私は、このジレンマにおいて、社会学者の岸政彦の立場に賛成する。私は以前、友人から恋愛についての相談を受けた。彼女とうまくいっておらず、ケンカをしてしまったと聞き、初めは「自分ならそうはしないな。」や、「俺ならこうする。」と言っていたら、友人に怒られ、結果ここでいう暴力的になってしまった。別の日に、この失敗を受け入れ、相手の立場で考えて、肯定を多めにしていたが、心の中では結局自分の価値観で判断してしまう形になり、心の中では肯定しきれていない自分がいた。そこで、今考えれば、岸さんの考え方を取り入れると、おそらく、相手の立場になって同情、共感しつつも、事実と感情の面をどちらからも考察して、今回のケンカの原因について最善のアドバイスが遅れる[送れる]のではないかと思った。
しかし、実際問題を考えてみると、他者のことなどどこまで行っても理解はできないのだろうと思う。他者理解が可能であれば、人間関係の問題や口論などは起きなかった。しかし人間は理解し合えないはずの他者を理解しようと努力する過程で相手のことを少しずつ学ぶのだと思う。そのようにして人間が人間になることができるのだと思う。
――最後興味深いのだが、では人間とは何なのか?
他者を理解しようとする際には、私たちは常に自分というフィルターを通して物事を見ていると考える。これは、誰にでも当てはまることであり、避けがたいことだと思う。チャットGPTに理由を聞くと、人間の認識の構造そのものが主観を前提としているからであると分かった。つまり、他者の考えや感じ方を想像するには、どうしても自分自身の経験や価値観を照らし合わせる必要がある。しかし、その自分基準を無自覚に用いたまま他者を評価してしまうと、相手の個別性や背景を無視して、自らの枠組みに相手を押しつけることになってしまうことになる。そのような理解は、相手にとって暴力的理解だと捉えることができる。
そこで、他者を理解するために必要なことは、自分基準の考え方を完全に捨てることではなく、それが1つの視点だと意識しながら用いることである。自分の考えを基準として、他者の意見にも耳を傾け、背景や考えを理解しようとする姿勢が重要であると考える。また、自分とは異なる価値観や感情を、ただ違うと切り捨ててしまうのではなく、「この人はなぜそう感じるのか」「どんな環境や経験はその考え方を作っていたのか」などと、自分の中で問い直すことが、暴力的な理解にならないために必要なことである。
さらに、対話は他者理解において必要不可欠であると考える。一方的に理解しようとするのではなく、相手とのやりとりの中で相互に意味を共有していくことで、より深い理解ができるようになる。その過程で、自分自身の価値観も変化していき、再構成されることがあると思う。つまり、他者を理解することで、自分を変えていくこともできると考えることができる。
このように、他者理解とは、自分基準での理解とその限界をしっかり自覚しながら、相手との対話を通じて互いの考え方に歩み寄ろうとすることである。その柔軟性と誠実さを持つことが、暴力性を避けつつ、他者を理解するために大切なことである。
――きれいにまとめている。人間の理解のあり方についてAIに尋ねるところがなんか面白い。人間の理解のあり方は人間の方が詳しいのではないか?
私ははじめ、相手の気持ちを測ることができたとき、また相手の好きなものや嫌いなものをわかっていること、などの条件が揃った時相手のことが理解できているというように言えるのではないかと考えていた。また、その人の意見に共感できたときもその人のことを理解できているというふうに感じることがあった。しかし、今回の「理解」についての資料を読んで、共感する際の「感情移入」が自分基準になってしまっているということに気付かされた。確かにその人の立場になって自分ならこう思ったというように考えるのは相手を理解しようとしているかもしれないが、よくよく考えると想像の対象はあくまでそこに置かれた自分であるため、理解しようとするふりをしているようにも思えた。また、その共感しようとする際、自分ならこうだというように伝えて、それが相手の考え方と異なったとき、相手は嫌な気持ちになってしまうのではないかと思う。なぜならそれは相手が自分の考えを否定されたと勘違いしてしまうかもしれないからだ。
では、どのようにしてたじゃ[他者]を理解したら良いのだろうか。私が考えたのは、資料にも載っていたことであるが、自分ならこうだろうと相手に「投げ入れる」のではなく、自分は無心・空虚にしたままで相手を自分の中に「受け容れる」という仕方で相手を理解する態度が求められるのではないかということだ。人には人それぞれの考え方があり、それは別に他者に理解して欲しいと考える人もいれば、そう考えない人もいると思う。そのため、ただその人の考えを受け入れることは非常に大切なことであると考える。
――全体としてもっともなのだが、自分を無心・空虚にして相手を「受け容れる」ことははたして可能なのかが問題。もちろん理念としては良いのだが、現実問題として可能なのか? この点は次のコメントでも言及される。
他者を理解するにあたっては、他者の発言を受けて自分を基準を柔軟に刷新することが求められる。これは「投げ入れる」ことと自分を空にして「受け容れる」ことのどちらでもなく、両方の性質を持つ理解の方法である。
自分を基準に判断・評価すること、つまり「自分がこの人の立場だったら」と感情移入的に相手が置かれた状況に自分を置き、「私ならこう考える」と自分を相手に「投げ入れる」ことは、他人を自分に同化させていることになり、一種の暴力と言える。
反対に、自分基準で判断・評価をせずに、自己を空虚にして相手をあるがままに「受け容れる」ことも、実際には不可能である。これはつまり相手の発言内容を鍵括弧に入れたままにするということだが、これは相手の言ったことを把握するということにほかならず、十分な他者理解には到達できない。
そこで、今述べたこの二つの他者理解の方法を組み合わせ、さらに新しい手間を加えることで、真の他者理解につながると考えられる。まず自分の基準を用いて解釈しながらも、相手の発言を受けて、自分の基準を柔軟に変更し、相手の発言の鍵括弧を外す、ということである。自分の基準を固定化し、それをもとに他者の発言を一方的に解釈すると、暴力性につながるので、相手の発言を受けて自らの基準を柔軟に変更していけば、暴力性にはつながらない。これには、「他者理解とは一方的で固定的なものではなく、絶え間なく自己変容と理解の刷新が繰り返されるような営みなのだ」という心持ちが必要である。
これは岸政彦の考えだが、最後にこれを踏まえて自分が感じたことを少しだけ述べる。岸が提案するような、自らの基準を変更していくという他者理解のあり方において最も大切な前提となることは、「素直さ」だと思った。人の意見を聞いて、自分の考えに取り入れてみようとし、自分の考えを変えることを厭わない素直さが必要だと思った。頑固な人は人の意見を聞いても自分の考えを変えようとしない。よって素直さはこの理想的な他者理解のために不可欠なものであり、真っ先に身に付けていかなければいけないものだと思った。日ごろから、一度人の意見で自分の考えを客観的に見直す経験を積み、心の素直さを身に付けた上で、相手の発言を受けて自分の基準を柔軟に変更し、相手の発言の鍵括弧を外すという他者理解を行っていくことが大切だと思った。
――もっともなのだが、この意味で素直すぎる政治家は信頼できないなどと批判されるかもしれない。自分の基準を変えすぎても問題が起きそうだということ。さてどうするか? あと途中で「受け容れる」ことは単に相手を把握することで完全な理解ではないと言われているが、なぜ把握では不十分なのか?私は「把握」=「理解」と思っていたので。
私は,お互いの判断および評価の基準が異なるため,例えば男性にとっての女心のように,真に相手を理解することは不可能であるのではないかと考える。そのため,相手を理解することに努めるのではなく,理解しようとしているという態度を相手に示すことが大切である。そもそも,自分が理解して欲しいと願っている人も,こちらがその人のことを理解できないという事実を理解することができないであろう。
ここで,2つの疑問が生じる。それは,①相手に自分が理解しようとしていることを理解してもらわなければならないため,完全に理解することを取り除くことができていない点と②お互いの理解が一致する瞬間は実際に私たちの生活の中で起こりうるという点である。①に関しては,このような状況において求められるのは,相談者(理解して欲しい人)が気持ちよく自分の話をすることができることである。そのため,理解しようとしている態度が相手に伝わればよいのである(伝わると理解することの差を定義すべきだが,とりあえずの差として,「伝わる」は,理解するのではなくなんとなく把握する程度とする)。②に関しては,理解の一致はたまたまお互いの基準が一致したために起こると考える。
――良いことを言っているような気がするのだが、後半部分があまり理解できない。理解しようと努めているのだが、理解ができないので、本人に尋ねよう。
私は他人に全て「理解」されてもいいが、全て「共感」してほしくないと思った。「理解はできるけど共感はできない状況」がなくなった時、恐ろしいなと感じる。もちろん、全て理解されることも恐ろしいと感じるが、「理解」とは「その人の言いたいことが分かる」「意味が分かる」と捉えており、「共感」とは、「その人の気持ちが分かる」「同じ気持ちを持っている」と少々ニュアンスが違うように捉えている。そのため、この意味上では、「不完全な理解」よりも「不完全な共感」が望ましいのではないかと考える。ただ、共感にも①心の底から相手の気持ちが分かるもの②人に嫌われたくない、本当は分からないけど「分かる」と言うものの二つがあるが、不完全な共感の「共感」は、前者である。もしも、自分の言ったことすべてに「分かる」と言われてしまったら、私は「本当に?あなたと私は違うから、心の底からわかってはないでしょ」と思ってしまう。他人とは考えが異なるから対話し、それぞれの考えに影響し合っていると思っているため、「不完全な共感」を目指すべきではないかと思う。
――へえ、理解と共感を分けて、共感の方が恐ろしさを感じるというのは興味深いですね。
まず、私たち人間は物事を完全に理解することは不可能に近いことから、「不完全な理解」というものは人間の認知において当たり前の前提として存在しているものである。そのため、不完全な理解というものは目指すべきものではないと私は考える。
では私たちが目指すべき理解の程度というものはどれほどのものなのか。この問いに対しては個人それぞれの目的が重要になってくると考える。例えば、小学校教師が児童に算数を教える際、その教師は算数・数学といった分野を完全に理解していないと教えることはできないのかというとそうではない。教師は対象児童の発達段階に沿ったレベルと範囲の内容を教えればよく、微積や三角関数のような算数の延長線上にある高校数学を知っていなくともよいのである。他にも、運転するために道路交通法のすべてを理解する必要はないし(知っておくに越したことはない)、主婦がその日の夜ご飯を作るためにあらゆる料理法を知っておく必要もない。つまり、一つの物事を研究し続けるなどの目的でない限り、その目的が達成できるほどの理解の程度があればそれでよいということである。
また、研究者にとっても「まだ完全な理解がされていない」という認識が彼らに「探究したい」「真理を追い求めたい」という気持ちに駆り立たせると思われる。より学び、知ろうとするためには理解が不完全であることを知る必要があり、そのために理解は不完全であり続ける必要があると言える。
上記より私たちの理解というものにおいて、その程度はそれぞれの目的に応じた十分なものであることが大切であり、私たちが学び続ける姿勢を持つためにも不完全である必要がある。
――数学や法律などに言及したため興味深い問題が提起される。つまり、他者理解と物事理解はパラレルに扱うことができるのかということ。基本的にそれらは同じプロセスなのだろうか。他者を学び続ける姿勢をもつために他者の理解も不完全である必要があるということかな?
私は、完全な理解ではなく不完全に理解することを目指すべきだと感じた。相手を完全に理解する状況は、自分の中だけにとどめておきたいことで在っても、相手に理解されてしまうことである。授業資料にもあるようにこころを隠そうとしても、隠そうとしていること自体をも理解する。このような完全な理解で相手に全てを理解されてしまうと自分と相手の関係性に害が生じてしまうのではないかと考えた。相手に全てを理解されると自分が何かを発さなくても相手は自分のことを理解する。そのようになると相手とのコミュニケーションの必要性を感じなくなり、同時にその相手と自分が一緒に過ごす必要さえなくなってしまうと思った。これは相手との関係が全て理解によって成立つものであるとするならばの話であるが、完全な理解は親しい人との関係性を壊しうる可能性を含んでいると感じた。
しかし全くの理解がないとしてもよりよい他者との関係を構築することは難しい。人は他者からの共感を得ることで喜びを感じる。そのため、全くの理解がない場合はかえってその他者との関係が壊れる可能性がある。
よって人は全てではなく、ある程度の理解を目指していくべきだと考える。このある程度の理解がどこをさすのか、さらに考えを深間ていく必要があるが、端的な解答が分からない。しかし、相手が発することは最低限理解が必要であると思った。その相手は共感・理解を求めて話をしているためである。ここで興味深いのは、相手が言葉として発さなくても理解が欲しいときがある。いわゆる「察して欲しい」のような状態である。発さないからといって全てを察して欲しいわけではないため、その点の線引きが難しいと感じた。
――完全な理解が可能なら「その相手と自分が一緒に過ごす必要さえなくなってしまう」、「完全な理解は親しい人との関係性を壊しうる可能性を含んでいる」というコメントがよかった。完全に理解し合えないからこそ親しさが成立するということか。ほう。
私は、そもそも私たちは「理解」を目指す必要は無いと考える。相手の立場になって考えたり、相手の言っていることに対して「確かにそうだね」などと共感したりしても、結局は、自分の持っている価値観をもとに考えており、相手の考えていることや思っていることすべてを知ることは不可能である。つまり、私たち人間にとって完全な理解をすることは不可能であると考える。また、私は、「理解」しようとすることは、だますことであると考える。人々は皆、「理解」すること、「理解」できることが良いことだと捉えがちである。そのことによって、相手に「理解」できていることを示すと、相手に良く思ってもらえる、良い関係をキープできるなどと考えてしまい、無理矢理、共感しているように演じているのだと考える。そのため、「理解」しようとすることは、良いように演じていること、つまり、だますことであると考える。そして、このように、相手は善意のような共感にだまされて、だましている側と関係を築いていく。しかし、このような関係は理想的な関係性ではない。お互いにだまし合っているような関係では、相手に共感したから、相手に良いように思われているというような満足感などに浸って、自分の欲を満たしているだけである。つまり、自己満足である。しかし、このようなことを言ってしまっては、この世に存在する人は皆、このような関係性の中でつながっているように思われる。ここからは、私の理想論でしかないが、このようなだまし合いの関係は嫌である。私たちは、「理解」をすることで、このような関係を生み出している。そのため、相手の言うことに対して、「自分は経験したことないからわからない」、「自分はそう思わない」などと、「理解」を目指すことをやめれば、このような関係性は生まれないのではないかと考える。よって、私は、そもそも私たちは「理解」を目指す必要は無いと考える。
――なかなか独特の思考のように感じられるが、本当にここまで言えるのか、一概にだますことではない理解の仕方はあり得ないのかと問いたいところである。