島原大変

大和屋惣次郎の震災体験記

幕末の信濃(長野県)松代藩家老・鎌原桐山(かんばらとうざん)の著『朝陽館漫筆(ちょうようかんまんぴつ)巻15,16』(昭和9年,北信郷土叢書刊行会)に「島原大変」の記事がある.「寬政四年壬子肥前國島原山河大變一件」と副題が付いている.桐山は「地震記事」を著しているが,さらに自身の震災体験を記した「丁未地震私記」がある.「島原大変」は,桐山の震災記録のひとつと考えることができる.「朝陽館漫筆」は,「肥後文献叢書」と同様に,後世の史家によって「くずし字」は解読され,活字化されているため苦労せずに読めるので,現代語訳の勉強材料に好適である.以下はその意訳結果である.一部解釈が異なるところがあると思うので,念のために原文を載せておいた.

「寬政四年壬子肥前國島原山河大變一件」

一,寛政4年(壬子みずのえね,1792年)2月,大阪紺屋町日雇い頭大和屋市右衛門の息子の惣治郎という者が,水野左近將監(水野 忠鼎,唐津藩2代藩主)樣の御帰城の際,お供をして肥前国へ罷り下った.4月上旬,肥前島原城主松平主殿頭(松平忠恕)様の出府(江戸へ)の際には,道中人足の御用を承り,手代1名,人夫40名を連れて島原に逗留していたところ九死に一生を得た事.

一,島原は正月18日より度々地震が起り,普賢山という山の方60間程の所に3,4間程の穴が二つできて,窪みから湯気が立ち登り,後には火煙となった(麓には温泉がある).その後,段々と山へ焼き広がり,夥しき大石が焼け落ち蜂が谷(蜂の窪,普賢岳より北東1km弱)という所へ焼け移り,2月9日頃には火先(燃え広がる火の先端)強く,3月1日,2日には一夜に数えきれない地震が起り,御城の櫓二ケ所が崩れたとのことである.注)郡奉行所役人は,山頂部にある普賢神社近くの窪み2箇所で噴煙が上がっているのを確認している.

一,惣次郎は御城下の町方(町人の住む)に宿を取り逗留していたところ,地震が起き逃げ出すべきか状況を見ていたところ,程なく地震,鳴動がして最早堪えきれずに外へ逃げ出した.家屋,立木は倒れ,大地は所々二,三尺程割れ,往来は水嵩が増して腰を越す程になっていて,山合の火は紫色に燃え上がり,真っ暗闇の中,東西南北は分からず,恐怖は言葉では言い難く,男女は泣き叫び逃げ出したが津波が山より吹き出し襲ってきた.

泥と熱湯が一つになり襲ってきたが,惣次郎はかろうじて逃げ出し,御城内不明門という所では6尺余りの水を凌ぎ(乗り越え),石垣に取り付き,曲輪(城や砦の周囲にめぐらして築いた土石の囲い)の松明,提灯の火を目当てに御城へ逃げ込み命が助かった.

手代は大手御門の外大溝の内へ飛び込み,顔,手足共打ち毀して(大怪我をして)半死半生で上り所々で治療を受け,命に別状はなく大阪へ一緒に連れて帰った.

日雇いの者40名のうち,3人助かり残り37人は何処へ流れて行ったか生死が分からない.惣次郎,手代,残る3人,計5人は4月19日大阪へ帰り着いた.見聞きした有増(あらまし)は次の通りである.

一,4月1日酉の刻(午後6時)過ぎ,地震が数度あり,西海の内より潮が押し出し,山々より泥吹き出し,山を焼く火は紫色に見え,最初普賢山で焼き出た火は御城下へは3里余であったが,追々山々を焼き来たり,4月1日頃は御城下へわずか27丁(約 2.95 Km)程のところへ迫っているのが見えた.注)1丁は109.09091メートル.

一,津波は半時間のうちに潮が引き,城下町におよそ三千軒程在った町家は無残にも流出し,36軒程が残ったが,人は一人も居なかった

一,御座船一艘,御召替一艘,水主(船員)十人,御要害之船七十,何れも御船蔵にあったが,一艘も無く,勿論賣船(廻船)などとも数知れず,帆柱ばかりが海上所々に見える有様であった.

一,御城下2里隔てた浜手の方に萩原という田舎があり,そこに寺がある.城主の菩提所であり,大石の石碑があったが,御城裏手の御家中屋敷へ流れ来て寺院は跡形もなくなってしまった.

一,御城下の町家の跡は一面砂原になり,死人山の如く,手足等が散在する様は目を驚かし,哀れにて申し上げ難い状況であった.

一,御城は別條なかった.御家中も御城裏手の方は水が押しよせたが,それほどひどくはないように見えた.曲輪の外の御家中の御家人は残らず流失したようである.

一,御家老の松平勘解由様は屋敷が流失したため,当時板倉八右衛門という御家老が御城代(城主代理,留守居頭)御預り(管理者)であった.

一,翌4月2日,佐賀より御見舞として大勢の人,騎馬100騎差し向けられ,米5千俵,銀百貫目が届いた.同じく大村より大勢の人,米銀子等が届けられた.そのほか御近領よりも種々御進物が届けられた.大村よりは御進物の外,医師数十人,薬を木綿の大袋に入れ背負わせ,又は馬に載せてやって来たが,住民の七八分は流失したため薬を必要とする者はわずかしか居なかった.

一,御近領,御近國に於いては,島原津波の時逃げ出し,命が助かった者であると言うことで,何れの御領主様よりも保護,世話をしてくだされ,帰り着いた私共五人の者の夜の泊まりの面倒をみてくだされ,誠に一銭の貯えもないところ御影様で大坂へ帰着できた.

一,肥前,肥後,筑後の津波の被害地はおよそ49里四方と云われている.

一,島原にて武家町家,民家流失の男女牛馬の斃れた数は幾千万人と云われているが,数が多く急には分からないという状況.島原侯御届では,流死人9577人,内扶持人580人,内男4428人,女5159人,怪我人601人,穢多流失66人,牛馬496疋,内牛27疋.

一,肥後国熊本御領4月1日同刻津波が襲い.流家溺死おびただしき事,熊本問屋より大阪七間問屋へ差し遣わした書付によると,5万人程の流失と取り沙汰されているとのことである.

以下省略(地震にまつわる妖物の話のため)

今回の文書は,旅先での震災体験記であるため,肥後迷惑については帰阪後の伝聞のみである.肥前・肥後の被害状況については私的,公的な立場から数多くの記録が残されている.それらのデータを総合的に解析し.現代の科学的手法でシミュレーションした結果が報告されているので,別稿で紹介したい.

追記

信濃(長野県)松代藩士の「朝陽館漫筆」に取り上げられている記事を紹介するブログを書き終わり,校正していた時,長野県北部で震度5弱の地震が起こった(平成30年5月12日午前10時半).偶然の一致とは思うが・・・・

資料

GoogleドキュメントによるOCR処理に使用した資料は以下の通りである.バックグラウンドの変色を除去して,文字を浮き上がらせるような前処理を試みたが,必ずしも必要ないようである.

参考資料

OCRによる認識後,修正した文書は以下の通りである.

一、當二月大坂屋町日雇頭大和屋市右衛門倅惣治郎申者唐津御城主水野左近將監樣御歸城付右之者致御供彼地へ下り同四月上旬島原御城主松平主殿頭(松平忠恕)様被成御出府候付右御道中人足御用承り手代人人夫四十人召連島原逗留中危命助候事。

一、島原當正月十八日より度々致地震普賢山と申山之方六十間程之所三四間程宛の穴ニッ明窪湯気立登り後には火煙と成(此所麓に温泉あり)夫より段々山へ焼広り 大石夥敷焼落蜂が谷と言所へ焼移二月九日比には火先強く 三月朔日二日一夜に幾度と言数も無之致地震比節御城御櫓二ヶ所崩申候。

一、右惣治郎義御城下町方に旅宿取致逗留候處又々 致地震候付旅宿を迯(逃げる)出可申と騒ぎ候得共例之地震にて候間鎮り居候様達て致異見候に任せ見合居候得ば少し間遠(まどお)に成候所無程(ほどなく)地震致鳴動候付最早こらへ兼迯出候所家居諸木共立折大地所々二三尺程宛割れ往来之水重り腰より上へ越し山合の火は紫色にもえ上 り眞の闇にて東西南北見え不分恐しき事言語に難申男女泣叫迯出候得共津波山より吹出候

泥熱湯と一ツに成如何可叶や然に惣治郎は漸迯出御城内不明門と申所凡六尺餘之水を凌き石垣に取付御曲輪之松明(たきまつ)挑灯 (ちようちん)之火を見當御城へ迯込命助り申候 曲輪(くるわ)は、城の内外を土塁、石垣、堀などで区画した区域の名称

比者手代は大手御門の外大溝の内へ飛込面部手足共打こわし半死半生にて上り所々療治に預り先は命別條無之右大坂表より召連下り候

日雇の者四十人之内三人り残り三十七人何方へ流行候一向生死相知不申候

治郎手代残る者三人都合五人四月十九日大坂へ致帰着候見聞候有増左之通。

一、四月朔日(ついたち)酉刻(午後6時)過地震数度西海の内より潮押出し山より泥吹出し山焼之火は紫色に相見へ最初出候普賢山より本御城下へは三里餘有之追々山々焼来り四月朔日比(頃)は御城下へ纔(わずか)廿七丁程の間に相見へ申候。

一、津波半時計之内にて潮引申候御城下町凡三千軒 程有之候所不殘致流失漸町家三十六軒程殘候得共人は人も無之候。

一、御座船壹艘御召替壹艘水主十人御要害之船七十何れも御船蔵に在之候所一艘も無之勿論賣船(など)共 数不相知候帆柱計海上所々に相見申候。

一、御城下二里隔手の方に萩原と申在所有之此所に寺有之是は御城主様御菩提所にて大石の御石碑有之候右大石御城裏手御家中屋敷へ流れ來右之寺院跡形も無之候。

一、御城下町家之跡一向砂原に相成り死人如山首或は手足抔(など)致散在候て驚目罷在哀成次第にて中々難申上候。

一、御城は先別條無之御家中も御城裏手之分は水押左程にも無之相見へ候外曲輪御家中は御家人不残流失之躰に相見へ申候。

一、御家老松平勘解由様は屋輔流失仍て(よって)當時板倉八右衛門と申御家老御城代御預りにて御座候。

一、翌二日御同國從(より)佐賀為御見舞(御見舞いとして)人數(おおぜい)騎馬百騎被差向米五千俵銀百貫目被進候(まいらせそうろう)同從(より)大村も人數米銀子共被進候其外御近領よりも種々御音物(進物)在之候由大村よりは御音物の外御医師数十人薬を木綿大袋に入背負せ 又は馬に付来候處其所の者七八分は流失故薬用之者は纔(わずか)に御座候由。

一、御近領御近國にて島原津波の節迯出し命助り申候ものにて候へば何れの御領主様よりも御養護被成下此度罷帰り候私共五人之者夜中其泊々にて御養被成下(なしくだされ)誠に壹銭之貯も無御座候所御影にて大坂へ罷帰り申候。

一、肥前肥後筑後津波之地凡四拾里四方と申候。注)凡そ

一、島原にて武家町家民家流失の男女牛馬斃幾千万人と申其大數中々急には相分不申趣に御座候(島原候御届流死人九千五百七十七人內扶持人五百八十人內男四千四百十八人女五千百五十九人怪我人六百臺人穢多(えた)流失六十六人 斃牛馬四百九十六疋,内牛廿七疋.

一、肥後國熊本御領四月朔日同刻津浪上り流家溺死夥敷事是住熊本問屋より大坂七間問屋へ書付差遣候凡 五萬人程之流失と申取沙汰に御座候右書付今に見不申候。四月

以下省略

引用資料

鎌原桐山 著 朝陽館漫筆 島原大変(デジタルコレクション),北信郷土叢書刊行会,昭和9年,シリーズ名;北信郷土叢書 ; 巻4

鎌原桐山について

コトバンクには次のような説明がされている.

1774-1852 江戸時代後期の儒者.

安永3年11月14日生まれ.信濃(長野県)松代藩士.岡野石城,のち江戸で佐藤一斎にまなぶ.武技にもすぐれた.真田幸弘(ゆきひろ)・幸専(ゆきたか)・幸貫(ゆきつら)の3代の藩主につかえ,首席家老にすすんだ.門人に佐久間象山らがいる.嘉永5年閏2月26日死去.79歳.名は重賢,貫忠.字は子恕.通称は伯耆,石見.著作に「大東鈴家智嚢」.

もっと!長野市|人物の説明

鎌原桐山(かんばらとうざん) 安永 3 年(1774)~嘉永 5 年(1852) 朱子学者・故実家

松代藩の家老・鎌原重義の三男として生まれた。名は重賢、 のち8代真田幸貫から一字を賜り貫忠、号を子恕と改める。 桐山は、岡野石城、佐藤一斎に儒学を学び、長国寺住職・千 丈実巌に詩文を学んだ。射術、馬術、卜伝流槍術、長沼流兵 学、小笠原流礼法、点茶など諸芸を極めた。門人に山寺常山、 佐久間象山、長谷川昭道らがあった。詩作、文章もたしなみ、 その蔵書は 1 万冊にのぼったとされる。著作に『朝陽館漫筆』 150 巻余。『隠居放言』14 巻、『大東鈴家智嚢』などがある。 没後門人等によって松代・東条に碑が建てられ、碑文は佐藤一斎が記している。