観劇レポート「馬留徳三郎の一日」

                          「馬留徳三郎の一日」は認知症患者の日常をえがいたものか?

             劇場創造アカデミー11期 奥田知叡

戯曲「馬留徳三郎の一日」は、登場する村人たちが全員認知症を抱えているという設定のため、登場人物の語る言説の真偽が判別しにくい。一見何が真実で何が嘘がわからない複雑な構造を取っているが、実際にはオードソックスの物語構造をとっており、シンプルなメッセージを発信している。

千野帽子は『人はなぜ物語を求めるのか』の中で、「物語の最もシンプルな構造を、「(平衡状態→)非常事態→新たな平衡状態(千野 2017)」の三段階に帰納している。この状態を発生させるためには、必ずしも主人公が未知なる地に行く必要はなく、来客者が訪ねてくることで非常事態を発生させることも可能である。千野は、「外部からやってきた存在が、共同体の中に一定期間いて、去っていくまでのストーリー(千野 2017)」をとるものとして、『竹取物語』、『風の又三郎』、『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』をあげているが、本作もこのタイプに属している。

さて、本作における平衡状態から非常事態への移行は、表1のとおりである。

表 1 物語の段階

         正常な(村人)  段階1 平衡状態

異常な(詐欺師)vs正常な(村人)  段階2 非常事態

正常な(詐欺師)vs異常な(村人)  段階3 非常事態

異常な(詐欺師)vs異常な(村人)  段階4 非常事態

異常な(村人) vs異常な(村人)  段階5 平衡状態

段階1において、徳三郎と茂雄は、落語家桂歌丸と加山雄三が同い年という話題から、登山と高校野球、少年時代の思い出について脈絡もなく取り留めもない話を延々続ける。なおこの段階1に関して言えば、笑点の話をしている高齢者という設定はテンプレートな表現であり、劇作家の高齢者に対する認識は極めて浅薄であるという批判も可能である。しかし、この段階1はのちに続く異常事態との落差を鮮明にするためにも、極めてテンプレートであることが望ましい。この段階1で極めてニッチな話題を話す老人たちの姿を描写しても、平衡状態は描けないからである。

そして、段階2において、外部からの来訪者である蔵本さんの正体が少しずつ明らかになることで、だまされる村人とだます詐欺師の対立構造が鮮明になり、物語は非常事態へと突入する。この戯曲の巧みな点は、この非常事態を描くにあたり、段階2から段階3へと登場人物のステータスを一気に逆転させることで、観客の見ている世界を大きく変容させることに成功した。ここで生じる問題は、この逆転のための仕掛けとして「認知症」とよばれる病理を登場人物に付け足すのはあまりに平凡な手ではないか?という点である。認知症の実際の病理がどうであれ、我々はこの一言で、段階2から段階3への変遷を一切の抵抗なく受け入れることができる。何のためらいもなく。この物語上の仕掛けに対して、極めて陳腐なトリックであると批判することはできる。しかし、本当にそうだろうか?と問いかけるのが本レポートの目的である。この戯曲はそもそも、認知症を抱える老人たちの日常を描いたものなのだろうか。

蔵本以外の登場人物たち全員に、認知能力面での問題があるとするセリフ面での描写は、実はただ一か所である。村人である茂雄が蔵本に対して、ここの村人はみんなぼけていると忠告している。村人の一人テツは老人ではないが、テツの両親によって若年性アルツハイマーであることが明かされており、また本人も自覚している言説を明らかにしている。ここで問題になるのはやはり茂雄の言説である。ここの村人(茂雄を含む)はみんな(茂雄を含む)ボケている、という言説は、「クレタ人のパラドックス(エピメニデスのパラドックス)」と全く同じ構造をとっている。茂雄のこのセリフは論理上明らかに矛盾している。非常にわかりやすい矛盾であり、この矛盾が生じた時点で、実は老人たちが本当に認知症を抱えているのかという問題自体が放棄されるのであり、認知症を抱えているという設定も無効化されるのである。我々観客は、認知症であると外部の人間が一方的に診断する病理によって老人たちの言動を理解すべきではなく、ただ単純に彼らがどう認識しているか、を考えればよいのである。この戯曲で老人たちがどう認識しているか理解するにあたって認知症は一切関係ない、「認知症」という病理はストーリーを先に進めるためのテクニックに過ぎず、戯曲のテーマとして受け止めるべきではない、というのが本レポートの主張である。

この主張を裏付けるために、この戯曲に登場する三人の母親の息子への認知状況を確認したい(表2)。

・表2 母子関係

                                              

表2において、母親が自分の子供をどのように認識しているかを矢印の右に、そして我々観客が登場人物の言動によって確認できる状態を左側に、そして息子が実態として確認できるがどうかを〇×で表現している。まずミネに関して、ミネの息子がすでに死んでいるという言説はミネの友人である茂雄と俊子によって繰り返しなされているが、ミネの夫徳三郎はこの件に関して言及しておらず、我々観客はミネの息子が生きているのか死んでいるのかを判別することができない。いや、もはや判別する必要がないのである。確実なのは、ミネが、息子は生きていると認識していることであり、ミネにとってはそれで十分なのだ。ミネの友人である俊子も同様で、本人は徳三郎の子供を妊娠したと主張しているが、性行為があったかどうか徳三郎は言及をしていないし、ミネのおなかが膨らんでいるという身体的な特徴も確認できない。無論俊子の年齢では妊娠適齢期を大幅に過ぎている。しかしながら、実はこういう風に合理的に分析することはむしろ重要な視点を失わせる。観客が理解すべきは妊娠の真偽ではなく、妊娠していると俊子が認識した結果、俊子がどういう精神状態になっているかを理解する必要がある。

さて、この両者とは対照的に、松子の息子であるテツは我々観客も肉眼で認識することができる。しかし松子はテツを自分の息子として認識していない。継子だと認識している。実はテツ自身は松子が継母であるという言説は残していないし、松子の夫である浩一郎も、松子以前に結婚していた、あるいは松子以外の女性と関係を持った趣旨の発言はしてない。つまり真偽論でいえばテツは松子の実子である可能性も残されている。しかし、松子はテツを継子と認識し、その結果精神的なストレスを作中ずっと抱え、不安定な精神状態におちいり、今まで築いてきた母子関係を放棄しようとする。俊子とミネは、息子がいるという認識のもと現状の徳三郎との関係を維持しようとする。よって、結果として精神的に安定するのであれば、たとえ命題としては偽であったとしてもその偽なる命題を信じて生活してもよいのではないか、という問が提起可能である。つまり本作品がやり玉に挙げているのはそういう認識状態そのものであって、その認識を発生させているのがバイアスなのか、認知症といった病理なのか、という問題点ではないのだ。

試みに、ミネの息子が生きているのか死んでいるのか分析してみよう(表3)。

表3 息子の生死

  

  

 

    

     

   

 

  

  

  

 

息子の部下の蔵本と名乗る詐欺師の男は、劇の終盤、テツに対し、自分もテツと同様若年性アルツハイマーであると告白する。蔵本は詐欺師であることがそれ以前の村人との対応から断定できるわけだが、この告白によって、論理的には蔵本は本当に息子の部下である可能性も出てくる。その場合当然は息子は生きている。少しややこしいのはB1とB2で、蔵本は茂雄との会話で、この馬留家の息子が生きているのか死んでいるのかきちんと調べたと告白している。調査段階でミスを犯した可能性も考えると、生死は以上のように整理できる。論理上五つに三つの割合で、息子は生きているのだ。ただし蔵本の状態がB1である場合、調査段階でミスを犯す可能性は論理上高まるし、逆にB2の場合は調査段階でミスを犯す可能性は低まる。よって点線で指している箇所を消した場合、理屈上は三つに二つの割合で息子は生きていることになる。

にもかかわらず、実際のミネは息子が死んでいるという可能性を否定できていない。ミネの息子はすでに死んだ、と主張する俊子に対し、直接息子に電話をかけてその存在を証明できないからだ。しかしそのうえで、ミネは息子が生きていると認識する。もし息子が死んでいれば、蔵本は間違いなく詐欺師である。面白いことに、この状況が、命題1「蔵本が詐欺師の場合、息子は死んでいる」という命題にすり替わり、この命題を否定するためミネは命題2「蔵本は詐欺師ではない」という命題を作り出した。蔵本を自分の息子として遇するという劇後半における一見異常な状況(表1でいうと段階4に相当する)は、命題2の状態を維持するために必要な状況であり、その結果表1の段階3は段階4へと変化することができた。かりに村人と詐欺師両者が異常な存在であれば、ある種の均衡状態は作れるからだ。ただし蔵本が詐欺師という身分ではやはりこの状態に摩擦を起こしかねない。よってその身分さえ村人に変容させることで、最終的にはみごと平衡状態へと物語を導いている(表1の段階5)。

 以上の分析を通して、この作品に登場する人物たちの生活における幸福は、こうした合理的な解釈や命題によって左右されるものではない、ということを実証してきた。この作品は、その人にとっての幸福な生活は、集団が維持する理屈や空気によって可能になるのではなく、あくまで個体の認識によって作られることを強く主張している。一元的にある人たちを認知症というステータスに当てはめることへの、強い抵抗性をこの作品は有しているのだ。スイカや扇風機を始め質素な小道具たちを効果的に使うことで、身の丈サイズの幸福感を演出する事に成功した、といえよう。