おんにょろ盛衰記

演劇の中に伝統芸能のテクニックを取り入れることは可能か?

 

去年の11月上野のストアハウスで今回の一糸座の演出を担当した川口典成が演出した森本薫作「女の一生」を見た。現在文学座で上演されているのとは違い戦後の修正を経ない初稿版を上演するという謳い文句に惹かれて見に行ったのだが、布引けいの義理の弟と中国人の女性との間に生まれた四人の娘が現在の上演では存在だけ触れられており布引けいが娘たちを引き取るところで劇が終わっているのに対し、初稿版では娘たちは既に日本に到着しており布引けいとの暮らしが始まっている。

遊びに行っていた娘たちをけいが迎えるとなんとその一人が「おばさま、今日は景清を見てきましたわ」という。景清とは能の演目で源平合戦で敗北し今は盲目の老兵平景清の戦後を描く物語で正直戦争中にやるものとして縁起が良いとは思えない。「能を見てきましたわ」というセリフでもいいわけだがわざわざ景清という具体的な演目を出してきた理由があるかもしれない。

この娘という存在が役者の体を借りて舞台の上で「日本って本当に不思議な国ですね、こんな静かな芸術がある一方でこんな荒々しい戦争をするなんて」と続けて語った時には背筋がぞくっとする暗い興奮を覚えた。日本人でも中国人でもなく日本人と中国人のハーフの子にこのセリフを語らせていることになにか得体の知れないえぐさというか禍々しさを感じたからだ。

そのカットされたセリフを再び舞台の上で発するだけで初稿版を上演するという目的は本来達成されたはずだった。不可思議だったのはその後の演出で女性は着物やらなんやら時代を反映した衣装を着ているのに対し男性はユニクロをイメージさせる現代的な服装でしかも最後になって気づいたのは着物など一切着ていない登場人物もいるのになぜか全員白足袋を履いていたのだ!

今回のおんにょろ盛衰記では三味線と義太夫を始め鳴り物や京劇の俳優達が登場ししかもそれぞれの伝統芸能で定められている衣装を着ている。伝統芸能は特定の型や衣装に目が行くが、本来伝統を支えているのはそういった形式的要素ではなく長い修練を得た役者の身体―或いはそういう身体を作るための独特な修練システムーのはずだ。

その点でいえば今回の川口演出で一番不満を持っているのは京劇の使い方で、日本の伝統芸能に劣らず体を限界まで酷使するにもかかわらず残念ながら今回の京劇の俳優達は稽古場で訓練した京劇の型を舞台でreplayしただけで、長年の訓練を経た身体によってクリエイトされたものは何もなかったーそもそも旗を振り回している時に足を引っ掛けるなど言語道断―そもそも今回京劇の俳優たちに登場してもらった箇所は木下順二が戯曲の中で描写していない部分だが仮に本気で演劇の中に京劇の要素を入れたいなら今回振付を担当した新潮学院の張春詳氏におんにょろ役をあてるほどの工夫が必要だと思った。

確かに形として伝統芸能の要素は芝居の中に含まれていたが自分はむしろ去年三鷹で上演された犬飼勝也作・演出の「ノーマル」のような現代演劇の方に伝統芸能の匂いを強く感じる。形や服装ではないし舞台の形も発声の仕方も全く違うわけだが、なぜか瞬間的に能を見ているのと同じ感覚におそわれる。自分も演劇の中で伝統芸能の形に頼って演出するのとは違う何かをやりたいと思う。


アカデミー11期 奥田知叡 2020.11/20