期末レポートとして書いたdumb type『S/N』(1995) レビュー

「S/N」にはいくつかの演出的特徴がある。

①    職業俳優を使わないこと

②    社会問題/時事問題への言及

③    映像の使用

テクストの分析(演出家中心)と心情描写(俳優中心)の二本立てを中心とする近代演劇とは違い、職業俳優を置かず、当事者による社会問題―エイズと同性愛―の描写をおこなうことで、演劇制度への言及申し立てだけではなく、アクチュアリティを内包している。さらに―生物学的と考えられていた性差が、実は社会的性差であったと考える―ジェンダー学を反映させること、科学や思想への異議申し立てもおこなっている。

「S/N」の冒頭、ペーターが観客に向かって、「We are  no actor」と語りかけるが、俳優としての体系的訓練(スタニスラフスキーシステムやメソッド)を受けていないパフォーマーが舞台上でパフォーマンスをすることは、演出家が俳優を指導する旧来の(近代)演劇制度だけではなく、演劇という概念そのものへの異議申し立てになっていると考えられる。上記に挙げた3要素のうち、①職業俳優を使わないことはアウグスト・ボワール以降大きな流行現象になっているが、背景には19世紀から始まる「ドラマの危機の時代」がある。リアリズム作家イプセンと同時代人でもある夢幻劇の代表的作家メーテルリンクは、「盲人たち」のなかで匿名的な12人の盲人たちからなるコロス群を登場させている。

演劇のイリュージョン性―虚構の持つ力―への不信は第二次世界大戦以降加速し、登場人物の個性・人格・性格・記憶が詳細に作りこまれないことも多くなっていった。テクストレベルで登場人物という概念へ向けられた不信感は、上演レベルでも向けられることになり、ハンス=ティース・レーマンの登場によって、戯曲に依存しないポストドラマ演劇が誕生する。ダムタイプの試みはこうした大きな流れの中で行われたと読み解ける。

社会問題を演劇で取り扱うことも戦前から試みられている。日本の場合、いうまでもなく村山知義の「暴力団記」や関東大震災の朝鮮人虐殺をとり扱った秋田雨雀の「骸骨の舞踏」など、いわゆるプロレタリア演劇とよばれる系譜の劇が存在する。ただし、プロレタリア演劇は多くの場合専門的訓練を受けた俳優によって上演されており、労働者が自ら劇団を組織し上演を行う現象は、戦後割と早い時期に散見されるものの、レッド・パージや高度経済成長など様々な要因で日本には根付かなかった。   

ダムタイプの特徴は社会問題の当事者自らによって上演と問題提起がなされており、アウグスト・ボワールのように特定の演出家が当事者集団を組織して上演を行っているわけではない。これは今までのプロレタリア演劇とは大きく異なる点で、基本的にダムタイプの攻撃性は、社会が秩序を維持するために寄りかかっていた思想や価値観へ向かっていると考えられるが、日本の演劇制度への攻撃性も内包しているといえる[1]

 ④の映像に関して、ここで詳細な分析は行わないが、「S/

N」をかなり根幹的な部分で支えている要素だろう。管見で

は、舞台上で(二次元の)映像と(三次元の)パフォーマン

スを組み合わせようとする試みは、(とりあえず日本に限れ

ば)飯名尚人「Dance and Media Japan」など、21世紀以

降の流行だと思われる[2]。「ダムタイプ」が非常に先鋭的(浅

田彰によれば「先進的」)な表現集団であったことは、映像

という舞台芸術とは一見共存しにくいメディウムを自由自在

に使いこなしたことからも伺える。



[1]エイズにかかったことを古橋が舞台上で告白することで、我々は避けられない死のイメージを実感する。しかし、エイズを取り扱った劇のなかで、エイズにかかっていない役者がエイズ患者を演じたとして、我々は何のリアリティも感じないのだろうか。苦心して役作りを行った役者の名演/熱演を目の前にして、何の感動も覚えないでいられるだろうか。演出家が様々な演出手法を駆使してその虚構性を暴露しない限り、我々は容易に演劇のイリージョン性にはまるのではないか。私がいわゆる「当事者演劇/当事者映画」にあまり賛同できないのは、こうした問いを持つからである。無論ジャンルとして当事者による表現を否定するものではない、しかし演劇とは当事者という概念とはもっとも離れたものではないだろうか、と思うのである。

[2] 1982年に結成されたパパ・タラフマラも、演出手法として映像表現に注目していると思われる。