アミとナミ 

 演劇にとって作家の思想と様式どちらが重要か                

近代日本における演劇の役割はイデオロギーの伝達にあった。

鴻上尚史は演劇が他のメデイア媒体に比べて優れている点として思想の伝達速度の速さを挙げる(鴻上2011 )。映画やテレビ媒体では、一つの事件が起きてからそれをモチーフに作品を作り上げるまで年単位の時間がかかるが、演劇ならば数日で作品を上演出来ると言う。

一方演劇における思想やイデオロギーの存在を激しく攻撃したのは平田オリザである。演劇に思想伝達が要求されたのは前近代までで、既にその役割はラジオとテレビに取って代わられたのだから演劇に作家や演出家の思想は必要ない、事実をありのままに書けばよいと主張し続けてきた(平田オリザ 1995)。

劇団桃唄309の「アミとナミ」はハンセン病を扱った長編であり、ビラには「ハンセン病をめぐるむかんしん や  むりかい や  へんけん や  ひとは これほどまでに ひどいことが できる と ひとの て は あたたかい  や こころ は 実在し ふれることも でき  あい も実在することなど(文字と空白は原文ママ)」とある。

ビラ上のセンテンスを読む限り、この作品の目的はハンセン病をめぐる無関心・無理解・偏見を俎上に載せ断罪し、人間の残酷さを示しながらも人の暖かさを明らかにすることだと理解できるが、そのような主張は本作品からは読み取れない。

理由はこの作品のモノガタリの仕方にある。この作品にハンセン病患者は直接登場しない。長楽・木瀬・殿田の三人組が登場し、学生時代の同期海老原が書いた詩集を手に入れる。その詩集にはハンセン病患者のことが書かれているが、「ハンセン病」の文字が直接出てこないため、なぜその詩がハンセン病患者について書かれたものと長楽が判断したのかその判断基準が観衆に明示されない。まして海老原がなぜハンセン病患者をテーマに詩を書いたのか最も重要な動機が劇中明らかにされない。木瀬達作中の登場人物はその理由に思い当たったようだが、木瀬がそう判断した経過を観衆に開示しないのであれば、彼が判断した結果そのものを演じる必要性も全くない。

平田オリザは植民地時代の差別問題を扱った「ソウル市民」を韓国で上演した後「韓国人にとって深刻な題材を扱っているのだから、演劇様式が理解されなくても主題はかろうじて伝わるのではないかと少々歪んだ期待を私は持っていた…それは間違いで、様式が理解されなければ、‘日常の中に潜む差別’という明確な主題も、全く伝わらないことがわかった」とのべているが、様式は主題に先立ち、逆に言えば様式さえ理解してもらえれば主題が不明確でも支持してもらえるということになる。

「アミとナミ」の作品を理解する上で障害になる様式は二つ。

まず休憩所の存在。

舞台の上手側にホテルの休憩室を思わせる空間が用意され、座り心地の良いソファーと観葉樹、給水所が置かれる。劇が始まる前に役者が登場しここに座ったのを見た時には衝撃を受けた。この休憩所はなんのため存在するのか?

様式には美しさが求められる。リアルでなくとも美しければよい。西洋的な美しさはシンメトリー、黄金比率、ミニマリズムを言う。次に様式としては必然的な動きを固定化したものが挙げられる。鈴木忠志のメソッドは着物を着た状態で必然的にする動作を様式化したものである。最後に抽象性。生の人間の動きをそのまま再現しては刺激が強すぎる場合、能楽のようにそれを抽象化して様式化することができる。

劇団桃唄が舞台上に置く休憩所には美しさも必然性も抽象性も感じられない。休憩所自体は綺麗に整頓され美しいが、他の舞台装置が休憩所より簡素なため、休憩所だけが舞台の中で悪目立ちしてしまい他の舞台装置の印象を薄くしてしまう。

休憩所を本当に休憩するスペースとして使うなら問題ないが、舞台からはける時に袖口に下がる役者もいた。袖口にも下がるのであれば休憩所は必要ない。よって必然性も認められない。ついで抽象性。休憩所で過ごす役者は四肢を伸ばし、或いは微笑み或いは飲料を手にし舞台を見つめる。仮に彼らがそこで本当に休憩しているなら、そこは具象的な空間で何かの暗示性は認められない。

「アミとナミ」の中で目立つもう一つの様式は空間の混線である。

劇中長楽がもと恋人の巣山と会話中、殿田について語るシーン。殿田が舞台に立ち長楽に向かって手を振る。

会話の中のみに登場する人物を具体化するのは構わないが、問題は具体化する位置にある。舞台装置の中で、上手側に置かれた休憩所は舞台半分以上のスペースを取りその輪郭は鮮明なのだが、その他劇中に登場する居酒屋とカフェそれとオフィスはカウンターか机単体が置かれるだけで、舞台の中でどこからどこまでが居酒屋なのかその範囲がはっきりしない。問題はその居酒屋とカフェを同時に舞台上に示現させ、同時に舞台上流れる時間軸には登場しない話中の登場人物まで具象化しようというのだから、もうどこが居酒屋でどこがオフィスで、ここはどこであの人は誰で今どこにいるのか、もう私はだれあの人は誰?と混乱すること甚だしい。

「アミとナミ」の宣伝パンフレットに記された通り、無知や無理解に邪魔されつつも他者の苦しみに手を差し伸べる人間の暖かさを本当に謳いあげたいのなら、様式は奇を衒わないものにすべきだ。例え思想や主張が高尚でも様式が特異で理解し難いものであればやはりその主題は観客に認知されない。平田オリザでさえこの真理に気づいたのだから、劇団桃唄309がその作風を改めるに遅きに失することはないはずだ


参考資料

平田オリザの仕事①現代口語演劇のために  平田オリザ 1995

名セリフ!                                   鴻上尚史   2011


アカデミー11期 奥田知叡 2019.6.29