飴玉爆弾

舞踏に楽器の生演奏は必要か?

 

3月4日の公演と7日の公演二回みた。4日の公演にはとても感銘を受けたのに不思議なことにミュージシャンの灰野敬二が同席して生演奏をした7日の公演は自分の中ではとても期待外れの公演であった。

 何が期待外れかというと主役のはずの工藤丈輝の舞踏に集中できない。灰野敬二のパフォーマンスをおおげさに言えばサングラスをしたロン毛のおじいちゃんがヘッドバンしながらただピアノをぶっ叩いてるだけー繰り返すがおおげさに言っているーなのになぜか目が離せない。

もし7日初めて公演を見たのならこうではないはずだが、4日に工藤氏の舞踏を見てしまったせいか、自分の中で興味が完全に灰野敬二に行ってしまった。舞台で同時進行している二つのアクションに全く同じぐらいの集中力を注ぐことはできないことが良くわかった。開始30分ぐらいまでは(つまり灰野敬二が動くまで)舞踏に集中できていたが、灰野敬二が動き出した瞬間そちらに興味がいってしまった。

アカデミーにいると「パフォーマンス」という言葉を良く聞くが、単一の行為/アクションでもそれが二十歳の青年がやるのか、人生経験豊富な老人がやっているかで人を惹きつける力は違うと思う。演技よりもむしろパフォーマンスの方が年齢の差がでるのではないだろうか?無論年の重ね方によるわけだが。

 もし、7日に初めてみたのならもう少し両方に目がいったと思う。「ジョルジュ・サンド」のピアノ演奏と違って曲を弾いてるわけではない。そもそも演奏というよりなぜかパフォーマンスに見える、ただピアノを叩いてるーように見えるーのになぜかずっと灰野敬二をみてしまった。

 能の上演形態に舞囃子というのがある。仮面や豪華な衣装をつけて上演される通常の能或は楽器なしで一人の演者と四人の地謡で上演される仕舞という形態と違い舞囃子は文字通り囃子つまり楽器がつくわけだが、舞囃子の一番大きな特徴は楽器だけが上演される時間、逆にいうと演者が舞を舞わずに舞台の上でただ立っている時間が発生することだ。この時間演者は何もしないわけだから自然と注意は楽器の方に向くわけだが、能楽師の中には例外的になにもしていないのにー舞も舞っていないし歌を歌っているわけではない、豪華な衣装をつけているわけでも仮面をかぶっているわけでもなく皺だらけのおじいちゃんが舞台の上でただ立っているだけなのにー人の視線を惹きつけることのできる人間がいる。

灰野敬二も同様で、彼の場合は髪型やサングラスという道具の力も借りてるのだが、たとえ演奏をしていなくてもいつ演奏し出すのか或いはその場にいて一体何を感じているのか気になってとても工藤丈照の舞踏に目がいかなかった。世阿弥の「せぬならでは手立てあるまじ」だ、一生懸命裸で踊っている工藤丈照よりも室内でグラサンして座っているおじいちゃんに目がいってしまった。

繰り返すが工藤丈照の舞踏に魅力がなかったわけではない。現に四日の公演の時は最初から最後まで本当に目が離せなかった、一分一秒も無駄にしたくなくてずっと工藤丈照の動きを目で追っていたなのになぜ7日灰野敬二が動き出した途端工藤に目が行かなくなったのか?彼が次何をするか知っているからだ。ただ知っているだけでは興味をなくす原因にはならない、天空の城ラピュタが何十回放送されてもいまだに高い視聴率を誇ることからもわかる通り既に知っているものをそれでも見たいときはある、ただ同じ現場に全く未知の存在があるとそちらに興味が入ってしまうのだろう。

 

アカデミー11期 奥田知叡