令和4年11月19日(土)ふれあい・いきいきサロン「地域の歴史を学ぼう」 より
講師:山陽道を歩こう会 西村修一氏
万役山(まんにゃくやま)再考
徳山藩の三代藩主毛利元次の時のことです。萩本藩西久米村の百姓が万役山の松を切ったところ、徳山藩の山周りの足軽が自領であるとして言い争いになり斬り殺しました。有名な万役山事件です。萩本藩と徳山藩の間でとても紛糾し、徳山藩は改易となりました。万役山は徳山藩遠石村と萩本藩久米村の間にまたがる丘陵なのですが、この事件は万役山の一体どの辺りで起こったのでしょう。桜木の通りに面して、地元郷土史会が建てた「万役山尾崎」の碑があります。この丘陵の先端の続きに、万役山が続き、昔は松茸がたくさん採れたそうです。
「周防都野郡徳山領の内、万役山のうち尾崎山。往還より五六丁北、民の葬場なり。此の処の境目の道筋より八間半徳山領の内にこれ松の木あり。」
(徳山還付一件より)
万役山(まんにゃくやま)事件
久米の桜木の交差点を少し山手に行ったところに、市民ならどこかで聞いたことのある、舌を噛みそうな「まんにゃくやま」があります。初代毛利就隆の趣向もあって徳山藩は萩本藩と入り組むモザイク藩です。この辺りが遠石村と久米村の堺になります。事件は些細なことですが、徳山藩はお取りつぶしの憂き目に遭いました。領地没収、藩主元次は出羽国へお預け、家老は流罪という厳しいものでした。徳山藩にすぎたるもの三つありと、奈古屋里人(なごやさとんど)は必ず顕彰されます。それほど藩の恩人です。藩主を諫めて追放となった里人は主に京都を拠点にして再興活動をしました。京都の黒谷の金戒光明寺に彼の菩提寺があります。毛利家からの支援も今は途絶えていると住職に聞きました。周南市民として考えたいものです。
白見ケ森(しらむがもり)の稲成社
花岡の狐の嫁入りは全国的に有名で、3万人の見物人を集めます。享保9年、法静寺の住職の夢枕に白狐の老夫婦が立って供養を願い出たといいます。果たして久米の白見ケ森にて亡骸を見つけ、境内にねんごろに葬りました。願をかけた役人の失せ物がみつかって以来、お稲荷様としてお祀りするようになったといいます。狐の嫁入りは戦後始められたものですが、神輿や花神子、山車や提灯櫓、狐の新郎新婦が花岡駅まで御神幸します。今は説明版が立っているだけですが、白見ケ森の山陽道沿いにも福徳稲成社の分神が祀られていました。花岡と一緒に稲成祭が行われ、狐の嫁入り行列もここまでやって来る盛大な祭礼でした。いつの間にか中止となって、お稲荷様も花岡へお返ししたとのことです。