男たちの中で

「男たちの中で」にみる母親の不在―ボンドが真に批判すべきはネオリベラリズムか?

 

「男たちの中で」のドラマトゥルクであるダヴィット・テュアイヨン曰くボンドの目的は「すべての規範の不在を具現化している」レナードを使って、「全く宗教的ではないやり方で、つまり自分の純粋さによって、腐敗した世の中とは違うところにある真実を啓示する」ことであったらしい。

レナードに関して気になる点はただ一点。レナードが必要であったのは「規範」でも「価値や正義の意味に関わること」でも「自分が何者であるかの真実」でもなく、父親と母親の愛ではなかったか。レナードは父オールドフィールドに自分を取締役会に入れるように強く要求する。なぜか。オールドフィールドが劇中言う様に彼のすべてのものは死後レナードのものになる。なぜ彼はそこまで待てないのか。なぜレナードは父オールドフィールドが自分を愛し自分を信頼していると確信できないのか。

この父子の齟齬は彼が苦境に陥ったウイリーの会社に介入しようとしたところから始まるが、レナードは別段ウイリーを助けようとしたわけではなくあくまで父親に対して自分の優秀さを証明しようとした。なぜそうする必要があったのか。跡取り息子というのは「平家物語」の平宗盛がそうである様に決して優秀ではない、優秀ではないが謡曲「熊野」の中で描かれている様にわが世の春を信じて疑わないものである。自らが家を追い出されて持っているものすべてを奪い取られるなど決して想像しない。彼らの存在価値は頭脳が明晰かどうかで判断されるのではなくあくまで血の濃度によって証明されるからである。

ダビットはレナードにはすべての規範が存在していないと記述しているが、レナードの存在はむしろ人間の存在価値は血によってのみ証明できることを暗示していないだろうか。つまりレナードが抱えているすべての問題は、レナードがオールドフィールドの実子であれば解決できるのである。実子である以上レナードが有能で有ろうと無かろうとオールドフィールドは間違いなくすべてを自分に譲るとレナード自身が信じられる。オールドフィールドには他にすべてを譲れる相手がいない。ドッズもバートレイもオールドフィールドの部下であって身内ではない。レナードを狂わせたのはネオリベラリズムでも契約書でも資本でもハモンドでもなく、ただ血が違うという封建的価値観ではないだろうか。

ボンドは「人間として存在するために、私たちはどんな基盤をつくることができるだろうか」と問いかけているが、この戯曲を読む限りその問いに答えるのは極めて簡単である。すなわち「母の愛」。「血の繋がった家庭」。

逆にいえばボンドはレナードを決してオールドフィールドの養子にすべきではなかった。血が繋がりながらもなおも父の愛を信じることができない状態に陥って初めて、この戯曲の結論は、子供が幸せになるのに必要なのは血の繋がった両親が与えてくれる「君はありのままでいいという自己肯定感」というごく当たり前の精神科医的見地からの指摘を脱することができる。

そもそも父子の相克というのは「スター・ウオーズ」然り「華麗なる一族」然り実子の間で発生するものである。「オイデプス」を含めてこれらに共通する悲劇の構図とは赤の他人と思っていたが実は本当の親子という関係性である。悲劇は実の親子の間でしか成立しない。義理の息子という状態は一見悲劇的だが、しかしボンドの様に「人間について問い続けること、わたしたちはどうなるかを考えること」を重要視するなら、親子の関係性を断ち切るべきではなかった。血が繋がっていたら繋がっていたで孤独から解放される訳でもなく、結局正義の判断は個人でせざるを得ない。寧ろ血の繋がりをどう処理するかをボンドは考えるべきではなかっただろうか。

実父が存在しない状態は一見悲劇的に見えて、逆に血は水より濃く親子の絆は何にも変えがたいという現実を強調しただけの様に映った。自分は「男たちの中で」を二回鑑賞したが、残念がら得た結論は子供にとって1番大事なのは母親というとても普通の感想であった。

父子が対立するのは母親が不在あるいは機能不全だからである。母親が父親を制御していれば父の敵意が子に向かうことはない。レナードにしても、例え養子で有ろうと母親が生きていれば状況は違ったはずである。ボンドも以下のアリストテレスの発言を意識して台詞を書いたのだろうが、「子供に対する愛情は、父親よりも母親の方が深い」。なぜなら「子供が自分のものであるという確信をより強く持っているから」であり、冒頭の話題に立ち還れば母親がレナードを取締役会に入れる様懇願することもできた。恐らくオールドフィールドは折れる。ボンドの様に「シェイクスピア的な歴史劇の古典的要素を用い」て戯曲を書くなら、王子の希望を叶えるため老王に懇願するのは母である皇后の役回りだからである。

あえて女性を排除して骨太の経済ドラマを作ろうとした「男たちの中で」。逆に女性なくして人間社会は回らないことを明示しただけの様に思うのだが、それはボンドの意図を逸脱しまったとも思うのである。政治的視点が欠かせないポストドラマに代わってボンドは経済を解き明かそうとした様だが、この戯曲はむしろ自分の中の封建的価値観を強化してしまった。「母は偉大なり」。

 

参考資料:男たちの中で パンフレット  2019  座・高円寺

 

 アカデミー11期 奥田知叡 2019.11.21