FAIRY TALE

夜の帳《とばり》による濃い闇が、薄闇の向こうに広がっている。

幽世の森へと至る森林の遙か向こう、黒い影と化した木々の間を飛翔する魔物や異形の者達の不気味な声は闇夜に木霊し、リナルドが幽世の森と繋げた回廊にも不吉な予兆として届いていた。
「......目当ては私とエルフ国エリノールだろうな」

忌むように回廊の見えない壁の向こうを睨んでいたラヴィアが溜息と共に吐き出した言葉に、誰も相槌を打たなかった。その必要がないと示すようにラヴィアは頭を振り、透明
な壁に背を預けて目を閉じた。
「奴等がここまで短絡的に動くのなら、罠のひとつもかけておくべきだったか」

真っ直ぐに流れるようにラヴィアの頬にかかった銀の髪が、その表情を隠している。だが、苦く笑うラヴィアの声音から、彼女の内に渦巻く復讐の決意は明らかだった。

「そこまで頭が回らなかったが、次はそうしよう。リエルの弔いにはまだ遠い」

ラヴィアの母リエルの名を敢えて口にしたリナルドも、かつての仲間への復讐の炎を静かに燃やしている。二人と同じく、故郷の村を魔王軍によって滅ぼされたフルヴィオも深く頷いた。
「俺は、進み続けるしかない」

勇者アズゴルドによってエルオプの戦いを最後に封印された魔王が二百年の時を経て復活した今、救い主なきこの世界で立ち上がったのは、鍛冶職人と野盗、かつての魔王軍と
の戦いを知る賢者とその仲間であったエルフの娘――たった四人。

鍛冶職人であるフルヴィオにとって、魔王を倒すことのできる唯一の剣をドワーフとともに鍛造《たんぞう》することは、目下の目的だ。


「......気持ちはわかる。だが、焦りは判断を誤らせる。戦いの傷は癒えても疲れまでは癒やせぬ。今夜はここで一夜を明かそう」

先ほどとは打って変わって落ち着いた声音でゆっくりと一同に語りかけたリナルドが、標《しるべ》として用いていた灯火の珠を各々の目の前に移動させる。


「まあ、真夜中に幽世の森に入ったところで、あの騒ぎだもんな」

手のひらで灯火の珠を仰ぐようにして降下させたミーアが、その場に腰を下ろす。ミーアが横目で示した回廊の外は、黒く不吉に広がる魔王軍の隊列の影が空を覆い尽くさんばかりに広がっている。


「そのとおり。前に進む道こそが近道とは限らん」

「では、エルフ城から遠ざかり、わざわざ幽世の森を目指すのは考えあってのことか……」

透明な壁に背を預けたまま、ラヴィアが顔を上げる。

「ドワーフの国というのは、エルフ城の向こうなのか?」

故郷の村の外にほぼ出たことのないフルヴィオが訊ねると、ラヴィアとリナルドは揃って頷いた。


「方向としてはエルフ城の北東に位置する。だが、アルトロ山脈とドラゴンの住まうローメエレドの山谷を超え、かつ魔王の追っ手の目をかいくぐりながら進むのは賢い選択と

は言えまい」
アルトロ山脈もドラゴンの住まう山谷のいずれも目にしたことはないフルヴィオとミーアでも、それが無謀であることは理解できた。人間など遙かに及ばない巨躯を持つドラゴンが住まう山谷ともなれば、人間の足でどれほどの過酷な旅を強いられるかわからないことは、容易に想像がつく。


「......それで幽世の森ってわけか。でも、この閉じた空間ってやつは幽世の森とエルフ城にしか通じてないんだろ?そっからどうするんだ?」


ミーアの問いかけに、リナルドは一度目を閉じ、杖を支えにしてその場に座り込んだ。

「幽世の森に戻り、装備を調えたのち、ミーアの故郷であるアグリ村から東へ回る」

リナルドの言葉にフルヴィオは両手の拳を握りしめる。爪を立て、強く力をかけていなければ過去に意識を奪われてしまいそうに感じたからだ。魔王軍の調達部隊に怯えながらも、繰り返されてきた平穏な日々。それを嘲笑う圧倒的な暴力、虐殺、蹂躙――むせ返るような血の匂いと、生者の失われた恐ろしいほどの静寂。記憶の奥に閉じ込めようとしても、幾度も幾度も繰り返す悪夢に勝る現実を、その記憶に支配されかかった自らを奮い立たせるように、震えるほどに拳に力を込め、強く目を閉じた。

「あたしは構わないぜ。けどさ……」

フルヴィオの様子に気づいてか否か、ミーアが口を開く。言わんとしていることに気づいたフルヴィオは、現実の今この時に引き戻された意識を、ミーアとの会話によって繋ぎ止めようとした。

「俺も構わない」


「生癒えの傷を抉るようなことが起こるかもしれないが、その心は保てるか?」

リナルドの問いに強く握りしめていた拳を解き、フルヴィオは頷く。


「あの日見たもの以上に辛いものはない。現実を見る以外に、この地獄から救われる方法はない......その救いが微々たるものだったとしても」

脳裏に焼き付いた絶望の記憶は変わらない。けれど、新しく上書きすることはできる。

今、自分に出来ることは背を向けて逃げるように離れた村に、今一度別れを告げることなのかもしれない。


眠りを促す魔法によって夜を越した、一行が幽世の森へと入ったのはまだ陽も昇らない翌朝早くのことだった。

目印となる泉の畔に佇む円錐形の屋根を冠したリナルドの家では、槍を手にした二人の老いた男が警戒に当たっていたが、遠くに恩人であるリナルドの姿を見留めると、深々と
頭を下げ、足許に槍を下ろした。


「長老!リナルド様が!ラヴィア様のお姿も......!」

見張りの男の呼びかけに、リナルドの家から年老いた男が姿を見せる。エルフの城シルティン=ギルに程近いオルン村から、幽世の森へと移り住んだ村長に続き、この森にかくまわれる十数名が泉の周りに集まった。


「リナルド様、よくぞご無事で。......ラヴィア様も......」

杖を支えに進みながらしわがれた声で紡ぐ長老の表情はかたく、ラヴィアへの警戒を滲ませている。声を詰まらせたのは、ラヴィアが魔物らと共に彼らの同胞にもたらした悲劇
を記憶から退けられなかったことに他ならない。


「......歓迎する必要はない。全てを思い出した。詫びる言葉もない。操られていたとはいえ、私の乱心のために――」


「恨むべきは魔王軍、そして魔王そのもの。貴女様もその犠牲になられたというだけのこと」

ラヴィアの苦しげな告白を遮ったのは長老ではなく、その傍らに歩み出た老婆だった。その枯れ枝のように細くなった手は、まるでラヴィアの涙を拭おうとしているかのように
虚空に延ばされている。


「しかし――」

「そう思ってくだされ。そうでなければ、誰も報われぬ」

老婆の言葉に村人がそれぞれに頷き、ラヴィアを真っ直ぐに見つめる。その視線を真っ直ぐに受け止めたラヴィアは、無言のまま頷いた。


「エルフ城を取り戻したのですか?我らが村は……」

「いや、取り戻すことができたのはラヴィアのみ。済まぬが、もうあの地に戻ることは叶わぬ」

頭を振り、苦々しく応えたリナルドに長老は二度頷き、一行をゆっくりと見つめた。


「......再び魔王を倒さぬ限り、ということですな」


「ああ、そういうことになる」

リナルドに代わり、長老の言葉に応じたのはフルヴィオだった。長老は険しく顔を歪めると、不安に耐えるように手にした杖に力を込めた。


「では――」


「この地はそのまま使ってくれ。日の光を届け、清らかな水を湧かせ、豊穣の地を残してある。故郷の地には叶わぬが、命あっての故郷だ」


リナルドの言葉に長老が頷いて承諾の意を示す。リナルドは法衣の懐から白と青、二袋の包みを取り出し、長老に手渡した。


「青い袋にはまじないをかけてある。すぐに育つゆえ、餓えの心配もない。白い袋の方の種は、春にまくといいだろう」


「我らの無礼にも拘わらず、このようなお恵みを......」

安住の地を提供されたとはいえ、故郷を追われることになった長老は、それでも礼を尽くしてリナルドと向き合った。だが、リナルドはそれを受ける資格などないと言いたげに首を横に振った。
「私がしていることはアズゴルドの真似じゃ。礼を言うならアズゴルドに」

「……救い主様、ありがとうございます」

泣き出しそうな声で先ほどの老婆が膝からゆっくりと崩れ落ち、今は亡き救い主へ向けて祈りの言葉を唱える。その祈りは村人たちに伝播し、すすり泣く声と共にしばらく続いた。

村人たちに譲った泉の畔の家を離れ、フルヴィオたちは鬱蒼とした幽世の森の道なき道を進む。程なく進んだところで、先頭を歩いていたリナルドがミーアを振り返った。


「ミーア」


「ん?なんだ?」

突然呼びかけられたこともあり、ミーアが驚いたように目を瞬いている。リナルドはそれに微笑を浮かべて続けた。


「お主の家を貸してもらえるか?」


「貸すもなにも、もともとリナルドの家だろ。行こうぜ」

敢えて明るく振る舞おうとするリナルドの心の内に気づいたのか、ミーアが明るく笑って苔生した石の上に飛び乗る。


「さっきから、知ってる道だなとは思ってたんだよ。だったら早く言ってくれりゃいいのに」

そう言いながら、ミーアがリナルドに代わって道案内を始める。その背に続きながら、フルヴィオは初めてこの地に来た日のことを思い出していた。

ノルテ村を襲った惨劇の記憶に、腹の奥から酸っぱいものが込み上げてくる。それを振り払うように歩調を速めると、かつてミーアが根城にしていた小さな隠れ家が木々の陰に見えて来た。

家主と客人を迎えた小さな家の入り口には、あの日と変わらず美しく澄んだ水を湛えた水甕《みずがめ》があった。ミーアは柄杓《レードル》で水を汲んで皆に喉を潤すように勧めたが、ラヴィアに先に飲むようにと促され、音を立てて二杯の水を喉に流し込んだ。
「......隠れ家というわけか」

幾分か寛いだ様子のミーアと部屋の様子を眺めながら、ラヴィアが呟く。


「この森には幾つもそのような場所を用意してあっての」


「いくつもあったのかよ!あたしが見つけられたのはここだけだったぞ」

リナルドの言葉に驚きの声を上げたミーアは、家に上がり込んで寝転んだ。

「普通の者には見えぬ。この家は、迷い込んだお主のために特別に開かれた空間じゃ」


「へぇ......魔法ってのは便利なもんだな」

この数日酷使してきた手足を天井に向けてぶらぶらと揺らしながら、これまでに何度も言ってきた感想を繰り返すようにミーアが呟く。


「それでも魔王を倒すことは出来ないのが、なんとも歯がゆいものだ」
「それだけ奴がこの世界にとって桁外れの厄災というわけだ」

苦々しく吐露するリナルドに、ラヴィアが同意を示す。

「そう。この世界に住まう種族の垣根を越えて力を合わせなければ、神の力を借りることすら出来ぬ」


「......神の力......」

二人の会話を聞いていたフルヴィオは、この幽世の森に入った目的であった救い主に思いを馳せ、唇を噛んだ。人々が頂いていた希望は、未だ幻想の域を出てはいない。


「......では、魔王を倒す剣はその代行者たる資格といったところか?」


「そうとも言える」

フルヴィオの問いかけにリナルドが深く頷く。話が見えてきたのかミーアが上体を反らして起き上がり、三人に視線を投げかけた。


「そんじゃ、言わずもがな救い主様っていうのは、その代行者ってわけか?......ってことは、剣が扱えるなら、誰でもいいってことにならないか?」

「それはわからぬ。救い主の存在しない世は、これまでになかった」

リナルドはそう言いながら再び溢れるほどに水を湛えた水甕《みずがめ》に手を翳す。その手に呼応するように水面がざわめいていることに気づき、フルヴィオは訊ねた。


「......なにをしているんだ?」


「この先の道を見透しているのだ。幽世の森を出た先には、安全と呼べる場所はないに等しい」

リナルドの遠見や予見は、危険を避ける手立てにはなるはずである。フルヴィオはその言葉に頷きながら、リナルドによって水甕に映し出された光景を眺めた。

ざわめいていた水面は薙ぎ、ここにはない景色を水鏡のように映していく。その景色はゆっくりと移り変わり、フルヴィオも知るアグリ村へと至る。その向こうに見えるのは、フルヴィオの故郷であるノルテ村であるはずだった。だが、フルヴィオはそこに映し出されたものが自らの故郷であると理解するのに少し時間を要した。なぜなら、ノルテ村は立ち込める煙に覆われて真っ黒に霞んでいたからだ。

唯一それとわかるのは、入り口にある物見の塔の残骸だった。物見の塔は大きく傾いてひしゃげ、フルヴィオの目の前で無残に崩れた。

水甕の中に映し出される光景は、更にノルテ村へと近づき、中へと入っていく。そこには黒く焼け落ちた残骸が折り重なった変わり果てた村の姿があった。教会の美しいステン
ドグラスが炎で溶け、描かれた救い主の姿が不気味に歪んで割れている。

それら僅かに残る惨劇の跡も、荒れ狂う炎によって更に焼き尽くされ、息絶えた村人たちの姿はその影を見つけることすら叶わない。


「ノルテ村は、もう......」


「......魔物によって全て焼き尽くされたようだ」

リナルドがフルヴィオの言葉を引き継いで現実を語る。村人たちの死により、村は死に絶えた。だが、その死の先には村そのものの存在の死――すなわち無が続いている。


「大丈夫か、フルヴィオ」


「......ああ、惨劇の跡を見なくていいという意味では、これで良かっただろうか......」

問いかけにそこまで呟いてフルヴィオはその場に力なく崩れた。恐ろしい惨劇が起き、二度と帰ることはないと離れた故郷のはずだった。だが、それでも故郷を、その場所の存在そのものが消えつつあるのを目の当たりにし、新たな喪失感に襲われる。

――俺が死ねば何も残らない。

ノルテ村での日々を覚えているものは最早自分以外に誰もいない。死を覚悟していたにも拘わらず、命への執着がまたひとつ自らの首に絡みついた気がした。


しっとりとした夜気に梟の声が響いている。薪が焼べられた温かな暖炉を囲むように、それぞれが休息を取るために目を閉じた。

元々自分が住処にしていた家に戻ってきたミーアは安堵からか、身体を丸めてすぐに寝息を立て始め、ラヴィアも眠るためにリナルドが煎じた眠り薬を飲んで身体を横たえた。身体の緊張がゆっくりと抜けるように深い眠りの中に落ちたラヴィアは、まだあどけなさのある少女のような顔を見せている。その姿を一瞥して背を向け、フルヴィオは深く息を

吐いた。
身体が泥のように重いにも拘わらず、目を閉じても眠れそうにない。度重なる絶望に晒された心がすり減っているのを感じた。自分が今生きていることが正しいのか、そうでないのか、答えの出ない問いかけがフルヴィオの頭の中を止めどなく巡っている。


「......お主も呑むといい」

そう言いながらリナルドは両手に持った器のひとつを差し出した。中には先刻ラヴィアが飲んだものと同じ眠り薬が入っている。


「リナルドも眠れないのか?」

問いかけにリナルドは苦く笑って器の中身を呷《あお》ると、フルヴィオに促した。

「身体の疲れを心の疲れが上回ると眠れぬ。それを癒やせるのは眠りと時間だけだというのにな」

「ああ、そうだな」

受け取った器の中身は、微かな湯気を立てている。生温いそれを一息に飲み干すと、いつか味わった微かな甘みが長く舌の上に残った。

いつ眠りの中に落ちたのかは覚えていない。

それでも、目の前に広がる光景がもうこの世にはないものであることから、これが夢なのだとはっきりと自覚出来た。

ノルテ村の鍛冶屋、工房では祖父が鉄を鍛える甲高く規則的な音が響いている。糸紡ぎをする祖母の手元を見ながら、まだ幼いフルヴィオはうとうとと微睡みの中にいた。それを俯瞰するように宙に浮かんでいるフルヴィオは、二度と見ることの出来ないその時間を目に焼き付けるように凝視していた。

世界は薄く褐色に褪せ、鍛冶の腕を振るう音がずっと響き続けている。祖母が糸車を紡ぐ手元は淀みなく、糸車はくるくると回り、細い糸が少しずつ巻き取られていくのが見え
る。

思えば飽きることなくこの景色を見ていた。穏やかな陽の差し込む午後のこの時間が、フルヴィオは好きだった。ずっと忘れていた、幸せで平和だったその時間、祖母は微睡み始めたフルヴィオに優しく穏やかに歌うように聴かせたものだ。古くからこの家に伝わるという御伽噺を。


遠いあの日、鍛冶屋の男
絶やすことなき炎を背に、丈夫な丈夫な剣をつくり
その刃は銀と緑に輝いた

時を忘れて鍛え続ける強い刃を生み出すその腕は
あるとき人間の娘を助けた
鍛冶屋は恋に落ち、里へとおりた
道具ひとつ手に持って、人間の里へと下りた


記憶の中の祖母の声だった。まだ忘れていないことに安堵した途端、涙が出た。祖母の声も、顔も、この御伽噺もまだ忘れていない。もう失われてしまった懐かしい家も、祖父から受け継いだ鍛冶道具も。そう気づいた途端、フルヴィオは頬を伝う冷たい涙に気づいて目を覚ました。

「大丈夫か?なんか寝ながら泣いてたけど......」


見ればミーアとリナルドが心配そうに顔を覗き込んでいる。

「夢を......夢を見ていた」


フルヴィオは現実に引き戻されながらも、夢の中の出来事に思いを馳せ、語り始めた。子供の頃のノルテ村の夢を見たこと、祖父の鍛冶の腕のこと、祖母の御伽噺のこと。夢から覚めてすぐのことだったので、一通りを淀みなく口に出来た。誰かに話しておかなければ、忘れてしまいそうなほど儚い夢は、こうして話したことでフルヴィオとミーア、リナルド、三人の中に残ることになる。


「フルヴィオの持つこの鍛冶道具は、ドワーフから受け継いだもの......そしてお主も人間の中ではかなり秀でた才能を持つ......。その話を聞いたときから、ずっと不思議に思っていた」

興味深くその話を聞いていたリナルドが、深く息を吐いた。


「なにが不思議なんだ?」

「......不思議だった。だが、今理解した。祖母が歌ったというその御伽噺は、フルヴィオ、お主の先祖のことに違いない」

確信を持って紡がれたその言葉に、フルヴィオは目を瞬いた。


「俺の先祖......?」


「そうだ。ドワーフを納得させるほどの腕前を持つ人間の能力が子孫であるお主に受け継がれた、そう解釈するよりも、お主がドワーフの血そのものを受け継いでいるのではないか?」
問いかけにリナルドが言葉を変えて説明する。俄には信じがたかった。だが、ミーアは興味を持ったように身を乗り出し、部屋の隅に置いてあった鍛冶道具とフルヴィオを見比べた。


「フルヴィオのその鍛冶の腕は、ひょっとするとひょっとするかもしれないってことか?」

二人の指摘で、ようやくリナルドがなにを言わんとしているのかに気がついた。

「......つまり俺の先祖にドワーフ族がいる......」


「そういうことじゃ」

呆然としながら呟くフルヴィオの言葉に、リナルドが長い髭を揺らして深く頷いた。


ラヴィアが目覚めたのは翌日の夕刻のことだった。滾々と眠り続けたラヴィアは、目覚めてから水と食料を僅かに口に含み、再び眠りの中に落ちていった。


「......なあ、眠り薬ってのはそんなに強烈なのか?」

唯一眠り薬を口にしていないミーアが、木の実を囓りながらそっと訊ねる。フルヴィオが首を傾げると、リナルドはラヴィアを一瞥してから首を横に振った。

「ラヴィアを意のままにしていた術は、かなりの負担を強いるもの。彼女には休息が必要で、眠り薬はその入り口をつくったに過ぎん」

「なるほどなぁ......」


木の実で赤黒く汚れた指先を舐めながらミーアが四肢をゆっくりと伸ばす。

「まあ、あたしも色々あって疲れたし、ここで一日二日急いだところでどっかで足止めも喰らうだろうから、これぐらいでいいんだろうな」

「その通りじゃ。魔王相手に救い主でもない我々が立ち向かうには、それなりの準備がいる。今はまだ急ぐ時ではない」

のんびりとしたミーアの言葉を咎めることもなく、リナルドが同意を示す。フルヴィオもそれに頷いた。


「ドワーフの国へはどのくらいかけて移動すればいい?この先は野営になるはずだが、ここで出来る限りの準備をしておきたい」


「十日はかかるだろう。歩き通しになることを見越せば、荷は軽い方がいい。魔法で水脈を探して水を調達することも出来るだろう。乾物の食料と、武器の手入れさえ終えればラ
ヴィアの様子を見て明日にでもここを発つ」

歩き通して十日という距離は、決して短い距離ではない。それでも歩き通せるという気力が戻って来ていることに、フルヴィオは両の手を握りしめた。

「では、そのようにしよう。少しうるさいが許せよ、ミーア」


「子守歌みたいであたしには丁度いいけどな」

幼い頃のフルヴィオが感じていたことと、そっくり同じ言葉をミーアが返してくる。自分に流れるドワーフの血、祖父の父、あるいは祖父、それともずっと前なのだろうか。これまで知ることのなかった自分の起源を知らされたようで、フルヴィオは破顔した。

陽の光が地平線から昇ってくるのが見える。

荷物をまとめてミーアの家を出た後、一同は幽世の森の外を目指した。鬱蒼とした木々の間を抜けると、朝焼けが大地を橙色に染め上げていた。目前に見えてきたアグリ村の周辺からは、薄く煙が上がる様が見え、そこに生活する人が残されていることが窺える。

「全滅したわけじゃなかったみたいだな」

「らしいね」
話しかけられたミーアは複雑そうに顔を歪め、先を急ぐ。アグリ村に背を向けるように足早に進むミーアの後ろを追いながら、フルヴィオはアグリ村を振り返った。


「......襲撃を逃れた者が戻って来ているようだな。だが、我々は歓迎されていない」

村の方を凝視していたラヴィアが囁くような声で呟く。


「どうしてわかる?」

疑問符を向けると、ラヴィアは自嘲気味に笑って村の方を指差した。


「お前に見えるかどうかはわからないが、あれが飛んできた」

指差された方向に目を凝らせば、陽の光に照らされて煌めく何かが見える。それが地に突き刺さった矢であると気がつくまでに、少しだけ時間を要した。


「病つきの売女の娘!こっちに来るんじゃねぇ!」

口汚く罵る声がこちらまで響いてくる。心ない言葉にフルヴィオは顔をしかめたが、ミーアは無言で先に歩を進めていく。その背を追いながら、リナルドが首を横に振った。「元より立ち寄るつもりはない。野営は村の東側にある山の中としよう。僅かばかり結界を張れば、魔物達のみならず人間の目も欺けるはずじゃ」

「......ありがとうな、みんな。あたし、あの村にとっちゃ厄介者だから」

皆よりもかなり先を歩いていたミーアが突然立ち止まり、低く呟く。その声は泣き出しそうに震えていた。

ノルテ村を避け、アグリ村の東側にある山の中に入ると陽は既に西に沈みかけていた。

山奥の滝から流れてきた水が作る緩やかな流れの川の傍にリナルドが結界を施し、一同は野営のための準備を始めた。

河原の石を集めて竈を作り、拾ってきた枯れ枝に火を灯す。ラヴィアが氷魔法を使って仕留めてきた兎を焼き、この日の食事を分け合って食べた。

上空を魔物たちが飛来しているが、木々を掻き分けて近くまで来ない限り、結界の存在を認識することは出来ない。リナルドが施した水魔法による結界は、鏡のように周囲の景色を写しているらしかった。


「......魔物はともかく、アグリ村の残党が心配だし、あたしが見張るよ」

食事の後、この日の見張り番をミーアが買って出た。
「大丈夫か?」


「どのみち交代でやんなきゃだし、体力があるうちにやっときゃ安心だろ?」

茶化すように言うミーアだったが、自分のせいで人間にまで警戒しなければ鳴らない状況を疎んでいるのは明らかだ。


「ならば私も付き添おう」

共に見張りを、とフルヴィオが申し出る前にラヴィアが口を開いた。

「愚かな者のことなど気にすることはない。自分を大切にしてくれる者のことだけ考えればいい」

「あ......う、うん......」

ミーアの母親のことは聞いていないはずなのに、ラヴィアの言葉は奇妙に確信をついていた。ミーアは戸惑ったように頷くと、ラヴィアと共に竈の火を囲んだ。

「明け方には変わろう。無理はしないでくれよ」


「そのつもりだ」

フルヴィオの言葉にラヴィアが頷き、ミーアと目を合わせる。

枯れた小枝が燃えて爆ぜる音が響く中、二人の囁く様な声が聞こえてくる。恐らく他愛もない話なのだろう。だが、次第にミーアの声が普段の明るさを取り戻したような抑揚になっていくのが、フルヴィオの耳には心地よかった。母を亡くした者同士、なにか通じるものがあるのかもしれないし、それはフルヴィオの思い過ごしかもしれない。けれど、この夜の時間が優しく流れて行くのを感じながら、フルヴィオは薄く目を開けた。

同じように寝たふりをしていたリナルドが、こちらを見て二度瞬きする。フルヴィオも瞬きで返事を返した。二人に任せて今は休むべきだ。休める今のうちに。そう言い聞かせてフルヴィオは目を閉じた。夢は、もう見なかった。


荒涼とした原野を抜けた先には、再び草原が広がり、深い森へと繋がって行く。

道なき道を進む一行は、日が昇る前から歩き始め、日が沈むとリナルドの張る結界の中で見張りを立てながら眠るという日々を過ごした。

遙か頭上で風にざわめく梢から降りてくる僅かな光を頼りに進み、目指していたドワーフの見張りの塔へと辿り着いたのは、移動を始めて九日目のことだった。

ごつごつとした岩肌の険しい山を登り切り、巨岩を重ねて気づかれた石塔は、かつて魔王との戦いの際に砦として役割を果たしていたものだ。その塔の元へと歩を進めたフルヴ
ィオは、不意に開けた視界から飛び込む光に思わず呻いた。

昏い森に慣れた目に、夕刻に迫る赤々と燃える夕陽が鋭く射し込んでくる。巨大な石塔を前に歩を止めたフルヴィオをラヴィアとリナルドがゆっくりと追い越し、その先のぷっ
つりと途切れた足場から眼下を見下ろしている。


「歌に名高いリルダスの門だ」

リナルドの呟きにラヴィアが深く頷く。


「歌......?」

フルヴィオと並んだミーアが崖の方に身を乗り出し、不思議そうに耳を澄ませている。下から拭き上げてくる風に乗って微かな歌声が聞こえて来た。


荒れし山は母なる山
我らは目指す、深き地の底
昏き闇を破るため、掘らねばならぬ
悪しき力に打ち勝つ救いの玉鋼、成すために――

リルダス、リルダス
我らが希望、我らが誇り

リルダス、リルダス
ドワーフよ、ここに集え


「ああ......。確かにリルダスって言ってるな」


「ドワーフの言葉で輝く穴という意味じゃ。この門の奥は、その名の通り輝く鉱石が眠っておる」

リナルドが示すのは、山の中に突如として現れた深い谷だ。円形にくり抜かれていること、岩肌に添うように崖面の半分以上を占める巨大な門が築かれていることから、フルヴィオにはこれがドワーフが長い年月をかけて鉱山を掘り進めた故に生まれた人工の谷であることが見て取れた。

リルダスの門と呼ばれる門には、遠目から見ても細かな彫刻が施されており、ドワーフの技術力の高さや数百年かけて自分たちの国の入り口を築いたという誇りが感じられる。これだけの荘厳な建造物を自らの国の入り口としていることは、外界からの干渉を拒絶していることの表れでもあるだろう。

「私の知る二百年前は、かつての仲間、ドワーフ族のヴェルデの功績を讃えたレリーフが彫られると聞かされていたが......どうやら完成しているようだ」

遠見の魔法を使ってか、リナルドが感慨深げに呟いている。「それにしても、凄いな。これ、全部掘って作ったんだろ?」

フルヴィオと同じ感想を抱いたミーアが感嘆の息を吐き、額に手を当てて周囲をぐるりと見渡す。

「そうじゃ。元々は鉱山の採掘所であったが、良質な鉱物が潤沢に取れるとわかり、多くのドワーフが集まった。採掘を進めるうちに、住み着いたドワーフらによって、広大なト
ンネルが張り巡らされた巨大地下都市となって発展しておる」

リナルドはそう話しながら崖の方に一歩踏み出す。


「おい、なにして――」

驚愕に声を荒らげたミーアだったが、リナルドが微笑んで手招く姿に目を瞠り、肩の力を抜いた。

「はぁ......。何度見ても慣れねぇな」

苦笑を浮かべながらミーアもリナルドに続き、フルヴィオを目で促す。ラヴィアは三人を悠々と追い越し、ゆっくりとした動きで巨大な竪穴の中へと降りていくのが見えた。


「どう迂回するのかと思えば、魔法で落下するとは......」


「ここまで来たからには、正面から行かねば逆に怪しまれる」

フルヴィオの呟きに応じるリナルドは、そこまで言って険しい顔でリルダスの門を見遣った。リルダスの門が僅かに開き、中からドワーフの戦士と思しき若者らが斧を携えてこ
ちらを凝視している。

敵意がないことを示すために両の手を高く上げたフルヴィオの腋を、冷たい汗が流れ落ちた。


「......エルフ族に、旅の賢者と見る。用件を聞こう」
リルダスの門は再び閉ざされ、屈強なドワーフ族の戦士三名が来訪者であるフルヴィオらを見据えている。御伽噺などでは、比較的小柄とされているドワーフであったが、かれらのどっしりとした力強い肉体は、それを感じさせない威圧感をまとっている。「私はリナルド。かつての仲間であったヴェルデを訪ねて来た。ヴェルデとの面会を願いたい」

リナルドの名を聞き、ドワーフの戦士らはそれぞれ顔を見合わせた。エルフほどではないが長命のドワーフにとって、かつての救い主アズゴルドと共に旅をした仲間の名は未だ褪せてはいない。
「賢者リナルド、我々の英雄ヴェルデとの面会は申し訳ないが叶わぬ」

「寿命というわけではあるまい?まさか、ここにも魔物の手が……?」

リナルドの問いかけにドワーフの戦士らは揃って首を横に振った。その眼差しは悲しみに濡れ、口髭に隠れた唇がきつく引き結ばれる。

「不幸な事故に巻き込まれた。この絶望の世に、我々は英雄ヴェルデを失った......。だが、ここで賢者リナルドがこの地を訪れたのは、神の導きかもしれぬ。......ひとまずは、長老シュテルの元へ通そう」

ドワーフの戦士のうち、最も屈強な男がゆっくりとした口調で紡ぎ、リルダスの門をその拳で叩く。リルダスの門は、その振動を受けて僅かに震えたかと思うと、内側から幾人もの若者らの手によって再び開かれた。


「......長老のシュテルじゃ。賢者リナルド殿、門の内より失礼する」

ドワーフの戦士らに守られるようにして、彼らよりも一回りほど背の低い腰の曲がったドワーフが杖を突きながら前に進み出る。長老シュテルと名乗った彼の傍らに、先ほどリナルドと受け答えしていた屈強な戦士が控えた。


「……およその話は聞いた。だが、戦わずして済むのならば、我々はこのままでいい」

「我々は、ドワーフの鉱山に眠るという緑鉱石にエルフ族の魔力を込め、魔王を倒すための剣を作りたい。ドワーフの技術なくしてそれは叶えられない」

シュテルの頑なな言い回しに対し、リナルドはあくまで穏やかに自らの要望を伝える。

シュテルは長く伸びた口髭を顎元で擦り、唸るような声を上げた。
「剣を作ったとして、この国が無事であるという保証は?」


「魔王が生きる限り、閉鎖されしこの地にもいずれ影響は及ぶ」

消極的な発言に、リナルドが顔を顰める。どこか他人事のようなシュテルの言い回しは、フルヴィオの胸に昏いものを落とす。警戒のためか明かりが落とされているこの地下空間では、楽しげな子供の声が響いている。久しく聞くことがなかった平和の音、これを守りたいという気持ちがわからないという訳ではない。これが奪われる未来が迫っているのに、なんの手も講じないと言い切るシュテルに僅かな苛立ちを覚えていた。

閉鎖的な社会にいるドワーフにとって、魔王が復活し、世界に魔物が増えたことは知識として知っていても、厄災としてどう降りかかるかを考えられていないのだ。


「賢者ともあろう方が、そのような不安を煽ってどうなさる?」


「不安を煽るわけではない。これは近い未来にいずれ起こりうる。事実、人間の村は次々と滅ぼされ、エルフの城も落ちた。ここにいるラヴィアは復讐を誓い、共に戦うことを約束してくれた」


リルダスの門の外がどうあるかを、リナルドが必死に説得している。ラヴィアは相槌を打つだけにとどめ、シュテルの考えが変わることを根気強く待っている。

「......次はドワーフの番だといいたいのだな」


「そうしたくない。ドワーフ族は、シュテル殿の言うように、静観するままで良いのか?」

挑むようなリナルドの問いかけに、シュテルは深く息を吐いた。

「......我々は、古来から良い武具や貴金属を作ることにしか興味がない。むしろ、今下手に刃向かう姿勢を見せ、標的にされるよりは、このまま静観した方が賢い選択だ」

果たしてそうだろうか、とフルヴィオが口を挟みかけたその時、それまで黙っていたミーアが苛立った調子でまくしたてた。

「......あのさ。あたしが言うのもなんだけど、地下で逃げ場がない街なんだろ?だったら、ここに閉じこもったとして、明日魔王の手下どもがきて、火の矢でも打ち込まれてみろ。大変なことになるじゃないか」
「地下には水もある。地下深くに潜れば問題ない」

素っ気なく返された言葉に、フルヴィオは唇を噛んだ。どれだけ説得を試みたところで、シュテルの態度は揺るがない。傍らに控えた戦士だけが、苦々しく長老を何度も一瞥していたが、遂に口を開くことはなかった。
「さて、もう日も落ちた。ヴェルデとの縁もある、今晩はここに滞在し、ゆるりと休まれよ」

一方的に会話を打ち切ったシュテルが、ドワーフの戦士らに合図する。フルヴィオらの返答よりも早く、リルダスの門が固く閉ざされる音がした。


滞在を許された居室は、岩肌をくり抜いて作られた一画に、厚く編まれた山羊の毛の織物を幾重にも重ねて敷いた部屋であった。岩肌をくり抜いたといっても、その天井は立ち上がって手を伸ばしても届かないほどに余裕があり、柔らかく温かい敷物と就寝用に差し入れられた薄掛けは、野営で疲れた身体を癒やすには充分すぎるほどであった。

フルヴィオらを案内してきたのは、リルダスの門で出会った体格の良いドワーフの戦士だ。

「眠るのはこの一画だ。食事は差し入れるが、あまり期待しないでくれ」

「いや、頂けるだけ有り難いし。......ってか、悪かったな。さっきは不吉なことを言って」

体格からはあまり想像出来ないような優しげな口ぶりに、ミーアがおずおずと謝罪の言葉を口にする。リナルドが理性的に話そうとしていたところで口を挟んだのを、彼女なり

に気に病んでいるようだ。


「......いや、いい。長老はああ言うが、俺たちドワーフの戦士は懐疑的だ。お前たちの意見が、ドワーフの民の考えを変えることを願う」

ドワーフの表情から、それが嘘ではないことが読み取れる。フルヴィオは彼の前に進み出て、改めてドワーフたちの街を見渡した。

一行の存在が来客として知らされたことで警戒が解かれ、薄暗かった洞窟の中に沢山の明かりが灯されている。閉ざされてはいるが、密閉されている訳ではないという証拠に、
時折風が抜け、蝋燭が揺らめくのが美しい。

鉱石で細工をしているのか、見える明かりも色とりどりで、自然な炎の温かみのある色の他に、青や緑の光が揺らめき、見たこともない美しい景色となって浮かび上がっている。

それらを可能にしているのが、階層的に張り巡らされた、ドワーフたちの居室――恐らく人間の世界でいうところの家の存在だ。人工の谷の深さに比例して深く広い洞窟の中には、四層ほどの階層があり、それぞれに賑わっている。
「今俺たちがいるのが一階というところか」

「ああ、そうだ。地下はまだ深くアリの巣のように張り巡らされている。どこがどう繋がっているかは、限られた者しか知らない」

先ほど長老のシュテルが地下深くに潜れば、魔物らから逃れられるという見解を示したのも、恐らくそのためだろう。ドワーフの戦士の言葉にフルヴィオは頷いた。

「俺は鍛冶屋をやっていて、ドワーフの技術に興味がある。滞在出来たのはなにかの縁だ。出来れば、案内してもらえないか?」

「断る理由はない。人間の鍛冶の腕も見せてほしい」


柔和に引き受けたドワーフの戦士だったが、その表情からはドワーフの方が優れているという自負が窺える。


「俺は、長老シュテルの子、マハトだ。お前の名はなんという?」


「俺はフルヴィオ。ロルンドールの北西にあるノルテ村の鍛冶屋だ」

マハトと名乗ったドワーフの戦士に、フルヴィオが右手を差し出す。マハトは少し躊躇ったが、それが友好の証であると感じ取ったのかすぐに握り返した。

そのごつごつとした手は、良い職人の手であると本能的にフルヴィオに感じさせるに充分な手だった。


熱した鋼鉄を叩く、規則正しい音が彼方此方から響いている。

マハトがフルヴィオを伴って向かったのは、工房と呼ばれる製鉄や鍛鉄《たんてつ》を行う区画で、鉱石を熱する巨大な炉が赤々と燃え、近づいただけで強い熱気に思わず目を伏せるほどの熱い風が吹き抜けていた。

風は炉の炎を絶やさぬように、何人ものドワーフたちが風を送り込む装置を足で踏んで動かし続けていることによるもので、フルヴィオは初めて目の当たりにする大規模な鍛冶

現場に身体の内から熱が湧き上がるのを感じていた。


「どうだ?見るだけでいいのか?」

フルヴィオの興奮に気づいてか、マハトが楽しげな表情で聞いてくる。フルヴィオは苦笑を浮かべると、職人の並ぶ一画を目で追い、その場でなにが出来るかに考えを巡らせた。

職人たちは鉱石を熱する炉とは別の小型の炉に鍛鉄中の材料を入れて鉄槌《ハンマー》で叩き、冷やしてはまた熱して叩くという作業を繰り返している。

注意深くその様子を観察していると、職人の一人が、叩き終わった材料を冷やした所で苛立ったように立ち上がり、途中の材料を打ち捨てたのが目に付いた。


「......あれ、俺が引き継いでもいいか?」


「ああ、もちろん」

フルヴィオの申し出に、マハトが尖った歯を見せて笑う。二人が職人らの区画に更に近づくと、作業に打ち込んでいたドワーフらが驚いたように目を瞬き、フルヴィオの行動を興味深げに見始めた。


「折れて使えないぞ。どうする?」

「叩いて磨く」


フルヴィオはそう応え、差し出された鍛冶道具から必要なものを厳選する。そうして打ち捨てられた恐らくナイフにするつもりだったはずの材料を炉に入れ、鍛造《たんぞう》を始めた。


「おいおい。それは不純物が多くて使えないぞ」

先ほど作りかけのナイフを打ち捨てた職人が、横から声をかける。

「いや、いい材料だ。短いが良いナイフになる」


フルヴィオはその言葉に短く笑い、材料と鉄槌がぶつかり合う音と自らの感覚を頼りに、鍛造を進めていく。
炉の熱、頬を照らす赤々とした光、燃料の石炭が燃える匂いや肌にまとわりつく汗のべたつき、耳に響く鉄槌と金属がぶつかり合う音、飛び散る火の粉――それら全てが懐かしく、フルヴィオは次第に自らの作業に没頭していく。

叩き、冷やして熱し、磨くうちに、ナイフの刃は形となり、緑がかった銀の輝きを宿していく。フルヴィオが熱心に打ち込むその様子に、やがてドワーフたちの人だかりが出来、炉に風を送っていた者たちも興味深げに首を伸ばすに至った頃、漸くフルヴィオの手が止まった。

「……まさか、そんな。......緑鉱石の欠片が混ざっていたとは......」

「俺たちの仲間の技術に似ている......。似ているが、丁寧な仕事だ。人間がどうしてそんな技を知っているんだ?」

集まったドワーフの職人たちが、フルヴィオを囲んで驚愕の呟きを漏らしている。


「......もしやテヒニクの子孫か?」

進み出てきた老いた鍛冶職人に問われ、フルヴィオは首を横に振った。

「いや、その名は知らない。だが、俺が父から受け継いだ鍛冶道具は、俺の祖先がドワーフから譲り受けたものと聞く」

フルヴィオが応えると同時に、老職人は顔を覆い、すすり泣くように歌い出した。


遠いあの日、鍛冶屋の男
絶やすことなき炎を背に、丈夫な丈夫な剣をつくり
その刃は銀と緑に輝いた

時を忘れて鍛え続ける強い刃を生み出すその腕は
あるとき人間の娘を助けた
鍛冶屋は恋に落ち、里へとおりた
道具ひとつ手に持って、人間の里へと下りた


「どうしてその歌を......?」


祖母が歌っていた御伽噺の歌にドワーフの声が連なり、驚愕に声が震えた。問いかけに老職人は顔を上げ、フルヴィオを眩しそうに見遣った。

「テヒニクを送るための歌じゃ。これを知っているお主は、テヒニクの子孫ということになろう」


「......俺が......」

リナルドとミーアと話していたことが脳裏を過る。驚きよりも不思議なことに喜びの方が勝ったような気がした。


「しかし、ドワーフの血を引くとはいえ、ごく僅か......。お主はなぜ人間でありながら魔王を倒す一団に加わっているのだ?」

老職人がフルヴィオの鍛えたナイフを眺めながら静かに聞く。

「故郷の村を滅ぼされた復讐と悲劇を繰り返さないためだ。俺の故郷、ノルテ村にはもう誰もいない。なにも残っていない......」

フルヴィオの声と表情から、なにが起きたかを敢えて訊ねる者は誰もいなかった。沈黙が降り、風を送る装置が動く音と、それを動かすドワーフたちの息遣い、燃えさかる炎が弾ける音が響いている。


「真実に気づいた以上、やはり見て見ぬ振りはできない。遠い同胞よ、人の子よ、力を貸そう。ヴェルデには遠く及ばないが、歌に残る功を立てよう。誇り高きドワーフの長老の子、マハトとして、魔王を倒すその剣を、この手で生み出すのだ」

静寂を打ち破るマハトの声は凛として強く、彼の決意を後押しするようにドワーフたちはマハトの名を呼び続けた。


フルヴィオの出自についての話はその夜のうちにドワーフらに広まり、翌朝の出発時には多くのドワーフらがテヒニクの血を引く人間を一目見ようと、リルダスの門の前に多く詰めかけた。
「息子の決意は固い。我々は緑鉱石の採掘を再開し、そなたらの再訪を待とう」

マハトの出立を認めたシュテルが旅の装備に身を固めた息子の背を押すと、マハトはドワーフの仲間を振り返って一礼し、清々しく顔を上げた。


「次に目指すは、人間の国ロルンドールだな。水の珠を手に入れて、必ず戻る」


「......必要なのは間違いないじゃろうが、我が息子ながら簡単に言ってくれる」

苦く笑うシュテルは、そう言いながらリナルドへと視線を向けた。


「これまで魔王を完全に倒すことが出来なかったのは、剣が不完全だったという可能性は大いに頷ける。ロルンドールは、国宝である水の珠を使うことを拒み、その欠片を寄越したと伝えられているが、もしや......」

ロルンドールの城内には絶えず水が湧き出る水源があり、世界の水の源であるとされている。水の珠は、太古の神が世界創造の際にこの地に残したものであり、この宝玉があるこ
とで水が絶え間なく生まれ続けているのだ。


「けど、ロルンドールの水は今も絶えてない。それって宝玉がまだ使えるってことでいいんだよな?」


「そう願いたいものだ」

ミーアの問いかけにリナルドが重く呟く。
「皆で移動するということでよろしいか?我が地に残る者があっても構わんが――」


「あいにくと、戦える者が少なくてな」

長老シュテルの問いかけにラヴィアが凛とした声音で応えた。フルヴィオとミーアは顔を見合わせ、互いに頷く。


「まあ、ここまで来て、まさか置いていくなんて言わないよな?あたしも残るつもりはないし、フルヴィオだってそうだろ?」

人間の国、ロルンドールの王。一介の村人であったフルヴィオには生涯において縁のない高貴な人物だ。だが、今は違う。


「ああ。皆がいた方が、俺が救われる」

心に浮かんだ言葉を口にしたフルヴィオに、一同が笑顔を見せて頷いた。

霧がかった谷底に、柔らかな朝の陽が光の雨のように降りてくる。旅立ちの朝を祝福するように、静かな風が吹いた。