人生は客観的な視点で見れば無意味、主観的な視点で見たら意味があると学んだが主観的な視点の人生の意味の有無の説明はなんか説明が少し無理やりな感じがしました。私は先生の主観的な視点の人生の意味の有無の説明を聞いて人生は有意味だと思い込むことができるだけではないかと考えました。
――最後駆け足で進めたので重要なところがおろそかになってしまったのですが、私としては客観的にも主観的にも人生には「意味はない」と考えています。しかしどれだけ意味がないとわかっていても、主観的な事実として自分の人生を「重要視せざるをえない」のは否定できないということです。例えば、究極的には授業には意味がないことを頭ではわかっていても授業準備は一生懸命してしまうし、遺伝子に支配され脳内ホルモンが出ているだけだと理解していても他人から承認されれば喜んでしまうことは否定できないということです。だからといって授業や承認に主観的な「意味」があるとは思っていません。いやしかし「重要視」と「意味があると思う」は一緒か…。
自分もどうして人間は生きているのだろう?目的はなんなんだろう?という疑問をよく浮かべます。僕はそうゆう疑問を持つこと自体がナンセンスであり、黙って何も考えずに死ぬまで生きていればいいと思っていたのですが、この場合僕のこの考えは、どうせ死んでしまう、宇宙論的観点、ニヒリズム的観点、進化論的観点のどれに1番近いと言えるのでしょうか?
――それは「そういう疑問をもつこと自体がナンセンス」と判断する理由がなんであるかによる。
どうせ死ぬからどんな功績も意味ないとするなら、もしも今後医療が発展して不死になったら、人生に意味が生まれるのですか?
――論理からいえば、文字通り「永遠」の命が得られたならば意味が生まれるということになるでしょうね。しかしそのような永遠を実現するためには、宇宙の消滅を阻止するような技術が必要になるのでは? あるいは永遠なる世界へ移行する技術でもいいが。
まずは前回のコメントで先生のほうから「最後もう少し聞きたい」というお言葉をいただいたのでそれについて述べたいと思います。前回私は「人生の意味」について最後に「人生に意味がないことに価値がある」と述べました。その真意としてはそう考えないとみんなは生きていないからです。もちろんどの観点からで人生の意味は変わってくると思います。例えば、子孫繁栄ならば異性との交わりのために人生はあるだとか、食欲を満たすために人生はあるだとかです。しかし、ながらそのことを毎度行動のたびに考えて人間は行っているのでしょうか。具体的に言えば、「よし、子孫を残したい。じゃあまずは女性を探そう」とか、「食欲満たそう、ごはんたべるかー」とかです。こんなことはないでしょう。つまり、こういうことを考えて人生を歩んでいるわけではないのです。場面場面で、目的と生きる意味は変わります。私が述べた、「人生に意味がないことに価値がある」は少し言い換えると「人生に意味がないかあるかを考えないことこそに価値がある」ということです。恐らく、人生の意味を考えていると人間は頭も体も追い付かなくなります。生きる意味は無限であり、0でもあります。真実は無限、虚構は0。本当は意味はあるのだけれど、ないと思って生きる目の前をこなす。ただそれだけです。「人生に意味がないことに価値がある」とはこういうここです。伝わったでしょうか。ニヒリズム的観点に少しかすっているかもしれないです。
今日の講義についてのコメントですが、なんか人間の幸福の根本を握ったような気がした授業でした。やはり、幸福は生きることと密接に関係していそうです。口では言い表せない何とも不思議な時間でした。哲学はおもろい。考えるという行為のみで世界が広がるから。
――すみません、まだ完全には伝わっていません。けっこう高度なことが言われているように思われる。後半は非常によくわかる。特に「考えるという行為のみで世界が広がるから」というコメントはすばらしい。
いつかは忘れたが授業コメントで、「私たちはいつかは死んでしまう」ということを知らずに生きれたら幸せだ、みたいなことを書いた気がする。今回の授業を聞いた後でもその考えは変わらなかった。しかし、それは人間の知性の賜物だと言われると、なんとなく人生の終わりに焦りを感じなくなった。
――ほう。
これまで生きていた中で授業で生きる意味がないということを授業されることはなっかたので今日の前半の授業はとても不思議な気持ちになりました。人生に意味がないということをポジティブにとらえると悩みがどうでもよくなるという考え方がとても素晴らしいと思いました。自分は新しいことにチャレンジするのがあまり得意ではなかったけど、今日の授業で何か新しいことを始めようかなと思いました。
――ああいうネガティブな話をすると逆にポジティブになる人たちが一定数いるというのが興味深いね。
人生の意味について、今回の授業を受けるまでは、「人生に意味はあり、それは楽しむこと」であると考えていた。
今回の授業を受けて、「人生の意味はなく、たくさん努力をして素晴らしい偉業を達成してもどうせ死んでしまうので、死ぬまで存分に楽しめばよい」ということに気づかされた。つまり、楽しむことが義務ではなく、自分の思うままに生きればいいのだということが分かった。
これからは、嫌なことがあった時は深く落ち込まず、「どうせ死ぬから」と前向きに考えて、楽しみながら生きていきたい。
――同上。
私は、中学のとき人生に意味はないと思っていました。でも高校生になってからはそう思っていると人生がつまらないなと思って外部との関係において意味を持つように考え始めました。なので、今回の講義の意味があるかないかのどちらも理解できて面白かったです。
――両方理解できると「面白い」というのが的確。
人生について客観的に見れば意味はないが、主観的に見れば意味があるように見えるというのはその通りであると思うと供に、当たり前であると思った。何故ならば客観的つまりは第三者目線で見れば、その人の人生など他人が歩むものにしかすぎないからである。自信が体験したものに対して意義があるかを問いただすことは容易だが、他人が体験したものに意義を見いだすのは極めて困難である。それは自信が体験したわけでも体感したわけでもないわけでもないから当然といえるだろう。ということは、逆に外部に意味を見いだすあるいは見いださせるのはお門違いともいえる。要するに、私は人生の意味を客観的視点で語ろうというもの事態が間違いだ。と言いたい。
加えて人生の意味は人生の最後にわかると言う説も押していきたい。13回コメントのほうで人生は旅だという趣旨のことを陳述したが、この思想はこれに生きてくる。旅というものは当てもなくただひたすらに各地をまわり、している最中は必死に前進し、時には休みを繰り返すものだ。そして目的地あるいはここで終わらそうと思った場所で旅は終焉を迎える。そして終わりを告げてからやっと今までしてきた道のりを振り返り、この旅はどういうものであったかを考える。私は人生も同じでただひたすらに生き、終わりを迎えたときに私の人生はこういう意味があったのかと思い返すものだと思う。
きっと「終わりにわかるのなら道中は適当に生きてもいい」などという人間が現れるだろう。それについては予定説のような考えで答えたい。カルヴァンの予定説とはざっくりといえば「救われるかどうかは既に決まっている。自分が救われる未来であることを確定的にわかるためにつねに励め。」というようなものである。私はこの価値観をつかい 「自分の人生が意味を持つかは既に決まっている。意味を持つという未来を確定的にわかるために人生をなあなあに生きず、日々直向きに生き続けろ。」と言いたいのである。
私は自分の人生の意味をわかることができるのは自分自身だけなのだから、信念を貫きつつ悔いのない人生を歩もうと思った。
――なるほど「人生は旅だ」という言葉にはちゃんと意味が込められていたのですね。さすがにここまで含意を読み取れませんでした。
人生の意味について考えたとき、私の人生の意味どう説明をしたらよいのかわからなくなりました。これまでの生きてきて、後悔しないように生きてきたけど、戻りたい過去があるし、辛いことがあったときには、人生は暇つぶしだから落ち込むなと自分に言い聞かせたり、生きる理由がわからなくなったときに、死ぬ勇気がないから生きているだけだなどどと思うこともあったりします。楽しいこと、辛いこと、後悔したことなど様々な経験することが人生の意味なのでしょうか?僕は頭が良くないので人生の意味に自分自身納得するような説明はできないです。これから先もわからないままでいいと思います。今は普通に就活して将来への目標立てて日々を過ごしていますが、改め考えると人生の意味って何なんでしょうね。
人生の意味については、高校生くらいの時から偶に考えるようになった。私個人の意見としては、人生は無意味だと思うし、私が存在していることも無意味だと思っている。ただ、それは人前では言わないし態度にも出さない。それは、私を産んだ親や、私と関わってくれる全ての人に対する冒涜になるからだ。
私は私が無意味だと思っているので、いつ死んでも構わないと考えている。しかし、生きていて欲しいと他人から言われたら、その人の願いのためにできるだけ生きていようとは思うのだ。進化論的観点において、愛は遺伝子の保存・拡散のために便利な感情に過ぎないということだったが、私を必要としてくれる人のために生きようと思うことも、また愛の形の1つなのではないかと思った。
「どうせ死んでしまうから人生は無意味である。」これには大いに同意する。しかし、これに納得しているからと言って、自分の人生の意味を見いだすことを放棄する理由にはならない。いつか自分が死ぬ時、私の人生は無意味ではなかったと思えるような、私の周りの人もそう思ってくれるような人生を歩んでいけたら良い。確かにこれは、私とその周りの人間という、広義の主観的な観点によるものだ。しかし、人生とはそういうものなのではないだろうか?そもそも個人の人生に対して他人がどうこう言っていいものではないだろう。その人生を生きる本人が、その周りの人達が有意味だと思える人生を生きていけたならそれでいいのではないだろうか。
――言ってはいけない真実というものがいくつかあるが、人生の無意味さもそうかもしれません。反出生主義もその一種でしょう。このことを自覚するのは大事ね。
人生の意味を考え、人間は矛盾する感情や感覚を併せ持つことができることで、感情や考えの豊かさを持つことができるのだと感じました。言葉で論理的に説明しようとすると、初めから終わりが来るという定めがある人生など、意味があるのかとも考えてしまうけれども、そうは言いつつも、何かしらの幸福感を享受したり、そもそも意味について問わなければ、そう思い悩むこともないのだと考えられたりもできるのだと学び、両方の考えを持つことができることが人間らしさだと感じました。
また、人間が価値や意味といって抽象的な概念に、どうしてここまで執着してしまうのかについて考え、それが意図せずに考えてしまっている側面があると感じ、「進化」に通ずるのではないかと考えました。
また、意味や価値のあるものが、優先すべきもの、尊いものと認識してしまいがちな人間というものへの不思議も深まりました。
――「意味」や「価値」へ執着してしまうことへの進化論的説明ほしい!
今回は「人生の意味」という比較的重いテーマを基に授業をして頂きました。人生に対して、僕は今まで「人間は結局死ぬのだから何かを頑張って成し遂げても意味がない」というマイナスイメージの考えを持つ人に多く出会ってきました。ですが「人はいずれ死ぬのだから、何か失敗をしたとしても無意味でどうでもよい」という物事を楽観的に考えるプラスイメージの考えは今回の授業で初めて聞いたので非常に刺激的な経験でした。こういったプラスの考えが今まで思い浮かばなかったのは、今までの自分が大分ネガティブに生きていたからなのかなと反省しました。
さて「人生には意味はなさそうだ」という結論に授業中落ち着きましたが、人生の意味への問いかけを没頭により阻止するのは個人的に好きな対応だと思いました。僕も人生に関して「生きていて意味があるのかな。」とか「これを頑張っても結局死ぬじゃん。」とか人生を生きる気力を失う事が多々ありました。ですがそんな時いつも自分が夢中になれる事を休憩がてらしていると、自分が人生について悩んでいた事がどうでもよくなり結局生きる気力を再び得ていました。改めて人生の意味の正解を見つけようとするのでなく、ただ必死に自分がしたい事をするのが人生における楽しみだなと再認識しました。
今回の講義では人生の意味について、意味がある、または、意味がないという立場に立って考えた。結局、意味がないという立場に立つと「どうせ死ぬ」、「宇宙論的観点」などで考えることができて、これを受け入れることによって、むしろ救いになるのではないかという考え方が面白いと思った。無意味なのだから「つらい事」「苦しい事」全て無意味とは、面白い観点で、こう考えれば、何も怖いモノなんてないとさえ感じられた。結局、自分は意味があると思っているのだろうかと考えた時に、「なぜ意味を求めるのだろう」という疑問も持ったが、意味がないということに「意味を持たせる」ことこそ意味になるということかも。いや、別のアプローチの方がいいのでは?それは、「何故人生に意味がないと考えているのに生きているのか」ということである。人生に意味がないのに生きる理由は「暇つぶし?」「楽しい?」そこには理由や意味が必ず存在しているはずで、その理由や意味が信じきれないから「疑う」、つまり人生には意味がないのではないかと考えるのではないか。これは、推論主義的に考えるとどうなるのかな…外部に意味を持たせればいいのかな。逆に、人生に意味があると信じて疑わない人に無理矢理「意味はないのだ」という思考を植え付けるのは野暮ではないかと思う。「意味がない」という確証が持てない以上、意味があるという人を意味がないという人に無理矢理変える必要はないと考える。つまり、「人生に意味がない」と捉えると「何故生きるのか」という問いにぶち当たった。どうしたらよいのやら。とりやえず暇つぶしとでも思うべきかもしれない。とても消極的で、「死んではいけない」ということの肯定にはならない気がする。なんだか悲しくなってきた。これは、無理矢理にでも意味があると捉える必要がある気がする。そこに宗教という概念が必要なのかも。意味が必要なんだ!!いや、生きることに消極的でいいのなら意味は必要ないのでは?(カニくい虫)
――相変わらず一読では何をいっているのか理解できないのだが、楽しく読めてしまう不思議な文章。推論のムーブが予想できないからかな。あるいは推論が拡散しているのか。
すべていずれ無くなってしまうから無意味であるという宇宙論的観点は少し悲しく考えすぎなのではと思いました。ストリートアートがいずれ消されるからこそ多くの人に評価されているように人生にも儚いからこその意味を持たせることができたらいいなと思いました。
どうせ死んでしまうから、人生なんて意味は無いという考えは何となく耳にすることもある。その時自分が思うのは、死んでしまうからこそ、その短い人生の中で色んなことを出来たらいいなという事です。
私もつらい時、結局最後には死んで全て無くなるのにどうして頑張らないといけないんだと思うことがあります。ですが私は人生は物語と一緒だと思っています。物語もいつか”終わり”が来るけどそれをわかった上でお話を楽しんでいます。それと一緒で人生もつらいこともあるけれどなんだかんだ言って楽しんでいます。また、本や漫画を読んでいて、とても面白い話を見つけた時、その話にはまればはまるほど”終わり”が来ることを恐れます。だから人は死ぬのを恐れるのかなと思います。逆に自分の人生がつらい、つまらないと本気で感じている人が自ら命を絶ってしまっているのではないかと思っています。
――つまり人生に桜や花火と同様に「滅びの美」を見出すということかな。自覚がなかったが私には(西洋的な)永遠への憧れがあったのかもしれない。
人生に意味があるのか。「ない」と答える一つの理由として、「どうせ死んでしまうから」というものが考えられるが、これは人生の意味を否定できるほどのものなのだろうか。人生とは、人が生まれ、生活をし、死にゆくまでのすべての時間であると私は考えるが、人生に意味はないと考える人は、恐らく、人生における最終地点、死にゆく瞬間にだけフォーカスを当てている。その一瞬の不成立のためだけに人生を意味のないものととらえてしまっているのではないかと私は思う。
――もっともである。ペットとの別れがつらいから飼わないという発想と共通している。
どうせ死んでしまうならどんな努力や偉業も無意味という考えに、私はならない。どうせ死ぬなら自分の人生をどれだけ楽しめるかゲームをやっている感覚でいる。ゲームを楽しむには何かアクションを起こさないとゲーム自体が始まらない。その何かを始めるだけで既に努力している思う。アクションの積み重ねが人生で、アクションのない人に「死ぬ」ということはないと思う。産まれてきただけでもう何かが起こっているから。
私は人生は幸せになる・生きることに意味があると考える幸福論的立場であるが、自分の考えと真逆の視点(宇宙論的観点、ニヒリズム的観点、進化論的観点)を知ることができてよかったと感じました。また、人生は無意味であるという立場で、どうせ死んでしまうからいかなる努力や偉業も意味がないという考え方がありましたが、私は死んでしまうからこそ生きているうちにさまざまなことを経験して幸せに生きなければならないと考えます。同じ事柄でも自分とは全く別の考え方や捉え方を学ぶことが面白いと感じました。
人生が無意味だとすると、悩みや苦しみも無意味でどうでもよくなり、苦しみから解放されるという部分がよくわかりませんでした。
――自分が重要だと考えている人に嫌われると悲しくなりますが、どうでもいい人から嫌われても悲しくなりません。これを他の事柄にも当てはめるということです。
「人生に意味がないことがむしろ救いなのでは」という意見がありましたが、苦しみの原因が解決されるわけではないのであまり救いにはならないのではないかと思いました。苦しい思いをしている人にとっては、意味がないという考え方ではなく、死んでしまうことこそが救いになるのではないでしょうか。
――そう、だから私レベルの苦しみはまだ甘いのかもしれない。
愛は子孫を作るために生まれた感情だと言っていましたが、それは異性愛でしか適用されないと思います。同性同士では子孫が作れないのになぜ同性愛者がいるのでしょうか。
人生の意味を④進化論的観点から捉えた際に、「愛は遺伝子の保存・拡散のために便利な感情に過ぎない」というフレーズがあった。まあ実際そうだと自分でも思っているし、事実、母性本能という言葉があるように、種の保存のために「愛」のようなもの(愛に代わる何かを上手く定義できないので愛のようなものという言葉で代用します)で次の遺伝子を守り育てる、というシステムはある。だから愛を理由にして、人生に意味はある!とは強くは言えないと思う。でも、同性の方を愛する人も世の中には存在しているし、その人たちがお互いに抱えている感情は、間違いなく「愛」だと思う。だから④は一概には言えないんじゃないかなと思った。
――同性愛を進化論的(生物学的)にどう説明するか関しては様々な説があり、簡単なことは言えない。が、たしかに愛の形もたくさんあるので純粋にすべて遺伝子の保存・拡散にすますわけにはいかないという点には同意。
進化論的観点のところで、「生き残りやすい性質が残っていく」とあったが、必ずしもそうではないかもしれないと思った。その理由は「隠す」という行為が存在するからだと考えた。有利な性質は表に出して活用していくが、不利な性質は活用されず、その存在が薄れていく。しかし、その不利な性質に対して愛着または大切にしたい気持ちなどが働いたらどうだろうか。他のものからすれば不要な要素に過ぎないが、その人にとっては重要なもの。だが、生存には不利である。そうなった場合、その内容については隠すのではないだろうか。その性質を隠したまま生活していれば、生存はできるので、その性質は残すことが出来る。ただ黙っていれば良いだけなのだから。
また、平等・多様性という考え方が広まってきている現代についても似たようなことが言える気がする。平等や多様性という考え方は、どんな人に対しても、その人の性質などを尊重するということである。その人の性質が生存に不利であろうとも、他の人たちが協力することによって生存することが出来るようになる。しかし、それではその人自身の力によって生存しているのではなく、周りに支えられて生きているということになる。つまりは、依存的な生き方になってしまっているということだ。
このような状況において危惧されることとしては、時間の経過とともに、支えてくれる人たちが少なくなっていった場合、あるいは居なくなってしまった場合、その人たちは自力で生きて行けるだろうかということである。結局は、進化論に沿った結末になるのではないだろうか。
――これは上のコメントにもかかわることで、一見すると生存・繁殖に不利に見える性質が一定数出現するのはなぜか、という問題がある。純粋に遺伝子コピーの「エラー」とも言えず、それ自体にも進化論的な説明がなされることがある。
江戸時代の人たちは今の現代を発展させるために意味があったと授業で聞いた。そう考えると、戦争で戦った人たちも現代の発展や世界状況に貢献したと考えられる。しかし、それは結果から導いた意味なので未来的には、その意味は変わるかもしれないと思う。例えば、江戸時代の文化・文明が現代を発展させたとしても、今後それを受け継ぐ者がいなかったり、維持されなかったりすれば、その文化・文明は衰退し江戸時代の人たちに意味を見出せなくなる。この考え方は、ネガティブに考えることもできるが、ポジティブに考えることもできる。失敗したという経験も、将来的に成功しているという地点にいるときは、“結果的”に意味があったということができる。しかし、時間によって変化するので、それを維持することは必然的に必要となる。
――まさに、意味はコロコロ変わる。「塞翁が馬」的に。
今回の講義で、「人生は楽しむことができればいい」という話があった。自分自身も野球が好きなので、野球がでいればそれでいい、野球をするために生きるんだ、と考えていた。しかし、辛いことや嫌なことがあるからこそ、幸せをより感じることが出来るのではないだろうか。夏休みが楽しく感じられるのは、普段学校があるからである。(学校を苦に感じない人は例外だが。)逆に、楽しいことばかりしていると、さらに楽しいことを追い求めてしまい、いつまでも満足できなくなってしまう。楽しいことと辛いことのバランスをうまくとりながら生きるのがいいのではないかと考える。ここでは、「人生は楽しければいい」という意見を否定しているわけではない。楽しさをより感じるためにはどうするかを述べたので、むしろ肯定している。
幸せを感じる秘訣は何かという問いに対して、好きな名言がある。老子の、『もし落胆しているのならば、あなたは過去に生きている。もし不安ならば、あなたは未来に生きている。もし平穏ならば、あなたは今を生きているのだ。』という言葉である。他のことを心配しすぎず、完全に‘’今‘’に没頭していれば、幸福を感じるのではないかと思った。
今回の講義では特にフローの話が興味深かったです。フローとは集中してなおかつリラックスすることで自我や時間感覚が消失する状態の事をいい、フロー状態の直後は圧倒的な幸福感と充実感が得られます。似た言葉でゾーンという言葉がありますが、それは極限まで集中した状態でアスリートでも到達することが難しいそうです。以前、室伏広治さん著「ゾーンの入り方」という本を読んだのですが、その本には室伏さんが実際にゾーンに入った時の経験が書かれてありました。ゾーンに入ると、体とハンマーの回転スピードは加速しているのにすごくゆっくり感じたり、ハンマーの回転で遠心力が300キロ以上かかるのに重さを全く感じなかったりと、いつもとは違う感覚になるそうです。また、アテネ五輪の金メダルをかけた最後の投擲のシーンで、本番前、客席の大声援により集中できないでいた室伏さんは会場の芝生の上で大の字になって星を眺めたそうです。そうしているうちに耳には何も聞こえなくなり集中状態に入れたそうです。集中するためには、集中しよう集中しようと考え込むのではなく、気持ちや体をリラックスさせて一つの事に取り組むことが大切であると学びました。フローについてもっと知りたいと思ったのでこれをレポートのテーマにしようと思います。
私は部活でバスケットボールをやっていて、その時にフロー状態に入ったようなことがある。その時は自分の意志なのかわからないくらいぼーっとしてるのにものすごく頭が回って、プレーが円滑に進んだのを覚えている。私はあの時自分の意志でプレーしていたかといわれるとわからないなと思った。なぜならその時のことは調子が良かったなと思うだけで、細かいプレーについては何も覚えていないからだ。あの時は自由意志であったのか、もし自由意志でなかった場合、私を動かしていてのは誰だったのか、疑問に思った。
――たしかに、フロー状態のときって自由意志がない感じがしますね。
フローに入れるものを仕事にしたいとは思いますが、科学的に人がフローに入りやすいものとそうでないものが分かれてて、結局フローに入りやすい仕事は人気が出て倍率が高くなるのではないかなと思いました。逆に誰もやりたがらない仕事は世の中にあふれてしまうのではないかと思いました。
――どうだろうね。フローに入りやすいものに人気が集中するわけでもない気がする。人にはそれぞれフローに入りやすいものがあるのではないだろうか?(完全に主観的な印象だが)
没頭により人生の意味への問いを阻止するという考え方も紹介されましたが、それは一時的には効果があるとしても限度があるのではないかと私は思いました。なぜなら、人間は一生何かに没頭することができるほどエネルギッシュでストイックな生き物ではないし、必ず立ち止まって人生の意味について考えてしまうからです。
――そうなんです。私自身どこかにごまかしがあるように感じております。さてどうするか。
今までの内容は、どこか難しく全体像をつかむのに骨が折れかけたが、今回は自分のこれからの人生を考える中で一つの分岐点になった。
特に印象的だったのが、チクセントミハイのフローという概念だ。来年から仕事をするにあたって、会社としての目標が明確かどうか、業務に対する周囲からのフィードバック、成長環境はどうか、自分の持ち合わせているスキルでチャレンジができるかを考えた。その際に、上記のすべての観点において、フローの状態に入る条件は満たされているように感じる。残すは、来年実際に仕事の中に身を置くことで、自分のスキルが遺憾なく発揮できるかどうかにかかっているかもしれない。
――すばらしい。
ここまで、哲学の授業で様々なことを学んできて、突き詰めて考えたいと思うテーマが何個も見つけられました。反対に、この中からレポートに書くテーマを一つ見つけなければいけないので、大変悩ましいなと思っています。まずは、自分が興味を持ったテーマについて文献をあたってみて、そこからどのテーマなら一番レポートが書けそうか考えてみたいと思います。そこで、色々な文献を読んでみたいと思うのですが、文献を探すことや読むことに関して何かポイントなどありますでしょうか。特に、文献を読む上でのポイントがあれば教えていただきたいです。提出まで時間が限られているため、できれば効率よく文献を読みたいのですが、大体哲学系の文献は、分量が多く、難解な部分も多いというイメージがあり、なかなか手を付けられずにいる状態です。
――一般的には以下のように進むのが効率的かつ安全です。
① 当該分野の入門書・解説書・教科書を複数冊ザックリと読む:「複数」「ザックリ」というのがポイント。アマゾンで検索して上の方に出てくるものでよい。多くの本で繰り返し登場する人物や概念を把握し、その業界では誰のどのような研究が重要とみなされているかの相場観をつかむ。レポートではこの段階で十分。
※逆にいうと、相場観を知らない状態で、ネットでキーワード検索してたまたま出てきた論文に依拠するのには危険が伴う。クオリティが保証されていないので。
② 上のプロセスで把握した「重要」なテキスト(原典)・研究書・論文にあたる:すぐにも「ほとんど理解できない」という壁(絶望)を感じるはずだが、そういうものなのでどうにか耐える。卒論以上ではこの壁を超えたかどうかが問われる。入門書・解説書・教科書をきれいにまとめただけでは高くは評価されない(「可」にはなるか)。1冊(本)でもいいので、一筋縄では理解できないテキスト(原典)・研究書・論文に長期にわたって付き合うという経験が大切。
※この段階では、業界にとっての重要なものや相場観を把握している必要がある。「いろもの」ゆえに、あるいはクオリティが低いがゆえに理解できないという場合も往々にしてあるから。その意味で初心者は古典的なものやメインストリームから進んだ方が無難。いや一番いいのは先生に聞くことだな。
→この項目は一般的に有益なので「論文・レポートを書く際に」コーナーにも転記したのでご了承ください。
今まで疑問に思っていたのですが、先生は他の哲学者の意見は素晴らしいとか、感心したことはあるのですか。
――さて、どうだろう?ちょっと考えてみます。
授業の終盤で「責任ゲームが可能であるためには自分や相手に自由意志がなければならない」とありましたが、なぜ自由意志が存在する必要があるのでしょうか。
――「責任」という概念が成立するためには自由意志が存在する必要があるからです。
客観的には自由意志は存在しないという結論に至りましたが、そもそもの自由意志の定義は正しいのでしょうか。定義された自由意志は要するに、何を(他行為可能性)どうやってするか(自己コントロール性)を自分で決定できるということだと思います。ただ、自由意志が何かをつかみ切れていないがゆえに幻想を抱いているだけかもしれませんが、さらに条件があるような気がしないでもないです。
――まさに自由意志は他にも定義の仕方があります。例えばホッブズは「外的強制がないなら自由だ」と考えています。そのため、私のなかに決定論的に「プリンを食べたい」という欲求が生じ、それが何にも邪魔されなければ自由に行動したということになります。こうしてホッブズは決定論と自由を両立させようとしています。
自由意志で気になったのですが、脅しのような強い圧力がかかった状況で行った選択は自由意志と言えるのでしょうか。
――上に関連しますが、ホッブズならば自由意志によるものではないと言うでしょう。あくまでも脅されたとしても最終的には自分で選択した点を重視する者なら自由意志によるものであると言うでしょう。つまり、自由意志の定義の仕方によります。何となく身も蓋もない言葉遊び感がありますが。
今回の授業を受けて私は人が選択した時一人称視点では自由意志にしたがって、他者視点では偶然や必然又は自由意志にしたがって、科学的視点では偶然や必然にその選択をしたと見ることが出来ると考えました。そこで疑問が湧きました。どうして他者の自由意志が確認できないにもかかわらず社会ではすべての人に責任と義務があるのかというものです。私の予想では科学的視点ができる前からの社会制度の名残だと考えましたが先生の考えも教えてください。
――私も大枠そのように考えます。他者に自由意志を確認することはできないけど、他者とスムーズかつ安定的に協力するために責任・義務という概念でお互いに束縛するのが有効で、そのために自由意志を措定したという感じ。
今回の授業では、自由意志と決定論(すべては因果で決まる)の対立で、次回の授業(人生の意味)に繋がるような気がした。因果を超越する力を人は持っていると信じたいが…全てが因果で決まるなら、それこそ人生の生き様は決まっているということではないかと思うからだ。でも、人生の因果の全てが自分に分かるわけではないから、神は知っているかもしれないが、分からないことを楽しめばいいのでは?そういう意味では何でも分かる神様はかわいそうだなと思う。楽しくなさそう。分からないことが存在することが救いになるような気がする。因果が分からないからこそ楽しめるのではないかと思う。ある意味、思い通りにいかないということも分からないから起こることではないかと思う。全知全能ならば、思い通りである以前に、もう何が起こるか知っているのだから。則ち、人の世界が「決定論か」「自由意志が存在するか」を考えることは素晴らしいことだけれど、人間にとって「分からないこと」「不確定な事」が存在する以上、「人生は(世の中は)決定論か」「人生は(世の中は)自由意志があるか」を決定することはできないと思う。(決定することができないから自由意志は存在できるのかも)しかし、すべてが因果で決まっていると知っている世界(人生)は個人的に嫌。予想外なことが起こらないと楽しめないと信じている(感じる)。ある意味自分なりの人生の意味になるかもしれない。人生の意味は思い通りにならないこと!?でも、面倒なことはそれはそれで嫌だな。(カニくい虫)
人生の意味は自由意志によって決められるのではないかと思います。「人生の意味は何か」と人に聞くと、「幸せになるため」、「生きる意味を見つけるため」、「使命を果たすため」など、いろんな返答が返ってきます。人生の意味はひとそれぞれ違い、個々の人間が意味をなんとなく見つけて決めています。よって、自由意志が存在するなら、人生の意味も個々の自由意志で決まるのだと思います。これらの回答が決定論的に決まっていることも考えられますが、世界が決定論に支配されている場合、人生は必然的に決められてしまいます。すなわち、決定論に従うことが人生の意味ということになります。
――二人ともおもろい。
今回の講義では自由意志の存在の有無について考えました。授業のまとめでは客観的な視点では自由意志は存在せず、主観的な視点では自由意志が存在するとおっしゃっていました。ですが自分で意志を持ったとするとその意志はどうやって持ったのか。意志を持とう、という意志を持ったとも考えられる。そうなるとこれは無限後退し、意志を持つ主体が現れないため、自由意志は存在しないのではないかと思いました。
――たしかにこのような概念的な問題もありますよね。
小さい頃に、自分の考えや判断は全て決まっていて、誰かにずっと見透かされてるのではないかという考えが芽生え、急に変な踊りをしてみたり、帰り道に急に曲がってみたりしてその世界線から抜けようと頑張っていた。高校で不確定性原理を習い、ラプラスの悪魔という考えが否定されているのを知り、やっと安堵できた。しかし、今回の授業でそれでも自由意志が復活したとはいえないと言われ、納得したのと同時に、やっぱり変な踊りをして運命に争わなければいけないのかと思った。
夜中にお腹が空いてお菓子を食べようか食べまいか何度か繰り返し悩んでいるとき、自分では考えているつもりでも結果はすでに「食べる」に決まっていたんですね。そういわれると運命に背きたくなる気がしますが結局食べてしまいます。でも、もし食べなくてもそれも食べない運命であり、私の行動すべてが運命として定められているとなると運命に背くことは哲学的には不可能なことなのかなと思いました。
授業で自由意志があるかどうかという話を聞いてから、普段の生活で自由意志によって行動しているか意識するようになりました。バイトで料理を運んでいるときに、これを運ばずにこの場で食べ始めることもできるし手を離せば落とすことだってできるけど、自分の意志でこれを運んでいるんだと考えたりしました。でも、実際に運ぶことを放棄するという選択肢は私の中にはなかったので、やっぱり自由意志は無いのかなとも思いました。
少し子どもっぽい考え方ではありますが、私は神様が全て支配しているという思想を信じている節があります。神様がいるかどうかはよくわかりませんが、何事も既に決まっていたことだと思うのです。例えば、親や友達です。幸せなことに親や友達にはとっっても恵まれています。小中学校の友達に関してはただその地域で生まれ育って、たまたま学校のクラスが同じだっただけで、こんなにも同じ気の合う人たちに出会えるのって奇跡にしてはその奇跡が起きることが多すぎます。ほぼ毎年新しい友達ができるわけですから。
――自分の人生を奇跡と思えるなんてうらやましい!
「ハードな決定論」がいいなと思いました。ペレブームのように功利主義的な考えを用いれば大きな混乱のようなものは起こらず、責任のような精神的な負担を減らすことができるためこの考え方は幸せにつながると思います。余談ですが、私は「意志は【本能】と【それまでの経験】と【その場の状況】の3つの要素によって決まる」と考えました。
――なるほど、もっと展開してほしい。
今回は自由意志について考えた。私は、私たちは常に自分たちの意思、ここでいうと自由意志に基づいて生活していると思っていた。しかし、ベンジャミン・リベットの実験の話を聞いて、自分たちの意志は脳の働きで左右される、つまり脳の働きの一部に過ぎないのかもしれないと考えたら、自分の意思だけではなく、喜怒哀楽等の感情も脳の働きの一部に過ぎず、そこに個人の自由意志は存在しないのかもしれないと思った。一方で、人体の中枢は間違いなく脳であるため、意思や感情というものも、脳に支配されていて当然なのではないかとも思った。となると、「私」という存在の本質は脳にしかないのでは…という考えに至ったが、どうなんだろうか。これは個人の本質が、内面的な部分にあると仮定した場合の話になるため、外面的な部分に本質があるならば否定される話ではあるが、個人の本質が外面的なところにあるとはとても思えなかったので、このような結論(?)になった。
――「個人の本質が外面的なところにある」という可能性をそんなにすぐに客観しないで追求するといいかもしれない。
さきほどの実験では意識について全面的に否定していると自分は捉えた。また、この実験が妥当性なものなのかも疑っている。「手を挙げよう」と思った瞬間の時刻を覚え、その瞬間に手を挙げるということはとても難しいように感じる。実際に、自分も時計の秒針をもとに試してみたが難しかった。この意見が主観的なことは承知の上である。しかし、あまりにも複雑で難解な要求をされている実験のように感じた。自分としては、「手を挙げよう」と思った瞬間の時刻を報告したのではなく、「あと2秒たったら手を挙げようと思ったのではないか」と思った。そう考えれば、「手を挙げよう」と思った時刻よりも行動の指令を出す脳の方が速く反応するのは妥当ではないか。
――まさにリベットの実験には賛否両論さまざまな議論があります。素朴に本人の報告で良いのかという気がしますね。
今回の授業で紹介された本人の意志より先に脳が活動しているという趣旨のベンジャミン・リベットの実験は大変興味深いものでした。この実験を参考にすると決定論を支持するのに無理はなくむしろ科学的に正解ではあるかもしれませんが、私は自由意志は否定できないものかつ否定してはいけないものであると思います。歴史を遡るとその理由は明らかであるでしょう。近代ヨーロッパやアメリカなどでは人々は血を流してまで自由意志を獲得しました。また、多くの国の憲法などで自由意志は最も尊重されているものの1つであります。人々による多大な努力のおかげで勝ち取った自由意志は保たなければならないと私は考えます。逆に、誰かによって支配されて自由意志のない世界を想像するととても恐ろしいと思います。
――自由(意志)を勝ち取ったという観点、自由(意志)は否定してはいけないという規範的な観点はとても興味深い。徹底的に社会的な観点から自由意志の問題に取り組むというか。
客観的視点(科学的)と主観的視点の両方をとれることが人間の特徴という点に少し疑問を持ちました。私は、客観的視点(科学的)を本能、主観的視点を知性ではないかと思ったので、ある程度知能がある動物であれば両方とれるのではないでしょうか?
――ほほう。
私は主観的な見方は文系的視点、客観的な見方は理系的視点のように感じました。2つの矛盾する視点のどちらでも取ることができるのが人間の特質であると仰っていた通り、文系理系どちらが正しいというのがないようにそれぞれの視点をうまく利用していけることが人間を人間たらしめる所以なのではないかと思いました。
自由意志への懐疑として挙げられていた因果的決定論について、大学受験直前に、先生が「結果はもうこの時点で決まっているんだ。今からどうしようが結果は同じなんだ。」と言ったことを思い出しました。先生はカルヴァンの予定説を基にそうおっしゃったんですが、因果的懐疑論と通じるのでないかと感じました。それを聞いた時、もうどう頑張っても結果は変えられないんだと負の感情を持ってしまったので、運命や必然性については否定したいと自分としては思います。ただ、科学的視点と主観的視点については違いがあり、自由意志が存在するともしないとも考えられるけれど、状況によって都合よく考え方を使い分けることが、人生を生きる意味で賢いのでないかと感じました。
――そう、この意味の「賢さ」って厳密にはどんな意味の賢さなんでしょうね。上2つのコメントにも関わりますが。
私にとっての人生とは旅です。
――よく聞くのですが、具体的にどういう意味なんでしょうね。
人生の意味についてですが、人生に意味はないと思いました。
生物の目標は「皆死へ向かっていることから、死ぬことである」という考えや、「幸せになること」や「子孫繁栄」などがあると思います。しかし人は本能的に死にたいとは思わないし、目を瞑れば嫌な記憶だけが蘇るし、この日本では少子高齢化現象が社会を蝕んでいます。また、死んだら何処へ行くのかという議論もよくされますが、私自身はどこへも行かずただ意識が消えるだけだと思っています。つまり、人間には高い知能があり、意識を失ったことがほとんどないので、例え死んでも意識はどこかで残り続け「考える」ことが出来ると思い込んでいるのだと思います。人間は植物に筋肉と脳がくっついただけであり、死ねば植物のように枯れて土に還るということです。そこら辺の雑草が枯れてもその雑草が「天国へ行く」という想像が出来ないのと同じで、ただ終わるのだと思います。
つまり私たちの人生も植物と同じだと思っていて、意味はなく、ただエネルギーの循環により行動することや考えることが出来ることから、「人生の意味」や「死後の世界」や「目標」があると思い込んでいるのだと思います。
少なくともそう思い込んで、何にも焦らずにただのうのうとなんでもない人生を歩むのが幸せだと思います。
人生の意味とは、ないと思います。何故なら、意味という概念自体、人間が生み出したものだから、意味の誕生以前にある人生に意味など存在しません。サイコロ振ったら1がでたのとおんなじで、意味はなく、事象として存在しているだけです。ですが、我々は存在しないものをあるかのように思い込めるので、例えば、杉原千畝、シンドラーの人生は、多くの命を救ったから、意味があったとか妄想できますが、本当は、意味なくて、彼らがユダヤ人を救ってなくても、ただ救ってないという事実がのこるだけです。ということで、人生は意味ない。
私は人生に意味なんてないと思います。そもそも人以外の生き物においても意味なんてないと思います。生き物の誕生はただの偶然なのでそこに意味など存在しないと思います。
私自身、人生に意味はないと考えています。理由としては、どのような生き方をしようが人間の結末はすべて同じだからです。その結末というのは死ぬことです。どれだけ偉大なことをしようが、どれだけ周りから慕われていようが、どれだけ反社会的な行動をとっていようが、最後には死んでしまいます。死に方に差はあっても死ぬという結末だけは変わりません。どんなことをしても最後に自分の手には何も残らないのです。これらの理由から私は人生に意味はないと考えています。しかし、少し考え方や見方を変えてみるとどうでしょうか。最初の考え方は、あくまで自分のことしか考えていません。例えば、人生の意味を求める対象を自分だけでなく周り、つまり世界にまで広げてみましょう。自分の行動は少なからず周りに影響を与えます。偉大なことをすれば世界を変えてしまいますし、他人の生死にかかわることもあるかもしれません。このように考えた場合、結果の良し悪しはともかくその人の人生は世界に影響を与えているということで意味があるかもしれません。
まとめると、自分だけで考えた場合は人生に意味はないと思いますが、世界全体で考えた場合は意味があるものになるのではないのでしょうか。
少し話がそれますが、人生とは何でしょうか。いろいろな考え方があると思います。私個人としては、人生は長い暇つぶしなのではないかと考えています。暇つぶしというものは基本的には意味のないことのような気がしています。暇つぶしの例としてソシャゲがあげられると思います。ソシャゲはいずれ消えてしまう可能性があるにもかかわらず、ハマって長い時間プレイする人がいます。人生も似たようなものではないでしょうか。始めに述べたように、どのような人生を送っても自分の手には何も残りません。この点で暇つぶしと似たところがあると考えました。要するに、人生は意味のないことだとしても楽しめればそれでいいのではないかということです。
――「自分だけで考えた場合は人生に意味はないと思いますが、世界全体で考えた場合は意味がある」
はっきり言って意味はないのだと思います。何をもとにして意味の有無を考えるかにもよると思いますが。意味がないと思って生きることに価値があるように感じます。
――最後もう少し聞きたい。
我々は親のエゴによって生まれた存在なので我々の生きる意味は親や親の望むモノのためということになります。少なくとも子供は当人にとっての人生の意味はないと思います。
――本人にとっては意味はないが、生み出したものにとってはあるということか。
人生は楽しむものだと思います。「死んでももう一度同じ人生を歩みたい」と思えるような充実した最高の人生にしたい。
考えたこともないですが、私自身は不老不死を望んでいる立場にあります。その理由は、現代には娯楽が溢れており、今の我々はそれら一つ一つを贅沢に楽しむ時間が無いからです。そもそもの話、無料のコンテンツがあまりにも充実しすぎていて、娯楽にお金を使う必要がもはやありません。極端な話、YouTubeで一生分の暇を潰せるんじゃないかとも思っています。ここまで書いてきた通り、私にとっての人生の意味とは、楽しいことをいっぱいすることにあると思う。そのために、私は自炊で野菜も肉も米もバランスよく食べているし、大学で勉強してAIで労働の全てをなくそうとも夢見ています。でも私の意見はあまりにも極端で、人生の目的そのものが人それぞれなので何とも言えません。人生の目的が無い場合は...どうなんでしょうかね汗
「人生の意味」に関して、私は、幸せを獲得することだと考える。生きているうえで、幸せなうちは、「人生って?」や「生きるって?」ということは考えない。しかし、不幸や苦労を味わっていると、それらの問いについてじっくり考える。それは、困窮しているとき、いじめにあっているとき、いきがいを失ったときなど、誰だって、「自分って生きている意味があるのだろうか」「自分の人生の意味は?」について考えている。それで意味を見いだせない場合に、自殺をしたり、反対に人に危害を与えたりする。「苦あれば楽あり」のことわざのように、苦労をすることで、幸せを獲得できるのである。苦労すればするほど、幸せを多く獲得できるのだろう。それは、苦労していなければ、幸せということが当たり前のことのように思えてしまうということである。苦労しなければ、本当の幸せは獲得できないのである。
――いくつか重要な論点が混ざっている。
「人生の意味」について生物学的には子孫を残すことや繁栄させることになるような気がしますが、私個人としては自分の人生だから自分が楽しむためではないかと考えました。
「人生の意味」は、親から受け取った命のバトンを次の世代につないだり、(あえて)つながないことだと僕は思います。次の世代につなぐのはそのままの意味で、つながないのは生態系のTOPにいる人間は、自分たちで殺し合い、数を減らさないと生態系のバランスが崩れるので、あえて数を増やさない(もしくは減らす)のをやらなければいけない人がいると僕は思っています。この目標は人間としての「人生の意味」で、楽しんだり、好きなことをして人生を華やかなものにするのが個人としての「人生の意味」だと思います。
人生の意味は、生きている「自分」という命に様々なすばらしい経験をさせる、すなわち、楽しむことであると私は考える。現在私たち人間は、一人一つずつ、生きる権利である命を授かっている。その命をどのように使うかはその人次第であるので他人に左右される必要はない。しかし、動物である以上、可能である限り、子孫繫栄は生きているうちに果たさなければいけない。したがって、子孫繁栄以外のやらなければいけないけどやりたくないことは、やる必要がない(例:行きたくない同窓会に行く)。「自分」という命に様々なすばらしい経験をさせるために考え、積極的に動く必要がある。
どうせ死ぬなら、人生は無意味という考え方は哲学的には正しいが、私は自分の人生という作品をどういう個性的なものするかを楽しく考えることが本質であると思う。なので考えることが嫌な人は死んでよい。
私は人生に意味があると思いますが、それは初めからあるものではなく人間が死ぬ直前に自分の人生にはこんな意味があったと自分で主観的に決めるものだと思っています。なので人間は人生の意味を見つけるために生きているのだと思います。
――このような回想的に作られる意味なるものは推論主義的にも興味深いものです。
「人生の意味」については真剣に考えたことが何度もあります。「自分は何のために生まれてきたのだろう」「自分の人生の目標とは何なのか」「自分は生きているうちに何をしなければならないのだろう」などいくつもの疑問を抱えていました。しかし、「人生の意味」について書かれたある本を読んでなるほどと思ったのを覚えています。今回、「人生の意味」について書くにあたって、改めてその本を読み直してみました。その本とはちなみに戸田山さんの『哲学入門』という本です。ここでは、「人生の意味」について自分が個人的に好きな考え方を再確認したいと思います。まず、何が何でも人生に意味を見出そうとすることは望ましいわけではないということです。自分は以前、「人生の意味」について何としてでも見つけなければ生きていていいのかとなぜか焦っていたので、この考え方は正直衝撃的でもありました。それよりもむしろ、人類の進化の産物である、一歩引いて眺める「メタ的態度」によって考えられる人生の無意味さこそもっとも人間的なものの一つではないかということでした。面白いのは以下の記述で、「自分の人生に対する真剣さ、懸命さを一歩引いて眺め、「実は下らないことをやってるな。何をやってるんだオレ」とクスッと笑い、また自分の人生に復帰して、真剣に生きていく。ネーゲルは、そのときの我々の真剣さには「アイロニカルな風味が加わっている」と言う。」この発言を聞いて少しホッとした気持ちとなりました。無理に人生の意味を求めなくたって、安心して人生を生きていけると思ったからだと思います。
――私も戸田山さんやネーゲルの「アイロニカル」の部分をとても重要な要素としてお話するつもりです。ただし、戸田山さんの「アイロニカル」解釈というか結論には問題ががあるということは山口尚(2019)『幸福と人生の意味の哲学』(トランスビュー)で学びました。
前回のコメントで「下っ端でいたい」と書いたら「権力者に意味を占有されるのは我慢できるか?」と返されましたが、我慢するとは言っていません。意味に対して納得がいかなければ異議を申し立てます。それでも変わらないとい、もしくは大多数が納得しているというのならばあきらめます。我慢はしません。
――なるほど、まさに前回の白川の解釈(意味づけ)にこのように異議申し立てできるということね。
この前、県立図書館で先生が書いた本を見かけた気がするので、レポートを書く際には、目を通してみようと思います。先生の本は難しい感じでしたので、哲学の入門書を少し読みました。
――調べてみたら若狭図書館の「あいさつ・話し方」コーナーにあるらしい。笑える。
授業の初めに、“30年後くらいに見返す”と言いましたが、このサイトはそれほど残る物なのですか。もし残るなら、もう少しコメントに力を入れようと思いました。将来見返し、あの時の自分はこんな考え方をしていたのかと、思い出に浸りたいと思います。
――googleの意向によります。残ればいいですね。「人生の意味について若者らしいこと言っているね~」とちょっと恥ずかしく思い出せればいいですね。
推論主義とは何か、について推論することで推論主義の理解を得られる。難しいです、、。みんなのコメントもいつも見ているのですが、すごい面白い考え方をしてる方ばかりで、そのコメントでより授業の意味が深まります。
――他人の推論を自分に取り込めば自分の理解にしてしまえるかも。
僕は今までのコメントシートに、講義内容から導いた帰結を書いたことがないので、講義内容を理解していないと考えられますね。そんなに簡単に理解できるものだとは思っていませんが、生きていく過程で理解できればと思います。
――私もあまり自覚していなかったが、授業内容から推論している人を取り上げる傾向があるかも。
私はこれまで、言葉は美しいものだと思っていた。本を読むのが好きで、ある好きな作家が新作小説を出せば欠かさず買う。その作家を好きになったのは、言葉の紡ぎ方が好きだなと思ったからだった。今回の講義の内容のように表現するならば、私はその作家の作品にコミットしたのであろう。そういう、文学作家が使う言葉は色々な世界を見せてくれるし、何気ない日常の描写がひどく特別なものに感じられたりする。そういう点で、私は言葉に美しさを見出していた。一方で、今回講義で出ていたように、人を蔑視するような言葉や、状況やそれを言った人によって意味が変わってくるような言葉など、お世辞にも綺麗とは言えない部分もある。そのあたりは言葉というものの危うさでもあるのかもしれないと感じた。自分の言葉が受け手によって違った意味で捉えられるかもしれない可能性、善意で言ったことが悪意として捉えられる可能性、そういったものを意識しながら言葉を使っていくよう配慮しなければならないのだと思う。また、言葉はきっと、危うさを内含しているからこそ美しい面が際立つのだろうとも思った。そして、まだ見えていない側面というのもあるかもしれない。今見えている2つの側面と、まだ見えていない側面の双方を意識しながら、自分らしく言葉を使っていきたいと感じた授業だった。(あまり哲学的でない内容のコメントになってしまい申し訳ありません…)
――私は嫌いなものに注目してそれを研究対象にしてしまう傾向があるので、こうなってしまいますね。関係ないけど、健康的な美しさよりも(おっしゃるような)危うさを内包した美しさの方が好き(どうでもいい話なのですが)。
今回の講義では、白川教授にとって、人間社会の面倒な事を推論主義を用いて解き明かす事は楽しいことだと分かりました。言葉の意味は推論で果たす役割で、意味を理解するためには推論ネットワークが重要であることは分かったのですが、これは裏を返せば推論ネットワークが分からなければ言葉の意味が分からないという事だと思います。推論ネットワークを判断するシステムはやはり自分たちで経験を積むしかないのでしょうか?経験していく中で、経験した人のコミットメントを整理していくしかないのでしょうか。というか、精神病棟の人々の例が紹介されていましたが、これは人間社会の一般的なコミットメントとは全く違うコミットメントが存在していると思います。「俺は宇宙人なんだ‼」「私は全知全能の神だ!」こんなふうにコミットする人達が集まるなんて、ある意味創造的なのかもしれないと感じました。思えば僕たちは教育という一定のシステム(自分はこのようなシステムが社会のコミットメントをつくるのに一役買っていると考えている。)に組み込まれて、次は就職への修行のようなものを行っているようです。こう考えると、精神病棟では、一般的なコミットメントではない、全く新しいコミットが存在し、日々そのコミットが生まれている「コミットの製造工場」なのではないかと個人的に考えてしまいました。推論を生み出す源泉が精神病棟にあったら面白い。ただの妄想に過ぎないのかもしれないけれど、社会は形式化されすぎているのかもしれないと感じました。それにしても相手のコミットごとに経験を積んで、推論を深めていくしかないのであれば、様々なコミットが存在する精神病棟などの人々をコミットし尽すのにどれくらい時間がかかるのだろう?凄く興味深いと自分は感じた。(カニくい虫)
――推論主義における推論ネットワークは、おっしゃるように形式化できない「実質的推論」のネットワークなのですが、すると、どうしても具体的な経験が必要ということになるかもしれません。この事実をどう捉えるかなのですが、私はこの非形式性をポジティブに捉えています。まだ人間がAIやロボットに対して優位に立てる領域を残すことになるから。推論主義は一方で、AIやロボットとのコミュニケーションを可能にする立場なのですが、実質的推論という非形式的なものを強調することで理解力において人間に優位性をもたらす、なかなか単純ではない立場と言えます。
理解と共感・同意が別々にある場合と理解と共感・同意が一緒にある場合の状況の違いはなぜ起きるのですか?ただ単に区別しているだけですか?
――簡単にいえば、話していて気持ちが良かったり楽しかったりする場合は理解と共感・同意が一致する状況で、そうではない場合は両者が区別される状況です。
推論出来れば理解できているというのは感覚的によく分からなかった。別の授業での課題で最近の技術の将来について推論せよというものがあって、自分でも何を書いてるかわからなくなりながら何とか終わらせました。そんな状態でも理解はできてるということになるのでしょうか?もしくは推論を、そもそもできてないんでしょうか。
――こんなことを言うのもどうかと思いますが、推論主義的には、適切に推論・理解できていないということになります。もし課題の点数がよければ、推論主義の反例ということになるので、その場合はお知らせください。
今回の講義を聞いて、推論主義の面白みを共感しました。サッカー部に所属してきて、キャプテンの話が身にしみてわかります。例えば、先輩方が「トンボ変わるわ」と言ってこられたので、変わると同年代の友達に「なんで変わったん?そーゆーのは大丈夫ってゆわなあかんで。」と言われました。こんなことがあったのですが、私は「ん?」と思いました。その様に言われたので変わっただけだと。しかし、長年やっていくと気付き始めました。何か変わるべきではない雰囲気があるということに。恐らく、それが推論主義の空気、権力なんだと思いました。各々の状況において規範=推論をいちいち把握しなければならないということは難しいなと思いました。ここから分かったことは推論主義というのはネットワークも重要だがその人自身の経験にも左右されるということです。場数を踏めば踏むほど言葉の意味を把握するための適切な判断を養うことができるのだと思いました。しかし、逆に思ったことは経験で判断するのならば何か自分なりの言葉の法則性を見つけているのかもしれません。それにあてはめて判断しているのならば、果たして推論といるのでしょうか。形式的なものになることは回避できない気がします。しかし、やはり少しは経験の影響を受けていることは間違いないでしょう。
――現実にもあるのね!
今回の授業で、言葉の中には、そのままの意味で受け取ることができない場面が往々にしてあるということを哲学で扱っているということを知っておもしろかった。
物事をはっきり言わないというのは日本人特有の文化なのではないかと思う。つまり、人に関する問題なのではなく、日本人という限られた条件における問題なのではないかと思った。すると、この問題は人全体における一般的な見解を述べるというよりも、「日本人というのは、こういう人種でした。」という結論になってしまうのではないかと思う。これでは、日本・日本人について研究している人、もしくは日本人、日本・日本人に詳しい人などの人でしか考えられない問題なのではないかと思った。つまり、これら以外の人に、この問題を投げかけたとしても、「いや、私は日本人がどういう人間か知らないので分かりません。」と言われて問題の解決に進まない。だから私は、この問題は日本の文化の影響を受けている者に関しての問題だと捉える。
では、言葉における空気の読み取り(推論)に関して考えたいと思う。ここで、言う『空気』とは、雰囲気・言葉に隠された本当の意味とする。空気は授業で教わるものではないし、全ての人に対して当てはまるものでもない。そもそも、空気の読み取りは学問ではない(哲学を除いて)。だから、疑問が生じてしまうのだろう。
ここで、日本人が遠回しに発言する理由について少し調べてみた。すると、文献[1]によれば、日本人は集団で生活してきたため、調和を大切にしてきたと述べられている。そこで、集団の和を乱さないために、遠回しの発言をするようになったらしい。このことから考えられることは、日本人を様々な場面においてグループに分けることができると考えられる。例えば、キャプテンのグラウンド整備に関しては、部活という集団があり、そこには集団の和を乱さないようにするためのルールが存在する。また、京都伝説においては、京都の人たちという集団がある。つまりは、自分が今まで経験してこなかった集団に所属すると、そこにはすでに空気が存在しており、すでにいる者に関しては当たり前のことであっても、初めて所属したものにとっては疑問に思ってしまうという結論になるのではないか。入部して部活という空気に驚き、京都に住むことによって京都特有の空気に驚く。
しかし、ここまで考えてみると、遠回しな発言をするのは日本人特有なことなのではなく、集団が存在すれば自ずと生じてしまう現象なのではないか。
[1]「何げない日常に潜む日本文化 ~婉曲な表現を好む日本人~」, 惣元美由紀, https://1200irori.jp/content/learn/detail/case13, 2022年7月12日 閲覧
――この辺りは諸説がありますが、物事をハッキリ言うことで気まずくなっても容易に他のところに行けない環境(狭いところや島)に住んでいる人たちは、間接的な表現(皮肉)を発達させると言われることもありますね。イギリスや日本(京都)。他の島国も本当にそうか調べてみるとおもしろいかも。
推論主義の話を聞いていて、推論主義は日本人にいい意味でも悪い意味でもマッチした考え方(日本人に特によくみられる考え方)ではないかと思った。日本人と海外の人の違いとして、海外の人は思ったことをはっきりと述べる傾向があり、日本人は本心を言い切ることをあまりせず、遠回しにそれを伝えてくる傾向がある(関西のピアノ上手が良い例、初めて聞いた時、私は誉め言葉として受け取りそうだなと思った)。ここから、推論主義はそれこそ空気読みともとらえることができるだろう。「空気を読む」という文化は恐らく海外にはない(日本が顕著すぎる)。野球のグラウンド整備もほぼ空気読みの一例だろう。これらより、推論主義は日本人に特によく見られる考え方で、日本で暮らしていくためには必ずと言っていいほど必要なスキルではないかと思った。逆に、日本人が海外に行ったときは、発言の真意を考えてしまった場合、遠慮せずに質問するべきだろう(そもそも発言の裏を考えてしまい、発言を素直に受け取れないところが日本人の悪いところであろう)。
――私は本で「日本で異様に推論主義が人気があるのは京都的コミュニケーションをうまく捉えられるからだ!」という説を提唱しました。
推論の話に近いと思ったのが、ハラスメントです。推論の仕方によって気分を悪くしてしまう表現や態度があるからハラスメントという形で対策をしていると思うのですが、最近はハラスメントに括られる範囲が広すぎると感じます。何をしても、何を言ってもハラスメントになってしまうのは、推論で悪い意味にとらえやすいからだと思います。推論で相手の考えを読むのは良い人間関係を築くのにいいことだと思います。でも、考えが悪い方向に偏ってしまうのなら、あまり推論に頼りすぎない方がいいと考えます。
――そう、なんでもかんでも推論してハラスメントだと言えてしまうような状況は望ましくなく、公共的に推論の適切性をある程度一定に定める必要があるでしょう。
権力を持つ人は発言に気を付けないといけないんだなぁと改めて考えました。私はなるべく責任を負わない人生を送りたいのでほどよく下っ端でいたいと思ってしまいました。
――権力者に意味を占有されるのは我慢できるか?
推論主義の面白みは、俗っぽく面倒な言葉を分析できる点だと白川先生は述べていましたが、逆にその分析を状況に応じていちいち行わなければならない点が推論主義の面倒さであるのは面白いと思いました。この分析の作業をめぐって推論主義の好き嫌いが人によってかなり分かれるのではないかと思いました。ちなみに僕は推論主義は面倒だなと感じる派閥です。僕は大学生になって色々な都道府県、国出身の人と一緒に勉強したり遊んだりする機会が増えました。最近あった出来事で、サークルの同学年の友達と後輩を連れてご飯に行ったのですが、会話の中で後輩がとある言葉を言いました。それがどんな言葉だったかはここでは言いませんがその後輩の地元と後輩を除く僕達の地元ではある物を表わす言い方が違ったのです。しかもその後輩がそれを表わした言葉が僕の住む地域では人の前では言わない方が良い、NGワードだったのです。その瞬間その場の空気が凍り付き、その後輩は何故そんな空気になったのか分かっていませんでした。後ほどその後輩にはきちんと説明したのですが、今思えば人によって言葉の示す意味が違うのは面倒だなと思いました。
――推論主義が面倒くさいという発想はなかった!
今回の授業で、あまりはっきりと分からなかった推論主義の理解を深めることができました。特に興味深かったのは、最後のまとめの部分で、人間の「共同幻想」を推論主義はきれいに連続的に捉えられるという考えでした。具体的には、個人的コミットメントから始まる精神の病理が共同的なコミットメントで成立するフィクションとなり、最終的に、頑強な共同コミットメントとなればそれは社会制度となるという推論主義の捉え方は非常に面白いと思いました。伝説的なものを考え出したり、発明したりする人は、最初そのアイディアを提唱する時、「何を言っているんだ」とか「頭がおかしい」とか言われたりするかもしれませんが、それを多くの人がコミットすることで社会に定着していくのだなと思いました。今はフィクションの世界ですが、将来ドラえもんの道具や、ひょっとするとドラえもんさえも現実にするんだろうと思いました。ちなみに、いくつかの道具についてはほとんど実現できているとも聞いたことがあります。
社会制度はいわばフィクションから続く推論体系を頑強にして共同的にコミットすると成り立つということですがこれで個人が容易に取り下げられなくなるっていうことが怖いなとまず思った。推論の正しさは多数決で決まるんですか? それも場によって決まるのですか。私たちの生活様式が同じで経験していることも教育を経て似ているから似たような推論体系になってくると思います。なかなかクリティカルな感想が書けなくてモジモジします。
――推論主義にとって中心的な非形式的な実質的推論の正しさがどのように決まるかは大問題だ。純粋な多数決で決まるときもあるでしょうが、権力、空気、慣習、教育など様々な要素が関係するでしょう。
フィクションに対する説明だけ少し違和感を覚えました。フィクションは二人以上に共同的にコミットメントされたものだと説明していました。しかし極端な話をすると、誰にも認められない作品(小説や漫画など)はフィクションに当てはまらないただの精神病理だということになってしまいます。個人的に、フィクションと妄想(精神病理)の違いは形になっているかなっていないかなのではないかと思いました。何らかの形で残っているものこそがフィクションと呼べるのではないでしょうか。
――その通りで、私の説によれば「誰にも認められない作品(小説や漫画など)はフィクションに当てはまらないただの精神病理」ということになります。逆に聞くと、なぜ「形になっているか否か」が重要だと思うのでしょうか? ここで「形になっているものは他人もコミットしうるから」と答えるなら私の説に似通ってきますから、他の説明が欲しいところです。
言葉の意味が場面,時代,状況によって変わってしまうのは推論によるものだ,という意見に共感を持ちました.授業では文章の推論が中心で,後半に社会は共同的コミットメントを強固にしたものという解説がありましたが,共同的コミットメントの例として言葉の意味の移り変わり(誤用)が想像しやすかったです.「破天荒」,「確信犯」などかつての意味とは異なる用例が普及した例(前者はもともと前人未踏,後者は政治,宗教的信念により犯罪でないと確信して起こす行為),「独壇場」のように誤字から読みまで変わってしまった例(本来は独”擅”場と手へんで,どくせんじょうと読んだ)などがあり,今ではもはや本来の意味が通じないものもあります.しかし,間違いのままでも言葉が使われ続けられるのは共同的コミットメントが形成されているからであり,「指示対象が普通の意味で存在していない」という板書にも通じるのではないでしょうか.この時,言葉は社会にとっての憲法のような強固な拘束を明示できないのは興味深い点だと思います.辞書の解説もあくまで集合知でありオリジナルではありませんし,どうやって一般的に認知されているのか気になります.
――いかにして共同的コミットメントが成立・維持・崩壊するのかという点は、この辺りの哲学(「社会存在論」というジャンル)の大問題です。また、おっしゃるように言葉(の意味)は社会制度の一種であり、すると(若干コメントとズレますが)、言葉→推論→社会制度という説明の順序に循環的なものが生じることになります。
私たちが当たり前として守っている社会制度は、元をたどれば誰かの精神病的な発想かもしれない。その人の意見に周囲がコミットすることで社会制度のような決まりごとになるのはおかしいと思う。現在、決められている社会制度に私の意見は反映されていないだろう。正直、今ある社会制度の中には納得できていないものもある。このように一部の人がコミットしていなくとも社会制度は存在してしまう。もしこれらの考えが本当だとしたら、その一部のコミットしない人がいる限り犯罪などの事件は無くならないと思う。
――上と同様に共同的コミットメントの成立・維持・崩壊に関わる話。
1人が洗脳をして一応複数で幻想を考えているんだけれど、故意的に幻想を思い込まされている人がいる場合でもフィクションになりますか?
――なるほど、ここで「宗教」という領域が出てくるのかもしれない。「洗脳」というとちょっと語弊があるけど。
自称ナポレオンの子孫の話で真っ先に、アメリカの自称皇帝のことを思い出した。最終的にその人は多くの人々に皇帝として認められている。これと同じように、日本の皇室やイギリス王室も認められているのかなと考えると、例に示されたナポレオンの子孫だという主張も馬鹿には出来ないなと思えてきました。フィクションと社会制度が本質的には一緒であるならば、この両者には何の違いがあるのだろうか。より強固であるというのは何だろう。単純に考えれば、コミットしている人数だろうか。例えば、キリスト教信者は世界中に約20億人もいるのだが、だからといって聖書の話は社会制度かというよりはフィクションのように思える。ただ、見方を変えれば、「キリスト教の教えを守られるべきだ」というのは、実刑がないだけで法律と一緒なのではないだろうか。これはどっちかといえばイスラム教のほうが顕著で豚肉がNGなのはよく知られた話だろう。したがって、宗教と法は根本的に一緒ではなかろうか。しかし、だからといって人数が基準ではないように思える。例えば、共産主義が廃れて、それはただ単に学術的に理解されるに留まっているだけであったとすれば、共産主義はマルクスの精神病理かと言われれば違和感を覚える。したがって、理解者が多ければ、それはまた別の何かではなかろうか。...もうこれをレポートの内容にしようかな()
――重要なところなのでレポートにしてください。
今回の授業はとても面白かったです。推論主義のおもしろみ、を感じ取ることができたかなと思います。ですが、社会制度は「推論」によって可能になっている、という結論は少し短絡的に感じてしまいました。もちろん「そうともいえるよね」という話であると解釈しているのですが、言葉にしにくい歯がゆさがあります。どちらかというと「コミット」によって可能になっているの方が近いのではないかと感じました。
――これまでの先行研究では、(おっしゃるように)社会制度は「みんなのみなし(つまり共同的コミットメント)」によって成立していると言われていたのですが、それに対して私は「いや推論もかなり重要ですよ」という新説を述べたということです。だから批判が出るとこでしょうね。
意味の理解は推論ネットワークの把握であるということがなるほどなと思いました。この哲学の授業はもちろん哲学の理解につながっていると思いますが、それよりも実質的な日常生活のエッセンスやアドバイスとして役立っている気がしました。なぜなら、今回の授業でいうと、推論ネットワークの把握は私たちが学校や職場、家庭、友人など日常生活で誰かと関わっている限り常に必要不可欠なものだからです。私たちは相手の言っていることの意味をいつも考えながら会話したり、行動したりする。そのことによって、相手との関係を保つ。逆に推測しないと、相手との関係を保つことができなくなる。だから、今回の授業で改めて、相手の発言の本当の意味を推測することと自分の発言はしっかり考えて責任を持たなければならないことの重要性について考えさせられました。
――私は哲学を(日常的な)実践に引きつけようとする「プラグマティズム」という立場をとっているので、そのあたりが出てしまっているようです。
最近、この哲学の授業の影響かはわからないが、物事を深く考察する頻度が増えてきたような気がする。これは、良い傾向でもあるが、深読みばかりしていると精神的に疲れるので、物事を深く考察する頻度を適度にして、もし、深読みしなかったせいでミスを犯したときは、何とか頑張って対処したり謝罪したりして、乗り越えればいいかなと思った。
――脳はただ生きるだけでも大量のエネルギーを消費しているのに、そこで深く考察するならさらにエネルギーを消費することになるから、哲学とは生物学的にいってかなり不自然な活動ということになります。
哲学を学んでみたいと思ったきっかけは言語論に興味を持ったからなので,とても面白く講義を受けられました.「ポチ」や「犬」の意味や違いを聞かれたとき,まず考えたのは樹形図のような言葉のつながりでした.「犬」を細分化すると「ポチ」になり,「犬」の上には「生き物」「ペット」などと様々な言葉がつながっているというものです.自分のなかでは,それぞれの言葉の意味は互いに循環しており,非常に複雑な樹形図(ニューラルネットワークのほうが近いかも?)が作られています.この考えだと,明けの明星,宵の明星の例も金星から伸びる場合分けの一例として処理できるのではと考えました.これが成り立つには言葉のネットワークの事前構築が必須となるのが欠点のように思いますが,言葉の意味を説明するには言葉を使う必要があるので,どこかでもっとも基本となる言葉が存在しているのかと思います.書いていて思いましたが超越論のようになっていしまいました.
「しかし」などの接続詞は,これこそ先に挙げたもっとも基本となる言葉ではないでしょうか.人が(ある程度高度な)言葉を使うとき,論理記号を担う言葉は必須だと思います.犬や猫の動物であっても,エサや散歩の合図は認識でき,これには簡単な論理的思考が働いています.ですので,生活するなかで必要な論理的思考は意味を与えるでもなく理解できるのではないでしょうか.
ここから余談です.
言葉に興味を持ったきっかけに『ゆる言語学ラジオ』というyoutubeのチャンネルがあります.特にこちら(https://youtu.be/J7rAZ2tRoT0)の冒頭が印象に残り,単語の理解に必要ない要素を考える(例えば本とは何かを説明する際に,表紙の色,枚数,形は関係ない)というのは目から鱗でした.問いが否定になるだけでここまで難しくなるのかという驚きと,言語化が難しいのに,私たちは似たような意味の単語をどうやって区別しているのかということを疑問に思いました. また,このチャンネルではよくガヴァガイ問題(ウサギを指して未知の言語話者が「ガヴァガイ」と言ったとき,これはどんな意味を持つのか特定することはできないというもの)というのを耳にするのですが,これは授業にあったクワインが提唱したというのを今回の復習中に知りました.さらに,クワインの知り合いにバナッハ‐タルスキーの定理で有名なタルスキーがおり,関係のつながりが予想外のところにありとても驚きました.
――言葉の意味だけでなく知識もネットワークが構築されていくと理解が深まった感じがしますね。
今回の授業もうまく理解と整理ができていないが、今回の講義の最後に挙げられた「課題」についての答えを述べる。推論主義は人々が生み出す人間関係というネットワークの中で形成されていく概念的なものについて迫る論理であるため、「虚構」の言語活動をうまく分析できると思う。例えば、「神」や「迷信」などである。なぜ、これらの分析をうまくできるのかというと、先ほど述べたように、ネットワーク上で形成された概念であるから、規範性は各々の設定の中で決められており、それを他者がくみ取ることで、範囲は自由自在である。また、虚構である以上概念の中でしか存在しないから、指示対象も必要としない。したがって、推論主義は、虚構を人間ネットワークの概念を用いて分析することができる。
しかし、本当に言葉って面白い。言葉はないものを作り出すことができるから。ないかどうかはわからないが。哲学の授業をやっているとどんどんツボにはまっていくのがわかる。何が真実で何が真実ではないのかすらわからなくなりそうだ。今回の授業を聞いて疑問に思ったことがある。それは「人間のすごいところは言葉を使うところだ」という言葉を耳にするが動物はどうなのだろうかというものである。鳥や犬、猫なども同じ種の中では鳴き方で相手の意図をを読み取っているのではないだろうか。しかし、それらは言葉とは呼ばれない。(もっとも、それらの鳴き方が相手に対するものだとは限らないが。人間の推測でしかないから。)非常に興味深い点ではある。
――授業でも言うが、言語と虚構の関係は非常におもしろいと思います。あと、しばしば哲学者が(安易に)「言葉を使うことができるのは動物だけ」と言うとだいたい怒られるのですが、普通に他の動物も言葉を使っています。ベルベットモンキーなんか有名です。またシジュウカラの言葉にかんする鈴木俊貴さんの研究も注目されています。メイヤー『言葉を使う動物たち』という本もある。
そもそも私も、言語が哲学の題材になるなんて思っていなかった。先生は授業の中で「純粋に興味深い」「哲学史的理由」と説明していた。「純粋に興味深い」という理由で、哲学の題材にしてもいいのかと思った(興味深い=哲学と結びつける意味があるかも…直感的に?)。言葉の意味とは何か?ということを授業で考えてみて、とても興味深かった(普段こんなことは考えないので…)。「しかし」の指示対象は何なんだろうな…。気になります。
――このような意見も興味深いのですが、逆に「純粋に興味深い」以外の理由で哲学をやっている人はいるのか?
自身の卒業制作で言葉を扱った作品を製作中なので、今回の話題もとても面白かった。哲学が「言葉」という、当たり前に使うものに対して疑問に思い、それに意味を見出すという行為が面白く、「こういう人がいるから社会って成り立ってるんだなあ」と何となく思ってしまった。
――言語哲学者も社会の役に立っている?
私にとって言葉は行動よりも重いものです。これまでの生きてきた中で、心に強く残ってるのは、周りの人が私にしてくれた良い行動や悪い行動よりも、嬉しかった言葉、傷つけられた言葉です。今でも、過去に言われたある一言や遊んでいるときに言われた不意の一言について考えてしまうことがあります。また、それは、他者から私への一方通行ではなく、私から他者にかける言葉についても同様です。あの時、ふざけて発言したことで相手を傷つけなかったか、不快な思いさせてしまわなかっただろうか?常々考えてしまいます。1度だけ、本当に傷つけられたことがあり、その時の一言はこれから先も一生忘れることはないだろうと思います。私にとって、言葉は良い意味でも悪い意味でも人の精神や感情を強く左右し、それはどちらにせよ修正の効かないものだと思います。
――ほんと何気ない一言って一生残りますよね。
人類がここまで発展してこられたのは「言葉」があった体という考えが一般的ですが、私は少し違うように思う。私は人間の強みは「弱さ」だと考えている。人間は身体的な強さで比べると、当然弱い方である。例えば、無人島に一人取り残されたら、ほとんどの人は一週間も生きられないだろう。他の生物でも群をなす動物はたくさんいるが、人間ほど他者に依存している生物はいないと思う。そして、人間は弱いからこそ協力してきた。協力して狩りをしたり、協力して作物を育てることで、生き延びてきた。協力するためには、コミュニケーションが必要不可欠である。そのために使われたのが、「言葉」である。コミュニケーションが取れれば、テレパシーでもなんでも良かったが、人間の場合はそれがたまたま「言葉」だったにすぎないのではないだろうか。
――逆だ、ということね。
先日、プロ野球選手の菅野智之投手(32)が試合でピッチャーとして出場し、5回7失点で降板する結果に。菅野投手は球界を代表するような投手であり、本来なら7~8回を無失点で抑えることも期待できる投手。この日は5回まで投げましたが、3回までに7失点してしまい、解説者は「菅野は終わった。」という旨の発言をしました。しかし、4回と5回は無失点で抑え、解説者は「やればできるんだから。良いボールを投げられるんだから。もっと練習して次の試合は頑張ってもらいたい。」と発言しました。この発言を受けて、先ほどの「菅野は終わった。」という言葉を思い返すと、「菅野はまだこんなもんじゃないだろ。」という想いが込められていたのだと分かります。しかし、ネットでは多くの批判の声。確認したところ、「菅野は終わった。」という発言だけを切り取って批判しています。これは完全に文脈を無視しています。「意味の使用説」では、文脈や状況に応じて言葉の意味が変わることを述べていましたが、文脈が伝わらない場合は言葉の意味も伝わらないことになってしまいます。この場合は結構やっかいですね。
講義では、指示対象説の非存在対象の線引きが気になりました。例えば、ポケモンのピカチュウは存在しないけど、世界中の人が同じものを思い浮かべることができるもの、UFOやネッシーとかなら存在するかもしれないもの、人によって解釈が変わる死(普通に生きている人にとっては怖いものだが、生きるのが辛い人にとっては唯一の救いの道らしいです)みたいな概念などどんな線引きをしているのか気になりました。
――授業ではその辺を話すと存在論の深みに入りそうなので簡単に済ませましたが、もちろん立場によって「存在/非存在」の線引きは変わります。物理的対象のみ存在者として認める人ならピカチュウは存在しませんが、虚構的対象も存在者として認める人ならピカチュウは存在するといった具合に。こういう話をしていると「じゃあ虚構的対象ってどこに存在しているのか?個人の心の中?集団の心の中?社会的ルールによる構成物?可能世界?」などと本筋とズレてくるので、どこかで止める必要があります。むしろこういう話がおもしろいのだといって存在論に突入する人も多いですが。
人間は言語を使って「理由」をやりとりしているということが、「理由の空間」の住人であることということにすごく納得できました。なぜかというと、人間は何か行動するために常に「理由」を欲している生き物だと思っているからです。人間というか日本人は、モチベとか原動力を大事にしていると思うので、人間は「理由の空間」に住んでいるということに素直に納得できました。
――そう、なんでこう人間は「理由」を求めるのでしょうか、理由も何もない人生や世界は耐えられないのはなぜか?
推論主義では議論のような言語活動をうまく分析できると考えました。
さて今回の課題として「推論主義はどういう言語活動を上手く分析できるか?」とありましたが、推論主義はその場面に応じた言葉の意味を適切に相手に伝える言語活動を可能にすると思います。推論主義は言葉を交わす者同士のその時の立場、状態の観点から言語活動を考えるものだと考えました。言葉というのは同じ文章でも全く違う複数の意味を持つ事があり、それは先生が紹介して下さった京都の人の話にも表れていると思います。推論主義の観点で考えると、言葉を交わす時に相手の言った事を「これは何を指示しているのか?」などといちいち考える事は必要なく、この人はきっとこういう事を言いたいのであろうなど、お互いに”空気を読んで”会話をする事ができます。そのため会話がスムーズに進行し、お互いの伝えたい事が上手く伝わるでしょう。
推論主義は、コミュニケーションの言語活動をうまく分析できると思います。例えば、すべての言語活動が指示対象に従って行われていたら、会話はすべてプログラミングのようになると思います。プログラミングは少しでも意味が誤解されてしまうようなことや、矛盾や、定義不足があればすぐにSyntaxError: invalid syntax!!のようなウザいエラーが出ます。しかし、日常会話では消しゴムを差し出して「ん。」というだけで「貸してあげる」という意味が伝わると思います。なので、推論主義は適当に意思表示したり簡単な共感など、プログラミングではない会話を分析することが出来ると考えました。
言語表現を推論することで、文の内容や文中にない意図や主張を説明できると思います。
言葉の意味が推論によって規定されるのが推論主義なのであれば、推論主義がうまく分析できるのは語り手と聞き手の両者の間でかなり精度の高い意思疎通が図れているときに限るのではないかと思いました。これは自分の感覚ですが、「窓開けられる?」と尋ねられた際にはおそらくどのような場合でも「可能ですよ」という意の返しをするだろうと思います。「開けてもらえる?」と言われないとおそらく自分は開けません。語り手のことばから聞き手が察しなければ成立しないものなのかなと感じました。
推論主義は、「今日、なんだかいつもと雰囲気違うね」というように、何かかしら断定的な意見や事実について伝えることで生まれる、コミットメントの引き受けや資格の帰属といった規範性がないこと、つまり自分の言葉の先の真意を読み取ることを相手に求める、曖昧で真意の隠れているメッセージを伝える言語活動を分析できるのではないかと考えました。このように伝えられた相手は、それは自分がいつもと髪型や服装、化粧などを変えたから、とかこの後楽しみな出来事があり、その高揚感があふれ出ているからなどと答えることができる。また、その言葉をかけた相手の真意が、雰囲気が違う原因を探ろうとしたことなのか、またはその言葉を伝えることでその雰囲気に魅力を感じていることを読み取ってほしいのか、はたまたいつもとは元気がない雰囲気を感じ取り、遠回しに話を振り心配していることを伝えたかったのか、様々に推測できそうではある。言語をやり取りしていく中で、その言葉の意味合いが明らかにされ、自分に対する明白な指示がない会話が互いにとっての意味を創出することを分析できるのが、推論主義かなと考えました。でも、正直自分でも自分が何を言っているか、推論主義がどんなものかあまりはっきりしていません。、!
推論主義がうまく分析できる言語活動は、異文化、異言語間の会話かなー。一番推論的な言語活動だと思った。
――カジュアルに良いこといいますね。もう少し聞いてみたいのだが。この点を追求すると次の質問に答えられるかな。次のメリット(4)との対比にも注目。
私は国際地域学部で、英語の会話中に知らない単語や表現、話題が出てくると会話の内容や他の単語、文脈からその意味を考えて予想することがあるのですが、それは推論主義に当てはまるのでしょうか?教えてほしいです。
――推論主義的にいえば、ある表現にはじめて出会い、何を指示しているかとか日本語の何に対応するかといったことをまったく知らなくとも、その推論ネットワーク(そこから何が導け、何と両立しないかetc.)を把握できているのなら完全にその意味を理解しているということになります。その表現を用いてスムーズに推論さえできるなら、十分に理解していることになります。ちょっと答えになっているかわかりませんが。
推論主義によって、様々な条件からそれぞれの言葉が示す意味を規定されます。この考えがあるからこそ、私たちはうまくコミュニケーションを取ることができるのです。そのため、推論主義は、同じ価値観、言語を持ったもの同士のコミュニケーションをうまく分析できるのではないでしょうか。
推論主義は普段私たちがするような特に何も意識していない会話をうまく分析できると思う。私たちは普段の会話でいちいち同じ指示語を何度も使ったりはしないけれど、それでも会話がきちんとかみ合うのは会話をしている人たちの中で共通の推論関係があるからだと思う。
――これらの意見は上のメリット(3)と反対のことが言われているのだが、実際のところは両方とも正しいと言える。推論主義は(共通部分をもたない)「異質な他者」を理解するのが得意だと思うのだが、しかしそれでも何らかの「共通部分」がないと理解は不可能であると思われる。さて問題はどのレベルの同質性が相互理解に不可欠かということ。
推論主義は指示対象を置く必要がないため、事実でないことや「ないこと」を扱うことができると私は考える。
真実であると想定される前提に基づいて、結論を導き出すこと(本の行間を読む、相手の言動から推測する)が、言語活動における推論であると思った。よって、推論主義は実体のない抽象的な物事を、事実に基づいて考えるときに効果を発揮すると考えた。
推論主義は、芸術や新規ビジネスなどのクリエイティブな活動において活躍するのではないかと思いました。今までになかったアイデアや思想を発表するとき、自分で言葉をつくり、その言葉について説明した上でプレゼンテーションを進める人をたまに見かけます。言葉について説明し、聞き手から資格を帰属してもらって初めて表現が成立します。このような表現を行う場合には推論主義的な言語感覚が必要であると思いました。
私は人間によって生み出される社会でのルールや制度を分折するのに適していると思いました。
推論主義は言葉の交換の中での関連によって意味が決まっていくもので人間が主観的に生み出した社会制度を客観的なものとしてりかいをしやすくする。つまり、社会制度のような言語活動をうまく分析できる。
推論主義において、言葉の意味は言語が使用されるその現場で果たす役割であるのだから、指示対象を定めるということはしなくてよい。そのことから考えると、推論主義が分析を得意とするのは、指示対象が明確でないものである可能性が高い。人間が作り出した指示対象がはっきりとしない制度、概念などもこの推論主義では分析できるのではないだろうか。
社会的秩序やあたりまえのルールをあらわすときに推論主義は有効だと思う。
推論主義は、社会的規範、社会制度、今でいうなれば選挙についての言語活動をうまく分析できるのではないかと感じた。社会的規範も社会制度も選挙公約も、ある場所に生活する人のより多くの納得、賛同を得られなければ、それが形になることはない(規範的語用論を参考に)。そのため、社会的なものであったり、より多くの人が納得、賛同している事象についての分析がうまくできそうな気がする。
前回、神の反対概念は人間なのではないかという考えを書いたものです。先生のコメントから、もう少し詳しく説明が欲しいとのことだったので、今回それについて書いていこうと思います。
仮に、神が存在していないとします。そうすると、神という存在は人間が生み出したものということになります。この場合、神は人間がいないと存在できないということです。逆に、神が存在していると仮定します。その場合、神が人間という存在を意図してか、偶然かはわかりませんが、生み出したことになります。このように考えても人間という存在は神がいないと存在できなかったことになります。神が存在しない場合は、この世界が偶然できたものと、神が存在する場合、神がこの世界を創ったと考えています。これらから、人間と神という存在はどちらかがかけてしまうと存在できないものということになってしまいます。どちらかが存在するからこそ、最終的に人間と神の二つの存在が生まれるのです。このように考えたからこそ、神の反対概念は人間ではないかと思いました。また、補足しますと、人間といっていますが、正確には存在しないものを想像することができる存在のことをいっています。
――相互依存的に存在している二つの概念において一方を他方の反対概念と呼ぶ、ということかな。「反対」と「相互依存性」の関係はとても興味深いのですが、神と人間という概念以外にも、この関係は一般的に成り立つとお考えかな? 非常にヘーゲル的になっていくが。
初めて先生の顔が見れて嬉しかったです。普段簡単に使っている文字もめんどくさく考えることができることに驚きました。
――わたし面倒なことが嫌いかと思っていたのですが、実は好きなのか?
自分の心以外は直接知ることができないとあったが、読心術というものが存在するが、これらがどのように関係しているのか興味がある。
――読心術は他者の心を間接的に知る精度が高いということでは?直接把握しているのではなくて。
私が考えているということだけは確かというのは間違っています。何故なら、私が考えているというのは錯覚であって、自分の意思すらも幻想であり、すべてシナリオ通りに操られている可能性があるからだ。また、認識に正しいものなどないと思う。それは、私たちが認識している世界の情報は、すべて脳を介しているため、世界の本当の姿は、脳がある限り絶対に認識できないからです。
――「考えている」ということがシナリオ通りで操られている場合にデカルトの議論が否定されたことになるのか、操られている場合でも「考えている」という錯覚的な何ものかが存在すればデカルトにとって十分なのかは、私自身よく理解できない。つまり自由意志の存在如何がデカルトの議論にどう影響するのか厳密なところがわかっていない。せっかくなのでこの辺りの関係についてレポートで書いてくれません? この点については以下のコメントも関係する。
前回,コメントが途中で切れていた者です.書いている途中に寝てしまいました,すみません.続きを書きます.
私は全面的懐疑論を持つこと自体が自由意志の象徴ではないかと考えました.例えば私は水槽の中の脳だったとすると,外部から刺激を与えられることで認識を得ています.すなわち,得られる情報はすべて外部の任意に基づくので,このような思考をわざわざ持たせる意味がないのでは?と思います.外部による実験として考えさせられているのならあり得ますが,そうすると外部も同じ問いを持つことになり,外部の存在のさらに外部にいる存在が必要になります.これは無限後退に陥りかねず,回避するには究極の上位存在が全面的懐疑論を持つ必要があります.私たちが究極の存在かはわかりませんが,少なくとも全面的懐疑論を持っているならば自由な思考を持っていると示せるのではと考えます.
――絶筆ではなくて安心しました。やはり大変興味深い論理。もう少し詳細を聞きたいところ。
全面的懐疑論を夢と現実の対比によって、このように対応するんだと感心しました。ただ、この話の中では言葉を、反対の意味を持つものから考えようとしています。講義中、先生は神という言葉の反対の意味を持つものは何であるかという話をしていました。この話から神が先か、人間が先かというものについて思い出しました。これは、神が人間などを含むこの世界を創ったという考えか、神は人間の信仰によって生まれたものであるという考えであるかというものです。どちらの考えにもそれなりに筋の通った理由があります。神が先という考えからは、このような緻密に創られたような世界は、私たち人間よりもすごい存在である神が創ったというものがあります。また、人間が先であるという考えからは、神という存在は人間が何かにすがるために作り出した存在であるというものです。私はどちらの意見も否定できないと思います。神という存在がいるのかは怪しいですが、それでもこのような世界がただの偶然で生まれたにしてはあまりにもできすぎていると思うからです。そして、この話から、神の反対は人間ともいえるのではないでしょうか。あくまで、見方によってはそのように考えられるのではないかというだけです。
――神の反対概念は人間というのは興味い結論なのですが、前の話からどう繋がっているのかもう少し知りたいところ。今日は詳しく聞きたくなる話が多い。
因果関係の話で、もし因果関係でないことでも何度も繰り返し起こったら因果関係と勘違いすることもあると思います。そういった事例はあるのでしょうか。
――よくあるのは相関関係と因果関係を混同するものです。「かき氷屋が増えると水難事故が増える」「ネコが顔を洗うと雨が降る」など。それぞれ「夏になる」「湿度が高まる」という共通原因があるだけで因果関係があるわけではありません。その証拠に、かき氷屋を禁止しても水難事故は減りませんし、ネコが顔を洗うのを邪魔しても雨は降ります。
私が気になったのは、神頼み→テストで百点をとることができる。この偶然が連続すれば、それは必然的なものになるのか、ということです。継起に関しては、時間的に連続すれば、満たすことができますが、近接に関しては、難しい。「神頼み」を空間的に近い何かだと捉えることはできるのか、、、。もし、それができるのならば、テストで百点をとるという行為は、必然的になると考えられる。私は、偶然は必然の産物であるように感じられる。まあ、私の心の中の産物ですが、、。
ヒュームの必然性とは「習慣」というのになぞって言えば、偶然が何回も重なることで自然に必然性変わっていくのかなと思いました。例えばバスケのスリーポイントをこの位置からだと入るというのを、繰り返してると習慣になり必然性が出てくるのでしょうか。
――ヒュームの枠組みによれば、偶然が重なることで必然が生じることになるでしょう。ただしその必然性は、「心がそう感じてしまわざるをえない」「心がそう考えてしまうのはどうしようもない」という心理的な必然性ですが。
AとBの恒常的連接を経験していると、人はAからBを導く「習慣」「心の癖」ができて、因果関係は世界に実在するものではなく、人間の心の産物であるということがとてもなるほどなと思いました。人間はそのような習慣や心の癖があるからこそ、偏見を生み出したり、何か異例なことが起こると受け入れがたかったりするのではないかと考えました。
――以下のバイアスの話とも関わる。
認識の構造の話が結構分かりやすかったです。
ヒュームやカントの枠組みは,今で言うバイアスを超えた認識の方法を探っている,という理解で合っていますか?今回の講義はなかなか理解が追い付かなかったです.私は因果はあってしかるべきだ,という固定観念があったようで,どうして因果律を疑うのか?という疑問を持っていしまいました.確かに,オカルトと科学の違いはどこにあるのかと問われれば悩んでしまいます.しかし,たとえばカントの枠組みでどのようにオカルトを否定するのかは理解ができませんでした.目の前の現象を「これは因果がある」と言えるような体系を作ったのみで,科学とオカルトのフィルターをどこに置くのかがわかりません.
――(「バイアス」という言葉は当時はなかったはずですが、あえて使うと)カントに言わせれば「ヒュームの議論によると因果関係がたんなるバイアスによって作られてしまうのでダメだ」ということになると思いますが、われわれから見れば「結局カントの枠組みでも因果関係がバイアスによるものになってしまうのでは?」とも思いますね。カントに言わせれば「悟性のカテゴリーは人間(理性的存在者)すべてに共通したものだから、人によって異なるようなバイアスではない」ということになるでしょう。しかし「人間(理性的存在者)全員のバイアスでは?」と聞けばカントは否定しないはずです。
カントは因果関係が絶対とは限らないことに対して「独断のまどろみから覚めた」といったのだと思います。しかし、カントの認識の考え方では、何を認識するにしても各々のフィルターを通すしかないことになり、それはつまり独断ということになるのではないでしょうか。
――これも上に関連して重要な点なのですが、感性と悟性のフィルターは人間(理性的存在者)に共通した普遍的なものであり、「各々」のフィルターではないから個人的な判断ではないという意味で「独断」にはならないとカントなら言うでしょう。「人間(理性的存在者)全員の独断では?」と聞けばカントは否定しないはずです。
今日の認識の話で、共感覚のことを思い出しました。普通の人とは異なる感覚を持っており、色を味で感じたり、香りを形でとらえる感覚を持つことができる人たちのことです。そういった人達が存在することや、ある一つの景色や景観を見ても人それぞれでの認識の仕方が違うことを考えると、認識は潜在的な要因やその人のバックグラウンドによっても異なって捉えられると感じました。
――そのように「人によって認識が異なる」という可能性をカントは考慮しませんでした。この強烈な普遍主義を歴史的に相対化したのがヘーゲルであり、もっと個人的に相対化したのがニーチェであり、認識の相対性を心理学などで実証しているのが現代と言えるか。
僕は大学で建築学を学んでおり視認性を扱う授業の時に、人間の目は死角の部分を今までの経験から予想して僕達の脳内に認識させていると習いました。僕はこの授業で格子状の十字線が紙いっぱいに印刷され、一部分だけが空白になっている紙を使い、目を近づけ徐々に離していくとその空白の部分にも十字線が現れるように見えるという実験をしました。この現象は「哲学とは何か」の授業にて取り扱った認識とは違うかもしれませんが、人間は考えだけでなく、目などの五感ですら今までの経験から予測したものを我々に感じ取らせているのだなと思い、人間は経験から物事を認識する生き物なのだなと感じました。
何が正しい認識なのか、という問いは浮かんできてもまだおかしくないと思うのだが、正しい認識はどのように成立しているのか、という問いが浮かんでくるのがいまだに理解できない。(前々から薄々感じてはいたが)やっと訳が分からなくなってきたなと思った。
――一般人にとって超越論的な発想法はかなり異様なので当然。
カントの枠組みのところで、フィルター1を通過したがフィルター2を通過できなかったものはどうなるか疑問に思いました。1を通過して2を通過できないものは、物自体になるのですか?それともただ認識できないものになるのですか?
――カントの枠組みからすれば「認識以前の雑多なデータの集まり」ということになるのですが、それは定義からして物自体でも認識でもありません。じゃあなんやねんと疑問になるのは自然です。そこから後のヘーゲルは「カントのように感性(直観)と悟性を二つに切り分けるのはおかしい」と考えて、感性(直観)には悟性が含み込まれているとして「直観的悟性」という概念を考案しました。この辺りのわかりやすい説明は、川瀬和也さんの『ヘーゲル哲学に学ぶ 考え抜く力』5章にあります。
知覚では空間や時間の枠組みを通して印象を受け取ることが困難なものがあると思います。たとえば、計画や規則は感性の働きによってどのようにとらえられますか。計画や規則は、悟性の働きによって性質に着目することはわかりましたが、悟性が働く前の感性の働きの段階ではどのようなとらえ方がされますか。
――上のコメントと共通した疑問だと思われる。
哲学の話とは違いますが、カントの話を信じると物理で物体の動きとかを予測できるから未来はすでに決まっているという「ラプラスの悪魔」が成り立つのかなと思いました。
――まさに「現象界」では「ラプラスの悪魔」のような因果的決定論が成り立ち、だからこそ自然科学の探究が可能になるのですが、逆に自由意志や道徳が成立しなくなるので、だからこそ現象界の外側である「叡知界(物自体を含む)」を案出し、そこで道徳が成立すると考えました。
現象界は科学的探究範囲内のことと言っていましたが科学が発展していくと次第に現象界が広がっていき最終的には全てが現象界になってしまうのではないかと思いました。なので、いつかは全てにおいて因果は成立して倫理の領域は無くなってしまうのではないかと考えました。
――そのような発想は「自然(科学)主義」「物理主義」と呼ばれ、現代でも一定の支持者がいます。
今日の授業はいまいちなにを言っているかずっと理解が追いつかなかった。だけど一つ今までの授業のなかでも一番しっくり来たものがあって、ヴィトゲンシュタインの論理哲学論法[考]です。哲学の授業を受けながらも、最近思っていたのが、哲学って自分の考えたことに無理くり理由をつけて説明する。みたいななんでもアリな気がするなと最近思っていたから、もう考えるのをやめようみたいな、テンションがとてもしっくり来た。
――そう、哲学をやっているとたまにすべてを全否定してしまいたくなりますよね。「もう面倒くさい」と。
今回学んだ、我々が見出せるものというのが、以前から気になっていた存在論にも少し関係しているように感じ、もっと詳しく知りたいと思った。前回のデカルトもそうだが、今回のカントなど、哲学について全く知らない私でも知っているような人が出てくるとなんだか嬉しくなる。それもあってか、哲学にどんどん興味が出てきている。いつもはレポートなど憂鬱でしかなかったが、この授業の最終レポートは今から書くのが楽しみだ。
――ほお。
今回の授業で、全面的懐疑論というデカルトの思想から、ウィトゲンシュタインの論理哲学論法、ヒュームによる因果に関する懐疑論が今までの全ての哲学の議論を根本的に否定するような内容で、哲学は定期的に自らの殻を破って、全てが瓦解すると感じた。しかし、瓦解した後は、カントによって、世界に因果が取り戻された。ような気がする。うーん、難しい。必要条件から答えを探るのは…正しいのか?
デカルト「この世界夢じゃね?でも、我は存在するのだ!!」
ウィトゲンシュタイン「語りえないものについては、沈黙せねばならない」
ヒューム「因果って、存在すろの?人間の心がつくり出したのでは?」
カント「みんな目を醒ませ。正しいものは、存在するのだ!必要条件で考えれば、認識は説明できて、因果も取り戻せる。」
カントの考え方、コンピューター的に説明できるのか。
認識不可能なもの自体が働きかける(入力)→それを感性や悟性が察知(伝達)→認識が可能となる(出力)
やはり、内側に答えがあったのか?我という存在を通して、世界を見ている我。これが認識なのか?
ところで、技術者には、技術者倫理があって、凄く強調される(特に学校で)。物自体を問う倫理に科学は見張られているのかもしれないと感じました。
今回の授業は難しかった。それと、ウィトゲンシュタインが気になりました。デカルトよりも好きかもしれないと感じました。今度、もう少し調べてみたい。カントは、嫌いじゃないけれど、「これは何かな?」って、疑って、考えることが好きなので、そもそも正しいことが存在するという思考を基に、必要条件で攻めるカントは少し苦手かもと感じました。
それと、授業はとても面白いです。他の授業は考えるというよりも、「答えを受け入れる。」「考えを受け入れる。」という作業が多いので、哲学の「考える」は自分がやっている工学など様々な事やしがらみの根本を考えている感じで、楽しいです。(カニくい虫)
――ひとつの表現スタイルを確立している。
授業を通して、批判されるんじゃないかと思っても積極的に自分の意見を発するということは大事かもしれないという教訓を得つつあります。
――哲学に重要なのは「勇気」だ(と、ウィトゲンシュタインも言っているし、私もそう思う)。
人の考えを聞くのが好きでいつも先生の考えやその周りの人の考えを聞いておもしろいなって思っています。
こういった根本から認識が崩れるような話は楽しいし、それが昔の哲学者が既に考えてるというのが頼もしく感じた。
雑談の内容についてpowerpointの授業は集中できないのではという内容がありましたが、確かに僕もpowerpointより板書のほうが眠くならないので好きです。この原因は板書のほうがpowerpointよりもノートに書くことが多くなるからなのではと予想します。
僕が今まで福井大学で教わってきた教授はほとんどがパワーポイントでのプレゼンテーション形式で授業をしたり、配布資料を使って授業をする方でしたが、僕は高校までの時のように板書をメインで授業をする先生の授業方法は理解を深めやすいので僕は好きです。これからも続けて欲しいなと授業内で他人のコメントに対して思いました。
――一定の支持者がいるのでありがたい。ただし不満を持っている人も(口にしないだけで)いるかもしれません。まあ進度はかなり遅くなりますよね。
知識の古典的定義について3つが成り立てばそれは知識といえるというのはとても面白いと思いましたが、そのうちの一つである②真についてこれが成り立っているかどうかはどうやって判断するのでしょうか。天動説のように長い間正しいと思われていたことが急に間違っていることに変わることもあるので真かどうかの判断はとても難しいように思えますがどんな線引きをしたのか気になります。
――全知の存在以外には直接真理を把握するのは難しく、だからこそ不完全な存在でも可能な「正当化」という要素が必要とされます。しかし、「じゃあ真理の条件なくてよくない?」としてしまうと、例えば天動説も立派な知識とみなされてしまうので、やっぱり真理もいるよね、ということになります。あなたのように「真理が成立していることをどのように検証するのか?」ということは哲学でも大問題になっており、そのような議論を通して、真理の対応説、真理の整合説、プラグマティズム的真理観、真理の余剰説etc.といった様々な真理観が提案されています。
今回の認識の正しさの講義を受けたら、帰り道、とても天井が低くなっているガレージを見つけて、私だったらこんなガレージの下にいたら不安すぎて息苦しくなるなと感じ、よく考えると、自分が住んでる家も、私は全く建築の構造の安全性とか、その根拠とかも全く知らないのに、家にいると、崩壊するかもなんて考えずに、安心しきっていることに気が付きました。歯医者に行くときも、インフルエンザのワクチン注射を小さいころうっていた時も、どのようなメカニズムなのか全く勉強してないのに、安心して受けていたことに気が付いた。しんじるってこわいなぁ。
――でも逆に全部疑いだしても生活が営めません。
『「考える私」の存在は確実』についての質問です。人類はおそらく、宇宙の誕生からシミュレーションできるコンピュータを開発できればそのシミュレーションを実行するだろう、そのため、今のこの世界がシミュレーションではないと言い切れない(シミュレーション仮説)という話を聞いたことがあります。そこで、自分の意識などがプログラムされたものであり、考えるという行動をさせられている(考えるという動作を実行している)というだけだとしても「考える私」の存在は確実といえるのでしょうか。プログラムであっても考えるという動作を実行するソースさえあればそれを「私」と定義するということでしょうか。
――そうでしょうね。自由意志で考えていなくても「私」は存在しうるということであり、今世間を騒がせている「意識を持ち始めたAI」にも含みをもつ話だと思います。
デカルトの方法的懐疑で人間の感覚を疑っているのになぜ考えている自分の存在を疑いえないもだと思ったのかがわかりませんでした。
――考えているという「感じ」がいまここに生じていることは疑いえないということです。それを「私」と名付けたというか。
デカルトの考える完全な存在は欺かないというつながりがわかりにくい神の存在を抜きにしてもよくわかりません。完全に欺かない存在があれば完全に欺くような正の方向の完全性と負の方向の完全性もあるのではないでしょうか、その存在が考えられるならこの論証はおかしいのではないでしょうか。
―――完全な存在は倫理的にも完全であり、倫理的に完全な存在は負の方向の完全性を持つことはありえないと言えるかな。
私の存在証明から神の存在証明は理解することができなかった。
私の存在が神の存在証明になり、それが神の誠実性の証明になるというのがよく分かりませんでした。
――ちょっと説明が大変なので小林道夫『デカルト入門』(ちくま新書)などを読んでみてください。
私はキリスト教信者であるため、デカルトが哲学的に自分の証明から神の存在や誠実性の証明、明証性の規則、外界の存在証明をしたことは私にとっては受け入れやすく、その詳細についてもっと知りたいと思いました。
――哲学における神と宗教における神の関係はなかなかややこしい。中世においては宗教的な神を理性的に捉えようとしていたのですが、それ以外の時代では独立していることもある。このあたりも小林道夫『デカルト入門』(ちくま新書)にちょっと書いてあったか。
デカルトの話で確実なことの内の1つは神の存在だと思いました。神が騙しているからその対象の自分が存在する、これは神が存在していることが前提になっています。神が居ないと自分の存在を証明できないのに、自分の存在から神の存在を示すことはできるのでしょうか?
――いや、自分の存在の証明のためには神の存在は必ずしもいるわけではありません。懐疑の流れの中では、欺く神を想定し、「どれだけでも欺いてみよ、でも欺かれている何かは存在する」という議論をしましたが、別にこれが私の存在証明のために必須なのではありません。何かを考えていることを直接的に認識できればそれで十分です。
先生は、デカルトは「言葉の意味を疑っていない」と言ってましたが、言葉の意味を疑ったとしても、他の人に伝えるためにその言葉を選んだのではないかと思いました。
――なるほど。おもしろい指摘だ。20世紀には言葉の意味を疑った人がいたのですが、「議論をする上では言葉の意味は疑わない」とコメントしていた(クリプキ『ウィトゲンシュタインのパラドックス ――規則・私的言語・他人の心』(ちくま学芸文庫))
全面的懐疑主義に対して、どうしたらいいのか全く分からなかった。でも、全面的懐疑主義者のデカルトの「我を思う、故に、我あり」という有名な一文にも抜けがあることに驚いた。一つは時間的乖離。二つ目は、言葉の定義である。自分はデカルトの懐疑論結構好きで、抜けはないと思っていた(我を思う、故に、我ありは真理)けれど、まだ疑えるものがあるとは思いもよらなかった。哲学の授業取っていなかったら気付かなかったと思うので、取っていてよかったと思った。最近、哲学の思想家たちのたどり着いた答えは宝石のように輝いて見えるのに、哲学の世界の奥深い部分に入っていくと、その宝石のような思想にも不純物(穴)があって、その混沌にはまっていく沼みたいだと思う。そもそも考えること自体が哲学において沼なのかもしれないなと思う。素晴らしい思想家たちの思想もこの沼のような思考の世界から様々な憶測を巡らせて、やっとたどり着いた思想が宝石のように輝いて見えるもの(外観)になる。それにつられてやってきた人たちが次々にその沼の中に入って、新しい宝石を生み出していくのかもしれないなと思う。正直、超越論がよく分からない。したがって、全面懐疑論にたち向かうためには、疑うことも信じることもできるのだから、結局、信じるか疑うかを決める基準が重要だと思う。正直、超越論難しい。ネットで調べたけど、意味が分からない。次回の授業で理解できるように頑張ります。
もう一度考えました。別日です。まず、この世界が夢なのではないかという疑惑がある事は認めます。しかし、夢という言葉が存在するためには、現実が必要です。なぜなら、世界が完全な夢であったならば、夢と現実を区別する必要はありません。区別があるという事は少なくとも夢も現実も存在していて、いちいちこれは夢なのか現実なのか考えても仕方ないので、相対主義と絶対主義の議論の時のように夢という言葉が存在するために、現実という言葉が必要であるから、夢の不徹底で良いのではないかと思います。この世界には、夢という要素も現実という要素も存在するから、その時々に合わせて適切に夢と現実を使い分けることが一つの答えになると思います。例えば、この世界が夢だと思うことで、VRの世界が発展するならば、夢だと考えたほうがいい。しかし、夢だと思うことで不安になるならば、考えない方がいい。こういった具合にその場その場で効果的な方を使い分けることが重要ではないかと思う。(カニ食い虫)
――二回考えるのいいですねえ。ペンネームもうれしい。
全面的懐疑論に対して、「対抗は不可能」という結論に至ってしまいました。僕は、夢とは自身が頭で想像した世界であると考えました。その外側に現実の世界があり、夢から覚めることで現実世界に戻ることができます。しかし、我々はその「現実の世界」を認識することはできません。その世界では僕はどんな存在で、どんなふうに夢を見るのか、何もわかりません。もし、僕が今まで経験してきた(認識している)人生すべてが夢であったなら、その経験から定義した「夢」も間違っているのかもしれません。すなわち、「現実の世界」を認識できない限り、僕の頭で考えることすべてが疑われてしまいます。以上から懐疑論について考えることができなくなってしまいました。先生や他の学生の皆さんの考えを聞くのが楽しみです。
今回は、全面的懐疑論にどう対応できるかについて考えてみたいと思います。まず、「夢」という言葉の意味が成立するためには、その対立する物との関係において成り立つ。すなわち、ここで「夢」の対立物を、とりあえず「現実」とする。しかし、ここで「現実」を「夢」の対立物としておくことで、全面的な懐疑論に一つの矛盾が生じることになる。それは、すべては夢ではないかとするのが全面的な懐疑論であるならば、そもそも一切この世に「現実」というものが存在しないことになる。つまり、「現実」というものが成り立たないということならば、当然に「夢」というものも自動的に成り立たなくなる。そうなれば、全面的懐疑論で見る世界においては、そもそも何もない空虚としての世界だけである。だから、対応としては、すべて夢として考えるのではなく、「現実」との関係において、「夢」が存在すると考えるのが良いのではないでしょうか。確かに「夢」と「現実」の違いを捉えるのは議論として難しいかもしれないけれども、すべてが「夢」であるという議論は成り立たず、少なくとも「現実」との共存において、「夢」というものは存在しているということです。
―――うん、もうこの説明で私の言いたいことは尽くされている。他の人もきれいに説明している。
全面的懐疑論にどう対応できるか?という問題に対しての回答として、先生のヒントを参考にすると次のようなものが考えられる。言葉は対立物との関係で意味を持ち、「夢」という言葉が成立するためには対立物である「現実」という言葉が成立しなければいけない。しかし、全面的懐疑論とは「すべては夢なのではないか?」と疑うことなので全面的懐疑論は夢以外の存在を認めていない。したがって、全面的懐疑論は現実の存在を認めていない。対立物が存在してはじめて夢の存在が認められるが、全面的懐疑論では対立物である現実の存在を認めていないので、全面的懐疑論はおかしい。
全面的な懐疑論とは、「すべては「夢」なのではないか?」と疑う考えである。この考えに対抗するには、まずは「夢」について考える必要があると思う。そもそも「夢」は「現実」無くしては成り立たない。「誤り」や「幻覚」に関しても、「現実」や「真実」がまず存在し、それと対立するものとして存在する。つまり、全てが「夢」ならば、それはもうただの「現実」である。
全面的懐疑論にどう対応するかという問題で、すべては夢なのではないかということに対しては、夢なのではないかという疑問は、現実があって初めて成立するので、全面的懐疑論が成立するなら現実も存在していることになる。
全面的懐疑論に対抗する手段について、先生のヒントを元に言葉の意味から考えてみました。夢、誤り、幻覚などの言葉は、それらの言葉の対となる「現実」「正」などがあって初めて意味を持つ言葉であるため、現実は存在すると主張できるということだと思いました。そもそも夢というものが存在するためには現実の存在も認めねばないため、全面的な懐疑論も回避することができる。
すべてが夢なのであれば、そもそも現実という言葉が存在しないのではないだろうか。
今回授業の最後に先生に課された問題を考えるにあたって、先生からもらったヒントとカントの超越論哲学について調べ、そこでわかったことをもとに自分の意見を構築した。結論から言うと、自分にはうまくまとめられなかったため、とりあえず考えたことを述べる。まず、超越論的観点からこの問題について考えるため、超越論哲学について簡単に調べた。超越論哲学とは、人間の適正な理性的認識と、「超越的」真実在と人間の理性は関わり得るのか、どのようにかかわるべきなのかという二つについて、理性自体の吟味・批判を通してメタ規定を行うことで、形而上学の余地を適正な形で復興しようというものであった。私はこの時点でうまく飲み込むことができなかったので、半ば諦めつつ次は先生にもらったヒントについて考えた。先生からのヒントでは、超越論的観点のほかに、「言葉の意味」というものがあった。言葉は、対立物との関係で意味を持つということなので、デカルトのいうところの「夢」が「夢」たらしめるためにはそれに対立するもの、つまり「現実」というものが存在しなければならない、ということだ。つまり、すべて夢なのではないか、と疑うということは確固たる現実の存在も証明しなければならないということなのである。「すべてが夢なのではないか」と疑う全面的懐疑論では現実の存在も疑うことなので、そこに全面的懐疑論の綻びがある、というところから対抗することができるのだろう、というところまでは何となく考えられた。正直あまり自信はないが、以上を私の意見としたい。
――頑張っている!
今日はデカルトの全面的懐疑論について学び、超越論的観点で全面的懐疑論に対応することを考えました。
デカルトは、考える私の存在は疑えないということを考えたとありましたが、すべて夢なのでは?幻覚なのでは?と考えているのは、自分の存在以外にも幻覚ではない実在するものの存在を認めているのではないかと考えました。対象を疑う時、疑うことが可能になるのは、疑えない事実がある(=疑う余地のない正しさの要素を持っている)という認識があるからだと思います。例えば、疑うことができるのはこの現象世界にあるものだけで、今自分が認識できていないものを疑うことは不可能という事実があるのでは?と思います。また、疑うという行い自体は疑えないのではないかと思います。なぜなら、疑うことに対して疑問を持っては問い自体が成り立たなくなるからです。結局、疑い得ない存在である自分が、なんらかの対象を疑う(この行為自体についても疑えない)とする時、疑えないものがあるということを自覚したから問いを考えることができているので、全面的に懐疑的になることは不可能でないかと考えました。
――「疑いえない事実があるということ」が疑いを可能にしているということか。
全面的懐疑論に関して、「夢」が成立するためには夢を見ている「現実」世界が必要である。しかし自分が「現実」と思っている場所も実は「夢」なのかもしれない。この議論を続けていくと無限後退が始まってしまう。無限後退は哲学的にそれ以上追及できないもの、考えることが止まってしまうものであるため排除する傾向にあるように感じる。つまり無限後退が始まってしまう全面的懐疑論は成立しないと考える。
――無限後退するから全面的懐疑論は成立しないとするか、無限後退するから全面的懐疑論は否定できないとするか。私としてはだからこそ全面的懐疑論は否定できないと思う。
今回は全面的懐疑論について考えていきたいと思います。夢があるということは現実も存在しているということになります。ここで、すべては夢であると仮定します。そのように考えるなら、今見ている夢の世界とは別に現実の世界も存在しているということになります。しかし、今見ている夢が覚めたとして、その世界は現実であると確定させることはできるのでしょうか。すべてに対して疑うということなので、夢が覚めた後の世界も現実であると断定することはできないでしょう。そうなってしまうと永遠に夢ではないかと疑ってしまい、現実と断定できる世界にたどり着くことはできないということになってしまいます。つまり、「すべては夢である」と仮定してしまうと、現実へたどり着くことができず、現実の存在があやふやになってしまいます。夢という存在はあるのに現実はあるかどうかわからない状態になるという矛盾が発生してしまいます。そのため、この仮定は間違っているということではないでしょうか。仮定が間違っているということは、この世界は現実であるということになります。私はこのような考え方で全面的懐疑論に対応しようと考えました。
――このような背理法が成り立つためには、「夢という存在はあるのに現実はあるかどうかわからない状態が矛盾」という点が正しくないといけないのだが、なぜそうした状態が矛盾と言えるのかもう少し説明がほしい。
すべての概念が人間の経験だけに基づくものならば、数学や論理学など多くの【人間同士で通じ合える学問】が存在することをどう説明するのか?人それぞれ異なった学問体系があってもいいはずだし、全く同じ体験をしているような人間なんていないのに、同じような結論にいたるものはいくつもある、という事実をどう説明するのか?ということを考えたときに、全面的な懐疑論に対抗できるのではないかと思います。
――「○○という事実を全面的懐疑論は上手く説明できないから、全面的懐疑論は誤りである」というパターンの議論で興味深いのだが、もう少し説明が欲しい。
私は全面的懐疑論を持つこと自体が自由意志の象徴ではないかと考えました.例えば私は水槽の中の脳だったとすると,外部から刺激を与えられることで認識を得ています.すなわち,得られる情報はすべて外部の任意に基づくので,このような思考をわざわざ持たせる意味がないのでは?と思います.外部による実験として考えさせられているのならあり得ますが,そうすると外部も同じ問を持つことになり,究極としてこの
――非常におもしろく読んでいたのに、途中で切れてしまっている。自由意志の証明のために全面的懐疑論をしているという事実が使えるということか?
全面的懐疑論についてですが、これについては僕は反対するつもりはなく、この考え方が正しいのではないかと思っています。僕が正しいのではと思っているのは「自分達の体は実際には存在せずに、脳だけが誰かに操られ、五感すらも現実にあるように思わせる信号か何かが送られている」-①という考えです。これは講義中にも全面的懐疑論の例として出てきたと思いますが、この話はテレビ番組「やりすぎ都市伝説」で関暁夫さんが紹介していました。僕は当時この考えには反対していたのですが、よく考えると自分達が実体として存在し普段の生活が実際に行われているという主張は①の考えによって否定されるなと思いました。この世界では生物の中では知性を持った人間が最も強いとされていますが、僕達人間よりも知性が高く、より力を持った生き物が存在するかもしれません。そして彼らが人間を操る事によって人間が生きられている、生きているかのように思うのを可能にしているのかもしれません。今の僕には全面的懐疑論に対抗、そして否定できる理由が見つからないので僕は全面的懐疑論が正しいと考えています。ですが逆に全面的懐疑論が正しいという証拠もないので完全に正しいとも言い難いです。
クルサの駐輪場がどこかいまだにわからない。
――裏。西側というか。
「インターネットで育った汚い人間」という自虐のようなコメントを見ましたがネットで育ったことの何がいけないのでしょうか?もちろん相手に伝わらない用語を使うことはよろしくないとは思うのですが(使う際にその言葉の意味も説明しているなら問題ないと思う)、わざわざそういう書き方をしたのはなぜなんだろうと少し疑問に思いました。私はネット自体は使い方を間違えなければ様々な情報や意見を見ることができて、自分の見識を広めることができる素晴らしいものだと思っています。だから、ネットで育った人は様々な視点から物事を考えたり、何かの企画を考えたりする際にはたくさんの案を出すことができるというような能力が養われている人が多いと思います。
今回の話題はこの講義で一位、二位を争うレベルで面白かったです。「正しいことは人それぞれ」というテーマでしたが、相対主義が絡んでくるんですね。相対主義というのは評価対象を評価するにあたり、他の評価対象と比較することによって評価の位置づけが決められるという考えに基づいているものです。これは、中学生の時によく耳にしました。学業の成績を出すときにいつも先生が「今回の課題は相対評価だから、頑張りやー」と言っていました。相対主義を学業に適応させる操作は正しいかどうかわかりませんが、私たちの身の回りでも相対主義的思考が多数見られます。相対主義の良い点は価値観の多様性が認められているというものです。それぞれの意見が尊重されます。これは非常にいいことだと考えます。しかし、講義でも挙げられていたように、議論や批判が成り立たなくなるという問題があります。むしろ、議論や批判ができないと言うほうがいいのでしょうか。相対主義を取り入れたとすると、それぞれ意見を尊重しなければいけないので、会議の中でもしそれぞれがベクトル異なる思考なのならば、会議は破綻し終わります。最後の応答3のように相対主義の中に絶対主義を取り入れる必要がありそうです。ところで、今相対主義について私たちは評価していますが、何か不思議な感じがします。相対主義を評価するにあたり、相対的に評価しているあたりが引っ掛かります。相対主義は結局相対主義でとらえるとどこか不確定な部分があり、最終的には絶対的な評価が必要になるような気がします。何かよくわかりませんが、こういうことを考えていると面白くなってきたので、今までの哲学思考の中で面白さが上位になりました。
――楽しんでもらえたようで何より。
「相対主義が存在するためにはどうしたらよいか」
相対主義を全ての人に適用すると、相対主義を認めない人も認める事になります。これが相対主義のパラドックスでした。私はこの相対主義を聖母に例えます。聖母は「全てを受け入れます。」と言います。神は「では、聖母を殺すという考えも受け入れるのですか?」と問います。聖母は答えに詰まりました。神は続けて「全てを受け入れる事とは、自分(思考)を殺すという事も受け入れる事になるのです。」と言いました。このことから、私は「全てを受け入れる事」とは、「自分が殺されない」という大前提があって成り立つと考えます。実際、デカルトの「我を思う、故に我あり」でも、我という絶対的なものが存在すると説いています。そうです。私たちの思考の中にも、我という絶対が存在するではありませんか。我という絶対の大前提が存在するからこそ、それ以外の思考が存在するのではないでしょうか。ここで、相対主義を擬人化してみましょう。私は相対主義です。なんでも、正しいです。”ここで、悪魔が現れた。”悪魔は「相対主義嫌いだから殺してもいい?」と言いました。相対主義(私)は受け入れました。死にました。相対主義は殺されました。やはり、相対主義という概念(思考)が存在するためには、相対主義を殺す(無にする)という考えを取り除かなければならないのでは?これは、我という思考が存在するためには、我を取り除いてはいけないという事に近いように感じます。私という思考の核となる絶対的な概念は我であるように、相対主義という思考の核となる絶対的な概念は相対主義です。私はここから最低限の絶対主義で、最大限の相対主義を実現する事が重要だと考えます。これは、なんとなくです。というか、道路に1メートル間隔で信号があったらどう思います?(もちろん、一定時間で赤信号になります。)正直、物凄くうざいと思う。最低限の信号(絶対主義)で最大限の自由(相対主義)を保証する事が重要であるのではないかなと考えます。違うかもしれないけれど。しっかり考えようとするといくら時間があっても足りないだろうし、たぶん無理だし、こんな感じだと思います。
――なんか面白い。文章も。たぶん以前も面白いもの書いてくれましたよね。識別しやすくなるのでペンネームがほしいところ。
今回は相対主義について考えた。小学校で一度は言われるであろう「みんな違ってみんな良い」という言葉は、相対主義の言い換えのようなものだと思うが、中学生の時にこの言葉に違和感を覚えた。みんな違ってみんな良いなら殺人犯もいいのだろうか。今までこんなことを言ったら卑屈だの難癖だの言われたが、哲学の世界ではそんな考えは初歩の初歩で、その矛盾に対するたくさんの解決策が考えられていることが分かった。哲学により一層興味が湧いた。
――哲学に興味が湧いたようで何より。
自分の主張が成り立ってしまえば、相対主義の原理に反則するということから、相対主義の中においても共有されることを見いだすという考え方の変換が面白いと感じました。
――そう。考え方の変換、思考や議論の(予想外であったり、華麗であったりする)ムーブが哲学の一つの面白みですよね。
「正しいことは人それぞれ」と言われたら、納得できなくて反論しようと思っても言葉が出てこず、自分が納得できないまま(もしかしたら相手も完璧に腑に落ちてないかも)議論が未解決のまま終わってしまう。これが相対主義の問題点である。つまり、「正しいことは人それぞれ」と言われた後に言い返すことができて、両者が納得できる形に議論が終わることができればこの相対主義の問題点は解決する。そこで、私は「正しいことは人それぞれ」と言われた後の反論として、「あなたの身近な人がそのような的外れなことをしていたらどう思いますか?」「あなたの近所でそのような的外れのことが起こったらどう思いますか?」というような反論をするとよいと思った。この方法でとりあえず相対主義の制圧下から抜け出せると私は考える。
――相手が暗黙のうちにであれ絶対的なものを認めていることを明らかにするということですね。
相対主義を利用して議論するときはある程度の基本的な基盤のようなものを設定しておくといいと考えました。基本的な基盤というのは幼児殺しや殺人などが許容されないよう人間の生命や安全を守るために、人間は殺してはいけないというような道徳的規則のことです。その基盤をもとにすれば文化相対主義などの問題が解決されるのではないかと思います。また、いつでもあらゆる面で1つの考え方や主張をもとに物事を決めたり議論したりすることはありえないことなので相対主義は適宜利用するべきだと思います。具体的には、相対主義は価値観や生き方、考え方、物事のとらえ方などについて考えたり議論したりするときに適応すべきものだと思います。私自身は、時に知識不足や視野の狭さによって固定概念にとらわれて会話や議論をすることがあるので、相対主義をうまく利用して健全な議論ができるような人間になりたいです。
――現実的かつ妥当な対応方法だと思います。
相対主義をとりつつ、建設的な議論をするには、どうすればいいか?それは、相手の意見を否定しないことだと思います。相手の意見を否定せず、多種多様な意見を取り入れ、その中で妥協案を出すことが相対主義をとりつつ、建設的な議論をし、結論を出すことができるのではないだろうか。しかし、この方針には問題点がいくつかあります。それは、妥協案が見つかるまでに時間がかかりすぎてしまうこと、明らかにおかしい意見であっても表向きに否定できないことです。一つ目は、そもそも意見が出ずらかったり、妥協案をひねり出すのにも時間がかかるので、ある程度区切って進行しないと、議論が進みません。二つ目は、相手の意見を表立って、否定できないことは議論を進めるうえで致命的な欠陥といえます。ですが、この方針は相手の意見を否定しないことです。この二つを両立させるためには、相手に気づかれないように意見を否定して、すぐさま代案をだすことで、妥協できると思います。結果的に、意見を否定しないという方針が崩されていますが、相手にきづかれないのであれば、議論が成り立ち、結論が出されるので、一定の理解を得られるのではないでしょうか。
――「否定していることを相手に気づかれなければよい」というのは大変現実的ではあるんですが、いわゆる古代ギリシアのソフィスト的な手法であり、ソクラテスなら噛みつくところでしょうねえ。
今回相対主義について詳しく学んだことによって自分は相対主義的思考なんだと思いました。理由としては二回前のコメントで蓄積倫理(仮)という考え方を論じたときに自分が至った思考と酷似していたからです。やはり道徳的な思考はこのような相対的、蓄積的に決まっていると思いました。
――ああ、「蓄積倫理」の人ね。
今回の内容は,以前の講義と似た点があると感じました.応答1における”相対主義は常に相対主義を正しいと主張し,立場を動き続けなければならない”というのは無限後退のように思いましたし,応答3であった相対主義者もある不変の事実を持っているというのは超越論的な視点に感じました.
――超越論的な視点を感じ取るとはさすが。そうなんです、私、超越論的な視点が好きなんです。次の授業でも使う予定。
[…]相対主義を主張するためには、言い続けなければいけないというの思想は、以前この授業で紹介されていた「無限後退」が頭によぎったからです。結局、相対主義を正当化するためにいつまでも同じ議論を繰り返すことは、相対主義の問題点を解決することにどのようにつながるのかイマイチしっくりきません。そして、これは以前に見た無限後退と類似するものなのでしょうか。そうだとすれば、この議論はそもそも成り立っていないのではないかとも思いました。
今回の講義を聞いて疑問に思ったことは、相対主義と道徳は矛盾しますか?講義で言っていたように、コメント欄に道徳に反したことが書かれていても、人それぞれと言ってしまえばそのコメントは容認されるものなのでしょうか?でも、そのコメントを書いた人の物事の考え方を否定するのも道徳に反すると思います。相対主義は道徳的だとも思うし、違うのかなとも悩みます。今回の講義は裏の裏の裏の…みたいな話を考えているうちに次の話題に進んでいたりしていて全体的に難しかったです。
――「道徳は相対的なものなのか」ということ自体が倫理学(メタ倫理学)において大問題になっています。個人的には先日の話を道徳に適用し、「だいたいの道徳は文化や時代に相対的だが、絶対的(普遍的)な道徳もいくつか存在する(しなければならない)」と考えております。
「人それぞれ」という言葉は私にとってとても便利で、都合のいい言葉です。自分の意見を曖昧に、相手の意見も尊重しながら受け流すことができます。事なかれ主義には必須の言葉です。しかし、議論をするという場合に関しては、相対主義の言葉は扱いが難しいということがわかりました。私は「そもそも議論なんかしなくていいのに」と考えてしまっていたので相対主義にデメリットがあることを聞いて驚きました。
私はどちらかというと相対主義的な考えを持っていて、会話をしていて意見が分かれたときや対立しそうになったときは事なかれ主義で「まあそれぞれいろんな意見があるよね」という感じでその話題を終わらせることが多いので相対主義のパラドックスのことを聞いたときに、本質的には何も解決していないのかとハッとさせられました。
――まあ私も「議論が大事だ」的なことを授業では言いますが、普段はことなかれ主義で議論を放棄している傾向があるので、人のこと言えない。というか、自分が苦手(嫌い)なことだからこそ、あえて「議論が大事」だと口にしているところがある。
正しさや価値は人それぞれなのは確かだと思います。最初の方で、先生が道徳の授業を見に行った話をしていましたが、いわば、道徳の授業も正しさや価値について議論しあう授業だと言えます。相対主義の立場をとると、多様な考えが出る一方で、議論が成り立たず、授業としても成立しなくなる可能性も否定できないと思います。1つの正しさや価値にまとめることも何か違うし…。
――道徳の授業の方法論に関する問いである。個人的には、初等教育における道徳教育は、「強制」と「放任」の中庸としての「勧誘」という態度が重要なのではないかと考えている。「こういう道徳っていいよね?」というスタンス。
相対主義の話を聞いてて思ったのは「人々が様々な根拠を信じ多種多様な考えを持っている」といったことは、少なくとも現代では普遍的で当然のことであることから、議論する上での前提になっているのではないでしょうか。そのため、その考えを議論に持ち出すこと自体がおかしいように感じましたし、これが私の考える相対主義なのだと思います。詳しく説明すると、人は知識や経験を持ち、それを根拠に自分の考えを持っている。そして、当然ながら人によって持ち合わせる知識や経験は異なるので、考えも異なる。議論というのはコミュニケーションによって互いの知識や経験を共有した上で考え(結論)を出す行為であるから、「みんなの考えは全部正しいよ」というのは間違っているわけではないが、だからこそコミュニケーションを通じて共有するべきという確認でしかありません。この理屈でいえば、最も質が悪いのは「それってあなたの感想ですよね?」などという発言で、共有することそのものを拒否しているのです(とあるネットの言葉に対する反論)。
いつかひろゆきの「それってあなたの感想ですよね。」を哲学的に論破できるようになるのではないかと思うととてもワクワクします。
――あの人は協力的なときには本当にいい感じで議論をなされるのですが、喧嘩腰になると途端によろしくなくなりますよね。
今回の授業で先生は「相手に認められると、正しくないことになる」と言っていましたが、なぜそうなるのか理解できなかったのでその理由について説明してほしいです。
質問を1つさせて頂きます。第8回で紹介した相対主義への白川先生の応答で、独我論の考え方を出しながら、相手に自分の意見が認められた時自分の意見は正しくない事になるとおっしゃっていましたが何故なのでしょうか。独我論の考え方だとこれは正しいと思ったのですが、何故これが相対主義の場でも言えるのでしょうか。僕は相手に認められようが認められまいが、どの意見にも立場的には正しい事があるのが相対主義の考え方だと思っています。自分の中で理解ができなかったので返答頂けますと嬉しいです。
――あそこかなり重要なところをはしょって説明したので少々反省しております。改めて説明するとこういうことです。
松子が「正しいことは人それぞれ」という相対主義の主張し、竹子が「ほんとそうだわ」と同意した場合。松子は一瞬うれしくなるでしょうが、少し反省すると「これでいいのかな?」と不安になるでしょう。同意されることで、かえって「正しいことは人それぞれではない」ことになりそうですから。そこで松子は、別の梅子にも「正しいことは人それぞれさ」と言ってみました。梅子も「まったくその通り」とのこと。仲間が増えてうれしいな~と松子は少し喜びましたが、やはりちょっと考えると「同意されるっていいことなの?」と不安になります。ますます「正しいことは人それぞれではない」ことになりそうですから。つまり、相対主義を主張する際には、「他人から同意されればされるほど、その主張がもっともらしくなくなる」という奇妙な構造があります。もしあらゆる人に聞いてみてみんな同意すれば、相対主義の主張は誤りだということになります。授業では「誰か一人にでも同意されれば相対主義の主張が正しくないことになる」という感じで言ったので誤解を招きましたが、同意されればされるほど正しさの度合いが減っていき、全員(現実的には無理でしょうが)に同意されれば誤っていることになる、と言うのが正確ですね。どうもありがとうございます。
すこし引っかかったのは、相対主義に対する応答②における、「すべての主張は相対的に正しい」というものは「すべての主張」に含まれない、というのがいまいちピンとこなかった。「すべての主張は相対的に正しい」という文言自体は主張ではないのか?これが主張に含まれないとすると、「すべての主張」には例外があるということであって、その例外はこの文言だけなのか?もしこれが「そういうもの」として理解するしかないのならそういうものとして認識するほかないのだが、どことなく腑に落ちなかったな、という印象だった。
――まさにそうで、ある問題に対処するためにその場限りの対応することは、非難を込めて「アドホックな対応」と言われます。特に理由なくこの文言だけを例外とみなすならばアドホックと非難されても仕方ないでしょうね。野矢さんはどんな議論をしていたかな?
相対主義の主張は絶対的に正しいというと、自己矛盾して、相対主義は相対的に正しいというと、相対主義を受け入れなくてよいということになるということですが、それのなにが問題なのでしょうか。
――このような事態を「問題視」している時点ですでに絶対主義的な前提を導入しているということかな?(批判に論点先取の香りがするということかね?) 真の相対主義者なら問題としないということか。
先生の話を聞いていると、語彙や例えにとてもインターネットを感じます。私はインターネットで育った汚い人間なので「ヤフコメ」と言われてもそれを感じ取ることができますが、世の中には思っているより美しい人間がたくさんいるので、もう少し大勢に通じる言葉を使っていただけるとほかの人にも優しい授業になるのではないかと感じました。
――わしもいつの間にか汚い人間になってしまったか。注意しよう。
今回の講義を聞いて、哲学者は、完璧主義な人が多いと思いました。
自己言及のパラドクスは数学で読んだなと思い,これについて書こうと思っていたのですが,調べてみるとラッセルのパラドクス,ゲーテルの不完全性定理のことだったのでここに書こうと考えていた内容が消えました.個人的な話ですが,数学が面白いと思うようになった理由の一つがラッセルのパラドクスなので,まさか哲学にも関連付けられるとは思ってもいませんでした.こうしてみると,論理数学の問題は哲学と近い位置にあるものが多い感じました.
先日武生にある武生中央公園に行ってきたのですが、そこのホリタ文具やスターバックスコーヒーが[中略]オシャレだったので今度是非行ってみて欲しいです。
コメントにあった人は一人で生きることができないという意見に賛成すると共に、共同体のなかでしか生きられないのだから道徳的であるべきだという考えに深く共感した。この思想はアリストテレスの人間はポリス的動物であるという考えに結び付くところがあり、我々の生は他人の営みの上に成り立つものであると思った。
利己的であると利他的となり、利他的であると利己的になるという相互性も興味深いと思った。
共同体の外で生きることが実質的に不可能だから私たちは道徳のルールに従っているというところになるほどと思いました。だから学校という共同体の中で生活するために学校で道徳を学んだのだなとわかりました。それ以前にも保育園で、人が使っているおもちゃは勝手に使ったらいけないだとか順番抜かしてはいけないだとかを先生が教えていたのは私たちが共同体の中で生活できるようにしてくれていたんですね。
――そう、私としては、保育士さんや先生には、頭ごなしにルールを教え込むのではなく、いかに道徳的なルールが有用かという点も含め説明してほしかったですね。「人のおもちゃを勝手に使ってはいけません。(これを守ると共同体で生きやすいよ)」「嘘をついてはいけません。(これを守ると共同体が成り立つよ)」なんて丁寧に付け加えてくれる先生は大変だし、ちょっと変な人と思われるでしょうが。
道徳的であることに対して条件のない「べし」を見つけることの難しさを知って驚きました。これまで「○○するべきだ」と大人たちから言われていたため、てっきりしっかりした根拠があってそう言っているものだと思っていましたw
――たぶん学校で道徳の授業をしている先生に聞いても答えられないんじゃないでしょうか、興味深いことに。根拠ないからこそ「〇〇するべき!」と強く言わなければならないのかな?
利他と利己が思いがけずに、繋がりあっているのでないかということを認識できた。それが、偶然にも認められるということが不思議に感じた。
――「協力的に生きる種」においてはそのような構造があるということだろう。次のコメントにも関係するが。
超越論的にべしを導くという話題の時、「人間であること」が、道徳的でなければならないことの条件になっているのが不思議で面白いなと思った。
今日の講義でも一つ面白いと思ったところがあります。それは、利己主義的利他主義です。人と人は切っても切れない関係からこれが生まれるとお聞きしました。昔、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」という小説を読んで、感想文を書きました。宮沢賢治が描きたかった、伝えたかったことについて考察していくと「他人に尽くすことが一番の幸せ、幸福である。」という考えを抽出しました。これは、利己主義的利他主義なんでしょうか。結局、他人に尽くすと自分に返ってくるという話でしょうか。全員が道徳ありきの思考なので何とも言えませんが非常に興味深いです。
授業を聞いていて、ふと思ったことがありました。「囚人のジレンマ」のところで、それぞれが自分の利益を最大化しようとすると結果として全体にとって望ましくない結果が生じるというものでした。これを避けるための一つの手段として、あらかじめ協力するように約束しておくというのがありました。これって法律と似ているのかなと思いました。例えば、万引きをしてはいけないという法律があります。だから、大半の人は万引きはしないのです。ここでですが、道徳という観点から見て、もし法律がなかったら果たして多くの人は万引きをしないのでしょうか。(万引きはしてはいけないものだという法律が存在することによって生まれる概念を一度取り払ってもらいたいです。)きっと万引きする人は増えるでしょう。利己主義は必ず万引きするでしょう。道徳的に生きている人は取らないでしょう。つまりいえることは、法律があるから万引きをやらないという思考があるのではないかということです。第一の前提として、万引きは他者のものを無条件で奪うのは道徳的にダメだという思考があるはずです。しかしながら、万引きをしてはいけないという法律があるということは万引きをする人がいるということを証明しています。ただでさえ、万引きは起きています。これって、その人たちを除くと、法律の上で万引きをしないという約束をしているような感じがします。そして、法律は守るのに法律がなくなれば万引きをする人が出てくるというのは不思議なことです。では、法律を守るという思考はどいう考えで生まれるのでしょうか。法律に協力するように約束をしておき、その法律に従うことは、道徳心からではないということなのでしょうか。考えるときりがなさそうです。フリーライダーもいい例かもしれません。うまく伝えられたでしょうか。
――うまく伝えられています。囚人のジレンマ的な状況において多くの人は協力しますが、どうしてもフリーライダー(万引き含め)が発生します。昔の村とかなら、その都度村八分などの懲罰を加えたのでしょうが、現代ではもっと効果的に協力状態になるように法律ができたのでしょう。この論からすれば、法律の根っこには道徳(とそれにもとづく懲罰感情)があるということですね。
今回の講義のまとめで出てきた、「利己主義的利他主義」という言葉を聞いて思い出したことがある。私は前年度、金曜2限で『「利他」とは何か』という文献を検討したことがある。その文献では、フランスの思想家であるジャック・アタリという人物の、「合理的利他主義」という言葉が紹介されていた。合理的利他主義とは、利他主義とは合理的な利己主義であるというような考え方を指す。例えば、近年の出来事で例えるならば、新型コロナウイルスの感染の脅威から自らを守るには、他人の感染を確実に防ぐ必要がある、といったようなものだ。つまり、「合理的利他主義」における利他的行動の動機は「自分の利益」に他ならない、ということだ。今回の講義で出てきたようなこととは少し異なったニュアンスかもしれないが、講義を聞いていて、「利他」とは本質的には「利己」なのではないかということを改めて実感した。
――先日の授業の話はジャック・アタリ路線のものなので、その本の著者たちは反対するでしょう。
人間社会はなぜかたまたま、自分の利益を上げるためには、利他主義になるほうがいいというのは、合理的には理解できるんだけれども、感覚的には不思議だと思ってしまう。話の途中であった、1歳くらいの幼い子供でも道徳心を持っているから進化の産物なんだというところで、成長すると道徳心を失ったかのように見える人が時折みられるけど、あれは道徳心が無くなってしまったのか、道徳心はあるけれどそれに反する行為だとわからなくなってしまったのかという疑問を持った。
道徳は進化の産物?という主張の根拠が赤ちゃんでも親切な行動はするからとあった。要は、道徳が未成熟な子供でも親切な行動をするということであろう。であれば、道徳が未成熟な小学校低学年などでも起きるいじめは本能的なものなのだろうか。強いてこれに対して反論するならば、血を分けないこうもりを群れから排斥しようとするような本能であり、非道徳的な人間を排斥しているだけといえるかもしれない。しかし、容姿の違いなど道徳は関係ない些細な違いでいじめという非道徳は発生する。そのため、人間は決して道徳的でなく、強者にすり寄り弱者を嬲る本能を正当化しているだけのように感じた。
――おそらく道徳的な行動もいじめ的な行動も本能的なものだと思われる。異質なものを排除することは(一時的に)集団に安定をもたらすと説明できるかな(このように進化論は何でも「説明」できてしまうので使用には注意が必要。
道徳は進化の産物(?)という仮説はいつ頃登場したのかを疑問に思いました。wikipediaによると1900年前後ということで、哲学史としては最近の出来事に思います。私は、この仮説をかつての思想家が聞いたときどのような反応をするのかが気になりました。高校で倫理を学んでいないため勝手な思い込みがあると思いますが、彼らは思考、ひいては道徳などを人間の特権と考えていたのではないでしょうか。行動に迷うとき、それはもう一方の選択をした場合の未来を考え迷っているということだから、知能がないと迷うという選択肢そのものが出てこないように思います。そのため、人間だからこそ道徳を持っていると無意識に、それこそ超越論的に捉えていたのではないでしょうか。また、自分は進化論理学に一度は納得したものの疑問点もでてきました。それは、人間の高度化した道徳観に対応できるのか?という点です。例にあったコウモリでは互いに「生き残る」ため協力していましたが、それ以上の道徳的行為はできない、というよりできる環境に無いように思います。盗みはダメ、殺しはダメ、相手と自分の利益を比較して行動するなどは社会全体の意識共有が必要であり、生存目的の思考だけでは持ちえない感覚に思えました。
――進化論はかなり破壊的なところがあるので反発も受けやすいですね(特に人間と動物の差異を強調したい神学等では)。後半部分についてはまさにそうで、本能的な道徳観では小規模な集団内の倫理は説明できるが、現代のようなグローバルな規模のものは説明できないので、積極的に理性を使っていくべきだ、なんて話がジョシュア・グリーン『モラル・トライブズ』であります。
試合や集団遊びをするときに、そのうちの一人がルールを守らずに取り組んでいたら全員楽しめないから、全員が楽しむためにはルールを守るべきであるというのはよくわかったが、この理論が現実世界に応用できるというのは納得できなかった。「我々は共同体の外で生きることは実質的に不可能だから我々は実質的に選択の余地なく道徳的であるべし」という説明があったが、実際に、世間一般的な道徳に反するような人は一定数いて、世間一般的な道徳に反するような共同体(ヤンキーなど)も作れるから、道徳的でなくても共同体に属せると思った。もちろん、道徳的でない方が良いとは思わないが、これが道徳的であるべき理由にはならないと思った。
――おそらくヤンキーたちは、「われわれ」からみると反道徳的だが、「ヤンキー集団」内部においては道徳的(ヤンキー集団を維持するための規範に強く従う)だと思われる。道徳というものを考えるときには、どのような集団レベルで捉えるかがです。例えば、戦争状態などでは、ある軍隊内部で道徳的(協力的)な行動が、敵対する相手に対しては非常に反道徳的になったりします。観点によって道徳的なものが反道徳的になってしまうというのは、一個上のコメントにも関係します。
今回の講義で特に興味を持ったのは、進化倫理学についてです。道徳教育を受けていないはずの赤ちゃんが道徳的行動をとるというのは、確かに道徳は進化の産物だと考えるのは妥当だなと考えました。よく身体的な機能が生存・繁殖に有利だとされることが多いですが、このように道徳といった観念まで本当に進化の過程で得るようになったのかについてもう少し探究してみたいと思いました。また、現在、小学校などにおいて道徳教育の時間を増やすべきだと意見もありますが、進化倫理学の理論でいくと、すでに道徳をある程度習得しているのならば、わざわざ他の時間を削ってまで道徳の時間を増やすのはいかがなものかとも考えました。
前回と今回の講義で、「どうして我々は道徳的であるべきなのか?」という問いについて考えてきたが、この問い自体が矛盾していて意味のないもののように思う。そもそも「道徳」の定義を調べると、グーグル日本語辞書には「社会生活を営む上で、ひとりひとりが守るべき行為の規準(の総体)。」と書いてある。つまり、道徳とは元々守るべきものである。そして、もし今道徳的とされている行為やルールが、守る必要がない行為やルールとなれば、それは道徳的な行為やルールですらなくなる。だからこの問いを考えること自体、無意味なのではないだろうか。
――ナンセンスギリギリのところを考えたいのが哲学ということか。
「実践をしたければルールを守れ」というのは納得しました。以前、一緒に野球をしていた知り合いがいるのですが、その知り合いは打つのが好きらしく、いつまで経っても打席を他の人に譲りませんでした。結果、その知り合いは野球に呼ばれなくなりました(笑)。仲間に血を分けないコウモリは追い出されるという話と似ているような気がしますね。
利己主義的利他主義は、「なぜ道徳的であるべきか」と疑問を持ってしまう人を納得させるためのものですよね。「利己主義が利他主義になる」という発想に違和感を持つ人がいるようですが、「なぜ道徳的であるべきか」と問う人を納得させるには利己主義的利他主義で十分だと思います。利己主義的利他主義に違和感を持つ人の多くは、おそらく「なぜ道徳的であるべきか」と問わない人ではないかと思います。
――いい発想ですねえ。
全体的に、「人間は道徳的なんだ」「道徳は素晴らしい」という結論ありきの議論に見えてしまった。
――私も一大学教員として授業はその方向性で進めざるをえない。まだ世間的な常識から逃れられていないということ。
実践とルールの関係で、その実践の内部ではルールに従うべきとありますが、前回の講義の道徳空間からでて吟味するという際には、何のルールに従っているのですか?道徳空間の外にルールはあるのですか?
――良い問いですねえ。実際どうなんでしょうか。
○○を実践するなら、○○を可能にしているルールを守らなければならあないという話で、よくよく考えてみれば私たちみたいな多細胞生物は大昔からそれをやっているじゃないかと思いました。多細胞生物で自己の利益しか考えないような細胞(=がん細胞)は免疫機構に駆逐されたする具合に。上の構文に当てはめるならば、宿主の体で生存するなら、宿主の生存を可能にしているルールを守らなければならない。私たちの生きる世界は、これが何層にも重なっているのではないかと思います。細胞→個体→地域社会→国家→世界(地球上)という具合に文明が発達するごとにどんどん層が増えているようにも思います。次は何だろう、太陽系とか?ゆえに、今回の話を聞いた私の考えは、”この因果からは逃れられないんだ”というものです。
――壮大な思想は好きだなぁ。
人間として生まれてきた限り、道徳的に生きることに縛られて生きていくしかないのか…
――まあ、無人島とかで生きるなら縛られないかも。
問題なのは「道徳的な人ほどモテるのか?」という点です。道徳的が本当に生存繁殖に有利であれば、道徳的な人が一番モテるはずなのです。授業では人間以外の動物の例もありましたが、最終的には”力”を持っている個体が生き残り、道徳的であっても”力”がない個体は自然淘汰されていくイメージがあります。人間でいうと金や顔や権力であり、小生がどれだけ道徳的であってもモテることはありませんでした。しかし一方で、迷惑系ユーチューバーとして逮捕もされている人が美人と結婚して幸せな生活を送っています。”力”というのはアナーキーな世界で覇者になることが出来、共同体の内側でも道徳的ではない行動をとることが可能です、つまり結局人は囚人のジレンマの「裏切」の方を望んでいるのではないのでしょうか!!!!!!???????
――「好きなタイプ:優しい人」も根強くないか?
教授は授業の冒頭で、福井県と福島県の人口を比べた話をされました。結局、後輩の住む福島県に人口が負けて大変悔しかったとの事でした。教授の福井への愛が日に日に高まっているなと感心しました。私は今のところ福井にいるというよりも福井大学にいるという感じが強く、福井の良さをあまり感じておりません。教授がうらやましいなと感じました。ちなみに、教授は京都府にお住まいの頃も京都府と他の都道府県とを比べていたのでしょうか。少し気になります。
――なかなか鋭い指摘なのですが、思い返すと京都にいたときはどことも比べていません。比べなくてもよいと感じていたんでしょう。この深層心理を突き詰めていくと、福井への「愛」も単純ではないということになりそうなので、追求するのは少々危険か。
先生たちは学会でどんな情報を共有しているのか教えてください。私、気になります!
――うーん、何を共有しているのでしょうか、聞かれてみると難しいですね。
囚人のジレンマでの繰り返しゲームでは、しっぺ返し戦略がほとんど最善と言っていましたが、例外がどんなものか知りたいです。
――「主人と奴隷戦略」というものもあるらしいです。ただしこれは集団的な戦略であり個人では不可能。そもそも「しっぺ返し戦略」を有名にしたアクセルロッドの議論には批判も多いので注意が必要です。
毎回みんなのコメントを見ていると一人ひとりいろんな主張をしていて、ひょっとしたら自分が考えていることも他の人にとっては考えたことのないようなことかもしれないと思い、自信を持てました。コメントのいろんな意見から刺激を受けて、再度自分の考えを直すのも楽しいし人生において貴重な時間だなと思いました。
カント義務論の問題点が前回授業のコメントでおおよそ網羅できるのが、単純にみんな気付きが多くて凄いなあ〜と思ってしまった。
カント義務論が最終的にケースバイケースの結論になることは、学問としてどうかと思いました。哲学の学問として1つの真理が出ると思っていました。
カント義務論と功利主義をうまく使い分けるといいと思いました。ただこの考え方だとある問題に対してカント義務論と功利主義のどちらの考え方を優先するかということを決めることにカント義務論に基づいて決めるのか、功利主義に基づいて決めるのかを考えなければならないという循環が起きてしまっているように感じます。
――そうです。「使い分けるのが重要」と簡単に言いましたが、「使い分ける際の基準は何なんだ」ということが問題になります。
ベンサムの量的功利主義から始まり、ミルの質的功利主義、そしてその不満からカント義務論へ、更にはカント義務論で生じた疑問(カント義務論に「他者」が存在するのか)から、他者や社会性を重視するヘーゲルの考えに辿り着くというこの一連の思想の流れがとても面白いと感じた。その当時の主流だった考え方が、時が経ち、その考え自体に疑問や不満を抱き、また別の考え方が生まれ、さらにその別の考えも…という変化を、倫理学だけでなくほかの分野でも(例えば美術など)絶えず行っていて、人間って不思議で面白い生き物だなあと思った。多分それは人間が常に変化する生き物だからで、常に変化するからこそ、普遍的で絶対に正しい倫理観というのが無いのだと思ったし、先生が何度かおっしゃっている「定期的に常識を吟味することが大事」に繋がって来るんだと思った。
先生が提唱されていた粋倫理についてですが、非常に興味深いと思いました。功利主義や義務論を学んでいる時に、内容としては比較的分かりやすかったですが、どうもどちらの理論も現実に当てはめてみるとしっくりこないというのが正直でした。むしろ、多くの日本人にとっては、功利主義や義務論よりも、粋倫理を基に行動していることが多いのではないかと思います。「なぜこの行動をとるに至ったのか?」に対して、幸福度合いを計算したからとか、普遍的な義務に従ったとかいうよりも、正直なところ、そうするのが純粋にかっこいいからだというが1番近い回答ではないでしょうか。ちなみに、自分は結構そういう理論で行動していることが多いかもしれません。なので、この粋倫理というものは確かに面白いかもしれません。
――中島岳志(2021)『思いがけず利他』(ミシマ社)という本を昨日偶然読んだのですが関連していておもしろかった。特に「江戸っ子気質」が粋倫理と関連しそう。
講義を聞いて疑問に思ったことが、道徳の世界から出て吟味する人がいるのになぜ入る前に吟味する人がいないのかということです。例えば大抵の人は、宗教や反社に入る前に吟味し入るか考えると思います。同じように道徳の世界に入る時も子供に考えさせるべきだと思いました。
――ほんとおもしろい発想ですねー。まったくそうです。でも、考えたり吟味したりできるレベルに成長するまで子供を道徳の空間の外側に待機させるのは非現実的なのでしょう。考えたり吟味したりできるレベル以前に道徳の空間に入れざるをえず、それゆえ強制的にならざるを得ないというのが、道徳教育の〈非道徳性〉をもたらしているのだと思います。いかに強制的ではない仕方で子供を道徳空間に入れるか(少しでも道徳的な仕方で道徳教育を行うか)が、教育学部の教員としても切実な課題です。
何故道徳的に正しい事をすべきなのかという事でしたが、これに対する「道徳的である方が得であるから」という回答はその通りだと思います。本当に得なのかなと僕も考えましたが、これまで道徳に従って生きてきたであろう僕の人生を振り返ってみると、確かに道徳に従わない行為をした人よりも印象は良いだろうし優遇される事も多かったと思います。僕はまだ19年しか生きていないですが、例えば道徳的に正しい行動をすると先生から罰を与えられる事もなく、褒められる事が多かったと思います。これは大学に入る以前の話なので社会人になると道徳的に正しい事をしても得をしない事もあるかもしれません。最近の例だと、僕には中学以来の親友がいるのですが、彼曰く大学はいかにサボって効率良く単位を取るかが大切だそうです。彼は授業をサボる事が多く、それでも蓋を開けてみると単位はある程度取れているのです。僕は彼の「授業をサボる」という行為は道徳的に正しくはないと思っていますがそれでも彼は損はしていませんし、むしろ授業の時間を彼の好きな事に使えたのでむしろ得をしているのではないでしょうか。つまり社会には道徳に従っても得をしない事はあるし、従わずに得をする事もあります。しかし僕は人生という長い目で見ると道徳的に正しい行動をし続けた方が得をすると信じています。
なぜ道徳的であるべきなのかという問いに対して私はその方が得だからという考えに賛成です。ただし、ここでの得を目で見える得だけでなく、精神的な得(喜びなど)、長期的に結果が出る得(位の昇格など)、得になる可能性があるもしくは増えるという得(学校の成績など)、損になることを防ぐこと(スピード違反にならないようにするためにスピードを調節するなど)などを含めた広い意味での得と考えています。ただし、すべてのことに対してこのように考えていたら考えすぎて頭がショートしてしまうためある程度は無意識に過去の経験に基づいて道徳的である方が正しいと決めきっていると思います。ただ、その過去の経験は最終的には損得を考えた結果を参考にしているのではと考えます。
――全体的にもっとも。
先生は人々が道徳的であるべき理由の1つについて「道徳的である方が得だから」ということを社会契約論を交えて説明していました。しかし、私は「道徳的である方が得だから」というよりも「道徳的である方が損しにくいから」だと思いました。社会契約論は自分が犯罪をしない代わりに自分が犯罪の被害にあいにくくなり、自分が人に親切にする代わりに自分も親切にしてもらえるようになるものだと私は解釈しました。それにもとづき考えると道徳的であろうとすると人に助けてもらえますが時に自分を犠牲にして人を助ける必要もあります。なので、得はありません。しかし、犯罪しない代わりに犯罪の被害にあわなくなると得は無いですが犯罪にあって損することも無くなります。犯罪の場合はすることによる得よりされることによる損の方がはるかに大きいです。なので、人々はそのリスクをなくすために人々は道徳的であるべきであると思いました。
――そのとおり。
講義で「どうして我々は道徳的であるべきなのか」の問いに対して出てきた「道徳的であるほうが得だから」の答えはあまり共感できない。たとえ得であったとしても、被害に巻き込まれないために弱者が強者に従っているように感じられ、これだと強者中心の契約が当たり前となると思うからだ。
――そうです、「契約説」的な道徳観に対してよく投げかけられる批判です。
なぜそもそも正しいことをしなければならないのかという問いに対して「道徳的であるほうが得」という回答、圧倒的強者以外のための契約というふうにききました。ここでの強者とはどのような人を指しているのでしょうか。お金持ちの人、高い地位にいる人、頭がいい人、運動ができる人、物おじしない人…世の中には様々な強さがあります。しかし、その全てを兼ね備えた人はいないと思います。私はそれぞれの人に得手不得手があり、互いにできることをすることで自分も相手も得をするというふうに考えました。
――そうです、近代の契約論者のホッブズはまさしく「それぞれの人の諸能力を総合すると結局同じくらいの能力になるから圧倒的強者はいない。そのため万人の万人に対する争いが発生する」と言います。
「どうして我々は道徳的であるべきなのか?(=人を殺してはなぜいけないのか)」という問いに対して、つい最近似たようなことを見聞きしたなと思ったが、「ミステリという勿れ」という漫画の2話ぐらい?のバスジャック事件で主人公が似たようなことを言っていたのを思い出した。まあ確かに道徳的である方が、他者との関係も円滑になるし、余計な消耗もしなくて済むが、それは周りの人間が全員道徳的であればの話であって、誰か1人道徳的でなければ、一気にその道徳的であることの負担があるんじゃないかと考えた。
――そうです、こうした説明だと「フリライダー」の存在をどう考えるかが問題になります。
道徳的であるほうが得であることが第一だと思います。日本人特有の考えだと思うのだが、他人に対して道徳的であれば、巡りめぐって、自分に返ってくるのだと思っているからではないでしょうか。
人はなぜ道徳的であるべきかについては、人は少なくとも一人で生きていくことなどできないため、家族や何らかのコミュニティにおいて生きているということから道徳的であることが求められるのではないかと考えました。利己的で身勝手に生きるということは共同体の中では、不可能であり、共に生きるという生において求められる状況の中で、道徳的であることは必要不可欠ではないかと考えました。
「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いがあったが、私は、道徳的なことは関係なく、自分が殺されないため、ひいては社会秩序を保つためということに尽きると考えた。殺人が許容されそれが横行してしまうと、集団生活がリスクになり、特に原始時代などは種の保存が困難になってしまうと思われる。そのため、殺人は悪いことで、本能的にも忌避間のある人が多いのだと考えた。
今回のテーマであった「どうして我々は道徳的であるべきなのか」について自分なりに考えてみました。授業では道徳的であるということで、「圧倒的強者以外は、不正を加えることも、受けることもないような契約を結ぶほうが得」という考えから回答を出していました。私はこの回答以外に、皆が道徳的であったほうが権力者がグループ(国家など)を動かしやすいからだと思いました。授業でも話していた通り、日本では、ほとんどの子供たちは道徳(常識)について学び、社会ではこう考えるべきであるといったことを教わります。このような教育をすることで、社会が円滑に回るための人材を育成しているのではないかと考えました。実際、道徳的でない人(ルールを守らない人)が多くいると無法地帯と化してしまいます。これを防ぐために社会がこのような教育を進めているのではないでしょうか。また、ここから権力者の得のためであるのではないかという考えにも発展すると思いました。
授業の中で「なぜ道徳的であるべきなのか」と問われたとき、僕が真っ先に出した答えは「人の目が気になるから」というものでした。個人的な回答なので哲学的な答えになっていないのかもしれませんが、例えば、僕が電車でお年寄りに席を譲るのは、「お年寄りのため」とか「世の中を道徳的にしたいから」というより、「周りの人に非道徳的な人だと思われたくないから」という思いに起因する行動のように思います。自分は道徳の空間内で生活しているつもりでしたが、実は、義務教育前の子供のように空間外にいるのかもしれないと不安になりました。
「どうして私たちは倫理的でなければならないのか」という問いに対して、私は、倫理的でないと良心が痛むから、または道徳的でないと社会の秩序が崩れるからだと考える。例えば川でおぼれている人を見たときに、いてもたってもいられず助けに行ったり他の誰かに助けを求めたりするのは、そのほうが得だからというのもあるかもしれないが、毎回損得を計算しているのではなく、そうしなければならないと良心が言っているからだと思う。また、道徳的な行動というのは、人々が生活していく中で物事が円滑に進んだり、人と人との関係を良好に保つための暗黙の了解のような側面があると考える。もし、全員が道徳的に行動するのをやめたら社会が成り立たなくなるため、人は倫理的でないといけないのだと考える。
――まさにそうなのだが、その「良心」はいかに形成されたのかが問題になる。
「どうして道徳的であるべきなのか?」これについてはいい感じの答えは思いつかないけど、そもそもこのような疑問を持った時点で問題ないと僕は思います。理由は、そのような疑問を持つことは他の人の意見で納得したいだけで、実際には行動を起こせない人だと思います。だから、「どうして道徳的であるべきなのか?」と聞いてきた人には「やってみたら?」といったらいいんじゃないかと思います。逆に言えば、本当に道徳的な行動ができない人は、別に「どうして道徳的であるべきなのか?」は考えないと思います。
―――おもろい。
小学生の頃に学習する道徳では、「人の気持ちをわかりなさい」であるだとか「悪いことをしたらバツがあるよ」というメッセージを子どもに伝えているように思われる。それが、道徳的であるために必要だとされる要素だから、大人たちは、子どもたちにそのようなことを教える。しかし、本当にそうなのか。「人の気持ちをわかる」ことは道徳的であるのか、私には信じがたい。中には自分の気持ちを知られたくない人もいる。そこにおいては、「人の気持ちをわからない」人の方が、道徳的であるとは言えないのか?そんなことを感じる。
――おもろい。
今回は実際人間がどのように判断して行動しているかを自分なりにまとめてみたいと思います。先生は講義で粋倫理と説明してくださりましたが、自分は人間はこれまで生きてきた環境、経験によって得たものをもとに自分なりに無意識に判断し行動していると考えました。(これを今まで生きてきた出来事を蓄積して新しいものを判断していることから蓄積倫理(仮)とでもしておきましょう。) 蓄積倫理の概要としては、人間として最低限の倫理に(親や先生から教わるようなもの)プラスして自分が経験したことや周りの友達などによって影響されたことそれらによって自分のいろいろな行動が判断されるというものです。人間が蓄積倫理をもとに行動している裏付けとしては倫理的の外側に存在している人の特徴を見れば明らかです。倫理から外れた行動をする人の多くの人は家庭環境が悪く、親から適切な教育を受けてないことが多いです。また"朱交われば赤くなる"ということわざがあるように付き合っている友達によって良くも悪くも自分の人生が変わることがあります。このように人間は自分の経験を判断材料とし行動していると思いました。
――「環境からの影響の蓄積」「無意識」という点を強調するということは、本人の責任を強調しない方向性の倫理観ということですかね。
最近授業を受けて思うことは、哲学を学んでいろんなことに疑問を抱いていると、きりがないし、最終的に「なんで生きているのか」にたどりつくのが怖いので、私はあまり考えすぎないほうがいいか人なのかなと。考え事をするのは好きなのですが、、。
講義の中でてきた消極的功利主義ですが個人的に功利主義とは違うと感じました。功利主義は最大多数の最大幸福を目指すというものなので幸福に着目した考え方だと思います。しかし、消極的功利主義は、苦痛に着目していると思うので功利主義とは言えないと思い疑問に感じました。この考え方が功利主義に入るのには何か理由があるのですか?
――そうですね。功利主義は原則として「幸福」を基本とするものだが、消極的功利主義も不幸や苦痛に注目しつつも、功利主義と同じ「構造」は活用しているので、例外的に功利主義と呼ぶのでしょう。
功利主義の対象は「苦痛を感じることが出来るもの」のようだが、その苦痛を感じることが出来るという判定の基準と、これの対象が動物だけの点に疑問を抱いた。ここで、基準を「何かしらの苦痛を受けて悪い状態・反応が返されたなら、それは苦痛を感じることが出来る」と定義したとする。この基準を植物に適用すると、「日照不足」という苦痛に対して「収穫量減少」という反応が返されているわけなので苦痛を感じることが出来るということになると思う。しかし、植物は対象に挙がっていなかったため基準の定義が異なるということでしょうか。
――何かをグルーピングする際にはどうしても「恣意的だ」という批判がでますね。
ミルの「質的功利主義」の例で、親が子どもにゲームより勉強をするように言うのは親は学問の楽しさを知っていて、その楽しさがゲームをしたときの楽しさよりも大きいためだとおっしゃっていましたが、私は、親は楽しさの程度を比較しているというより、宿題をしないことによって学校で怒られたり授業についていけなくなることを危惧して注意しているのではないかと思いました。その点で言うとこの例は「消極的功利主義」にあてはまると考えます。
――おもろい。
自分の理解力が乏しくて講義中良くわからないまま聞いていたのですが5人を助けるための手段として1人を犠牲にするのは許されないとあったのですが、1人の方を犠牲にしなければ5人を助けられない以上、手段として許されないのならどうすれば5人を助けられるのでしょうか?
――誰かがを犠牲にしなければ5人を助けられない状況なら、5人は助けられないということになるのではないでしょうか。これに関しては次のコメントが的確。
今回の授業の課題として挙げられた、義務論の問題点に関しては、先生の最後の説明にヒントがあったと思う。義務の判定法の二つめ、「人間性の方式」において、少数派の犠牲、人権侵害が禁止されるという点で、少数派か多数派かを必ず選ばなければならない状況に陥ったとき、義務論を肯定する立場では選択をすることができず、動けなくなってしまう点にあると私は思った。まさに以前の授業で出てきたトロッコ問題がそうだ。トロッコ問題について考察するとき、義務論ではどのような立場をとるのかは純粋に疑問に感じた点だった。
――「動けなくなる」というのがカント義務論のポイントだな。「禁止」を中心とした道徳。
カント義務論の中でも特に「人間性の方式」の「他人の人格を尊重して自分の目的を達成するための手段としてのみ扱ってはならない」という部分に共感し、教訓に感じた。実際に、僕の周りに課題の答えをめちゃくちゃ聞いてくる人がいて、その人は私を手段としてのみ課題の答えを聞いてきているので、その人とは縁を切った。
「いやな仕事をする」ことは自分の人格を尊重せず、「お金を稼ぐ」という目的達成の手段として自分を扱っているのではないだろうか。これは他人に嫌な仕事をさせることも同様ではないか。しかし、全ての人が嫌でない仕事をすることなんてできるのだろうか。いや、そもそも嫌なことをするというのは、自分の尊厳を否定して、目的のために行動するという事ではないだろうか。カントは「完全義務」という「どんな場合でも守らなければならない義務」と「不完全義務」という「完全義務よりは厳格ではない義務」というのが存在するとしていたらしい。カント的には、嘘をつくことも感情による行為であるから正しくないらしい。いま少し考えたことだが、学校に行きたくない自分に嘘をついて、学校に行くというのは嘘をついているからカント的にはダメなのだろうか。自分に嘘をつくことはダメなことなのか。やっぱりよくわからない。カントに関して調べたら、[実践する理性を正しく導くための実質的な内容が必要である。」という批判が出てきた。扱う普遍的道徳の内容に関しては、自分でよく吟味する必要がありそうだと考えた。
最後に、自分ルールがいつでもどこでも成り立つ法則か考えるのが「自分」であるという点がカント義務論の問題であると思った。その理由は、自分ルールは「自分」が正しいと思って自分のルールにしているわけだから、完全に正しく「自分ルールは普遍化できない」と判断はできないのではないか、と思ったからである。
また、課題である、カントの義務論の問題点ということですが、それは、汝の意志の格率が、普遍的法則として妥当しうるかどうかは、汝にしか判断できないということ、そして、義務論に従うべきだという根拠が薄いことだと思う。
普遍的法則の方式を用いて義務を判定する場合「みんな」が義務の決定に影響してきます。「みんな」は当事者の周りの人たちになります。つまり、周りの人によって義務は決定されるため一人一人の義務が異なってしまうという問題点があります。
この義務の判定方法として、「あなたのルールがみんなのルールになりうるとき、そのルールに従う」というものがあります。ここに問題があると私は考えました。理由として、「みんなのルール」というものがあいまいだと思ったからです。この考えは功利主義への不満から考えられたものだと講義中では説明されていました。それにも関わらず「みんなのルール」という考えを使っているのです。つまり多数派の意見にならない少数派の意見(ルール)は犠牲になるということです。これは功利主義とあまり変わっていないように感じました。また、少数派の意見を持つ人たちは、義務にのっとった行動が全くできなくなってしまうという問題も発生してしまいます。
カントの義務論に対する理解度がまだまだ足りない気がして、的外れなことを言っているかもしれないけど、人間性の方式では少数派の犠牲が禁止されていたけど、自分は普遍的法則の方式では、少数派の犠牲がなされているなと感じた。なにか判断するとき、自分ルールがみんなのルールに当てはまらなかった場合それも究極的には少数派の犠牲のような気がした。
また、難しいのは「みんなのルール」の「みんな」とは誰なのか、普通に考えたときだろうとも思ったけど、普通って何?と無限ループに入りそうになったので、思考停止しました。
――カントにとって「みんな」は文字通り「みんな」で少数派も含めます。なので、名目上はやはり少数派の犠牲は許容されないでしょう。
カント義務論では少数派の犠牲が禁止されています。しかし、国の方針などの重要なことを決めると必ず少数派の犠牲が発生してしまいます。カント義務論に当てはめるとどんな選択肢を選んでも間違っていることになります。なので、カント義務論を用いると選択として「正しい」ものが無くなってしまうという問題点もあります。これは、選択の拒否などにもつながるので大きな問題点だと思います。
カント義務論の問題点は、道徳的に正しいといえる行為を行える人間がそうでない人と比べて少なすぎるという点です。僕が思うに、哲学とは、大人数が賛同することで価値があると思うので、該当者が少なすぎることは明確に問題点だと思います。
この義務論の問題点として他人の人格が尊重されるあまり自分の意見だけでは行動に移し難く、突発的な問題に瞬時に対応しづらいというのがあると思います。これは他人の人格を尊重するために他人の意思を確認したいが他人の意思の確認には話し合いなどが必用であり時間がかかってしまうことに問題の原因があると思います。また、この考えでは自分の意思よりも周りの意思の方が尊重されるため自分が苦しくても自分だけではどうにもできないという場合が起こりえてしまい、尊厳死などの楽になる手段ができなくなるということも問題であると思います。そのため普段の日常生活ではカントの義務論に従い、緊急時などでは功利主義に従うというように使い分けをすることもありなのではないかと考えました。
私はカントが理想とした普遍的な基準があれば世の中はもっと簡単になるだろうと思いますが、実際にはどんな場合でも誰にでも通用する普遍的な規則をつくることは不可能であり、すべてケースバイケースであると思います。
カント義務論の問題点は、いくつかの義務が重なったとき、どれを優先すべきかの判断が難しくなることだと考えます。例えば、「人を傷つけてはならない」という義務と「嘘をついてはならない」という義務が重なったとき、相手を傷つけないための嘘をついていいのかどうか判断に困ることがあります。このようなときにカントならどう行動するかについて知りたいと思いました。
目の前で友達がナイフで死のうとしているときそのナイフを盗み隠すことはしてはならないといえるのか。また、サプライズなどをするとき「約束は破ってはならない」という意志と「隠し事や嘘をついてはいけない」という意志の二つが矛盾の関係になってしまうのではないだろうか。このように義務論では柔軟な考えができず、逆に最悪ともいえる選択をしなければならない状況が出てきてしまう。この点で義務論は問題を抱えているといえる。
義務論の中で一番問題になるのは人間がその場その時での感情によって行動できない点にあると思います。カントは全ての人間の共通した認識を得た、いつどこでも成り立つ規則に従って人間は生きるべきであると言っていました。僕も義務論を正しく理解できているのかは不安ですが、義務論の内容を聞いた時にそんな規則存在する訳ないだろとも思ってしまい、その時点で義務論は問題があるだろうとも思ってしまいました。講義の中で紹介されていた例として「守るつもりのない約束をする」事はしてはいけないとありましたが、これに近い例は自分の今までの人生の中で何度も行ってきましたしそれに助けられた事も多々ありました。例えばあまり自分が好んでない人から遊びに誘われたとします。この時に僕がよく使う言葉が「行けたら行くよ」です。これは多くの人が使った事がある言葉ではないでしょうか。僕は元々その遊びに行くつもりがない時にこの言葉を使って逃げるのですが、義務論を適用するとこの行為はアウトになってしまうのですよね。また講義中に水中で溺れている人間を居ても立っても居られないから助けるというのは義務に基づいていないからダメとありました。この例から分かるように、仮に義務論に従って生きている人間が身近に居たら嫌だと思うし、その人とは少し距離を置きたいと思うでしょう。何より義務論に従って生きると非常に大きなストレスを抱えてしまうでしょう。簡単に言うと義務論に従って生きると、人間はルール通りに動くロボットのようになってしまい、感情を失い、人間らしさを失ってしまうのです。僕の思いにはなってしまいますが、人間として生きる事の楽しさは何も考えずにその瞬間の感情に素直に生きられる事だと思うので、この楽しさを失ってしまうのが義務論の問題点だと思います。
――道徳にはもっと「感情的」な部分が重要ということなら、ヒュームやアダム・スミスと相性がよさそう。
善であるかどうか一刀両断に規定しようとすることに問題があるのでないかと考えた。例えば、会社の存続という義務に従い、リストラを行うことは善として認められるか否か。リストラが善でないとすれば、従業員の人格を尊重せず、会社の利益をもたらす手段としてのみ使っているという考えになるのではないか。ただ、リストラが善だとすれば、会社の重役として会社に利益をもたらし、存続させる義務があるため、リストラという行為は義務に従った善だと言えるのではないか。
義務のみが善の動機になるべきなのか。また、善か否かの判断は行為の動機だけによって規定されるべきなのかについても問題に感じた。他者への思いやりから生まれる行動や募金、ボランティアという行為は善に区別されると思うが、それは必ずしも義務から生まれる行為であるか?自分が携わることで、他者を幸せにしたい、助けたいという考えは、行為の動機として適当ではないのか?自分の行動がもたらす結果を考えて、行為を行うことが善ではないとされることには違和感を感じる。
小さな時に大人から教えられることの一つに、人にされて自分が嫌なことは、自分も他人にしないということがあると思う。それは、子どもたちに他者に対して善の行動をとることということを教えているのではないかと考える。その意味での善は義務的に発生するのではなく、その行動によって他にどのような影響があるかを考えて行動せよということだと思う。そう考えると、義務として人は善(正しい行い)をしているとは一概に言えないし、その行動で生じる結果についても良く考えて行動しているのではないかと考える。
人としての正しさをあれこれ考えるより目の前の人を大切にすることを考えるべきかなあと思いました。
――まあそうなんですけど、結局何をすることが「大切にすること」なのか疑問になることもありそう。
ミルが量的功利主義を批判して質的功利主義が提唱した、カントが功利主義を批判して義務論を提唱した、というように、どんな意見でも批判されるという話がありました。批判が出てくる原因として、"目的の違い"があるのではないかと考えました。その目的を明確にすれば簡単になる議論が多いように思います。例としては、Aさんはラーメンを食べたいが、Bさんは冷やし中華を食べたいとします。「熱いものを食べたいからラーメンがいい」とか「冷たい方がいいから冷やし中華がいい」とか言えばお互いに理解できます。しかし、「ラーメンのほうがいい!」とだけ言うと、「いや、冷やし中華のほうがいい!」となり、何が論点なのかがはっきりしなくなります。今のは簡単な例ですが、議論が難しくなればなるほど目的をはっきり言うことが大切だと思います。
僕は野球が好きなので野球の話をすると、「打撃において、詰まってはダメだ」という意見に対し、「別に詰まってもいい」という意見があります。これは、詰まってしまうと打球が弱くなるので、ホームランを打つには詰まらないほうが良いです。対して、弱い打球は内野安打になりやすくなるので、足が速い人は詰まっても良いです。目的が違えば意見も違います。ホームランを打ちたいのか内野安打を狙いたいのかを明確にしないまま議論すると、めちゃくちゃになります。
話は変わりますが、サバイバルロッタリーなどの少し怖い話を嫌う人が多いようですね。おそらく、今まで触れてこなかったので、慣れていないのだと思います。しかし、生きていればそのような問題に対面することもあると思うので、多少は慣れておくといいと思います。
――目的を明確にすると議論が整理されるというのはもっともです。ただ哲学者はすべてを統一的に説明したがる傾向があるので、目的を分類してこれにはこう、あれにはこう、という解決がしづらいのがつらいところです。
タイトルにもあるように人としての正しさっていうのはどうやって誰が決めたものなのかっていうところはやはり疑問です。大きい規模になるとロシアとウクライナだってお互いが正しいと思って行動した結果が今の戦争になっているわけで、それで勝ったところが正しかったていう結果にはならないと思いますし、難しいですね。
今回の授業は私にとって最も理解しやすくわかりやすかったので一番良い授業でした。今後の2回くらいの授業も倫理、道徳的な話の授業内容であるので楽しみです。
私は、倫理学というものは生活の様々な場面に隠れていると考えている。例えば、最近のニュースでいえば、ロシアによるウクライナ侵攻に関することや、著名な芸能人の訃報であったり、私たちの身近なものでいえば、ペットに関することがあげられるだろうか。あまりぱっとは思いつかなかったが、私は日常生活の中で倫理的な思考に陥ってしまうことが少なくない。それは日常のいたるところに倫理的問題がゴロゴロと転がっているからではないだろうかと思うのだ。日常生活に溶け込む倫理学について、今後とも無意識であっても向き合っていきたいと改めて感じた授業だった。
今回の講義のテーマで挙げられていた、「人としての正しさ」。これは人間が生きていくうえで答えを出すことが最も難しい問題だと思う。なぜならば、その状況と判断基準によって答えが大きく変わるからだ。例えば、トロッコ問題ではもし一人のほうが親友だったら、おそらく私はその親友のほうを選択することはできない。しかし、外から見れば、5人のほうを助けるのが妥当であろう。私の親友のことを周りの人は見知らぬ人だからだ。このように人間の内在的(私情)なものも人間的道徳は含まれてしまう。だから、客観的に答えを出すことは超難題であると思う。しかし、答えを出さなければならない時期が来ると先生がおっしゃっていたように最終的には答えを自分で出さなければならない。そして、この答えを出すときに模範にするものが、「常識」である。つまり、ここでの常識の重要性は非常に高い。だから、倫理を通して、常識を吟味する必要がある。しかし、私はここで思うことがある。常識の吟味とは何なのかということだ。ぱっと思ったのが、死刑である。死刑という言葉は、当たり前のように存在している。殺人を犯した人間が罪として死を持って償うというものだが、果たしてこれは正しいのだろうか。人を殺したからと言ってその犯人の命を消すことに何の意味があるのだろうか。たしかに、こういった法は社会の秩序を維持するのに必要なものだ。しかし、道徳と法の関係について考えてみると、表面上は全く違うものかもしれないが、真意はニアリーイコールではないだろうか。つまり、死刑を道徳的に考えるとただの殺し。では、犯人は何に殺されたのか。常識?法?わからない。結局のところ私が伝えたいことは常識の吟味は考える基盤ですら見つめる必要があるということだ。最初のテーマに戻るが、「人としての正しさ」これは私が生きている世界では答えはないとそう思う。
今日の講義を聞いて小学校の時の道徳の授業を思い返したら、感動的な話を先生から聞かされて、感想を述べるときに自分の考えよりこういう回答なら先生に褒められるだろうなと考えて感想を書いていたことを思い出した。多分多くの人が自分の本当の気持ちよりそういう回答のほうが多いんじゃないかと思う。(それはそれで道徳が学べると思うが、、)
導入で話されていた学校教育の「道徳」の話が、偉そうな・先生のお節介・上から目線の教訓みたいに先生が捉えていて面白いなと思ったし、実際自分も学生の時は「先生の言う正解を当てる」授業だと思っていたなあと思い出した。ただ一方で、教育実習中に実際に道徳の授業をした時、本当に教材をすごく読み込んでも、上手く授業できなかったことも思い出した。当時自分は「正直・誠実」の内容を扱ったのだが、大人でさえ本当の意味での「誠実」がわからないのに、子供にわかるのか…?と迷いながら授業していた。ちなみに授業は大失敗して担当教諭にしこたま怒られた。トロッコ問題などの、「それを聞くこと自体がすごく非倫理的」な問題の話題で、「真実を見ることも大事だけど、それを敢えて(自分の精神のために)見ないという選択」をするという話が興味深かった。真実は残酷だ、という言葉があるように、子どもにとって、時には大人にとってもそういった真実に直面させるかどうかの判断は難しいと思う。でも、目を背けていても実生活に関与しない真実ならいいが、あいまいにしてわからないままにしておいたら、いつその真実を知ればいいのだろうか。具体例を上げるなら、サンタの存在とか、性教育とか、「いつか知らなくてはならないもの」を知るタイミングはいつなんだろう、と思った。
余談:もしかしたら既に拝読されているかもしれませんが、「今からここは倫理です」という漫画が面白いので、是非。
今、学校教育では、道徳が正式に教科化され、評価も付けられるようになった(昔は、授業はあったが、評価まではつけていなかった、評価は記述式である)。私は、道徳の教科化には反対の立場をとる人間である。それは、教師が一方的に正しいことを教えてはならないと考えるからである。考え、議論する道徳といわれているが、本当はなぜ正しいのかを道徳の授業では考えなければならない。私が目指している道徳教育は、倫理的な道徳教育であったということが分かった。何か道徳教育について腑に落ちたような気がする。
――私もこれまでそう思っていたのだけど、一個上のコメントを読むとはたして可能だろうか? 私も小中学校に行って議論をコーディネートできるかと聞かれるとちょっと自信ないかも…。
トロッコ問題をある小学校で取り上げたら、保護者から苦情を受けたとお話しされました。しかし、私の考えとしては、トロッコ問題のような重たい倫理問題を小学生の時から考えることも大事ではないかと思います。現に、社会では倫理について考えなければならないことは少なからずあります。押しつけ型の道徳ばかりではなく、こうした現実の重い倫理問題についても小学生だからと退けることなく、取り扱っていくことは重要ではないかと思います。さもなければ、そもそも小学生が現在話題となっているSDGsなどといった概念についても理解が深まらないと思います。
授業で扱われたトロッコ問題の解決策について調べてみると物理的な解決策が見られた。その物理的な解決策は、文献[1]によれば、分岐のレバーを中間の位置にすることによって、トロッコを衝突する前に脱線させることができ、両方が助かると述べられている。また、文献[2]によれば、レバーをタイミングよく切り替えることによって、トロッコが横向きになり衝突する前に停止して、両方が助かると述べられている。
確かに、これも1つの考え方だと思うが、自分は功利主義のような判断をするべきかという意味でのトロッコ問題に興味がある。
功利主義について調べていると、文献[3]によれば、その反対の立場として義務論があることを知った。文献[3]によれば、義務論とは以下の様に述べられている。
「義務論(deontology)とは、倫理学の一分野で、帰結主義(行為の
結果から、その行為の道徳的正しさを判断する立場)の立場を取ら
ず、行為が特定の「義務」に一致しているかどうかから、行為を判
断する理論です。」
トロッコ問題の考え方は状況・目的・基準によって異なると思う。例えば、レバーの操作をする自分が男で、1人が女、5人が男だとする。すると、生き残りたいと思う人数が多い方は5人の方である。ゆえに、功利主義の考え方であれば、この場合5人の方を選らぶと考えられる。一方で、人間の存続という義務として義務論の考え方をすれば、この場合1人の方を選ぶと考えられる。
別の状況として、勉強について考えてみる。社会が、勉強のできる人材を欲していると仮定する。文献[4]の調査によれば、高校生で勉強が嫌いな人の割合は66%であり、功利主義の考え方では勉強をするべきではないという結論になる。しかし、これでは社会が求めていることに反する。ゆえに、義務論としては勉強の好き嫌いに関わらず、勉強ができる人を選ぶべきである。
また、新しいスタジアムの建設の問題についても考えてみたいと思う。まず、国が建設を考えるとすると、功利主義の考え方であれば、利益の面で人口の多い東京や大阪が優先されると考えられる。義務論の考え方ではどうだろうか。そのスタジアムを野球の球場として利用すると考えると、その義務の対象は選手になる。ゆえに、試合や練習を行うためには天候が重要である。つまり、気温が高く、雨や雪が少ない地方である九州などが選ばれると考えられる。
これらのことから、功利主義の考え方は簡単ではあるが、その選択の仕方が適切であるとは限らない。よって、状況・目的・基準を明確にして、それに沿って選択するべきだと考えた。
[1]「こんな方法があったのか! あの有名な『トロッコ問題』で全員を救える最適解がTwitterで話題に『中立』にするとはいったい……?」, haruYasy.,
https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1904/15/news114.html, 2022年5月17日 閲覧
[2]「誰も犠牲にならない“トロッコ問題”に反響 鉄道模型で再現した動画に『最適解』『これは盲点』の声」,ねとらぼ,
https://news.yahoo.co.jp/articles/4b472d55844a83cffd9bbeba31265f37d17e2861,
2022年5月17日 閲覧
[3]「【義務論とは】功利主義との違いやカントの倫理学などから詳しく解説」,
リベラルアーツガイド, https://liberal-arts-guide.com/deontology/,
2022年5月17日 閲覧
[4]「高校生の3割超が『勉強好き』、好きな教科は『数学』『体育』『音楽』が上位に【LINE調査】」, EdTechZine編集部,
https://edtechzine.jp/article/detail/6279#:~:text=%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E5%AF%BE%E8%B1%A1%E8%80%85%E3%81%AB%E3%80%81%E5%AD%A6%E6%A0%A1, 2022年5月17日 閲覧
――いつもながらよく調べますね。
トロッコ問題(前の人を押して止める場合)に関して、条件的には自分が飛び降りて止めることも可能であると思うので、選択肢として、①前の人を押さない②前の人を押して5人を助ける③自分が飛び降りて前の人と5人を助ける という3つが考えられる。さてこうなった場合どうするだろうか。漫画とかアニメの主人公なら迷わずに自分が飛び込むのだろうが(主人公補正で生き残る)常人にそんなことはできないだろう、実際自分も③は選ばないと思う。ただ、仮に①②を選択したとして、残された人たちは自分のことをどのように思うだろうか、救ってくれた恩人とあがめるか、生かしてくれたとはいえ1人(5人)を見殺しにできる人と見られるか。後のことを考えても、美談ではあるが、自分が飛び込むのが一番の正解なのではないのかなと思った。
トロッコ問題の名前は知っていましたが、内容を忘れていました。直接的に手を下すかそうでないかで逡巡が生じるのは身近に感じられます。汚れを嫌うのか穢れを嫌うのか、匿名がゆえに攻撃的な態度をとれるのか、これらに似た要素を感じました。穢れという概念はこの問題の的を射ているように思います。"人を殺した"という穢れが薄くなる方を選び、あくまで部外者でいたいというのが人の深層意識なんでしょうか。ふと疑問に思ったのですが、被験者、目の前の人以外に人はいるんでしょうか。この条件の違いでも突き落とすを選ぶ人の割合は変わるように思います。
自分はスイッチを押すかどうかは、押したこと自体を他人に知られているかどうかが大事な気がした。もし他人に知られているなら、怖くて何もしない人のほうが多いんじゃないかなと思った。書いていて思ったけど、倫理的にOKかどうかの質問はOKの人がほとんどだったけど、実際、自分はスイッチを押すかどうかの質問でもなにもしない人のほうが多くなリそうだと思った。ちなみに自分は絶対押しません、理由は、押してしまったら片方を選択してしまっているけど何もしなければ、元々決まっていてた道なので自分で選択してしまったという気持ちにならない気がしたからです。
最後の「量的功利主義」の問題点として快があれば何でも許されるのかという点に納得した。確かに何でも許されるのなら、極端な話全国民に麻薬を投与し続ければ快楽を得続けることが出来るため「量的功利主義」は達成されてしまうのではないかと考えた。そしてこれは、「快」しか考えておらず、それによって生じる「苦痛」などは考慮されていない点による問題点と考えた。そのため、行為によって生じる「快」とその行為によって他人に与える「快」「苦痛」、将来の自分が受ける「快」「苦痛」なども考慮した評価関数を示すことが出来ればこの問題は解決するのではないかと思った。ただし、だれもが納得する基準を示すことは難しく、また普遍的に利用させることも困難を極めることから実用性・実現性は少ないと思われる。
第4回講義ありがとうございました。今回の講義の最後に先生は功利主義の問題点とその解決策を探すように僕達に仰りましたが、これは「トロッコ問題」によく表れていますよね。トロッコ問題は世間でもよく物議を醸しており解決策を出すのは難しいと感じました。先生が例として挙げられていましたが最近だとコロナウイルスのワクチンをどの世代に優先的に摂取させるかの問題がありました。他の地域では知りませんが、僕の住む福井県ではコロナウイルスに感染した際に重症化しやすいお年寄りを優先的に摂取させる事になりました。これはより多くの人間を生存させる事が正しいと考えた結果だと思います。もちろんこれに反対する意見もありました。でも僕としては「苦」を最低限に抑える解決策だったと思うので良い結果だと思っています。完全に「苦」を無くす事は難しいので、多少の犠牲は仕方ないと考え、「苦」を最低限に抑えるように行動するのが功利主義における最善の選択でトロッコ問題における正しい選択なのではないかと僕は考えました。もちろんこの意見に反対する人や別の考えは存在すると思います。自分もトロッコ問題、功利主義について考えていると頭が疲れてきて、これ以上考えたくないので僕の意見を述べるのはこの辺で終えておこうと思います。また哲学的な解答ではないですが、某有名動画配信者の方はトロッコ問題に対して5人を轢く選択を取っていました。理由はレバーを切り替えて1人を轢く選択を取った場合、自分はその1人を轢くために行動した事になり自分に損害賠償が発生する可能性があるからだそうです。これは先生が求める解答とはずれていると感じますが、初めて聞いた時にこういう解答があるのか、面白いと思ったので紹介させてもらいました。これは自分の「苦」、被害を無くすための解決法ですね。
次に功利主義の話の時に出てきた問題点の①について考えます。①の「快があれば何でも良いのか」については、明らかに駄目だと思います。例を挙げるならば殺人などがあるでしょう。あくまでここでいう「快」とは他人や自分が嫌な思いをしないということが前提にあると思います。自分が感じる「快」なのだから嫌な思いはしないのではという疑問もあるかもしれませんが、一時的な快楽を求めるギャンブルやタバコがこれにあたると思います。しかもこれらは他人も迷惑に思うかもしれません。しかしこれを規制するとなればそれでしか快楽を得られないという人を犠牲にしていしまいます。これに関しては非常に難しい問題です。中毒性のあるものはやめるのが大変ですし、だからと言ってこれらをなくすのも不可能です。このように考えると量的功利主義は完璧ではないのがよくわかります。
――いずれも「苦」に注目するということかな。
量的功利主義の考えは、多数であるということが幸福であるとの名目のもとに正当化されるという点で、個人的にかなり問題のある考えだと思います。そこでここでは、自分なりに問題点を修正して見たいと思います。まず、この「幸福」についてですが、この幸福はそれを被るために他の誰かの幸福を犠牲にするものではあってはいけないと思います。トロッコ問題では、5人の幸福を保証するために、1人の幸福を犠牲にしているため、これは問題があります。そして、量的功利主義は、多数を優先し、少数を犠牲にするという非常に危険な考えです。そもそも多数を善とすることに常に疑問の目を向けることが大切です。そして、少数の方にも配慮した上で、再びどちらが最善かについて天秤をかけるというプロセスが大切だと思います。単に量で幸福を計ることには限界が見られます。
――この発想をどう洗練させていくか。
功利主義の問題点の解決案として少数派の人の意見が犠牲にならないよう話し合いの場を設けることがあるかなと考えました。
――単純ながら有効な解決。
講義中に量的功利主義について聞いたときは「快楽は量より質だろ」と思っていたのですが、その日の帰りの信号機がすべて青でなんだか幸せな気持ちで一日を過ごせたので案外量が多いほうが幸せに感じたりするのかなと思いました。
授業の最後に出てきた量的功利主義について、その考えに欠点があろうとも私はその考えがいいように感じました。というよりはそうするしか無いと思います。どのような考えにも良い面と悪い面があるのは当たり前で、全てにおいて最適なものなど無いと思います。量的功利主義は分かりやすく、民主主義社会の基本的なルールの一つなきがします。
今回の授業では、量的功利主義についての話がありました。最大多数の幸福を得ることが出来る一方で、少数派の犠牲があることや、幸福(快楽)があれば何でもして良いのかという問題点もありました。トロッコ問題もそうですが、物事は一長一短であり、良いのか悪いのかを一概に言うことはできないのですね。物事の良い点と悪い点の両方を考えることが大切だと思いました。それに関連した話です。野球選手(A)に対し、とある観客がヤジを飛ばしました。その観客に対し、野球選手(B)がきつい口調で言い返しました。SNSのコメントを見てみると、観客のヤジはダメだが選手(B)が言い返したのは良いという意見があり、ヤジを飛ばした観客に対して暴言を書いている人もいました。具体的には「選手に暴言を吐くな」「BはAを守ったから、かっこいい」というものが多かったです。僕の意見は、「暴言を悪とするなら、ヤジも言い返すのも悪」です。その旨をコメントしたらなぜか袋だたきに遭いました。(相手は知らない人ですので、あまり気にしてはいません。)とても多くの反論が来ました。 B選手が言い返したことで、A選手の気が楽になったかもしれません。それは良いことですね。しかし、汚い言葉を吐いている点は悪いです。良い点と悪い点があり、意見は分かれるはずですが、ここまで意見が偏るのはなぜだろうと思いました。僕の意見としては、言い返さなくてもA選手の気を楽にさせる方法はあるので、言い返す必要がなく、ヤジを無視する方が良いと考えました。
具体的にどのような反論が来たかというと、「ヤジが来たらむかつくのは当然」とか「言い返すことでヤジが減る」とか「ガキは引っ込んでろ」とかいうものです。一つ目の反論に関しては、当然ならやってもいいというわけではないです。これは進化論の「浮気したいのは当然だが良くない」という話と似ていますね。二つ目に関しては、言い返してしまうと会話が発生し、ヤジは収まるどころか発展します。三つ目に関しては、話し合う気がない人、または「福井駅→」の看板を見て左に行くような人だと考えられ、僕の手には負えませんでした。反論が来る度に反論を返しました。というか、全て「暴言がダメなら言い返すのもダメだ」で終わりなんですが、誰一人として分かっていただけなかったようです。何が原因で意見が偏っているのか、僕には分からないです。考えられる原因としては、僕が相手への理解を示さなかったから相手も僕を理解しようとしなかった、B選手のことが好きだから擁護した、多数派になりたいから元々あった意見に同調した、というものしか思いつきません。仮にそのような理由があるなら議論する前に教えていただきたいです。
――これ興味深い話です。ウィル・スミスのビンタ問題に対する海外と日本の反応の違いや、死刑制度に対する考え方の違いとも関連しそう。つまり日本では「応報(やられたらやり返す)」的なものは高く評価される傾向がありそうで、いずれもこの傾向に由来しているのかもしれないということです。まったく根拠なしに言っていますが、追求すると面白そうです。もうすこし言えば、海外(ザックリしていますが…)はダメなものはダメと普遍的に言う傾向があるのに対して、日本だと「相手がやったのならこちらもやってよい」と基準が状況(相手)に応じてコロコロ変化する傾向がありそうだ、ということです。これはいわゆる「空気」にも関わるものでしょう。
トロッコ問題では儒教の影響が強い日本、韓国、中国などでは老人を助ける選択肢を、ヨーロッパなどキリスト教圏では逆に子供を助ける選択肢を選ぶ傾向にあります。なので、宗教なども倫理的思考に影響を及ぼすのではないかと考えました。そこで質問ですが「人類共通の倫理」を生み出すことは可能なのでしょうか?
――好みや宗教や傾向は人や地域・文化によって異なることは尊重しつつも、そんな状況でもなんとか共通見解を見つけようとするのが倫理学といえるかも。あくまでも普遍性を求めている。
これは関係ない話ですが、最近は○○ハラスメントといういろいろな種類の言葉が増えてきました。先生が言うように倫理的に大きく外れているハラスメントを受けている社会的弱者に対して救いの手を差し伸べられるようになったのはとてもよいことだと思いますが、あくまでも人が不快に感じる基準はその人次第です。ですから常に自分の発言に気を付け、人の顔色ばかり窺って暮らしていくのは窮屈過ぎないかな...とはすこしおもいました。
――現代は「快」よりも「苦」が重く受け取られるようになっていると言えるかも。
海がきれいだったと言っていたので…
海を見るなら夏もいいですが冬もおすすめです。冬には海岸近くに多くの水仙が咲き、とてもいい香りがしますし、風があまりにも強い日は危ないですが白波を立てている様はとても力強くてかっこいいです。また、冬はカニなどおいしいものがたくさんあるので是非冬にも福井の海に足を運んでみてください。
推論には代表的なものが3つある。演繹、帰納、アブダクションである。
演繹は情報量を増やさないと授業で聞いたが、文献[1]によると、数学では基本的に証明は演繹的であると述べられている。その場合は情報量が増えたとは言わないのだろうか。つまり、前提に含まれている情報を引き出しているだけなのか。公式は確かに証明されて得られるが、計算を便利にする道具であるため、そういう意味では新しい情報を得ていない。しかし、問題を帰納的に作り、演繹的に解くと考えれば、新しい情報を得ていると考えられる。
帰納は数学に用いられるが、特に物理における考え方は帰納的だと思う。文献[2]によると、物理における法則は、証明されて導かれるのではなく、統計的に有意であるという理由で作られていると述べられている。これは、物理は現実で起こる現象を取り扱っているので、必然的にそれらの現象に対して帰納的に考えるのだと思われる。
疑問や発想について。どちらも新しい情報のように思われる。これらは、帰納的に導かれたものなのか。疑問は今までの経験からでは説明できなかったり、その経験と矛盾したりする場合に生じると考えられる。文献[3]によると、仮説とは、観察事実が生じる理由を説明づけるものであり、そのものやその単なる集積ではないと述べられている。もちろん、帰納的に生じる疑問もあるが、このような場合における疑問がアブダクションに当たるのではないかと考えた。
[1]「帰納と物理法則、演繹と数学的公理」, LilPacy, http://lilpacy.info/uncategorized/%E5%B8%B0%E7%B4%8D%E3%81%A8%E7%89%A9%E7%90%86%E6%B3%95%E5%89%87%E3%80%81%E6%BC%94%E7%B9%B9%E3%81%A8%E6%95%B0%E5%AD%A6%E7%9A%84%E5%85%AC%E7%90%86/,
2022年5月10日 閲覧
[2]「数学的帰納法ってあるのに数学的演繹法がないのはなぜ?」, ShareWis Press,
https://press.share-wis.com/mathematical-induction-and-deduction,
2022年5月10日 閲覧
[3]「アブダクションの論理」,赤川 元昭, file:///C:/Users/ibuki/Downloads/115-130.pdf,
2022年5月10日 閲覧
不思議な授業でした。今日は演繹と帰納の対決でした。ほぼ引き分けでした。気になったことは人間は言葉を得るようになったから地球を支配するようになったという説です。これもある面では正しいといえます。特に人間にとっては楽しいです。いや、これは正しいでしたね。そうですね、人間にとっては自分たちが一番強い知恵を持っていると思うでしょうね。でも、人間は言葉を持ったことで悪い想像もできるようになったのではと思います。人間は神様を信じるように、悪魔を信じるようになりました。つまり、悪魔という仮想的をつくってしまったのです。この世界では誰かが悪魔で、誰かが天使にならなければならない。こういう刷り込みができるようになりました。動物は誰かからこれを信じなさいと強制されることがないので本能のままに生きています。ですが人間は猜疑心をもってしまいました。中世ヨーロッパでは魔女狩りがありましたね。言葉を持ったことがラッキーだったのか…結局今だって地球温暖化とかごみ問題とか環境の問題が山ほど出てきています。人間側が支配したと思い込んでいるだけで、実際は他の生物がいないと生きていけないのが人間なのかも。だとしたら、科学技術で人間という壁を越えていく必要があるかもしれませんね。
人間は虚構的な部分を考えられる所が強みだと言っていたけれど、動物の中にも演繹法や帰納法や仮説形成という考え方があるのかが気になった。家で飼っている犬も、吠える人と吠えない人がいるけれど、それは背が低い人に嫌なことをされた、よって次に会った背が低い人にも嫌なことをされるから吠えるみたいな帰納法のような考え方をしているのかなと思った。それか、犬独自の法則に乗っ取っているのかが気になった。
――動物は「推論」しているのか問題。
先生は帰納法のことをボコボコに言っていましたが、人類が帰納法のおかげで発展しているとも教えてくれました。
帰納法のおかげで人類が発展しているのならどうしてそこまで帰納法のことをボコボコに言うのか気になりました。
帰納法の授業では言いきれなかったデメリットなどがありましたら教えて頂きたいです。
今回の授業で帰納という言葉が多く出てきたので調べてみると、帰納的推論と仮説的推論いう言葉が出てきました。今日の講義受けてもどちらも現象を一般化してそこから仮説を立てているように思い変わらないと感じたのですがどう違うのですか?
――仮説的推論ってアブダクションのことですよね。帰納とアブダクションの区別が難しい人が多いのですが、真理保存性のない推論のうち「AならばB, B, よってA」という形をとっているのがアブダクションです。
高校の倫理の授業で演繹法と帰納法を勉強した時
演繹法は「人は死ぬ」という仮定を立てて、Aさんが死んだ、BさんもCも、だから仮定は正しい
帰納法はAさんが死んだ、BさんもCも、ならば「人は死ぬ」
みたいな感じで勉強しました。これが正しいなら、先生は「演繹法は情報量が増えない、帰納法は増える」的なことをいってましたが、どっちも情報量は変わらないと僕は思いました。
それとも倫理の演繹法、帰納法とは哲学のとは違うんですか?
あと演繹、帰納と一緒にアブダクションというものがありましたが、それって演繹の一歩目のことで結局演繹の仲間だと思ったんですが何が違うのですか?
――高校と一緒のはずだが、うーん。
自然は同じように繰り返すことを保証できないので、帰納を正当化するのは難しいという話がありました。高校で「数学的帰納法」というものを学習しましたが、数学も自然ですので帰納法を使って良いのか疑問に思いました。数学のグラフには、同じように繰り返すものがあることは直感では分かるのですが、保証はできないように思います。
今回の講義は帰納法についてでした。帰納法と言えば、理系の人間にとって最初に思いつくのが数学的帰納法だと思います。講義では帰納法には真理保存性がないということで、正当化できないものとして扱われていました。しかし数学的帰納法は高校で習ったものだけでなく、大学生になっても理系の勉強をしていると難しめの教授がよく問題で出してきたりします。
帰納という言葉を聞いたときに真っ先に思い浮かんだのが数学的帰納法です。高校時代に数学の先生からドミノを例にして教わりました。まず、はじめのドミノが倒れて、その後、K番目のドミノが倒れると仮定したらK+1番目のドミノが倒れた。よってドミノはすべて倒れる。と言われ、私はこれを聞いて確かに正しいと思いました。でも、今回の講義の帰納の説明で、今年はA、去年もA,二年前もA,よって毎年A。というのは成り立たないと聞いたとき、これも正しいと思いました。数学では帰納法で導けば正しいことを証明できると教わりましたが、哲学では帰納法は必ずしも正しいとは限らないと教わったことに矛盾を感じました。むしろ正確さやただ一つの答えを導く数学において、正当化できない帰納法使っているのはなぜだろうと思いました。
――大変ややこしいのですが、数学的帰納法は実は演繹なのです。数学的帰納法でやっていることが一つ一つ枚挙して一般法則を導いているように「見える」ので、演繹なんですがそんな風に呼ばれるのです。
今の世の中は、差別・偏見をなくそうとしていますが、なくす必要はあるのでしょうか。赤ちゃんも本能的に人を差別するのなら、差別が必要だから今も本能に備わっているんだと思います。そして、初めて会う人を観察するときは、偏見を持っているからこそどんな人なのか推測をができます。当たり前になっている差別・偏見をなくすことは難しいし、それで起こる不便もあると思います。差別と区別の違いは具体的にありますか。どちらも分類するというイメージでは同じように感じます。
――そのような発想の仕方は「自然主義的誤謬」とか「事実から規範・価値を導いている」などと呼ばれます。哲学の中だと厳密には正しい推論とはみなされません。分類するという点では差別と区別は同じですが、一部のグループに不当な不利益を与えるものが差別ととりあえずは言えるでしょう。
感想はさておき、私はなぜ人々は”正当化”したくなるかを考えました。自分なりの結論として”正当化”というのは数学的に言う一般化(公式)のようにパターン化して楽になれるということだと考えました。数学の一般化(公式)は一度正しいと証明されていれば何も考えなくてもにその式に代入してしまえばすぐに値が求められます。(例、余弦定理、加法定理)つまり推論を”正当化”することによってどのようなものでも”正当化 ”された推論の形に当てはまれば簡単に正しいと考えることができる。つまりこのようなことから”正当化”について議論がされると思います。
p.s.今回の帰納法でも”正当化”されていないので正しさの議論が必要になります。
――なるほど私は「楽になりたい」のか。この発想はなかなか良いね。
進化論的な説明の中で、進化心理学に対して「なんでもありじゃん」と思ったのを思い出しました。進化論的に片づけてしまうと、哲学をする傍らで信じていたい超自然的ものが否定されてしまって腑に落ちませんね。昔は哲学(思考実験?)が好きでしたが最近になってめっきり楽しくなくなりました。私は大人になったのか子供になったのかどっちなんでしょうか。
――実は私も。
ちなみに、自分は、戸田山和久さんの『哲学入門』(2014)という本を読んだことがありますが、その時は筆者の文章は非常に面白かった一方で、内容はすごく難しかったように記憶しています。その本を読んでいるときは、自分に科学哲学はあまり合っていないなと感じました。しかし、その本を読んでから約1年ほどが経ったこの授業で科学哲学について学んでみると、難しいことには変わりないですが、以前よりも科学哲学についての理解ができるようになった感覚が持てるようになりました。年月を重ねるにつれて、物事の見方が変わることはしばしばありますが、今回もそのような感覚を味わえました。
話は変わりますが、この授業は難しいカタカナ語をあまり使わずに説明しており、使うときはそのカタカナ語の説明があるので分かりやすいです。カタカナを多用して聞く人を混乱させようとしている人をたまに見ますが、その人自身がカタカナ語を理解しているか怪しいので信用できません。
今回の講義はなんとなくふわっと理解出来たような気もしますが全く理解できなかったような気もします。特に、応答3の帰納に関する進化論的説明の部分がよく分かりませんでした。また、今回強く感じたのは、哲学は文系科目のようでありながら実は理系科目なのではないかということでした。先生が量子力学に興味をお持ちだからそういうふうに感じたのかもしれませんが、工学部の知り合いが数学は突き詰めると哲学に行き着くらしいというようなことを言っていたので、数学や物理と対極にありそうな哲学は、実はそれらの科目とすごく近いところにある学問なのかなと感じました。
――私が片足を突っ込んでいる分析哲学というジャンルは、理系に一番近い人文系の学問と言われることもあります。
正直今日はなにを言ってるのかイマイチ理解できなかった。無限後退の話が一番意味がわからなかった。無限後退の話に出てきた友達みたいな人って本当に存在するのかなと疑問だった。僕はいないと思うのでこんな事考えて何になるのかなと思った。だけど、小さい頃になにを言われてもずっと、なんで?攻めをしたことがあるのを思い出して、これも無限後退かなと思った。
論理の正しさについては、正直に言ってあまり理解することができませんでした。あることに前提を付け加えていけばいくほど無限後退になるということはなんとなく理解できたのですが、なぜ論理的に正しいものが正しい推論であるのかがわかりませんでした。
論理の正しさについて学びましたが、哲学について疑問が深まるばかりでした。物事を考える際、いくつかの前提から結論を導く時に無限後退というワードが出てきましたが、答えのないことについて深く考えたことがないので理解することが難しかったです。
今回の授業はが少し難しかったと感じました。論理学や倫理学、認識論が正しいことを導き、その正しさが納得できるものか吟味し、疑うことが哲学になるのか?と疑問に思いました。また、演縡の説明で、推論が正しいと証明するためのルールを適用する際の正誤判断は無限後退していくから、どこかでルールなしの実践が必要であるというところで、そのルールなしの実践ということがよくわかりませんでした。明示的なルールでもみんなが納得できる論理的な正しさが説明できないのにルールなしの実践をすることで推論が正しいと証明できるとはどういうことだろう?と思いました。
今日の内容はとても難しかった。適用の正誤を判定するルールの導入すると、無限後退するという話が屁理屈にしか聞こえなかった。矢印の話では絶対に日常生活では起きない話であり、普段は何も考えずにルールなしの実践を行っているのだと思った。もし本当にこの屁理屈のようなことを言っている人がいたらとてもムカつくと思います。なので教訓にもあった適度なメタをもって生活していきたい。
――だいたい哲学の授業をする際に言うことなのですが、「よくわかる哲学の授業」って逆に嫌じゃないですか? 哲学の話がスイスイ理解できるのなら、重要なところがカットされていると考えるのがよさそう。ということで、「イマイチ理解できない」という感覚は適切なものと言えよう。これに関しては、次のコメントが良いこと言っている。
無限後退の概念は数学やプログラミングにも似たものがあるので捉えやすかったです。数学では整数を定めるペアノの公理というものや、ユークリッド原論に示される5つの公準と5つの公理が有名で、これらは不変の真理され証明は必要ないとされています。講義を聞きながらこれを意識していたため、必要以上のメタは思考が行き詰まる要因というのも素直に納得できました。
講義を聞いていて、よく”素直に納得するのは良いことなのか”と感じることがあります。理解できるのは良いことだと思いますが、内容に疑問を覚えないことで熟考し質問する機会が減っているのは確かですし、哲学の授業ではもっと深い意味を考えたほうがいいのでは、となおさらに感じます。熟考した先に見える景色というのを想像すると、楽しそうだなと思います。
今回の授業では論理的な正しさに関しての理解を深めた。
前提①:AならばB
前提②:A
結論:B
前提③:①②を認めるならば、Bが導かれる。
前提④:①②③を認めればBが導かれる。……
今日分かったことは、これが無限に続くということ。これを回避するためには、どこかでルールがないことが必要。
本当にそうなのか。これの問題の本質は①②を認めることが③であって、③を認めることが④であるということが無限に続くということだろう。これは①②を認めることができないから③が生まれていると考える。もしくは、①②が存在する事しかこの世にはないと思えばいいだけだ。「全てが①②なのだ。だから、①②の適応範囲はすべてである。」と考えればいい。実はこれがないを認めることではないか。だが、ここで疑問が生まれる。ないとはどういうことか。それがわからない。そもそも、この問題を理解できない人はどうするのか。普通に生きていくだけだろう。そもそも認めるということはどういうことだろう。わからない。禅問答になった。わからないことを認めれば事態は収束する。でも、わからないことがわからないことだったらどうするのか。ルールがないことがわからないのならばどうすれば…。ないことを認める適応範囲をまた探すのか。これは考えないということ。則ち忘れるということで解決するのではないか。忘れるという意味が分からないのであれば、自分を殴ってみてください。痛みと衝撃で今何考えていたか忘れます。これなら、忘れるということも理解できるのでは?うーん、ここまで考えてみて、疑問が問題だと思う。①②を認めて、もうそれ以上疑問を持たなければいい話ではないか。疑問を持たなければ思想は生まれなかった。やっぱり、教育って怖いと思いました。
――オチもいいよね。
今回の授業を聞いていて、「論理的な正しさを明示的なルールで説明しきることはできない」という部分で何故かすごく楽しい気分になったのでその理由を考えました。
↓どの部分に
「説明しきれない」という部分
↓なぜ
説明しきれないことがあるという事実に、自分の世界の広がりを感じるから。
↓なぜ
自分にはまだ知らないことやわからないことがたくさんあることが分かるから。
↓なぜ
知らないことが知れるのは嬉しいし、できないことができるようになることが楽しいから。
↓なぜ
自分の可能性が増えるから。知らなければ挑戦しようとも思うこともできないから。
少し話題からずれてしまったように思いますが、自分の性質について理解を深められたと思うので考えていて楽しかったです。
自己分析も哲学に含まれるのでしょうか?
もし哲学をこの授業以降も触れるのであれば、純粋な哲学について考えたいなと思いました。その後に哲学史に触れて、自分の考えたようなことを昔の人も考えてたんだー、おもしろ!ってしたいなと思いました。
――こういう話を聞いて「なぜかすごく楽しい気分」になるなんていいセンスだ。
今日の授業で笑ってしまったところがありました。それは、福井駅の説明のところです。友達にいると相当腹立たしいかもしれませんが、逆に面白いかもしれません。新たなことに気づかせてくれるように思います。この例では、無限後退についてあげられていましが、この世の中のものはすべて証明は不可能なのでしょうか。論理的に証明することは難しいので実験など視覚的にとらえられるもので証明をするというのはどうかと考えたときに、それぞれ見ているものは人によるので共通認識が合わないです。やはり、証明は難しいのかもしれません。もしルールを決めるのであれば、それは無限後退してしまうので暗黙の了解でストップがかかるというのも納得がいきません。自身も何を言っているのかわからなくなってきました。でも、これも面白いです。どうすれば、ルールを制定できるのでしょうか。私の勝手な想像ですが、無限後退を輪っかにすればいいのではないかと思います。ただ羅列的にルールを定めるのではなく、前提を初めの前提に帰着させるのです。しかし、具体例は出せません。しかし、きっとこんな簡単なことではないでしょう。話は変わりますが、私は神について非常に興味があります。神について語りたいです。また、哲学関連の本もとても読みたいです。興味しかありません。
今回の講義で面白いと思ったのが「福井駅の方向を示す看板の無限後退」の話です。確かに私達は場所を示す看板があると、そこに書かれた矢印の向きにその場所があると判断します。ですがその矢印の向きに進めば目指す場所があるとは限らないなと思いましたし、目の前に示された文章や記号の示す意味の捉え方は人それぞれであるなと思いました。この話を聞いた時に、僕は自分が小学生である時のエピソードを思い出しました。小学校低学年の時の話になるのですが、誰でも子供の頃は言葉遣いや他人の心を思いやる気持ちがまだ完全に出来上がっていないと思います。そこで僕は友達に対して「君は馬鹿だ!」と言いました。そして友達は「馬鹿って言った方が馬鹿だ!」と言い、それに対して僕は「馬鹿って言った方が馬鹿だって言った方が馬鹿だ!」と言い返し、このやり取りを無限に続けたのでした。相手の言った事に対して自分なりの補足説明を付けても、相手は自分の意思とは違う解釈をしてしまいきりがない、このような出来事が小学生時代にありました。果たしてこれを無限後退と呼ぶのか、そもそも自分が「無限後退」の意味をはっきりと理解できているのか、他人から見るとこの出来事は無限後退と呼べないのか分かりません。ですが僕は第2回の講義を聞いて、小学生時代に幼稚だと思っていた行為は少し哲学をかじっていた行為だったのかと思い少し嬉しかったですし、改めて行きすぎたメタは面倒だなと思いました。あと改めて小学生時代の自分はめんどくさい子供だなと思いました。
自分はきょうの授業を聞いて、無限後退と同じようなことが起こる例として辞書での語句調べがあると考えました。
例えば、ある単語を辞書で調べたとすると、辞書にその漢字の意味が明記されています。ですがもしその漢字の意味の説明文の中に登場する漢字の意味がわからない、そうなったときまたそれを辞書で調べることになります。またまたその意味を調べたときの説明文に分からない漢字の意味ががあったらそこにある分からない漢字を調べるまたまたまた・・・のようわからない単語があるもしくは登場する漢字の定義を厳密に理解したい(哲学者のような思考の人)となるとそれが長い間続くことになります。(もしかしたら辞書に書いていることは本当に正しいのか?などのメタ的思考が出てくるかもしれませんがきりがないので割愛します)
このように普段の生活でもきりのないことがいろいろあると思います。時間は有限なので効率よく生きるためにもメタ的思考を多用しないようにしていきたいと感じました。
――そうそう、そのように考えると「言葉の意味」の最終的な源泉はどこにあるのかが気になってきますよね。
論理学にて、その論理は本当に正しいのか?ということを考えさせられました。昔何処かで聞いた大企業の入社試験問題で鶏を売り買いする問題があって、それを思い出すような感じです。問題の内容としては「8$で仕入れて9$で売る。後に10$で買い戻して11$で売る。いくら儲けたか。」という多分有名な問題ですが、答えが一つではないというものでした。単純な足し引きで考えると-8+9-10+11=2ですから2$になるが、他の答えとしては1$得して1$損して1$得して結果1$得するという解答。さらに、最初から11$で売っていれば3$得していたはずだという考えにより2$の損したという解答まであります。私の感覚として、どの回答も筋が通っていて正しいと思うのですが、それぞれ別々の答えになっています。こういったことから、論理というのは万能ではなくある種の脆弱性を抱えていることに気付かされました。そして、その脆弱性こそがパラドックスという形で出現しているのではないかと考えられました。
蛇足:私は最初1$の儲けかと思って、2$と言われたときに、きょとんとしてしまった。
今回の講義で、論理的に正しいもの=前提がすべて真ならば必ず推論も真であるという演繹が取り上げられました。これは、確定した事実を使って論理を組み立てていくものだと思いますが、物理や数学でも何か問題を扱うときに、すでに定義されている(すでに正しい)公式などから数式を利用して問題の解答を導きだすので、哲学は数学の延長線なのではないかと感じました。そこで、今回の講義にもあった「この世界はVR」説や「この世界は夢かも」説などはいくら考えても答えの出ないものであり、そういった純粋な哲学は自然淘汰され、最終的に数学の集合と命題などの分野に行きつくのではないかと思いました。
――哲学を数学をモデルにやっていきたいという発想は昔からありますよね。最近の哲学でも、哲学を物理学などの自然科学に還元したい(少なくとも連続的なものとしたい)という有力な流れがあります(「自然主義」)。それに対して「いや自然科学では決して解明できない謎があり、それを哲学は対象としているのだ」という「反自然主義」的な哲学者もいます。
無限後退の説明のとき、数学の集合論に似たルールが出てきたことで親近感が湧いた。しかし哲学者にとってはルールが一つ増える度にそれ自体にもルールが必要になるというのが無限に続き、そもそもルールで説明することはできないという結末が数学とは全く違い面白かった。
今回の授業も非常に面白かったです。特に純粋な哲学の時の例として出した「この世界はVRである」という考えや「本当に自分は存在しているのだろうか」ということは昔に考えたことがあります。このような考えが出てくるのは若干現実逃避に近いものだと思っています。この世界がVRではない、自分は存在しているということを私は説明することはできませんしわかりません。ですが、このような考えに至るときはたいてい現実がうまくいっていないとき、いやなことがあった時に多い気がします。もちろんちゃんとこれについて考えている人もいると思いますがこの考えの始まりはこのような理由が多いと思いました。少なくとも自分はそうでした。また、「自分以外のものはすべて舞台のセットのようなものかもしれない」という考えについても少し考えてみました。これについては自分を中心に考えているからこのような考えに至るのだと考えました。おそらく今までの人生の中でこのような考えが出てくるのは大体幼少期のころだと思います。幼少期のころは知っていることも少なく生きている世界も小さいです。それにより幼少期は自分中心な考えが主です。このような考えを持っているからこそこのような疑問が生まれるのだと思いました。
授業中に、『なぜ「正しさ」を吟味する必要があるのか?』という問いをされたが、その時にはそれの答えが思いつかず、授業後にじっくり考えた。まず、自分は「正しさ」とは、ありきたりではあるが個人個人が持っている判断基準(物事の測定基準・測定機器)だと定義した。そのうえで、測定機器は使用していると誤差が生じるものであり、正確に測定するためにはその誤差を校正する必要がある。「正しさ」も毎日使用するもののため、同様に誤差が生じる。そのため、構成する必要がある。しかし、校正に使用するための機器(長さの測定であればブロックゲージ等)の精度が十分にあるのかといったことも検討する必要がある。これが「正しさ」を吟味することであり、それはつまり自身の判断基準や価値観を校正し、その精度を担保するために必要になるのではないかと考えた。
私はこの世界は全て自分の脳内で作り出した世界だと思っています。私の友人や親はその登場人物です。人と出会ったり何かを学んでいて、現実の世界だとしたら都合良くできすぎている気がするからです。例えば、どんな数字があっても、それを誰が掛けたり割ったりしても答えが一つになるって奇跡的なことです。たまたま生ま育った地域が一緒なだけで小中学校で友達ができて、その友達と今でも仲良いと思うと不思議なのです。少しでも違うところに住んでいたらその友達と出会うことは絶対になかったのですから。また、人は知らないことはないと思うのです。「へ~そうなんだ。知らなかった!」って思ったときにはもうその事は知っているからです。適度なメタ的態度でこれからも自分の考えを深めていきたいです。
僕は、小さなことのメタを考えるのよりもスケールの大きい「死んだあとどうなるんだろう?」とか「無ってなんだ?」みたいな答えのないものを考える方が面白いと思います。
――「小さなこと」を考えていたらいつのまにか壮大な話になるというのも趣があるんじゃなかろうか。
今回の授業で一番印象に残ったことが無限後退の話です。前提①「AならばB」、前提②「A」、結論「B」は自分ならそのまま受け入れられるのですが、哲学者の視点ではルールとして前提③を、④を、と次々に明記していかなければならないといったものです。前提はあくまで仮定したものですが、与えられている仮定の上での定義としてとらえれば何ら問題はないようにに感じました。内容も、言葉にするのも難しいです。定義だと言ってしまえば、それまでのような気もしますが、哲学者の方々がそれで食い下がるとも思えないので哲学はつくづく難しいと思います。
――普通の人ならば「定義」と言われればそこで納得するのですが、(一部)の懐疑主義的な哲学者ならば「その定義をいかに解釈するか?」と問うかもしれませんね。
今日の講義で疑問に感じたことが、哲学の授業を受けているのに論理の正しさをまなび、内容で論理学や倫理学などが出てきたことです。ここで質問なのですが、哲学の授業で論理を学ぶということは、哲学を学ぶということ=論理を学ぶということと言い換えることができるのですか?また、できるのであれば、私はどちらを学んでいることになるのですか?
――先週やったことは「論理学」というよりも「論理学の哲学」と呼べるものでありますから、「論理学の哲学」という哲学の一ジャンルを学んだということになります。質問に合わせると、論理学を学んだというよりも哲学を学んだことになるでしょう。基本的に専門的な論理学者はルイス・キャロルのパラドックスのようなものにずっと悩んではいないはずです。「まあそういう問題もあるけど、とりあえず脇においておこう」という感じでしょう。
普段から物事に疑問を持つことは哲学的に考えていたんだなと思った。物事を批判的、懐疑的に見ることは大切だと思っていたが、過度にやりすぎると人生を楽しまずに、更に人に嫌われそうなので程々にやっていきたい。哲学は深すぎて逆に浅いのではないかと考えるようになってきた。(い)
――「深すぎて浅い」という表現がよい。
正しさを吟味する必要性について、授業の中で、「納得して受け入れることが重要」であると言われていましたが、それはなぜでしょうか?
――改めて聞かれると困ります。何よりも自分の自由意志を尊重したいということか。
教授は正しさには論理の正しさ、人としての正しさ、認識の正しさがあると言っていました。そこで気になったのですが「正しさ」の種類によって正しい正しくないが分かれるような事例があるのだろうか、あるならどのような事例があるのか気になりました。あと、教授は日常的には3種類のどの「正しさ」を用いるのがいいと思いますか?
――例えば「純粋な論理としてはこうなるけど道徳的には受け入れられない」といったことはありますよね。日常生活ではそれぞれの正しさが対立しない場合は全部使うのがよさそうですが、問題は対立した場合ということですね。うーん、どうでしょう、人ととしての正しさでしょうか。
授業始めに、先生が「福井の人は優しい」とおっしゃっており、福井への愛をいいたい!という主旨の事を話されていたと思うが、自分はそれが引っかかった。私から見ると福井の人は、外から来た人には冷たいし、監視社会だし、外面や体面重視だし、運転は荒いし良い所が無い。割と本気で水とご飯がおいしい所ぐらいしか良い点がないと思っている。でもそれは、私がずっと福井の田舎の方に住んでいるからかもしれないし、私が都会に憧れを抱いていても、都会の人はそうは思っていないみたいなことと同じ様な事かなと思った。
上京した人が家族に電話をかけたとき、「もしかして今電話をかけている人は、電話が終わったら舞台裏に下りるみたいに、本当はいないひとなのではないか」という不安に駆られる、という話の時、私の脳裏にはドンキ前でたむろしている人達の姿が思い浮かんだ。そういう人達は多分、上記の様な事を全く考えない人達なんだと思う(偏見)。それはそっちが劣っているとか、そういう事を考えている人が優れているとかの話じゃなくて、ドンキ前の人々は自分の欲求の通り生きていて、でもむしろそういった事を考えない人達の方が、ある意味幸せなんじゃないかと思った。上記の様な不安を抱えなくてすむし、「死とはなにか」とか、先生が良く例に出されていた「ふしぎな友達」のような、ちょっとした事が気になって立ち止まってしまう事がないだろう。でも「「これ自分だけかも?」と思った事は、大体昔の哲学者が考えつくしてくれているので」という先生の言葉を聞いたとき、それは不安を抱えている人達にとって、とんでもない救いだなと思ったし、哲学が今日まで存在してる意味でもあるのかなと思った。人々に必要とされているからこそ残っているものというか。もしも私が不安を抱えていたとき、「自分だけではない」という事が、一体自分をどれだけ励ましてくれる事だろう、考えも付かない。
ロボットの人権の話のとき、デトロイトビカムヒューマンみたいだなあと思っていたらまさにその話が出て内心飛び上がった。このタイトルをやる為だけにPS4買ったぐらい好きなゲームなので、ぜひ多くの人にやってほしいなと思う。別の共通教育の授業で「ロボットは生きていると言えるのか?」といった話を聞いたばかりなので、より興味深く感じた。ちなみに現時点でロボットは自律的に生きること(自分でエネルギーを確保する・自己修復や成長・生殖するなど)ができないので、「生きている」とはいえないそうだ。感情の有無とかじゃないんだなあと不思議に感じていた。
無限後退の説明で頭がこんがらがってしまったが唯一、「いつまでも説明等が続いてしまう」ことなのに無限「後退」なんだなあと不思議に思った。結論にいつまでも辿り着かないなら無限「停滞」とかじゃないのか。
後完全に余談ですが、先生の声が1回目のオンラインで受けた時からVtuverのバーチャルゴリラさんに似てるなあと思っていましたが、対面で受けたら一層そう感じました。今日の授業も色々考えられて面白かったです。
やはりデトロイトをプレイ済でしたか。AIに自意識が芽生えたらやはり人権適用すべきと私は思います。というか、自意識が芽生える時点でシンギュラリティを超えていると思います。多分ネットワークを乗っ取られて人間が人権をAIに適用”される”側になると思います。
あと、電話してる人は電話してる時だけ存在してるんじゃないかの件ですが、先生、あなた、量子力学好きですよね?すぐに分かりましたよ。
先生は、幼稚園の頃ぐらいに、他人の心って本当にあるのかとか考えてた!!と言いましたが、僕は幼稚園の頃、のび太がタイムマシンでおばあちゃんに会いに行ったり、過去を変えたりしているのを見て、同じ時間に戻ってきても、周りの人たちは前の世界とは違う経験をしているわけだから、結局それは新たに世界を一つ生み出して、前の世界では行方不明になったまま、その別の世界に行ってしまってるんじゃないかと、園長が聖書を読んでる暇な時間に考えてたことを思い出しました。
ここで一つ質問です。
「君の名は」で、主人公達は流星群の衝突から人々を守り、ハッピーエンドとして終わってしまいましたが、衝突後にAさんとBさんが子供をつくっていて、衝突しなかったことでAさんは衝突回避したCさんと子供を作った場合、AとBの子供は存在した痕跡すら残らなくなりますよね。それともさっきのタイムマシンの話みたいに、主人公だけが別の世界にいったからハッピーなんでしょうか。教えてください。
P.S. 私はデトロイト、10かい選択する前に辞めました。
――文章が面白いので内容が頭に入ってこない。だから質問には答えられない。あと量子力学に興味はあるが理解はしていない。
ここに書く感想は何字以上などの制限はありますか?
――特にないです。デフォルトの設定で2万字以内になっていますが、もちろんそんなに書く必要はないですし、長ければいいというわけでもありません。
期末課題についての質問です。少し聞き逃してしまいまいた。ごめんなさい。何について2000字以上書けばいいのですか。
――まだ正式に決めているわけではないですが、だいたい「授業で扱ったテーマに関して2000字以上4000字以内で自由に論じよ」といったものを考えています。いずれ正式な内容でお知らせします。
先生の保育園のころから「なぜ?」と考えていたということを聞いて驚きました。
私は小さいころの記憶はあまりありませんが、特に疑問を抱くことなく、親や先生にいわれるままに過ごしていた気がします。では、私はなぜ疑問を持たなかったのか?これは自己防衛の一つではないかと私は考えています。「周りに合わせる」これができないと私は生きていくことができないのではないか、異端者を嫌う母は私を捨ててしまうのではないかと考えていたのかもしれませんね。先生の保育園エピソードを聞いているとき「割り切って受け入れてしまえば世の中簡単に生きることができるのにな」と考えていました。割り切ったうえで気に食わないことなどについて考えることは楽しいですし、考えているうちに納得することもたまにあります。
(あくまで考えただけであって意見を押し付けようとかは思ってないです。←これ大事)
先生が「ビジネストーク(ビジネスコメントでしたっけ?)」と言って各学部における哲学の意義を語っていましたが、そういう余計な一言みたいな発言をわざわざ口に出すところに好感を持ちました。何となくひねくれてるけど自分の考えを持ち、それを貫くことができる人という印象です。あと、最後に自分の健康は親や先生のためとおっしゃっていたことから先生が周りの人達から愛されて(支えられて)育ったんだろうな感じました。ただ、私的には自分のために健康でいたいと思いました。
――1時間ほどですでに色々見抜かれているようで笑える。
★ 今回の講義を受けるまで哲学は漠然と難しい学問というイメージがありましたが、自分が普段考えているような素朴な疑問も哲学に発展するのだとわかりました。また、国際地域学部に向けての発言でしたが、「自分は正しい」、「相手は間違っている」という思い込みに対してメタ的な態度をとるという考えはとても大切だと思いました。
そしてこれは[…]疑問なのですが、講義中に哲学の目覚めとは社会や大人が決めた「正しさ」への違和感だと先生はおっしゃっていましたが、その自分の違和感さえも思い込みによるものではないかということです。このような疑問を抱いた子供たちはまだ世界をあまり知らないと思います。その少ない知識だけでおかしいと感じることは思い込みに近いのではないかと私は考えました。もちろん自分もこのような違和感を覚えたことはあります。なのでこの考えがおかしいとは思っていません。ただこの自分の考えに対してもメタ的な態度をとることも必要なのではないかと感じました。
――言われてみるとまさにそうですね。「私こんなことに違和感持てているんだぜ、どや」的な意識が裏にありますよね。ですから理想的にはこうした意識さえも突き放して見る必要があります。しかし、少なくとも子供にそこまで求めるのは難しいでしょうね。
受験で英単語を覚えるとき、語源をとても意識していた。メタ認知というのはこの意識の究極と感じたので、興味を持って受講できそうで楽しみに思えた。
語源といっても接頭·接尾語を意識するのみで、appleの語源など究極の語源は気にしていなかったため、話を聞いて興味が湧いた。聞いた話で、オックスフォード英語辞典は"set"の説明に6万字を使っているらしく、当たり前に使っている言葉がとてつもない情報量を孕んでいると知ったとき、感動したことを覚えている。哲学も同様に、当たり前なことを"当たり前"で済ますのではなく、いかに深くまで掘り下げられるかが重要だと思うのであの感動を再び味わえるよう勉強していきたい。
授業では工学部にとって哲学を学ぶ意義は"既存技術に対するメタ認知"を得ることだと仰っていたが、これは今までの経験から非常に共感できた。新たな分野を学ぶとき、それ単体で調べるより周辺知識やそこに至る道を知っていたほうが意欲も定着度もはるかに上だったからだ。まったく異なるものだと感じたものがマクロ視点では繋がっていたり、逆に終には同じものと捉えられたりするとこれを知れて良かったと感じる。新技術は突拍子もないものではなく、どこかで既存のものと繋がっているという意識を授業を通して深められたらなと感じた。
――哲学とは、自分がもっている概念の理解を深めるもの、とか、社会の有する概念をよりよくするもの、と言われることもありますからやはり「言葉」ですよね。
「私は、哲学は、メタ的な態度から生み出される云々だと思います。」先生が言った。
一瞬の間もなく、「なるほど」と、私は思った。
「しまった。」
メタ的な態度で先生の言葉を受けとることが出来なかった。でも、よく考えたら、哲学はメタ的な態度から生み出されると言っていたのも先生だった。だから、メタ的な態度で受け取らなくても全然しまったじゃなかったのだった。
先生は、15年間を「リンゴは何でリンゴなのか?」という何ででもいいことに費やした歴史をもっていた。現在は、また他の果物に15年間を費やしている最中なのだろうか。
――おもろい。
白川先生が自身の哲学の目覚めとして話されたことの中に、強制的に保育園に連れられるや契約していないのに。のような言い方、考え方が面白かった。私にも学校へ行きたくなかった時期があり、強制的に連れていかれる意味を考えていたりしたので共感を持った。
「自分は正しい」や「相手は誤っている」と思ったら危険、は何度もそれで失敗しているので忘れずにいようと思った。
一番今回の授業で印象に残ったのは、哲学的なことを人間どうしても考える人が一定数いる。という言葉。
私は哲学という学問を避けて生きてきたが、どうしても詰まる部分は言葉に意味を見出たり、正しさを咀嚼しているときだった。教師や兄弟と話しても理解が得られず、自分がおかしいのでは、と思うようになった。今回でそれらが哲学ということを知り救われた。
また、哲学の目覚めとして、社会や大人が決めた「正しさ」の違和感としていたが、私の場合は「普通」だった。口論になった時に、私が「普通はこうでしょ」と言ったことに対し「普通ってなに」と返されたことだった。それから、普通の脆さを知り、自分が危険な根拠で行動していたことをしった。今回の授業でも、「自分は正しい」や「相手は誤っている」と思ったら危険、とあるように、私はそのとき普通は危険を体験した。授業後に、自分の行動を振り返ってみると、自分の感情が先にあり、どうにかこれを規範に当てはめようとしている自分がいて、これも危険だと気づいた。
メタ的態度をとるとき、自分の感情でバイアスがかかってしまうのはどうしたらいいでしょうか。
――自分の感情から距離を取るというのは相当な修行を積まないとできないので、永平寺に何年も行くとかできない以上は、そういうもんだと受け入れるしかないでしょうね。
リンゴがリンゴと言えるのは誰かが決めた言葉が勝手に広まったのか、はたまた強制されたのか。でも、ネズミとかにリンゴ見せてもこれリンゴって言わないですよね。赤ちゃんに見せても言わない。なんでリンゴってわからないのか…でも見せればわかります。ネズミに見せたら多分食べる。食べるということは認識はしている。でもどうして認識するのか。本当に認識しているだけなのか。おいしそうだと思ったから食べたのか。食べなければ死ぬから食べたのか。リンゴを見たときに何を思った、考えたのか。リンゴを食べない動物はどうか。リンゴを食べることを強制すれば食べるだろう。でも、自分からは食べないだろう。本当に食べないだろうか。パンダはもともと肉食だったと聞くけれど、なぜ笹を食べ始めたのか。肉食が突然植物を食べようとするなんておかしくないか。食べようと思った経緯が知りたい。ライオンがリンゴ食うようなものだと思う。ということはライオンはリンゴを見ておいしそうと思うのか。あり得ない、と言いたいところだけどなんでパンダは笹食べだしたんだ。それしか食うものなかったのか?よくわからない。ライオンも変な奴はリンゴおいしそうとか思うのだろうか。じゃあ野生動物だっていろいろなことを感じて生きているのではないか。結局リンゴを見たときに感じることなんて動物ごとに違うし、その動物の種類の中でも違うにでは…個体ごとに感じることは違うのか。結局種類で野生動物を区別しているだけであって意味があるのか。ライオンの中でリンゴ食う個体が現れたらどうするんだ。もし、パンダが自分から笹食べだしたならそれはライオンがリンゴを食う可能性があるということでいったいどうなってしまうんだ。もう別の生物になるのか?言葉なんてあるのかそもそも言葉なんて時代ごとに違う。今、自分たちが気にしている敬語とか相手を敬う表現とか時代ごとに違う。しかも国変わったら全く違う。どうして…今の若者の言葉はよくないとかというけれどそれって平安時代の人が昔の言葉のほうがよかったっていうのと同じでは。リンゴも言葉でそれは人間にしか伝わっていない?チンパンジーなら伝わるか?でもアメリカ人にはappleでしょ。言葉って定義できなくないか。リンゴはリンゴという言葉を知っていてそれに疑問をもたないときに使えるの言葉なのか。しかし、リンゴというものを見せれば動物でも反応する。リンゴには強い力があるな。よくわからなかった。
――あふれ出る思考の流れだねぇ。
自分には、哲学とは、難解複雑なもので、言い方は悪いですが変人たちが一日中考え込んでいるものという偏見がありました。しかし、今回の授業を聞いて、生活の中に潜んでいるとても身近なものだという考えに変わりました。そして、例えば、今自分がやっていることは本当に正しいのだろうかということや、既存の物に対して俯瞰的に考える、そのような客観視することから哲学は始まるのだと感じ、与えられたもの、押し付けられたものが全てではなく、それが正しいとも限らないということを念頭に置きながら生活していきたいと思いました。
しかし、与えられたものが正しいとは限らないのなら、この考えも正しいとは限らない。そして、この考えが正しいとは限らないのなら、そもそも、最初の「与えられたものが正しいとは限らない」が正しいとは限らない・・・と考えがループしてしまいますが、深く考えすぎない方が良いのでしょうか。
――慣れないうちは考えすぎない方がいいですよ。あるいは、頭だけで考えるのではなくて紙に書くとかもいいですよ。
授業が始まった少し後に、週に一回くらいこのように早く起きたらいいという旨の話があった。先生自身が、学生の頃には怠惰な生活を送り、体調が悪くなることがあったため、健康のために、早起きをするのが良いという話をされたのだと思った。しかし、授業の後半になって、先生の研究室の後輩が、、という話を受けて、このことから、健康が大事と言いたかったのだと感じた。そもそも文末の思うとはなにか。感じた、考えたとはなにか、どういうことか。何をもって考えたといえるのか自分にはわからない。が、これが考えているなのか。そんなことを考えている木曜の朝。
教員はクラスの「権力者」で「正しいこと」を教える、というふうに仰ったとき、学部一年の時に教育心理学で先生が「教育は洗脳です!」と言っていたのを思い出しました。いままで受けてきた小中高での教育で、教員に対して抱いていた嫌悪感の原因が言語化された感じがして面白かったです。
国際地域学部のところの目的で「他社と共生するため」とあったのでメタ的な態度をとると、「なぜ他者と共生するのか」というような根本的なことを追求する授業が国際地域学部の授業としてあってもいいのではないかと思いました。
今回の授業で面白かったことは、教育学部では教育者として、国際地域学部では他者と共生する者として、工学部では製作者として、それぞれ具体的な目的は異なるが、メタ的態度の獲得を目的としているということである。どの学部も、なぜメタ的態度を目的にしているのかということに興味を持った。
他に、「北の国から」のドラマにおける、五郎が、ラーメンのどんぶりを下げようとする店員に向かって怒鳴るシーンについての話があった。このシーンについて、実は店員の方にも何か事情があって、早くお店を閉めなければならない理由があったのではないか、と考えることができる。この話を聞いた時、店員は悪かったのか、それとも五郎が悪かったのかという疑問が生じた。
この例から分かるように、物事の良し悪しというのは俯瞰的に見ると分からなくなる。つまり、メタ的態度をとると正しいと思っていた考え方が変わる。だから、この正しさとは何かについて、今後の授業を受けて考えていきたいと思う。
★ 物事を俯瞰して見ることは大切だと感じるのですが、俯瞰しすぎると、自分の人生まで俯瞰してしまうということが起こるのではないかと思います。自分の人生なのに第三者目線から見てしまい、自分で行動を起こそうという意識が薄れていると最近感じ、少し不安があります。落合博満氏(元プロ野球選手、68歳)が、「最近の野球選手は自分の打席を考えなくなった」と発言していました。落合氏自身は、「相手がどんなボールを投げてくるのか」や、「どんなボールが来たら打つか」など考えていたそうで、最近の選手にはそのような意図が感じられないと言っていました。落合氏の時代の指導者は、「俺のやり方と違う奴はいらん」と考える人もいたそうで、最近と比べるとメタ的な思考をする人が少なかったと考えられます。最近は、俯瞰して物事を見る人が増えましたが、自分のことを自分のこととして考える能力が低くなっているのかなと個人的には考えました。
――メタに行きすぎると何ごとにも「他人事」感が出てしまい熱中できなくなるので、人生の彩り的なものを味わおうとするときにはメタに行かないように注意する必要があります。
他者との共生のためには自分の思い込みにメタ的態度をとる必要があるとお話になっていたのを聞き、授業後に改めて自分が今まで物事に対してどのような態度をとってきたのか振り返ってみました。そうしてみると自分に直接関係のないニュースに関してはメタ的態度をとれているとまではいかなくても多角的に考えようと努力できてるんじゃないかなと思いました。一方で、自分が実際に体験したことに対しては感情的になってしまい、「自分は正しい」とか「相手は間違っている」などの思い込みをしがちであるということに気付きました。自分がそういう思い込みをしやすい人間であるということを自覚できたので、とりあえず今後何かあったら一回深呼吸でもして落ち着いてから考えてみるようにしようと思いました。
――上のコメントに関連するが、自分のことは感情的になっても(なったほうが)よいのかもしれない。
本日の授業で、哲学がすべての物事を疑う、疑問に思うという態度によって生み出される世界観や思想であるという話をしておられたときに、哲学に従事する人が多いと社会が成り立たない、とおっしゃってましたが、それは違うと思います。社会が成り立たなくなるのはその態度を表に出すからであって、自分の中で疑ったり、考え続けたりする分には社会に変わりはないと考えます。また、私の中で哲学というものは自分の生き方や考え方を問い続けるものだと思っていたので、これからの授業でいろいろな考え方を知りたいです。
――わし自虐が多いからな。
小学校の低学年のころ学校の先生に「どうしてあいさつをしなければいけないんですか?」と質問をしたことがあります。「あいさつをされたほうは朝から心地が良くなるからです。」と先生は答えてくれましたが、当時の僕には、どうして自分が朝から駆り出されてあいさつをしなくてはならないのだろう、あいさつをさせられている人のあいさつは果たして心地よいのだろうかと感じていました。今回の授業を聞いて、哲学の目覚めに近いものなのかなと思いました。
――「なぜ他人の心地よさのために自分を犠牲にしなければならないのか?」というのは、根本的な哲学的問いです(「道徳の理由」"why be moral?"というジャンル)。いずれ授業でやります。
今回の授業で例として先生がおっしゃっていた、「存在とは何か」という問いが、自分も昔考えたことがあったので、授業中も考えてしまいました。
自分は、「存在する」とは自分に何らかの影響を与える場合において成り立つと考えました。神や宇宙人の存在がこの先証明されたとしても、今現在自分に影響を与えていないのであれば、存在していないも同然ではないでしょうか。
このように今まで思っていましたが、今回の授業で学んだように、メタ的態度で考えると疑問が湧いてきます。「影響」とは何か、自分とは何か、考えれば考えるほど分からなくなります。15年かけても分からないかもしれません。
ですが15回の授業を通して、自分が納得出来る答えを見つけられたらなと思います。
――存在論は大変だ。私は避けている。
私が今日の講義を聞いて、先生の幼稚園の時の疑問がすごいなと思いました。というのも自分が幼稚園や小学生の時は漠然と通い、なんとなく授業を受ける中でそのような問いにたどり着けなかったからです。(親からすると大変だったと思いますが(笑))
今回学部別に哲学を学ぶメリットを教えていただきましたが、自分は普段の人間関係でもメタ的思考が大切だと思います。例を挙げると喧嘩の時です。やはり怒っているときは冷静な判断ができなくなり相手が悪いと決めつけるときが多いと思います。しかし時間とともに熱が引くと冷静な判断ができるようになり。その時に自分の言い分を客観的な視点(メタ的態度)で考えると自分の悪い点にも気づくことができ、素直に謝ることができるでしょう。(親とのけんかでこの方法でよく反省します笑)
最後に自分は、恋について追及したいと思います。恋ってやはり漠然としていて、わかりずらいように思えます。恋とはどういうことなのか、愛との違いは何なのか、付き合うことは恋といえるのか、そもそも明確に表現できるのかをいろいろな面からアプローチをしていきたいと思いました。
――わし愛とか恋とか苦手ジャンルなので授業ではとりあげないが、もちろん哲学では一大ジャンルを築いている。もっとも古典的なものはプラトンの『饗宴』です。
幼稚園の時「なぜ行かなければならないのか」という疑問に目覚めた先生と同じように、私も小学二年生で何かに目覚め、五年生まですべての授業を欠席し、図書室で本を読んだり体育館で遊んだりする生活をしました。しかし私は先生とは違い、「自分は正しい」「相手は間違っている」という思い込みをし続け、哲学的にダメな方へと進んでいきました。この授業を受けてどのように考え方が変わるのか楽しみです。
なぜ白川先生は幼い頃から社会や大人が決めた正しさへの違和感を持っていたのかが気になった。
――この「なぜ?」に答えるのはなかなか難しいですね。そういう性質の人間だから、と答えるしかないんじゃないでしょうか。心理学や精神科医ならば、何らかの病気・精神疾患を読み込むかもしれませんね。
私は工学部なのですが、既存の技術・プラットフォームに対してメタ的な態度をとるというのがなるほどなと思いました。また、メタ的な態度が懐疑的な態度と似ている部分があるなと思ったんですが、哲学において、懐疑的とは言わないのですか。
今回の講義を聞く前は、「哲学」に対するイメージは「何か一つのものに対して極限まで(他人が引くくらいまで)突き詰めていくもの」、「すべての物事に対して批判的に考える」ものだと思っていました。今回の講義を聞いて、自分の考えは大まかには合っていたのかなと思った。ただ、「批判的に」という点は間違っているわけではないと思うが微妙に違うかなと思った。自分の意見が絶対に正しく、相手の意見が絶対に間違っている。この考えに対して「疑問を持つ」、「メタ的な態度をとる」、「『正しさ』への違和感を覚える」ことが大切なのだなと思った。しかし、この考え方も「先生が言っていたから正しい」と鵜呑みにすることはできない(失礼かもですが)。この講義を通して自分の中での「哲学」を再解釈していきたいなと思った。
――批判、懐疑、メタ、哲学との関係は重要なので口頭。
zoom中に質問をする場合は、先生へ個別のチャットで送ればいいのでしょうか。全体へ送るには勇気がいるので、先生に直接送れるとありがたいです。
――直接送信でも問題ありません。チャットの宛先から選択してください。
今日のZOOMでの授業でこちらから見て右上の黒板が少し見えずらく感じました、また右の黒板全体も少し遠いと感じました。
オンラインで受けていましたが黒板が少し遠いです。
――次は正面から撮ってみよう。
★ 先生は哲学の研究者ということですが、具体的に哲学の研究とはどのような研究を行うのかについて興味があります。過去の哲学者の思想に解釈を加えるのでしょうか、それとも全く新しい思想を自ら生み出したりするのでしょうか。
――まさにおっしゃるように、大きくは「過去の哲学者の思想に解釈を加える」ような哲学史研究と「全く新しい思想を自ら生み出す」研究の二つに分かれます。予想できるかもしれませんが、お互いに「真の哲学研究をしていない!」と批判しがちです。日本では哲学史研究が多めでしょうか。私は一応、後者の研究を目指しています。
完全に別件ですが、福井大学の学食でお気に入りのものはありますか?
――まだ一回も学食を使ったことがありません。
谷村省吾先生の「物理学者が観た哲学」はお読みになりましたか。私は最後の章しか読んでいませんがどんな感想をお持ちになったか聞いてみたいです。
――読みました。哲学者は反発している人が多いようですが、私は何というか胸がすく気持ちがしました。
教授は友人が亡くなった時に先生方や周りの人より先に死んではいけないと仰いましたが、友人が亡くなってしまったからこそ、人はいつでも死ぬ可能性があるから自分のやりたい事やらなければいけないことをいつでも死んでいいようにやっておけと教えられた感じがしました。先に亡くなることは良くないかもしれませんが死に意味を付けるのもいいのではないかと思います。
――そう、死には何らかの意味づけをせざるをえません。私(や仲間たち)は大きな意味づけをしましたが、それで何とか死を受け入れることができましたし、人生観も変わりました。