オレリア教には、数年に一度だけ訪れる特別な暦の日がある。
それは〈暁祭(ぎょうさい)の日〉――太古、聖女オレリアが神の声を授かったとされる、神と人との契約が更新される聖なる日だ。黎明の鐘が三度鳴らされ、人々は東の空へ跪き、再生と救済を祈る。かつては各地の大神殿で盛大な祈祷と祭儀が行われたが、暦の伝承が途絶えた今では、その日付を知る者はほとんどいない。暁祭はいつしか人々の記憶から薄れ、伝承の奥底に沈んでいった。
そんな時代にあっても、ひとつの家系だけはその伝承を守り続けていた。
預言者に仕える世話係の家系――代々、預言者と共に歩み、支え続けた者たちだ。齢五十を過ぎた男、ダリオ・ロウランは、その末裔である。約二百年前、彼の先祖は“最後の預言者”と呼ばれたリナルドの世話をしていた。それ以来、新たな預言者は一人として現れず、世話係としての役目も終わったかのように見えた。
「いつまで幻を追うつもりだ」
周囲からは嘲笑されることも多かったが、ロウラン家は千年にわたり、誇りをもってこの役目を受け継いできた。
その家には、初代の預言者が世話係に残した一つの神託がある。
――〈暁祭の日、黎明の鐘が三度鳴る刻、東北の空に翠の光を宿した赤き竜が飛翔する。その姿こそ、真なる救いの始まりなり〉。
初代預言者はすべての予言を的中させたと言われているが、この神託だけは千年もの間、一度として現実になったことはなかった。そのため今では世にも忘れ去られ、ロウラン家の中でのみひっそりと語り継がれているにすぎない。
その朝、ダリオはいつもより早く目を覚ました。寝台の上で上体を起こし、胸の奥に微かなざわめきを感じる。妙に空気が澄み、家の周囲の森までもが静まり返っているように思えた。
「……変な朝だな」
呟きながら湯を沸かし、硬いパンとチーズで簡素な朝食を取る。台所にやって来た少年トゥリオはまだ眠たげな顔をしていたが、ダリオの張りつめた様子に気づくと、口を閉ざして黙々と支度を始めた。
ふたりはいつも通り、修繕用の道具と最低限の荷を背負い、預言者の館へと向かう準備を整える。館は山の中腹にあるため、険しい山道を登らねばならない。出発前、ダリオは家の祭壇に手を合わせ、祖先と神へ小さな祈りを捧げた。――長年の習慣であり、同時に心の支えでもあった。
祈りを捧げながらも、ダリオの胸の内には重い影が差していた。
この役目を、自分の代で終わらせてしまった方がいいのではないか――そんな思いが、ふと脳裏をよぎる。
トゥリオにはもっと広い世界を見せてやりたい。誰も顧みない古い館と、忘れられた預言のために一生を捧げる必要など、本来ないのだ。
しかし、その考えを抱いた瞬間、先祖たちの誇り高い背中が思い浮かび、ダリオはぎゅっと拳を握った。
薄曇りの空の下、人気のない山道を進みながら、ダリオの胸には朝から得体の知れない高鳴りがあった。何かが起こる――長年の勘が、そう囁いていた。
ダリオは肩に荷を担ぎ、トゥリオを連れて山道へと足を踏み入れた。まだ十にも満たない孤児の少年を、ダリオは数年前に引き取って育てていた。血のつながりはなくとも、今ではまるで本当の親子のようだった。
秋の朝の空気は澄み、森の奥から鳥たちのさえずりが響いている。踏み固められた石畳は長い年月を経て所々崩れ、苔が生い茂っていた。二人は古びた道具箱や修繕用の木材を詰めた荷車を引きながら、ゆっくりと山を登っていく。
「ねえダリオ、今日は早く終わる?」
「どうだろうな。屋根の梁がまた緩んでるはずだ。放っておけば崩れる。預言者の館は、俺たちが守らなきゃ誰も守っちゃくれないからな」
「でもさ……預言者なんて、もう何百年もいないんでしょ?」
トゥリオは荷車を押しながら、つまらなそうに呟いた。
ダリオは一瞬言葉に詰まり、前を向いたまま静かに答えた。
「……そうだな。最後の預言があったのは、はるか昔のことだ」
トゥリオは興味深そうに顔を上げる。
「たしか“緑の光をまとった赤いドラゴンが飛ぶ”ってやつだっけ? 本当にそんなの見た人、いないんでしょ?」
「……ああ。偉大な初代預言者様の言葉の中で、ただひとつだけ当たらなかったのが、それだ」
ダリオは少しだけ口元をほころばせた。「だから村じゃ“当たらぬ予言”って笑い話にされてるくらいさ」
「じゃあ今日もきっと、何も起きないんだよ」
トゥリオは肩をすくめ、小石を蹴飛ばした。ダリオはその背中を見つめながら、胸の奥にわずかなざわめきを覚えていた。風の匂いが、いつもと違う——そんな気がした。
やがて二人は森を抜け、視界の開けた峠へと差しかかった。眼下には村とオレリア神殿の白い尖塔が小さく見える。
ふと、トゥリオが顔を上げ、目を輝かせて叫んだ。
「見て! あれ……ドラゴンだ!!」
顔を上げたダリオの視界に、伝承そのままの光景が広がる。翠の光を纏った赤き竜が、轟音とともに大空を翔けていくのだ。
「ドラゴンだ! 本物のドラゴンだ!」
トゥリオが歓声を上げ、身を乗り出す。その無邪気な声が遠く響いた。
ダリオは膝をつき、震える手で空を仰いだ。
千年にわたり一族だけが守り続けた神託が、ついに現実となったのだ。胸の奥からこみ上げる嗚咽を抑えきれない。
――初代の預言者が見据えていたのは、まさにこの日だったのだ。
山の尾根を越えていく赤い竜と緑の光が遠ざかるにつれ、二人はしばらくその場に立ち尽くしていた。
風に揺れる草の音のほか、世界が息を潜めたように静まり返っている。
隣でトゥリオが、目を輝かせながら空を指さした。
「ねえ、あのドラゴン! 預言の通りじゃないか!」
「そうだ……初代の預言者が見た未来は、ようやくこの目で確かめられたのだな」
そう呟くと、ダリオは震える手で胸の前にオレリアの印を結び、深く頭を垂れた。
「行こう。館の修繕を終わらせねばな」
「うん!」
トゥリオはいつになく張り切った声で返事をし、二人は再び山道を登り始めた。
館に着くと、いつものように修繕の仕事に取りかかった。
崩れかけた壁を補い、軋む扉の蝶番を直し、長年使われていなかった炉に火を入れる。
その手つきは慣れたものだったが、どこかゆっくりと、噛みしめるような動作だった。
やがて作業を終えると、夕暮れの光が山々を金色に染めていた。
館の奥にある記録の書を開き、ダリオは静かに筆を取る。
《暁祭の朝、緑の光を湛えし赤き竜、西の空を渡るを見たり──千年の預言、果たされぬはずの言葉、ついに成就す》
書を閉じると、老いた男はほっと息をついた。
「……これで、ようやく終わりだ。お前にこの重荷を背負わせずに済む」
「終わりって?」
「いや、何でもないさ。預言が果たされたのなら、もう世話係は要らぬだろう」
そう言いながらも、ダリオの表情にはどこか寂しさが滲んでいた。
「今日はここで泊まろう。夜道は獣が出る」
「わかった」
トゥリオは小さな鍋を持ち出して湯を沸かし、館の片隅で二人分の簡素な夕食を用意した。
食卓代わりの木箱を囲み、焚き火の明かりが二人の顔を照らしていた。
長い沈黙のあと、ダリオは低くつぶやくように言った。
「……トゥリオ。この館を守る仕事は、わしの代で終わりにしようと思う」
「え?」
少年の手が止まり、目を丸くする。
「預言は果たされた。もう、この館を見守る必要はない。
お前には、お前の生きる道を見つけてほしいんだ」
トゥリオは何か言いかけたが、ダリオの穏やかな表情を見て、口を閉じた。
炎の揺らめきの中で、老いた男の横顔はどこか満ち足りて見えた。
その夜、山の上には雲ひとつなく、星々が静かに瞬いていた。
トゥリオは寝床の中で何度も空を思い出していた。
赤い竜の羽ばたきと、緑の光の尾。
まるで天の扉が開いたような、あの神々しい光景を。
──しかし、その静寂の裏で――別の場所では、闇が目を覚まそうとしていた。
魔王は地下深く、光の届かぬ聖廟に立っていた。
そこはかつてオレリア教が“天より堕ちた厄災”を封じた場所。
幾重にも重ねられた封印陣の中心には、人の形をした黒い影が膝をついて眠っていた。
魔王の足元には、無数の下級魔物と生贄にされた人間の屍が横たわっている。
それらの命が、一つ残らず供物として吸い上げられ、封印の紋が赤く脈動を始めた。
「——万象の赦罪者よ。おまえの“慈悲”を、今こそこの地に」
魔王が呟くと、静寂が崩れ、地の底から重い鼓動が響きわたった。
黒い影はゆっくりと顔を上げ、その瞳に淡い金の光を宿す。
翼のような残光を広げながら、やがて低く、優しげな声で告げた。
「すべての痛みを終わらせよう。すべての命に、赦しを与えよう。」
その言葉には怒りも嘲りもなく、ただ純粋な善意が宿っていた。
だが、彼の“赦し”が意味するのは死そのものであり、彼にとって滅びこそが救済だった。
封印が砕け散り、夜の空に血のような光が走る。
魔王はわずかに笑みを浮かべ、静かに呟いた。
「世界を、終わらせろ。“厄災”よ」
白銀の翼が広がり、万象の赦罪者は夜空へと昇った。
その瞬間、遠くの暁祭の鐘楼が、何者にも触れられぬままにひとりでに鳴り響いた。
──それは、再び世界が赦しを求められる時の到来を告げる音だった。
そして、遠い山脈の彼方。
雲上を翔ける赤き竜カルネウが、異様な気配を感じ取り遠くへと鋭い視線を向けた。
風が止み、星がひとつ消える。
夜の帳の下で、世界は静かに息をひそめた。
──嵐の前の、永い沈黙が始まった。