キリストの十字架を思って④ 2026.3.15
「私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。」(イザヤ53:6)聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
冒頭のみことばは、救い主の受難預言で有名な、イザヤ53章の一部です。イザヤ53章全体が、救い主の受難について記されている箇所です。長い箇所ではありませんので、一度全体を読んでみていただきたいです。
53章全体を読みますと、いくつかの特徴が見えます。一つは救い主が蔑まれ、人々からのけ者にされ、病を背負い、痛めつけられ、苦しめられたということです。これは「キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、ご自分に従うすべての人にとって永遠の救いの源とな」(ヘブル5:8〜9)られるためでした。
そして二つ目は、苦しみに遭われた原因は私にあるということです。つまり私のために、受けなくて良いはずの苦しみ、辱め、痛み、蔑みを受けられたのです。聖書は私たちが「自分勝手な道に向かって行った」と記していますが、この自分勝手こそ、現代の私たちが神さまに対して犯している罪なのです。自分さえ良ければいいと思うことが、悔い改めなければならないのです。
私たちがどんなに正当化しても、それは神さまの御前にあっては言い訳に過ぎません。素直にイエス様が自分のために死んでくださったことを認め、へりくだって悔い改めて、イエス様と共に歩むことが一番、主に喜ばれることなのです。
キリストの十字架を思って③ 2026.3.8
「その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人から家畜に至るまで、エジプトの地のすべての長子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下す。わたしは主である。その血は、あなたがたがいる家の上で、あなたがたのためのしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたのところを過ぎ越す。わたしがエジプトの地を打つとき、滅ぼす者のわざわいは、あなたがたには起こらない。」
(出エジプト12:12〜13)聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
冒頭のみことばは、イスラエルの民がエジプトの地で奴隷となり、主がモーセをリーダーとして民を奴隷から解放するために、民に命じられたことの一部です。民は傷のない一歳の雄羊を各家庭で用意し、それを屠り、その血を家の入り口のかもいと門柱に塗って目印とするように語られました。このことに聞き従った家庭には、主が語られたわざわいが起こらないことを約束されたのです。そしてこれが脱出の合図となりました。
これは後に救い主によって、信じる人々が滅びから救われることを、モーセの時代にあって見立てられたものです。つまり、犠牲となる雄羊がイエス・キリストであり、かもいと門柱に血を塗ることは、その血が私のために流されたものであることを信じることを現すものです。
神さまの救いのご計画は、聖書の随所に示されています。ひとり子であられるイエス様の死による贖いのみわざは、それほど神さまにとって深い関心事なのです。このことを共有し、イエス様の再臨まで、十字架の死と復活を伝え続けましょう。
キリストの十字架を思って② 2026.3.1
「こうして二人の目は開かれ、自分たちが裸であることを知っ た。そこで彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの ために腰の覆いを作った。...神である主は、アダムとその妻のた めに、皮の衣を作って彼らに着せられた。」(創世記3:7、21)
神さまによって創造された最初の人間、アダムとエバは、神さ まとの約束を破り、取って食べてはならないと言われた善悪の知 識の木の実を食べてしまいました。その瞬間、二人は裸であることに気づき、恥ずかしくなり、いちじくの葉をつづり合わせて体を覆ったことが記されています。
しかし、その後、神さまは二人のために動物の皮で作った衣を 用意され、二人はエデンの園から追い出されました。結論だけを見ますと、彼らは神さまにみすてられたという悲劇的な結末ですが、皮の衣を神さまがご用意され、それを着せられたことに注目していただきたいのです。
皮の衣を作るとなると、まず動物の命が犠牲になります。神さまはご自身が創造された動物の命を、ご自身の御手によって、犠牲にされたのです。また皮の衣は、いちじくの葉より、はるかに丈夫です。エデンの園を追い出された二 人にとっては、罪を犯してもなお、神さまのあわれみを受けてい たという事実があるのです。
私たち人間も罪を犯し、そのことで神さまに近づくことすらできない存在ですが、イエス様の命を犠牲にされてまで、私たちは神さまのあわれみを受け、罪の赦しまでいただいたのです。このことを覚えて感謝しながら歩ませていただきましょう。
キリストの十字架を思って 2026.2.22
「わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。」(創世記3:15)
2月18日からレントと呼ばれる、受難節を迎えました。これはイエス様が十字架にかかられた受難日までの40日間を指しています。この期間、聖書が教えるイエス様の十字架の意味をみことばから学ばせていただきたいと思います。
イエス様の十字架での死、贖いは、単なる偶然、歴史上の成り行きではありません。天地万物の創造主の壮大なご計画であり、聖書の中心とも言えるものです。最初に造られた人間アダムとエバがサタンに誘惑され、神さまとの約束であった、善悪の知識の木の実を食べてはならないという約束を破ったことから、人間に罪と死が入りました。その直後に、神さまは冒頭のみことばのように、救い主による、人間の救いのご計画を示されたのです。そしてこれが、イエス様を救い主として、私たちの身代わりとなって十字架で死んでくださるという出来事に繋がっていくのです。
神さまは、最初の人間が罪を犯した直後に、救いの御手を差し伸べてくださっていることの中に、神さまの愛の深さを思わずにはいられません。本来なら神さまから見捨てられ、救いようがない人間を、救ってくださると約束してくださいました。冒頭のみことばは、救い主がサタンに対して圧倒的に勝利されることを約束しています。この確かな救いの約束に私たちがあずかっていることを感謝しましょう。
役員就任式にあたって 2026.2.15
「執事として立派に仕えた人は、良い地歩を占め、キリスト・イエスを信じる信仰について、強い確信を持つことができるのです。」 (Ⅰテモテ2:13)
先日、笹沖教会でも津山教会でも、教会総会が開催され、無事に終えることができました。今年一年をスタートできたとも言える、節目を迎えることができました。
私たちのそれぞれの教会総会では、役員を選出します。この役員は地域や学校などの役職とは異なる面があります。無報酬でありながら多くの労を担い、愛を持って教会の方々のお世話をし、時には牧師と共に霊的な働き、重い責任を担うことになります。また役員会は教会の頭脳的な役割を担いますから、何よりも自分の考えではなく、主の御心を求め、主の御心を行いたいと日頃から願う信仰に立って歩むことが求められています。
Ⅰテモテ2章には、教会で責任ある務めを担う監督や執事の資格について記されています。これらを読みますと、役職に就くにはハードルが高いと感じられるでしょう。今回選ばれた役員の方々もこのリストをすべてクリアしたという方は、牧師も含めていないと言っても過言ではありません。
しかし今回選出された方々は、語られるみことばを自分のものとして受け止め、できるかどうかではなく、「アーメン」と信仰を持って告白することができる方々が選ばれているのです。イエス様を信じる信仰が揺るがされず、御霊の導きに従い、御心を行う力を主に求める役員会となるようにお祈りください。
罪を赦された罪人として 2026.2.8
「『キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた』と言うことばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」(Ⅰテモテ1:5)
パウロの「私は罪人のかしらです」という告白はなんと驚くべき告白でしょうか。私たちが聖書を読むと、パウロは世界中に福音を伝えた立役者であり、神様が用いられた人物です。そんな立派な信仰者の告白に驚きを隠すことができません。
しかし、パウロは一方で自分がキリストを知る前には、クリスチャンを容赦なく迫害する者のリーダーであったという過去と向き合っていました。そんな真っ只中でキリストに出会い、人生が180度変わったのです。だからと言って、パウロは過去に目を背けることなく、神に背くという罪を犯したという深い自覚を持ちつつ、罪が赦されたことを受け止め、命がけで福音を伝え続け、決してそれらを誇ることがなかったのです。
私たちがクリスチャンとして生きる時に、この両面を持つことが必要です。すなわち私は神に背くものであり、自己中心的に生きていることが罪を犯していたということに気づき、自覚を持つことと、「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」という神のことばと罪の赦しを受け入れることが必要です。前者だけだと、自暴自棄になりますし、後者だけだと、赦されたことを忘れ、正義を振りかざしているつもりで罪を犯します。
私たちの信仰には「罪を赦された罪人」と自覚することが、キリストの救いの恵みを味わうために必要な意識です。