タルタロスの足湯

 

 珍しく自由席の芝居だったので一列目で観てみたところ、思わず号泣してしまった芝居。

 能楽師安田登は著書で異界というキーワードを使って能の世界を読み解いているが、「タルタロスの足湯」も異界\異者との接触が多い。

 温泉宿は物語の中心地ではあるが、この舞台を観劇する東京からみれば田舎である。そこに中国という異界からきたワン社長が温泉宿を買いに来る。ワン社長は温泉宿にとって異質な存在であり、彼女が作ろうとするパチンコチェーンは町の平穏を脅かしかねず、内海稔に売却を躊躇わす大きなポイントとなった。ワン社長とタッグを組んで町の再開発にとりくむ八乙女いづみは地元の人にとっては昔通り「いづみちゃん」とちゃん付けされるが、地元の代議士を警察に逮捕させるなどこれまたいままでの田舎の平穏を脅かしかねない手段を取る。

内海稔の娘内海玉子は東京での人間関係に嫌気が差し、地元に帰ったまま最終的には東京に戻らず父親の旅館を手伝うことを選び、福島から逃げてきた小野寺さよは元いた場所に帰ることを選ぶ。東京で女優として活動していた武井京香は自動車事故が原因で活動を停止せざるを得ず、地元出身ではないが湯守屋で働いている。温泉宿を中心として、そことは違う世界から安らぎや安寧を求めて人々が来る一方で、温泉宿そのものを変えようとするワン社長や八乙女いづみの目論見は失敗する。一方で湯守屋の息子が今まで湯守屋でやっていなかったライブを主催するなど今までとは違う新しい運営方針を取ろうとするが、これは父親や地元の人間の反対を受けず成功しているように書かれているのは不思議だ。改革という点ではやっていることは八乙女いづみと変わらないのだが、ここでの問題はその改革の程度よりむしろ八乙女いづみが内海稔に「ちゃん」付けでよばれるようにどこまでいっても可愛い女の子扱いされていることが問題の根本にある気もする。

作家倉本聡は「悲別」という北海道にあると思われる架空の世界をもとに戯曲を書き、全集で「この同一の、悲別というモチーフが、時代の流れ、エネルギー政策の変換、さらには日本人の精神の変化によって、ぐいぐいテーマを変えて行くのを凝視していると、創意の源泉である怒りの感情が僕の筆先を果てしなく走らせる。」「ふるさとは一体何なのだろうか。ふるさとを奪われ、その場所に二度と戻れぬという哀しみは、いったいどういうものなのだろうか。」と述べているように故郷への強い郷愁を作品に漂わせているが、「タルタロスの足湯」でもふるさとは武井らにとっての心のふるさとであるだけでなく、再開発や外国資本の買い取りといった外からの力によって変わることなく、内海屋の買収は避けられないように感じるがそれすら回避する。ふるさとは変わらない、変わらないふるさとというのは現実の世界との落差があるように思うが、だからこそ戯曲の中では変わらないまま美しいままで存在し続けるのだろう。

小池博史は「一九九〇年代から舞台芸術界でもまた大きな物語は描きにくくなったように見える。歴史を見返すでも未来を描き出すでもなく、対象テリトリーが現在に絞られて、一緒に悩みや苦しみを共有しようとする作品が増えた」と述べているが、東日本大震災をうけてこの作品が書かれたようにコロナウイルス後もこうした作品は今後求められると思う。


参考資料

倉本聡 倉本聡戯曲全集 昨日悲別で/今日、悲別で–on  stage

新・舞台芸術論 21世紀風姿花伝 2017 小池博史 精興社

アカデミー11期 奥田知叡