旅立ちから半日――。
三匹の竜は雲海を突き抜け、蒼穹を裂くように西へ翼をはためかせていた。
先頭を飛ぶのは老竜カルネウ。その広大な背には、魔法の剣を背負ったフルヴィオとミーアが乗っている。少し後方には二匹の若き竜が続き、一方にはラヴィアとリナルド、もう一方にはマハトが跨っていた。
眼下には緑豊かな森、銀糸のように輝く河、遥か彼方まで連なる山脈が流れるように過ぎ去っていく。地を歩めば何十日とかかる道も、竜の翼はわずかな刻で越えてゆく。
「何度乗っても信じられねえなぁ……」
ミーアは眼下を覗き込み、思わず笑みを浮かべた。
「世界って、こんなに広かったんだな。」
「竜の目は、常にこの景色を見ておる。」
カルネウは前を向いたまま低く答えた。
「だからこそ我らは、人の争いの小ささも、大きさも知っている。」
その言葉に、フルヴィオは背中の剣へ静かに手を添える。
「……この景色を守るための剣、か。」
やがて後方を飛ぶ竜の上で、リナルドがふと遠くを見つめた。
「あれは……。」
彼の視線の先には、深い森に囲まれたひとつの山があった。山腹には石造りの小さな館が、木々の隙間からわずかに顔を覗かせている。
「どうした、リナルド。」
ラヴィアが問いかける。
「預言者の館じゃ」
どこか懐かしむように、リナルドは目を細めた。
「あそこでわしは生まれ、あそこで育った」
しばらく館を見つめたあと、小さく笑う。
「今となっては誰も住んではおらんじゃろう。世話係の一族も、とうに役目を終えたはず」
彼は静かに息をついた。
「館も……きっと、ずいぶん傷んでいることじゃろう」
その言葉には寂しさよりも、長い時の流れを受け入れた穏やかさが滲んでいた。
ラヴィアもまた館へ視線を送り、小さく頷く。
「役目を果たした者は、静かに眠ればよい」
リナルドは微笑み、もう一度だけ館へ向かって深く一礼した。
「ありがとう。」
その呟きは風に溶け、館へ届くことなく空へ消えていった。
その頃――。
遥か西方、黒雲に閉ざされた魔王城。
玉座の間に佇む魔王は、ゆっくりと瞳を開いた。
「……来たか。」
魔力の波が空を伝い、三匹の竜が城へ迫る気配を告げていた。
その傍らには、一つの白き巨影。
人の姿をしていながら、その体躯は竜と並んでもなお見劣りしない。
六枚の翼を静かに畳み、頭上には淡く輝く光輪を戴いている。
その両目は黒い糸で幾重にも縫い閉ざされ、自ら光を見ることを拒むようだった。
さらに両手首は重い枷によって繋がれ、胸の前で祈りを捧げる姿のまま固く戒められている。
まるで永遠に懺悔を命じられた聖者のように。
かつて太古の時代、世界を滅ぼしかけた"厄災"。
生あるものを赦しの名の下に殺し続けたため、当時の魔王自らが封印した存在――万象の赦罪者である。
魔王は静かに口を開いた。
「万象の赦罪者よ。奴らが来る。」
白き魔物は、縫い閉ざされた瞳のままゆっくりと顔を上げた。
「知っている。」
その声は穏やかで、慈愛に満ちている。
「命の鼓動は、光よりも雄弁だ。」
「迷える魂が近づいている。」
魔王は口元をわずかに歪めた。
「好きにしろ。それがお前という災厄だ。……世界は、お前の好物で満ちている。」
万象の赦罪者は静かに首を傾げる。
「魔の王よ。」
「汝もまた、いずれ赦されるべき命のひとつ。」
その言葉にも魔王は怒らない。
長い時を経て、この存在が誰の命にも従わぬことを知っていたからだ。
「その日が来ればな。」
万象の赦罪者は答えず、拘束された両手のまま深く祈りを捧げた。
「ならば私は、神より授かりし務めを果たそう。」
「すべての命へ、等しく赦しを。」
その瞬間、六枚の翼がゆるやかに広がる。
羽音すら立てることなく、その巨躯は霞のように空へ溶けていった。
残された魔王は、静かにその背を見送る。
「相変わらず……災厄とは思えぬ姿だ。だからこそ、お前は最も恐ろしい。」
その口元には、苦笑とも諦めともつかぬ笑みが浮かんでいた。
雲海を裂きながら進んでいた三匹の竜は、不意にその翼を止めた。
風が――消えた。
先ほどまで耳を打っていた風切り音は跡形もなく失われ、空そのものが息を潜めている。
「……?」
ミーアが思わず辺りを見回す。
鳥の姿はない。
雲も流れない。
ただ、世界だけが止まったような静寂が広がっていた。
その時だった。
前方の雲が、まるで見えない手に左右へ押し分けられるように静かに開く。
誰も風を起こしていない。
それでも雲だけが道を譲る。
その中心に、一つの白き影が佇んでいた。
人の姿。
だが、その姿は竜と並んでもなお巨大だった。
六枚の翼をゆるやかに広げ、頭上には黄金の光輪が浮かぶ。
両の瞳は黒い糸で幾重にも縫い閉ざされ、光を見ることを自ら拒んでいる。
胸の前で組まれた両手は重い枷によって繋がれ、永遠に祈り続ける姿を強いられていた。
その周囲では、数十もの白き天使たちが音もなく翼を羽ばたかせ、静かに旋回している。
その光景は神々しい。
だからこそ、不気味だった。
「……なんだ、あいつ。」
ミーアの声は震えていた。
敵意は感じない。
殺気もない。
なのに、本能だけが全力で叫んでいる。
――逃げろ、と。
フルヴィオも無意識に剣の柄へ手を添える。
全身から汗が噴き出していた。
鍛冶場で幾度となく灼熱の炉と向き合ってきた男ですら、この圧迫感は初めてだった。
ラヴィアは唇を噛み締める。
「神族……?」
その言葉を、自ら打ち消すように首を振った。
「違う……。
あれは神ではない。」
後方では、マハトの乗る若竜までもが低く唸り声を漏らしている。
竜が怯えている。
その事実に、一同は戦慄した。
リナルドは食い入るように白き巨人を見つめていた。
預言者として数え切れぬ知識を授かり、古今東西あらゆる魔物や神話を知る男。
しかし――。
「知らない……。」
誰にも聞こえないほど小さく呟く。
「こんな存在……わしは知らない。」
その一言に、一同の背筋が凍った。
リナルドですら知らない。
それは、この世界の歴史から消え去った存在であることを意味していた。
やがて白き巨人は、縫い閉ざされた瞳のまま静かに顔を上げる。
「迷える命よ。」
その声は鐘の音のように澄み渡り、どこまでも優しかった。
「私は万象の赦罪者。」
「すべての苦しみから解き放つ者。」
「安心なさい。」
「あなた方の罪は、すべて赦されます。」
その言葉が終わると同時に、小さな天使たちが一斉にラッパを掲げた。
音はまだ鳴らない。
だがカルネウは、その瞬間にすべてを悟る。
「……若き竜ども。」
老竜の声は、これまでになく低かった。
「今すぐフルヴィオたちを連れて離れろ。」
拒絶するように若竜が鳴き声をあげる。
「聞こえなかったか。」
カルネウは静かに首だけを向けた。
「こやつは貴様らでは勝てぬ。」
その言葉には、一切の迷いがなかった。
フルヴィオが身を乗り出す。
「カルネウ! 一緒に――」
「ならぬ。」
老竜は短く言い切る。
「魔法の剣を魔王のもとへ届けよ。」
「それがお前たちの役目だ。」
そして白き巨人へ向き直る。
巨大な翼をゆっくりと広げ、千年を生きた王者の眼光が空を貫いた。
「貴様の相手は、このカルネウが務める。」
万象の赦罪者は穏やかに微笑んだ。
「よろしい。」
「まずは、最も永く苦しみ続けた魂から赦しましょう。」
その瞬間――
カルネウが大空を裂くような咆哮を轟かせる。
雲海が吹き飛び、天地が震えた。
それに応えるように万象の赦罪者の周囲を舞う天使たちが、一斉に銀の喇叭を口元へ運ぶ。
神話の幕が、静かに上がった。
カルネウは巨大な翼を打ち鳴らすと、万象の赦罪者を誘うように一気に天高く舞い上がった。
白き巨人もまた、羽音ひとつ立てることなく静かに上昇する。
二つの影は瞬く間に雲海を突き抜け、遥か天空へ消えていった。
「カルネウ……!」
フルヴィオが叫ぶ。
だが返事の代わりに響いたのは、天地を震わせるような竜の咆哮だった。
「ガアアアアァァァァッ!!」
轟音が空を揺らし、雲が四方へ吹き飛ぶ。
その直後――。
黄金の光が天を裂いた。
「なっ……!」
眩い閃光が幾筋も空を走り、雲海を真昼のように照らす。
やがて雷鳴にも似た衝撃音が遅れて届き、三匹の竜が激しく揺れた。
「戦ってる……!」
ミーアは息を呑む。
遥か上空。
雲の切れ間から見えたのは、神話そのものだった。
カルネウの紅き炎が天を焦がし、無数の白き天使が空を埋め尽くす。
天使たちは一斉に福音のラッパを吹き鳴らし、その音色は祝祭のように美しい。
だが音が響くたび、空間そのものが歪み、炎は裂かれ、雲は跡形もなく消え去っていく。
カルネウは咆哮とともに幾度も天使たちを噛み砕き、尾で薙ぎ払い、灼熱の炎で焼き払う。
それでも。
砕け散った天使は光の粒となって再び集まり、何事もなかったように蘇ってくる。
「馬鹿な……。」
マハトが顔を引きつらせた。
「倒しても……減っとらんぞ。」
さらに高く。
さらに激しく。
赤と白の閃光が空を染める。
轟音は絶えることなく続き、そのたびに雲海が裂け、大気が震えた。
「カルネウ……。」
ラヴィアは唇を噛み締める。
竜の言葉は聞こえない。
あまりにも遠すぎる。
だが。
伝わってくる。
老竜が、命を削って戦っていることだけは。
やがて――
ドンッ。
鈍い衝撃音が響いた。
空から、何かが落ちてくる。
最初は黒い石のように見えた。
だが近づくにつれ、その巨大さが分かる。
「避けろ!」
フルヴィオの叫びに三匹の竜が散開する。
轟音とともに、それは眼前を通り過ぎた。
鋭く砕けた、一本の牙だった。
まだ根元には鮮血が滴っている。
「……カルネウの、牙じゃ。」
リナルドが青ざめた顔で呟く。
その声に、一同の表情が凍りついた。
誰も口を開けない。
あれほど巨大な牙が折れるほどの戦い。
上では、いったい何が起きているのか。
その時だった。
再び。
パラパラ、と乾いた音が響く。
今度は無数の紅い鱗が、雪のように空から舞い落ちてきた。
焼け焦げた翼膜の欠片。
砕けた角。
血に濡れた肉片。
そして再び、大きく砕けた牙。
老竜の身体が、少しずつ空から降ってきていた。
ミーアは思わず口元を押さえた。
「そんな……。」
フルヴィオは落ちてきた牙を両手で受け止める。
まだ温かい。
掌に伝わる熱が、カルネウがなお戦っていることを物語っていた。
彼は何も言わず、その牙を静かに懐へしまい込む。
必ず持ち帰る。
そう心に誓うように。
その瞬間。
「グオオオオオオオオオッ!!」
天地を裂く咆哮が響いた。
二匹の若竜が同時に身体を震わせる。
「ギャアアッ!」
「グルルルァッ!」
その叫びは、先ほどまでとは明らかに違っていた。
悲しみ。
焦り。
そして決意。
ラヴィアの表情が変わる。
「……!」
彼女は目を閉じ、若竜たちの咆哮へ耳を澄ませる。
やがて静かに目を開いた。
「カルネウが……。」
その声は震えていた。
「仇を見つけた、と。」
「そして……。」
一拍置いて、小さく息を吸う。
「自分はここで死ぬ、と告げている。」
誰も言葉を失った。
若竜たちは再び咆哮を上げる。
「ギャオオオオオッ!」
翼が大きく羽ばたく。
もう上空へは向かわない。
一直線に、西――魔王城の方角へ進路を変えた。
「父上の命令だと言っている。」
ラヴィアは静かに告げる。
「『振り返るな。剣を届けろ。父の死を無駄にするな』……と。」
フルヴィオは歯を食いしばった。
拳が震える。
今すぐカルネウのもとへ向かいたい。
だが。
それは老竜が命を懸けて拒んだ道だった。
やがて彼はゆっくりと頷く。
「……行こう。」
その一言だけだった。
三匹の竜は速度を上げる。
背後ではなお、神々の戦いのような轟音が鳴り響いている。
誰一人、振り返ることはなかった。
雲海のさらに上。
空は漆黒へと近づき、世界は二柱だけの神話の舞台となっていた。
カルネウの全身は傷だらけだった。
純白の天使たちは無数に群がり、祝福の歌を口ずさみながら老竜を裂いていく。
一体が翼へ槍を突き立てる。
骨が砕ける音とともに左翼が裂け、紅き鱗が吹き散った。
さらに別の一体が頭部へ舞い降りる。
鋭い指先が左眼を抉り抜き、鮮血が雲へ降り注いだ。
「ガアアアァァッ!!」
苦痛の咆哮。
それでもカルネウは止まらない。
巨大な顎で二体まとめて噛み砕き、尾で数十体を薙ぎ払う。
だが天使は尽きることなく生まれ続けた。
「その肉体は、よく耐えた。」
万象の赦罪者は静かに告げる。
目を縫い閉ざし、両腕を戒められ、永遠に祈りを捧げるその姿は、まるで裁きそのものだった。
「されど苦しみは、ここで終わる。」
その瞬間。
無数の天使がカルネウの四肢を拘束した。
翼を押さえられ、尾を縫い止められ、老竜の身体は空中で磔にされる。
万象の赦罪者は静かに近づく。
その胸へ。
祈るように拘束された両手を、そのまま深く差し入れた。
肉が裂ける。
骨が砕ける。
やがて巨大な心臓が、ゆっくりと胸腔から引き抜かれた。
なお鼓動を続ける紅蓮の心臓。
その熱にさえ、赦罪者は微笑む。
「――いざ、至福の時は来たれり。」
苦痛から解き放たれ、死という救済が訪れる。
それが彼の信じる慈悲だった。
だが。
その瞬間だった。
カルネウの鼻先が、わずかに震えた。
血と炎の匂い。
その奥に。
決して忘れることのない香りが混じっている。
――ルイネウ。
あの日。
命を奪われ、心臓だけを抉り取られていた、愛する雌竜。
老竜の脳裏に、千年以上前の記憶が鮮やかによみがえる。
ともに空を翔けた日々。あの炎。
最後に見た、冷たく横たわる彼女の亡骸。
胸だけが、ぽっかりと空いていた。
「……そうか。」
カルネウは低く呟いた。
「貴様であったか。」
長き年月。
世界中を探し続けた仇。
ようやく。
ようやく見つけた。
老竜は嗤った。
竜に笑顔はない。
その顔に笑うための筋肉など存在しない。
それでも。
確かに嗤った。
歓喜に満ちた咆哮が天地を震わせる。
「ガアアアアアアアアアァァァッ!!」
万象の赦罪者は初めて表情を曇らせた。
閉ざされた目で見ることはできない。
それでも確信する。
「……貴殿は、今、嗤ったな。」
心臓を失った命が、なお燃えている。
理解できない。
あり得ない。
天使たちはさらに群がり、牙を折り、肉を裂き、骨を砕く。
だがカルネウは止まらない。
その巨体で赦罪者へと組み付き、逃がすまいと両翼で抱き締めた。
その時。
魔物と老竜の声が、まったく同じ瞬間に重なった。
「――いざ、至福の時は来たれり。」
万象の赦罪者にとって、それは死という救済の訪れ。
カルネウにとって、それは千年越しの復讐が果たされる歓喜。
同じ言葉。
だが、その意味はあまりにも対照的だった。
カルネウの喉奥が赤く輝き始める。
否。
赤ではない。
白。
さらに蒼白。
やがて黄金。
その輝きは太陽そのものだった。
「……末期の輝き。」
竜の命そのものを燃料とする最後の炎。
一度放てば命は尽きる。
その炎を。
老竜はもう一度、その命すべてを燃やして吐いた。
世界から音が消えた。
次の瞬間。
太陽が生まれた。
光だけがあった。
雲は蒸発し。
空は白く染まり。
大気そのものが灼熱へと変わる。
赦罪者を囲んでいた無数の天使は、一体残らず灰となり、静かに崩れ落ちていく。
「……赦し……とは……。」
その言葉を最後まで紡ぐことなく、万象の赦罪者の肉体もまた白き光の中へ消えていった。
爆ぜる閃光が消えた時。
空にはもう、誰もいなかった。
ただ一匹。
翼を焼き尽くしたカルネウだけが、静かに落ち始める。
風が頬を撫でる。
身体から力が抜けていく。
「……ルイネウ。」
老竜は目を閉じた。
『また一緒に空を飛びましょう。』
若き日の雌竜が笑う。
夕焼けを並んで飛んだ日。
初めて互いの炎を重ねた日。
魔法の剣を鍛え、人々に感謝された日。
すべてが昨日のことのようだった。
「遅く……なったな。」
そう呟くと、カルネウは穏やかに笑った。
今度こそ本当に。
千年越しの願いは果たされた。
燃え尽きた老竜は、夕日に染まる世界へ静かに身を委ねながら、愛する者の待つ空へと落ちていった。
二匹の若竜は、父の最後の命に従い、ただひたすら西へ翼を打ち続けていた。
その時だった。
「ギャアアアアアアアアアッ!!」
突然、二匹がほぼ同時に悲痛な叫びを上げる。
空を裂くその鳴き声は、先ほどまでの勇ましい咆哮とはまるで違っていた。
翼が乱れ、身体が大きく震える。
まるで胸の奥を引き裂かれたように。
「どうした!?」
フルヴィオが叫ぶ。
ラヴィアは静かに目を閉じ、竜たちの言葉へ耳を澄ませた。
やがて、その表情がゆっくりと曇っていく。
「……カルネウが」
誰も言葉を発さない。
風だけが耳元を吹き抜けた。
ラヴィアは小さく息を吸い、震える声で続ける。
「カルネウが……逝った」
その一言だけで十分だった。
ミーアは俯き、唇を強く噛み締める。
マハトは何も言わず拳を握り、長い髭を揺らした。
リナルドは目を閉じ、胸の前で静かに祈りを捧げる。
誰も涙を流さない。
涙を流すには、まだ早すぎた。
フルヴィオは無言のまま胸元へ手を入れる。
そこには、空から降ってきたカルネウの牙がある。
掌に収まるその牙は、なお微かな熱を宿していた。
まるで老竜の命の欠片が、まだ消えずに残っているかのようだった。
フルヴィオは牙を強く握り締める。
「……必ず」
その一言だけを呟いた。
カルネウが命を懸けて繋いだ道。
その先へ進まねばならない。
若竜たちもまた、悲しみを堪えるように低く鳴きながら翼を打ち続ける。
彼らはもう振り返らない。
父が最後に託した願いを知っているからだ。
やがて、黒雲の向こうに巨大な影が姿を現した。
幾本もの尖塔が天を突き刺し、禍々しい瘴気を纏う巨大な城。
魔王の居城――。
カルネウが命と引き換えに切り開いた道の果てに、ついに最後の戦場がその姿を現した。
誰一人として言葉はなかった。
ただ、竜の翼が風を裂く音だけが、静かに空へ響いていた。
誰もまだ知らない。
この城で、人と魔族、そして千年続いた因果のすべてが終わりを迎えることを。