歴史

佐渡教会史素描

三村 修

はじめに

パレスチナに端を発したキリスト教がヨーロッパやアメリカを経由して佐渡に到達し、現在に至っているという物語を記せば佐渡教会史ということになるだろうか。

民衆の神学者、安炳茂(アン・ビョンム)はイエスを「人格」としてではなく「事件」であるととらえる。それは民衆が自己の利益や自己の能力を超える、つまり自己を超越してゆく事件だ。そして「その事件(イエス事件)は、決して二千年前に完結されたのではなく、いまも教会の中だけではなく、歴史全般にずっと起こっている」「それはあたかも火山脈が流れつつ、爆発し続けるようだ」と述べている(趙容來・桂川潤訳『民衆の神学を語る』新教出版社、1992年)。

では、佐渡の教会史や民衆史と、安炳茂のいう「火山脈」との間に、どのような関係、あるいは対立や緊張があったであろうか。それを探ってゆくことは、今後の継続的な課題であるが、今回は、そのような関心を抱きながら、一見、佐渡教会と関係なさそうなことについても触れながら、佐渡教会史全体の素描を試みる。しかしこれは佐渡教会の公的な記録でも見解でもないことをはじめにお断りしておく。また文中敬称は略させていただいた。

全体の構成を次の三つに分ける。

1 1892年以前

2 1892年以後

3 八幡の地で

現在の日本基督教団佐渡教会の直接的な始まりを求めるならば1892(明治25)年の池野又七の来島ということになる。敗戦後、佐渡教会は現在の八幡の地に活動場所を移した。いずれも佐渡教会の歩みにとって大きな節目であったと考えられる。

1 1892年以前

佐渡の秦氏

郷土史家、田中圭一は『佐渡史の謎』(中村書店、1973年)において、5世紀ごろ新羅系の文化をもつ秦氏(はたうじ)が佐渡に居住していたと考える。秦氏については、織物の技術や芸能をシルクロードを介して運んだ中国系ユダヤ人ではないかという推定があるが、M・トケィヤーは「それを確証する学問的なものは、何も検討されていない」(箱崎総一訳『ユダヤと日本 謎の古代史』産業能率短期大学出版部、1975年)と述べる。一方、ケン・ジョセフは『十字架の国・日本』(徳間書店、2000年)において、キリスト教に改宗したユダヤ教徒であった可能性を示唆する。

キリシタン塚

1619(元和5)年、ローマ・カトリック教会の神父、アンジェリスが来島。当時多数のキリシタンたちが鉱山労働に従事していたと思われるが、1637(寛永14)年の島原の乱以降、徳川幕府は弾圧を強化。1638(寛永15)年にキリシタン百二十人あまりが佐渡・中山峠で処刑された。その場所は今日キリシタン塚としてカトリック教会によって大切に管理されている。

相川洋学校

1868(明治1)年、河合美成(よしなり)が夷港の通訳官として来島、1872(明治5)年、相川南沢の医師、長谷川元良が相川洋学校を設立、河合は洋学校の教師となる。開校と同時に百人あまりが入学した。

河合はカトリック信者であったという指摘がある。当時、佐渡で印刷された教科書『英学入門』、『英語 単語篇』が佐渡高校、舟崎文庫に残っているが、実学を重視しており、特に宗教的な内容は含まれていない。

宣教師と西洋文化

1877(明治10)年、スコットランド人医療宣教師(プロテスタント)、T・A・パームが十日間佐渡島内を巡回し、1879(明治12年)年、カトリック宣教師、ドルワルド・レゼーが佐渡に赴任する。レゼーはフランスの目薬「カルの奇水」を持参した。しかし、宣教師たちが佐渡に来た最初の西洋人であるとか、はじめて西洋医学をもたらしたというわけではなく、宣教師たちが来島する前から、ガワーやスコットといった西洋人鉱山技師たちが来島しており、英語教育も西洋医学も始まっていた。19世紀の佐渡には九十人もの医者がいた(田中圭一『村からみた日本史』ちくま新書、2002年)。

現れる回心者たち

レゼーに先立って1877(明治10)年、カトリック伝道士、大江雄松(ゆうまつ)が来島し、1878(明治11)年、佐渡で幼児に授洗した。プロテスタントでは、佐渡出身者が旅先でキリスト教と出会う。1879(明治12)年に渡辺良惇が、1880年に「若い婦人」がパームから、1884(明治17)年に内田要蔵がギューリックから、新潟で受洗する。

柏倉一徳と森知幾

キリスト者になったというわけではないが、佐渡史に足跡を残した兄弟、柏倉一徳(いっとく)と森知幾(ちき)についてここで触れておく。1879(明治12)年、佐渡出身、柏倉は、東京高等師範学校を卒業し、熊本中学に勤務。熊本バンドと接触。柏倉は後に新潟、佐渡の教育界で活躍する。また弟、森知幾は1888(明治21)年、大日本水産会伝習所に入学。内村鑑三の影響を強く受け、帰島後ジャーナリスト、政治家として活躍する。

相川米騒動と自由民権運動家

1890(明治23)年、第1回衆議院選挙直前、相川の小川久蔵をリーダーとする米騒動が起こる。参加者およそ五千人。このとき河原田の自由民権運動家、高橋又三郎の家の屋根瓦がはがされた。又三郎の甥にあたる高橋元吉は後に佐渡政友会政治家として活躍(1914年4月30日受洗・逝去)。元吉の妹、高橋久野(ひさの)は当時、東京の明治女学校在学中。一番町教会(富士見町教会の前身)に通い、植村正久の指導を受けていた。

2 1892年以後

池野又七の来島

1892(明治25)年、東京伝道学校新卒の宮城県人、池野又七が高田女学校のミス・メリケンのはからいで佐渡に伝道師として来島。畑野の内田要蔵宅を拠点として活動を開始する。またこの年の7月25日、高橋久野は植村正久より受洗、帰島。高橋復二郎(またじろう)と結婚、河原田小学校教諭となる。9月から池野又七は活動の拠点を相川に移す。

1895(明治28)年、高橋久野は夫と死別、1897(明治30)年以降二十年間、東京・青山学院で教師として働く。夏期休暇のほとんどを佐渡での伝道に用いた。

私立・明治学校

森知幾、1895(明治28)年に相川町長に就任(1898年まで)、1897(明治30)年に「佐渡新聞」を創刊。1900(明治33)年には被差別部落の児童を対象とする明治学校を相川・西宮神社内に開校する。開校式では他の来賓とともに池野又七も演説をする。また教会の女性たちも明治学校のための資金を届けた。

1901(明治34)年には河原田に被差別部落の児童を対象とする興仁舎が開校。開校式には森知幾が演説し、高橋元吉が出席した。

北一輝と本間雅晴

佐渡教会と直接接触があったわけではないが、日本史において重要となった2人の人物、北一輝と本間雅晴についてここで触れておく。

佐渡出身で後に2・26事件の背後の首謀者として処刑された北一輝は、ある程度キリスト教に興味をもっていたと思われる。北は初恋の女性に聖書を贈った。1902(明治35)年9月、森知幾、高橋元吉、北一輝らは共に演説会を開催した。

1904(明治37)年、柏倉一徳は佐渡中学(佐渡高校の前身)校長となる。この時代、柏倉の影響を受けた生徒のなかに本間雅晴がいる。本間は後に職業軍人となりフィリピン・バターン死の行進(1942年)を指揮、敗戦後その責任を問われ、銃殺刑(1946年・マニラ)に処せられた。

河原田集会

1904年、池野又七は佐渡を去り、1907(明治40)年、伝道師、松尾年太郎来島、河原田に居を定め伝道する。佐渡プロテスタント伝道の中心は相川から河原田へ移る。

1909(明治42)年5月、東京・富士見町教会会員、常葉金太郎(嶺直貫)、佐渡中学に就職、西洋史を講義する。9月ごろより毎週一回放課後、河原田伝道所二階で中学生を対象とした聖書講義を始める。この中学生たちのなかに、後に牧師となった深山佐太郎がいる。

1910(明治43)年、小野村林蔵、佐渡に赴任。当時の集会の様子は小野村の「豊平物語」に活写されている。

1911年(明治44)年、北見くら、小野村より受洗。北見くらは後に錦織貞夫牧師と結婚。歌人・随筆家の錦織久良子(くらこ)として知られ、全関西婦人連合幹事として、基督教婦人参政権運動、矯風事業につくした。

同年、小野村は和歌山へ転任、麻生岩雄が着任。

同年、小野村は渡辺ぜんと結婚。畑野の渡辺ぜんは小学校の教員であったが、信仰を理由に学校長から嫌がらせを受けていた。

1911年9月10日に日本基督教会佐渡伝道教会建設式がもたれた。1911年から1926年まで、佐々木象堂(蝋型鋳金家・後に人間国宝)が教会管理者を務めた。

常葉金太郎と柏倉一徳の教育

佐渡中学には修身を教えていたプリマスブレズレンの信徒、高橋隆がいた。常葉金太郎は高橋と共に伝道する。

1912(大正1)年秋、常葉、柏倉の2人が共に学校を追われる。常葉が生徒に、国旗掲揚はそれほど価値のあるものではないと語り、柏倉校長が佐渡中学で社会主義信奉を放任した責任が追及された。常葉は後に佐渡教会の信徒伝道者として、また故郷山形に帰ってからは、郷土雑誌『葛麓』を舞台に活躍した。

柏倉の次に校長に着任した河合絹吉は中学生の教会出入りを禁じ、学校でバイブルを持っている生徒を調べてバイブルを取り上げた。

婦人伝道会社と高橋久野

1913(大正2)年、東京では高橋久野が神学社を卒業、富士見町教会伝道師に就任。同年、婦人伝道会社が設立され、久野は幹事を務める。

1924(大正13)年には日本基督教会教師試験に合格、大会で承認を受ける。

この教師試験のために久野が書いたと思われる神学論文と説教原稿が佐渡教会に残っている。「日本伝道弁証学」と題された論文では「婦人の正しき権利と位置はキリスト教においてのみ認めらる」と論じ、「基督の内在」を主題とした説教は前年の関東大震災を反映している。「新しい東京を建設する者は吾等である。家や街が新しいばかりでなく其処に住む人の心が新しくありたい。今流行語の新しい人でなく真の新しい人、新しい溌剌たる精神に充たされた人。永遠より永遠にいますキリストを内に持つ人。」

畑野会堂・相川会堂・河原田会堂

1916(大正5)年、畑野会堂献堂。会堂建設にあたり渡辺金左エ門、土屋松蔵、猪股茂エ門が力を注いだ。

1928(昭和3)年、佐渡新聞主筆、石井佐助、相川・自宅屋敷内に教会堂を建て、日本基督教会に贈呈したが、当時の牧師、松尾喜代司が目抜き通りから引っ込んだ場所での伝道を望まなかったため、石井佐助は町の中心部に会堂を建てて日本基督教会に寄付し、自宅屋敷内の会堂をカトリック教会に寄付した。石井佐助自身もカトリックに籍を移した。1931(昭和6)年、畑野会堂は河原田・林本店裏手に移築された。

1939(昭和14)年、佐渡教会は窪田に墓地を得る。

教職たち

ここで池野以後の佐渡教会の教職の入れ替わりを概観しよう。池野又七の佐渡在住は13年におよぶ。池野の在住中、大和田清晴が相川に2年間定住し池野を助けた。池野以後、松尾年太郎、野本稔尋、小野村林蔵、麻生岩雄、黒田覧一、長谷川貞助、子島友熊にいたるまで在住期間が1~3年で牧師が交替する状態が続いた。

1920(大正9)年に着任した杉田虎獅狼は7年間在住、「佐渡タイムス」に評論、随筆を連載するなどして活躍したが、佐渡伝道の経済的援助団体であった婦人伝道会社指導部の考えと合わず、1927(昭和2)年に平壌日本人教会へ転任する。

杉田以後、再び松尾喜代司、赤岩栄と牧師の交代が続いたが、1933(昭和8)年、8月、高橋久野が佐渡教会の主任担任教師として着任した。当時、久野は62歳。この年の12月、日本基督教会東京中会は久野に按手礼を授けた。

1941(昭和16)年6月、日本基督教団が成立する。成立に際して当時九州にいた元佐渡教会牧師、松尾喜代司は政府の圧力による教会合同に対して反対意見を表明した。佐渡では同年9月、久野が佐渡教会を辞任、野村穂輔(けいすけ)が着任する。

戦争・佐渡・朝鮮半島

1942(昭和17)年、佐渡出身の牧師・笠井昌雄が北朝鮮、日本基督教団海州教会牧師として招聘を受けた。一方、佐渡では同年十月ごろ、金山の労働に従事していた朝鮮半島出身の青年、戊庚得(ム・キョントク)が夜、相川の会堂に来訪。戊の要望に応えて、相川での夜の集会が始まった。集会の中心は金山で働く朝鮮半島出身の青年たちだった。戊は後に韓国で牧師となった。

1944(昭和19)年9月、野村穂輔、徴用され鉱山で働いている最中に事故にあい脊髄を痛める。

1945(昭和20)年3月、朝鮮半島で笠井昌雄が現地召集を受ける。同年佐渡では「おけさ丸」が米軍機に一斉射撃を受け、乗客15人即死。一方、東京・信濃町教会信徒、鶴間栄蔵、マキが戦災により佐渡に帰郷、1946(昭和21)年から佐渡・天狗塚の開拓に入る。

3 八幡の地で

河原田から八幡へ

野村穂輔、佐渡教会離任、向井芳男が代務を務めた後、1950(昭和25)年9月、佐藤喬が着任。1953(昭和28)年6月佐藤は両津伝道所を設立。佐藤在任中、東寿一、長谷川衛がその伝道を助けた。

1952(昭和27)年の臨時総会は、教会堂を河原田から八幡に移転することを決定。費用捻出のため、河原田の教会建物・土地を売却。教会の女性たちが石鹸を背負って島内を売り歩いた。

国際ワークキャンプ

1954(昭和29)年7月、教会堂建築奉仕にあたる国際ワークキャンプがリチャード・W・ルーブライト(東北学院大学教授)の引率によってもたれた。

1957(昭和32)年、八幡に牧師館が完成し、八幡の新会堂の献堂式が祝われる。この間、1956年(昭和31)年、佐藤喬離任、勇智勝が着任した。1957(昭和32)年、長谷川離任。

愛の泉

1957(昭和32)年、八幡の教会敷地内に「愛の泉幼稚舎」が正式に開園、勇以後、木村栄寿、加藤玄明、岡本盛雄が佐渡教会牧師を務めながら保育園の運営にあたった。保育園維持のために「母の会」が尽力した。1978(昭和53)年、岡本の離任とともに保育園も閉園。

両津伝道所では、1960(昭和35)年に勇が退いて以後、柳沼政一、渡辺重夫、佐藤政男が伝道に携わった。両津伝道所は1962(昭和37)年以後、福浦の地に会堂を得て活動を続けたが、1973(昭和48)年以後、集会復興の試みはあったが事実上の活動休止状態となった。

相川でもたれていた集会も1970(昭和45)年以後、集会復興の試みはあったが事実上の活動休止状態となった。

佐渡伝道を推進する会

1979(昭和54)年、生野碩保が着任。1981(昭和56)年、佐渡の教会の灯を消してはならない、という佐渡教会信徒の心に応えて、日本基督教団関東教区新潟地区の発案により佐渡伝道を推進する会が発足し、佐渡教会の財政支援活動が始まった。1983(昭和58)年、生野離任後、酒井春雄が代務を務めた。

佐渡の片隅から

佐渡教会の直接的な活動ではないが無関係ではなかった福祉・環境分野での出来事について触れておく。

1985(昭和60)年、角田三郎が佐渡教会に着任。1986(昭和61)年、旧園舎を「佐渡、手をつなぐ親の会」の通所作業施設「まつはらの家」に貸し出した。「まつはらの家」は1993(平成5)年、教会隣接地に活動場所を移動した。

1993(平成5)年、角田三郎離任、池田亨着任。同年4月、佐渡教会信徒、林謙次郎が中心となって、環境問題を焦点にした学習会、「サド・アカデメイア」の活動が始まった。

1997(平成9年)、池田亨離任。原田史郎が代務にあたる。(その後、佐渡教会では1998年9月、三村修が主任担任教師として着任、2005年4月、三村の妻、荒井眞理が担任教師として着任、現在に至っている。)

これからの私たち

以上、1997年に至るまでの佐渡教会史の輪郭を示した。はじめに述べたように、この目指すところは、安炳茂のいう「火山脈」を掘り起こすことにある。それは、私たちの命の源、今を生きる力と勇気の源を明らかにしてゆくことでもある。

安炳茂のいう「火山脈」を教会の伝統的な言葉で表現すれば、内在のキリストということになるだろう。故郷山形で常葉金太郎は「内在の基督」について親しい人々に次のように語ったという。「そもそもクリストを信じるという意味は、/主に属(つ)きてその兵士となること。/主の霊を宿すこと。/主と一つになること。」(北上健介『葛麓の系譜』近代文藝社、1990年)

私たちは他人事のように歴史を記録することができない。私たちもまた「火山脈」を生きるよう誘いを受けているからだ。それは久野の言う「キリストを内に持つ人」として、生かされ、生きてゆくことへの招きだ。


参考文献

『佐渡教会百年の歩み 資料集』(日本基督教団佐渡教会、2004年)

渡辺信吾「佐渡教会をめぐる人々―佐渡プロテスタント伝道の百年(その1)」(『佐渡地域誌研究』第2号、佐渡地域誌研究会、2003年)