第一章
PRELUDE
かくて来ませし、尊き救い主ルクシアは
この世界の種族の力を合わせた魔法の剣をもちい
忌まわしき暴君、魔王を滅ぼし、世界を人々の手に取り戻した
魔王亡き今、種族のあいだに争いはなく
もろびとは、救い主ルクシアを讃えて世界の暦とす
ルクシア暦元年は祝いの年だった。
長きに渡る魔王の支配から逃れた者たちは、大地を耕し、喜びの歌を歌い、平和を享受した。
人間、エルフ族、ドワーフ族、ドラゴンは住まう地を分かちつつも、時に手を取り合い、知恵を出し合って世界の復興に努めた。
勇者ルクシアが魔王を倒した魔法の剣――すなわち、エルフが魔力を込めた鉱石を用い、ドラゴンの炎とドワーフの技術をもって鍛造《たんぞう》された剣は、ルクシアによって人間の国に安置され、平和の象徴とされた。
ルクシアとともに魔王を倒した賢者オレリアは、薬草と魔法を組み合わせた癒術で人々 の病気や怪我を治す旅に出、その命が尽きるまで、多くの者の命を助けた。彼女の死後、 オレリアを女神と崇める動きが広がり、いつしか女神オレリアとして語られるようになる。
ルクシア暦六五年、勇者ルクシアは静かに息を引き取った。ルクシアのかつての仲間、 人間らと、エルフ族、ドワーフ族は散り散りになり、彼らの戦いは救い主を描いた御伽噺として次の世代に語り継がれた。
その平和は百年の間続いたが、生命の輪廻を外れた魔王は復活を遂げた。恐ろしい呪いとともに――。
魔王降臨の間、種族を問わず、全ての生まれる子供は魔物の瘴気に当てられた化け物ば かりとなった。母親の腹を食い破るだけでは飽き足らず、産婆の腕を食い荒らし、乳の代 わりに血肉を啜る。おぞましい化け物を生み出さぬよう、子を成すことを諦めざるを得な くなり、他の種族に比べて特に寿命の短い人間の数は著しく減少した。
人間であるルクシアの寿命はとうに尽き、ドワーフは老いていたが、不老の種族エルフ は神に魅入られ、魔王復活とともに降臨した女神オレリアの神託を受け、新たな仲間とともに、魔王討伐に立ち上がった。
新たな救い主となったエルフは、この世界の種族の架け橋となり、再び人々の希望となった。
そして、ルクシア暦一二〇年、遂に魔王の首が討ち取られ、世界に再び平和が訪れた。
最初に生まれる人間《ひと》の子が、次なる『預言者』となるだろう。
世界を取り戻したエルフに、女神オレリアは、ただ一言こう告げた。その神託のとおり、魔王討伐後初めて生まれた人間の子供は、紅い宝玉を握りしめて生まれてきた。
エルフはそれを『賢者の石』と名付け、護りのまじないをかけてその子につけさせた。
『預言者』を運命づけられた子が三歳を迎えたその日、神託どおり、『魔王の復活と救い主の出現』が預言された。殷々《いんいん》と響くその声は子供の声ではなく、しわがれた老人のような声だった。
魔王復活と救い主の出現が預言された年――ルクシア暦二二〇年、ドワーフ族の妊婦の腹を割いて獰猛《どうもう》な化け物が生まれた。世界に生まれ落ちる子らは、瘴気に当てられたように、次々と化け物に変じていく。それは、魔王の復活を表していた。
輪廻から外れた生命である魔王は、百年の年月をかけて復活を遂げる。預言者は救い主を導き、あるいは手掛かりを残して世界を平和へと向けて歩ませ続ける。魔王復活による暗黒の時代は二十年から四十年に及び、討伐後の次の百年の平和を人々は怯えながら過ごすようになった。
ルクシア暦九八〇年、八回目の魔王復活が世界を再び暗黒で覆った。女神オレリアに選 ばれた預言者は、ハーフエルフのリナルドといった。だがその預言はなかなか起こらず、 救い主はその後二十年近く現れなかった。ようやく預言が行われ、救い主として選ばれた 男の名は、勇者アズゴルドといった。彼は、人間の国を統べる王より魔王討伐の任を命じられた冒険者であり、自ら世界を救おうと立ち上がった男だった。
ルクシア暦一〇〇〇年――
救い主アズゴルドは、初代勇者ルクシアから受け継がれてきた魔法の剣を持ち、ハーフエ ルフの賢者リナルド、ドワーフ族のヴェルデ、エルフ族のリエルとともに、魔王の『封印』を試みた。
ドラゴンを巧みに操る戦闘で魔王を火山の火口に追い詰め、魔法の剣で魔王の心臓を貫 いたまま真っ赤に煮えたぎる岩漿《がんしょう》の中へと飛び込んだのだ。
かくして魔王は封印され、世界に長い長い平和が訪れた。賢者リナルドの作とされる、 救い主アズゴルドの功績を謳う『エルオプの戦い』という名の御伽噺は、長く後世に語り継がれている。
復活せし魔王に挑むは、人間、ドラゴン、エルフ、ドワーフ
勇気ある者、魔法の剣で魔王を貫き、燃え立つ沼へと身を投げにけり
かくして魔王復活の道は絶たれ、かの者たちは真の救い主となり、世界を光へ導かん
うららかな春の日だった。
洗濯女が、村の近くの川で衣服を洗っている
近くに広がる畑には、金色の穂を実らせた麦が、たわわに頭を垂れている。収穫に勤しむ農夫を、歩き始めたばかりの弟妹を連れ、あるいは生まれて間もない赤子をおぶった兄姉が見守っている。
そよそよと吹く風に、子供たちが謡う御伽噺の一節が流れて行く。洗濯女が、子供たちに合わせて歌い出した。
魔王の最期を謡う『エルオプの戦い』と呼ばれるこの御伽噺調の歌は、子供達のお気に入りの歌であり、人々の希望でもあった。
かつて世界を恐怖で支配した魔王。その最後の魔王が封印されてから二百年――
当時生きていた人間は、もう残ってはいない。
あの残虐な時代を知るのは、今や、エルフやドワーフなどの長命の種族のみとなった。
輪廻の輪から外れ、幾度滅ぼそうとも、そのたびに復活を遂げ、世界のありとあらゆる 種族を蹂躙《じゅうりん》してきた魔王。遙か昔、突然この世界に誕生した魔王――その
脅威は、エルオプの戦いを最後に、去ったのだ。
子供達と洗濯女の謡う歌は、長閑に続いている。だがそれを切り裂くような悲鳴が、上流から上がった。
「あ......、あ......」
歌はぷっつりと途切れ、絹を裂いたような悲鳴があちこちで上がり始める。洗濯女が川を指差す間にも水の色が変わり、真っ赤に染まっていった。
濡れたままの洗濯物は引き上げられ、あるいは赤く染まって川面を不気味に彩り、のろのろと流れて行く。
洗濯女らは我が子に駆け寄って抱き寄せ、近づいてくるものを見せまいと震える両手で抱きしめた。
辺りの空気は一変した。
上流からは幾つもの死体が流れて来た。鋭い鉤爪のようなもので引き裂かれた身体、物言わぬ骸――。
「ああ、なんてこと......」
恐ろしい野盗が現れたか、或いは――。
「女神様......、オレリア様、どうかお救いください」
女神オレリアへの救いを求め、祈りながら見上げた先で、どこからか流れて来た黒煙が太陽を覆い始める。煙を辿るように視線を動かした洗濯女は、近隣の村から火の手が上がっていることに気づき、愕然と目を見開いた。
その恐ろしい黒煙の合間に、なにやら蠢《うごめ》くものがある。空を埋め尽くすように飛び去るのは、漆黒の翼を持った魔物だ。
魔物が人間を襲う。このようなことは、この二百年の間、起こらなかった。
魔物は自らの領域に踏み込む者を排除するが、人里を襲うことはなかったのだ。
「魔王だ、魔王が来た......」
魔物を使役し、人里を襲わせる。それが出来るのは、魔王以外にないと、人々は本能的に悟った。
その中の一匹が、洗濯女らに気づいて引き返してきた。皆はその場に伏せ、女神オレリ
アへの祈りの言葉を繰り返した。魔物の翼の羽ばたく音はすぐ傍まで近づく。
次はお前たちだ、と言わんばかりに、男の生首を冠した鍬《くわ》が川面の洗濯物を突き刺した。
時を同じくして、ノルテ村では、鍛冶屋の嫁が産気づき、初産の最中であった。予定よ りも遙かに早く産気づいた女の元には二人の産婆が駆けつけ、必死に赤子を取り上げよう としていたが、その命の灯火は、誰のものとも知れぬ恐ろしい絶叫とともに引き裂かれた。
「入ってはならぬ」
産婆は頑なに全ての者の立ち入りを禁じ、事切れた女と赤子を不浄の者として埋葬した。 鍛冶屋の男は愛しい妻と子に相まみえることなく、今生の別れを告げられたが、その悲劇は魔王復活の報せを前に人々の関心事からは遠く離れることとなった。
エルオプの戦いから二百年の時を経て、新たな魔王が復活した。
魔物は再び魔王の元へ集い、魔王軍が結成された。
生まれる子供たちは、すべからく化け物と化し、魔王軍によって『回収』された。魔王の強い瘴気を浴びて育った子らは、魔王の子として配下に置かれた。 彼らが成人の姿になるまでに一年もかからず、彼らは生まれ落ちた故郷から食料を調達
する食料調達部隊の任が与えられ、同胞となるはずだった人々を貧困へと落とした。 どれだけ田畑を耕そうとも、そのほとんど全てが魔王軍によって奪われる。命こそ奪わ
れないものの、この生活を続ければ飢え死にすることは誰の目にも明らかだった。
人々は、祖先が蹂躙されてきた恐ろしい歴史が繰り返される予感に絶望していた。
ルクシア暦一二〇五年――
魔王復活から、五年の歳月が過ぎていた。魔王復活の年、人間の国、エルフの国、ドワーフの国にはそれぞれ魔王の配下が置かれ、山や谷に住まう流浪の種族であるドラゴンもその動向に対して厳しい監視が行われ、魔王による支配が行われた。
復活後一年で魔王軍が結成され、新たな魔王は同年より既存種族の奴隷化と食料調達を開始した。
世界の食料の多くは魔王に献上され、魔物に飽くことなく食い荒らされた。魔王に弓引く者は首を刎《は》ねられ、見せしめに串刺しにされ、血肉がなくなり骨となるまで晒され続けた。
身を隠す術を持つ種族は、村や里を捨てるという選択を採った。
ただ、人間だけは為す術もなく魔王軍の支配に置かれ続けた。5 年間で多くの者が命を落とし、生存者らも日々の恐怖と飢えに怯えて過ごす日々が続いている。
人々は、魔王の最期を謡う『エルオプの戦い』と呼ばれる御伽噺と女神オレリアへの祈りを希望とし、新たなる救い主が訪れる日を待ち続けていた。
――救い主様が現れれば。
だが、『魔法の剣』は、救い主アズゴルドが魔王の封印に用いて岩漿《がんしょう》に 沈んで消失し、救い主の出現を預言する預言者は二百年以上前に生まれたきりだ。ハーフ エルフであるという預言者リナルドは、その生死すらわからず、彼もまた沈黙を保ってい る。魔王が復活した今は、新たな生命は全て魔物となり、世界の脅威となる。
この世界には、預言者がいない。
この世界には、救い主が現れない。
人々の間に広がった絶望は、じわじわと希望の灯火を潰《つい》えさせ、自ら命を絶つ者も少なくなかった。
ノルテ村の外れにも、新しい墓標が幾つも並ぶ。 魔王復活の年、幸か不幸か産褥で亡くなった鍛冶屋フルヴィオの妻子をはじめ、既に 20名ほどの村人の命が失われている。新たな子も生まれず、百人ほどあった村の人口は、この五年で半分に減じていた。
鈍色の雲が重々しく空を染めた、酷く蒸し暑い日のことだった。
鍛冶屋の男、フルヴィオが妻子の墓に花を捧げ、祈りの言葉を呟いたそのとき、太陽の光が世界を白く染めるように強く地上に降り注いだ。
閃光のような光は瞬く間に暗雲を掻き分け、地上を眩いまでの光で満たした。
「ああっ!」
墓地の近くの玉蜀黍《とうもろこし》畑から、誰かの驚嘆の声が上がった。フルヴィオも、光の先に見えたものに息を呑んだ。
「オレリア様!」
空を美しい光が、白く白く満たしている。その中心に、一人の赤子を抱いた、女神オレリアが降臨していた。
『まもなく、この世界に救い主が現れることでしょう』
女神オレリアはそう神託を告げると、その姿は虚空に掻き消えた。
「これで救われるのね!」
「ああ、救い主様、救い主様!」
畑の方から、平伏し、噎《むせ》び泣く声が聞こえてくる。フルヴィオも知らず地面に膝を突き、手を組み合わせて空を見上げて祈りを捧げた。
ノルテ村に戻ると、皆が一様に女神オレリアの降臨に希望を見出し、歓喜の声を上げて いた。その声はノルテ村の南東にあるアグリ村でも同様であったと、風の噂が知らせた。
人々は魔王軍の食料調達部隊に怯えながらも、希望を持ち続けた。
この夏が過ぎ、秋になれば餓えを満たす実りの季節が訪れる。それもまた、人々の前途を明るく見せていた。
そんな折、アグリ村の人間が、ノルテ村の南西に位置する『入ってはいけない』とされている森に入っていく姿が目撃された。
『幽世《かくりよ》の森』と呼ばれるその森には、預言者が住まう――。 かつての言い伝えを、ノルテ村の長が思い出した。だが、その言い伝えも、二百年前のこ とだ。仮に預言者が住んでいたとしても、生きているとは思えない。ハーフエルフとはい え、人間とエルフの混血が二百年以上も生きてはいないだろう、とノルテ村の民は森に入るようなことはしなかった。
だが、ひと月、ふた月と時間が過ぎていくうちに、人々の希望は再び絶望へと傾きはじめていった。
それでも、人々は待った。
救い主が現れるその時を、待つしかなかったのだ。
秋の収穫の前、いよいよ村の食べ物が枯渇しはじめた。
魔王復活からしばらくの間、臨時の食料とされていた豚や鶏、馬はとうに肉として差し出され、空の豚舎や鶏舎、馬小屋はすっかり寂れていた。
大人たちは草や木の根を食べ、幼子らに玉蜀黍《とうもろこし》を挽いて粉にしたものを水や牛の乳で薄めた粥状のものを食べさせて餓えをしのいでいた。
食料調達部隊の徴収を免れている枯れ草だけは豊富にあり、乳を出す牛は今や村人たちにとって命綱と呼ぶべきものだった。
最後の食料調達から二週間。麦の収穫が行われるほんの少し前、恐れていた食料調達部隊がやってきた。
人間よりも二回りほど大きく、角や牙のある灰色の身体の男女だった。
「この村には、もう食料がありません。まもなく麦が収穫を迎えますが、我々が飢え死にすれば、それさえ――」
「ならば、牛を差し出せ。魔王様は肉をご所望だ」
人語を話すこの食料調達部隊の二人組には、人間の面影が随所に見られる。人間の国か ら生まれた魔物――魔王が復活しなければ、人間として育つはずだった者たちのようでもあった。
「次に生まれる牛は、魔物になってしまいます。そうなれば、乳を得ることもできません」 牛飼いの女が懇願した。傍らには痩せぎすの少年と少女が怯えた様子で控えている。魔 王復活の前に生まれた、少なくとも五、六歳になるはずの少年と少女は、とてもそうは見えないほど小さく、明らかに成長が遅れていた。
「魔物だろうが、牛は牛だ。乳も出よう」
「お前らを差し出しても構わないんだぞ」
食料調達部隊の女が、牛飼いの女の後ろに身を隠している子供らを見る。
「......どうしてもと言うのなら、私にしなさい。子供二人分はあるでしょう」
牛飼いの女は老婆に二人を託して前に進み出ると、震える声で子供らを庇った。 「冗談だよ。食べるにも、骨と皮、ばっかじゃねぇか」
魔物の女が笑い飛ばす隣で、魔物の男が腕を伸ばす。
「他の愉しみ方もあるにはあるがよぉ」
「ひっ」
魔物の男に細い腕を捉えられた牛飼いの女は、そのまま引き摺られ、宙づりにされた。
「慰《なぐさ》みものにして、嬲《なぶ》り殺しにして喰うのも一興だなぁ」
下卑た笑いを浮かべながら、魔物の男が女の足を赤い舌で舐める。牛飼いの女は恐怖の余り口を噤《つぐ》み、ただただ恐怖に震えている。
「......ほう、それが今日の『食材』か?」
ふと影がさしたかと思うと、頭上から声が降った。漆黒の翼を羽ばたかせ、別の魔物の男が現れたかと思うと、牛飼いの女の頭を掴んで横取りした。
「おい、返せよ」
「こんな痩せぎす、喰っても旨いか?」
新たに現れた男の魔物が、牛飼いの女の身体を投げ寄越す。もう一人の男の魔物は、髪を掴んで引き寄せると、頭を掴み直して目の高さに持ち上げ、ゲラゲラと声を立てて笑った。
「妻を離せ!」
我慢の限界に達したのは、牛飼いの男だった。
「止めろ!」
短剣を突き出して飛びかかる牛飼いの男を、誰かが鋭い声が止める。だが、魔物は自分の腕をわざわざ差し出して、剣を受けた。
「俺様を斬ったな?」
緑色の血が流れる。
「あ......」
人間とは明らかに違うその血の色を目の当たりにした牛飼いの男は、恐怖に目を見開いた。
「痛ぇなぁ......」
魔物の長く真っ赤な舌が血を舐めると、すぐに傷は薄くなった。誰もが悲鳴すら呑み込んで、恐怖に息を止めている。その沈黙を破ったのは、牛飼いの男の悲痛な声だった。
「あ......あ......」
魔物の手が、牛飼いの女の頭を握りつぶしている
「おっと、びっくりして潰しちまった」
「あぁあああああっ!」
牛飼いの男の絶叫が響いた。怒りに任せて斬りかかっていく牛飼いの男に、魔物の男の手が伸びた。
「まあ、喰えば一緒か」
魔物は、いとも容易く牛飼いの男の喉元を掴み、宙に浮かせた。
ごきり、と骨の折れる嫌な音がして、牛飼いの男の身体から力が抜けていくのがわかった。
あっけなく殺されたことが、誰の目にも明らかだった。
子供たちを託された老婆は、その顔を覆うように抱きしめ、祈りの言葉を呟いている。
村人たちは怒りに震えていたが、それを口に出すような真似はしなかった。ただ、堪えるしか生きる術はないとわかっているのだ。
「はぁ。乳臭ぇな。牛飼いの男と女じゃ、しょうがねぇ」
魔物が漆黒の翼を広げ、羽ばたきはじめる。
「男の方は、まあ食べ応えがあるだろうよ」
「女の方が柔らかくて旨いんだよ」
村人たちがまるで目に入っていないように振る舞いながら、三人の魔物が絶命した牛飼いの夫婦を連れ去っていく。
「ああっ! せめて、弔いのための亡骸だけでも返しておくれ!」
ずっと堪えていた老婆が、堰を切ったように悲鳴を上げた。
その声が聞こえたのか否か、空から肉片が投げつけられる。それは骨ばった牛飼いの男の手だった。
「おお......。救い主様、どうか、どうか......」
老婆は血塗れの手を拾い上げ、頬に擦り付けるようにして泣き続けた。
数日後に、牛舎の牛たちが連れて行かれた。
食べ物は残り少なかったが、次の晴天に秋の収穫が行われることが決まっている。その 後の僅かな期間は、幾分か自分たちの元にも食料が回ってくる。それが唯一の救いだった。
だが、麦の収穫が終わるころ、人々の希望は不安と焦りに変わっていた。この食料がなければ、冬を越せないことはわかりきっていた。
人々は蜂起を決めた。
待てども現れない救い主への希望を捨て、抗うことを決めたのだった。 鍛冶屋の男は、急いで武器を修理し、研ぎ、あるいは新しく作り上げた。田畑を耕すために用いられる鍬《くわ》や鋤《すき》、鎌、料理のための包丁など、ありとあらゆる刃 物がかき集められ、魔王軍の食料調達部隊に刃向かうために研ぎ澄まされた。
次の魔王軍の調達部隊の到来まで、ひと月ほどの猶予があった。
ノルテ村の人々は、力をつけるために、冬の備蓄に手を出した。 万が一生き残れた場合の願いを込めて、根菜類を土に隠した。村の全員が生き残れるわけではないことはわかっていた。
だが、もし生き残りがいた場合は、その根だけでも食べられれば、冬は越せるだろう。
冬の備蓄が開放されてからは、家々の食卓には近年では見たことのないような食事が並んだ。
保存の利く固いパンが焼かれ、隠し持っていた食料も全て生き繋ぐための力とすべく人々に振る舞われた。
ただならぬ状況に、子供たちは怯えていたが、腹一杯食べられることを喜ぶうちに、その恐怖を忘れていった。
連日一人で働きづめの鍛冶屋の男の元には、たびたび子供たちが差し入れを持って訪れる。
焼き菓子の欠片、食べかけのパンなど、彼らは思い思いの食料を鍛冶屋の男に分け与えた。
「あのときのお返しだよ」
鍛冶屋の男が礼を言うと、子供らは決まってそう言うのだった。
心優しい男は、村の子供たちに自身の僅かな食料を分け与えていた。そのお礼をしにきたのだった。
元来子供が好きだった鍛冶屋の男は、産褥で亡くした妻と子の代わりを求めるように、一層村の子供たちを大切にしてきたのだ。
「お花も、あげるね」
子供たちの一人が、鍛冶屋の男の家に花を届けた。男は全ての刃物を研ぎ終えると、村の北にある墓地へと向かった。
墓地の新たに設けられた区画には、幾つもの墓碑が整然と並んでいた。
男はその中で最も小さな墓碑の元へ歩を進め、傍らに屈み込んだ。
小さな墓碑に寄り添うようにさらに小さな石がひっそりと置かれている。
そこに刻まれた最愛の妻の名と生まれてくる子につけるはずだった名を愛しむように撫で、男は目を閉じた。
静かな風が吹き、在りし日の妻がそうしてくれたように男の頬を撫でた。
「ずっと、ずっと愛しているよ」
男は妻と、一度も目にすることのなかった我が子への祈りを捧げ、少女から受け取った季節外れの花を手向けた。
妻と子の墓碑に別れを告げると、男は村へとゆっくりと戻っていった。
少し強くなった北風が、枯れた草を巻き上げながら男の背を押した。
もう、前に進む以外に道はなかった。
――子供たちの命を繋ぎ、生きる希望を見出したい。
この冬を越せぬのならば、生死をかけて戦うしかない――。
蜂起を決めたノルテ村の大人たちは、同じ思いで運命の日を迎えた。
「俺たちが先陣を切る」
比較的恵まれた体躯《たいく》である村の自警団の男ら十名が、村の広場に陣取る。弓 矢の扱いに長けた狩人らは、屋根の上に立ち、空からやってくる魔物たちに備えた。
その他の村人らは、思い思いの武器を持ち、魔物らの隙を突くために物陰に隠れ、女たちは身を守るためのナイフを懐に忍ばせ、子供らと村の外れにある牛舎に身を隠していた。
「来るぞ」
屋根の上の狩人らが警告の声を発する。
魔王軍の食料調達部隊が、漆黒の翼を羽ばたかせながらノルテ村上空に向かってくるのが見えた。ひと月ほど前に村にやってきたあの男二人、女一人の魔物たちだった。
自警団の男らは、鍛冶屋の男によって研ぎ澄まされた剣を、農夫らは扱い慣れた鍬や鋤、鎌を、木こりは斧を携え、睨むように虚空を見つめている。
屋根の上では狩人らが弓矢を構え、魔物の大きな翼に狙いを定めている。
「射よ!」
村長の命令で狩人らが一斉に矢を放つ。蝙蝠《コウモリ》のような薄い膜のような皮で
覆われた翼が射貫かれると、先頭の魔が浮力を失ったかのように村に墜落した。
「やったか!?」
墜落の衝撃で屋根が突き破られ、激しい土煙が上がる。残る二人の男女の魔物も翼を損傷して失速したように見えたが、何事もなかったかのように崩れかけた家の屋根の上に降り立った。
「へぇ......。そういうこと......」
女の魔物が冷酷な視線を向け、赤く長い舌で唇の端を舐める。その足許で、がらがらと音を立て、瓦礫がゆっくりと持ち上がった。
「あ......あ......」
土埃に塗れた男の魔物が、禍々《まがまが》しい形相で村人たちを見つめている。
「......申し開きの機会は必要か?」
怒りを押し殺したような低い声をかけられ、人々は本能的に息を呑んだ。
「......しょ、食料は渡さない。もう、あんたらの支配は受けない!」
僅かな沈黙を破ったのは、村長の息子だった。勇気ある一言を震える声で絞り出した彼は、そのまま力任せに斧を投げつけた。
斧は弧を描いて男の魔物へ向かって真っ直ぐに飛び、頭部に命中した。
「あっ」
斧を受け止めようとした手を切り落とし、斧は魔物の頭部に突き刺さっている。魔物は 自分に起きたことがまだわからぬかのように口を開け、それから、どう、と音を立てて仰向けに倒れた。
「......やったな?」
女の魔物が手を握って開き、鋭く爪を尖らせる。
「我々、魔王軍食料調達部隊への反逆は、魔王様への反逆。命はないと思え」
もう一人の男の魔物がそう宣言すると同時に、人々は恐怖に抗うように二人の魔物に襲いかかった。
相手が魔物とはいえ、二人に対し、男らの数はその十倍ほど。
「戦え! 一歩も退くな!」
男らはそれぞれの武器を魔物に投げつけ、斬りかかり、己を鼓舞して叫んだ。
「ぎゃぁあああっ!」
先頭の自警団がやられ、その背後から別の男が踊り出る。彼の一撃が魔物の胸部を突き刺すと、農夫らが鍬や鋤を一斉に打ち下ろした。
「アァッ! ガァアアアッ!」
緑の血を噴き出しながら魔物が絶叫している。女の魔物も同じように男らに囲まれ、鍛冶屋の男によって研ぎ澄まされた剣や刃物、農具によって大きな損傷を負っている。
「......っは、こんな真似をして、ただで済むと思うんじゃないよ」
最後の力を振り絞るようにして宙に浮かび上がった女の魔物が、呪うような声を浴びせている。
羽ばたくたびに魔物の身体からは緑色の血がぼたぼたと落ち、酷い異臭を放って村の男らの上に降り注いだ。
「――――!!」
矢から逃れようとしてか、女の魔物が甲高い悲鳴を長く上げている。いよいよ最期の刻が近いと感じた村人たちは、石を投げつけ、魔物を逃すまいと叫んだ。
「射よ! 殺せ!」
「どのみち戦わなければ、飢え死にするんだ!」
屋根の上の狩人が命令に従って弓を引き絞る。一斉に放たれた矢は女魔族の身体を見事に射貫いた。
「か......はっ......」
大量の血を吐き出しながら、女魔族が地面に墜落する。ぐちゃりと嫌な音を立て、その身体は不自然なかたちにひしゃげた。
「......愚か......な、人間ども......、......が、遅い......皆殺しにして――」
「死ね!!」
息も絶え絶えに呪いの声を上げる女の魔物の首を、自警団の男が剣で突き刺した。
「ギャァ!!」
短い悲鳴はすぐにごぼごぼと濁り、女の魔物は四肢を痙攣させるようにして絶命した。
「やった......」
三体の魔物を倒し、人々は荒く息を吐く。前線で戦っていた自警団の男らは、魔物の鋭 い爪によって喉元や顔を切り裂かれ、呻《うめ》きながら地面に横たわっている。夥《お びただ》しい量の血が地面を染め上げ、彼らがもう助からないことを暗に示していた。
「......お、終わった......?」
誰かの呟きが、安堵の声に変わり、同胞を悼《いた》む声に変わっていく。それでも、蜂起した成果は大きかった。だが、勝利を信じて空を見上げたその時、辺りの景色が薄い闇に覆われた。
「ああっ!」
恐怖の叫びが上がり、人々が一斉に武器を握りしめる。空を覆い尽くすような大きな漆黒の翼――生まれながらの魔物が、仲間を引き連れてやってくる。
「仲間を呼びやがった!」
女の魔物が上げたあの絶叫は、単なる悲鳴ではなかったのだ。魔物にだけ通ずる救援の絶叫を聞きつけた魔物たちは見る間に数を増し、次々とノルテ村に降り立った。
家の屋根に迫るほどの巨体が、地面を揺らしながら村人たちに近づいてくる。それが単なる食料調達部隊ではない証に、各々が巨大な剣や槍を携えているのが見て取れた。
「魔王軍だ!」
「そんな、そんなまさか......」
「あの数に勝てるわけがない!」
「ああ、女神オレリア様、神様!」
村人たちの間から絶望の悲鳴が上がる。足が竦《すく》み、逃げることさえままならなかった。
「女子供だけでも、幽世の森へ!」
「どうか、どうか......!」
絶望の悲鳴が上がるさなか、僅かな希望に縋《すが》る村長の命令がなされる。その言 葉を悲鳴の合間に聞き取った鍛冶屋の男は、剣を携え、数名の仲間とともに村の外れの牛
舎を目指した。
「この村には、もう用はない。皆殺しにしろ」
頭上から恐ろしい命令が下されたのが聞こえて来る。必死に牛舎へ向かう鍛冶屋の男の耳に、村の仲間たちの悲鳴が届き始めた。
「やめてくれ! 助けてくれ!」
「ヒィィ! 死にたくない!」
「お許しください! どうか、命だけは」
共にひた走る仲間は皆、唇を引き結び、歯を食いしばって前を見据えている。背後で始まった虐殺は、地獄のような絶叫と残虐な魔物らの冷笑で村中を満たしていく。
「どうして、こんな......」
「走れ、兎に角、女子供だけでも――」
悲鳴に堪えきれず、喘ぐように声を上げた男を励ましながら、鍛冶屋の男は間近に迫っ た牛舎を仰ぐ。だが、その上空に弓矢を手にした魔物がいることに気づき、息を呑んだ。
「やめろ! やめろぉおおおおっ!」
腰に提げていた鎌を抜き、力任せに宙に浮かぶ魔物に投げつける。鎌は不意を突かれた魔物の顔面に突き刺さり、声も上げずに墜落した。
「幽世の森へ、急げ!」
鍛冶屋の男は叫びながら走り、牛舎の者たちに呼びかける。
「逃げろ、逃げるんだ!」
別の男も叫んだが、村中に響き渡るただならぬ絶叫と魔物の残酷な嘲笑に恐慌状態に陥っていた女子供にはすぐには届かない。
「......助けて、助けて」
「神よ、神よ!」
「救い主様! 早く、早く来て!」
命が脅かされた女子供は、口々に救いを求めて叫んでいる。幼子は泣き叫び、その声は男らの避難の呼びかけを掻き消してしまう。
「さあ立て! 幽世の森へ逃げろ!」
ようやくの思いで牛舎に辿り着いた鍛冶屋の男は、中にいる女子供の無事を確かめ、大きく息を吸い込んでから喉が破れるほど強く叫んだ。
「みんな急いで――」
女の一人がそう言って、皆を勇気づけながら立ち上がったその時。
「キャアアアァァァァ!」
牛舎の壁が魔物の足によって蹴破られ、その場は再び恐慌状態に陥った。
「逃げろ! 走れ!」
壁を引き裂くように掻き分けながら、魔物が牛舎の中の女を引き摺り出して行く。その 手に捕まれた女の首が折れるのを、鍛冶屋の男ははっきりと見てしまった。
「助けてっ! 助け――」
牛舎の女子供を見つけた魔物らが、嘲るような笑いを浴びせながら、次々と嬲り殺して いく。男らは必死で魔物と戦おうとするが、逃げ惑う女子供に惑わされ、剣を振るうことは叶わない。
「あぁあああっ!」
「止めてくれ! やるなら俺にしろ!」
男たちの叫びに、魔物の視線が向けられる。女の腹を裂いて腸《はらわた》を食い破っていた魔物は、にたりと笑い、男らに向けて剣を振るった。
「――――!!」
巻き添えになった女子供の悲鳴が上がり、鍛冶屋の男の視界も真っ赤に染まる。震える 手で剣を握ったが、それを振るう前に男の頭部に激しい衝撃が走り、なにも見えなくなった。
どのくらいの時間が経っただろう。酷い血の臭いに嘔気を覚え、鍛冶屋の男は目を覚ました。
「うぅ......」
べとべととした何かが全身を重く濡らしている。息苦しさに負けて息を吸うと、噎せ返るような血の匂いに、酸い唾液が込み上げ、堪えきれずに嘔吐した。
「う、ぁ......」
誰かの血で重く濡れた身体を引き摺るようにして、今いる場所から抜け出そうとする。
身体中のあちこちが鋭く痛み、長い間重いなにかに押し潰されていた手足は痺れ、まるで自分の身体ではないように思われた。
「............」
何かの下から抜け出し、袖の内側で顔に張り付いていた泥のようなものを擦って落とす。
そうして自分を押し潰していたものの姿を確かめた男は、そこに広がっている凄惨な光景を目の当たりにして絶句した。
「......あ......あ......」
牛舎は原型を留めぬほどに破壊し尽くされ、その瓦礫の下で女子供、仲間の男らが息絶えている。誰も動かず、呻き声すら聞こえず、そこに命が宿っていないことは明らかだった。
「......あぁ、あぁ......」
あまりのことに、言葉が出ない。涼しい風が吹き、拉《ひしゃ》げた牛舎の屋根が、かたかたと嗤《わら》うような音を立てた。
男は呆然と目の前の死体の山を目に映していたが、ふと我に返ると、身体を折り曲げて込み上げてきたものを吐いた。
「すまない、......すまない......許して......」
吐きながら懺悔の言葉を紡ぎ、男は逃げるようにして牛舎に背を向けた。
村の中には、もう魔物らの姿はなかった。ただ見せしめのように木の杭や、鋤、鍬など の武器に串刺しにされた男たちが、屋根の上に突き立てられている。それを烏《カラス》 が群がってつつき、薄く太陽の差す空に残酷な影となって浮かび上がっていた。
「みんな、みんな死んで――」
血肉を貪る烏の声や羽ばたき以外に、音らしい音はなにもない。男は覚束ない足取りで、 蹌踉《よろ》めきながら井戸に辿り着くと、震える手で井戸の水を汲み上げ、何度も身体
に浴びせ、血を流した。
身体にこびりついた血は水と混じって、男の足許に広がっていく。秋風と冷水で歯の根が合わぬほど身体が冷えても、男は儀式のように血を洗い流す作業を続けた。
手指の感覚がすっかりなくなった頃、血塗れだった身体はようやく清められた。冷たく重く濡れた身体を引き摺るように男は自分の家へと戻り、濡れた身体を拭いて着慣れた作
業着に身を包んだ。
窓の外から聞こえてくるはずの、子供たちの声はない。
この村の人々の声を、男が聞くことはもうないのだ。
「......俺は......」
たった一人生き残ってしまった。その罪悪感に苛まれながら、男は目を閉じた。女神オレリアへの祈りの言葉を紡ごうとしたその時、幽世の森に住む賢者の話が男の脳裏を過った。
――救い主様を、探さなくては......。
たった一人生き残った自分の使命を、そこに見出したような気がした。
「......この世界は、このままではいけない」
男は呟き、鍛冶屋に残したままだった剣を取った。生まれて来た子を守るために、長い時間をかけて研ぎ澄ましていた剣だ。だが、もうその時は来ない。それならば――
「救い主様を探す、それが俺の使命だ」
失うものは、もうなにもない。贖罪の旅に出るにはこれ以上ない理由だった。
男は必要最低限の装備を調えると、その日のうちに村を後にした。
目指すは、幽世の森――賢者様の元へ。
この理不尽な世界を終わらせるため、救い主の手掛かりを探すために。
男は一人、旅に出た。