過去の総合研究院において、アグリ・バイオ研究部門(2015-2019年度)では「食」を、その後継にあたる生物環境イノベーション研究部門(2020-2024年度)では「環境」をテーマとした部門が設置されました。これらの研究から、生物が直面するさまざまな環境や社会問題が浮き彫りとなり、急激に変動する過酷な環境が、生命の生存と継承のために、生物に変化することを強いている印象が鮮明となりました。このような状況下で、環境が生命活動におよぼす影響を解き明かし、生物が生存・繁栄するための基盤(=生物の環境応答戦略と多様性創出の分子基盤)を科学的に明らかにすることは、私たちに課せられた急務であるといえます。
生命のゆらぎ研究部門では、これまでの部門のミッションを引き継ぎながら、気候変動・環境汚染・食糧・エネルギーをはじめとする地球環境の問題の解決のために、単に環境が生物に与える影響を調べるのではなく、生命が元来もつ「変化するポテンシャル」を理解し、生物の環境応答機構と生物多様性創出の分子基盤を明らかにします。現代の地球規模での環境変化のなかでヒトや生物の存続に資する基礎知見を集積するとともに、新しい技術シーズを構築することを目指します。
本部門では、まず各部門員が個々で対象とする研究において、「環境に応答して変化する力」の根幹となる生命現象のゆらぎを観測し、生命が変化するメカニズムを解明します。そして、様々な生物種や細胞における「生命のゆらぎ」の固有メカニズムと共通メカニズム解明を通じて、環境に応答して生命が元来もつ「変化するポテンシャル」の個別性と普遍性を明らかにします。特に、生体内外の環境要因に対する生物応答の新たなモデル系の確立、生物の環境応答を研究する新たな解析技術の開発、環境変化のセンシング機構の解明、そのセンシング機構により制御されるシグナル伝達経路や遺伝子発現ネットワーク、さらに代謝経路の解明を共通テーマとして研究を推進していきます。
細胞にはゆらぎがあるために、生体内外の環境に巧み応答してあるべき姿をとることができます。その結果、細胞の集団である個体は正常に発生・分化し、成長し、恒常性維持が保たれ、健康に生活することができます。社会レベル・生態系レベルでも、多様性という名のゆらぎが存在するため、個体・社会・生態系はロバストでいられます。異なる階層のあらゆる生命現象に生命のゆらぎを見出し、分子・細胞レベルのゆらぎの正体を明らかにすることは、生命が環境に応答して変化する根本原理を理解することにつながり、生命に対する現代の環境の諸問題の解決の糸口になります。
私たちは「生命のゆらぎ」を、生物が生体内外のさまざまな環境に柔軟に応答し、形態や機能を変化して適応するための原動力であると考えています。生命のゆらぎには、次のような性質があります。
・「ゆらぎ」は、細胞、組織、個体さらには生物群や生態レベルというあらゆる階層に見られる(例えば生物の多様性は生態系にみられるゆらぎであり、個体の致死的な環境変動に対して種としての保存に作用する)。
・例えば…発生中のほとんどの細胞は、ゲノムによって運命が固定されているわけではなく、周囲の環境を巧みに感知し、細胞内外とシグナルとのコミュニケーションによって、本来あるべき細胞に正しく分化する。すなわち細胞には環境要因に対して柔軟に変化する余地があり(これが「ゆらぎ」である)、それゆえ自ら置かれた状況と周囲の環境に合わせて変化し適応することができる。
・同じ生命現象でも、生物種によってゆらぐ性質は異なる。 また、同じ生物種でも、発生段階によって「ゆらぐ性質」は異なる。
・「ゆらぎ」は一見不安定にみえても、マクロではロバストなシステムを構築し、進化を含む次世代生命の誕生や健康に寄与している。
生命のゆらぎは、分子、細胞、組織・器官、個体、個体群、生態といった異なる階層でみられる現象です。本研究部門では、①分子、②細胞・組織・器官、③個体(群)、④生態と進化、といった以下の4つに分類した各階層グループが、生命のゆらぎの分子基盤の解明を進めていきます。異なる階層間の相互作用にも注目し、個別の要素の振る舞いからは予測できないようなロバストな環境応答能を解き明かします。
メンバー:近藤周、和田直之、白石充典、坂本卓也
研究テーマ例:
環境ノイズに負けない発生の強靭性を保証するメカニズムの解明。
環境変動に応じて変化する神経間シナプス結合に関わるタンパク質の網羅的解析。
新しいゲノム編集・ゲノム合成技術を開発することによってゆらぎを制御し、環境応答を可能にする遺伝子回路を再構築する。
動物発生時に器官原基で発現する遺伝子の発現境界が、細胞集団の分水嶺となり将来の組織境界として反映される過程の解明。
ゼブラフィッシュ尾ビレ再生系において、再生が起こる・起こらない、の分水嶺となる細胞集団や組織の時空間的な状態変化の解明。
周囲の環境に応じた膜受容体の機能変化や、化学物質と膜受容体の相互作用解析から、分子・原子レベルでタンパク質のゆらぎのメカニズムを解明する。
環境変動に対応するエピジェネティクス変化・クロマチン動態変化を検出するイメージング技術を開発し、エピゲノム変化が遺伝子レベルのゆらぎの実態であることを示す。
近藤周
和田直之
白石充典
坂本卓也
メンバー:瀬木恵里、早田匡芳、佐藤聡、昆俊亮、秋山好嗣、上村真生
研究テーマ例:
心理的・身体的ストレス誘導性のうつ・不安行動変化を、個々の神経細胞が神経ネットワークを形成する過程で生じるゆらぎとして捉えて脳神経応答メカニズムを解明する。さらにストレスに対するレジリエンス(回復力)の神経メカニズムから新たなうつ治療標的の同定する。
環境に由来する化学物質の骨代謝への作用メカニズム解明と、骨の進化や環境適応の解析。
正常細胞とがん細胞の細胞生死の運命決定プロセス(=細胞生死のゆらぎ)における長鎖非翻訳RNAの機能を解明する。
がんの細胞生死のゆらぎによる薬剤耐性機構の形成の仕組みの解明。
細胞生死の運命決定プロセスにおける細胞内エネルギー代謝変化の解析。
同期性ゆらぎ遺伝子理論解析を駆使して、組織が「正常」から「がん」へと遷移する特異的臨界点の分子実体を同定する。
分子レベルのゆらぎを観測するための、機能性核酸を用いた遺伝子発現制御技術を開発する。
力学特性を変化可能な細胞培養足場材料を用いて、細胞の力学応答特性を観察する。
細胞の温感・知覚に関わるイオンチャネルを選択に操作する。
細胞内の特定部位を加温・力学刺激可能なナノ粒子を開発し、未知の細胞挙動を観察する。
瀬木恵里
早田匡芳
佐藤聡
昆俊亮
秋山好嗣
上村真生
メンバー:宮川信一、有村源一郎、佐竹信一、住野豊、中嶋宇史
研究テーマ例:
環境要因による性決定・分化への影響を解析し、生物の性がゆらぐメカニズムを解明する。
環境中に存在する化学物質や医薬品類が動物に作用する影響の評価手法およびバイオアッセイ系を開発する。
植物−昆虫間相互作用及び植物−植物間相互作用の作用機序の解明と有機農業における応用利用を目指す。
機械学習を用いた生命のゆらぎ現象の計測とモデル化。
生命のゆらぎ現象の数理モデル化とモデル実験系の構築。
有機エレクトロニクスに基づく感覚センシングデバイスの開発。
宮川信一
有村源一郎
佐竹信一
住野豊
中嶋宇史
メンバー:高橋史憲、田村浩二、朽津和幸、西浜竜一、相馬亜希子、赤司寛志
研究テーマ例:
植物の環境ストレス応答を遺伝子レベルで生じるゆらぎによって説明する。
植物のバイオマス増産と環境ストレス耐性を統合的に制御し、イネやトマトなどの作物の収量増産を目指す。
タンパク質合成系(tRNA、リボソーム相互作用)やリボザイムの進化過程と機能を解明し、ゆらぎ現象を基盤とした原始生命の環境応答システムを理解する。
tRNA成熟過程の解析をもとにした生態系進化と、生物多様性の構築基盤の解明。
環境依存的な植物成長の促進と抑制のゆらぎの制御の解明。
植物幹細胞新生時にみられる遺伝子発現のゆらぎの意義の解明。
植物再生時に起こる細胞リプログラミング部位のゆらぎの抑制制御機構の解明。
植物の環境応答能力(耐病性・耐虫性等の免疫力)を高める新規化合物(植物サプリ)の探索と開発。
生物の温度耐性能と環境応答を評価し、温度環境に対する生物の進化と適応のメカニズムを解明する。
高橋史憲
田村浩二
朽津和幸
西浜竜一
相馬亜希子
赤司寛志