昭和28年6月26日の大水害から70年が経過した. 民放テレビでは特別番組が組まれ, 過去の出来事ではなく現在のこととして注意を喚起している. 当時, 私は中学2年生であった.戦時中. 父は山崎町で薬局を開業していたが, 戦争の激化を避けて島崎に疎開した. 終戦後, 苦労して新屋敷3丁目に薬局を再開業したばかりのところに, 床上浸水1.5mの水害に見舞われた. 薬局に寝泊まりしていた父と姉は胸まで水に浸かりながら近所の「はたべ産院」に避難した. 島崎に住んでいた母と6人の姉妹は大水害で市の中心地が壊滅状態になっていることを知らずにいた. 翌日に西山中学校へ通学するために, 坂を下って島崎本通りの三軒屋まで行って初めて田圃が一面冠水しているのを目の当たりにした. 翌日, 泥まみれになって自転車を押して帰宅した父の話を聞いて, 皆吃驚仰天した. 翌日島崎から歩いて新屋敷まで行くまでに見た市街地の惨状は言葉では説明できるものではなかった.
死者・行方不明者 563名
負傷者 557名
家屋全壊 1,005戸
家屋半壊 6,512戸
家屋流出 850戸
床上浸水 48,987戸
床下浸水 39,066戸
阿蘇山 750ミリ
熊本 617ミリ
熊本市役所前 出典 熊本県HP
膨大な量の流木, 押し流されてきた家屋, 家財道具等が阿蘇山のヨナにまみれて, あちこちの街角に山積にされていた. 新屋敷の薬局から子飼橋までは500m位であるが, 子飼橋は流木で堰き止められ, 行き場を失った濁流は左岸を大きく削り取ったため. 130戸, 200人余が流失した.現在, その跡地にはお地蔵さんが祀られている.
Googleのストリートビュー
付近の様子をみることができます.対岸のビルは熊本大学工学部.
薬局の再建のため, 先祖から譲り受けた田畑の大半を売却して, 家族全員で新屋敷に住むようになったのは高校に進学してからである. 1957年に2代目の橋が完成するまでは, 子飼橋は仮の橋で, 川面に浮かべた仮橋を渡って対岸に渡っていた(注:恐らく自衛隊(保安隊)の架橋装備ではないかと思う). 現在の子飼橋は,2015年に完成した3代目である. 新しい橋は流木等が橋桁に引っ掛からないように, 昔の橋より橋桁の数を減らし間隔が拡げられている.
大水害から70年がたち, 科学技術の進歩で自然災害は減少に転じたかと言えば, そうではない. 地球温暖化によってますます危険度は増していると言っても過言ではない. 以前, 本ブログで白川の天井川化について説明したので, 詳細は「天井川の実態」およびその参考資料を見てほしい.
現在,進められている洪水対策は, 白川上流域においては阿蘇カルデラの開口部に昭和28年洪水を防ぐことを目的とした流水調節型立野ダムが建設されていること, 下流域では越水を防ぐために嵩上げした土手の上に越水防止壁が建設されていることである. 次図の具体例を見てほしい. 水道町方面から太甲橋を渡り, 左折して新屋敷の通り(県道145号線)に入ると右側に白川小学校がある. その正門あたりから対岸を眺めた景色である. 長壁に遮られて対岸の景色は見えなくなった.
工事前の整備後のイメージであるが,現在の状況をよく表している.
川の浚渫工事が先決ではないかという意見もあるが,阿蘇山から流れ下る土砂とのイタチごっこらしい.昭和28年大水害の時に市内に堆積した土砂は600万トンに及びその一部は熊本城の堀(西出丸と二の丸間にある空堀)に廃棄された.
2023年6月25日は梅雨前線が北上してきている.
参考資料
2020年7月11日ブログ「天井川の実態」およびその参考資料
白川流域の概要 - 国土交通省 九州地方整備局 (PDF) 白川大水害後の子飼橋河岸の状況が説明されている.
2012年8月30日ブログ「立野ダム建設促進問題」
(2023.6.26)
追記
立野ダムは、白川沿川の洪水被害を防ぐことを目的とした洪水調節専用ダム(流水型ダム*)で、昭和28年6月洪水と同程度の洪水を安全に流すことを目指して、基準地点である代継橋地点における基本高水のピーク流量3,400m3/sを、立野ダムにより400m3/sの洪水調節を行い、計画高水流量3,000m3/sに低減し、洪水被害の防止又は軽減を図ります。
*流水型ダム:洪水調節のみを目的とするダムで、現在の川の高さとほぼ同じ高さに放流する穴を設置し、平常時には流水の貯留を行わないダム