テクスト読解の授業のために書いた戯曲

題:海上男

(かいじょうなん)            

 

大野……観光旅行で瀬戸内を訪れた富豪の男、七十手前。

薫……男、中年。

Q……男。年齢不詳。

 

ところは瀬戸内海のとある小島。多くの名士、著名人がひそかに訪れる観光地である。島の中心  部には小さなホテルがあり、そのホテルから浜辺まで通りが一本ある。通りにはネズの花が咲く。

浜辺には花崗岩がむき出しのままころがる。浜辺から崖に向かって樫の並木道があり、登っていく と崖の上に「アンリ・ドゥ・レニエ」と題した瀟洒しょうしゃで古びた家が建つ。家の前には庭園があり、愛媛なまりの男がいつも手入れをしている。老人大野は朝早くホテルを出て、散策をしながらこの家へやってくる。戸締りのした家を一瞥すると、考え事をするため崖に向かう。


崖の上にはとび色のベンチ。足音がする。


薫    クソ!

老人は振り向く。

薫   (気まずそうに)失礼、実をいうと——その、ひどく驚いてしまって。まさかここに、どなたかがいらっしゃるとは(微笑む)。

大野   ひとけのない場所ですから(ベンチの端に座る)。

薫   (ベンチに座って)ひとけがない? そうですか? いつ来ても誰かがいるみたいですが(怒りをにじませ)。

大野  (顔をみて)以前にもここに来たことが——?

薫    昨夜も来たんです——夕食のあと。

大野   ほう、日が暮れたら、門は閉ざされているものだと思っていましたが。

わずかな間。

薫    壁を乗り越えたんです。

大野  (後ろを振り向いてから)では、ここで、どなたかにお会いになった?

薫    そうです、僕たちが滞在しているのとは別のホテルの客でしょう。それか向かいの島の。おかしな身なりをしてました。

大野   おかしな身なり?

薫    ええ、まるでトーキーにでてくる、道化のような男です。

大野   なんですって?

薫    ホテルやなんかでは、よく大衆演劇をやっているじゃありませんか。

大野   そう、まさに、そのとおり!(しばし考えて)興奮してしまって申し訳ない。ところで、あなたは触媒による作用というものをご存じですか?

薫    いや、聞いたことがありません。なんですそれは?

大野  (まじめに)それ自体は変化しない物質を介在させることによって達成される化学変化。

薫    はあ。

大野   私には友人がいます——仮にこの人をQ氏と呼びましょう—べつに氏名を伏せるほどのこともありませんが、万一を考えてのことです——触媒作用ということばで言い表すには、うってつけの人です。彼が現れると、不思議な——啓示の光ともいうべき——力がはたらき、いままで隠されていたもの、見落としていたものが浮かび上がってくる。しかも、彼自身は過程に手を出すことなく。

薫    なんというか、神出鬼没という感じの男で……すっかり驚かされてしまった。ちょっと前まではいなかったのに、ちょっともしないうちにそこにいるんですから! 海のなかからひょいと出てきたみたいな……。

老人はまず辺りを見渡し、次に垂直に切り立つ崖の下を眺める。

薫    ばかげてますよね。でも、僕は実際にそう……もちろん、足掛かりなんかありませんから、海から上がってくるなんて、できっこない(崖を眺める)垂直に切り立った断崖——崖っぷちから一足踏み出したら——それで……。

大野  (冗談で)人を殺すにはもってこい。

薫   (しばしの間)ああ! はい、そうですね、もちろん……。

      男は顔をしかめ、ステッキの先端をこきざみに動かして、地面をつく。

大野  (思わず)ここに来るまでに、ノラ犬が日向ぼっこしているのを見ましてね、欠伸をしたり体を掻いたり、実に楽しそうでした。近くのごみ捨て場に寝転がって、食事を済ませて通りを横切ろうとしたとき——そこに古い自動車が走ってきて、ボン! あの犬はこういっていました、「ああ、この世は素晴らしい! 俺はそう信じていたのに、なぜこんな仕打ちをする?」

薫   (気にせず)わからない。なにしろ、なんのためにあるのか……(大野に対して軽く笑って)よくいいますよね——家を建て、木を植え、息子を持ってこそ、一人前の男。(しばし間)僕もむかし、ドングリを一粒植えたはず……。

      男は自分の名前、身の上話(平凡な)を語っていく。

平均的な収入、スポーツを愛し、大勢の友人たちに恵まれ、女性との付き合いもそれなり。

(男は舞台の一方で仲間たちとテニスに興じる。同様の場面が二三、舞台の一隅でくりひろげられる)

ある日を境にそれらは突如として終わりを迎える。 

(男は舞台の一方で、医者から余命6ヶ月の宣告を受ける)

      身の上話を終え、男は老人を見る。

大野  (厳粛な面持ちでうなずく)君はここに観光をしに来た、しかし、なぜ? (男のかおをみて)前にもここに来たことがある?

薫   (しぶしぶ)そうです。ずいぶん前に、もっと若かったころに。(無意識にうしろを振りかえったのち、前を向いて、海を見てうなずく)永遠までほんの一歩。

大野  (おだやかに)だから、昨夜、ここに来た? 

薫   (うろたえて)いや——それは——。

大野   昨夜きみはここで誰かを見つけた。そして今日は、わたしをみつけた。きみは命を救われたわけだ——二度。

薫    あなたから見れば、そうとも言え——いいですか、ぼくの命なんだ、どうしようと僕の勝手だ。

大野   お決まりの文句ですな。

薫    言いたいことはわかります。いうべきことをできる限り言うのは当然です。でもあなたは僕が正しいとわかっている。ぐずぐず止まっているよりさっさとケリをつけたほうがいい——厄介ごとをしょい込んだり、無駄な出費をしたり、あれこれ悩んだりするなんてまっぴら。僕には身内なんて一人もいないわけだし。

大野   もしいたら?

薫   (ふかい息をつく)わかりません。たとえいるとしても、やっぱりこうするのがいちばんいいんです。どっちみち、身内はいないわけだし…。(急に黙りこむ)

      間。

大野  (やさしく)本当は、好きな人がいたんじゃないのかね?

薫    いまさら愚痴を言ってもしょうがないですよ。実際、いい人生でした。じきにそれが終わってしまうのは——もちろん悔しい——でもそれだけ。僕は、自分にとって価値があるものはすべて手に入れてきた。すべてを——(しばし間)とはいえ、いい人生を送ってきました。とてもいい人生……。

大野  (さえぎって)いいかい、幼虫が硬いからの中にこもって、ああ自分はさんざめく日のもとで、じゅうぶん羽を伸ばすことができたと語る、滑稽なことじゃないか(薫の不審げな顔をみて)君はまだ人生を始めてもいない。人生の入り口に立ったばかりじゃないか。

薫    僕の髪には白いものがまじっている。もう四十よんじゅう——。

大野  (さえぎって)年齢とは関係がない。人生は、肉体と、精神の経験がまじりあったものだ。例えば、わたしは今年六十九になる。どこをどうとっても六十九なんだよ。初めての経験にしろ、二次的な経験にしろ、人生が与えてくれる経験は、殆どほとんどすべて甘んじて受けてきた。きみは雪と氷しか見たことがないのに、一年間の季節すべてを知っているかのようにしたり顔で話す。春の若葉、夏の青葉、秋の落ち葉——そういうものは一切知らないし、季節ごとに変化があることすら知らない。それだけではない、君はそういうことを知る機会から、あえて顔を背けようとしている。

薫    お忘れかもしれませんが、ぼくにはあと六か月しか残されて—

大野  (さえぎって)これに限ったことではないが、時間というのは相対的なもので、この六か月は、君の人生の中でいちばん長く、いちばん色どり豊かなものになるかもしれない。

薫    あなたが僕と同じ立場になれば、そうしたら……。

大野   いや。だいいち、私にそんな勇気はない。君のやろうとする——そういうことをするには勇気がいる。ありがたいことに、私は勇気ある人間とはほど遠い。第二に——。

薫    第二に?

大野   明日はいったい何が起こるのか、知りたくてたまらない性分でね。

薫   (たちあがって)そうですか、あなたに話す気になったのが良かった。どうしてか、自分でもよく分かりませんが——とにかく、そんな心もちです。とはいえ——忘れてください。

大野   で、明日事故の知らせを聞いても、知らんぷりをしろと? 自殺かもしれないと示唆することもせず?

薫    お好きなように。嬉しいことに、ひとつだけ確かなことがある——あなたには止めることはできない。

大野   ねえ、きみ。確かに、四六時中しろくじちゅう、きみにへばりついているわけにはいかない。遅かれ早かれ、きみは隙を見て、目的を果たすのだろう。だが、少なくとも今日は無理だ。わたしが突き落としたのではないかという疑いがかかる可能性を残したまま、いますぐきみがここで死ぬとは思えない。

薫    それはそうです。それはそうだ……あなたがまだ、あくまでもここにいるとおっしゃるのなら——

大野  (きっぱりと)そのとおり。

薫   (笑う)なら、計画は延期にしましょう、僕はホテルに帰ります。後でまたお会いすると思います。

      男は去る。

大野  (海を見ながら)さて、次はなんだ……あるに違いない。それが分かれば……。

       老人は立ち上がり、崖に立ち、眼下で荒々しく踊る波をみつめる。しばし後、海に背を向けると、後ろの庭園へと戻る。鎧戸を閉ざした家を見ると、ふと老人は衝動にかられ、崩れかけた石段を登り、褪せた緑の鎧戸にそっと触る。

       鎧戸が動く。老人は一瞬ためらうが、思い切って鎧戸をいっぱいに開ける。

 

       【第二場】

風の音。

       老人は慌てて何事かつぶやきながら後ずさりする。

       庭園の半ばまで引き返したとき、家の奥から声。

紫  戻ってきて!

       老人は足を止め、くるりと身をひるがえし、早足で家の中に戻る。

紫  年寄り。

老人    あなたが外国の方だと知っていれば、先ほどはもっとまともなおわびができたのですが。いえ、鎧戸を無断で開けたりした無作法を、こころからお詫び申し上げます。こうきしんをおさえきれなかったことには、べんかいのよちもございません。この魅力あるおたくのなかはどうなっているのか、ゆうわくにたえることができなかったわけでして。

紫(わらって)ほんとうに見たいのなら、はいってらっしゃい。

老人は中に入る。

紫 こちらへ。この部屋は使ってないんです。

埃だらけの部屋。家具はそまつで。

紫 いらしてくださって、うれしいです。今日の午後は、誰かと話をしたくてたまらなっ下端ですよ。あなたはそういうことに慣れているのでは?

大野   と言いますと?

紫 いろんなひとがあなたに話をするのでは? といういみです。わかっているくせに! なぜわからないふりをするの?

大野   いや——その——。

大柄な若い女性がお茶を運んでくる。

大野   ここにお住まいですか?

紫 ええ。

大野   でも、この家で暮らしているわけではないようですね。普段は使わずに閉めているのでは?

     少なくとも、わたしはそう聞いています。

紫 たびたびきています。世間の人が考える以上に。私が使うのはこの屁yだけですが。

大野   ずいぶん前からここをお持ちなんですか?

紫 わたしのものになってから、二十年になります。でも、その一年前から、ここに住んでました。

大野  (なにげなく)それはずいぶん長いですね。

紫 一年が? それとも二十年が?

大野  (多少ためらって)なにによるかに尽きます。

紫(うなずいて)そう、なにによるか。一年と二十2年。このふたつの期間は別個のものです。たがいに何の関連もない。どちらがながく、どちらが短いか。いまでも、なんともいえません。(黙り込む)こうして人と話すなんて、ずいぶん久しぶり。いえ、いいんです。あなたは鎧戸を開けた。うちのなかをみたいとおもったから。いつもそうするんでしょう? 鎧戸を開けて窓越しに、人々の素の暮らしぶりを見る。人々が許してくれるなら。しかも、たいていの人は許してしまう。あなたに隠し事をするのはむずかしい。隠していても、あなたはきっとすいそくをする——正しい推測を。

大野   わたしは六十九歳です。人生というものに関する私の知識は、ひとさまかrはなしを聞いて得たものなんですよ。ときには苦い思いもします。しかし、だからこそ、わたしはおおくのちしきをtっているのです。

紫 (うなずいて)わかります。人生とは不思議なもの。私のはそういう人生がどんなものか、像もできません——つねに」傍観者であるという人生は。

大野   そうですね。あなたにはおわかりにならない。あなたは舞台の中央に立っている。いつだ主役をつとめられる。

紫 面白いことをおっしゃるのね。

大野   でも、正しいはずです。あなたはさまざまなことを体験なさった——そして、これからも

しょう。そう、悲劇もあったでしょう。ちがいますか?

紫(老人をみつめて)あなたがここに長く滞在なされば、海で泳いでいて、あの崖の下でおぼれ死

んだ若い人のことをお聞きになるでしょう。若くて頑健でハンサムな男性だったと。そして、その男の若い妻が、崖のうえから夫が死ぬのをじっとみつめていたと。

大野   ええ、その話はもう知っています。

紫 それはわたしの夫でした。ここは夫の別荘でした。十八っ歳の時、夫にここに連れてこられました。そして一年後、夫は死にました——黒い岩に砕ける波に翻弄されて、からだじゅうに傷を負い、うちみだらけになったあげく、手足を切り裂かれて、岩に叩きつけられてなくったのです、

大野  (おもわず声を漏らす)

紫   (老人の顔をみて)あなたは悲劇という言葉をお使いになった。これ以上の悲劇がありますか?結婚していちねんしかたっていない若妻が、愛する夫が必至で波とたたかい、やがていとち

を失うのを、じっとみているしかなかった。夫がむごいしにかたをするのを。

大野   むごい、あまりにむごい死に方だ——そうだ、そんな悲惨なことがあっていいわけがない。

紫   (大笑いする)あなたは間違ってます、もっとむごいはなしがあったとしたら。わかいつまhじ

は崖の上に立ち、おっとが溺れて死ぬことを心から願っていたんです……。

大野   そんな! そんなはず——?

紫    いいえ、ほんとうです。それが真実。わたしは崖の上でひざまずき、祈りました。イギリスのメイドたちは、わたしが夫が助かるようにいのっているとおもったことでしょう。でも、そうではありませんでした。わたしだって、夫が助かるように祈れればいいと思った。でも、じっさいには、ひとつのことだけをくりかえしいのっていたんです——かみさま、おっとのしをのぞまないように、わたしをお助けください。夫の死を望まないように、わたしをおたすけください。と。でも、そんな祈りも嘘っぱち。こころの底では望んでいたんですから。(しばし間)むごいはなしでしょう。忘れることなんかできませんよね。夫が本当に死んでしまい、もう二度とかれにさいなまれることはないだろうとわかると、わたしはうれしくてたまりませんでした。

大野    なんということ。

紫     いまならわかります。あんな経験をするには、わたしは若すぎたのです。あんなざんこくさとむきあうには、それなりの人生経験が必要だったのです——もっと歳をとってから、もっと気持ちが強くなってからなら、

     夫がどんな人間だったか、誰も知りませんでした。はじめてあったとき、なんてすきなひとだ

ろうと胸がときめき、めぐりあえて幸せだと思ったし、結婚を申し込まれたときは誇らしかった。でも、結婚するとすぐに、すべてが悪い方に変わりました。夫は怒ってばっかり。わたしがなにをしても、まんぞくしてもらえなかった。でも、わたしは懸命に努力しました。やがて夫はわたしを痛めつけ始めました。わたしが怖がって震え上がるのを見たがった。それがいちばん楽しかったようです。しかも、おそろしいことを……ありとあらゆるおそろしいことを、思いつくままに実行したんです。これ以上は話したくありません。たぶん、夫はくるっていたんだと思います。わたしはたったひとりで夫の支配を受けるしかなかった。夫には、残酷な仕打ちが趣味になっていったんです。(目を大きく見開いて)さいあくだったのは、あかちゃんのことです。みごもったんです。でも、おっとのしうちのせいで、しざんになりました。わたしのちっちゃな赤ちゃん。わたしもしにかけました——でもしななかった、。死んでいればよかったのに。それから、わたしはかいほうされました——先ほど話したように。ホテルに滞在していた若い女たちが、夫をあおったんです。地元の漁師たちは口をそろえて夫を止めました——あんな場所でおよぐなんて、無謀もいいところだ。狂気の沙汰だと。でも、夫は聞く耳を持たなかった——自分がどれほどかすごいか、見せつけたかったんです。そしてわたしは見ていました。夫が溺れるさまを。それも、喜んでみていたんです。そんな真似をするなんて、決して神の碁石ではありえません。

 老人は手を伸ばし、女の手をとる、女は老人の手にしがみつく。

紫   さいしょはまりにうれしくて、ほんとうのこととはおもえなかった。この家はわたしのものになり、ここに住んでいてもいい。私を悼みつけるものはもういない! わたしは孤児で、身寄りもなく、わたしがどうなろうと気にかけてくれるひとはいなかった。それで、すべてが順調に、簡単に運びました。私はこの島に——このいえに住むことにしました。まるで天国にいるみたいだった。そう、天国。結婚してからは降伏とは無縁で、もう二度と幸福に離れないと思っていたのに。ある朝、目覚めてみると、世界が変わっていた——苦痛も恐怖もなく、次にどんな仕打ちをされるかとびくびくすることもなかった。そう、天国でした。

     間。

大野  それから?

紫   人間とはけっしてまんぞくしないようです。最初は自由に慣れたことで十分でした。でも、しばらくすると——ええ、寂しくなってきたんです。死んで生まれた赤ちゃんのことを思い出すようになって。ああ、あの子がいたら! 赤ん坊が、おもちゃが欲しかったの。遊び相手が欲しくてたまらなかった。愚かで子供っぽく聞こえるでしょうけど、それが本音だったんです。

大野 (真面目に)いや、わかります。

紫   そのあと起こったことを説明するのは、とても難しい。偶然のたまものというか……そういう事が起こったんです。そのころ、ホテルに若い男の人が滞在していました。そして、うっかりと個々の庭に入り込んだんです。わたしはイギリス風の服を着ていたので、あの人はわたし外国のひとだとおもいこみました。カタコト英語で話しかけるので、わあたしもそのふりをしました。かれ、英語はへたくそだったんですが、何とか会話はできました。わたしは、この別荘はあるイギリスのものだけど、かのじょはいまここにはいないと、かれにいいました。とてもおもしろくて、おもしろくておかして、今でも思い出せるぐらい。

 

 

 

 

 

 

 

翌朝。

老人は家を出、樫の並木道を通り、ベンチに向かう。

ベンチには奇抜な格好の男——Qが座っている。

Q   (たち上がって)わたしがいるのを期待していましたか?

大野   ええ。

      二人は並んでベンチに座る。

Q    その顔から察するに、みごとに神の代理人の任をはたされましたな。

大野  (非難するように)そしてあなたは、何も知らなかったと。

Q   (ほほ笑んで)きみはいつも、わたしが何もかも知っていると非難する。

大野   だって、なにも知らないのなら、なぜおとといここに来て、待っていたんです? 

Q    ああ、それは——。

大野   それは——。

Q    やるべきことがあったんです。

大野   誰のために?

Q   (眼下に広がる海を指さし)二十年前、あそこで一人の男が溺れて死にました。

大野   ええ、知っています——でも、それが——。

Q    つまるところ、男は妻を愛していたのでしょう。愛は人間を天使にも悪魔にもします。妻は夫に、少女っぽい憧憬をおぼえていましたが、夫はそんな妻に、成熟した女らしさをもとめた——それがどうしても叶わず、彼は狂気におちいった。妻をあいしていたからこそ、妻を苛んだ。妻が恐怖に震えあがるのをみようとした、ありとあらゆる恐ろしいこと、思いつくまま……。妻が自分の支配下にあることで、自分を慰めようとした——長い年月生きてこられたあなたなら分かるはず……よくあることです。

大野  (呻いて)そういうことがあるのは知っています——だがよくあることではない——めったにない……。

Q    もっと普遍的なことも知っているはずです——良心の呵責。どんな代償を払ってでも償いをしたいという強い気持ち——。

大野  (さえぎって)それはわかります、それでも死ぬのはあまりにも早すぎた——。

Q   (あざけって)死! あなたは死後の生というものを信じますか? あの世で、生前とおなじ願いや望みを抱くことなど、ありえないと? 思いが強ければ強いほど——それを伝えるものがみつかるのです(声が小さく消えていく)。

大野  (たちあがって、但し体が微かにふるえている)ホテルに戻らなくては。あなたもいらっしゃいますか?

Q   (くびをふって)いえ。私は来た道を戻ります。

 

男は崖のふちにむかって歩く。

                         

 

 

〈終〉