男たちの中で

なぜレナードは死ななければならないのか

                   

去年に引き続き二度目の観劇であり、また去年同様今年も二回観ることにした。複数回観たことで、この劇の構造と去年観たときに抱いた何とも言えない違和感と曖昧さが曖昧でなくなった。去年のパンフレットの解説では«新自由主義への批判»といった要素があるとい話であるが、劇の根っこにあるのは疑いもなく「ピグマリオン」や「マイ・フェア・レディ」によって端的に象徴されるイギリス社会におけるつよい階級差別、そこから生じる根強い分断である。オールドフィールド社の買収をたくらむハモンドはオールドフィールドと同じ経営者=金持ちでありながら決して同じ社会階級の出身ではない。使用人のバートレイはレナードと双子同然の年齢(去年のキャストではそのセリフがギャグのように聞こえ、非常に不可解なセリフに聞こえた)でありながら、搾取されあっという間に首をきられる労働者の象徴になる。そういう風に捉えると、なぜレナードが養子=オールドフィールドの実子ではないのかという問題もすっきりする。つまり一種の階級対立とすれば、公平性の観点から言ってもレナードはどちらかに所属してはならない、どの階級にも属さない存在として、養子というきわめておかしな状態に彼はおかれた。

確か去年のパンフレットの解説では、この作品は構造的にシェイクスピア特にハムレットと似ているという話だった。そのせいで余計混乱してしまったが、今回はっきりした点がある。去年一番判断に迷ったのは、結局このレナードは有能なのか無能なのか?問題であり、そこがどうもはっきりしなかったので、劇が悲劇なのか喜劇なのか[1]よく分からなかった。今回はっきりしたのは、レナードはおそらく環境とは別に、文武両道とはっきり記されたハムレットとはまさに対照的、意志以前に能力的にも欠けた存在である。ドナルド・キーンが『日本の文学』ではっきり指摘している通り、シェイクスピアの悲劇作品はアリストテレスの主張通り、社会的な身分が上であるだけでなく実際に物事を変える権力を持った存在である。つまり構造的にはこの作品は激しく反ハムレット的である。レナードは自分や社会を変える能力も権力も持たない。ただこの劇が悲劇になるのは、往々にして社会の一市井の小市民を描くことにたけた日本文学とは違い、レナードはそうした権力を持たないにもかかわらず身分としては疑似的ではあるが王子と同じポジションにあるからだ。

しかし…というのがこの劇の肝で、なぜ主人公をその地位に見合った能力を与えられないあえて無力な存在として描くのか、『ロビンソン・クルーソー』や『傲慢と偏見』など中産階級の小さな生活の一コマや懸命な努力を描き続けたイギリス文学を愛好してきたレポート作成者としては、ボンドの達成しようとした目的は残念ながら心情として共感することはできない。ただ11.08日現在いまだ分断されているアメリカ社会を見ていると、身分や階級によって分断されているこの劇は、ひょっとしたら現代の社会問題へのまなざしを有しているのかもしれない、と思った次第である。


アカデミー11期 奥田知叡 2020.11/08


[1] ハムレット同様レナードが優秀であればこの劇は悲劇だが、仮にレナードが無能であればシェイクスピア作品の基準に照らせばどう考えたってこの作品は喜劇になる。つまりレナードはフールになってしまう。同もレナードはお世辞にも優秀とは言えなそうだから、無能な道化に見えるのだが、少なくとも他には喜劇という要素もないし演出も別段喜劇として扱っていないため、悲劇か喜劇かもはっきり決められないちぐはぐな戯曲という印象だった。