文化財
Cultural assets
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この庚申塔は寛文5年(1665)に建てられ,中央に「奉庚申供養 施主五十二人」右に「寛文五年」左に「己二月十日」の文字が刻まれている
この塔の高さは2.2m,周囲3.2mもあり県内では最も大きいものとされている
初めは海岸に建てられていたものを昭和57年(1982)3月に現在地に移したものである。
平成17年(2005),鹿児島市の有形民俗文化財(民俗資料)に指定された
文久2年(1862)8月,生麦事件がおきた
文久3年(1863)6月イギリス艦隊は,軍艦7隻で鹿児島湾谷山沖に現れた
イギリスの代理公使ニールや幕府は事件の解決を薩摩藩に求めたが,島津久光はこれに応じず,7月2日に戦闘が始まった
最初は,薩摩軍も奮闘したが,イギリス軍のアームストロング砲の威力はすさまじく,砲台はほとんど壊
され,鹿児島の上町一帯は消失し,近代工場を備えた集成館も大きな被害を受けた
このとき桜島には,沖小島砲台(おこがじまほうだい)の他に横山,烏島,赤水にも砲台が築かれていた
平成17年(2005),鹿児島市の記念物(史跡)に指定された
島津家27代当主斉興は,海防体制を強化するため各地に砲台を築造させた
横山(袴腰)砲台もその1つで,嘉永3年(1850)頃に築かれた
文久3年(1863)の薩英戦争時には4門の大砲が配備され,戦闘が始まった時,砲台のすぐ前に停泊していた英艦バーシューズに砲撃を浴びせている
英艦バーシューズは驚き,錨を切り捨てて離脱した
なお,錨は戦闘終了後に引き上げられ,薩摩藩とイギリスが和解した後,イギリスに返還された
旧社格は県社
御祭神は,月読命(よつきみのみこと),邇邇芸命(ににぎのみこと),彦火火出見命(ひこほほでみのみこと),鵜茅葺不合命(うがやふきあえずのみこと),豊玉彦命(とよたまひこのみこと)である
勧請(かんじょう)は不詳で,和銅年間(708~ 715)と伝えられる
その後,島津家18代当主家久が寛永2年(1625)5月に再興したが,天明年間(1781 ~ 1789)に洪水の難に遭って寛政10年(1798)9月に旧社地官坂に遷(うつ)された
当社には元国幣小社枚聞神社の御宝物と同じ「古大甕」,「明けずの箱」などもあったが,大正3年(1914)の大爆発で社殿と共に溶岩の下に埋没してしまった
一時照国神社に奏安し,大正7年(1918)11月に武集落に社殿を造営遷座,昭和15年(1940)8月4日に現在地へ遷座した
烏島は,かつて桜島の沖に浮かぶ小島であった
嘉永3年(1850)頃,島津家27代当主斉興は,海防体制を強化するためここに砲台を築いた
文久3年(1863)の薩英戦争時には3門の大砲が配備されており,イギリス艦隊に砲撃をあびせた
特にイギリス艦隊が桜島小池沖から,この烏島砲台のすぐ横を南下して撤退していったため,この間は双方激しい砲撃戦を交えた
大正3年(1914)の桜島大爆発で,島の周りは流れ出た溶岩で埋め尽くされた
海を隔てた1つの島が溶岩で埋もれてしまうというこの現象は,火山史上でも非常に珍しいものである
築城時期は平安末期(1180年頃)の山城で,長田到将
(おさだむねなが)によるものである
元和元年(1615)の一国一城令で廃城となったと考えられる
年代によって「長田城」「横山城」「三角城」とも呼ばれたが,一般には「ながたどんの城」と呼ばれ,この「ながた城」が「ながと城」になったものと考えられる
本丸の位置は鹿児島気象台桜島観測所の建っていた位置で薩英戦争後,陸軍所轄地の石碑のあった土塁上と考えられる
元亀2年(1571)肝付・根占・伊東軍が野尻に攻めて来た際,島津家久・鎌田政近などが当城を守ったとされ,鹿児島湾から攻め入る敵に対し戦略上重要な城であったと考えられる
この五輪塔は,空輪,風輪,地輪が欠けているため年代を知ることが難しい
火輪の辺縁の厚みが9cmあることと,隅角部がやや高いことが特徴である
水輪,火輪は同一の石材質であり,地輪は別の石材質であるため,別塔の地輪であると思われる
旧桜島町にある五輪塔の中では最も古いと推定される
武貝塚は昭和18年(1943)に鹿児島県史跡調査委員寺師見国が京都大学の梅原末治らと発掘調査を行っている
その後,昭和19年(1944),昭和24年(1949)に京都大学文学部考古学教室が,昭和63年(1988),平成元年(1989)に京都大学防災研究所附属防災科学資料センターが発掘調査を実施している
これらの発掘調査の結果,指宿式,市来式,鐘崎式,西平式などの縄文時代後期の土器が出土した
また,縄文人骨や腕輪,耳飾り,石斧,石鏃,漁具などの石器や骨角器,多種多量の貝殻に混じってイルカ,サル,シカなどの獣骨も出土している
平成17年(2005),鹿児島市の記念物(史跡)に指定された
藤崎家の屋敷門・大楊梅
切妻型の屋根を持つ屋敷門は古びてはいるが格式ある藤崎家の象徴として,昔のおもかげをとどめている
島津家17代当主義弘が関ヶ原の戦いの後,慶長6年(1601)4月徳川氏に恭順の意を表すために藤野へ移り,2ヶ月ほど藤崎家に蟄居した
その時の宿所が藤崎家第11代の屋敷である
義弘は築山を造り,楊梅(やまもも)を植えたといわれる
樹齢 約400年と推定され,現在,目通り3mほどの大楊梅(おおやまもも)となっている
平成17年(2005),鹿児島市の天然記念物(植物)に指定された
庚申塔の文字碑は寛文3年(1663),青面金剛像(しょうめんこんごうぞう) は寛保3年(1743)に建てられたものである
この2基が並んで建てられて いることから当時80年以上庚申講が続いて いたことが推察される
土地の人々はこの庚申塔(こうしんとう)を「金咲っどん」「かわさんどん」「かあさんどん」などと呼んでいるが庚申殿(かのえさるどの)がなまった呼び方と思われる
平成17年(2005),鹿児島市の有形民俗文化財(民俗資料)に指定された
中坊(なかんぼう)の五輪塔は,ミカン園の火山灰の中に埋もれ,空輪風輪だけが地上にあったものを,昭和57年(1982)8月発掘し現在地に安置したものである
この中には水輪の中に骨を納める穴を掘ったものもある
造立は,鎌倉時代前期の建長年間(1249~1256),鎌倉時代中期の文永年間(1264~1275),永仁年間(1293~ 1299),正安年間(1299~1302)のものと推定される
特に鎌倉時代前期の五輪塔は県下でも少なく,たいへん貴重なものとされている
逆修(ぎゃくしゅ)五輪塔2基と宝塔残欠(ざんけつ)1基がある
昭和4年(1929)頃,地中から発見され, 現在地に移された
宝塔の塔形は基礎と笠が方形で塔身は円筒形,頂上に相輪を置いている
なお塔身と笠の間に首があるのが特徴である
現在、宝塔は笠のみ残り,笠以外の部分は五輪塔のものである
西道の逆修五輪塔,宝塔群と20m程離れた民家の庭に逆修(ぎゃくしゅ)宝塔がある
この宝塔は,相輪下部の請花(うけばな)と9輪のう ち3段を残して上部を欠損している
塔身 の主部の高さが5㎝あるので鎌倉末期の造 立であろうと推定される
塔身の形の類系から薩摩川内市の薩摩氏,串木野氏の類系と同族の鹿児島氏であろうと考えられる
鹿児島忠吉は川辺氏の末弟で平安末期の人物である
なお,この宝塔の下から陶器の小皿と素焼皿,中国宋時代の珠光青磁の小皿3枚が出土している
舟形光背(ふながたこうはい)の石像が3基存在するが,一部 欠損・風化している
仁王らしいが,独鈷(どっこ)もしくは剣を右手に持ち,左腕に蛇をからませ,頭は河童らしく,風変わりな様相の像である
造立時期など不明だが,海辺近くにあるため海難水難よけの神として信仰されていたと考えられる
昭和59年(1984)二俣橋之尾工事現場から五輪塔,貝塚及び古銭が発見された
工事のため土地が掘り崩されていたが,五輪塔4基分は取り留め,五輪塔の形に整えられた
しかし,その他の残欠(ざんけつ)があるためそれ以上の数が存在していたと思われる
五輪塔の出現によって当該地が寺か神社で あったことが推察される
また,空輪,火輪の形状,石材質などから鎌倉中期のものと推定さ れるが,すべてが同時期のものではなく長期間にわたって建てられたものと考えられる
古銭は中国の宋銭(そうせん)であり,かつてこ の地が広く他地域と交易していたことが分かる
昭和40年代(1965~74)までは町内各地域で石畳の生活道路を見ることができたが,自動車が普及するようになると環境も変わり,道路は舗装拡張され,今では,ここの石畳道が過去の生活を物語る桜島地区唯一の石畳道になってしまった
今日の道路は,舗装され側溝の付設が普通であるが,当時は路上を生活廃水や雨水が流れて道の中央部は侵食されて低くなり,いたる所に水溜(みずたまり)ができて,通行に不便をきたすばかりでなく,衛生的にもよくなかった
これらの解決策が石畳道であったが,この道にも苔(こけ)が生えたりして滑りやすく,水汲み運搬,一般歩行にも用心しなくてはならなかった
古里は芙美子の母キクの出身地である。芙美子は下関で生まれ,家族とともに九州各地を転々とし,広島の尾道に住んだこともあった。尾道高等女学校を卒業した後,上京し,女工,女給などをしながら,文学を志し昭和5年(1930)「放浪記」で一いち躍やく有名になった。戦後は「浮雲」「晩菊」などのすぐれた作品を発表した。文学碑には芙美子が好んで書いたという「花のいのちはみじかくて苦しきことのみ多かりき」の自筆の文が刻まれている
噴火により埋没した鳥居とは,大正3年(1914)1月の桜島の大噴火にともなって噴出した溶岩,軽石,火山灰などに厚く地表を覆おおわれて埋没した腹五社(はらごしゃ)神社の鳥居である
この黒神町付近には,火山灰などが5mも積もり,鳥居は上部だけを残し,約3m程が埋まっているという
黒神集落では,その後,軽石の台地の上に新しく集落を建設した
当時の東桜島村長であった野添八百蔵氏はこの鳥居と近くの門柱を大噴火の記念物として後世に残すため,その発掘を中止し保存した
埋没した鳥居は,自然の猛威を実証している
昭和33年(1958),鹿児島県の天然記念物(地質鉱物)に指定された
噴火により埋没した門柱とは,鳥居と同じく大正3年(1914)の大爆発によって埋没した,永野氏宅の門柱である。もとの高さは2.5mあったといわれるが,今も続く降灰に悩まされながら,門柱も少しずつ埋もれつつある
埋没した門柱は鳥居と共に,火山爆発の猛威を如実に実証するものとして貴重である
昭和33年(1958),鹿児島県の天然記念物(地質鉱物)に指定された