霊的成長を目指して₋成長のために必要な要素②‐ 2026.6.28
「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。」(Ⅰコリント3:6)
私たちが霊的に成長を目指していくにあたり、大切な要素として、前回は、心がみことばによって耕されて成長するということを分かち合いました。今回は、成長は神によるものであるということです。この2つの要素が揃っていなければ、自力で成長することにすり替わってしまいます。
この成長の根源は、他でもなく、神さまご自身にあります。神さまが私たちを成長させてくださるお方です。神さまが私たちを成長させてくださるには、あらゆる方法や機会を用いられて成長させてくださいます。そのために私たちが、神さまが私を成長させてくださるという点に関心を持つ必要があります。
成長のためには、成長することを学ぶ必要があります。そしてこれは謙遜でいなければ学ぶことができません。そして主に対して心を開き、主が成長させてくださることを信じて、信頼し続けていなければなりません。成長のためにはこのような決断が必要なのです。
命があるものは、必要な養分を得るから成長します。それは神さまがそのようにお造りくださったからです。私たちクリスチャンにも、永遠のいのちが与えられました。この命によって私たちは地上の生涯においても、みことばから、御霊の働きから、愛や奉仕、鍛錬によって成長させていただけるのです。
私たちは知らず知らずのうちに、自分の殻に閉じこもりがちです。この殻を破る時に、祝福に満ちた成長があるのです。
霊的成長を目指してー成長のために必要な要素ー 2026.6.21
「また別の種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍になった。」(マタイ13:8)
私たちが霊的に成長を目指していくにあたり、大切な要素が2つあります。一つは心がみことばによって耕されて成長するということです。もう一つは次回に取り上げますが、成長は神によるものであるということです。この2つの要素が揃っていなければ、自力で成長することにすり替わってしまいます。
イエス様は冒頭のみことばで、みことばによって成長することを教えてくださいました。「別の種」とあるのは、その前にイエス様は、3つの種がそれぞれ違う地に落ちて、実を結ばなかったというお話をされています。そして最後に、良い地に落ちたことで、実を結ぶことをお話になられました。
ここで大切なのは「種」と「良い地」です。種は、みことばです。種が実を結ぶのは、種そのものに命があるからです。主のみことばは私たちを永遠のいのちを得るように語り続けています。良い地は、主のみことばを聞く私たちの姿勢、心を意味します。農夫である主によって耕された地は、多くの実を結ぶことを約束しています。
しっかりと耕されるためには、私たちが主に信頼して、みことばから常に学ぶ必要があります。誰でも種を撒く人は多くの収穫を期待するものです。みことばの種を蒔かれる主も大収穫を期待しておられますから、しっかりと耕された心を用意しましょう。
アイデンティティにおける霊的成長を目指して④ 2026.6.14
「あなたがたは自分自身と群れ全体に気を配りなさい。神がご自分の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、聖霊はあなたがたを群れの監督にお立てになったのです。」(使徒20:28)
私は若い頃に「神がご自分の血をもって買い取られた神の教会」というみことばに出会い、深い感動と大きな喜びに心が満たされた経験をしました。私は神さまのものとされていることに気づかされ、このみことばを読むたびに、神のものとされた感動と喜びが湧き上がってきます。
クリスチャンは、キリストの十字架の血という金額にできない代価が支払われて、神さまが私たちをご自分のものにされるために買い取られたのです。そして教会は、神のものとされた人たちが集まっているので、教会も神のものであると言えるのです。
私たちは、クリスチャンであっても自分の人生を自分中心で考えがちです。自分が幸せになるために、自分が満足するために、自分を喜ばせるために生きようとするのが、古い人間の性質なのです。しかし、ここには一時的な満足を得られても、本質的には、むなしさしかありません。
イエス様によって罪が赦された新しい人の生き方は、自分を喜ばせ、満足させるものではありません。神の栄光を現し、神に喜ばれることを、いつも選択肢として持つことです。そして神に喜ばれることを選ぶことができるように聖霊の助けを仰ぐことが、神のものとされた人の平安と喜びになるのです。
アイデンティティにおける霊的成長を目指して③ 2026.6.7
「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)
私たちは、イエス様を救い主として信じてから、神に喜ばれる子とされ、聖霊によって新しくされました。この新しい生き方、私たちの存在について連載していますが、私たちがイエス様を信じたということは、十字架の死から復活され、今も生きておられるイエス様の復活の証人とされたことを意味します。
イエス様の復活の証人と呼ばれるのに、何かの資格は入りません。学歴も問われません。お金があるから、特別な才能があるから、聖書の知識があるから、復活の証人と呼ばれているわけではありません。何の資格もなかった私たちが、イエス様の復活を信じているということだけで、復活の証人と呼ばれているのです。
イエス様の復活の証人であるということは、何を意味するのでしょうか。それはイエス様が私たちの罪のために十字架にかかって死なれたこと、3日目に復活されたことを証言し、イエス様が神の御子であり、救い主であることを伝えることが、大切な役割としてイエス様から委ねられているのです。
イエス様から委ねられたことを伝え、伝えた人が信じる時に、罪が赦され、永遠のいのちが与えられ、天国に招いていただけるのです。このように神の国が地上で拡大することが、神さまが私たちに対して期待を込めたご計画なのです。キリストの証人であることと神の国の計画への理解を深めましょう。
アイデンティティにおける霊的成長を目指して② 2026.5.31
「あなたの神、主は、あなたのただ中にあって救いの勇士だ。主はあなたのことを大いに喜び、その愛によってあなたに安らぎを与え、高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。」(ゼパニヤ3:17)
近年では珍しく、笹沖教会、津山教会では出産ラッシュとなり、新しい命の誕生を喜ぶ恵みにあずかっています。赤ちゃんの存在は本当に不思議で、その存在だけで喜ばれ、すべての人を笑顔にさせてくれます。ただそこにいるだけで愛されているというのは、神さまの愛の原点であるとも言えます。
冒頭のみことばにおいても、神さまは私たちのうちにいてくださって私たちに力を与えてくださることを約束してくださっています。そして、私たちのことを大いに喜び、愛によって安らぎを与え、高らかに歌って私たちのことを喜んでくださっていることを教えています。
私たちは何かに成功したら愛される、何かを成し遂げたら認められると考えがちで、いつもDoingで愛を確認しようとしています。しかし神さまの愛は、Beingを愛してくださっていることに皆さんは気づかれているでしょうか。もし何かをしたら神さまから愛されると考えるなら、それは大きな誤解です。
私たちの存在価値は、神さまが「高価で尊い」(イザヤ43:4)とすでに決めておられます。この神さまから離れますと、自分の価値を見失います。神さまは私たちを愛によって成長させてくださろうとしています。いつも「私は神さまに愛されている」と宣言し、主の愛に応答して歩ませていただきましょう。
霊的成長をめざして 2026.5.17
「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。」(ローマ12:2)
先日、ある教会から、奉仕を依頼を受けました。青年の集まりで「霊的成長」をテーマに奉仕を依頼されたのですが、若い人たちが霊的成長を願うことに、今の時代にあってこんなに素晴らしい青年たちがいることに非常に感銘を受けました。しばらくの間、恵みの風は霊的成長をテーマにしたいと思います。
霊的成長を考える上で、冒頭のみことばが真っ先に思い浮かびました。霊的成長とは、私たちが救われてから始まる驚くべき恵みです。成長の源は命です。その源となる命は、神がキリストを通して与えてくださる永遠のいのちです。そして私たちの心が新たにされ、今の自分から新しい自分へと変えられていくことが霊的成長です。
心が新たにされるということは、「この世と調子を合わせてはいけません」と記されているように、今までこの世を基準としていたところから、キリストを基準として生きることを意味します。具体的には、イエス様を模範として、イエス様ならどのように考えられるか、どのように語られるか、どのように行動されるのかを考えていくことです。
私たちも、若いクリスチャンに倣って、イエス様によって罪が赦され、新しい命をいただき、キリストを基準として歩む者へと帰られました。神さまはご自身の大切な子どもの成長を願っておられます。ですから霊的成長に関心を持ち、願うことから始めませんか。個人の成長は、教会の成長に繋がります。
偶像崇拝には気をつけよう 2026.5.10
「あなたには、わたし以外に、ほかの神々があってはならない。」(出エジプト20:3)聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
キリスト教会と言えど、色々なスタイルの教会があります。様々なスタイルで礼拝されることは、本当の神さまだけが礼拝されているのであれば、それは問題ではありませんし、むしろ多種多様な形を神さまご自身が受け入れてくださり、喜ばれることでしょう。
しかし、近年のキリスト教会の中には、ルーツはイエス様の十字架の血潮にあると言い、礼拝堂に神社の鳥居を置いている教会があったり、ある牧師は奉納を大切にするというコンセプトで、神社で奉納演奏をしています。聖書を土台とするプロテスタント信仰とはかけ離れたものとなっています。
なぜ神さまは他の神々があってはならないと仰られているのでしょうか。別の角度から考えてみましょう。私たちは一般常識として、人の名前を間違えてはいけないと認識しています。日本人は特に読み方も、漢字もです。間違えたら失礼なことをしているという認識があります。
実はこれと同じで、聖書の神さまもお一人であり、決して間違えてはいけないお方なのです。神ではないものを神と呼び、神ではないものを神として崇めることは神さまが喜ばれず、私たちが間違えられて傷つくように、神さまも私たちの偶像崇拝に悲しく思われるお方なのです。
あなたを唯一の存在として造られたお方は、唯一の神さまです。この神さまが礼拝されるべきお方として認識しましょう。
優しい心で 2026.5.3
最後に言います。みな、一つの思いになり、同情し合い、兄弟愛を示し、心の優しい人となり、謙虚でありなさい。(Ⅰペテロ3:8)聖書新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
私たちの会話の中で、良いものだと思って分かち合っても「でもね…」とか「そうできたらいいけど…」とやんわり否定の言葉が返ってくることがあります。そうなると良いものを得たという私たちの喜びは、半減したり、むなしさを感じたり、分かち合ったことが間違っていたのかと思うことすらあります。
私たちが普段使う言葉には良い言葉と悪い言葉があります。それらを意識せずにどれくらいの割合で使っているのかというと、実は3:7と言われていて、私たちは自然と悪い言葉を出してしまうことがあるというのです。聖書が、「同じ口から賛美と呪いが出てくるのです。」(ヤコブ3:10)と教えている通りです。
私たちが分かち合ったことをプラスに変えていくためには、否定するのではなく共有すること、取り組んでみることです。否定は生産性を失いますし、関係性をも壊してしまうほどの破壊力があります。また、信仰的な考え方を否定してしまう力がありますから、否定の力をよく吟味する必要もあります。
言葉は、私たちの心の思いが動機となって出てくるものです。ですから、普段の心がけからが大切になってきます。聖書の、「あなたは、キリスト・イエスにある信仰と愛の内に、私から聞いた健全なことばを手本としなさい。」(Ⅱテモテ1:13)を心に留め、心の優しさを学び続けましょう。
神の視点で生きる 2026.4.19
「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」
(伝道者の書3:11)聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
先日、久しぶりにラジオを聞いていました。リスナーが「離乳食を始めた子どもが食べ物を落とし、イライラする」と言った内容でした。それに対してゲストが「子どもの離乳食の始まりは食との出会いであり、食べ物を粗末にしてはいけないというのは後から教えたら良い」という答えを聞きました。
苛立ちの原因というのは、実は私たちの内に原因があります。自分の思い通りに行かない、自分の想定外のことがおこった、そういった時に苛立ちというものが湧き起こってくるものです。また、みなさんも経験されたことがあると思いますが、受け止め方を変えることによって、苛立ちも少なくなるのです。
冒頭のみことばは、私たちに神さまのなさることを見ていくという視点を教えています。私たちの視点で物事を決めていくのがすべてではありません。私たちの視点でアンラッキーと思えることでも、神様の視点ではそれが最善であったりするのです。私たちの固定概念から脱出する必要があります。
私たちの人生は神さまの御手の中で生かされています。この神さまは、マイナスをプラスにし、無から有を生み出し、最悪を最善に変えることができるお方です。そして神さまは、あなたを喜ばせ、あなたを祝福で満たしたいと思っておられます。
そのような神さまの視点に生きる時に、あなアの人生に平安と喜びがもたらされるのです。
祭司長や長老たちは、イエス様を妬み、十字架刑にまで追い込みましたが、マタイ27:63〜66では、イエス様の復活を恐れていたことが記録されています。本当に復活したら今よりもっとややこしいことになると考え、イエス様が葬られた墓に番兵を置き、24時間の厳戒態勢を取るように総督ピラトに進言しました。
しかし、実際はイエス様は厳戒態勢を突破して復活され、墓石が動いた際には、番兵は恐ろしさのあまりに逃げ出しました。その番兵たちを使って、祭司長たちは、冒頭のみことばにあるフェークニュースを先に流すことを思いついたのです。しかしこれはローマ帝国の権威を失墜させてでも通したい嘘でした。
聖書はこのような人間の罪深い裏側までも暴き、何が真実であるかを教えています。決して騙されること、惑わされることがないように、まず真理に堅く立ち続けましょう。
復活の日のフェークニュース 2026.4.12
「そこで祭司長たちは長老たちとともに集まって協議し、兵士たちに多額の金を与えて、こう言った。『弟子たちが夜やって来て、われわれが眠っている間にイエスを盗んで行った』と言いなさい。」
(マタイ28:12〜13)聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
現代の情報社会ではフェークニュース(偽のニュース)が毎日のように発信されていますが、フェークニュースは今に始まった話ではありません。聖書はイエス様が復活された時にもフェークニュースが流されたことを記録しています。しかも支配国家を巻き込むフェークニュースとなりました。
祭司長や長老たちは、イエス様を妬み、十字架刑にまで追い込みましたが、マタイ27:63〜66では、イエス様の復活を恐れていたことが記録されています。本当に復活したら今よりもっとややこしいことになると考え、イエス様が葬られた墓に番兵を置き、24時間の厳戒態勢を取るように総督ピラトに進言しました。
しかし、実際はイエス様は厳戒態勢を突破して復活され、墓石が動いた際には、番兵は恐ろしさのあまりに逃げ出しました。その番兵たちを使って、祭司長たちは、冒頭のみことばにあるフェークニュースを先に流すことを思いついたのです。しかしこれはローマ帝国の権威を失墜させてでも通したい嘘でした。
聖書はこのような人間の罪深い裏側までも暴き、何が真実であるかを教えています。決して騙されること、惑わされることがないように、まず真理に堅く立ち続けましょう。
復活の意味 2026.4.5
「主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。」
(ローマ4:25)聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
イースターおめでとうございます。
イースターは、イエス・キリストが十字架で死に、3日目に復活されたことを記念してお祝いがなされます。この出来事は、私たちプロテスタント教会の中心中の中心と言える事柄です。クリスマスも大切ですが、実は同じくらいにイースターの出来事も大切なのです。
このイースターの出来事の最も大切なことは、冒頭のみことばに記されているように、誰の、何のためにイエス様が死に渡されたのか、何のためによみがえられたのかということです。これが明確にされなければ、いつまでもイエス様の死と復活は他人事となります。
聖書は明確に私が原因で、私が神さまに背いて自己中心的に生きているから、イエス様が死に渡されたことを教えています。イエス様が復活されたのは、私を義と認めてくださるため、つまり私の罪を赦してくださるためだと教えています。そして永遠のいのちが与えられることが約束されています。
イエス様が復活されたことで、私たちの人生が死で終わりではなく、復活があることを教えてくださっています。ですから私たちは死を恐れなくて良いのです。復活は死に対する勝利を意味します。あなたが悔い改め、イエス様を救い主として告白するなら、この復活にあずかることができるのです。
キリストの十字架を思って⑥ 2026.3.29
「太陽は光を失っていた。すると神殿の幕が真ん中から裂けた。イエスは大声で叫ばれた。『父よ。わたしの霊をあなたの御手に委ねます。』こう言って、息を引き取られた。」
(ルカ23:45〜46)聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
2月22日から始まった受難節は、今週から受難週を迎え、今週金曜日に受難日を迎えます。冒頭のみことばは、イエス様が十字架にかけられた最期の時の出来事が記されています。
イエス様が息を引き取られる前に、神殿の幕が裂けた出来事が記されています。これは単なる偶然ではありません。神殿の幕は、神殿の聖所と至聖所を仕切る幕であり、高さは20mほど、厚みは10cmほどあり、簡単には裂けるものではありません。これには意味がありました。
第一に、この幕は神さまと人との間を仕切るものででした。つまり、この幕が裂けたということは、神さまと人との間にある仕切りがイエス様によって取り除かれたこと、つまり、罪の赦しが完成したことを意味します。
第二に、至聖所では、いけにえが祭司によってささげられました。この幕が裂けたことは、イエス様の命が犠牲にされたことによって、これ以上いけにえをささげる必要がなくなったことを意味するのです。
神さまは、イエス様によって救いの道をご用意くださり、救いのわざを完成されました。私たちはただこれを見上げ、私のためであったことを認め、イエス様を救い主として告白し、感謝する時に罪の赦しを得ることができるのです。
キリストの十字架を思って⑤ 2026.3.22
「そのころ、イエスを売ったユダはイエスが死刑に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちと長老たちに返して、言った。『私は無実の人の血を売って罪を犯しました。』彼らは言った。『われわれの知ったことか。自分で始末することだ。』」(マタイ27:3〜4)聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
キリストが十字架にかけられるのに、実に多くの人の思惑が絡んでいました。その中心は当時のユダヤ教の指導者たちでした。イエス様の人気を妬み、イエス様の批判で悔い改めず、むしろ殺意を抱いていました。
宗教指導者たちは、イエス様の弟子のイスカリオテ・ユダを取り込み、金を渡し、イエス様を人目のつかない場所で逮捕できるように手引きさせ、ユダはイエス様を裏切りました。しかし冒頭のみことばのように、ユダは後悔し、宗教指導者たちに返しましたが、彼らは自分たちは何もしなかったかのように、ユダを見捨てました。
ユダの中にも、宗教指導者たちの中にも、私たちは人間の罪深さの一部を見ることができます。ユダには自分の思い通りにいかなければ、自分の師を裏切れるほどの罪深さ、宗教指導者たちには、ユダへの責任転嫁と、自分の思い通りにならない人間を切り捨てる罪深さを見ることができます。
イエス様は、人の罪深さに取り囲まれながら十字架の道を歩まれました。それは他でもなく、この罪深さを持ち合わせている私のためです。私たちの罪深さの自覚と悔い改めによって、キリストの十字架の意味を味わうことができるのです。
キリストの十字架を思って④ 2026.3.15
「私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。」(イザヤ53:6)聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
冒頭のみことばは、救い主の受難預言で有名な、イザヤ53章の一部です。イザヤ53章全体が、救い主の受難について記されている箇所です。長い箇所ではありませんので、一度全体を読んでみていただきたいです。
53章全体を読みますと、いくつかの特徴が見えます。一つは救い主が蔑まれ、人々からのけ者にされ、病を背負い、痛めつけられ、苦しめられたということです。これは「キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、ご自分に従うすべての人にとって永遠の救いの源とな」(ヘブル5:8〜9)られるためでした。
そして二つ目は、苦しみに遭われた原因は私にあるということです。つまり私のために、受けなくて良いはずの苦しみ、辱め、痛み、蔑みを受けられたのです。聖書は私たちが「自分勝手な道に向かって行った」と記していますが、この自分勝手こそ、現代の私たちが神さまに対して犯している罪なのです。自分さえ良ければいいと思うことが、悔い改めなければならないのです。
私たちがどんなに正当化しても、それは神さまの御前にあっては言い訳に過ぎません。素直にイエス様が自分のために死んでくださったことを認め、へりくだって悔い改めて、イエス様と共に歩むことが一番、主に喜ばれることなのです。
キリストの十字架を思って③ 2026.3.8
「その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人から家畜に至るまで、エジプトの地のすべての長子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下す。わたしは主である。その血は、あなたがたがいる家の上で、あなたがたのためのしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたのところを過ぎ越す。わたしがエジプトの地を打つとき、滅ぼす者のわざわいは、あなたがたには起こらない。」
(出エジプト12:12〜13)聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
冒頭のみことばは、イスラエルの民がエジプトの地で奴隷となり、主がモーセをリーダーとして民を奴隷から解放するために、民に命じられたことの一部です。民は傷のない一歳の雄羊を各家庭で用意し、それを屠り、その血を家の入り口のかもいと門柱に塗って目印とするように語られました。このことに聞き従った家庭には、主が語られたわざわいが起こらないことを約束されたのです。そしてこれが脱出の合図となりました。
これは後に救い主によって、信じる人々が滅びから救われることを、モーセの時代にあって見立てられたものです。つまり、犠牲となる雄羊がイエス・キリストであり、かもいと門柱に血を塗ることは、その血が私のために流されたものであることを信じることを現すものです。
神さまの救いのご計画は、聖書の随所に示されています。ひとり子であられるイエス様の死による贖いのみわざは、それほど神さまにとって深い関心事なのです。このことを共有し、イエス様の再臨まで、十字架の死と復活を伝え続けましょう。
キリストの十字架を思って② 2026.3.1
「こうして二人の目は開かれ、自分たちが裸であることを知っ た。そこで彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの ために腰の覆いを作った。...神である主は、アダムとその妻のた めに、皮の衣を作って彼らに着せられた。」(創世記3:7、21)
神さまによって創造された最初の人間、アダムとエバは、神さ まとの約束を破り、取って食べてはならないと言われた善悪の知 識の木の実を食べてしまいました。その瞬間、二人は裸であることに気づき、恥ずかしくなり、いちじくの葉をつづり合わせて体を覆ったことが記されています。
しかし、その後、神さまは二人のために動物の皮で作った衣を 用意され、二人はエデンの園から追い出されました。結論だけを見ますと、彼らは神さまにみすてられたという悲劇的な結末ですが、皮の衣を神さまがご用意され、それを着せられたことに注目していただきたいのです。
皮の衣を作るとなると、まず動物の命が犠牲になります。神さまはご自身が創造された動物の命を、ご自身の御手によって、犠牲にされたのです。また皮の衣は、いちじくの葉より、はるかに丈夫です。エデンの園を追い出された二 人にとっては、罪を犯してもなお、神さまのあわれみを受けてい たという事実があるのです。
私たち人間も罪を犯し、そのことで神さまに近づくことすらできない存在ですが、イエス様の命を犠牲にされてまで、私たちは神さまのあわれみを受け、罪の赦しまでいただいたのです。このことを覚えて感謝しながら歩ませていただきましょう。
キリストの十字架を思って 2026.2.22
「わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。」(創世記3:15)
2月18日からレントと呼ばれる、受難節を迎えました。これはイエス様が十字架にかかられた受難日までの40日間を指しています。この期間、聖書が教えるイエス様の十字架の意味をみことばから学ばせていただきたいと思います。
イエス様の十字架での死、贖いは、単なる偶然、歴史上の成り行きではありません。天地万物の創造主の壮大なご計画であり、聖書の中心とも言えるものです。最初に造られた人間アダムとエバがサタンに誘惑され、神さまとの約束であった、善悪の知識の木の実を食べてはならないという約束を破ったことから、人間に罪と死が入りました。その直後に、神さまは冒頭のみことばのように、救い主による、人間の救いのご計画を示されたのです。そしてこれが、イエス様を救い主として、私たちの身代わりとなって十字架で死んでくださるという出来事に繋がっていくのです。
神さまは、最初の人間が罪を犯した直後に、救いの御手を差し伸べてくださっていることの中に、神さまの愛の深さを思わずにはいられません。本来なら神さまから見捨てられ、救いようがない人間を、救ってくださると約束してくださいました。冒頭のみことばは、救い主がサタンに対して圧倒的に勝利されることを約束しています。この確かな救いの約束に私たちがあずかっていることを感謝しましょう。
役員就任式にあたって 2026.2.15
「執事として立派に仕えた人は、良い地歩を占め、キリスト・イエスを信じる信仰について、強い確信を持つことができるのです。」 (Ⅰテモテ2:13)
先日、笹沖教会でも津山教会でも、教会総会が開催され、無事に終えることができました。今年一年をスタートできたとも言える、節目を迎えることができました。
私たちのそれぞれの教会総会では、役員を選出します。この役員は地域や学校などの役職とは異なる面があります。無報酬でありながら多くの労を担い、愛を持って教会の方々のお世話をし、時には牧師と共に霊的な働き、重い責任を担うことになります。また役員会は教会の頭脳的な役割を担いますから、何よりも自分の考えではなく、主の御心を求め、主の御心を行いたいと日頃から願う信仰に立って歩むことが求められています。
Ⅰテモテ2章には、教会で責任ある務めを担う監督や執事の資格について記されています。これらを読みますと、役職に就くにはハードルが高いと感じられるでしょう。今回選ばれた役員の方々もこのリストをすべてクリアしたという方は、牧師も含めていないと言っても過言ではありません。
しかし今回選出された方々は、語られるみことばを自分のものとして受け止め、できるかどうかではなく、「アーメン」と信仰を持って告白することができる方々が選ばれているのです。イエス様を信じる信仰が揺るがされず、御霊の導きに従い、御心を行う力を主に求める役員会となるようにお祈りください。
罪を赦された罪人として 2026.2.8
「『キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた』と言うことばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」(Ⅰテモテ1:5)
パウロの「私は罪人のかしらです」という告白はなんと驚くべき告白でしょうか。私たちが聖書を読むと、パウロは世界中に福音を伝えた立役者であり、神様が用いられた人物です。そんな立派な信仰者の告白に驚きを隠すことができません。
しかし、パウロは一方で自分がキリストを知る前には、クリスチャンを容赦なく迫害する者のリーダーであったという過去と向き合っていました。そんな真っ只中でキリストに出会い、人生が180度変わったのです。だからと言って、パウロは過去に目を背けることなく、神に背くという罪を犯したという深い自覚を持ちつつ、罪が赦されたことを受け止め、命がけで福音を伝え続け、決してそれらを誇ることがなかったのです。
私たちがクリスチャンとして生きる時に、この両面を持つことが必要です。すなわち私は神に背くものであり、自己中心的に生きていることが罪を犯していたということに気づき、自覚を持つことと、「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」という神のことばと罪の赦しを受け入れることが必要です。前者だけだと、自暴自棄になりますし、後者だけだと、赦されたことを忘れ、正義を振りかざしているつもりで罪を犯します。
私たちの信仰には「罪を赦された罪人」と自覚することが、キリストの救いの恵みを味わうために必要な意識です。