観音堂 天福寺の由緒
天福寺は臨済宗にして報恩寺末なりしが今観音堂のみ在せり
天福寺古跡と称するもの尚他にあり
本村南部中佐治南部中佐治の境に存し南北凡そ四丁東西凡そ一町半に亘る大規模にして盛時には伽藍多かりしと云ふ
是は遠政公が祖父遠元の冥福を祈らんが為に報恩寺建立以前に造りしものなるが足利氏の衰勢に伴ひて荒廃しを以て新に天福寺を本村北白石に創立せしが是又荒廃し単に観音堂をのこせり
其の他に玉林庵万宅寺比丘尼屋敷と称する所有り共に寺跡なるべし
天福寺観世音御詠歌
日は暮るる雨は降るがの道すがら
一夜の宿をたのむ笠守
昭和三拾弐年三月吉祥日
報恩寺十二世謹誌
丹波志
佛閣の部 氷上郡 山西
p257
一、天福寺 山垣村白石に
別に二間四面観音堂あり。
同村報恩寺末。天福寺の古跡なり。悉く古跡の部に出たり。
古跡部 氷上郡 山西 山東
p305
一、天福寺 古跡 山垣村南
中佐治村境にあり。古跡南北凡四町、東西一丁斗り、東は大道限り。田の字は天福寺という。往古寺数多しといえり。古跡二所にあり。往古中佐治村高につき検地えある時、山垣村高減ることを好みて中佐治の地という。之によって天福寺古跡の内二丁斗りは中佐治村に入る。今の境は西の山より出で東に流る溝川にて境。古跡北の端、山垣の地に天福寺という小庵、別に観音堂二間四面。字白石という所なり。同村報恩寺末なり。
注)丹波志:「丹波志」は、文化元年(1804年)の写本十六冊、丹波史を知らんとする人の必ずひもとかねばならない唯一の古典であり、古代丹波文化の大百科全書である。これこそ現在我らが踏まえて立っている、この地に生まれたあらゆるものの地誌である。我らの父祖が、我らの今日の幸福のために、心血を注いだ歴史である。