『立命館哲学』は、立命館大学哲学会より刊行されている学会誌です。これまで刊行されたものの索引、および在庫状況を掲載しております。バックナンバーの入手を希望される方は rittetsu@gmail.com まで、メールにてご連絡ください。
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<巻頭言>
西川冨雄 学会誌創刊に寄せて
<特別報告>
西川冨雄 舩山信一先生の学問と哲学
<論文>
井上文人 『実践理性批判』における「理論理性」と「実践理性」の統一の問題
土屋敬二 イェナ期のヘーゲルの承認論について
<研究動向>
松山壽一 シェリング自然哲学の新研究 -近年の二つの国際シェリング学会によせて-
<随想>
木村慎哉 イギリス留学雑記
岩井允子 塞外の民の宿命 -小アジア紀行-
西村一生 古代長安文化と日本
<彙報>
<特別寄稿>
舩山信一 人間学的唯物論とそれの哲学的論理学
<論文>
服部健二 全自然史の思想について-梯明秀氏の経済哲学批判序説-
高木敏美 ラッセルのフレーゲ批判
二本柳賢司 超逆理と階型理論の条件
<研究ノート>
藤田友治 梯経済哲学の「実践的直観」の立場について
<論文紹介>
土屋敬二 "Hegel's Wissenschaft der Logik Formation und Rekonstruktion" hrsg. v. Dieter Henrich
<随想>
西川武夫 パリの友-ポール・ロワイヤル・デ・シャンに遊ぶ-
寺西修三 視点
中小路宗隆 北欧五ヶ国を旅して-王室・宗教と政治のかかわりをみる-
酒井道子 北欧の旅とエレン・ケイの出合い
<彙報>
<特別寄稿>
藤澤令夫 ギリシア哲学と私
ヴァルター・ゲプハルト(松山壽一訳) ニーチェとドイツ観念論 -芸術-超越と主観性-形而上学の伝統ならびに
ニーチェの思考における理想化の破壊によせて-
<論文>
服部健二 歴史における自然の弁証法-定有としての資本の論理構造に即して-
土屋敬二 自己意識と承認
福井雅美 カントにおける構成的Konstitutivと統制的Regulativ -「経験の類推」をめぐって-
<研究ノート>
大西光弘 観念とは何か
<随想>
日下部吉信 私の留学紀行-ケルンでの想い出-
大野正義 哲学で「めし」が食える話
<書評>
井関清志 二本柳賢司著『推論と論理』
<彙報>
西川冨雄教授定年退職記念号
寺崎峻輔 送別の辞
西川冨雄 わが遍歴
横山久安 西川冨雄先生のこと
奥村家造 「傍觀者遺文」外典
<論文>
松山壽一 力とエーテル-ニュートンにおける力の概念の二面性-
加國尚志 問いと無-サルトル『存在と無』における「問い」の存在論的意味-
<書評・紹介>
伊勢俊彦 木村慎哉著『知覚と世界』
保井温 服部健二著『歴史における自然の論理』
飛田就一 松山壽一著『生きることと哲学すること』
日下部吉信 刊行委員会編『山本一郎 人と思想』
<彙報>
<遺稿>
故 木村彰吾 (文責 加國尚志) 哲学特殊講義1983年度
<論文>
木戸正幸 フレーゲにおけるSinnとはなにか-関数とアーギュメントの複合体としてのSinn-
<研究ノート>
柴田啓文 ウィトゲンシュタインの哲学観
<書評>
田山令史 松山壽一著『ドイツ自然哲学と近代哲学』
<論文>
池田善昭 ライプニッツにおける力学と形而上学
榊原哲也 Husserl On Phenomenological Description
<論文>
加國尚志 自然の両義性-メルロ=ポンティのデカルト解釈-
川瀬雅也 サルトルにおける意味の構成
<思想の動向>
池田善昭 ある刑法学者への手紙-脳死移植をめぐる本人・遺族の承諾の位置付け-
<書評>
加國尚志 池田善昭著『「モナドロジー」を読む』
<彙報>
<論文>
奥村家造 三根の縄-沈黙・慰籍・祈り-
平尾昌宏 認識から伝達へ-スピノザにおける預言の批判-
鈴木竜雄 「完全な数」と世界-数のアプリオリティについて-
川瀬雅也 身体と表現の理解-メルロ=ポンティとベルクソン-
木戸正幸 F・P・ラムジー『理論』を読む(上)
<彙報>
<論文>
アドルフォ・ムルギア (榊原哲也訳) 哲学に未来はあるのか?
土屋敬二 感覚的確信の問題-ヘーゲルにおける語りえないもの-
川瀬雅也 アンリの身体の現象学(前半)
木戸正幸 F・P・ラムジー『理論』を読む(下)
<彙報>
<論文>
池田善昭 真理の密旨
北尾宏之 カントの「自律」概念における他者の問題 -「普遍的自己立法」の概念を手がかりにして-
川瀬雅也 アンリの身体の現象学(後半)
亀井大輔 フッサール時間論における現前と非現前
<彙報>
<記念講演>
辻村公一 ヘーゲルの講義『世界史の哲学』について
<論文>
大西光弘 往復書簡に見る基礎的ライプニッツ哲学-ゾフィー、シャルロッテ、マサム夫人への書簡より-
加國尚志 表現と自然(前編)-後期メルロ=ポンティにおける-
土屋敬二 ヘーゲル『精神現象学』における悟性-精神との関連で-
平尾昌宏 方法と倫理へ-デカルトの弁神論-
亀井大輔 デリダのフッサール解釈-歴史の問題に即して-
富田広美 ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」に関する神経科学的見地による検証
<書評>
進藤貴美子 感覚・動きの実感から心身関係を探る-池田善昭著『心身関係論』によせて-
<レポート>
松本充弘 ハイデガーの「存在」とライプニッツの「根拠」について
<彙報>
<講演>
西川冨雄 シェリングにおける医の思想
<論文>
福井雅美 自然の崇高と多様性
川瀬雅也 見えないものの実質性への問い-メルロ=ポンティとミッシェル・アンリ-
神田大輔 フッサール現象学における本質論-本質の純粋さについて-
<彙報>
<講演>
木田元 ハイデガーを読んで五十年
<論文>
和田渡 ベルナウ草稿の解読-意識の生体解剖とフッサールのまなざし-
富田広美 心脳問題について(Mind and Body Problem)-「物」としての脳と「生」としての脳~エックルズの哲学から-
平尾昌宏 生命と倫理-ソクラテスとの対比によるスピノザの自殺論-
川瀬雅也 見えないものの実質性への問い(後半)-メルロ=ポンティとミッシェル・アンリ-
神田大輔 記述と明晰性
青柳雅文 物の知覚における超越の問題-Th・W・アドルノ最初期の超越論的立場と、フッサール現象学との関係-
木戸正幸 論理パズルを論理学で解く
<学会報告>
大西光弘 「第7回国際ライプニッツ会議」参加報告
<彙報>
池田善昭教授定年退職記念号
日下部吉信 まえがき
池田善昭 最終講義―超越論的課題のゆくえ―
木田元 思索の技法―ハイデガーのライプニッツ観をめぐって―
ハンス・ポーザー (大西光弘訳) 調和と複雑性と象徴的認識―池田善昭氏のライプニッツ像についての考察―
<講演>
渡邊二郎 現代における存在の問題
<論文>
木原志乃 初期ギリシア医学理論とヘラクレイトス-クラーシス説における対立物の均衡関係について-
亀井大輔 デリダ『発生の問題』における「理念」の問題
神田大輔 本質と観点の多重化-現象学の方法と「基づけ」について
青柳雅文 超越論的意識の自己批判に向けて-Th・W・アドルノ最初期における無意識の問題と、<非同一的なもの>の端緒-
小林琢自 還元の動機と超越論的傾向について
大西光弘 ドイツ語を学ぶ(または教える)ための記号法について
<特別寄稿>
西川冨雄 舩山信一先生と中国-先生の哲学・「人間学的唯物論」を軸に-
<彙報>
<シンポジウム 現象学-以後の/による-現象学 -21世紀の扉を開くために->
浜渦辰二 フッサールにおける現象学と存在論
谷 徹 現象学の冒険
川瀬雅也 瞬間の奥行き―フッサールとデリダ、メルロ=ポンティ、アンリ―
質疑応答
加國尚志 総括
<論文>
大西光弘 西田とライプニッツ―表象的モナドロジーと創造的モナドロジー―
佐藤勇一 メルロ=ポンティにおける哲学とキリスト教―『著名な哲学者たち』、「哲学を讃えて」、「生成するベルクソン」―
内田浩明 存在論としてのカントの超越論哲学―ヴォルフ以来の存在論との比較考察を通じて―
青柳雅文 意識の自己批判の可能性―1930年代アドルノにおけるフッサール研究を手がかりに―
溝口万子 アーレントによる時間の贈与―崇高の場あるいはnunc stans―
大西光弘 ドイツ語を学ぶ(あるいは教える)ための記号法について―上級篇―
<随想>
西川冨雄 体験的哲学専攻史―哲学専攻の半世紀とわが半生―
<彙報>
<シンポジウム -自然概念の哲学史的変遷について->
有福孝岳 仏教における自然と人間の関わり合い
今 義弘 エリウゲナにおける普遍概念としてのピュシスあるいはナトゥーラの導出
薗田 坦 ルネサンスの自然観・補遺
総括
<論文>
平尾昌宏 スピノザ倫理学とアクラシア―意識の批判に向けて―
佐藤勇一 呪われた哲学者―ベルクソンの禁書目録登録とメルロ=ポンティ―
神田大輔 フッサール現象学における「疑わしさのなさ」について
田村智明 マルクス唯物論における解釈の論理
小林琢自 習慣性としての歴史とその解釈における理性の自由―フッサールとシュッツの動機づけ概念について―
田邉正俊 初期ハイデガーにおけるニーチェの影響に関する一試論―「ナトルプ報告」を手がかりとして―
大西光弘 ドイツ語を学ぶ(あるいは教える)ための記号法について―「聴き取り篇」―
<彙報>
<論文>
田村智明 ドイツ観念論と現代司法システム
小林琢自 フッサール現象学における構築と解体
田邉正俊 ハイデガーの主観性批判をめぐる一考察
木村美子 矛盾概念を巡るライプニッツと西田―「予定調和」と「絶対無の場所」との対比において―
<書評>
山下善明 池田善昭著『「哲学」のゆくえ』を読む
<追悼>
服部健二 許萬元先生の思い出
<彙報>
<論文>
鈴木竜雄 ケプラーの重力理論への道―W・ギルバートの影響について―
後藤正英 ドイツ観念論と神義論―中期シェリング理解のための序論―
島田喜行 世界観としての相互主観性―フッサール現象学における規範性の問題の端緒―
<彙報>
<講演>
坂部恵 ポリフォニックな主体を生きる―哲学における文体の位置と意味―
<論文>
溝口万子 ア・プリオリな綜合判断はいかにして可能か―アーレント「精神の生活」三部作の「船」の隠喩について―
竹花洋佑 個体性と媒介―ヘーゲル概念論と“コプラの論理”としての西田・田辺哲学―
佐藤雄太郎 方法としてのゲシュタルト
小松学 「私」を演じることの(不)可能性―サルトルの他者論における「魔術的なもの」を巡る予備的考察―
木戸正幸 論証図の拡充―入れ子型論証図の提唱―
<彙報>
<講演>
徳永恂 ベンヤミンの方法と方法としてのベンヤミン―歴史哲学の方法としてのアレゴリー―
<論文>
佐藤光友 自己理解を深める教育の現象学的考察
島田喜行 フッサールのヒューム道徳哲学批判
守津 隆 西田哲学における種概念の意義―西田幾多郎の田辺批判―
田邉正俊 主観性批判と主観批判をめぐる一考察―ハイデガーとニーチェを手がかりとして―
<彙報>
<講演>
高橋義人 ヘーゲルとグノーシス
<論文>
デアン・コメル (小田切建太郎訳) 原理的な現象学的呼びかけ<<事象そのものへ>>について
黒岡佳柾 民族と共同存在―ハイデガー『存在と時間』と『言葉の本質への問いとしての論理学』を巡って―
<彙報>
故 西川冨雄名誉教授追悼号
故 西川冨雄名誉教授 略歴と業績
追悼文
池田善昭 西川冨雄先生を偲ぶ
日下部吉信 西川冨雄先生のご逝去を悼む
服部健二 『環境哲学』をめぐって―西川先生の思い出―
大西光弘 西川先生を偲んで
追悼論文
松山壽一 「万年哲学青年」西川冨雄 人と思想―亡き恩師を偲んで―
<講演>
立松弘孝 日本における欧米哲学、特に現象学受容の歴史
<論文>
佐藤光友 生命倫理についての教育的考察
藤井俊之 「ざわめき」としての主観―アドルノのアイヒェンドルフ論に寄せて―
小菊裕之 沈黙する感情、潜在する声―『抗争』以降のリオタールにおける声と感情のモチーフについて―
<書評>
加國尚志 川瀬雅也著『経験のアルケオロジー』
<彙報>
<講演>
熊野純彦 マルクスをどう読むか
<論文>
池田裕輔 前期フィンクにおける間主観性の現象学
松田智裕 初期デリダにおけるエクリチュール概念の再検討―不在と消失をめぐって―
<彙報>
<講演>
湯浅博雄 バタイユと模擬性=虚構性
<論文>
黒岡佳柾 リンギスによるレヴィナス―共同体の問題を巡って―
横田祐美子 Le non-savoir et l'inconnu―バタイユ「内的体験」における認識と視覚を通して―
<彙報>
<講演>
野家啓一 物語り行為としての自己制作
<論文>
對馬果莉 アーレント思想における「精神的活動力」の道徳性―「思考」・「意思」と「双数性」に着目して―
酒井麻依子 メルロ=ポンティ:ソルボンヌ講義における共感―他者・言語との結びつき―
<彙報>
<講演>
加賀野井秀一 生きられた時 le temps vécuを求めて――メルロ=ポンティ哲学の魅力
<論文>
有村直輝 ホワイトヘッドにおけるコントラストの概念について
柳川耕平 フッサール現象学から見た「未来」――予持概念を手掛かりとして
<彙報>
〈講演〉
古東哲明 根源的和解
ダリン・テネフ(酒井麻衣子・栁川耕平訳) ほかにもこだまらがこの園を棲家としている(翻訳の現象学に向けて)
〈論文〉
平尾昌宏 なぜ論文を〈です・ます〉で書いてはならないのか――日本語からの哲学・序論(一)
小田切建太郎 〈根源の場所〉と〈かまど〉――M・ハイデガーのヘルダーリン解釈をめぐって
市川博規 文学と共同体――バタイユ、ナンシーから考察する
〈彙報〉
〈講演〉
合田正人 レヴィナス著作集における意味とリズムから
〈対談〉
日下部吉信×田邉正俊 存在と主観性――西洋形而上学2600年の歴史
〈論文〉
池田裕輔 オイゲン・フィンクの現象学的カント解釈について(前編)
小田切建太郎 初期ハイデガーにおける関心の中動態
〈書評〉
青柳雅文 服部健二著『四人のカールとフォイエルバッハ』『レーヴィットから京都学派とその「左派」の人間学へ』
〈彙報〉
〈講演〉
小島優子 ヘーゲルにおける贖いの思想――『キリスト教の精神とその運命』を中心に
〈書評〉
加國尚志著 『沈黙の詩法――メルロ=ポンティと表現の哲学』
酒井麻依子 『沈黙の詩法』書評会報告
横田祐美子 書評『沈黙の詩法』
佐藤勇一 書評『沈黙の詩法』
〈論文〉
池田裕輔 オイゲン・フィンクの現象学的カント解釈について(後編)
西川健太 「語り」と「語ること」から考察する他者への「贈与」――レヴィナスの他者論をめぐって
〈彙報〉
〈合評会〉
小田切建太郎著 『中動態・地平・竈――ハイデガーの存在の思索をめぐる精神史的現象学』
小田切建太郎 『中動態・地平・竈――ハイデガーの存在の思索をめぐる精神史的現象学』についての書評たちによせて
酒詰悠太 『中動態・地平・竈――ハイデガーの存在の思索をめぐる精神史的現象学』合評会報告: 方法としての中動態
黒岡佳柾 竈から復活するハイデガー哲学――「存在への問い」を、古代ギリシアの遊動空間へ送り返し、ハイデガー研究の新たな幕開けを予感させる労作
田邉正俊 書評『中動態・地平・竈――ハイデガーの存在の思索をめぐる精神史的現象学』
〈論文〉
〈彙報〉
〈講演〉
河本英夫 活動の哲学:ドイツ観念論とオートポイエーシス
〈論文〉
市川博規 ジャン=リュック・ナンシーとドイツ・ロマン主義――神話から文学へ、文学から哲学へ
〈翻訳〉
ディーター・ローマー(栁川耕平訳) 非言語的思考――現象学的視点より
〈彙報〉