第五章
DAWN OF TE GLORY
ロルンドールの街明かりが、薄く立ち込めた霧の向こうでひとつ、またひとつと消えていく。眠りに就く街の中心に建つクィルネン城だけが、煌々とした明かりに照らされているのが、野営地に選んだ崖の上からよく見えた。
「クィルネン城――水の揺り籠とはいったものじゃな」
城の由来となった古い言葉を口にし、リナルドが穏やかに流れていた沈黙を破る。
「水の揺り籠に揺られ、母なる水に守られる都か」
相槌を打ったのは、ドワーフの若き青年マハトだった。その後は再び沈黙が降り、焚き火の中で生乾きの枯れ枝が火の粉を散らして弾ける音が目立った。
「......浮かない顔だな」
焚き火に枯れ枝を焼べるミーアの横顔を見ながら、フルヴィオが問う。ミーアは溜息を吐き出し、苦く笑った。
「そりゃそうだろ。あたしみたいな身分のヤツが王様に会うなんてさ。まだ信じらんなっていうか......」
ミーアにしては歯にものが挟まったような、はっきりしない言い草だった。それはミーア本人も自覚しているのだろう。不意に言葉を切り、乱雑に頭を掻いた。
「......本当は何がある?」
「まあ、そうなるよな......」
ラヴィアに踏み込んで訊ねられたミーアの顔には、安堵が滲んでいる。
「あのさ、黙っとこうと思ったけどやっぱり無理そうだから、言ってもいいか?」
誰かに打ち明けたくて仕方がなかったのだろう。ミーアの告白に、傍らで聞いていたフルヴィオは穏やかな表情で頷いた。
「話せることだけ話すといい。同じ仲間だ」
「......だよな。実はさ、そう言ってくれるって期待して聞いた」
ミーアはすっかり心を許したのか、いつもの調子に戻っている。
「構わぬよ。お主がそれだけ我々を信頼してくれている証じゃ」
言い添えたリナルドにぎこちなく微笑み頷くと、ミーアはクィルネン城を一瞥してから話し始めた。
「あたしさ、あの王様のこと、よく思ってないんだよ。魔王と戦うために徴兵されてさえいなければ、父さんはいなくならなかったし、母さんだってあんな目に遭わずに済んだ......。わかってるよ。一番悪いのは魔王だって。でも、故郷を守るためだなんだっていっ て、あたしの村も......フルヴィオの村も、全部見捨てられた。なのに、ロルンドールの都はこんなにきれいなままだ。これってさ、あんまりにも不公平じゃないか」
思いの丈を吐露するミーアの背を撫でながら、ラヴィアが静かに口を開いた。
「......術者である母が死んだというのに、エルフ族による結界が破られずに残っている......。やはり、水の珠の加護といったところか。どう思う、リナルド?」
「そのように考えておる。恐らく、前回の魔王との戦いで消失した魔法の剣にはロルンドールの国宝『水の珠』が使われていなかった」
「だから魔王を完全に倒すことが出来なかったと?」
ラヴィアとリナルドの話に割って入ったマハトの目が煌めく。
「そのとおりじゃ」
リナルドは頷き、枯れ枝をひとつ取って火に焼べた。音を立てて枝先が爆ぜ、小さく火の粉が散った。
「はぁ......酷ぇな......。王は民を守るためにいるって母さんが言ってたのに、守ってるのは自分と自分の周りの人間だけじゃねぇかよ......」
ミーアが感じる理不尽は、フルヴィオにも痛いほど刻まれている。ノルテ村を滅ぼされる前にも徴収という侵略が行われていた。けれど、ロルンドールの王は、村を救うために兵を出すことはしなかった。仮に出したとして、魔王軍に太刀打ち出来るかと言えば、不可能であるからなのだろう。ロルンドールの都を守るためには、辺境の村を見捨てるしか術がないのだ。
「......しかし、結界があるかないかで、証拠になるものなのか?」
マハトの問いかけに、リナルドは首を横に振る。
「剣が失われた今となっては確かめる術もないが......。それでも水の珠の在処を突き止めれば、動かぬ証拠とやらを突きつけられそうだな」
鍛冶屋でもあるフルヴィオが自らの考えを述べると、ラヴィアが満足げに頷いた。
「欠片さえあれば充分だ。新たな剣の鍛造のために、今度こそ水の珠を差し出してもらわなくては」
「自分らを守るための結界に使ってるなら、尚更差し出さないんじゃないか?」
そう上手く行くものかと疑っているミーアは、睨むようにクィルネン城から流れ落ちる水を見つめている。
「結界とて万能ではない。魔王を倒さない限り脅威は去らぬ」
「けど、あたしたちみたいなやつらが急に行って、城に入れてもらるもんなのか?......いや、リナルドは賢者だしラヴィアは女王の娘だからいいのか......?」
自問しながらある種の答えを見つけたミーアが、皆の顔を見ながら指折り数える。
「そのことなのだが――」
ラヴィアは胸の前で手を挙げて一同の注目を集めると、落ち着いた口調で切り出した。
「エルフの王は、古き同盟国であるロルンドールにその地位を認められて即位するという習わしがある。結界を都に張るのもエルフ族の役目だ。母亡き今、次の女王たる私をロルンドールが拒む理由はない」
「そうであろうな」
「そっか!じゃあ、明日は大手を振って正面から行けばいいんだな」
リナルドの同意を受けて明るく話すミーアは、この話題を切り出す前とはまるで別人のようだ。
「そういうことになるが、ミーアは同行して大丈夫なのか?」
「王様ってヤツの面を拝むまたとない機会だと思うことにする。言いたいことも、言えるかもしれないしな」
ミーアらしい発言に、ラヴィアが淡く微笑んだ。
「不敬とされようが、私が庇おう」
「人間は、本当のことを突かれると怒りに支配されるというからな」
ラヴィアの言葉に首を何度も縦に振りながら、マハトがしきりに納得している。
「よし。そうと決まればさっさと寝ようぜ」
悩みを打ち明けることで、気持ちの整理も出来たのだろう。ミーアは元気よく立ち上がると、寝具代わりの薄掛けの中に潜り込んだ。
「そうさせてもらおう。今夜は結界の中、この炎も見つかりはせぬ」
「その心配はいらない」
リナルドの言葉にラヴィアが重ね、左手を宙に向かって差し出す。闇色に紛れた鴉がその手に降り立ち、甲高い鳴き声を立てた。
「近辺を偵察させたところ、魔王軍の気配はなかった。少なくとも朝までは休める」
ラヴィアの使役する鴉がその言葉を肯定するように羽を広げ、再び闇の中に消えていく。
「礼を言う。結界を張り続けるのも疲れるものじゃからな」
大きく息を吐き、身体に張り巡らせていた緊張を弛緩させたリナルドは、その場に身体を横たえた。リナルドに続き、ラヴィアとマハトも各々に眠りの体勢を取る。ラヴィアは身体を丸めて横たわり、マハトは木の幹に寄りかかると腕を組み、顔を伏せた。
フルヴィオは焚き火に枯れ枝を差し込み、燃え止しを均した。
リナルドによる結界で閉じていた空間が開き、空に向かって伸びていたフルヴィオの影が少しずつ降りてくる。動く影に誘われるように、フルヴィオの視線は眼下のロルンドールの都と、その中心のクィルネン城に向けられ、しばらくの間、動くことはなかった。
陽が昇るよりも早く、崖上の野営地を発ち、ラヴィアの案内でロルンドールの城下町へと入った。
城下町に入る頃には陽も昇り、人々が日々の営みを始めている姿が目立ち始める。笑顔で挨拶を交わす者、大通りで開かれる市場のテントに品物を並べる者など、それぞれの仕事の風景が続いている。平和で賑やかな街並みを眺めるフルヴィオは、かつて同じような営みの中にあった、自らの故郷――ノルテ村に思いを馳せ、苦々しく自らの胸元を掴んだ。
「やっぱり不公平だよ......」
フルヴィオの内心を察したのか、ミーアが小声で呟く。その呟きの先は、住民が雨戸を開ける音で掻き消された。
「結界があるとはいえ、魔王軍の脅威があることには変わりはないがな」
ラヴィアにはミーアの声が聞こえていたのか、自然と会話が続く。
「結界とて、いつ破られるものか誰にもわからぬ」
「そんなもんなのか」
納得しかねた様子でミーアが同意を示す。
「ラヴィアが新たに即位すれば、その力で結界を繋ぐこともできよう」
「イルモニス、ラヴィア」
リナルドの言葉を受け取ったマハトが、ラヴィアに向かって声をかける。ラヴィアは目を瞬いて立ち止まると、マハトを振り返った。
「なあ、なんて言ったんだ?」
ミーアが、興味を抑えきれない様子で問いかける。
「エルフ語で、『幸運を』という意味じゃよ。」
リナルドが声を落としてそっと教えるそばで、ラヴィアが唇の端を持ち上げて笑う。
「......発音が少し違うが、気持ちは受け取ろう」
「伝わったならなによりだ」
快活に笑い、マハトが胸を張る。ドワーフを代表して同行している彼なりの、誇りもあるだろう。
城門を目指し悠々と歩みを進める一行は明らかな警戒を滲ませて槍を交差させている門番の視線に、気づいていない訳ではなかった。
「ラヴィア――」
いち早くその警戒に気づいたマハトが、先行く道をラヴィアに譲る。
「わかっている。私の出番だな」
敵意にも近い門衛たちの鋭い視線が一斉に一同に向けられるのはほぼ同時のことだった。
「お止まりください。この先を通すには、許可が必要です」
ラヴィアとマハトという異種族を前に、礼節をもって紡がれた言葉ではあったが、門衛たちの表情はかたく厳しいものだった。
「エルフ国王女の娘ラヴィアだ。母の崩御に伴い、古き同盟国であるロルンドールに我が地位を認めてもらいたい」
「エルフ国......」
門衛の呟きに対し、ラヴィアは髪を掻き上げ、エルフ族の特徴である長耳を示す。門衛たちはすぐさま槍を立て、直立姿勢を取ると、敬礼して声を張り上げた。
「し、失礼を致しました!どうぞ、お通りください!」
門衛たちの声に反応し、門の裏にいた別の門衛が扉を開かせる。クィルネン城への道が開かれると、城の最上階付近から流れる澄んだ水音と朝の陽の光を受けた煌めきが、一同を迎えた。
ロルンドール国の王との謁見は、玉座の間で行われるという。
謁見に先駆け、湯浴みの時間と着替え、装備品の交換が行われてのち、ようやく玉座の間での謁見が許された。
「急な訪問にも拘わらず、厚遇に感謝する」
慣例に倣い、白のドレスを身に纏ったラヴィアが、国王の前で頭を垂れる。
「我が国とエリノールは、古くからの同盟国。せめてのもてなしと思い、許していただきたい」
頬の痩せたロルンドール国王――グールディールの声を合図に、ラヴィアはその場に片膝をつく。そうしてグールディール王から授かった王冠を頭に戴くと、微笑んで立ち上がった。
「戴冠の儀っていうから、どんなもんかと思ったけど、あっけないもんだな」
フルヴィオとリナルドの間で、ミーアが囁く。
「王冠が用意されていたことを考えれば、こうなることを予測していたと見るべきじゃな。此度の謁見の本題はここには非ず、じゃ」
リナルドが殆ど唇を動かさずにフルヴィオとミーア、マハトにだけ伝わるように呟く。
その言葉は玉座の隣に座したラヴィアにも届いていたようで、一同に視線が向けられた。
「これより、魔王軍の進軍による我が国の被害を報告する」
大臣と思しき人物が重々しい声を上げ、ロルンドールにもたらされた被害をひとつひとつ読み上げていく。
「城下ロルンドールの街へ向かう行商人の隊列が、魔王軍の調達部隊の襲撃にあり、馬車十台、行商人および積み荷は食い荒らされ、壊滅的な被害を受けた。生き残った者も被害を訴えたのちに息絶え、周辺警備を強化するに至る。その他、辺境の小さな集落への侵略及び実効的支配あり。数十集落において魔王軍による虐殺行為が認められるが、詳報の必要なしと判断し――」
「待てよ!なんだよそれ!馬車や行商人に比べて、村の扱いがあんまりじゃないか!」
粛々と述べられる被害に、抗議の声を上げたのはミーアだった。
「静粛にせよ」
間近に控えていた衛兵が抑揚のない声で命じる。だが、ミーアは従わなかった。
「フルヴィオもなんで黙ってんだよ。あたしより、ずっと、ずっと―」
訴えかけるミーアの視線を険しい表情で受け止め、フルヴィオは首を横に振る。
「落ち着いてくれ、ミーア」
「けど......」
「俺も同じだ」
フルヴィオは哀しく微笑むと、自らの左腕に視線を落とした。
「お前......」
強く握りしめられたフルヴィオの左手が静かな怒りに震えている。そのことに気がついたミーアは、奥歯を噛み締めて唇を引き結んだ。
「......我がロルンドールもかなりの痛手を被った。周辺国との同盟が再び必要であると使者を向かわせていたところである。同盟の証に、そなたが望むものを与えよう。ラヴィア王女」
何事もなかったように続けられた言葉に、玉座の隣に座していたラヴィアは、リナルドに目配せする。リナルドは咳払いをして注目を集めると、数歩前に進み出た。
「王女に代わり、述べさせていただく。グールディール王よ、我々は『水の珠』を望む」
リナルドの言葉をきっかけにざわめきが広がる。その全てが驚きと異を唱えるものであった。
「我が国の国宝水の珠を望むだと!」
「水がなくなるということが、どういうことかわかっているのか!?」
「結界はどうなる!?」
詰問するように声を荒らげながら、大臣をはじめとした重鎮らがリナドルに詰め寄る。ラヴィアを王女として認めたこの場においても、その客人を敬おうという意識は全く感じられなかった。それほど水の珠がロルンドールにとって特別であるという証であるだけでなく、ある種の違和感を覚えさせる言動に、フルヴィオはマハトと顔を見合わせた。
「......望むものを与えてくれる。その言葉に二言はないだろうか、勇気ある王よ」
騒然となったその場に、ラヴィアの落ち着いた声が氷のように冷たく響く。王の名の由来となった勇気ある男を敢えて強調した言葉に、辺りは水を打ったように静まり返った。ざわめきが静まり沈黙に変わった今、誰もがグールディール王の判断を待っている。
「......どうするかは、国王たる私が決める。この者たちと話をしたい」
たっぷりとした沈黙を持たせてから応じたグールディール王は、青ざめた顔を俯け、大臣らに人払いを命じた。
水の流れ落ちる音が至るところから響いてくる。クィルネン城の屋上から湧き出している清らかな水は、せせらぎや滝となり、城下の町へと流れゆくのだ。
滾々《こんこん》と湧き続ける泉の水を美しい花々が咲き誇る庭園が囲んでいる。
泉の中心には白亜の回廊と水の神を祀る神殿が設けられており、グールディール王は重々しい足取りで一同を神殿の内部へと誘った。
「......ここに水の珠があるのじゃな」
リナルドの問いかけに応える代わりに、グールディール王は歩を止めた。沈黙が降り、湧き出す水が静かに零れる音が神殿に響いている。
紺碧の空を写し取ったような羽の蝶のつがいが、ひらひらと舞い、白亜の神殿を抜けて行く。涼やかな風が吹き抜ける音に紛れ、深い溜息がグールディール王から漏れた。
「隠し立ては最早出来ぬ......」
自らに言い聞かせるように呟き、王は一同を振り返る。
「何から話したものか......」
グールディール王は低く呟くと、水の珠の由来から順を追って話し始めた。
「太古に神が世界を作った際に水の珠を使い世界の水を生み出し、それを我らが人間の元に預けたことは、賢者リナルド殿も既に承知の事実――。そして、水の珠は、魔王を倒すための剣の鋳造には不可欠であった」
言葉を紡ぐにつれ、グールディール王の口は重くなる。
「......まずは詫びなければならぬ。前回の鋳造では、水の珠を使っておらぬ。そのことは、代々国王だけに伝えられてきた極秘中の極秘である」
リナルドとグールディール王の会話から、自ずと真実は引き出されていた。だが、改めて真実を聞かされたミーアは感情を露わに王を睨めつけている。
「......理由を聞かせてはもらえぬか?」
「伝え聞いたところによるものということを、承知の上で聞いてほしい。当時の王は、水の珠を失うことでと王としての威厳がなくなること――そして国に水がなくなるのではないかと、非常に危惧していた」
「だから、偽物を渡したってのか?」
ミーアが苛立ったように結論を急がせる。ミーアの単刀直入な問いかけに、グールディール王は深く俯くように頷き、そのまま顔を上げなかった。
「そんなんで......そんなんで、王様が務まるのかよ!あたしの父さんは国を守るために徴兵されて、うちの家族は滅茶苦茶になったんだ。徴兵ってのは、国や故郷を守るためもんだろ!?あたしと母さんのために徴兵に応じたのに......。あんたのご先祖だか誰だかが、水の珠を渡してたら、今の魔王は復活しなかったかもしれないんだぞ!」
ミーアがまくし立てるように言葉を浴びせるが、グールディール王はなにも言わない。ただ顔を上げて、哀しげな目でミーアを見つめるばかりだ。少なくともミーアの不遜な行為を罰しようとすることだけはないだろうと、フルヴィオは心の内で安堵の息を吐いた。
「ひとつわからないことがある。水の珠を前回の鋳造に託していないことは、暗黙の了解だったはずだ。それをなぜ、私たちだけに打ち明ける?」
ラヴィアの問いかけに、グールディール王は苦く微笑み、リナルドへと視線を移した。
「秘密を明かしたということは、お主はこれまでの王とは違うということじゃな」
「......いや、同じだ。だが、変わりたいという意志は持っている」
リナルドが意思を汲んだような言葉をかけると、それに背を押されたのかグールディール王は真っ直ぐにリナルドの目を見つめ返した。
「勇気ある男......グールディール......この名が、ずっと厭わしかった......」
二者の間を涼やかな風が抜けて行く。
風の残響が消えるのを待って、リナルドが静かに口を開いた。
「水は常に清らかであれ」
リナルドが発した言葉は、ロルンドールに伝わる格言であった。その言葉が意図するものを汲み取ったのか、ラヴィアとマハトがそれぞれに呟く。
「森の声に耳を傾けよ」
「迷いなき剣は鋭い」
ラヴィアとマハトの格言も、それぞれの種族に伝わるものであろうことは、フルヴィオにもすぐにわかった。ロルンドールとは違う言葉だがほとんど同じ意味であるのだ。
三者の言葉を呟くように繰り返したグールディール王は、自らの心の内と向き合うように目を閉じ、それからリナルドと再び目を合わせた。
「......賢者リナルドの予言を請いたい」
予言に縋っているようにも、既に決意を決めたようにも思えるはっきりとした声だった。リナルドは微笑んで頷き、長い髭をゆったりと揺らして厳かに口を開いた。
「その勇気を実行に移せるのならば、お主の栄誉は広く長く称えられ、のちに歴史を変えた『決意の王』と呼ばれることであろう」
リナルドの言葉のひとつひとつを、グールディール王は唇の中で繰り返している。
「決意の王......。なるほど......」
その声が次第にはっきりとフルヴィオたちの耳に届くにつれ、王の意思は強く固まったように思われた。
「賢者リナルド殿は、私に必要なものがなんであるかをよく知っている」
グールディール王は深く頷き、リナルドの微笑みに応じるように微笑むと、神殿の壁の一部に触れた。
水の流れが激しくなり、泉の底から白亜の台座が迫り上がってくる。絶えず水を湧き出させている水の珠が、一同の目の前に現れた。
「これがロルンドールの国宝、水の珠。太古、世界の水は全てこの珠から生まれた」
透明な水のようでいて、深い海の色のようでもある不思議な光を湛えた水の珠を眼前に、リナルドが口を開く。
「そのとおり。この水の珠から生まれた水は、城を通じて城下の都を流れ、大陸で最も大きい母なる大河アミルに通じる」
グールディール王が長い衣の袖を捲り、水の珠を取り出す。清流の中心、台座から水の珠を取り出すと同時に、湧き出す水の流れが止まった。
「この珠がないと、水が湧かないのか......?」
「水の珠がなくなれば、ロルンドールから水が消えるやもしれぬと、私の祖先は考えた。この現象を目の当たりにすれば、無理もないことだ」
「......魔王を倒しても、水がねぇと......」
潤沢に湧き出していた水が止まったということは、それだけで脅威となる。かつての国王の行いを批判していたミーアですら、絶句して口を噤んだ。
「......グールディール王は覚悟を決めた。あとは我々に託された。全てを使う必要はない、お主に託すぞ、マハト」
「わかってる」
マハトの顔が高揚感で赤く染まっている。マハトはグールディール王の前に跪き、水の珠をその手に受けた。
「ちょっと減っても構わないよな?」
「ああ――」
問いかけに、グールディール王は掠れた声で承諾する。
「......大丈夫なのか?」
腰に提げた道具袋を探るマハトに、フルヴィオは思わず呼びかけていた。
「ドワーフの技術を信頼してくれ。この俺が水の珠を割ったとなれば、国の皆に自慢出来る」
床に並べた鋼鉄の鏨《たがね》を何度か試すように手に取りながら、マハトが陽の光に水の珠を透かしている。鉱石にある石目を探っているのであろうその仕草に、フルヴィオも思わず目を細めて水の珠を凝視した。
ほとんど透明であるはずの水の珠には、光が当たる角度によって、繊細な石目が浮かび上がる。
「水の珠が、鋳造の材料に選ばれている所以じゃ」
リナルドが言い添え、マハトは大きく頷く。例えようのない喜びに目を輝かせたマハトは、石目の一つに狙いを定め、鏨を添えると、鉄槌で衝撃を与えた。
澄んだ音が甲高く響き、美しい余韻をもって木霊している。
特段強い力を加えたわけでもない、そのたった一振りで、水の珠の一部が剥がれ落ちる。水面に浮かぶ三日月のような欠片を手にしたマハトは、殆ど原形を留めたままの水の珠をグールディール王の手に戻した。
「おお......、おお......なんという......」
マハトの卓越したドワーフの技術を目の当たりにし、あるいは水の珠の無事をその手で確かめたグールディール王は、罅すら入っていない水の珠を台座へと戻す。
次の瞬間、淡い光を伴って再び滾々と水が湧き出し、清流が動き始めた。
「すげぇ......」
固唾を呑んで見守っていたミーアが、やっと息が出来たかのように呟いている。再び湧き始めた水の流れを手のひらで受けていたグールディール王は、頬を伝う涙に気づいて宙を仰いだ。
「水の流れはこれまでと変わらぬ。安心するがいい、勇気ある王よ」
リナルドの言葉に安堵の息を吐き、グールディール王は一同に微笑み掛けた。
「長年の恥をすすぐとまではいかない......だが、私の代で変わることが出来た。利己主義であった先祖の代わりに、今度こそ、この国の宝である水の珠を世界のために役立てられる」
話すうちにグールディール王の声が震え、見る間に目が潤んでいく。それを見て見ぬ振りをしながら、ラヴィアが敬意を込めて頭を垂れた。
「あなたの功績を同盟国であるエルフ国の王女として長く称えよう。決意の王その人であったと」
「ラヴィア王女......」
「お主の功績は語り継がれる。賢者であり預言者であるリナルドのお墨付きじゃ」
優しく微笑むリナルドに、グールディール王は涙を拭うことも忘れ、リナルドの両の手を取り、額を擦りつけた。微かな嗚咽が、長年グールディール王を蝕んでいた罪悪感を物語っているようにフルヴィオには感じられた。だが、それも今日で終わるのだ。
開け放たれた窓の外で、硝子窓と見紛うような透明な水が静かに流れ落ちている。ラヴィアの即位を祝う名目での晩餐ののち、一同は暖炉のある部屋へと通され、書記官の立ち会いのもとで今後の作戦を話し合うこととなった。
「次に必要なものは、ドラゴンーーカルネウの赤き炎じゃ。カルネウの炎を得るためには、ローメエレドへ向かう必要がある」
グールディール王が手配した古い地図を長机に広げ、リナルドがおよその位置を指先で示す。ローメエレドは、ロルンドールの国から南東に下った先、深い渓谷の中にあった。
「魔王の城にかなり近いけど、そっちに向かって平気なのか?」
「問題ない。ドラゴンは生半可な魔族では手を出せないからな」
ミーアの素朴な疑問にマハトが応え、ラヴィアに視線を送る。ラヴィアは頷き、繊細な指先でローメエレドを囲むように地図上をなぞった。
「それ故に、ドラゴンたちには、我々ほどの危機感がない。それは喜ばしいことではあるが、他の種族との温度差にも繋がっている」
魔王の侵略を受け、忌まわしき洗脳に囚われていたラヴィアの言葉は重く、フルヴィオはなにも言えずに口を噤む。一方のミーアは、その場の重い空気を取り除こうとしたのか、敢えて明るい声を発した。
「けどさ、そんだけ強いならドラゴンが魔王を倒せばいいんじゃないのか?種族が違うっていったって、回りがやられてくのを黙って見てるのはおかしいだろ」
「そうでもない。何故なら、ドラゴンの力では魔王は倒せないからじゃ」
リナルドが苦く笑って言い添える。
「やられるほど弱くもないが、魔王を倒せるほど強くもない......。結局のところ、俺たちで力を合わせないことには、魔王には勝てないというわけだ」
マハトが拳を握ったり開いたりしながら、苦々しく呟く。
「......それでも、魔王がいる世界は確実に滅びへと向かう。遅かれ早かれ、ドラゴンも動かねばならぬ時が来る」
長い髭を揺らし、リナルドが低く通る声を発すると、部屋の端でペンを動かしていた書記官が思い出したように顔を上げた。
「賢者リナルド様、救い主様、どうか――」
思い詰めたような書記官の声は震えている。蒼白に近い顔色は、彼の内に刻まれた残虐な記憶を物語っているようだ。
「......俺たちは救い主様じゃない......」
書記官の縋るような言葉に黙っていることが出来ず、フルヴィオは口を開いた。救い主ではない自分には、なんの力もないが、自分が成すべきことだけはもうわかっていた。
「それでも、この世界のために動く」
全員での話し合いを終え、謁見の前に宛がわれた部屋へと戻ってきたのは夜も深く更けてからのことだった。ロルンドールの協力のもと、ローメエレド付近までは馬車で移動し、そこから先は全員で谷を下り、ドラゴンの住まうローメエレドを目指すことで、今後の方 針は決まった。作戦というには決め手に欠けるところではあるが、ロルンドールの水の珠の欠片を既に手に入れていること、ラヴィアやマハトが種族を代表してドラゴンと交渉するというのは、リナルドによると説得に十分であるとのことだった。一人では落ち着かないという理由でフルヴィオとの同室を申し出たミーアは、部屋に戻ってからというもの、丸テーブルに向かったまま動かない。ミーアの視線の先には、グールディール王の計らいにより、魔王を倒した際の褒美を記すための書類が重ねられている。
「魔王を倒した暁には、それぞれ望むものを与える......か」
それがせめてもの礼であると述べた王の厚遇に、フルヴィオはノルテ村の墓地を望んだ。魔王軍によって滅ぼされた呪わしき土地となる前に、正しく人々を弔いたいという考えからだった。リナルドやラヴィア、マハトがなにを望んだのかは聞かなかった。
「......なあ、フルヴィオ。あたしの名前ってどうやって書けばいいんだ?」
視線に気づいていたのか、ミーアが伸びをしながらフルヴィオの方を振り返る。
「それで俺と同室を望んだのか」
「そういうこと。あたし、字は読めるんだけど書くのがいまいちでさ。こういうの頼めるのは、やっぱフルヴィオだろって思って」
いつの間にか人懐っこい笑みを浮かべるようになったミーアに頷きながら近づき、フルヴィオはミーアの名を指先でなぞってみせる。ミーアは真摯な目をしてそれを見留め、インクを染みこませたペンで紙に綴っていく。たっぷりと時間をかけ、丁寧に綴られた自分の名をミーアは誇らしげに掲げ、グールディール王からの契約書を眺めた。
「ありがとな、フルヴィオ。......褒美の内訳は、今書かなくてもいいんだよな」
「ああ、そう聞いている。俺はもう書いたが」
「そっか......」
フルヴィオの望みを聞かずに、ミーアは契約書をテーブルに戻し、指先で描かれている文字をなぞる。
「あたしはどうするかな......」
迷う心の内を吐露しながら、ミーアは思い出したようにペンをペン立てに戻した。
「これ見る限り、ひとつと決めなくていいっぽいし......。だったら、あたし、なにか手に職をつけたいな」
「職か......」
「うん。やっぱ、盗賊なんてやってちゃだめだろ?」
過去の自分を罰するようなぎこちない笑みだったが、ミーアの瞳には未来を見据えた強い光が宿っている。その眩しさに目を細めながら、フルヴィオはミーアに倣って自分の未来へと思いを馳せようとしたが、まだなにも浮かんでいないことに気がついた。