこまで道徳について語らないのですが、『信じる意志』に含まれる「道徳哲学者と道徳生活」のなかでは道徳判断の基準として「できるだけ多くの要望を満足させること」とありますから、大枠としては功利主義と言えましょう(cf. 『プラグマティズム』60頁)。この辺り林研(2018)「ウィリアム・ジェイムズにおける道徳と宗教」に色々と書いてありますが、もう時間がないので、大体の理解で述べましょう。Aさんに有用なことでも、さらにその結果を見ていくとBさんやCさんに不利益をもたらすのなら、それは全体として有用ではないということになるでしょう。しかしさらに結果を見ると、DさんやEさんやFさんに有用ならば全体として有用ということになるでしょう。つまり「結果としての全体的な有用さを見て、有用なら真で、そうでなければ偽」となるのではないでしょうか。自分にとっては有用でも全体としては有用でないようなことは「自分にとっては真だが、全体にとっては偽で、すべきではない」ということになるでしょう。もちろん予想されるように「どの時点の結果までを見る必要があるのか?」という、功利主義と同じ問題が生じるでしょうが。
真理の有用説について、限定的な真理という考え方が面白いなと思いました。そこで気になったのが「優しい嘘」は真理と言えるのかなということです。たとえば、母親を事故で亡くしてショックを受けている子供に、その父親が「お母さんは旅に出たからいつか帰ってくるよ」と言ったとすると、子供はそれを信じていつか帰ってくるのを待つかもしれません。しかし父親はそれが事実ではないことを知っています。このように、優しい嘘によって救われる人にとってはそれを信じれば真理となり得るかもしれませんが、優しい嘘を与えた側は真理ではないことを知っています。真理の有用説の観点から見れば、1つの言葉で真理と真理でないものが同時に存在することがあり得るのでしょうか。それとも、子供が事実を認識できていないような場合ではたとえそう信じたとしても真理とは言えないのでしょうか。また、真理の有用説の解釈がこのようなものであっているのかわかっておりませんので、ご指摘お願いしたいです。
――口頭。「優しい嘘」は、「嘘」という点で実証的真理としては「偽」ですが、「優しい」という点がもたらす有用性によって限定的真理の観点からは「真」となります。父親はこの文を、実証的には偽であるが限定的には真であると認識しているでしょう。子供はもちろんその文を実証的に真であると(誤って)思っているはずです。この文がまさに実証的に真であることによって救いが成立しているので。
「神は存在する」という命題は、ある人にとってそれを信じることで安心を得られるなど有益であるならば真であるという例があったが、仮にその人が「やっぱり神なんて信じなければよかった」と後から考えを変えたとすると、この命題は偽となるのだろうか?もしくは「あの頃の自分に関して言えば、神を信じることで救われていたから...」という理由で真のままであるのだろうか? […]「人生に無駄はない」というような事を言う人がいるが、その人にとってはすべてが真理として映っているのだろうかと思った。
――真理はコロコロ変わっていくのではないかと思います。「人生に無駄はない」と言う人はまさにすべてが真理なんでしょう。信仰の話になってくるでしょうが。
真理の有用説は、個人の中で否定と肯定が繰り返される場合があると考えました。例えば、何か悪いことが起こったら「バチあたったな…」と神様のせいにすることもあるし、何か良いことが起こったら「神様ありがとう…」と神様のおかげととらえることもあります。これは24時間中に起こりうることだし、極端に言えば、自分の行為を省みず都合よく真理を濫用することに繋がります。ここで疑問なのですが、このようなことはプラグマティズムでは許されるのでしょうか?思考を巡らせ、発展させることへの哲学的探求が滞ってしまうような気がします。真理は「後」から成立する、というよりは、真理は「時と場合において」成立する、という印象を受けました。
――限定的真理の場合、このようにコロコロ改訂されていくでしょう。発展させることは実証的真理に任せるかな?
今回の講義ではウィリアム・ジェイムズが確立した真理の有用説について学んだが、自分の経験に基づいてあるものが有用有益つまり役に立てば真とするならば、この世にあるすべてのものが真になる可能性を秘めていることになるため、結果として、真理の有用説を用いたところで絶対的な真理を探究することを目標としている哲学において何の意味もないのではないかという疑問がうまれた。
――ジェイムズなら「絶対的な真理を探究することを目標としている哲学」という前提がおかしいと言うかな。
自分が予期してない過程を通じて、当初望んでいなかったような結果が出たとしても、誰かにとっていい結果になればプラグマティズムではOKだということでしょうか?
――ジェイムズはプラグマティズムは功利主義(帰結主義)でもあると言っているので、OKということになるでしょう。「いやそれはおかしい、動機が重要だ」と考えるなら「義務論」という倫理的な立場がしっくりくるでしょう。
真理を調べると、
①本当のこと、間違いでない道理、正当な知識内容
②判断内容がもつ客観妥当性。意味のある命題が事実に合うこと。
③論理の法則にかなっているという、形式的な正しさ。
と出ました。では【『真理』は後から成立するものである。】これ自体の真理はどうなっているのかと気になりました。
――その辞書(?)の定義が狭い!とプラグマティストなら言うでしょう。広辞苑には「命題や観念が実践的行為において有効・有益であるときに真が成立すると考えるプラグマティズム」とあります。
今日の講義で最も印象的だった言葉はジェームズランゲ説における「悲しいから泣くのではない、泣くから悲しいのだ」です。この言葉を聞いた瞬間、すごく共感する!と感じました。もしこの言葉がほんとうに正しいのならば、私たちは自分の行動次第で自分の感情をコントロールできるのではないかなと思いました。たとえ今の自分の気持ちが落ち込んでいたとしてもスキップなどをしてみたらだんだん元気になっていくのかなと考えました。ジェームズランゲ説は今日の講義のメインテーマではなかったと思いますが、とても興味がわきました。もっとこの説についてのお話を白川先生からお聞きしたいなと思いました。
ジェームズ・ランゲ説、高校の倫理の授業で出てきたのを思い出してうわっっとなりました。哲学IIの授業は本格的な哲学すぎて高校の倫理で扱うような内容はあまり出てこなかったのでここにきてジェームズ・ランゲ説との再開を果たすことができ、疎遠になっていた旧友に会えたような気持ちです。悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだ。という刺激→身体変化→情動の考えは確かに共感できるところがあります。幼い頃よく自転車で転んでいたのですが、その時は刺激を受けて情動を感じる暇もないまま泣いていました。痛いという情動よりも驚きで泣いてしまい、その結果悲しいという情動に繋がった実体験です。しかし4日前に久しぶりに「ONE PIECE エピソードオブチョッパー 冬に咲く、奇跡の桜」を観て嗚咽が出るほど号泣したのですが、あの時の私は確かに刺激→情動→身体変化である、「悲しいから泣く」状態でした。チョッパーの回想シーンを観て(刺激を受け)、その時のチョッパーの感情に移入し(情動)、泣いていました。このジェームズ・ランゲ説はただの一介の説であることは前提として、この説でいうところの刺激とは、物理的な刺激のことだけをいうのでしょうか。とにかく、ジェームズ・ランゲ説の例を参考に、「笑うから楽しくなる」という説を掲げてこの一週間を過ごしてどのような変化があるのか、とても気になるので己を治験体に試してみます。
個人的な感想ではありますが、今回の問題においては、ジェームズ・ランゲはある種の機能主義的な観点から人間の情動のメカニズムを捉えたということになるのでしょうか?自分の立場としては、「心やそれに伴う精神活動は人間固有かつ所与のものである」と思っているために、あまりこの考えに対して賛成はできないのですが、先生はどのようにお考えでしょうか?ご意見を頂ければ幸いです。
――他にもジェイムズ・ランゲ説好き多い。個人的には良いこと言っているなという印象だが(プラグマティストなんでね)、現代の心理学においても認められるものなのかはよく把握していない。誰か調べてくれません?
今回はプラグマティズムを構成するうえで重要な柔軟性を与えたウィリアム・ジェイムズさんについてやりました。ここまで哲学の基礎概念やプラグマティズムと対局をなす(この表現であっているのかわかりませんが…)デカルトの考え方などを習ってきましたが、哲学について習っていくうちに、「哲学」という言葉がどういう意味合いを持つのかよくわからなくなってきました。ほかの哲学以外の授業で使われるような「哲学」はどちらかといえば「起源を知る」というような意味合いで使われることが多いような気がします。(私は哲学Ⅰを受講できていないのでもしかしたらそちらのほうなのかもしれませんが…)ですが、実際に授業で習ってみると、「起源を知る」という意味は薄味で、全く違う意味合いを持っているんだな、と気が付きました。(すみません、いい言葉が思い浮かびませんでした。端的に表現するとすれば「真理」という言葉に関連するものという感じだと思うのですが、ピンとくる言葉が思いつきませんでした。)
――口頭。うん、人によって「哲学」で何を指すか、あるいは、何を強調するかは変わるものです。あまり意識していなかったですが、この授業はおっしゃるように「真理」が中心テーマになっています。ここは私の好みが反映しているところなので、このような捉え方がすべてだと思うのは危険です。デカルトやパースやジェイムズの「真理論」以外の部分はだいたんにカットしているので、これがこの人たちのすべてだと思うのはよろしくありません。
哲学の授業を受ける度に、私の日常生活の中で感じていることなどがクリアになっていくのでとても好きです。
――上に関連するが、まさに私は「クリア」にするために哲学をやっているのかも。「度の合った眼鏡・コンタクトのレンズ」を追求しつづけているというか。
この講義の中でジェイムズの多様なものを受け入れる心の広いプラグマティズムはとても現代に合っているなと思ったと同時に、この数回の講義の中で私がプラグマティズムに対して感じていたデカルトのような哲学と違って哲学を学んでいる感のなさやそんな考えが!といった面白みの少なさは私たちの考え方がプラグマティズムを学ぶ前からプラグマティズムを基盤とした考え方を学業などから習得しており目新たしさを感じないためではないかと思った、そしてそれだけプラグマティズムという理論は有用な哲学なのかもしれないと感じた。
――上にも関連するが、プラグマティズムって人を驚かすような奇抜な考えを提示するものではないかも。
この授業を受講し始めてからYouTubeで哲学関連の動画を見るようになったのですが、suggestされた動画の中でクオリアについて議論しているものがありました。そこで気になったのですが、哲学においてクオリアをどのように扱っているのでしょうか。
――哲学のジャンルでは20世紀後半から「心の哲学」というジャンルが発展しております。神経科学や心理学などの成果を踏まえつつ「意識」の謎などに取り組むものですが、その中でももっとも難しい問題として「クオリア」をどのようにして説明するかというものがあります。人間の意識は脳によって物理的に実現しているものですが、そのような物理的な構造を探究し続けても私たちが主観的に体験する「バラの赤さ」「味噌汁の匂い」といったものは説明できないように思えます。「主観的な体験の質」をいかに物理的な世界に位置づけるかということです。関心があれば、信原幸弘編(2017)『心の哲学: 新時代の心の科学をめぐる哲学の問い (ワードマップ) )』あたりを読むのがいいんじゃないでしょうか?
一つの物事に対して“真理”は複数存在しえますか? 今回の講義で例えられていた「神は存在する」という真理がありましたが、ギリシャ神話やインド神話など、いろんな神様が存在しています。神様の数だけ真理があるということですか?
――例えば神様の数だけ真理が存在するという立場は「真理の多元主義」と呼ばれます。「いや一つだろ」と言う人は「真理の絶対主義」ないし「真理の普遍主義」ということになります。
別大学の友達に「この先生面白い」と紹介したところ速攻でググっていたのですが、その流れでブランダムが今も生きてる人と知って驚きました。
――うふふ。
授業の最後に先生がされていた講談社を5日で辞めて変な人になってしまったという話が今日1番面白くて、その時眠すぎて限界だったけれどちゃんと授業を聞いていて良かったと思った。
――おほほ。今後も突然そういう話をしよう。
哲学とは関係はないですが、お薦めの詩集を教えて欲しいです。
――すみません、詩のたしなみはありません。
余談ですが、先生の見てるビジネス書要約チャンネルのチャンネル名を教えていただきたいです。
――こういう情報は恥ずかしいので、無理です。
白川先生のホームページの番外編に書いていた内容について、『その人の「気持ち」「思考のリズム」「言葉の響き」「推論の流れ」「文体」といった部分、つまり、感覚的で美的で音楽的な部分』が大事だという話がありましたが、そのことで思い出したことがあります。街場の文体論という本で以下のようなことが書かれていました。
『ロラン・バルトは言語を三つの層に分けてとらえようとしました。「ラング」「スティル」そして「エクリチュール」です。人間が言語記号を操作するときの外的な規制がラング、内的な規制がスティルであり、その中間に位置するのがエクリチュールです。エクリチュールの怖さはそれが言語運用にとどまらず、その人の社会的なふるまい全域を規定してしまうという点にあります。話し方だけでなく、ファッションも身体運用も表情も価値観も美意識も全部セットで決められてしまう。服を変え、髪形を変えたら、語り口も、話のコンテンツも、うっかりすると話の結論まで変わってしまう。そういうものなんです。』
要約して書きましたが、だいたいこのようなことが書いてありました。つまりは、ある内容を異なる形式で表現しようとすると、その内容自体が変わってしまうことがあるということです。ここでは、エクリチュールの話でしたが、ラングでもスティルでも同じように、内容に影響を及ぼすと思います。それは小説などが実写化されたときに同じ内容にもかかわらず、映画の評価がよかったり悪かったりするということと同じようなものです。内容と形式の境界はとても曖昧だと思います。だから、翻訳や要約などの作業で「同じもの」を表したつもりでいても、実際には「似たようなもの」にしかならないのではないかと思います。そのため、原典に書かれていることと訳書や解説書に書かれていることは厳密には違っているのだと思います。訳書が解説書と違って小難しく書かれているように感じるのは、なるべく日本語の体系の中で原文の意味を正確に反映させようとした結果なのかもしれません。だから、真の意味で理解しようとするならば、白川先生も言っておられた通り『だからこそ読者は、その著者の言葉を使って「思考」するレベルにならないと正確には理解したことにはならないということです。思考自体もその言語でできるようにならないとダメだということです』ということになるのだと思います。
――ほお。バルトもなかなか良いことを言っているなー。我ながら「ちょっと良いこと言っているかも」と少し悦に入っていたんですが、だいたい誰かがすでに言っていますよね、こういうことって。
板書のことなのですが、私としてはもう少し多いほうが嬉しいです。私は人の話を聞きながら板書をとるのが好き(というかもはや趣味の域にあるような気がします)なので、4回目ぐらいの板書をとりながら先生のお話(先生のお声を聴くのも好きです)を聞いていたいです。同じくらい顔をあげて先生のお話を聴くのもすきなので、どちらでもうれしいのですが…ご検討いただけましたら、恐縮です。
――板書が趣味とは人間の多様性を感じました。そういう人もいるんだということは大変参考になります。
黒板がすごくみやすくなっていました!
――今後はその位置にする。
それに僕だけかもしれませんが、黒板を表示している画面が小さくなっていて字も見えませんでした。他に同じことを言っている人がいたら改善してほしいです。
――この回は、マイクを忘れたので映像を流すPCと音声を流すタブレットを分けたので、しゃべる度に画面がタブレットに行ったのかもしれません。黒板が映っている画面をクリックして「ピン留め」「固定」などをすればそれが写り続けます(もうマイクを忘れないので、そのようなことは必要ないでしょうが)。
今回の授業では音声がよく聞き取れず板書ばかり集中してしましました・・・明日は忘れずに持ってきていただけることを祈っています。
――明日は忘れない。
今日の授業はiPad(?)を持っている時以外、声がずっと反響していて、あまり聞こえず、内容をしっかりと理解できませんでした。すみません。
――私こそすみません。
この授業を受けて私にとって聴覚からの情報というのは、授業内容を思い出すのに大事な要素だと理解しました。マイクを忘れての授業だった今回は、ほぼ話している内容が聞き取れず板書だけしていましたが、いざコメントを書こうとした今日授業内容を全然思い出せませんでした。なので、できるだけマイクを忘れるのは避けていただきたいです。
――はーい。
パースの考え方には非常に共感しました。自分は哲学よりもプラグマティズムのほうが面白いと感じることに気づきました。もちろん、哲学も好きだし、真理というものに興味もあるのですが、真理についてはもう既に語られるべきことは語られつくされたと思います。その結果、真理に到達することはできないという結論が得られたわけなので、自分の中ではもう真理は語られない領域で眠っていてもらいたいと思います。それよりも、私は死ぬまでの間を上手く生きていければ良いわけなので、根本的かつ役に立つプラグマティズムの問いに向き合いたいと思います。
私は科学と魔法の違いについてよく考えることがあります。魔法とは理想をそのまま実現すること、科学とは決して到達しない理想に少しでも近づけることです。科学の歴史には何度もパラダイムシフトがありました。それまでずっと信じられてきた天動説が地動説に変わったり、物質が原子という構成要素で成り立っていることがわかったと思ったら、さらに小さな要素である素粒子が発見されたりしてきました。その当時では正しいと思われていたことでも、必ずしも正しいと限らないことは歴史が証明しています。そのため、科学は可謬的であり、むしろ誤りうる可能性があることに意義があります。プラグマティズムはそのような科学の考え方と相性がいいですね。
パースは論理学者であったので、デカルトの試みであるゼロからすべての基礎付けをするという考え方を批判したのはちょっと意外な気がしました。論理というのは、何らかの前提から結論を導くわけですから、その根本となる前提を見つけることは重要なことのように思われます。でも、たしかにデカルトのやり方ではなんとなく釈然としないというのもわかります。デカルトのやり方はそう言われればなんとなくそうと言えそうな「感じ」もするという、感覚レベルの話でした。そのため、それは客観的根拠にはできないのですね。論理学者であるパースも、たぶん似たようなことをしようとしたのかもしれません。でも、結局そういう絶対的な基礎となるものは存在しないという諦めから、無理やり話をこじつけたデカルトを自己欺瞞だと言ったのでしょう。やはり、パースの考え方の方が現実的でしっくりきますね。パースにとっての真理は今ここにあるのではなく、無限に修正を繰り返された先にあるのだというのは、一種の希望のようにも感じます。真理そのものに到達することは決してなくても、これまでの歴史を通じて常に真理に近づいて来たと言えるわけですから。
実際にパースの考え方を実生活に活かすには、自分の使っている言葉に注目することが重要だと思いました。なんとなく理解できたと思っていたとしても、実は理解できていないことがあるかもしれません。そういう時には、パースの言葉を思い出して反省しなければなりません。私も「条件文にできないものは明晰に理解できていない」という言葉を心に刻み付けて、条件文に変換して自分の理解を確認する練習をしていこうと思います。
――全体的に良い理解で面白いのですが、哲学とプラグマティズムとを対立するものとして捉えているのかな? 反哲学としてのプラグマティズムとして。正確にはプラグマティズムとは伝統的な哲学を改革していこうとするものなので、反哲学ではありません。ローティ的なものを念頭においているのかな?
今回から本題のプラグマティズムに入ってきたのでどんな内容が来るのかと身構えていたところ、デカルトなどの堅苦しく難しい感じから一気に我々一般庶民の感覚に近づいたように思えます。パースの人物像についてまず最初に思ったのが、哲学者なのに科学者の肩書を持っているのかということです。古代の哲学者はいろいろな肩書を持っているというイメージはあるのですが、近代の哲学者はどちらかというとなんだかよくわからないことを考えて本を出しているような人をイメージしていたので少しギャップがありました。
そして可謬主義は「君子豹変す」という言葉をそのまま表したような考え方で、科学者らしい考え方だとも思いますが、経済学部ということもあってか起業して失敗しても何度でも立ち上がって成功へと導くアメリカの経営者のド根性みたいな感じがしました。
ただ、可謬主義の無限に反復するということはいつまでも真理にたどり着けないような感じもしますし、それ以上に無限に反復すればするほどその信念は自分以外の人からの信頼が無くなってしまい本当に信じていいのかという疑念が起こると思います。それによって皆が合意する意見だったとしても「でもこの人毎回意見変わるから…」というようになり、その人が発表したという理由で合意が得られないというようなことが起こり、真理が揺らいでしまうのではないかと思いました。
また、プラグマティズムは日常生活に即していて役に立つようなものを探求するようなものだと思っていたのですが、パースは真理の有用説というものは意識していないと聞いて少し引っ掛かりました。パースがプラグマティズムの創始者だけれどもパース自体は倫理の教科書の端っこに乗る程度で、そこまで有名ではないということは他に世間に広めた、一般化した人物がいたということだと思います。例えるならマクドナルドの創業者はマクドナルド兄弟だけどもフランチャイズにして広めたのは別の人であるというような感じで。その人物は誰でどういう方法で広めたのでしょうか?
また、パースの人生はあまりみんなに受け入れられなかったというお話を聞いて、プラグマティズムのおおらかさはパースが大衆から拒絶されたからこそこういったどんな意見も受け入れる環境ができたということなのかなと思いました。まあ、妄想ですが哲学・思想単体だけでなく、その人の人となりもお話していただけることでどうしてそう考えたのかということや、その人自体に興味がわいてくるので哲学の授業であるということは重々理解しているのですが、もう少し増やしてほしいです。
あと、もしかしたら私が不勉強なのか、哲学Ⅰを受講してなかったからなのかわからないですが「格率」という単語がさも当たり前のように使われていたので少し困惑しました。
寝不足での授業だったということですが、見た感じ結構辛そうでしたのでどうかご自愛くださいませ。
――まさにプラグマティズムを世に広めたのは、次に話すジェイムズとかデューイとかだな。 「格率」についてはそうだな。今日は10時間寝たので大丈夫。
ついにプラグマティズムの具体的な人物が出てきてとても嬉しく思います。
――お待たせしましたね!
特に共感したものとして、パースが提唱した「可謬主義」が挙げられます。これは、信念と疑念を複数回に渡り反復していくことで皆が合致する真理を見つけ出すという方法であり、今までの哲学の発展の歴史を肯定および総括するような主張でありますし、更に反復の際に見出した信念は必ずしも誤りが全く無いわけではないことを前提にしていることが印象的でした。これは今まで自己欺瞞と揶揄されたデカルトの方法的懐疑のような考え、主張と比較すると哲学の考え方の敷居(?)が低くなり、ようやく哲学が哲学者の内輪でとやかく言い合うような雰囲気から実生活や普段の思考を柔軟に取り込むようなプラグマティズムのイメージが形成されつつあるように感じました。
前回の講義のあとに方法的懐疑論を日常生活の中で実際に試してみたので、本日の講義で懐疑論は自己欺瞞であると分かった時、少しショックでした。自分が当たり前に行っていることを全て疑ってその中で信じられるものを見つけていくのは簡単なことではなかったので、しっかり方法的懐疑論を実践した自分を誇らしく思っていました。講義を聴いて少し落胆しました。でも、パースの考え方の方が自分自身の考え方を表現する上ではふさわしいのではないかなと思いました。ものごとがはっきりしていることと、それが真であることとは異なると分かり、この考え方を取り入れることで、主観的な考え方を取り除くことができるなと感じました。
――口頭。ここまで素直に理解・受け入れ・実践してくれているのね。私としてもちょっと申し訳ない気持ち。批判すればいいというわけではないということを再認識。これは哲学の根深い問題かも。ただ少なくともこの授業では今後パースを否定することはないので、その点では落胆させることはないでしょう。
→ 他にも「「方法的懐疑」について私は「あっなるほど!」と強く思っていたのに、パースさんはこれ無理、無意味、可謬主義だと主張しています。なんか悲しいです 」
↔ 他方で「パースは以前までのデカルトの「方法的懐疑」や「明晰性」を全否定してまでも自らの考えを押し通そうとした勇気を褒め称えるべきだと思います」「私は、デカルトの考え方の軸である方法的懐疑がそもそもできないというパースの意見にはそれはそうだ!と思いました。疑っているかもしれないが、信念と疑念は対になると考えているので、信念がないまま疑うということは不可能だと思うからです。」と言っていることとの対比。
「後になって誤りが判明しうる」という可謬主義はすごく好きです。そういう態度でいると、自分の考えの主張の仕方、表現の仕方が過剰に圧力を持つことなく、程よい説得ができると思います。否定する場合に否定の仕方が尊大で絶対間違いないという自信に満ちた態度をとると、もしも後で否定した対象の方が正しいと考え至ったとしてもそれを認めまいとして自分の理論がめちゃくちゃになってしまう可能性があります。もう少し公の場でコメントする時は可謬主義をアピールしてはいけないのでしょうか。けれどそれは自分の職業が負っている責任を果たしていない、批判をかわしている態度ということにもなってしまうかもしれないと想像すると、自分がまだ社会に出ていない、ずっと受け手の立場しか経験していないから強い表現が苦手なのかもしれません。だとすると自分の今の可謬主義好きもあと数年して社会に出たら苦手になっていてもおかしくないと思いました。どういう価値観になってもこうしてぐるぐる頭を回すことだけは生涯やっていたいです。
――たしかに可謬主義を信条とする政治家には投票しづらいかも。
無限∞という概念も分析の対象として重要だと感じた。疑念と信念が「無限に反復」することで真理に到達するとあるが、これは限りなく真理に”接近”するということで、真理に”到達”することを意味しないのではと疑問に思った。
パースの、信念から疑念が生まれそれが新たな信念を生むといったことの反復が真理に繋がるといった可謬主義の考え方は一見すると納得できるように見えるが、無限に反復するのであれば結果的にいつまでたっても真理には届かないということになるのではないかといったことなどが疑問として残ったので、真理というものについてまだまだ議論の余地があると感じた。
パースによれば疑念を晴らして信念にすることを無限に繰り返せば真理にたどり着くということでしたが、現在真理であると考えられている物事も実は信念であり、いつの日か疑念に疑念に変わるかもしれないということですか? ”無限に“繰り返すということは永遠に真理にたどり着くことができないのではないのでしょうか。
真理の考え方は納得がいきません。皆が最終的に合意するよう運命づけられている見解という表現こそ、曖昧ではないかと思いました。
――口頭。「有限な人間は誤りうる」という直観が根本にある。それでも真理というものを否定しないために「理想」ないし「理念」として認める。このギリギリ感を鑑賞してください。あるいは「希望」(フックウェイ『プラグマティズムの格率』125頁-)。実際にこの点は後の哲学者からも多く突っつかれるところ。
時間が経過していくうちに疑念と信念の行程に可謬主義そのものを置いた場合おかしなことが起ると思いました。具体的には、可謬主義が将来疑念として認識され、新たな信念が生まれた場合可謬主義の存在はなくなるという物です。もちろんパース自身にとってのプラグマティズムは真理追究を目的とした物ではないので可謬主義が真理で無いと言うことは問題ないことなのかもしれませんが可謬主義が可謬主義を殺すという変な構図が生まれていて変な気持ちになりました。
――哲学者が言いそうなことを言いますね。パースがどういうかわからないが、私なら「可謬主義自体も可謬的」と言いたいかな。暫定的な立場であると。こう考えると「相対主義は相対的に正しいのか」問題と同じような感じになりますね。
信念→疑念→信念→疑念→→→真理(皆が合意する意見)といった形である可謬主義は、我々が知識としてみなしているものはどれも、誤りであることが判明する可能性があるということを認めることであり、ミュンヒハウゼンのトリレンマという数学的問題もそれに当たると思いました。
――口頭。これ興味深いのですが、ミュンヒハウゼンのトリレンマ(またはアグリッパのトリレンマ)とは、信念の正当化の作業を遡っていくと最終的に「無限後退」か「循環」か「独断的な前提」に至ることを指摘したものです。ここからしばしば「したがって知識は成立しない」という「懐疑論」につながるのですが、これが興味深いのは、プラグマティズム的な可謬主義は「信念の誤りを認めつつも懐疑論にはいかない」という点にポイントがあるからです。「絶対確実な知識 or 懐疑論」という図式を拒否している点にプラグマティズムの特徴があると言えます。
→この点については「信念と疑念とを無限に反復した結果であるとすることで、 極端な全面的懐疑論に陥る訳でもないこと。主観性を排しながら懐疑論とも距離を置くバランスは個人的に気に入りました 」と的確に理解している人もいる。
デカルトとパースの比較でぼんやりとしたイメージを掴むことはできたが、はっきり理解はできなかった。パースの主張では、自分の中に存在する信念が疑念となるとき、その疑念を信念に戻すべく、学習を深める。やがて生まれる疑念に対して学習をし信念とすることが探究である。とのことであった。そしてその無限反復の先に、あらゆる探究者が賛同する意見が真理となる。これを聞いた時、私は、「真理を1人で見つけることはできないのか。」という解釈になった。無数に探究者がいて、その全てが賛同するから真理が生まれる。裏を返せば、無数の探求者がいるから事象は真理になりうるのではないかと考えた。一方で、仮に自分の他に探究者がおらず、1人で探究することになれば、自分の中の信念が指摘され、疑念となることすらないのだろうか。一人で探求した方が、言い方は悪いが、手っ取り早く真理に辿り着けるのだろうか。この考え方がデカルト的なのか。 頭の中を様々な解釈が駆け巡ってます。
――まさに「一人のでの探究が無理」というのがパースではなかろうか。なぜなら一人での探究ではどこまでも「私にとって正しい」という主観的な判断しかできないから。
パースの見解では数学のような、所謂「答えがひとつに決まるもの」はどう扱われるのでしょうか?あれは限定された世界の話なので、この世界一般としての真理とは扱われないのでしょうか?
――あ、え、うーん…あ、どうも私はパースの真理論を明晰に理解していなかったようです…。現時点で少なくとも言えるのは、授業で話したような真理論は実験・観察によって進んでいくような「科学的探究」を念頭に置かれて提示されていることです。これが数学的真理にも当てはまるかについては、恥ずかしながら確実なことは言えません。というのもパースの数学論はこれまた豊饒な内容を有していて、私はまだ十分に理解できていないから。どうやら最近のプラグマティズムでは「パースの数学論」が注目されていて、ダニエル・マクベスとクロディーヌ・ティエルスランという方達が論争をしているようです。概要は伊藤邦武『プラグマティズム入門』214頁-にあります。
パースの主張「主観によっては、真理を判断できない」について思ったのですが、「客観的な要素も鑑みて真理の判定を行う必要がある」という理解で良いのでしょうか?またもしそうだとすれば、私達は自分という主体を通して物事を見ている以上、「神の視点」ともいえるような完全な客観視をすることはできないように思います。つまり純粋な意味で真偽を判定することは、不可能なのではないでしょうか?
パースは主観的な基準は真理にはならないとデカルトを否定したわけだが、私にとってその主観と客観の境目を理解するのが難しかった。
――口頭。大変いいところを突いていますが、主観を避けつつも「神の視点」まではいかないところで「客観性」を確保するというのがプラグマティズムの課題であり腕の見せどころです。現在進行形の課題だと思います。私としてはなんとかして「他者とのやりとり」で客観性を確保できないか考えています。
探求という言葉も何度もおっしゃられており、私が高校生の時に学校の授業であった「探求」と重ねて考えた。これは一つ疑問に思ったこと、こうすればもっと良いのではと思ったことをグループで話し合い、時にフィールドワークをしながら解決を目指すというものだった。(例えば、地域発展に向けたアイデア、新たな発電方法、教育方法など様々) 。それらの解決においてもやはりデカルトの考え方を採用し疑って深めていっても意味がないと思った。パースの考え方で私たちは解決を目指していたのかなと改めて感じた。しかし、その都度疑ったものについて考えるという方法だと疑うポイント、最終的な答えは全員が一緒にはならないと思った。実際探求の授業でも同じ議題を扱っているがアプローチが違うというのはよくあった。そうなってしまうと結局相対主義に陥ってしまうのではないかと思った。
――「我々は最終的には合意に至る運命にあるのだ」という「信仰」によって相対主義ではないというというのがポイントなのかな?
言語哲学の面白さに気がつきました。「言葉の意味を知りたければ、その対象のもたらす効果・結果を考えよ」と言う考え方は自分的には凄いしっくりと来ました。日常生活での視点が少し変わるきっかけになったように感じます。問題を考える際の「条件文に出来る」という出発点が論理的で自分的にはしっくりと来ます。記号などを使って理論的に組み立てていく思考法が、経験則などを軸に物事を演繹していく考え方よりやってて楽しい人間だと気がつきました。
プラグマティズムの格率で、言葉の対象がもたらす効果や結果に注目して、文を条件文化することを学んで、プラグマティズムは論理学的だと感じました。
――「帰結」に注目するということは「前提と帰結からなる推論関係」に注目するという点で「論理学」的になりますね。分析哲学もそうですが、プラグマティズムも論理学と密接な関係があるというのは興味深い現象だと思います。
プラグマティズムの格率である「ある言葉の意味内容をはっきりさせたければ、その言葉の対象がもたらす効果・結果を考えよ」というものがありましたが、例に挙げられた「ダイヤモンドは硬い」という文の認識を聞いて、言葉の意味が明晰か否かの判断基準はとても現実主義的、あるいは道徳哲学で言えば帰結主義的な考え方だと思いました。 以上の関係式で見てみると、哲学からの問いで取り上げたカントの善意志などと非常に対置される考えのように思いました。
――まさに帰結主義的であり、さらにいえば、功利主義的です。この点はジェイムズが『プラグマティズム』60頁でも言っています。じゃあ違いは何なのかというと、プラグマティズムの方が幅広いということでしょうか。極端に言えば、現実的な実践で役立たなければ、帰結主義や功利主義も捨てるだろうということです。
プラグマティズムの格率に関して、客観的で明晰な条件文を考えるのは簡単なことではないと思った。ダイヤモンドの例でいうと、「他のものは傷つく」といっても、何に傷をつけるかにもよる。極端な例だが、豆腐でも「他のもの」ではあるわけだが、豆腐に傷がついたからダイヤモンドは硬いというには無理があるような気がする。他のものが何であれば、硬いということの条件になるかは結局主観的になってしまう。となれば、「言葉の意味内容をはっきりさせた」というのも結局は主観ではないかと考えた。
どのぐらいの硬さのものを傷つけることができたら「硬い」なのかがよく分からないように思えた。(極端に言えば、豆腐を傷つけることができても「硬い」とは言い切れないと思う。)この方法で得られた「硬い」の意味とは相対的なものだと感じた。
――口頭。二人して「豆腐」。前回は時間がなくて書き損じたかもしれないが、「ダイヤモンドを使って削るならば、すべての物質に傷をつけることができる」が正確でした。
また空想のものは条件文にできないので、明晰に理解できないとありましたが、現実的にある人やものが登場する文で、現実でそうなってはいないがありうる可能性がある文というのは明晰に理解することができないというのでしょうか。たとえばAとBという人物がいて、実際は赤の他人だが「AとBは友達である」という文なら、この文はプラグマティズム的にはどういった分類になるのでしょうか。
――そういうことを言ったかは忘れたが、空想のものでも、条件文にできて帰結がはっきり特定できるなら明晰です。例えば、設定がものすごいSF小説で登場する文や概念は明晰な内容を持っているといえるでしょう。設定を細かくかつ体系的にすればするほど、その中で用いられる言葉は明晰になるということです。
プラグマティズムの格率として「言葉の対象がもたらす結果効用を考える」とあったが、形而上学でこのような言葉の意味を考えるならば、結果や効用を確かめるのは少し難しいように講義中に聞いて感じたが、パースのプラグマティズムは形而上学の話ではないとのことを聞いて、少し疑問が残りました。
――プラグマティズムの格率は形而上学のテーゼではないが、形而上学において使われる言葉の意味を明晰にするためには利用可能なものですね。もし条件文にできるなら明晰だということになりますし、帰結がわからないようなものならそのような形而上学的な言明は曖昧模糊としているということになります。
今回の講義を聞いて、プラグマティズムの格率は自己分析にも使えそうだなと感じた。私は現在、就職活動の真っ只中だ。自分自身の方向性を見失わないように、定期的に自己分析するのだが、自己を明晰に理解するのは非常に難しい。しかし、誰しもが納得するような条件文を考えられれば、圧迫面接にも屈しない自己が確立できるかもしれないと思った。例えば、「私は好奇心旺盛だ」という言葉に対して、「私はドリアンが食べたくて、マレーシアまで行った」という条件文があれば、好奇心旺盛がどの程度なのか明晰に理解できる。さっそく、自分ごとのプラグマティズムに出会えて嬉しかった。
――その通りだ。面接官はそのような「具体的な結果」を求めているのだ。
物事をきちんと理解したと言えるためにはきちんと条件文化して説明できなければならないのは実生活でもそうだと思った。この人賢いな、とか、この人に質問しようかなと思うような人はみな、どういう事ですか?と聞くと条件文化して説明してくれていて、分かりやすいなと思うことが多いが、そのことを明晰化と言うんだなと初めて知った。ニュースなどを見て、表面上だけ理解するのではなく、明晰化して理解する必要があるのだと感じたため、日常生活で深く理解できるよう心がけていきたい。
――物事をよく理解するためには「帰結関係を中心とした推論ネットワーク」を構築していく必要があるということでしょう。
私はそこ[パースさんの探究方法]を恋愛と似てるのではないだろうかと考えた。恋愛は、自分が相手を好きであるのか、また、好きではないのかを疑い続ける。好きな時は好きであり、嫌いな時は「別れた方がいいのかな」なんて考えたりもするだろう。恋愛をデカルト的懐疑でやってしまうと、ある意味いいことであるが、現実味がない。好きであるのか、これからうまく付き合っていくことができるのか疑念と信念を探求することによって、恋愛が成り立っていくのだと考える。もちろん、一回好きになったら気持ちが揺るがないという人もおそらくいるかもしれないが、多くの人はパースさんのように考えながら恋愛していると考えた。
――前も恋愛と引きつけて理解する人がいたが、同一人物かな?
失敗してもやり直せば良いという可謬主義は、失敗を恐れるアジア(?)では、人生において大いに勇気づけられる言葉だと思います。
――東アジアに関しては、韓国や日本はそんな感じがしますね。中国や台湾はどうなのだろう?
これまで哲学Ⅰ、科学哲学、認識論といったいくつかの哲学の授業を受けてきましたが、印象に残っていることとして、強い尖った意見は誰かに否定され、最終的には穏健派のようなneutralに近い主張に落ち着いているような気がします。以前は、いくら議論しても結局は真ん中に近い意見に落ち着くんだろうな、とどこか達観した思いで哲学の授業を受けていたのですが、今回の授業で実際にその哲学者の状況や生い立ちを踏まえてその主張を捉えると、なぜその人がその主張を唱えたのかという強い思いが伝わり、その哲学者の思いに共感できる場面もありました。今回の授業で登場したパースは科学者であったことからも効果や結果といった科学的な視点で真理を捉えようとしますが、その考え方にも共感できます。パースはデカルトと真逆のことを主張しており、二人の主張は非常に尖っているので、多分二人の主張の間が真理に近いものになるのかなと勝手に予想しているのですが、尖った主張が無意味な訳ではなくて、尖った主張があるからこそ新たな考えが生まれ、その反論からまた新たな考えが生まれと言うようにまさに哲学は個人活動のように思えて実は人類全体を巻き込んだ壮大な共同作業なのではと思いました。
パースはデカルトの唱えたいくつかの理論などを無意味だとして新たな哲学的観点を発見したと思われます。簡単に言ってしまえば穴を見つけてその穴をふさぐような形で改良したのだと思います。この穴の見つけ方なのですが、事前に考えていた通りではあるのですがパースの価値観との相違から生まれたもので、パースのように考えるならば確かにパースの批判は正しく、逆にパースのように考えられなければパースの批判は的外れとなるので、ここで肝要になるのが文化人類学的な理解なのだろうと改めて理解しました。哲学の理解に重要であるのはその説や理論自体よりもその根幹となる視点であるのだろうと思います。
いつの時代においても歴史に習うことの大切さが説かれているように、人は何かを行うときその分野の先人たちの意見、考え方を学び、それを元にして理解を深めようとすることが一般的である。難解な問いの多い哲学においてそのような考え方は必然で、常識的とも言えるものであったがそうしたある種人間の本能的な部分に逆らって先人の積み上げてきたものを全否定する勇気が学問の一歩進んだ発展を生み出すこととなり、そうした勇気を持ち合わせた希有な人物こそが後世にまで語り継がれる偉大な人物と呼ばれるのだということを理解し、哲学の難しさの一端が垣間見えたように感じた。
プラグマティズムの格率として、条件文化が明晰化という話がありました。言語に注目する概念がここでも出てきましたが、現代に近づくにつれ哲学は言語を注目するようになっているのが興味深くて面白いです。
――分析哲学と同様にプラグマティズムも結局「言語」に注目しているというのは面白いですよね。
今回の講義では、哲学についてというより、授業の受け方についてのお話が染み入りました。授業で取り扱われているから、歴史上多くの人に指示されてきたからという理由で観念論や形而上学やプラグマティズムを「学ぶ対象」としてみて、私はそれらを批判的にみるということが出来ていなかったことを痛感しました。コメントを拾う形式の授業で、他の受講者の意見に確かに…と納得させられたり、思いつきもしなかった発想が出てきて驚かされたりすることが多々ありましたが、彼らは受け入れるだけでなく扱う内容をいったん精査して飲み込んでいるのだろうと感じ、哲学という分野は生き方や考え方に直結するので、私も批判的な視座を意識していこうと思います。
授業に関する内容ではありませんが、他の授業を受けているみんながきちんと理解していることは凄いと思っています。私はみんなのような理解していませんので、毎回コメントシートを書いている時は迷いました。みんなはどうやって理解するのでしょうか。
――口頭。私もすごいと思います。誰かコツを教えてあげて下さい。
真理の有用説の説明がよくわからなかった。強めの真理論などの理解が難しかった。ソクラテスなど今まで学習してきたものはなんとなくわかるが、本当にわからないことがこれから出てきそうで怖い。
今回から本格的にプラグマティズムの話に入ってきました。まず率直な感想として「難しい…!」と感じました。
ダイヤモンドの例があったから、辛うじて理解することができたが、今回の授業は具体例の数が少なくて、ついていくので精一杯だった 。
講義の中で普段使わない熟語が多く、意味を調べながら講義をお聞きしていますが、もしよろしければ、少し漢字の説明をお願いしたいです。
――私としてももう少しゆっくり丁寧にやるべきかなと思っているところでした。
アクリルボードのせいで左の板書が見えにくいです。
前回のカメラの位置は、黒板の光の反射とか、黒板との距離の影響か文字が読みづらく、すごーく目が疲れました。左半分の黒板を使うのであればもう少しカメラを黒板の近くに置いてもいいと思います。1回目(左寄り)や2回目(アクリル板ごし全体)の位置のほうがよかったかもです。
――了解。次は片方のみを映すことにしよう。
授業の中で体力をつけていらっしゃることをお聞きしました。リングフィットは主に無酸素運動だと思われます。体力を欲するなら、それに加えて有酸素運動、食事管理、睡眠が不可欠です。特に食事ではその人に必要なタンパク質が適正量摂取できていないと、筋肉は落ちていくばかりです。無酸素運動による努力と合わせて、プラスマイナスになると考えられます。ぜひ、ご自分の無理のない範囲で頑張ってください。応援しております。
リングフィットについてですが、もし運動が激しすぎて5分しか続かないのなら、運動負荷を下げるのが良いのではないかと思いました。
――ほう。
みんなの意見にもあったように白川先生の声、とても素敵です。笑いのセンスもあらはってすごいです。
鶏と卵のどちらが先にできたのですか。
――概念の話ならば同時でしょう。「親」と「子」は互いに相手に依存して意味を持っているように。ただし存在の話ならば「鶏」と後で呼ばれるようになる対象が先でしょう。親の曹操が子の曹丕よりも先に存在しているように。
今回の授業の内容とは直接関係がないのですが、「例えば授業がつまらないとして、それは先生のせいだけではなく学生のせいでもある」という先生の言葉がとても印象に残ったので、今回のコメントシートでは、先生が授業のやる気を出せるように、私が第一回講義で受けた先生へのポジティブな印象を共有したいと思います。
★話し方がとても心地いい
先生の授業を始めて受けた一番最初の印象、めっちゃ声が心地いい!もしかしたら先生の話し方や声には1/fゆらぎが含まれているのかもしれませんね。windowsのアプリで測定できるらしいので、ぜひ一回先生には測定してみてもらいたいです。
★親しみやすい!
哲学ってものすごくガチガチな学問のイメージ、どんな先生が講義するのだろう…変なおじさんかな…と思いきやめちゃくちゃ親しみやすい!私も教室あっついなあと思っていたので、冷房のボタンを探す先生に勝手に親近感をおぼえました。
――この気持ちに泣いた。で、早速測定したが、ゆらぎはなかった。「変なおじさん」という表現が直接的でよい。どうも「哲学(研究)者」という肩書きは「元暴走族」と同じ効果があるのかもしれない。普通に生活しているだけで高評価を得られるという点で。皆さんも効果的に使っていこう。
筋肉、美容系YouTuberのディーサンという人とめちゃめちゃ似てるので、調べてみてください。哲学からの問いの時からずっと思ってました。コメントとして書こうか迷いましたが、授業の内容とあまり関係ないコメントもして大丈夫そうでしたので、書かせてもらいました。
――え、まあ鍛えているという点では似ていますかね。
前回に続き哲学の基礎概念を学んできたが、頭の中で上手く整理できず、これからのプラグマティズムの授業についていけるか不安になりました。
観念論の話は難し過ぎたです。
私は高校生の時も倫理をやらなかったので、今回哲学の細かい内容に入ってきて、理解しきるのが難しいと感じてきた。
――何でも一回目は難しいのだ。下の人が書いているように二回聞くと理解できるようだ。同じようなことが書いてある入門書を読んだらどうでしょう。伊藤邦武『物語 哲学の歴史』(中央公論新社)など。あと、「わかりやすいもの」に囲まれている現代においては、「わからないもの」に耐え続けるという経験はむしろ貴重では?
今回の講義で取り扱った認識論や方法的懐疑などは哲学からの問いでも基礎的な話は聞いていたのですが、もう一度聞くと以前よりは納得しながら理解できたので、自分も少しは哲学に慣れてきたのかもしれないと感じました。
私は、哲学と聞くとどうしても胡散臭いとかそのようなイメージを持ってしまいますが、序盤のソクラテスの話で、哲学は皮肉的に学んでいってもよいというような話があり、自分でもこれから哲学を学んで行ってもいいのだなと感じました。
――哲学は自分や世界を突き放して眺めるものなので、皮肉的態度というのは大変重要です。
プリンが冷蔵庫にあることを目で見たことが夢であるかもしれないという疑いや、1+1が2であることは神様のいたずらだから、事実だと思い込んでいるだけであるかもしれないという疑いは、日常生活で疑うはずのない観点であったので、このような考え方をすることに新鮮味を感じると共に、脳をフル回転させて考えないと追いつかない学問であると感じた。哲学の命題について、何を言っているかよくわからないものが多く、楽しくないと感じていたが、今までに感じたことのない頭の混乱を初めて楽しいと感じた。
――混乱を楽しめるって高度ですね。
今回の講義では、ソクラテスやデカルトなど様々な哲学者がアラカルト的に登場したが、説明を聞いているとふと気づいたことがあった。それは真理を追究しようとすると皆同じ結論に達してしまうのではないかということである。例えば、ソクラテスは「無知の知」を問答法によって他者に自覚させようとしたが、これはどんなに賢い人であっても普遍的真理は知りえないことを自覚するものである。そして、デカルトについても普遍的真理を追究する際に方法的懐疑を行ったが、たどり着いた結論は真理を疑っている自分は疑いようがないというものだった。両者とも普遍的真理の解明について一種の諦めを抱くような結論に達している気がするのである。別に両者の考えを否定したいというわけでは全くないのだが、普遍的真理の解明の難しさを感じた。
――このように俯瞰的に共通した特徴をズバッと捉えるという姿勢は重要です。「諦め」というキーワードもいいです。
今回の講義は、エモさだったり余談の重要性そしてその楽しみ方だったり、個人的には楽しむのに事欠かない時間ではありましたが、強いて一つ題材を絞るのならば、ソクラテスと彼の思想の実態に言及する部分が非常に面白かったです。今ではもっともらしく偉大な人間として歴史に名が残っているソクラテスですが、実のところ彼の行っていたことは皮肉を発することだと知ったとき、何か哲学というものがとても身近なもののように感じました。つまるところ当時の彼は研究熱心な学者というよりは、仲間と面白おかしく話をして、私生活はだらしない男であったことから、単にユーモアの優れた面白いおじさんだったのではないかと思えてなりません。その彼が得意としていたエイロネイア、聞こえは立派ですが日本語になおすと「空とぼけ」というのも、とてもおかしくてエモさを感じてしまいます。
ソクラテスの「無知の知」に関しては最初知った時から物凄く不思議です。ソクラテスは結局何がしたかったのでしょうか。僕としては、まず命題に対して真知が存在するとは思えません。ある「知」に関しては、それを別の事象から「知る」と言う形式以外でそれ自体を成立させる事しか出来ない事柄があると思います。定義や名称などを除く、主に形而上の事柄です。こう言った事柄に関してはこの形以外で成立するとは思えないので、真なる知を問うソクラテスの問答自体が無意味なものに感じます。またソクラテスの姿勢は「自分は無知であるが故にそこに真知があるのだ」と人々を指南する役割があると言う人もいます。確かにそう言った知的展開を刺激する役割の演者としての意味はあるかもしれません。しかしそうなると目的として掲げる「真知を知り得る人々」は存在可能なのでしょうか?僕には不可能だと思います。なぜなら「真知を知り得る人々」が生まれる為には未来や過去も全て予測可能でなければならないからです。ここで僕の中では「ラプラスの悪魔のパラドックス」へと繋がりました。量子力学の登場によって否定された全知全能のラプラスの悪魔を考えると「真知を知り得る人々」は存在不可能だと考えられます。しかし「未来や過去が完全に決まっている」と言う可能性は否定されていません。もしそうなのだとすれば僕らの自由意志は吹き飛びます。運命によって自らの選択が決められるからです。そうなると結局「真知を知り得る人々」は存在不可能になってしまうと思います。僕たちは無知であって、いつまでも無知であるような気がしています。
ソクラテスの無知の知の話でずっと疑問に思ってたことがあるのですが、ソクラテスはそれを唱えて自分が誰よりも賢いということを言いたかったのでしょうか?
――そこは強調点ではないでしょう。「デルフォイの神託」が嘘ではなかったということをまず納得しました。で、「無知の自覚」が重要だとして、それを人々に自覚させ続けることをライフワークにしました。
基礎概念で認識論の話が出ましたが、「冷蔵庫の中にプリンがある」を梅子が知っているとはどのようなことか?のような問がまさに哲学的で「これを言葉を用いて証明するのかよ、無理じゃあねえか、当たり前だろ」と文句を言いたくなるような問だと思います。
――そこを問うている人たちが存在していること(場合によっては一生をかけて)に趣を感じましょう。
まず認識論の例題についてですが、知識が正当化された真の信念であるとする古典的定義は理解出来ました。しかし、梅子はPを信じる理由があるという正当化の根拠について、その理由自体も不透明なものである場合、それに対する正当化が必要なのでは無いのかと感じました。そしてそれは不透明なものである限り無限に正当化される必要があるのではないかと考えました。
――そうして「正当化の無限後退」の懸念が生じ、それに答えるために「確実な知識で打ち止めにしよう」という基礎づけ主義的衝動が生じる。デカルトはまさにその典型である。
「知識=正当化された真なる信念」というのは一見正しく見えますが、実は正しくありません。正当化された真なる信念でもそれを知識と呼ぶには無理がある場合があり、これをゲティア問題(反例)と言うことを、先日ゼミで議題に上がっていたので知っていました。
知識の古典的定義である正当化された真なる信念については哲学Ⅰやゼミで既に習っていたので理解しやすかったように思う。そしてこういった古典的定義に対してゲティア問題が指摘されたりすることによって、より「知識」とは何かという問いについて深く掘り下げられていくような哲学史の流れが個人的に面白くて好きだと感じた。
――そうです。ゲティア問題以降の認識論に興味がある人は、上枝美典 『現代認識論入門: ゲティア問題から徳認識論まで』(勁草書房)がおすすめ。
デカルトの、真に正しいものを探求する姿勢は学問において大切であると同時に、孤独で、気が狂いそうだと思いました。他人はおろか、友人家族、自分自身さえも信じられない世界で、何を支えに生きていくのだろうと思いました。理論としては価値あるものでも、実践には取り込めそうにありません。目に見えない思想を探求する学問の難しさを痛感する90分でした 。
――授業では話しませんでしたが、デカルトには「神」がいるので、実は孤独じゃないんです。
今回の講義では、特にデカルトの話に興味を持ちました。この世の全てのものに確固たる根拠を求め、少しでも疑いうるものは却下するという方法的懐疑の考えが面白いと感じました。大袈裟に言えば、「人間は本当に生きているのか」、「地球は存在しているのか」など当たり前のように思えるものから全て疑いうることができてしまうということが面白くもあり、非常に難解であるなと感じました。そうやって身の回りの全てを疑いながらも「疑っていると考えている自分のことは疑えない」という結論に辿り着くところが一番ハッとさせられました。調べたところによると、人間は一日で3500回も選択を迫られているそうです。自分もよく日々の生活で頭を悩ませることが多く、そういった時にデカルトの考えを用いて、「今選択を迷っている自分のことだけは疑えない」と思って、これからは「我思う故に我あり」という言葉があるように自分に自信をもって選択をしていきたいです。
――そういう捉え方があるのね。
これは授業に対する私の捉え方のせいかデカルトこそが「近代哲学の父」であるという形に受け取ってしまい、私としてはこの表現に少し違和感を覚えました。というのもデカルトが説いた哲学は、本来根拠がなくても主張がまかり通るスコラ学に不満を持ったために生まれた哲学であり、何もないところから生まれた哲学ではなく反論、対抗の為に生まれた哲学であることからデカルトの哲学もまた、荒削りながらも後の認識論、観念論のように先にあった考え方を更に洗練させた哲学であると考えました。このことから個人的にはデカルトだけではなく、デカルトが哲学を説いたきっかけとなったスコラ学も含めた上で「近代哲学の出発点」であると強調するべきではと考えました。
――哲学の新しい立場が既存の立場への反発から生じるならば、新しい立場があるのも既存の立場があってのもんだから、その存在を忘れたらあかんよ、ということですね。物事は否定対象を自分に取り込みつつ発展していくのだ、と。こういう考え方が好きならヘーゲルと相性がいいんじゃないでしょうか。
デカルトが方法的懐疑により発見した「意識」の重要性によって、身体はたとえ偽物でも「心」は偽り得ないと考えるならば、人間の本質は心にあるので、死んだ後に肉体は滅びても魂は残り続けるという考えに説得力が増すのかなと思いました。お盆にはお墓参りしますが、その時祈りの対象は肉体ではなく、先祖の魂に捧げているように思います。初詣等で神社にお参りする際も神と言う存在を肉体的にではなく、私たちの心に浮かぶ観念の対象として祈っているように思います。そう考えるとこのデカルトの発見は宗教を支える大きなものであるように思います。また肉体よりも意識を重要視するならば、胎児はどうなるのかと思いました。いつからヒトはヒトになるのかにおいて、たとえば意識を肉体よりも優先するとした場合には、胎児が意識を持つとわかった時期をヒトとして捉える指標にもなるかもしれないと思いました。
――授業では言わなかったが、まさにデカルトは「物心二元論」を強調します。
授業を受けてから、方法的懐疑を実践してみました。あらゆるものを疑い続けると頭がぼーっとしてきましたが、最終的に何かを疑っている自分自身の存在を認識することができました。
――ずいぶんとポップな方法的懐疑。デカルトさんも喜んでいるかびっくりしていることでしょう。
「我思う、故に我あり」について、「夢を見ているかも、欺かれているかも」という風に「考えている私」の存在は疑えないということを聞き、本当にそうなのか?と思ったが、"「考えている私」が本当に存在しているかという事を「考えている私」がさらに存在している"といった形で存在していることを知り面白いと感じた。デカルトは方法的懐疑を駆使してこのような主張をしたが、全く違う考え方をして全く違う結論に至った哲学者もいたのだろうかと考えた。
――(口頭)仏教とかだと、考えていることをメタ的に認知する手法によって逆に「自我がない」という結論にいくので面白いですよね。
デカルトが提唱した方法的懐疑について。方法的懐疑とは、「少しでも疑いうるものは却下すること」とあった。しかし、方法的懐疑ばかり行っていれば、日常生活に支障をきたす気がした。自分の行う言動や、囲まれているモノの多くを疑わなければならないためだ。例えば、朝食でパンを食べていたとする。この場合、「朝食」「パン」「食べる」それぞれに疑いの余地があるのではないか?と感じた。仮に、これらに疑いの余地がないのであれば、なぜないのか気になった。
――「プラグマティズム的な確実なもの」を考えるために、(シラバスには書かなかったが)ウィトゲンシュタインの『確実性について』の議論をいつか見ることにしよう。
方法的懐疑の説明で気になることがあったのですが、数学的真理についても神が欺いているかもしれないから疑いうるとされましたが、その理論が通じるのであれば、私の感性では神が私が疑っているということも神によって操られているなどで疑いうる事柄になってしまうのではないか、と考えてしまいます。神がどの程度の事象に干渉することができるのかは恐らく誰も定義することができないことであるため、神を持ち出すのはこの方法的懐疑においては正しくないように思えました。例えば、私が想像する全知全能の神ならばこの世の全ての物事を操ることができ、当然、人に「自分は疑っている」と無理やり思わせるくらいはできると思ってしまいます。キリスト教や他の宗教の神が厳格に設定されているならばこの疑問はお門違いですが、神が関与できる境界線はどこにあるのか、神の限界がどの程度なのかが気になりました。個人的な説としては神を信仰している人は神と自信を同一視することがないために、自身の思考が神のものであるという可能性は思い至ることすらない非現実的で素っ頓狂な意見であるためだろうと考えました。「自身の思考は神のものでない」を疑うことは自身が神である可能性を考えることでもあるため、もしかしたらこの考えは信仰の中では生まれないものなのかなと思いました。もちろん、デカルトが「自分は神でないとは言い切れない」と考えていた可能性もありますが、その場合はデカルトもほほえましいなと思って説の誤りを認めます。
デカルトの「いや、欺かれていると考えていることは疑いえない」という主張について、それさえも神が騙していると考えたら面白いなと思いました。例えば「神に欺かれていると考えていることは疑いえない」と考えていること自体も、神が欺いてそう考えるようにしているのだとしたら、またその主張について「いやいや、そう疑っていることを考えていることは疑いえない」というでしょう。しかしそれさえも、神が欺いてそう仕向けているのですよと言うと、永遠に終わらない水掛け論(パラドクス?)になってしまうと考えました。前期の哲学からの問いで習った「全面的懐疑論」がこれに当たるのでしょうか。相対主義は永遠に反復運動を繰り返し、相対主義を徹底することから、相対主義を正当化していましたが、方法的懐疑論にも同じようなことが言えるのでしょうか。
デカルトの哲学の、自分が相手を疑っているということは疑い得ないというのは、自分が疑うように神が仕向けているのではないか?とはならないんだと思いながら聞いていました。
――重要な問いなので口頭。
観念論と方法的懐疑論において、神や夢による欺きという内容が出ました。デカルトは、完全な根拠のないスコラ学や自身の感覚に対しては懐疑的な視点を持っているのに対して、神やそれに付随する神秘については肯定しているように感じられます。私自身としては真っ先に神の完全性を疑うべきでだと思います。デカルトはどのように神を完全な観念として証明したのか気になります。
本当は1+1=3なのに、いじわるな神に1+1=2と数学的真理すら嘘をつかれているかも(=「神に欺かれてるかも」)と思うデカルトは神の存在するも疑うということでしょうか。それとも、「神よ、騙せるものなら騙してみろ」と言ってるということは、デカルトは神の存在については否定してないということでしょうか。
私は日本に生まれてほとんど無宗教の状態で、神に祈るなど神を意識する瞬間はお正月くらいなので、日常生活の中で神に欺かれているかもと疑うのは不自然なことだと思います。デカルトの考えは現代の哲学者に批判されがちとのことでしたが、当時の状況下ではこの考えはすぐ受け入れられたのでしょうか。(受け入れられたから歴史に残っているのでしょうか‥?)また、何らかの宗教に所属している現代の人間は、このデカルトの考えがスッと受け入れられるのでしょうか。
――これもまた重要な問題なので口頭。
観念論はとても興味深かった。とくに、「自分の心の中にある観念は自分が知っているもので、外界のもの、他人の心は直接知ることができないため、推論することで外界を知ることができる」という話はおもしろかった。私はつい最近付き合っていた女の子に別れ話を切り出された。自分の目に映りこんでくる情景や、表情、相手とのコンタクトは完璧に見えていた。しかし、あくまでこれは私が見ていた世界であって、相手が見ていた世界はひょっとしたら、つまらない世界で、愛想笑いをしていたり、ちょっとした悩みを抱えていたりしたのかもしれない。まさに、他人の心は推論でしか知ることはできず、他人がそれを口にして初めて他人の心を知ることができる。しかし、その心情が噓であったとしたら、我々は「相手の心を知った」と言い切ることができない。したがって、他人の心は推論でしか知ることができないのである。この推論がいかに上手かどうかで恋愛がうまくいく気がするため、このスキルアップに励みたいと思う。また、落ち込んでいた心がとても晴れた。
――そのように身近なものとの類比で捉えていこうとする姿勢がよい。落ち込んだ心を晴らすこともあるのね。
観念分析を中心とした観念論は自分以外の周りの世界を推論によって認識することは、まさに孤独的なもので、せっかく知力が高く、自由な人間に生まれたのにこのように考えるのは面白くないものだなと思い、個人的には全く共感できませんでした。
――むしろ知性と自由があるから観念論になりそう。人間以外で観念論を採用しているものいるかしら?
今回は観念論についてのお話を聞いて、実際にいつもお茶を飲む時に自分がそのお茶を何として飲むのかを変えながら飲んでみました。ある時は〈水分〉と考えて飲んだり、ある時は〈喉が渇いた時に飲むもの〉と考えて飲んだりしました。実在論的に言えば、お茶はお茶として存在していて、何の変化もないはずなのに、水分として飲んだ時と喉が渇いた時に飲むものとして飲んだ時を比べると、喉が渇いたと考えながら飲んだ方が美味しいと感じました。存在論的な観念論として捉えると、この体験から、同じ物を飲んでいても味が人の心によって違ってくるのだと思い、逆に[美味しい]とはどういう条件が必要なのかが気になりました。
――ちゃんと身体で理解しようとしていてえらい。
観念論には存在論的なものと認識論的なものがあるという話だったが、これはナマの世界があるかないかの違いが大きいのだろうと理解した。しかし、その差異にどこまでの必要性があるのかはあまりわからない。こういう時に文化人類学的な理解を適用するべきなのだろう。(仮説として、「ナマの世界はあるが真の姿を認識できない」というのは「ナマの人間・他人の存在は認めつつも、見える姿は本当の姿かわからない」ということなのではないかと考えた。つまり、認識論的には「他人が存在する」、存在論的には「他人は存在せず、すべて自分の意識の中で生きている(自己中)」ということだろうか?)
――そのような考えで正しい。
観念論は外界について観念を介した推論でしか外界を認識できないとしていますが、観念による外界の認識に限界があるとしている以上、観念で捉えられないものを仮定しなければ観念論は事実上無意味になるように思います。「外界」と「観念による認識」の包含関係については扱っていないのかもしれませんが、観念論は観念の枠の中でしか外界を認識できないとしているのだから、観念による認識の外側に何かがあると示さなければ(特に実践においては)有意だと言えなさそうだと思った。観念論の考えの範疇で観念の外側にある何かを示すのは無理だと思うので、プラグマティズムでは観念論をどう扱っているのか知りたいです。
――(口頭)観念論的哲学も近代では様々な仕方で発展していくのだが、とても洗練されたものにカントの「超越論的観念論」がある。続きは口頭。
授業内で出てきた観念についての例えで、「赤いサングラスをかけていると世界が赤く見えてしまう」という例えが、非常に納得できました。人間は、知識や経験といったものを得て、別の色を加えることで、ガラスをできるだけ無色にしようとしているのではないでしょうか。
――人間は「無色にしたい」という欲求があるというのは良いイメージですね。「それがはたしてできるのか?」と問うと哲学になります。
観念論に立つと自分以外のすべてがあやふやで確かなものがあまりに少ないが、言語は他者との間で交わされているものだからそれに立脚すればいいという発想から言語哲学があるということでしたが、言語を交わす他者すら自分の中だけの存在(現代でいうイマジナリーフレンドのようなもの)であれば、交わされる言語すらも自分で組み立てているものであり、最終的には自分以外はあやふやだという観念論に戻ってきてしまうように感じました。私は春学期に哲学Ⅰを受講して論理式や量化子といったものを勉強したことで、日常言語より的確に物事を伝えるすべがあることを知りました。しかし、生活の中で接するのはもっぱら自然言語であり、自然言語の中で人の話を自分の解釈で理解してしまっている以上、そこには自分の思考で翻訳された、自分の言語体系しか存在しません。こう考えると、やはり屁理屈じみた観念論に待ったをかけることはできないように感じます。
――そう。まさにだから「言語的観念論」という現代版・観念論もあるのです。実は私、数年来この言語的観念論に悩まされていたので、その話も後のほうでしましょう。
観念論は一理ある。しかし、これが当たり前になってしまった世界はあまりにも寂しいと思う。自分の意識は「観念」の集まりで、その観念を通じてしか世界を認識できない。これは、あらゆる存在が自らの観念に制限されることを意味する。スライムのブヨブヨした感触も羽毛布団のフカフカした触り心地も全部自分の認識でしかないなんて寂しい。世の中はそんな自分本位にできてないと思う。存在はそこに確かにあるからこそ、価値を持つのだと私は信じている。
――そう、最終的に哲学は「直感」ないし「好み」の違いになりそう。
ショーペンハウアーの読書の話を聞いて、読書は読まされるのではなく読むもので、読書を通じて経験を得て人を成長させるものであるというのは確かにそうだと思いました。近年大量にビジネス書が書店に並べられ、飛ぶように売れていますが、なんだか本に人々が読まされているような気がします。YouTubeにビジネス書100冊読んでみたという企画をしている人がいるのですが、その人も大抵は粗悪品だと述べていてそれを実況しています。流行りに乗るのではなく、自分で手に取って良質な本を読んでいきたいです。
「+はなぜプラスという意味なのか」、白川教授の哲学Ⅱを受講していなければ一生考えることのなかった疑問だと思います。自分の答えとしては、“一番最初に決めた人がそのような考えだったから”だと考えます。「誰かが一番最初に決めたことにみんなが従っている場」が人間社会であると私は思います。「なぜ日本の車は左側通行なのか」、「なぜ10000円札は10000円の価値があるのか」、「+はなぜプラスという意味なのか」すべて人間社会の一部であると考えます。だから、「+はなぜプラスという意味なのか」という問いに対して最も正しい答えは、一番最初に決めた人にしか出せないと考えます。
――それもありうるけど、ということは、初めの人が決めたルールはもう変更することはできないということかな? 特に「言葉の意味」は時代によって変化していくことも多いと思うが、これは誤っているということになるのだろうか?
今回は、板書の分量が多くまさしく知識をなだれ込ませるかのような授業で疲れました。ではなぜ、板書の量が多いと疲れるのか、それは、人が知識の獲得に行う工程に多くの処理があるからだと考えました。まず、今回の板書という黒板に書かれた文字を見るという視覚の処理、次に、視覚から得たモノを情報(文)に加工する処理、得た文を知識にするために、信念を持つ処理、真であると発見する処理、正当化を行う処理、また、正当化の証拠を残すために板書の内容を紙に移すアウトプット処理列挙して6つ、また考え付いていないようなほかの処理、これらが70分,80分続くため、板書の量が多いと疲れてしまうのではないでしょうか。
――授業内容を縦横無尽に利用している。さすがちゃんと板書をメモしただけはある! 正直私も疲れた。ノート2頁分くらいの板書が適当だと実感した。今後は減らす予定。
「哲学は流行と似ている」と白川先生はおっしゃっていましたが、流行は一周回って戻ってくることが多いように、哲学も一周回って戻ってくることがよくあるのでしょうか。
――口頭。ヘーゲルとか?
えもいという言葉は確かに心を動いた時によく使うのですが心を動かさせられたけど何によってこんなに感動しているかが分からない。この感動を表す言葉が思い当たらない時に使うのがえもいなのかなと思いました。対象が抽象的であるとえもいになっていくのではと思いました。
授業内でおっしゃられていた「皮肉がエモい」という表現が現代人っぽくて面白かったし、その表現の仕方がもはやエモいなと思った。
先生が「エモい」という言葉を使っていたのが印象的でした。聞いたことはあるけれど意味は具体的に知らなかったので、「エモい≒あはれ」と知って面白い表現なんだと気づきました。若者言葉を聞くと、興味あるけどあんまり使わない方がいいのかなと意味も知らずに距離を置いてしまいがちでした。若者言葉だからひとくくりにダメというわけではなく、魅力を感じたなら使えばいいだけで、何をスカシていたんだろうなと反省の気持ちがこみ上げてきました。食わず嫌いは改善していかないといけないなと思いました。
デカルト、ショーペンハウアーの名前が出てきて、高校の哲学の先生が毎日のようにデカンショーと言っていたことを思い出した。デカンショーってただ覚えやすいように言っていたのか、何かのグループなのか気になった。
――かつての旧制高校では、デカルト、カント、ショーペンハウアーくらいは読んどけ、という文化がありました。「毎日」唱えるとはすごい!
家庭の都合で今回がはじめての授業だったのですが先生の話は耳に入ってきやすく、傾聴してしまいます。
講義を通して白川先生の心地よい声に聴き惚れておりました。とてもいい声をしていらっしゃると思います。羨ましいです。
――どうも恐縮ー。
今回、初めてオンラインで受講させていただいたのですが、たまに画質が荒くなり、板書が読みにくくなるのが気になりました。可能であれば、改善していただけるとありがたいです。
初めてオンラインで3回目の授業を受けさせていただきましたが、家のネットの不安定が原因で先生が黒板に書いた内容が全然見えなくて辛かったです....今後は絶対対面授業に参加します!
――こちらで調整できるのはカメラの角度くらいだな。
対面授業参加者は、コメントシートを紙媒体で提出できるようにして欲しい。 メールだと後でいっかと思い忘れてしまう。忘れた奴が悪いのだと言われればそれまでだけれど。
――ウェブサイトに転記しやすい、成績評価の際に確認しやすい、学生も自分が書いたものを振り返りやすい、などの理由でメール提出がいいと考えています。
哲学以外で興味のある学問や専攻してみたかった分野などはありますか ?
――芸術科、心理学、仏教学、物理学、生物学などかな。
これに関連付けての質問なのですが先生は自分が哲学的な思考をしてしまい「もう少し考えずに行動できたらな」「この思考のせいで動きが遅いな」と感じることはありませんか?私は哲学的思考とまでは言えませんが様々な事柄で「そんなに考えなくてもいいのに」ということをずっと考えて答えが出ずムズムズすることがあります。先生の話が聞いてみたいです。
――むしろ最近は俗世間の垢にまみれて「哲学めんどくさ」と思うことが多くなってしまった…。無理して厳密に考えようとしているかも…。まずい? しかし歳相応の哲学をやっていくしかないと思っている。
「相場観」を養うのが講義の意義だとおっしゃっていて理解はできるのですが、相場を知るためには何人かの同じものを取り上げた講義を受講する必要があるのではないでしょうか。
――ほんとですね。西村先生などの授業も受けてください。同じようなことを言っていればそれが相場ですね。でもけっこう違うスタイルな気もする…。
先週は他の授業に出ており、参加していませんでした。ですが元彼が一線級の若手研究者の授業を受ける機会なかなかないとおすすめしてくるので、履修してみました。
今日初めて参加したのですが想像以上に先生が大変フランクで聞いていてとても面白かったです。例え話や、先生の中高の頃の考え方も普通に面白くて声に出して笑っていました。Zoomで良かったです。
元々哲学自体には興味はあり、「読書」としてショーペンハウアーなどを好んで読みますが、哲学全体を俯瞰したときに、学問としての哲学はわかっていないので、不安な点もあります。大学最後の学期なので精一杯頑張りたいと思います。
今日、どうしたら真理は成り立つのかという問いや、ビッグバーンの話、外界の話がありました。学会の後に、客観的実在を疑わないエピソードが一番好きです。
ビッグバーンの話で「無」が出ましたが、一度別冊Newtonで無の科学・無とは何かという特集が組まれていて、話がリンクして嬉しかったです。数量的な無、概念的な無、物理学的な無は全て違うので、一個一個考えてみるのも面白いかもしれないと思いました。
ハイデガーは無とは何か(Das Nichts selbst nichtet.でしたか?) を問いかけていましたが、なぜ無ではなく存在する物が存在するのか、という考え方と授業の話で、無なんてものは無いのかもしれないと思い始めました。そもそも人間はどうしてそもそも何も存在しないという無という考えに気づいたのか気になったのでいくつか考えてみました。①存在するものがあるから、その対照として無という考えが生まれたのか。しかし、存在しない=無という定義がまずないと、この考えはできないので、この定義はどこから生まれたのか。②鶏と卵の問題のように、存在している:無の状態がどちらの方が先に根付いたのか。しかしこれは神のみぞ知ることだな、と色々考えていたら授業が終わっていました。
――冒頭おもしろい(カットすべきか悩んだが載せた)。全体として読ませる。「あぁ知的な余裕に満ちた大学生活っていいな(よかったな)」と思わせる(想起させる)文章。こういうリアルな会話や思考をありありと想像させる文が好き。
形而上学の観念的な話はやはり難しいと感じた。
今回の授業で哲学の概念というのは自分にとってはあまり想像できないような理解し難いものであると思った。高校の受験勉強の時に哲学を習ったが、正直いうとよくわからない考えの人が多く覚えにくいと感じたのを今回の授業で思い出しました。
今日の授業は難解でした。普遍的なもの、神という存在、絶対的なものは精神だけ、というあたりがどういうこと?となってしまいました。無はそれ自体存在しない、など、メタ的で抽象的な議論すぎて難しく、なんだそれ!と投げ出したくなってしまいました。そこにじっと向き合うのも哲学ないし学問全体に必要なことだと思うので、頑張って体で理解していけたらいいと思います。
分析哲学よりは、興味を持って授業に臨むことができましたが、まだまだ哲学に対して全体的に距離を感じるなと思いました。
――しょうがないね。「哲学村」に来て二日目なのでまだ慣れないだろう。ホームシックにかかっているかもしれないが、なんでもだいたい3日目くらいから慣れるんじゃないか。
哲学の難しさについて、他の受講者のコメントや講義の板書で触れられていたが、私はあまり哲学を難しいと思ったことがなく、難しいことを考えるんだなとは思うがその内容が理解できないとまでは思ったことがありませんでした。その理由が「文化人類学」的な理解が無意識にできていたのかなと今回の講義で納得できた。しかし、それは様々な考えがあると思っていたからではなく、私があまりこだわりのない性格だからではないかとも思えてしまい、これでは批判的な視点を持てないのではないかと不安も感じています。「文化人類学」的な理解と批判的な視点は容易には両立できないように感じられ、しかし理解と同時に疑問を持てなければ発展もしづらいと考えると、哲学者は答えの見つけにくい哲学という分野で2つを両立させてきたのだろうと思うので、その両立させる思考法を自分も身に着けたいと思いました。あるいはこだわりが重要な可能性もあるので、思考レベルに追いつけるように哲学Ⅱの講義は頑張りたいと思います。
哲学の難しさの1つとして問題を共有できないという点が挙げられていた。実際、私はうまく眠れない夜に死という概念についてなんとなく一人で考え込んでしまうことが稀にある。しかし、それを家族や友人に言うと自分が変な目で見られるかもしれないという不安や、言ったところで解決する事ではないという諦めから、他者と共有したことはない。そのような経験から、問題の共有の難しさという点は非常に強く共感することができた。哲学Ⅱの授業では、コメントシートなどを通じて、このような自分の頭の中だけにとどまっている問題や疑問を外に吐き出し、共有していきたいと思う。
――そうです。この授業ではどのような問いも許されるのだ。そういう空間があることは大事ですね。
自分にとって哲学は、一度説明を聞いただけでは理解するのが難しい、とっつきにくい学問であり、興味はあっても苦手意識は拭えなかった。用語が難しいというのは確かにあって、その用語の説明を読んでもわからず、さらに混乱するということもある。しかし授業中にもう一つの難しさの要因として挙げられた、問題を共有できないということに関して、なるほど、自分の苦手意識はそういう部分からもきているのかもしれないと思った。例文を見ても今まで自分が疑問にも思わなかったであろう問題ばかりで、答えがはっきり出るかもわからず、なぜこんなことを問題とするのだろうと思ってしまうものもあったからだ。こうした問題への対応として挙げられた異なる思考や価値観を楽しむという文化人類学的な理解はとても重要な考え方であり、自分とは違う感性や価値観を理解し尊重するということにつながると思う。これは人生の様々な場面で役立つと考えられるので、授業を通してこういう考え方が少しでも身に着けられるようにしたい。
これまで哲学をやってきて漠然と感じていた難しさの原因が、問題の共有ができないという点からきているものだと理解できてもやが晴れたような感覚だった。
哲学は、皆が疑問に思わないような、そんなこと考えて何になるの?というような問いも真剣に考える学問であると思っていたので、白川先生の「文化人類学」的な理解で対応する、という言葉は、1年生前期で文化人類学の授業を取り、自分の考えを深めたり、そのヒントを得たことを思い出して、もの凄く腑に落ちました。共同的な実践のもとで成り立つ現代社会を生き抜く上で、自分が疑問に思ったこと以外を放棄するのではなく共感しようとする努力は、他者と調和し安定的な繋がりをもち、豊かで柔軟な思考を築くために、非常に重要なことだと強く感じます。
――みなさんいいこと言うね。
今回の講義では、「哲学は内発的に問うもの以外は理解できない。」という言葉が印象に残りました。なぜなら、高校生の時に倫理の授業でソクラテスやカント、デカルトらがなぜそのような考えに至ったのか必死に理解しようとしたが、一向に理解できず、結局点数を取るために本質は理解できず、丸暗記するだけとなりました。
――実際のところ、彼らのことを本当に理解できるのかは謎。一応理解しているつもりになっているが、本当に理解しているかはわからない。
先生は哲学の難しさの要因として「問題を共有できない」ことをあげたが、私はそれがどういうことかわからなかった。先生が「『+』という記号はなぜ〈+〉を意味するのか?」と問いかけ、私がその問題について考えている時点で問題は共有できているのではないかと感じてしまった。
―― その通りです。多くの人はそもそも「その問題について考え」ることもしないということです。これができる時点であなたは哲学に関してかなり理解力があると言えるでしょう。
ここでふと疑問に思ったのですが、仮に論文を書いたときに化学や物理ならば検証ができたりすると思うのですが、問題が共有できないとしたらその論文の妥当性(表現があっているかわかりませんが)はどうやって検証するのでしょうか?また、授業でおっしゃられていた゛+という記号はどうしてプラスなのか?”や゛「これはリンゴだ」という文の正しさはどう検証するのか?”のようなことは言語学の範囲の気がするのですがどういう区別がなされているのでしょうか?不勉強なもので的外れなことを言っていたら申し訳ないです。
――重要な問いなので、口頭。
特にプラグマティズムと形而上学の関係性について、プラグマティズムは一見反形而上学的であるように見えるが、実は形而上学とも通ずるものがあるという点について、(聞き逃したのか単に理解できなかったのか)なぜそうなるのかわからなかった。
――この点は簡単に説明できるようなものではない。プラグマティズムをある程度学んで最後にわかってくる類の話。だから今はわかる必要はないのだが、危険なものには魅力があるということでしょう。あるいは、好きなものは嫌いで、嫌いなものは好きということでもある。この辺に趣を感じることができるようになれば、哲学の鑑賞者としてレベル高いぞ。
プラグマティズムは一見すると反形而上学的であるが、しかし、形而上学が好きという面があるというところに、プラグマティズムのエモさ(このような表現でよいのでしょうか。。。うまく言葉で表せません)を感じました。
今回の授業で、話した「プラグマティズムは一見反形而上学、しかし、形而上学が好きという面がある」ところは、ギャップがあって、やはり人間は何か矛盾を抱いている感じがします。
――お二人はプラグマティズムの魅力を適切に感じてくれてくれるようです。
プラグマティズムでありながらも、正反対に見える形而上学的思考が認められている点が、さすが自由の国アメリカの哲学だなと思いました。だがそれは、どうしようもない時の逃げ場所を作っているようにも感じました。
――「自由だから」そうなるという発想はなかった。
形而上学の話題の中で、ビッグバンの起きる以前の世界は「無」であり、その「無」の世界について考えるというものがありました。これを考えるうえで、プラグマティズム的には、人間の思考能力では答えが出せないから超越的な神という存在が有意義なものとなるというお話がありました。
私は眠る前に、「世界5分前仮説」、「世界は誰のためにあるのか」、「世界に完成形はあるのか」といったビッグバン以前の世界の話のような途方もない内発的な疑問について考えることがよくあります。そしてこれらは答えが出るものでもないので毎度モヤモヤしたまま眠りについていました。しかし、例えば「世界は誰のためにあるのか」→「世界は自分のためにある」と考えれば、落ち込んでいるときに自分を励ますことができ、これは有意義なのでプラグマティズム的には真となる、という風に自分のなかで一つの決着をつけることができました。
プラグマティズムの「有意義であるかが重要」という考え方は、私にとってはものの判断基準として端的で納得しやすく、有意義なものだと感じました。
――こんなに早くいかしてくれるなんて感激。
真理とは、科学的に証明されているような、事実としての正解が決まっているものと、プラグマティズム的真理と呼ばれるような、各人の主観によって決まるものがあると考えました。人が「美しい」「汚い」「美味しい」「辛い」などとと感じるものは、これだ!と1つに決めることは絶対に出来ないので、人の主観的な事情で真理が変わるということは認められるべきです。しかし、これをあまりに優先させると犯罪を容認してしまうことになりかねないので、現代に生きる上で不可欠な、共同的な実践を可能にするための道徳的なルールや価値観は、皆に共有されている必要があると思いました。
――絶対的な真理を否定しつつも、なんとかして共有されうる真理観を確立するかがプラグマティズムの課題といえる。すでにあなたは重要な問題意識を共有している。
今回の講義にて、提示された問いに対して真か偽かを判別する方法として対応説、整合説、プラグマティズム的真理といった方法を取り上げられていきましたが、提示された判別方法から哲学というものは明確な答えのない学問であると考えさせられました。プラグマティズム的真理の欠点についてにて先生も同じことを述べていましたが、どの方法も真と偽を判別する方法として主観が入りがちであり、客観的に見ても真といえることが可能な方法はこの中にはないのではないかと考えました。というのも対応説では、事実と対応していることで真とするにしても対応の基準は曖昧であるという点が挙げられます。整合説では、関係のないものでも共通点らしきものをこじつけさえすれば真にさせることもできるといった点が挙げられます。こうした方法は、真を説く発言者にとっては都合の良い方法ではあっても聞き手からすればどうしても不信感を抱いてしまうように感じました。この不信感を基に更に反証、反論をすることで真を見出すのが哲学の特徴ではあるかと思いますが、結局のところその時には結論に達したとしてもまた次の議論の時、次の時代ではまた覆ることがありえるのは、学問の一つでありながら明確な答えがあるわけではない哲学の特徴をよく表していると考えました。
――このように「将来覆りうる真理でもいいんじゃないか?」という「可謬主義的な真理観」がプラグマティズムの特徴といえる。
真理とはなにか?という問いについて、「疑い得ないものはないか?」と探求し続けたデカルトの「我思う、ゆえに我あり」を思い浮かべました。この文章は事実と対応(一致)しているかどうかを客観的に確かめようがないので、整合説として捉えるべきなのでしょうか。それともまた、別の何かでしょうか。
――3回目か4回目に言いますが、デカルトの真理の基準は(対応説でも整合説でもなく)「明晰判明な観念は真」というものです。これは「明証性の規則」と呼ばれます。ざっくり言うと「明白であり、ほかのものからはっきり区別されたものは真」ということなんですが、「?」が出るかもしれません。まさにそのような「?」からプラグマティズムが始まります。
真理、真という話の中で、哲学Ⅰの講義内で聞いた「ペガサスが庭にいる」のようにペガサスなどの空想上のものが登場した文は、ペガサスは意義はあってもイミはないため真偽が問いづらいという内容がありました。プラグマティズム的に考えるとこのような文は実践で有用・有益でないため偽となるのでしょうか。今日の話を聞いた限りでは対応説では実際にはいないため偽、整合説ではペガサスというものがいるという一つの体系の中であるとするならば真になるのかもしれないと感じました。それとも哲学Ⅰで出てきたフレーゲの意味論のように真偽が問えない、となるのでしょうか。
――プラグマティズムならば、「ペガサスが庭にいる」という文が何らかの意味で有用ならば真で、役に立たないならば偽ということになるはずです。対応説と整合説についてはその理解でOKだと思います。
今回の授業で真理についてより関心が湧いた。高校の授業では身の回りの事柄に意味が付与されることで物事を認識するようになると教わりました。しかし、この認識の仕方では真理に辿り着くことは出来ない。真理というのは誰が見ても価値観や信条などに左右されない客観的な事実だと思っていたが、そのような事実を実際に確かめることは難しいと再認識した。
――まさにそう。私たちの価値観や規範というフィルターを通さないでナマの事実に到達することなどできないというのが、プラグマティズムの一つの基本的発想だと思います。しかしそれでは事実の認識が主観的になりすぎるので、よろしくない。だから、なんとかして客観的な真理に到達できはしないかと頑張っているのが現状です。
「真理」というものを考える際、それは必ず普遍性を有しているべきであると私は考えます。つまり、個々人の意見を尊重するとかそういった姿勢とは別に、100人いれば100人が同じ捉え方をするもの、それが真理であるという事です。その真理を確認する為に必要なことは、絶えず「観察」する事であると考えています。そういう風に思った時、科学というものはどんな分野(数学、文学、哲学)であれ真理に近ずく為の行為なのかなと思ってしまいます。なぜなら科学とは繰り返す実験を観察し、その度に理論を再構築していく作業であるからです。いつか科学が真理に到達した際に、私たちの考え方や生活はどのように変わるのか、非常に興味が湧きます。
――実在的な真理観をもっているねー。
真理とは何かという問いをずっと考えていたのですが、私は、真理とは「生きてきた中で蓄積してきた知識と照らし合わせたときに真といえるもの」ととったのですが、この考えもまたひとつの解としてとらえてもよいのでしょうか。
――これは大枠「整合説」かな。しかしその蓄積された「知識」も真である必要があると思いますが、その真はどのように説明されるのでしょうか。
「真理とは何か?」という問いに対する「文は事実と対応(一致)しているなら真」という対応説の考え方は、私たちの知覚・認識の在り方に大きく依存していると感じた。「この講義室の中にはブタがいない」という文を取り上げて考える。講義室内に机の下に隠れているブタが居たとすると、私がそれを目などで捉え認識する事ができなければ私はこの文を真だとするが、実際には講義室にはブタが存在しておりこの文は事実とは対応していないということになるのではないだろうか。事実とは何か、何をもって文と事実との対応を確かめるのかという問題点は非常に大きいと感じた。
――真理の対応説と認識の問題を絡ませるけっこう大変だということですね。まさに真理の対応説への重要な批判には、このような認識論的な観点からのものがあります。2回目でそこに突入するのはどうかと思って避けたのですが、重要な問題なのでいつか話そうと思います。
対応説では「哲学Ⅱは木4にあるのは真だ」という文は、2020年度においては授業は火3にあるため真でないとも否定できるように思えました。少し言葉遊び的ですが、事実を文で記述するとどうしてもひねくれた考え方ができるように思えます。このあたりはウィトゲンシュタインの有意味でない命題のようなものと通ずるものがあるように感じました。
――すみません、厳密に「2021年度の滋賀大学の哲学Ⅱは木4にあるのは真だ」と言うべきでした。しかしこう言っても、また完全には特定できないかもしれません。
この話を聞いたときに思い浮かべていたことは、観測可能なことは真といえるが、観測できていないことは真と断言できない、ということをどこかで聞いたなと考えていました。例えば、「黒いカラスはいる」は1匹カラスを見れば真といえるが、「すべてのカラスは黒い」「白いカラスはいない」は実際にそうか確かめてみないと真と断言できないということです。この考え方は、対応説の考え方だったんだなーと思っていました。
――真理の対応説に対する一つの批判には、そのような「一般的なことを述べる文」の対応物ってなんじゃい、というものがあります。
対応説という考え方があった。犬が鳴いているという文の真理は、文を使うことでしか示されないということであったが、写真や動画を今の技術では撮ることができる。それを用いれば、文章を使わなくても、直感的に事実を理解できるのではないだろうか。写真や動画はそこにあるものをそのまま映し出すというのは、常識的なことであり皆が疑うものではないだろう。だとすれば、現実と一致するものを文章を使わなくても確認できるのではないかと考えた。
――写真をとっても問題は避けられないように思われる。その写真にどのような「事実」を読み込むかということが問題になり、そこでは文章が必要になるのではないか。
整合説の問題点について授業では「妄想・陰謀論なども真になる」ということが挙げられていましたが、私は「疑似相関も真になる」ということも挙げられるのではないかと思いました。(整合説をしっかり理解できた自信がないので的外れなことかもしれません)整合説の考え方をすると、「ここ1週間アイスがよく売れた」という命題が真で「ここ1週間熱中症の患者が多かった」という命題も真、ということは「アイスがよく売れるならば熱中症の患者が多くなる」という命題も真、というような、相関関係はあれど因果関係はない事柄に因果関係を作ろうとする考え方も真だとしてしまう可能性があるのではないかと思いました。
――いいですね。「整合的であるというのはいかなる推論関係があることとして定義されるのか」という問題を指摘しているのだと思います。
プラグマティズム的真理の定義について違和感を持ちました。プラグマティズムにおいて真理とは「ある文はそれが実践的で有用有益ならば真」というものです。このような定義設定は、1つの文にあたって膨大な数の真理を生み出す可能性を秘めていることから私の直感に反する物でした。また、真理の反対に位置する偽の存在や完全上位または下位互換の真理(個人が同一条件下で優劣のある2つの真理を時間差で自覚したとき等)の存在を認識できなくなるとも思いました。次回の授業では真理とその他を個人の自覚以外で担保するものがあれば教えて欲しいです。
プラグマティズムにおいてたとえ他人から見れば間違った真理であっても、その人にとって実践で有用ならば真になることもあり得そうですが、その場合も真理として認められるのか気になりました。例えば、ダイエットをしたい人があるダイエットサプリメントを購入し、実際にそのサプリメントには何の効果もないですが、本人がその効果を信じ込み運動や食事制限もやって、実際にダイエットが成功した場合、そのサプリメントに効果があるというのは本人にとって真になりうるのかどうかが気になりました。また、フェミニズムの分野ではそれまで議論の対象にならなかった人々の声を聞くことで、その存在を認識できるようになり、その人々を含めた議論が可能になっていったそうですが、これはプラグマティズムにも通じていることだと思いました。プラグマティズムの各個人がそれぞれ抱く真理を認めることは、今まで議題に上がらなかったようなことを真理として扱うことで新しい視野やアイデアが生まれる可能性につながると思いました。
プラグマティズム的真理は聞いているときに「それは有用ではなくないか、結局人それぞれで片付いてしまうのでは」と思っていたのでその後相対主義に陥るという欠点の話の時になんだか哲学について自分はしっかり考えられているのかもと、嬉しくなった。しかし前述したような自分の中で少し疑問に思ったことを考えるうえでは相対主義に陥ったとしても自分が納得できれば良いのではとも思う。しかしそれでは本当の意味での哲学ではないので難しい。。
――いずれも「プラグマティズム的真理観は主観的過ぎる」という批判だと理解しました。まさにそうです。だからプラグマティストは何とかして真理に客観性をもたせようと頑張っているです。ですがその路線で頑張りすぎると形而上学的に超越的な真理に訴えざるをえなくなるので、そこまで行かないように、微妙な綱渡りが求められているのです。
物理学では証明できないような究極的な所まで探究していける哲学に対してどんどん興味がわいてきました。
――まさしくそういう魅力によって形而上学「沼」にハマる哲学者が出てきたと思えば、形而上学が批判されるという繰り返しが哲学史ともいえます。
形而上学は、答えのない問いを考察することだと思いました。「無」とはだれが決めたのか。何をもって「無」とするのか。考え出すと何もかもが疑がわしくなってくる。その答えを何とか自分で出すことにおもしろさを感じるのが哲学者なのかもしれないと思いました。
基礎概念として扱われた形而上学(特に「死」や「無」)について、自分なりに考えていた時期がありました。私は、死後の世界が存在するとは考えておらず、「無」になると考えています。そこで、「無」とは何か?となるのですが、「眠っている最中の状態」が「無」に近いのではないかと考えています。私たちは、「今、眠りに入ったな」や「今、寝ている真っ最中だな」などと考えることが出来ません。気づいたら寝ていて、気づいたら起きています。この間の状態が「無」だと考えます。もし、夢を見て寝ているならば、それは「有」になってしまいますが、、「死」は日本語で「永眠」とも言います。もしかすると、古来の日本人は、「死」≒「無」≒「眠っている最中の状態」と考えたのかもしれません。こう考えると、私の考えもあながち間違っていないのかもしれません。
私は実在と存在という言葉の意味が似ていると感じるが、「実在論」と「存在論」の意味の違いはなんだろうと思った。
今回の講義で、「+」はなぜプラスを意味するのかという問題を共有できないことの例を聞いて、幼児の頃に平仮名の「か」はどうして(か)と読むのかと両親に聞いたことを思い出しました。哲学の問いかけと少し似ているように感じます。哲学は学問であり、先生のように研究されている人も多いですが、勉強して大人になってから考えることだけでなく、幼児など物事を全て理解していない状態からも哲学的な発想が出来るのではないかと思いました。子供が哲学的な問いを発した例などがあれば知りたいです。
――いやむしろ子供の方が哲学的な問いが得意ではないだろうか。私が例を挙げるよりも以下では他の受講者に実際のところを語ってもらおう。
哲学が難しい原因の一つとして、問題の共有が困難であり、そもそも理解することが難しいということがあげられていました。私は、小学生のころに、「ほかの人間は生きているのだろうか」と、周りの世界を疑うことが良くありました。なので、そういった外界懐疑論系の問いは自身の内発的な問いと重なり、問いを理解できます。ですが、記号の意味や文章の正しさといったような問題は内発的に考えたことがないので、抵抗感は少しあります。ここで一つ不思議なことは、成長するにつれて哲学的な問いを内発的に考えることがなくなってきたということです。哲学は幼い時に考えていたようなことを、真剣に考える学問のような気がします。
――だから哲学者とは「永遠の子供」「永遠の中二病」って言われますよね。
小さい頃から自然と生じる疑問は誰にでもあると思いますが、それを口に出すと共感を得られなかったり、不審に思われたりするような気がしていました。哲学において、共感することができない疑問でも、全面的に受け入れて自分の心に落とし込むことこそに面白みがあるのだと知りました。私は、「ここに手がある」ということについて疑う考えすら持っていませんでしたが、疑ってみることもおもしろいと思いました。
1回目の授業の哲学の理解の仕方のところで疑問だった「身体レベルで理解する」ということが先生の外界懐疑論の説明で納得出来ました。自分も昔から自分が見えない世界は本当にあるのか、自分が見える世界だけゲームのようにアップデートされているのではないかと思いながら過ごしてきました。このことを親友に話すと何を言ってるんだと呆れられ会話が通じなかった事もありましたが、哲学を学ぶという点においては身体を使って感じることが出来ているから間違ってなかったのだと思いました。
――ほんと実はこういうことを考えている人って多いんですよね。言わないだけで。
哲学は「内発的」に問うもの以外は理解できない、という言葉に深く共感した。私は夜寝る前や自転車を漕いでいる時、ふと哲学について考える。意識したわけではなく、突然お題が頭に降ってくるのだ。なので、私は哲学を物思いに耽るきっかけみたいな感覚で捉えている。そういう人は意外と多いんじゃないだろうか。哲学は「他人と問題を共有する時間」というよりも「自分の価値観を見つめ直す時間」だと思う。なので、問題が共有できなくても特に不都合はないと思うし、一人で考えること自体に意味があるのだと思う。むしろ、共有できないことに価値があるのではとすら感じる。ただ一方で、話題になる機会が少ないために、学問としての優先順位が数学や語学に比べて低くなってしまうのはなんとも悲しい問題だなと思った。
――これ面白いですね。哲学は別に他人に伝える必要がないということですね。私も最近は商売として論文や本を書いたり授業で話したりしなくてはならず「他人に伝わる哲学」ばかりやっていますが、実は他人のことなど関係なく好きなことを考えている方が楽しいかも…。学部生の頃は他人のことなど配慮しなくて良かったので本当に楽しく哲学をやっていたことを思い出してしまった…。じゃあ授業とは…。
今回授業の中で一番印象的だったことが、「哲学は内発される問題しか理解できない」ということです。自分自身が問題だと思わなければ、そのこと自体を問題だと気づくこともできない、そういった言葉を思い出して似ているなと感じました。これは哲学だけでなく、日常生活で人間関係よく感じます。そういった場合に今回の授業でも出てきた文化人類学的な理解は自分の中ではできている方だと思っていますが、こんな人もいるんだと流してしまい、その人を深く知ろうとすることがまだできていないので、そこを意識したいと思いました。哲学Ⅱを学ぶと、人間関係のみたいなものを学ぶ気が少ししました。
――まさに。一個上のコメントと矛盾するが、哲学とはコミュニケーション能力を鍛えることに繋がるのだ。
哲学は「内発的」に問うもの以外は理解できない、私はこの考え方に大いに共感するとともに悲しみを覚えた。確かに、皆が成り立つのは当たり前だと思っている事柄については誰も問題としないという説明は腑に落ちる。対して、哲学は物理学の範囲を超えた形而上学など、一見すると当たり前でどうでもよいと思われる事柄に対しても探究を続ける。これが哲学はよく学ぶ必要のない学問と言われている理由なのだろうと考えられる。しかし、私は哲学の「内発的」に問うもの以外でも異なる思考、価値観、感性を楽しもうとする姿勢が好きだし、そこにロマンがあると思う。プラグマティズムも一見すると反形而上学的ではあるが奥が深そうである。現実世界に起こる現象を解き明かすだけであるならば物理学で十分であるが、哲学の面白さをこれからの授業でもっと見つけていきたい。
――この方も、哲学の「他者許容能力」に魅力を感じているわけね。
「哲学は内発的に問うもの以外は理解できない」とありましたが、思い返せば私も小学生の頃に他者の存在を信じられないというようなことを考えていましたし、高校生になってようやくそれを他我問題という哲学的な話題であり、先人もすでに同じような考えをもっていたことに驚きました。あまりこのような考えの文献を読んだことがないので他の人がどのような考えを共有しているのか分かりませんが、未だにこのことを考え始めると自分なりの答えも出せないままです。いづれにせよ、昔からこのような抽象的なことを考えていたため哲学的な考えが好きなのかということが腑に落ちました。
――自分だけが問うていると思っていた問題が実は他の人も問うていて、さらに先人たちの努力によって体系的に理論化されていたことに気づくとき、人類の知性の懐の深さを実感しますよね。さらにそうした本が図書館の(開架本棚ではなく)誰も読まないような書庫に置かれているのを見るときには、さらに色々感じますよね。
私にとっての内発的な問いは色覚に関するものです。よく取り上げられる話題で、哲学からの問いでも少しだけ触れられた内容ではありますが、自分の見ている色と他者が見ている色が同じであると言えるのか、というものです。この問いに対する真理を追究することが不可能に近いことは踏まえた上で、白川先生はどういったアプローチでこの真理を追求するのが妥当であると考えているか気になりました。
――これも上の他我問題と共通しており、直接的に相手の感じている色と自分の感じている色を比較することはできないので、外側に出てくる反応に頼るしかないでしょう。同じものを見て同じように「赤い」と言って、それでコミュニケーションが成り立てばOKと考えるしかないでしょう。それ以上何かを問うのは袋小路の始まりなので、ここで止めるのが吉。
形而上学の考え方はとても興味深く、私自身も小学生くらいの時にこの世の始まりについて考えて、答えが全く分からなくなってしまって怖くなってしまったことがありました。なので今回の講義内容に大変共感することができました。
授業内で、子供の時から「なんか変だな」と思うことない?と白川先生がおっしゃっていましたが、私はずっと「歳上の人には敬語を使わなければならない」のは何故だろうと思っていました。今では人間関係を円滑にするために…などという即物的な考えで敬語を使っていますが、「歳上の人には敬語を使わなければならない」という日本の暗黙の了解は、ある意味プラグマティズム的真理というものなのかな、と思いました。アメリカでは敬意を払った表現はありますが、敬語そのものはないし…歳上だからといって敬意を払わなければならないというのも幼い頃からの刷り込みで、本当にそうなのか?と思います。
私が持つ内発的な問いは、死後の世界はどうなっているのか気になるとというものです。『蜘蛛の糸』には我々がよく想像するような天国と地獄の様子が描かれていますが、そのような死後の世界は生きている人間には知る由もなく、本当はどうなっているのか気になります。誰がそう言いだしたのか、なぜそう言ったのかも。
――興味深いのは、「誰が言い出した、なぜ言った」という点に注目していることです。哲学的問題に直接向かうのではなく、それがどのようにして生じたのかという問いですね。
今回の授業で、プラグマティズムは反形而上学的ではあるが、一方で形而上学を好むという面もあると先生がおっしゃっていたことが印象的でした。
河出文庫 飲茶著の「史上最強の哲学入門」を読み返してみるとプラグマティズムについてはこう書かれていました。
「近代哲学はヘーゲルの弁証法によって人類は唯一絶対の真理にめがけて進展していくと結論付けたが、よりよい未来に進むはずの人類の歴史は悲惨な戦争、核爆弾、大虐殺などのまるで人間の理性なんかあてにならないと示すかのような事象が絶えない。そのなかで、人間の理性はすばらしい、人間は理性を駆使すればどんな物事も改善していけるという近代哲学への批判から生まれたのが現代哲学であり、その一思想が愛とは何か、物質とは何か、国家とは何か、その本質は何か、といった結論の出ないことは議論したって埒があかないからその効果は何かという事に着目しようとした、プラグマティズムである。」
この「史上最強の哲学入門」だけからプラグマティズムの全体像をつかもうとすると、プラグマティズムは、徹底した反形而上的思想であると勘違いしてしまうが、その真理に近づこうとすればするほど逆に形而上学的になっていしまうということ理解しておくことは重要であるなと感じました。
ここでふと疑問に思ったのですが、仮に論文を書いたときに化学や物理ならば検証ができたりすると思うのですが、問題が共有できないとしたらその論文の妥当性(表現があっているかわかりませんが)はどうやって検証するのでしょうか?また、授業でおっしゃられていた゛+という記号はどうしてプラスなのか?”や゛「これはリンゴだ」という文の正しさはどう検証するのか?”のようなことは言語学の範囲の気がするのですがどういう区別がなされているのでしょうか?不勉強なもので的外れなことを言っていたら申し訳ないです。
――重要な問いなので口頭。
みんなのコメントがとても凄くて、有意義な時間でした。
第二回の講義を受ける前に、白川先生のウェブサイトを拝見しました。良いコメントは掲載するとおっしゃっていましたが、それは私の想像を超えていました。今まで、学生のコメントに対してこんなにしっかりフィードバックをしている先生を見たことがなかったので少し驚きました。学生の色々な意見が見れるのは、自分では気づかなかったことや自分とは異なる感性を知ることができてとても良いです。何より、白川先生の哲学に対する熱量も伝わってきて、講義がより楽しみになります。
――正直な話、私は最近「哲学あんまり好きではないかも…」と思っていたのですが、そのように言われてみると、実は好きみたいです。
他の受講生のコメントも掲載いただき、ありがとうございます。自分とは全く違う意見を持っていたり、哲学とは関係ない話だけど、共感できたり、読んでいて面白かったです。
今日の講義の中で一番考えさせられたのは「真理とは何か」についてです。どのように確認するのか、日常の生活の中で考えたこともないことを文字に起こすのはとても難しく、自分の中で納得のいく答えを出すことができずにいました。しかし、他の受講生の方々は、難なく回答しているのを見て、私は哲学という学問にまだ慣れることができていないのかもしれないと感じました。
――ほんと、びっくりするほど哲学的な話題に対応できる人がいますよね。私も今でこそなんとか対応できていますが、学生時代ならそういう人に圧倒されていたはずです。
世界が無から始まったとすれば自分が世界に存在しているという事実を確かめるために神の存在を見出すという考えに共感出来ると思う。これからの授業で生徒同士でこのような存在論について意見を共有する時間を設けても面白いのでは。
――まさにこの場で共有していきましょう。
先生が紹介されたコメントの中に余談はいらないというものがありましたが、僕はそうは思わないです。極論を言ってしまえば知識を得るだけなら本を読むだけで十分だと思います。新書なら頑張ったら1日で読むことができるので、単に効率を考えるだけなら講義よりも本を読む方が手っ取り早いです。
では、本にはなく、講義にあるものは何か?それは本とは異なり、講義は話の流れを余裕をもって体験できるということです。本の種類にもよりますが、やはり哲学を扱ったものだと硬く、また未知の内容がひたすら続くので、筆者の話の流れを追うことは僕個人としては正直苦しいです。
しかし、講義だと本題だけでなく、脇道にそれるので、頭を程よく休めつつ余裕をもって、先生の話を聞くことができます。ひたすら本題だけを話し、知識を濁流のように頭の中に入れるのも一案ではありますが、本で体験できることをわざわざ講義でなぞる必要はないかなと僕は思います。
また脇道にそれるおかげで、それまで知らなかったことを知れたり、興味のなかったことに関心を持つこともあります。これによって講義内容にはとどまらない周辺知識を身に着けることができるのではないかと僕は思っています。
このように緩急をつけつつ講義がゆったりと体験できるおかげで、話の内容をより深く理解できて、知識を頭の中にすんなりと落とし込むことができるのだと僕は勝手に思っています。
個人的にはあの広い教室の中で余談を交えつつゆったりと展開される授業のあの雰囲気が僕は好きなので、今のまま授業を続けてほしいなと思っています。
――わあ。いいこというね、あなた。今後、大学当局や文科省から「余談減らせ」と言われたら、この論で正当化することにする。
先生は、話題が脱線して授業と関係のないことを語ることを気にしていらっしゃいましたが、私としては自分の知らないことを知るいい機会になるので、雑談は雑談として聞かせていただきますから授業の1、2割はそういった雑談を交えていただけると嬉しいです。
――1,2割というのが興味深い。前は8割だったので怒られました。
マイクの音量ですが、途中最大まで上げてもらったくらいでちょうど良く聞こえました。
教室で授業を受けている際、マイクをもう少し上向きにすると、より聞こえやすくなるかもしれないと感じました。確証はなく、腕が疲れやすくなるという欠点もあるので恐縮ですが、もしよければ一度お試しください。
アクリル板を通すと見えない。
――諸々了解。
高校の世界史で、古代の哲学者がよく「憤死」した記述があったのですが、哲学の世界では研究されていることなのでしょうか。これは弁論がヒートアップして血圧が上昇して亡くなったのか、隠喩的な表現なのか、知りたいです。
目を改造したとおっしゃっておられましたが、違和感とかはないのですか?私も、レーシックをしようか白川先生がしたのをやろうか迷っているので気になりました。
――全体的にQOLがあがって満足なのですが、あえて言えば、光の輪(ハロー・グレア)が見えるようになり、1.5とか2.0の視力になったので近くを長時間見るのが若干疲れるようになりました。ただ老眼鏡をつけることで近くも見やすくなりました。もっとも大きな懸念は、日本で本格的に導入されて10年もたっていないという点でしょう。これまでは問題なくてももっと長期的には問題が生じる可能性があります。
高校生で倫理を学んだときは古典哲学が多く、プラグマティズムにはほとんど触れられなかった。私は哲学というものがもっと人々にとって身近であればいいのに、という思いを常日頃から抱いている。哲学の全盛期から何百年という月日が経ち、その間に世の中は大きく変わった。しかし、人間の本質はそう簡単には変わらない。故人が一生をかけて築き上げた「考え方」は、今の私たちにも必ず生きると信じている。なので、今回の授業で「自分事としての哲学」という言葉を聞き、私は首がもげそうになるほど共感した。哲学を自分自身の体験に当てはめて考えると、また違った価値観で世の中をみられるのではないかと思う。今後の講義が楽しみになる第一回であった。
――言うことありません!
大学は、自分の考え方を広げるような学問を勉強することができる場であると思います。自分が今まで「当たり前」だと思っていたことを疑って、新しい考え方を取り入れていくことはとてもおもしろいです。この哲学の授業でも、自分にとっての新たな気付きや発見を大切にし、様々な方向から社会を見ることができるように、しっかりと勉強して行きたいと思います。
――これまた言うことなし!
フランスのバカロレアでは哲学が入試科目になるくらい重要な科目であるのに対して、日本では専ら倫理の暗記科目に分類されてしまうので、体系的に哲学を学ぶ機会が少ないため、これから哲学者たちの考えを自ら咀嚼し自分の軸にできるようになれると考えると非常に興味がわいてきました。 また、私は哲学書の入門書や解説書の類を読み、原典を読んだことがないためこの授業を通して一冊でも原典を読み込めるようになりたいです。
――このあたり「自前の哲学」をもっているか「輸入学問としての哲学」しかないのかの違いといえるでしょう。日本は「輸入」が得意なので、「科学技術」や「民主主義」など哲学の「成果物」を効率的に吸収することができています。しかしこれらも哲学者と呼ばれる人たちが長年にわたり苦労していたから生まれたものなんですよね。すると日本の学問のあり方って、言い方悪いですけど「フリーライダー」的ですね。ちょっと言い過ぎ? 自分で額に汗して考えるのが重要だということです。かく言う私自身も「輸入学問としての哲学」に従事してしまっているので、お前が言うなという感じですが。これは日本の歴史的・構造的な問題なので、簡単には変えることはできません。
「哲学」というと、古代の金持ちの家に生まれた高貴なお方が丹念な教育を受け、暇を持て余して問答法などというつまりは屁理屈をこき続ける方法で体系化された学問という少々批判的な目線を向けておりました。先生が授業の最初に仰ったような、「そんなものを本気で考えているのか」「仮にそんなものを本気で考えていたとして、なんになるのか」という感想を抱いています。そのなかで「プラグマティズム哲学」はそういった、言うなれば浮わついた議論から一歩引いて、地に足をつけた学問だということを第1回授業で知り、経済学を学ぶ学生としてその性質に非常に好感を持ちました。頭でっかちに知識を入れるのではなく、その哲学者の考えを学んだ上で生活のなかでそれを体感的に理解していくことが重要であるということを言われたので、そのとおり実践し、この講義での学びがひとつでも今後の生活におけるちょっとした軸や視点になるような体験ができたら嬉しいです。
――前半は厳しいが共感はする。
今まで哲学に対して、ある程度の興味はありつつも自分には難しすぎる学問分野であると思っていました。今回の講義でプラグマティズムという哲学を知り、「フィクション感」という言葉を聞いた時、今まで自分が哲学に対して感じていた距離感のようなものの正体がわかったような気がしました。自分が哲学と聞いて思い浮かべていたものは、ひたすらにあらゆる根源的な問いに対する真理を探究する学問で、実生活との接点はなく、それを学ぶのは自分には難しいだろうと思っていました。フィクション感がなく、自分事として考えることのできるプラグマティズムという分野の存在は、自分の中の哲学のイメージとは大きく異なるものでした。履修登録をした際には、果たして自分に哲学が理解できるのだろうかと不安でしたが、プラグマティズムの特性を知り、大変興味が湧きました。頭と身体と心を使って学んでいきたいと思います。
――私が言いたかったことが、すべて伝わっている。
プラグマティズムの魅力について記述されている内容の中で、唯一絶対の真理を追究するよりも、多様な意見を受け入れ、認め合うという考え方に感銘を受けました。「実践に役立つものが真」、つまり個々人の価値観や能力によって見えてくるものだったり、必要だと思えるものが違ってみえるという事ですが、この考えを念頭に置くからこそ、否定しあうのではなく、まずは受け入れようとする姿勢が育まれるのかなと感じました。昨今の世界は、色んな人が自らの優秀性を誇って、相手を打ち負かすことに存在意義を見出しているようにも感じます。プラグマティズムの考え方はそんな今の世の中に必要なのではないかと思いました。
――プラグマティズムの良いところをとらえてくれてうれしい。
私が今まで抱いていた哲学のイメージは死ぬ前にもがくためにあるものだと思っていました。もちろん何かに対して救いを求めることを目的としている以外の考え方もあるのは分かっているのですが、私が救いを求めたのは多くの考え方の中から一部をかいつまんで掲載している格言書のようなものだったこともあり、哲学を身近に感じられるのは死が差し迫ったときや何か困難にぶつかった時くらいであると感じていました。しかし、今回の授業で聞いたプラグマティズムは実生活の中での哲学という日常的な考え方であるということを知り、自分の中で築かれていた哲学のイメージが崩れ衝撃を受けました。まだ授業の中ではプラグマティズムとは何たるものかをはっきりとやっていないので今後どのような考え方が出てくるのか楽しみです。
――哲学をもっと身近なものにしたいということだな。私は。
プラグマティズムについては元から少し知っていて、特に神という存在についてのプラグマティズムの目線から見た考え方に興味があった。そのため何となく堅苦しい印象を持っていたが、今回の授業でプラグマティズムは身近な存在について考えるものだと知り、意外に思った。しかし、よく考えてみれば神というものは多くの人にとって十分に身近な存在であると思い、納得もした。今後の授業で神についての考え方を是非扱って欲しいと思う。
――プラグマティズムと神はなかなか興味深いテーマですね。おっしゃるように神とは「超越的でありながらも誰よりも近くで寄り添ってくれる」特殊な存在だといえます。身近なもの重視するプラグマティズムはこのように相反する性質をもつ神をどう理解すればよいのか。単純にはいかなそうなのはすぐに予想できます。この辺りの単純そうで単純ではないのがプラグマティズムの魅力です。
私はこれまでの大学生活で、生きていくうえでの自身のものの考え方、捉え方の幅を増やしたいという気持ちから、何度か哲学に関する講義を受講してきた。これまでは反省や思考を重視する近代哲学を勉強することが多かったが、今回の哲学Ⅱの講義では実生活で役に立つかを重視するプラグマティズムを主に取り扱うと聞いて、プラグマティズムを深く理解し、自分のものの考え方の幅を増やすという目的をしっかり果そうと感じた。
――近代哲学との対比で考えるとプラグマティズムは理解しやすくなる。
今日の授業は、プラグマティズムの魅力のところが面白いと思います。特に、おおらかという点に興味が湧きました。人によって自分の世界があって、誰でも否定批判できないところが好きです。
――ほんとそう。
(その他、プラグマティズムへの好意的なコメントが多くてうれしい)
プラグマティズムの魅力の話で「多元的真理観」というワードが出てきた時に、相対主義に通ずるものを感じて興味が湧きました。
真実は複数であるかもしれないが、真理は一つだけだと思っていたので、プラグマティズムでは真理は複数あっても良いという考え方に驚きました。プラグマティズムでは個人によって実用的なことが真理ということは、同じ事柄でも個人によって違う真理を抱くこともあり得ます。その場合において、複数人で問題を解決しなくてはならない際に各個人がそれぞれの実用的な真理を持っているとすれば、解決策をどのような真理に基づいて決めるのか気になりました。例えば二人の人間がそれぞれ異なる真理を抱いているとすれば、二人で考える際には全員の真理を含めて考えるのでしょうか、それともどちらかの真理に基づいて考えるのでしょうか。またそれぞれの真理に優劣をつけることはあるのでしょうか。
プラグマティズムの多元的真理観という言葉を聞いて、相対主義と似たような「人それぞれ→何も言えない」状態になってしまうのではないかと思いました。これからどのように話が展開されていくのか楽しみです。
――すでにこのように何人も指摘してくれていますが、プラグマティズムの一つの問題は「相対主義」です。様々な真理や価値観を認めるおおらかさは逆に言えば「なんでもあり」になってしまいます。正直なところこの問題はまだ解決されていません。ということで皆さん自身考えてもらう必要があります。この授業でも最後の方で私自身の考えを述べましょう。この問題は、様々な人の意見を聞きながらも何らかの判断をしていかなければならないという、皆さんが部活や会社や家庭や町内会や政治の現場で直面することになるアクチュアルな問題に他なりません。
うろ覚えなのですが、実用主義を批判した哲学者がいたような気がするのですが、そこのあたりも授業で取り扱っていただくとありがたいです。
――分析哲学の方ででてきたラッセルでしょうかね。「プラグマティズムはアメリカの拝金主義にすぎない!」と述べております。
プラグマティズムは高校生の授業の時に教えてもらってもやもやしている点が多くあった。受験のために暗記しただけになっている部分が多かったことと、ソクラテスなどの「哲学とは」といったような広く抽象的で答えが見つけられないけど探るのが楽しいというものが好きだったことが原因で苦手意識があったのかもしれない。実際に授業内でも話されていたように、プラグティズムはフィクション感ないというのが逆に私は苦手だなと感じた。神様の存在や、人間の存在のありかた、といったような広く抽象的なもののほうが得意だがこの授業を機に、プラグマティズムの思想も深く理解しようと思った。自分事としての哲学、生活に役に立つことが真だという考えは私自身の生活に直結するものであるのではないかと感じるものだった。 前期でも白川さんの授業でより一層哲学への興味が掻き立てられ、自分の考え方を見直すきっかけにもなったので今学期も楽しく、深く受講できたらなと思います。
――あらからじめ言っておくと、私にとってプラグマティズムの魅力の一つは、あくまでも身近で具体的なものを重視しつつも、最終的に超越的なもの(形而上学的なもの、フィクション的なもの)に行き着く、あるいはそういうものに訴えざるをえないという、複雑性にあると思います。語弊があるかもしれませんが、普通に生きていると憂鬱になるので「運動が大事だ」と言い聞かせて運動している人というか。放っておくと形而上学的な考えに浸ってしまって何もできなくなるので、無理矢理「日常生活が大事だ!」と言い聞かせているというか。こうしたメンタリティーと外見のギャップがプラグマティズムの魅力だと思います。つまり、プラグマティズムは浅くないのだ。
ニュー・プラグマティストの人たちは50年後も100年後も「ニュー」のままなのだろうか、もしニュー・プラグマティストの後に新たなプラグマティストが現れた場合その人たちは何と呼ばれるのだろうか、と疑問に思いました。
――まさに。すでに「ネオ(neo)-」「ニュー(new)」と来ているんで、どうするんでしょうね。「ノイ(neu)」「ヌーヴォー(Nouveau)」とか? あ、「プラグマティズム・ヌーヴォー」はなかなかいい響き。
今日の授業を受けて、プラグマティズムというのは高校時代に受けていた倫理や春学期に受けた哲学Ⅰに比べてとっつきやすそうなイメージをもちました。今までの哲学のイメージは抽象的なことを扱っているし、高校の倫理の先生は「~ってことなのかな」というのが口癖でフワッとしたことばかりを教えられている感覚であまり面白いとは思えませんでした。ですが哲学Ⅱは一回目の講義を受けたところ、これまでの感覚とは違うフィクション感がないということを聞いて、今までのモヤモヤしたイメージのない哲学を学べそうだと感じて、とても楽しみに感じています。
――大学受験を控えていると、断定的な教え方に惹かれるものだと思います。ですが、大学の研究レベルになると何も断定できないことがわかるので、その高校の倫理の先生はとても学問的に誠実だと思います。
今回の授業では、哲学の理解の仕方?受け止め方?のようなことが頭に残っていて、頭で考えるだけでなく、実際にその思想をもとに生活してみる、ちょっと違うかもしれませんが「考えるな感じろ」という言葉と受け取り、哲学は自分の頭の中だけで完結させてはいけないということがわかりました。
哲学というと何か少し難しそうなイメージがあるが、気持ちを共感することなら何とかなりそうな気がした。その考えは斬新であった。
――自分で言っておいてあれだが、頭で理解するよりも気持ちを共感することの方が難しいのだ。
身体レベルで理解するというところで、どのようにして身体で受け入れるのかがよく分からなかったです。
――それぞれの哲学的立場を信じて何日か生きるということ。いわゆる「外界懐疑論(外の世界は存在しないのでは?」を身体で体得するには、実際に外界の存在(机、友人、食堂、バス、彦根駅etc.)を疑いながら何日か生きるということ。途中でもう無理となって信じるのをやめるならば、あなたは外界懐疑論を身体的に理解できていないということになる。
授業中の挙げられていた人の名前を全く知らなかったので、自分でも調べてみたいのですが何かおすすめの本などがあれば、教えていただきたければ幸いです。
――解説書系は資料で紹介しています。原典については改めてプラグマティズムの本を読んでみましたが、どうも初学者にはわかりにくいかもしれません。全然プラグマティズム関係ないですが、やはりプラトンの薄いやつから入っていくのがいいんじゃないでしょうか。
哲学の原典は難しいので、分かりやすい解説書だけで満足しがちだが、解説書はあくまで二次文献であり、どうしても著者の解釈が入り込むので、原典に当たることは大事だと思った。哲学は観念的な要素が強く、なるほどと思っても頭からすぐ霧散しがちなので、その哲学を意識して生活してみるという試みはとりわけ大切だと感じた。
――これに関しては、下の番外編が参考になるかも。
前期の「哲学からの問い」の授業は落選してしまったので履修できなかったので、哲学Ⅰの授業を取りました。哲学Ⅰの授業で習った分析哲学は難しく、理解ができなかったので、実用主義であるプラグマティズムも学んでみたいと思い履修しました。まだ、高校の倫理で習ったパースやデューイなどしか知りませんが最終的には「プラグマティズム」を理解できるように授業に積極的に参加したいと思います。その際に、気持ちや体で理解することに努めたいと思います。
日本人になじみの深い大陸哲学に対置される分析哲学は、あっさりとしていてどこか味気のなさを感じたが、プラグマティズムは実生活に密着した哲学ということで、どういった切り口で思索するのか楽しみである。
前学期に西村先生の哲学Ⅰを受けての哲学Ⅱを履修します。初回の講義から、哲学Ⅰとのギャップを感じました。哲学Ⅰでは、主に分析哲学を学びましたが、誰がどんな説を立証したか、意義とイミの区別など、分かるような分からないようなあまり掴みきれていない感覚がありました。しかし、哲学Ⅱでは実生活との関わりの中で哲学をやるということですから、哲学Ⅰでは理解できなかった哲学を、哲学Ⅱでは理解できるのではないかと楽しみにしています。原典を読むことはおそらく難しいのだと想像しますが、哲学者に思いを馳せて理解できるように努めようと思います。
――実は私は分析哲学も好きなんです。いや若い頃は分析哲学が大好きでした。曖昧な部分がなく純粋に論理に従って推論が展開されていく――。純粋で緻密で厳密な論理の流れに乗るというのはすがすがしい気持ちよさがあります。しかしその流れに乗れないと、砂を噛むような味気なさしか感じないでしょう。私は分析哲学とプラグマティズムを組み合わせることによって、「若干ウェットでありながらも推論の流れに乗る気持ちよさは感じる哲学」ができないかと考えています。実際『ブランダム 推論主義の哲学』(2021, 青土社)という本ではそれを試みたんですが、成功しているかな? いずれにせよ、分析哲学に対するその気持ちは共感します。
今回の授業は、初回ということで少し授業についての説明とその入り口のようなお話を聞きました。哲学は僕がこれまで触れてこなかった分野だったので少し不安だったのですが、思いのほか高校で学んだ単語も出てきたのでやや希望が見えました。正直、難しそうな文章が初回からいくつかあったのでこれらかちゃんと着いていけるか心配ですが、がんばります。
哲学は少し硬い学問というイメージがあったが、実用主義と訳されることがあるプラグマティズムの物事の心理を行動の結果によって判断するという考え方が親しみやすいと感じた。高校の時に倫理を勉強していなかったため、今回の講義で名前が出ていた人について、聞いたことがある人がいなかったので、知識という面については不安要素が残るが、意欲と興味関心でカバーしていきたい。
――基本的に知識ゼロでOK。理解できなければ私の説明が悪いということであり、どんどん質問してください。
私は春学期の哲学からの問いも履修しており、白川先生の話が面白くまた聞きたいと思ったので、この授業の履修を決めました。哲学Ⅱでは、問題提起以外にも、「誰が言った」といった人物の部分も詳しく聞けるということで、とても楽しみです。とくに、白川先生が本も出されているブランダムについての話が楽しみです。今回は、哲学からの問いで理解が難しかった、超越論的観念論の話が出てくるのでしょうか。それともプラグマティズムとは関係がないのでしょうか。そこも興味があります。
――全体的にすばらしい。
導入でしたが、プラグマティズムに関心を持てる内容でとても楽しかったです!ウィトゲンシュタインの話は以前お聞きしてとても興味深く、自分でも少し調べたので、講義で詳しく学べるのがとても楽しみです。しかし、私はフィクション的な哲学が大好きなので、実践的なプラグマティズムにはどのようにのめり込んでいけるか少し不安です。前期の白川先生の授業はとても楽しかったので、今期も楽しく学びたいです!
――ウィトゲンシュタインの話をいっぱいすることに決めた。
初回ということで内容はそれほど踏み込んだものではなかったので疑問などはまだ生まれていないですが、個人的に白川教授の話し方がとても聞きやすく感じたのでこれからの講義をとても楽しみに思っています。
――こういうコメント大事!
白川先生の少し正直な感想が混ざった話にも共感するところが多くて、すんなりと理解できました。
――こういうフィードバック大事!
春学期の哲学からの問いも取らせていただいて、哲学へのイメージがかなり覆されて、論理的に考えることや、メタ的な態度を取ることに、面白みや必要性を感じらようになってきました。哲学Ⅱでは、プラグマティズムの考え方を学ぶと言うことで、私としては春学期に学んだことよりも、スムーズに理解できそうだなと勝手に思っています。とても楽しみです。
春学期、哲学からの問いでお世話になり、とても講義が面白かったため、今期も履修登録させたいただきました。今までに習った哲学よりも役に立つ哲学ということで、プラグマティズムを何かしら日常生活に落とし込めるようになりたいと思いました。
春学期に哲学からの問いを受講しており、それで本講義にも興味を持ちました。専門科目になったことで、より具体的?な内容になると思うので、春に習った知識や考え方を元にして、秋学期の本講義も身に付けられるよう意識したいです。
お久しぶりです。僕は前学期の「哲学からの問い」を履修していました。あまり詳しくは知らなかった哲学のことを、先生の授業のおかげで少しずつ知っていけるのはとても楽しかったです。今学期のプラグマティズムについても、高校の時軽く触れたなという程度の記憶しかないので、これからの授業を楽しみにしています。
先生はメガネを卒業されてコンタクトデビューされたのでしょうか、印象がガラッと変わり大変驚きました。大変お似合いだと思います。
――こういうコメントはモテる。実は夏休みに目を改造したんです。
授業とは全く関係が無いのですが、先生のホームページを拝見したところ石川県にある私の母校の催しに何度か参加されていたそうで、世間は広いようで狭いと思わされました。
――直接あったこともあるかも。
私は台湾からの交換留学生で、授業の内容を勘違い時もあると思って、もし先生が私のコメントを見て、間違ったことがあれば、指摘いただけると幸いです。
――とても自然な日本語で尊敬します。そういうことでしたら、今後日本語表現で気になった場合はご指摘します。
できる限り、いいコメントをかけるように頑張りたいですが、いいコメントを書くためのコツや心構えなども授業で話していただけるとありがたいです。
――授業内容を十分に咀嚼し、自分の中で改めて吟味・検討した上で、わかりやく表現しているものを取り上げる傾向があります。つまり、理解力・思考力・発想力・表現力が総合的に高いものがいいということですね。こう言われるとけっこう大変ですね……。まあ、あまり気張らずに、思ったことを正直に書いてくれれば大丈夫です。とはいえ「今日は○○を学びました。楽しかったです」系はちょっと物足りないですね。
オンラインで授業を受けていたのですが、画質が良くなったり悪くなったりして板書が読み取りづらかったです。先生の聞き取りやすい声のおかげで理解はできましたが、改善していただけると嬉しいです。
――これは大学の無線LANによるものなので、どうしようもないかもしれません。
授業の形式(zoom)に関する感想ですが、黒板の文字が少々見えにくいので、カメラをもう少し近づけていただくか、講義終了後に板書の写真をサルムスに提示などしていただけると幸いです(資料だけを見てコメントシートを提出する人がいるかも、ということを仰っていましたが、板書の写真だけならそのような懸念も少ないかと思われます)。
オンラインで見ていましたが黒板も全体が見えていて分かりやすかったです。
――さてどうしましょうか。写真を撮るのは補助する方がいないと大変そう。とりあえず今日は正面から撮ってみましょうか。
余談ですが、あの教室の空調は左側にずらっと並んでいる大きな箱みたいな機械全部空調機です。
私は基本的にオンラインで受けたいと考えていますので実際どれ程かはわかりませんが、暑い中ありがとうございました。次回はエアコンの設定が上手くいくことを祈ってます。
今日は暑い中ありがとうございました。
――どうもお気遣いありがとうございます。授業後にわかったのですが、横に並んでいる箱の上のふたをあけると操作盤が出てくるようです。教室の壁に操作盤が付いている場合もあり混乱しますね。今日は大丈夫でしょう。
割とこの授業の序盤で哲学を学ぶのには時間がかかる、一つの本を読むのにも時間がかかる的なこと仰っていた中で少し気になることがあったのでお伺いします。哲学を学ぶにあたって例えば古代ギリシアをやるなら古代ギリシア語もやれ、とかキリスト教関連やるならラテン語をやれ等々、原書をもともと書いていた言語やその思想が興った地域の言語もやる必要があると聞いたのですがそれはなぜなのでしょうか。
確かにそれらの言語をやっておけば原書を直接読むことができる利点は大きいと思いますが、ごくマイナーなものを除いて先駆者がいることが多いのも事実だと思うのです。すると、英語などで書かれた考察、研究書や邦訳などが出ているのでそれを読んで勉強すればいいのではないかと感じます。それなりの時間をかけてそれらの先駆者たちが記した書籍に取り組んでいけば必ずしもその原書を基の言語で読めなくても内容の理解や研究、思索に差し支えないのではと思ってしまいます。加えてこれは日本の場合に限定されるかもしれませんが、生まれも育ちも日本ならば思考のプロセスも日本語に基づいたものになるはずです。思考の鋳型が日本語を基にしているともいえるかもしれません。すると当然言語が違えばその鋳型も変わってくるわけで元の本を読んだとしてもそれは必ず正確な理解につながるわけでもないと思います。下手すれば対応する言葉や概念が全くなくてどうにもならないなんてことになるやもしれません。哲学を研究するに当たって参照する、あるいは研究対象の哲学を理解しておくことが大事なのだとしたら、別に元の言語にこだわる必要はないのではないかと考えます。それでもなぜ原書を講読したりそのために新しい言語を習得したりするのでしょうか。
自分はこれから哲学をゴリゴリに勉強するわけではないのでこれを聞いて何かになるわけではありません。ただ、いわゆる古典的名著を持ち上げる風潮は少なからず理工系でも存在していて、「~~先生のこの本は名著だから〇〇学をやるなら読むべき」のような言説をたびたび見かけます。ただ理系であっても文系であっても同様に名著だから読むのではなくてそれぞれの研究のためにその分野の知識と理解が必要だから読むと思うのです。そのための手段や読む本の有名性は二の次であって、その分野の正しい知識と理解を得ることが最上命題なわけですから前述の言説には否定的な意見を僕個人は持っています。哲学であってもこれは本質的には同じではないかと思ったので「~言語をやれ」という話に疑問を持ち質問させていただきました。
先生の一意見をお聞かせいただければと思います。
ご質問は一言でいって「苦労して母国語以外の原書を読む必要はあるのか」ということですね。
答えは「場合によって異なる」ということになります。
まず「知識」や「情報」を得たりする上では原書を読む必要はないでしょう。学習者が一番得意な言語でやるのが効率がいいです。個人的な話になりますが、私ももう20年くらい英語を勉強しており、ある程度なじんでいる自覚はあるのですが、やはり知識や情報の吸収の面から言えば、日本語の方が英語に比べて3~5倍くらいの速度となります。ですから純粋に知識や情報を得るためなら日本語に訳されているものをどんどん読んでいった方がいいでしょう。日本の科学技術レベルが国際的に見ても高いのは母国語で大学教育ができているというのも大きいと言われています。それもこれも先人達の努力の賜であります。
ただし「知識」や「情報」以上のものを求めるならば翻訳では限界があります。ある一人の哲学者を十分に理解しようとするとき、その人の「言ったこと」や「議論の構造」や「理論体系」などを知るだけでは十分とは言えません(だから解説書の類いを何冊も読んでも知識を蓄えても限界があるのです)。何とも表現が難しいですが、その人の「気持ち」「思考のリズム」「言葉の響き」「推論の流れ」「文体」といった部分、つまり、感覚的で美的で音楽的な部分を肌で感じる必要があります。そのためにはやはりその人が使っている言語に直にふれなければなりません。
またしても個人的な話で恐縮ですが、私が日本語で文章を書くとき語尾に非常に注意が向きます。「『である』ばかりは美しくない、しかし『だ』はバカボンのパパっぽくて嫌、じゃあ体言止めにするか」など。しかしこれを英語などに翻訳すれば語尾はすべて無視されますので、私の文体は英語の読者には伝わらないことになります。これは些細な話に思われるかもしれませんが、こうした些細に思われる部分が実は思考に大いに影響を与えているという実感があります。
「生まれも育ちも日本ならば思考のプロセスも日本語に基づいたものになるはずです。思考の鋳型が日本語を基にしているともいえるかもしれません。すると当然言語が違えばその鋳型も変わってくるわけで元の本を読んだとしてもそれは必ず正確な理解につながるわけでもないと思います。下手すれば対応する言葉や概念が全くなくてどうにもならないなんてことになるやもしれません」というご指摘は、まさにその通り。だからこそ読者は、その著者の言葉を使って「思考」するレベルにならないと正確には理解したことにはならないということです。思考自体もその言語でできるようにならないとダメだということです(こんなに偉そうなことを言っていますが、私はいまだにできておりません…)。
こういうわけで、哲学研究者はいまだにプラトンやデカルトやカントを直接読もうとするわけです(それも原書で)。このことは、とりわけ理工系の人からみれば「無駄」に思えるかもしれません。これまでの哲学者たちのアイデアを整理して体系的な知識として「教科書」にしてしまえばいいじゃないかと。理工系は基本的にこうした「教科書」で学んでいきますよね。まずはニュートンやアインシュタインを読むというカリキュラムにはなっていないと思います。それは理工系が基本的には「知識」や「情報」を集積してアップデートしていく学問だからでしょう。哲学が厄介なのは、そのような知識や情報の集積&アップデートという側面がありつつ、同時に文学的な側面も強くあるということです。つまりアイデアと「人格性」や「人間性」をすっぱり分離することはできないということであります。
「いわゆる古典的名著を持ち上げる風潮は少なからず理工系でも存在していて、「~~先生のこの本は名著だから〇〇学をやるなら読むべき」のような言説をたびたび見かけます」という点について、おそらく知識や情報を得るためだけなら、おっしゃるように、名著を読む必要ないでしょう。しかし名著と評価されているものは、往々にして、情報や知識が上手く整理して書かれているだけではなく、「発想の仕方」「推論の筋」「思考の忍耐力」「センス」などに秀でたところがありますよね。こういうものに直に接すると、自分が研究で行き詰まったときとかにヒントになることがよくあり、だから古典的名著を読むのも大事だとその人は言っているのではないかと推測しました。
ざっくり言えば、天才の話は又聞きするよりも直接会って聞いた方が楽しいよね、ということでしょうか。
色々言いましたのでまとめましょう。「たしかに知識や情報を得るためには母国語がもっとも効率がよい。なので翻訳があるのにわざわざ原典を読む必要はない。ただし、学問をする上で、知識や情報以上のものが求められることもある。その際には原典を読むのが有効であり、必要になることもある。」
こう言えば「知識や情報以上のいわば「気持ち」のようなものを理解する価値は何なのか?」と問われるかもしれません。これに答えようとするとまた話が長くなりそうなのでやめますが、「気持ちの理解」というのは、まさに人間がまだAIに勝っていると言えるところなので、人間の本質に関わる部分なのかもしれません。