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最初に言っておきたいのは、カントの考え方は少し特殊で今までのデカルトような哲学者の考え方とは切り口が異なる。
デカルトなどは「Aが成り立っている」→「ではAが成り立っているとはどういうことか」→「それはBであるということである」→「ではBであるとなぜ言えるのか」→「それは…」といった風にだんだんと考えを煮詰めていく感じだ。いわばなぜそれが成り立つのかを反逆的な立場から問うことで真理(自分にとって美しいもの、納得のいくもの)にたどり着こうという手法である。
それに対しカントは「Cが成り立っている」→「ということはBが成り立っていけないといけない」→「Bが成り立っているということはAが成り立っていないといけない」といった風に簡単に言うのならば従来の考え方とは逆の道をたどっている。命題における結論を先に100%成り立つものだと考え、逆に仮定を導くという手法である。このことを踏まえたうえで説明に入ろうと思う。
カントによれば私たちが物事を経験するのにはいくつかの段階、すなわち経験の構造が存在する。
まず最初に「経験の素材」と呼ばれる経験はできないけれど思考することはできるもの、すなわち考えることのみできる物自体は「感性」と呼ばれる時間や空間によって定義されたフィルターを通る。次に「悟性」と呼ばれる得た情報に意味を与えるフィルター(因果関係など)を通ることで私たちはやっと物を経験することが出来る。インターネット上のとあるサイトに非常に分かりやすい例が載っていたのでその例を引用する。
『例えば、赤くて丸い物体を見たときに「リンゴだ!」と認識するのは①感性で赤くて丸いものを認識 ②悟性で「リンゴという果物」と認識しているから。つまり一つの物事は、感性と悟性が揃うことで正確に認識することができるということです。』(https://ryo-shin1231.com/kant/)
逆に言うと物事が認識できるのは感性と悟性という二つのフィルターを通っているからであって、これはすなわち経験される世界は必然的に時間、空間、悟性によって与えられた情報(因果関係など)が反映されているということである。そしてこのようなフィルターは全人類共通にもっていると考えるとすると悟性によって与えられた情報(因果関係など)が成り立つことは主観的ではなく客観的であると言えるのである。(カント的に言えば客観性に成り立たせるためには全人類もっていないといけない。)まとめると経験される世界というのは心の産物でありながら、必然性と客観性をもつということがこれによって示された。
これがカントの超越論的観念論である。ところでなぜ「超越論的観念論」などという難しい言い方をするのか。カントは結局のところ経験が正しいことを前提条件とし「経験がいかにして可能になっているのか」(つまりは経験の構造そのもの)を問うている。しかし「経験」というのは経験すると当事者になるため外側からそれを見ることはできない。そこで疑似的に外に出ているとして対象を観察することを「超越論的な観点」から観ていると考え、それを「超越論的」と名付けた。また少し前に述べた心の産物のことを「観念論」と呼ぶ。そのため「超越論的観念論」という名前がついた。ヒュームによって因果関係は偶然的・主観的であるという考え方が広まり科学の正当性は崩壊したが、カントの考え方によって因果関係には必然的・客観的を持つことが保証されたので科学の正当性は保たれたのである。
――特に前半のデカルトとカントの思考の方向性の違いの説明がよい。これは次にような疑問とも関わる。
[…]理解できないところ
「経験がいかにして可能になっているか?」をなぜ問うのがわからない。これを問いかけてどうするんや…?と思った。また、経験の構造が人間で共通しているとなぜ言えるのか、自分の感性と悟性をなぜ信用できるのかわからない。その経験の構造が他の人すべてに当てはまる確証がどこにあるのだろうか…?
――このような疑問はもっともで、カントを考えにはじめて触れた人の多くが抱くものだろう。
まず、カントにとっての切実な問いは「科学はなぜ成立しているのか?」ということ。特に、ヒュームによれば、因果関係が成り立つのかも危うい。にもかかわらず、(ニュートン力学をはじめとする)科学はこれほどうまくいっている。それはなぜか? これがカントにとっての疑問。そのため、科学が成立していることは前提としたうえで、科学が成立するためにはどのような条件が成り立っていなければならないのかを問うた。科学は経験を通してなされる営みだから、経験の構造や条件が探求された。
また、カントのように「経験の構造が人間で共通している!」と宣言しても、科学的な教育を受けた現代人なら納得しないはずである。他の人と同じ構造をしているかは実験や解剖などで確かめなければならないのでは? と思うことだろう。それが健全な科学的マインドというものである(このような考え方からすれば、デカルトのように「本当に正しいのか?」と問うていくのは――極端すぎなところもあるが――まだ理解できることだろう)。
カントはなぜ実際に確かめることもなしに、いわば「独断的」に経験の構造はこうなっていると言うのか。それは、今求められているような「確かめる」こと自体が科学的な方法だから。カントは、そのような科学的な「確かめる」こと(検証)がなぜ成立しているのかといったレベルのことを問題にしているので、実際に「確かめる」といった作業には興味がないのである。
繰り返すように、科学的マインドをもつものからすれば、カントの発想法は本末転倒であり、証明すべきことを前提としている「論点先取」にも見えるわけだが、根本にある問いが「なぜ科学はうまいことできているのだろう」という問いであるから、科学が成立していることは前提としたうえで、そのために「要請される」経験の構造が探求されるというわけである。
→ あらためて前回の授業の説明を振り返ってみたが、「ヒュームの議論が正しいとすれば科学は崩壊することになる。そこでカントは科学を救おうとした」というストーリーはミスリーディングだったかもしれない。科学を救いたいにもかかわらず、科学が成立していることを前提にするというのは端的におかしいから。したがって「ヒュームの議論が正しいとすれば科学は崩壊することになる。しかしニュートン力学をはじめとする科学はうまくいっている。それはなぜか。特に因果関係が必然的・客観的に成立しているのはいかにしてか。このようにカントは問うた」と説明した方がよかったかもしれない。(訂正)
カントの認識論とは、自然科学が必然性や客観性をもつことを保証する考え方である。
カントの認識論を説明するうえで、なぜ自然科学の必然性や客観性が揺らいでいたのか述べる必要がある。揺らいでいた原因は、デカルトの省察とヒュームの因果論にあるので、まずはその二つについて説明する。
デカルトの省察について。デカルトは、学問の基礎部分は信頼に足るのか考えを巡らせた。そして、「私は考えている」という事実以外は信頼できないと結論付けた。結果的に、意識の中に確実なものを見出そうとする流行が始まった。
ヒュームの因果論について。ヒュームは、デカルトの省察を受け、因果関係は心の働きを経て観測されるとした。そして、観測される事象が心の働きを経るならば、そこに客観性や必然性がないと結論付けた。ゆえに、デカルトの省察とヒュームの因果論により、自然科学の根幹が揺らいでしまったのである。
しかし、カントの認識論の新しい考え方によって、自然科学の必然性や客観性は取り戻された。カントは、ヒューム同様、因果関係は心の働きを経て観測されると考えたものの、そのプロセスは人間に共通していることから、観測される事象に客観性があると結論付けた。加えて、事象を観察するうえで必ず心の働きを経るため、そこには心の性質(因果関係、時間や空間)が反映されているから、観測される事象には必然性もあると唱えた。
つまり、カントの認識論は、観測される事象が心の働きを経ているとしたうえで、それは人間に共通しているということと、心の中にある因果関係などの性質を反映していることから、観測される事象は客観性と必然性を持つと結論付けた。そして、自然科学は必然性や客観性をもつということになった。
この話を湖の生態調査で例える。ある少年が目視で湖の生態調査をしていた。そこにデカルトが来て、「目視では曖昧だから、バケツですくって観測できた生き物だけを記録しよう」と言い、少年は提案を受け入れた。またそこにヒュームが来て「バケツのすくい方に人間の癖が出るから、その生態調査はデタラメだ」と批判し、少年は調査を諦めようとした。そこにカントが来て、「湖の調査をするとき、皆がバケツを使っている。そして、皆がバケツの使い方に君と似た癖を持っているから、バケツですくわれる生き物は君と同じになるはずだ。つまり、君は採取したサンプルを信頼していい」と助言した。そうして、少年は自信を持って、生態調査を再開した。
(生態調査→自然科学、バケツ→心の働き)
――デカルト、ヒューム、カントの流れのたとえがうまいですね。
カントの説いた超越論的観念論を説明せよという課題が出された。なんとも酷な話だ。個人的な「難解哲学トップ3」にランクインするほどカントの超越論的観念論は難しい(主観)。超越論的観念論ではなく超マジ無理ヤバ観念論の方が合っている。ちなみにランキング暫定一位はハイデガーである。
本題。超越論的観念論を様々なサイトで調べるが、大抵同じことを言って大抵わけがわからない。おそらく超越論的観念論の中身のみを解説しているために「超越論的」「観念論」の言葉の意味がまずわからない。そこから追いかけていく必要がある。
まず「超越論的」を理解したいが、第一にわかっていなければいけない前提がある。それはカントが使用する「超越論的」は一般的な意味での「超越」とは少し違っているという点だ。我々は「超越的なもの」と言った際に人間の感覚や現実の枠組みを超えた、言い換えれば目に見えたり感じたりすることのできない、神的なものを語る。だが「超越論的」は「超越」と「論(理)」にまたもや分化する。つまり「超越論的なもの」とは「人間の感覚・経験の枠組みを超えた」(超越)、「普遍的な原理や、超越を可能にする条件」(論理)を指す。(ここまでかみ砕いてもよくわからない雰囲気があるが)、我々は感覚等を通した世界しか見ることができないが、その世界には人間の感覚を飛び越えた普遍的な共通性があるとカントは説いた。そのプロセスからカントは「ほなわしらそれぞれが認識してる世界に共通性ってあんねやろか!」「どないしたら経験ってできるんやろか!!」と考えたために超越論的なものを探し始めた。その結果みつかったのが現象界の普遍的構造である。
では観念論とは何か。これは上記よりも簡潔である。「世界を形作るのは精神である」と考えるのが観念論だ。対義語には唯物論があり、こちらは逆に世界の根源を物質としている。カントの主張によると我々は感性と悟性のフィルターを通した世界のみ認識する事ができる。すなわち、少なくとも私たちの世界は私たちの精神フィルターを通ったものたちが形作っているために、「世界を形作るのは精神である」と言える。
もう自分でも何を書いているかも何を欠いているかもわからなくなってきたが…… まとめると超越論的観念論とは「わしらが知らんような世界にあるルールみたいなやつを題材にしたわしらの精神の話っちゅーわけや」ということである。やはり超マジ無理ヤバ観念論の方が合っている。
――超マジ無理ヤバ観念論とは世界はすべて精神の産物という立場なのかな。たしかにそのようなバークリーの哲学は学部生の私でも理解できました。
ヒュームは因果関係は心の産物であり、偶然的・主観的と考えた。例をあげると、道に鳥がいて、自分が近づいたことによって鳥が飛んでったとする。しかし、鳥が飛んでったという結果に対する原因は、本当に、自分が近づいたからなのか。現象として起きていることは、自分が近づいたことと、鳥が飛んでったことだけである。自分が近づいたから飛んでいったという因果関係は目に見えないため、必然的・客観的ではなく、偶然的・主観的である。もしかすると、風が吹いて鳥が飛んでいったかもしれない。または、もっと大きな鳥が遠くから向かってきたから逃げたかもしれない。自分が近づいたことによって鳥が飛んでったという因果関係は、本人の心の中で考えられていることで、偶然的・主観的であるということだ。
これに対して、カントは、因果関係に必然的・客観的をもたらしたいと考えた。そこでまず、経験の構造について次のように考えた。形而上学ではない経験の素材があるとする。人はその素材をまず第一のフィルターである感性(時間・空間・視覚・聴覚)で受け入れる。そして、その後第二のフィルターである悟性(因果関係などのカテゴリー)で受け入れる。この二つのフィルターを通して初めて、現象として成立するのである。例えば、ある球体があるとする。それは第一のフィルター感性を通して、脳に認識される。そこから、球体の特徴である、オレンジ色、ブツブツしている、へたがついている、片手で簡単に掴めるほどの大きさ、といったような特徴を見つけ、悟性により、脳の引き出しからそれが果物のオレンジであることを導き出す。認識という面で例をあげたが、これは現象においても同様である。例えば、手で持っているりんごが手を離すと落ちるという現象も、感覚的に感じ取って、悟性でさまざまな因果関係を脳の中から取り出して初めて、「手を離すとりんごは落ちる」という現象が成立する。こういった経験の構造は、人間誰しも共通するとカントは考えた。これは、人間にとって因果関係があることが客観的であるからである。
ここから、超越論的観念論についての話だが、経験が正しいということは前提として、「経験がいかにして可能になっているのか」を問うという超越論的な観点を問うことが超越論的観念論であると私は考えた。経験の素材がどうだという内容ではなく、「感性」と「悟性」によるフィルターを通すことで、経験される世界(現象)があり、それらは心の産物であることが観念論に当てはまると考える。「感性」や「悟性」を通して因果関係を導出することで、必然性・客観性をもたらすことが大切であると考える。
[…]金属探知機に反応した物質は必ず金属であると言うことができるように、因果関係というフィルターを通して得られたものは因果関係であると言えるので因果関係は客観的である。
――まさに。
[…]これは例えを挙げると、読書感想文のコンクールに出される作文は内容の良し悪しに関わらず全てが一定の文字数になっている。これは出されたものがたまたま文字数が一定数になったのではなく、出されるのもは全て指定された文字数でないといけないように教員たちの確認が入っているからである。
――このコメント課題が20000字以下なのも同様だな。合格する中間レポートの文字数が2000字以上なのも。
[…]「福井大学に通う学生は、全員福井大学の入試に合格している」福井大学の学生が福井大学の入試に合格していることは必然であるし、誰もが認めることなので客観的なことである。つまり、福井大学入試というフィルターを通った人には福井大学生というカテゴリーが客観的で必然的に成立している。これは超越論的観念論と同じ発想法ではないだろうか。
――その通り。
[…]次のような疑問を抱いた。この流れがすべての人間に共通しており、それゆえに客観的であるとするならば、人類が残り一人になった時、その客観性はなくなり、この世界で真に信じられるものは何一つとしてなくなるのではないかということである。残り一人にならずとも、人間を一人隔離し、他者との一切の共有、交流をなくせばその空間において因果関係の必然性、客観性は消え去るのではないか。屁理屈のような疑問ではありますがこのようなことを考えついたためここに記載します。
――おそらくカントなら、理性的な存在者ならば、同じような経験の構造を持つことが「要請される」ため、たとえ人類が一人であっても、理念としては、他の主体も同じ経験の構造をもつことになるため、客観性を持つと言うのではないかと思います。つまり、「事実上 de facto」ではなく「権利上de jure」の話をしているのだ、と。そもそもカント哲学と「他者」の関係は非常に複雑な問題を含んでいます。カント哲学には他者がいるのかいないのか。いるとしても上のように理念として要請された幻想的なものなのではないか。他者という言葉はあるが実質的な他者性はカント哲学にはないとして批判した者にたとえばヘーゲルがいます。
[…]超越論的観念論は経験は正しいことが前提であり、カントは「経験はいかにして可能になっているか」を問う。「可能性の条件」この一文は少し何を意味しているのかが分からなかった。「いかにして可能になっているのか」この表現が引っ掛かったのだと思う。かなりの時間をかけたがかみ砕けなかった。
――「可能性の条件」とはカントに特有の表現で、いかめしい響きをしていますが、簡単に言えば「必要条件」です。「いかにしてい可能になっているか?」という問いも大げさに響きますが、「必要条件は何か?」ということと同じです。しかし哲学をやっていると、「可能性の条件」という言葉を使いたくなるものです。
でもまだ理解ができないところもあります。観念とは辞書で調べたところ、結局「心に残る印象」だと書かれていましたが、では超越論的観念とは「心にあるフィルターを通していない心に残る印象」になるんですか?また私が定義した超越論的観念論は「心にあるフィルターを通していない心に残る印象で現実の因果関係を説明しようとする考え」ですが、どうですか?
――質問の趣旨がややわかりませんが、哲学をやる際に注意しなければならないこととして、哲学で登場する言葉は通常とは異なる意味で用いられることが多いので、通常の意味で理解してはおかしなことになります。この時代における「観念」は〈心に現れること全般〉ですので、「心に残る印象」だけに限定されるわけではありません。イメージや概念や思考などはすべて観念です。
[…]「因果関係は必然性・客観性をもつ」のところら辺がよく分からなかった。
人それぞれの知識、経験があるのに必然性・客観性があると言われても私はピンとこなっかった。
――「人それぞれ」ではない、とするのがカントのポイントですね。
[…]私がなぜ2つのフィルターを通ることで、因果関係が客観的になるというところがあまり理解できない。出来の悪い学生でごめんなさい。
「超越論的観念論」というのは、想像してみてください。空に星がいっぱい輝いている夜空があると思う?そう、その星たちは私たちの目に見えるけど、実際にどれくらい遠くにあるか分からない。それと同じで、私たちの頭の中には、外の世界を知覚するための「アイデア」という星のようなものがある。でも、そのアイデアが本当の世界とどう関わっているかは、難しい。例えば、お兄ちゃんが部屋にいるとき、彼の存在や行動を知覚している。でも、実際のお兄ちゃんは、私たちの頭の中にあるアイデアとは違う存在だ。だから、私たちが見ているのは、頭の中のアイデアだけで、実際のお兄ちゃんを知ることはできない。それが「超越論的観念論」なんだ。この考え方を現実に応用すると、例えば夢を見ているときも同じ。夢の中では、自分が実際に体験しているように感じるけど、それは現実の世界ではない。夢の中での出来事は、私たちの頭の中で起こっていることなのだ。「超越論的観念論」と同じような発想は、例えば想像力や創造力にも使われるんだ。絵を描くときや物語を作るとき、実際の世界から離れて自分の頭の中で新しい世界を作り出す。それは、「超越論的観念論」と同じように、私たちの頭の中での出来事なのだ。よって、この考え方を使って、私たちの頭の中でどんな世界を作り出すか、想像する。それが「超越論的観念論」と同じ発想法だ。
――うまいこと言っている雰囲気はあるのだが、よく考えると何を言っているのかなかなかつかめない、味わいのある文章。
「道徳」は小学校、中学校で善いもの素晴らしいものと感じて授業を受けてきた。しかし、この講義では「道徳」は自分の利益のためにやっている、つまり利己主義であると教わった。この意見を聞いて衝撃をうけた。そこで「道徳」が利己的によるものなら、利己的に行われる犯罪と道徳は根本的には同じものなのだろうかと考えた。またそうならば、道徳と犯罪の何が違うのかとも考えた。
私の答えとして違いは、「道徳」は他人の利益にもつながるということ、つまりwinwinの関係(また、互いが損をしない関係)が成り立つということだと思う。そうなってくると「道徳」は利己主義ではなく公正主義なのではないかと思う。道徳を行うということは他の誰かも得をしてしまう、もし道徳が利己主義ならばそのことを許せるのだろうか。
やっぱり私は「道徳」は素晴らしいものだと思う(そう思いたいだけかもしれない)。不公正な社会では誰も生きることはできない。「道徳」は公正な社会を守っている一つの要因だと思う。
――自己利益に訴えるものは一定の説得力があるんですが、まさに道徳の「素晴らしさ」を毀損してしまう点がよろしくないと思っています。そういう点をカバーするために「美」に訴えたんですが、とってつけた感がありますね。「合理性」と「素晴らしさ」を両立させるようなうまい説明方法がないかなと考えています。
「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに対して私はすぐに答えることができなかった。法律で決まっているからと言われればそれまでだが、法律自体誰かが作ったルールであるわけで単なる人間が作ったものにすぎない。
きっとその法律を作る際にも様々な人の道徳心が働いており、それを道徳心がない人(なぜ人を殺してはいけないのかと質問する人)に対して「こういうものなんだよ。これは決まっていることなんだよ。」と諭すのはなんだかおかしい気がする。(言ってることは正しいのだけれどもなんだか腑に落ちない感じがする。)
道徳心というものはこの世の動物すべてが生まれながらにして持っている価値観のようなものであり、成長するとともに自然に身についていくものだと思う。資料にある通りほとんど無知である赤ちゃんでさえ、親から教わってないにも関わらず他人を助けようとする気持ちがあることからもこのことは正しいと思われる。ともすればやはり大江さんが述べたように「なぜ人を殺してはいけないのかという質問自体がおかしく、それを疑問に思う人は道徳心のない人である。」という考え方は自然な結論であり私もこの考えに賛同する。ところでなぜ我々には道徳心が備わっているのだろうか。道徳そのものについて今一度考えることで今回のテーマに対する自分なりの答えが出そうなので少し考えてみることにする。
道徳とは様々な場面で登場するが、そのどれもに他者の視点に立ち相手の気持ちを考えることや他人のためになにかしたいという精神が共通してあるように思われる。つまりは相手を思いやる気持ちである。ではなぜ相手を思いやる必要があるのか。
これに対してはいろいろな理由が考えられるが、最終的にたどり着く答えは「支えあって生きていくため」だと考えた。当然だが人は一人では生きていけない。困ったときは必ず人を頼り解決しようと試みる。逆に相手が困っているときは助けようとする。相手の力になりたい、相手に好かれたいなど理由は様々だが大抵の人は相手のためを思って助ける。ところがこれは相手のためにしているように見えて、自分を守るためにしている行動とみることもできる。私は次のように考えた。「嫌われて自分一人になってしまうと今度助けてほしいときに助けてくれないのではないか」、「ここで今借りをつくっておけば今度は助けてもらえる」そのような思考が実は生存本能的なもので生み出され、本人たちは気づいていないだけではないのか。そのような本能がうまいこと相手を助けたいという気持ちに変換され結果的に私たちは助けるのではないか。そのようにして人々(動物)は命をつなぎ現代まで繁殖してきたのではないだろうかと。まとめると私の考えはそのようにして支えあうことで今日まで人間は生きてきた。裏を返せば道徳心があったからこそ人間は生きてこれたのだ。ところでここで気づいたことがある。授業で学んだ進化論的な考え方、すなわち「道徳性は生存増殖に有利の可能性が高い」という考え方に繋がるのである。以上のことを踏まえて今回の問いに対する自分なりの答えとしては「生物として生きていくため」である。
――こういう自らの疑問をもとに行ったり来たりする思考はいいですね。
人は「なぜ道徳的であるべきか?」という問いに対して、私は不変的な答えはなく、時代によって答えが変わるものだと思う。授業で先生が「自分の利益になるから」と「世界の美を増やすため」という二つの考えをあげていたが、「自分の利益になるから」という考えは昔の時代に合っており、「世界の美を増やすため」という考えは今の時代に合っている考えだと私は思う。
人が農作物を分け与えたりして集団から排除されないようにして生きていた昔の時代では、自分が生き残っていくために協調性がとても重要であり、「なぜ道徳的であるべきか」という問いに対して「自分の利益になるから」という考えは一番理にかなった考えであると思う。
逆にこのような時代に「世界の美を増やすため」という考えは人が道徳的であるべき理由として少し合っておらず、「世界の美を増やすため」という考えは今の比較的平和な時代によく合う考えだと思う。
――なるほど、授業の二つの答えを時代性で捉えるのは興味深い。
私は「なぜ道徳であるべきか」について、人間が人間であるからだと考える。
人間が人間であるからとは、私は道徳的であることが当然のことであり、そうであるべきかどうかという以前のもので、人間ならば道徳的であると考えているからこそ生じたものである。今回の講義のグラウコンの考えにおいて「不正を加えることによって生じる利益より不正を受け被る不利益のほうが大きいからこそ互いに契約すなわち正義の起源である」と言っているが私はこれを論理的であり納得のできるものだが、道徳の根源とはならないと考える。なぜならばこの考えは、いわば法の成り立ちを語っているだけであり人間特有の社会性の発展の過程におけるものにすぎないからである。
私は道徳を人間の社会性の発露だと考える。社会性は人間という種の特徴であり、それを持つからこそ人間であるとも考える。先ほど法の成り立ちを社会性の発展の過程と記したが、これは道徳そして社会性が法よりも人間において上位にあるものであるということである。
現代において法を犯すというのは社会から外される可能性のある行為であるが上記の通り道徳そして社会性を捨てる行為となるからこそ当然、周囲の人間から普通ではないという認識をされる。それからはまともに生活することは難しいだろう。そういったように人間社会は道徳的でないことに厳しく、私もそうであることは正しく思う。
道徳は人間ならば持つものである。人間ならば道徳的であることは当然のことであり、法を犯したりするような道徳から外れた行為というのは人間から外れる行為と等しく、それは「人間」の持つ理性を捨てた、「獣」と同じ、人間ではないものとして扱われる。犯罪による刑罰が良い例となるが服役やわかりやすいものだと死刑などがあるだろう。人間に不利益をもたらせば管理、殺処分される、これは道徳をもたない犯罪者を更生するまでは獣に近いものだと言っているように感じる。
私は人間ならば道徳的であると考える。道徳的でないことは人間特有の社会性を捨て、社会から外れる行為である。もちろん上記のような法だけが全てではないが、一般に道徳的でない行為をすることは人間らしいとは言えない。
私は人間として生きていくならば道徳的であるべきと考える。
――人間には必然的に道徳性があるから、人間が「なぜ道徳的であるべきか?」と問うのは何かおかしいところがあるということですね。これは以下の回答とも共通する。
私は、この問いに対して道徳さは生物として生まれもっているものだと考えた。そのため、答えは無く、しいて言うならば生きるために必要だったからだと考えた。今回の授業で、プラトンやホッブスの考え方や、ゲーム理論を学び、これは人間が気持ちよくなりたいがために理由をつけているだけなのではないかと感じた。実際、虫や動物にも道徳的ととれる行動がみられる。しかし、現代では昆虫には感情がないということが通説になっている。ならば道徳的であるべき理由は感情的な問題ではないということになる。(ただし、昆虫に感情があるなら話は変わる。)また、幼児から道徳的な行動を示すので、後から生まれるものではないと考える。そして、昔の人が書いた内容を今まで見たことがあるが、歴史的な背景を除き、思想はどこか似ているものを感じる。よって、やはり生物として生まれもっているものだと考える。また、生物として生きるために血かはたまた遺伝子に勝手に刻まれているものだとするならば、初めてあった人やはるか昔の人と共感できるなら生物の奥底に刻まれているものだと思う。奥底に刻まれているならば生物として進化や退化のときに失わなかったとすると生きるために必要不可欠だった可能性が高い。しかし子育てをしないのは道徳的でないとするならば子育てしない生物は道徳的でないということになるので、生物によって道徳はちがうということも注意しなければならないと思う。
このように考えたため、やはり道徳さは生物として生まれもっているものだと思い、答えは無く、しいて言うならば生きるために必要だったからだと考える。
今回の授業は、なんか難しかった。
自分の最初の意見としては平和を保つためであると考えていた。古代ギリシャやホッブズの社会契約論などのような「自分の利益になるから」という考え方にはなるほどと納得できた。
また、その裏づけとなる進化論の考え方はとても共感できるところがあり面白かった。
これらからなぜ道徳的であるべきかという問いに関して、自分が社会でうまくやっていけるようにするため、社会から排除されないようにするため、また自分だけではなく自分の属する種の存続のためでもあると思った。つまりほとんどが利己的な考え方であり、社会がこうであるため、などのような考えは少しはあるかもしれないが、その中の一番元となるところには、自分のためという考えが潜んでいると思った。
自分は最初、秩序ある社会や平和な社会など「社会のため」という考えであったが、講義を受け利他的な考えから利己的な考えへと自分の考えが変わった。難しいと感じる一方で何かとても深いなぁと感じた。
――考え方が変化する際に深いと感じられるのはいいですね。
まず第一に、道徳とは何かについて
⚪︎「道」とは人が従うべきルールであり、「徳」とはそのルールを守る事ができる状態のこと。(wikipediaより)
つまり、道徳的でないと人が従うべきルールが守られていない状態になってしまう。そうすると社会が秩序なくなり、平和が保たれなくなるだろう。ホッブスの「リヴァイアサン」にあるように、人間たちが自然権があるからといって好き勝手し合うと人間同士が敵になってしまい、戦争状態から抜け出せなくなってしまうだろう。これが1つ目の理由である。
次に、授業で道徳性は生存繁殖に有利である可能性が高いという話があった。道徳性について調べると、
①規律の精神②社会集団への愛着③意志の自立性 という3つの要素があった。(エミール・デュルケーム「道徳教育論」より)
②にある社会集団への愛着という点で、確かにハチの例では社会集団のために、働きバチは女王蜂を守るために必死に行動するなど、道徳性が生存繁殖に繋がっている。このようにハチの行動は生存繁殖に大きく繋がっており、道徳性、つまり利他的な行動は非常に有効であると考えられる。ならば、動物は本能的に道徳的であるのではないかという考えが浮かぶ。しかし、自分は人間が利他的でありすぎる、道徳的でありすぎるのもかえって良くないことだと思う。人間社会では社会集団のためを思って行動しても繁殖のように自分にいい事が返ってくるとは限らないと思う。自分はあまり断れない人だから嫌だなーってことでも他人のことを思って行動する事が多かったけど、自分の時間が取られてめんどくさいだけだと感じる事が多い。
誰も黒板消してない時に、謎の使命感で消す事がよくあったけど、誰もみてないし何もいい事がない。自己犠牲をしてお人好しになるだけで、いい経験があまりない。人間は血が繋がっているわけでもない人にでも助けようとするのはすごいと思う。利他的であるところ、利己的であるところのバランスがとれていないのも自分にとっても社会にとってもよくないのではないかと思う。
――道徳的(利他的)でありすぎるのもよくないという指摘が面白い。まさに利己と利他のバランスをとるが理想なのでしょうが、どれくらいの塩梅でやるのがいいかの見極めは非常に難しいので、人間社会は様々な言説や制度によって利他を推奨するようになっているように思われます。黒板消しのことも実はある先生はしっかり見ていたとか、神が見ていたとか、という仕方で何らかの報いがあるような物語を人は語りたがりますし、聞きたがりますよね。こういう現象に興味があります。なぜ私たちは道徳的な物語を好むのでしょうか?
道徳的であるべきである理由というのは、考えると難しいものだと私は考える。人間が行動するときの理念は大体が自分にとって得になるかどうかであるから授業中にあった自分が他人に迷惑をかけて得られる利益よりも、自分が他人に迷惑をかけられてもたらされる損害のほうが大きいという考えは個人的には納得している。話は変わるが、このレポートを書いているときにある日の母親との会話を思い出した。そのとき自分は、学校のトイレのトイレットペーパーがきれているのを補充しても誰にもお礼も何も言われないことにある種不満を持っていた。それぐらいだったら補充しなくてもよいのではないかということを母親に相談していた。そのときの母親の言葉は自分にとっては納得できるものだった。母親曰く、「いいことをしても直接いいことが返ってくるとは限らない。でも、誰かは絶対見ている。いいことをし続ければそれを評価してくれる人が周りに集まってくるからいいことをするのは無駄ではないよ。」たしかこんな感じのことを言っていた気がする。いいことをすればのちのち自分に帰ってくるというのとニュアンスは似ていると思う。こういうことを言うと、「どうせことわざだ。」といわれるかもしれない。自分も多少はそう思う。しかし、母親の会社での話を聞く限りこの話もあながち間違ってはいないのだと私は思った。道徳的でなければいけない理由はないのかもしれないが、母親の言葉を思い出すと道徳的になると色々と人生得するのかもしれない。
――まさにこの母親の言説が上のコメントにある道徳的物語(言説)である。私もこういう話が好きだし、多くの人が好きだからことわざにもなるのだろう。
まず、「なぜ道徳的であるべきか?」という問いに答える前に、道徳とは何なのかについて私の考えを述べたい。授業内では、道徳は利他的で、種の保存や繁栄のために行われる行為であり、道徳的であることは自分の利益になるという認識のもと上記の問いの議論がなされた。しかし、種の保存や繁栄のための利他的行為は道徳と言えるのだろうか。生後まもない幼児が誰にも教わらないまま、大人を手助けしたり、慰めたりすることは道徳的ではなく本能的行為ではないだろうか。
私の考える道徳は、種の保存や繁栄といった本能的な行為ではなく、いつか自分の利益になるからといった動機もなく行われる、理性的で利他的な行為である。私が電車で高齢者に席を譲る時、自分が高齢者になった時に席を譲ってもらいたいから、周りの人に良く思われたいからなどと考えて席を譲るわけではない。理由はなく、ただ譲らなくてはならないと感じて席を譲るのである。これは本能に反した行為である。なぜなら老い先短い高齢者より若い自分を大事にした方が種の繁栄に適っているからだ。
カントは、''理性的存在である人間自身が主体的に立法した普遍的な格率を道徳法則とした。そして、道徳法則に従うことを義務と呼び、「汝なすべし」という良心の声にもとづいて行為することのみが道徳的である言った。''[村中和之(2020),『大学入学共通テスト 倫理の点数が面白いほどとれる本 面白いほどシリーズ』,KADOKAWA,p.154]
つまり、人間が道徳的であろうとするのは、理性により万人に普遍的なルールが存在するからである。従って、「なぜ道徳的であるべきか?」という問いの答えは、本能から解き放たれた自由と理性を持った人間として生きるためであるというのが私の考えである。
――まさにカントなら言いそうなことである。カントにとっては道徳は自己利益とはまったく無関係に成立するものである。したがって、先日の授業内容は道徳についてまったく理解していないことを示しているということだろう。その気持ちはよくわかる。カント的に考えれば道徳の崇高さやすばらしさもよく捉えられる。しかし「一般人」にとってそうした説明は説得的かどうが問題だ。
なぜ、道徳的であるべきなのかという問いに対しての「自分の利益になるから」「世界に美しいものが増えるから」という答えはとてもよく理解ができる。しかし、私の答えは「誰かとともに生きたいから」だ。
まず、人間は群れで生きる生物であり、1人で生きることはできない。ご近所さん、先生、友人、家族の支えがなくては、私ここまで生きてこれていない。完璧な人間なんていないから助け合わなくてはならない。
また、私は周りに影響されて変化して生きていくことが人間だと思っている。嬉しいことでも辛いことでも、人は日々様々な経験し、出来事や他人に影響されて、考えを変化させ、進歩していく。そして、自分の行動も誰かに何かしらの影響を与えている。それがどのようなものであれ、人に影響を与えるということは自分の存在に意味を与えてると思う。もし、社会的仕事もなく、誰とも関わらず、ずっと同じ場所で、なんの変化のない日々ならば、私はきっと死にたくなるだろう。うまく言語化できないが、生きている意味がないと感じるからだ。
上記の2つの考えから私は人間にとって「誰かとともに生きる」ということは不可欠なことだと考える。誰かと生きる上で大切なことは周りの人との調和することだ。調和において大切なことは利益だと思う。自分が道徳的な行いをすれば、周りに利益が生じ、それとともに彼らは自分を「いい人」と認識してくれる。たとえ、「都合の」いい人だったとしても相手は自分と関係を築こうとするだろう。道徳的な行いは周りの人と調和するため、利益を生み出すものとして認識されるための手段なのだ。
ゆえに、人間が道徳的であるべき理由は誰かとともに生きたいからだと考える。
――「誰かともに生きたい」という思いを根源に持ってくる点はなかなか感慨深い。「自己利益」に訴える論法は、どうにも「一人で生きる」ことを想定しているようにも思える。ああ、たしかに「誰かとともに生きたい」という点に訴えれば、道徳の「崇高さ」「素晴らしさ」を毀損しない仕方でも説明できそうな気がしてきた。
「なぜ道徳的であるべきか?」
授業では「自己の利益となるから」といった理由が挙げられていた。私も概ね同意である。しかし私の考えとしては、利己的に利益を求めるためだけに道徳が存在するのではなく、国家ないし集団の利益となるための道徳があるのだという考えである。昔からよく子供と遊んでいるが、(言い方は違えど)「どうしてしてはいけないのか」「してはいけないとはなにか」と聞かれることはやはり多い。
それすなわち道徳の存在への問いかけだ。そのような質問をされた際、もっと平たくではあるが、私はこう伝えている。「大多数が行えば集団の平穏が傾く行動」を「してはいけないこと」と言うのだと。国家や集団の平穏が保たれれば必然的に個人の利益にもなる。だからこそ私は部分的に「道徳は自己の利益のため」という意見に賛同しているのだ。道徳は個人の利益のみならず集団の利益にも繋がっている。
「なぜ道徳的であるべきか?」という本題への返答はここまでである。以下は〇〇〇[匿名化]の意見への疑問点、仮説である。つまり、蛇足に等しい。
だが長らく持っていたこの考え方に、最近いくつか疑問を持ち始めた。一つ、この考えは多様性を促す最近の教育現場にとっては背反ではないだろうか。昨今、文部科学省において「個別最適な学び」の推進がなされてきたこともあり、教育現場の個人主義化・自由主義化に拍車がかかっている。だが前述の通り、私は道徳は集団のためにあると考えている。個人の意見で道徳をないがしろにされては、言い換えればそのような人が多くいては集団の平穏が傾く可能性がある。道徳を集団、自由を個人と見立てるこの意見は個人を取るか協調性を取るかという教育に根付いた問題に繋がっている。(もちろん二元論でないことは理解している。)
現在はどのような立場で教育が行われているのだろうか。文部科学省においては学習指導要領内にて『一人一人の児童(生徒)が、自分のよさや可能性を認識するとともに、あらゆる他者を価値のある存在として尊重し、多様な人々と協働しながら様々な社会的変化を乗り越え、豊かな人生を切り拓き、持続可能な社会の創り手となることができるように育成することが求められる』と記述しており、両者を平等に取り入れる方針を示している。また参考文献-②においては『協調性や多様性をスムーズに養い本人の持続成長へ繋げるには、自己理解と自己承認が必要』『自己理解と自己承認によって、主体的な学びが生まれる』と記載されていた。こちらも個人性と他者性の両面を重視していることがわかる。現在においては全体的に「個人と集団の中立を取る」ということで一旦の結論がでているようだ。
しかしそうなれば「なぜ道徳的であるべきか?」という問いに「集団のため」とも「自分のため」とも言うことができないのではないだろうか。ならばやはり、私は背反であろうと集団を中心と見た道徳を説きたい。右左に寄らない程度に。
私は哲学という学問を心から愛している。まだまだ議論も論文もレポートも不備だらけだが、人の意見を聞いたり自身の意見を批判されよりよいものに変えていく活動がそれはとても大好きなのだ。某日、哲学のプレゼンテーションにおいて私の考えにメスを入れられたときには恍惚の表情を抑えることなどできなかった。
この若干の気味の悪さは私も自覚している。私のような人が国民の大半を占めてはかなり迷惑だ。改善を検討に入れたい。
なお道徳は『人々が、善悪をわきまえて正しい行為をなすために、守り従わねばならない規範の総体。(コトバンク引用)』と定義されている。定義においては「なぜ」の部分は書かれていない。
二つ目に、自分でもまだ答えられていない疑問がある。「道徳を侵す者が多少いてもいいのか否か」というものだ。道徳や法が存在する限り、それに当てはまらない人が出てくることは必然である。意識的にしろ無意識的にしろ、誰しも生まれてから死ぬまでの間全くの清廉潔白でいることはできない。また程度にもよるが道徳を欠いた人間が数人いる程度では、国家は身じろぎもしない。現在の社会も教育現場もそういった人間を黙認しながら生きている。それは恩恵にはならない。しかし特別害になるわけでもない。道徳性の欠如はあっていいのか。これから議論する機会があればぜひ行いたい。
以下、授業に関係のない話。
「もしニーチェがイッカクだったなら ジャスティングレッグ著 的場知之訳」という本を見つけました。ニーチェは動物を目的や知性のない愚かな存在としましたが、今の科学で明かされた動物の知性から人間の愚かさについて言及した、という内容の本です。まだ読んでいませんがとても面白そうなので読み終えたら先生の意見も聞いてみたく思います。よろしくお願いします。
《参考文献》
①文部科学省 「個別最適な学び」と「協働的な学び」の一体的な充実
https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/senseiouen/mext_01317.html
②絆グローバル 「協調性を養う」教育完全手引き
https://kizuna-global.com/education-of-cooperativeness/
③コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E9%81%93%E5%BE%B3-103962
――人間社会の独自性は、うまくいっている場合は「個人の利益」と「国家ないし集団の利益」が一致する点にあると思っています。もちろん個人の利益に傾けば無秩序状態になりますし、国家・集団の利益に傾けば全体主義となりますが、うまく機能させることで一致を実現することができる点が重要だと思います。つまり両者は必ずしも矛盾するものではないということ。これは、学校現場における個人主義vs.集団主義のところでも同様で、二つの考えは必ずしも対立するものではなく、むしろ相互依存していると考えることもできます。個性は集団における位置や他者との違いによってはじめて成立するということであり、自由はルールがあるところでのみ成り立つ等。したがって、文科省学習指導要領を踏まえるなら――コメントに反して――「なぜ道徳的であるべきか?」という問いに「集団のため」とも「自分のため」とも言うことができるということになるでしょう。矛盾的なものに対して相互依存的に統一化していくヘーゲル的な発想法に最近影響を受けているので、こんなことを言っています。
批判を受けて意見を変更することを好むというのは非常に哲学っぽくてよいですね。私も批判されるとついニヤニヤしてしまいます。
反道徳性の意義について、個人的には反道徳性のギリギリを攻めたり虚構の内部で反道徳的なものを追求することは、優れた文化や美を生み出す上でとても重要なものだと思っています。反道徳性が含まれない文学作品ってそもそもあるんでしょうか? とはいえ、私の立場からすると道徳は美を生み出すものでもあるので、道徳的な美と反道徳的な美の区別が問題になります。これは興味深いですね。
「なぜ道徳的であるべきか?」という問いに対して、「道徳的でいた方が、自分自身が心地よく感じるからである」と私は答える。なぜなら、自分の行動が他人に不快感を与えるかもしれないと考えると、私自身も心地よくないからである。具体例を挙げると、過去に音楽ライブに行ったときの経験がある。初めは最前列でライブを楽しむことができたが、他の観客に押しのけられ最後は後ろに追いやられてしまった。その際、友人と不満を共有し、良い思い出に昇華できた。しかし、もし私が力ずくで元の場所を取り戻そうとしたら、一時的に楽しめても良い思い出にはならなかったと推測する。ゆえに私は、後味の悪い結末を避け、夢見の良い善行をするために、道徳的であるように心掛けている。私の考え方は客観性を欠いているため、万人には受け入れられない。しかし、幼子が「なぜ人を殺めてはいけないのか」と尋ねる場合、私の考えが一部の人に共感され、理解してもらえるだろう。
(先生の仰っていた美倫理に特に共感しました。今回chatgptに可読性を上げるように指示したので、Q&Aを記載します。
(Q)次の文章の可読性を上げてください 「なぜ道徳的であるべきか?」と問われたら、私は「道徳的でいた方が気分が良いからだ」と答える。なぜなら私は、傍若無人にふるまえば、どこかで誰かが嫌な思いをしてしまうのではないかと、神経質になるからである。例を挙げると、過去に私が音楽ライブに行ったときの話になる。最初は運よく最前列で観賞できたが、徐々に他人に押しのけられ後方まで下がってしまった。押されたことは、友人と愚痴を言い良い思い出に昇華できた。しかし、私がもし力ずくで元の場所を取り戻しに行けば、最後までライブを楽しめていなかったように思う。つまり、私は後味が悪いことが嫌いであり、善い行いをした方が夢見が良いので、道徳的であるように心掛けている。私の考え方は客観性を欠いているため、万人には受け入れられないだろう。しかし、幼子の「なぜ人を殺めてはいけないのか」という問いに対してこう答えれば、ある程度の人は共感し、納得してくれるように思う。
(A)「なぜ道徳的であるべきか?」という問いに対する私の見解は、単純明快です。私にとって、道徳的であることの意義は、自分自身が心地よく感じるからです。私は、自分の行動が他人に不快感を与える可能性があると考えると、神経質になります。具体例を挙げると、過去に音楽ライブに行った際の経験があります。初めは最前列でライブを楽しむことができましたが、他の観客に押しのけられ、最後は後ろに追いやられてしまいました。その際、友人と不満を共有し、後に良い思い出として振り返ることができました。しかし、もし私が力ずくで元の場所を取り戻そうとしたら、ライブを楽しむことができなかったでしょう。私は、後味の悪い結末を避けるために、善行を心がけることの重要性を理解しています。私の見解は主観的であり、すべての人にとって受け入れられるわけではありません。しかし、幼い子供が「なぜ人を殺してはいけないのか」と尋ねる場合、私の回答が一部の人に共感され、理解されることを期待しています。)
――これ、むしろ可読性が下がっているように感じるのですが……。どうしても翻訳調になってしまいますね。