研究テーマ1: 光電子分光による固体の電子状態の研究
私たちの身の周りには金属、半導体、磁性体など多様な物質が存在します。これらの物質の電気伝導性、磁性、光学特性といった重要な性質は、「電子状態」から理解することができます。電子はそれ単体では微小で単純な存在ですが、膨大な数の電子が集まるうちに互いに影響を及ぼし合い、全く予期しない巨視的な現象を引き起こす場合があります。電子の集団が統計的にどのように振る舞うかを示す「電子状態」を調べることで、電子に働く相互作用や新規物性の起源に迫ることができます。これを可能にする有力な手法が光電子分光法です。本手法では、物質に光を照射することで真空中に飛び出す電子を検出します。特に、単色性に優れたレーザー光源を用いることで、飛び出す電子のエネルギー情報を精度よく取得することが可能になります。この検出された電子は、固体中を運動していた時の記憶を保持しています。私たちは、物質中の電子のエネルギー、波数、スピン、軌道に関する多元的なデータを解析することで、電子間相互作用が顕著な強相関物質や高温超伝導体などの複雑で興味深い種々の現象の発現機構を電子状態の観点から明らかにすることを目指しています。
2025年度は、これまでに調達した実験機器を組み上げて、いよいよ名古屋大学にレーザー光電子分光装置を建設します。光物性物理や装置開発に興味がある学生さんは是非一緒に研究しましょう。装置が立ち上がるまでの期間も、東京大学や各地の放射光施設などに出張して、共用装置を用いた研究を推進していきます。以下に研究テーマの例を挙げます。
・集光型レーザー光電子分光装置の開発と局所電子状態の研究
光電子分光実験に用いられる光源サイズは一般に100 µmから1 mm程度であり、これまで比較的大きく平坦な単結晶表面を対象とした研究が行われてきました。私たちは、1 µm以下の空間分解能を目指した集光型レーザー光電子分光装置を名古屋大学にて開発します。これにより、強相関電子系が示す空間不均一な秩序形成や磁気ドメイン境界の特異な金属相など、微小空間に特有な現象を電子状態の観点から解明したいと考えています。さらに、粉末試料や凹凸がある三次元物質が観測可能となることで、研究対象が大きく拡大することが期待されます。本研究テーマは、集光X線の利用が可能な放射光施設を相補的に用いて推進します。
・非従来型超伝導体の電子対形成
超伝導状態にある電子は互いに引力を感じて対を形成することでボーズ凝縮を引き起こします。このとき電子状態には超伝導ギャップと呼ばれる微細なエネルギー構造が現れ、電子間引力の起源に応じた様々な形状を示します。銅酸化物や鉄系高温超伝導体を初めとした非従来型超伝導体と呼ばれる物質群では、電子のスピンや軌道の自由度が電子対形成に寄与する可能性が指摘されています。本研究では、光電子分光法を用いて波数空間に分布する超伝導ギャップの対称性を詳細に調べることで、電子対形成の起源を明らかにすることを目指します。
・高温超伝導体の常伝導電子状態
超伝導を担う電子の素顔である常伝導電子状態では、電子系が結晶格子の回転対称性を自発的に破る「電子ネマティック状態」と呼ばれる奇妙な現象が報告されています。このような電子系の回転対称性の破れは銅酸化物や鉄系超伝導体において見出されており、高温超伝導体に特徴的な現象である可能性が高まっています。この現象を解明するためには、レーザーや放射光といったエネルギーの異なる光源を併用することで、広い波数空間における電子状態を網羅的に観測することが有効です。また、最近では電子ネマティック状態がナノスケール空間において縞模様を形成する新しい現象が光電子顕微鏡観察から明らかになりつつあります。光電子分光および光電子顕微鏡を用いた電子ネマティック状態の研究から、高温超伝導機構の理解を目指します。
研究テーマ2: 超高速時間分解電子顕微鏡による固体の光応答の研究
上記の光電子分光から明らかになる電子状態は、熱平衡にある物質の特性を表します。一方で、フェムト秒(10-15秒)オーダーの短い時間幅をもつレーザーパルス光を物質に照射すると、物質中の電子と格子は急激な非平衡状態へと導かれます。このとき、数ピコ秒(10-12秒)の間、電子と格子は異なる温度を示し、その後、電子格子相互作用を介して物質全体が準熱平衡状態に達します。このような熱的な励起緩和過程と並行して、固体中の磁性, 電気分極, 結晶構造等では, 局所かつ高速な応答から大きく遅い現象へとマルチスケールに伝搬してゆくことが知られています。しかし、個々の物質や材料において, 光刺激と応答をつなぐこのような時空間の発展プロセスは多くの場合が未解明です。その理由は、初期過程に近いほど時間と空間の分解能を高い精度で両立させる必要があるため, 実験的に調べることが困難であるからである. このブラックボックスを明らかにすることは, 新規な局所高速現象の開拓, 複雑物性の発現機構の解明, 電子デバイス等の高速性能を律速する要因の理解に繋がると期待されます。私たちは、これらの課題に挑戦するため、超短パルスレーザーを透過電子顕微鏡に組み合わせることで、時間分解能を従来の1兆倍向上させた超高速時間分解電子顕微鏡を用いた研究を推進します。2025年度から、名古屋大学にて本装置の建設を開始します。
進学を考えている皆さんへ
以上の研究テーマはあくまで一例です。学生の皆さんには研究テーマを自ら提案する姿勢を推奨しますが、教員と相談しながら決めていくことも可能です。物質の研究の中でも私たちは計測に重心を置いており、物質合成や理論計算などの様々な研究室と協力して研究を推進していきます。計測の世界は、近年のレーザー技術の発展も相まって、非常に進展のある面白い分野です。まだ世界で誰も見たことが無いデータを目の当たりにした瞬間、そしてその現象を真に理解した瞬間の喜びは何物にも代えがたいものがあります。学生の皆さんは博士課程前期から自分のデータを国内学会で発表する経験を積み、ゆくゆくは海外の国際会議での講演にも挑戦できます。研究室では日常的な議論、輪講やセミナーを通して、研究を行う上での一連の素養(文献調査、目標・計画立案、実験・データ解析、成果発表、論文執筆まで)を身に着けてもらいたいと考えています。積極的に手を動かしてレーザー光学、真空技術や低温実験手法を習得する熱意をもち、創意工夫により光物性物理学を楽しみたい学生を歓迎します。