Fantiaに載せていた小話集です。
完結までのネタバレを含みます。
他の作品はこちら 小話集 ショートショート
むかしむかしあるところに、二つの国がありました。
東にあるのは石の国。
西にあるのは岩の国。
二つの国はいつも争い、顔を合わせれば刃を向け、
国境には常に死の匂いがつきまとう、とにかくひどい有様でした。
剣を交え続けた二つの国の争いは、
長き時を経ていつしか文化へと変わります。
子は、相手の国を侵すためだけに成長する。
母は、強い子を産むためだけに消費される。
「先方のことは伝聞でしか知りませんが、そうは変わらない状況だったと」
「そうなんだ」
それは悲しいことだね、と、
車いすに腰掛けた少年が俯きがちにつぶやいた。
「エミシアは、ずっと苦しかったんだね」
そして、大きな瞳がじわりと潤み、次いで、胸に抱く人形のやわらかな頭にはたはたと染みを落とす。
それに対して、少年の車いすに手をかける女は無言のまま。
何かを言いたげに口を開けたが、結局は沈黙を貫いたまま、少年から目線を逸らした。
「あの人も」
しかし少年はそれを言及することもなく、
自身の手首にまかれた包帯で涙をぬぐい、顔を上げた。
「あのおにいさんも、エミシアと同じなんでしょう?」
そして、2人の視線が交わる先。
車いすの少年と、それを押す女の立つ煤けた石畳の道の先は、
平時であれば町人がそこに集うだろう、広場になっていた。
まだあちこちに瓦礫と煤の残る、戦後の町。
曇天にまばらな雪がちらつき始めた凍てつくような空気の中、
異邦者である男たちが広場の中心で声を上げていた。
民衆は数えるほどだった。
誰もが怯えた様子で、剣士の男たちの顔色を窺いながら、この場所に集うことを強いられている。
仕方が無いことである。
この国は――東の国は長き戦いに敗北し、終わりを迎えたばかりなのだから。
「――……」
広場の中心で、指導者然とした男は剣を掲げる。
離れた路地裏に身を潜める車いすの少年とその従者には、その内容まではうまく聞き取れない。
「エミシア、いいの?」
「……」
「お兄さん、死んじゃうよ?」
〇〇が女に声をかけるが、女は一言も返事をしない。
ただ黙ってじっと、自らの視線の先――
広場の中心、指導者の男のすぐ横で小さくなって地べたにあぐらをかく、もう1人の青年を見つめていた。
ぼさぼさに汚れて煤けた髪。
血だらけの破れた衣服。
あちこちに見える〇〇のあと。
なにかの刃物によって断ちきられたのだろう両手首からは
惨たらしく血液があふれ、すっかり色を失った顔は死人とさほど変わらない。
抵抗もせずただうなだれた彼の命がもう長くないということは、誰の目に見ても明らかだった。
隣に立つ男がまたも何かを叫び、また別の男が青年の方と肩と頭をつかんでぐいと押し下げる。
空に掲げられた剣が、ちらりと光を反射させる。
「ねえ、エミシア――」
〇〇が、縋り付くように女を見る。
しかし女は沈黙を貫く。
無言のまま、ただ無言のまま、じっと青年を見つめる。
まるで、それが礼儀だとも言わんばかりに――
すると、はた、と。
ずっと虚空に目を落としていた青年の頭が、僅かに上を向いた。
その視線が、ほんの僅かに、女の視線と交差して、そして薄く。
薄く、しかし確実に、その唇が柔らかく微笑んで――
そのまま剣が振り下ろされ、その表情は、すぐに誰からも見えなくなった。
弾けるような歓声と悲鳴が同時にあがる。
国の勝利を称える男たち。
鮮烈な状況に恐怖する住民たち。
そのどちらも――彼女には必要ないものだった。
まばたきひとつせず見つめていた青年の姿にはすでに興味を失ったのか、
さっと踵を返して路地の闇の中に潜っていく。
「エミシア」
「……」
「エミシア、いいの?彼は、きみの…」
「さあ?知りませんわ、あんな――」
「エミシア」
少年が二度、女の名前を呼ぶ。
車椅子の彼には、女の歩みを止めることは出来ない。
だが、それでも、その言葉と紫の瞳には、確固たる意思と憐れみとが混在していた。
「ぼくはきみの王様だよ」
「……」
「きみの考えてることなんか、全部わかっちゃうんだ」
「…そうですか」
それでは敵いませんね、と小さく答えた女の表情は、悲しみとも、喜びとも、怒りとも呆れとも言えない、
どこか困りはてたような――諦めたような、微笑みだった。
※匿名希望様から寄稿していただきました。
いつだって覚えている。
どこでだって想っている。
軋む瓦礫に半ば腰掛けるように身を預け、空を見上げた。数えきれないほどの星が漆黒を彩っている。もし彼女が隣にいたならば、数えようとしては諦めて、顔を見合わせて笑っただろうか。星々がいくつあるかなんて本当は知っているくせに、君と一緒にいたいからと、嘘をついて。
強く吸った煙の味が舌に焼き付き、眉間に皺が寄った。
感傷に浸るのは、良くないことだ。一人の少女との思い出に執着し続けることも、苦い記憶を味覚に結びつけて身体に刻むことも。――思えば、どれも人を辞めた時に言い聞かされたことばかりだ。個人への想いで感情を揺り動かすのは、神にとって悪手でしかない。これは人類への慢心ではない。万年の生を義務付けられた者たちが為すべき自己防衛である。
「感情の振り子は人にのみ許された動力装置だ」
「……覚えていたのですね」
「腐っても、記録する者だからな」
僕の独り言に応えるかのように、靴底と砂利の擦れる音が静かに鳴った。隣に立った男から顔ごと目を逸らす。顔を見たくないのではない、あくまでも、そう、彼に煙がかかってはいけないから。そう意地を張った僕を見た彼は相変わらずだと言い、わざとらしく声を出して笑った。
「見てのとおり私はプライベートですから、説教をするつもりなんてありません」
確かに今の彼は、丁寧に巻かれて波打つ長髪も、詰め物でいっぱいになった胸元もなりを潜めており、手には白いビニール袋が提げられていた。しかし、ここから最寄りのコンビニは、果たして最短距離で何キロメートルあっただろうか。
「嘘つきめ」
「まさか。友人を訪ねるのに理由はいらないでしょう」
暖簾に腕押しでしかないやり取りにいよいよ業を煮やし、僕は彼を真正面から睨めつけながら煙を吐いた。
◇
彼女のことは、振り切ったつもりでいる。過去も割り切ったつもりでいる。それでもこうして共に過ごした座標に降りてきてしまうのは、ただただつもりでいるだけの証左だろうか。
共に寄りかかった白いガードレールは腐蝕と風化を繰り返し、今や横たわる残骸でしかない。今腰掛けているのがそれだ。国道も、コンクリートは剥がれ落ち、液状化し、土に呑まれて無くなってしまった。月日さえこうして無かったことにしていくのに、僕だけがこうしてここにいる。ついでに、お節介でしかない先輩も。
「お節介とは何ですか」
「悩みがあるなら聞くと言ったのは君だ」
「悪口まで聞くとは言っていませんよ」
彼の口端から煙が不格好に上がった。結局、彼がコンビニで買ったらしい晩酌用の飲食物はここで消費されてしまっていた。チータラとかいうやつと、僕のお悩み相談を肴として。
「それでそれで。今までのは、単に事実でしょう」
「……彼女を覚えている人間だって、もう、どこにもいない」
「自然の摂理ですよ」
「分かっているさ。世の正しいかたちだ」
だからこそ、僕はいつまでこうしていられるのだろうか、と思う。
僕が最後の砦なのだ。僕がいなくなったら、彼女が存在した事実の証明が本当に、本当に出来なくなってしまう。
僕が記してきた世界の履歴には、彼女もいる。次代の観測の座に引き継げば、歴史として残り続けるのは分かっている。なのに。
「誰も覚えていないなら、それは――」
「――その少女を想うあなたを、きっと次の神が覚えていますよ」
それが自然の摂理であると言って、ヤオヨロズは新しい缶の口を小気味よい音とともに開けた。
◇
人には人の。神には神の付き合いや生業や規則や摂理がそれなりにあるものだ。捨てて、忘れ去ったものは今更取り戻せない。違う生物の思考ルーチンに共感することは叶わない。だからポラリスの人間を基準とした憂いと嘆きは、年季の入った神の芯にまでは響かなかった。だから。だからこそ、あんなことになってしまった。
このお悩み相談ですら、神にとっては事務処理でしかない。後発の神に同じ轍を踏ませない為の議事録だ。
「これが人にのみ許された動力装置と言うのなら、やはり僕は、神としては落第点だろうか」
――生真面目な男だと思った。内気な印象を与える長い前髪と、周りを寄せ付けない排他的な孤高の一番星。第一印象と今現在を比べても、それらにあまり変動は無い。ただ一連の案件により、案外熱い男である、という情緒がそこに付加されただけだった。
「私やワタツミのような者では、きっと観測の座は務められない」
「そう、だろうか」
とてもではないけれど。
ひとりひとりを観察し、記録しては、暦を想う。それがどれだけ恐ろしく業じみた勤めであるかを、ポラリスはまだ知らないでいる。知らずに、済んでいる。ひとりの人を想い続けたからこそ今ここに立っている、あまりに人に寄り添いすぎた、若くも強い神。
彼は少女を想い、覚え続けるだろう。己の座の礎として。
「だから、あなたが観測の座に選ばれてしまったのでしょうね」
憐れであると。目出度いことであると。
厳かな祝福に包まれる神の門出の在りし日を、思い返した。
※匿名希望様から寄稿していただきました。
疑いを知らぬ少年がいた。純心無垢、穢れとは到底無縁で、誠心の鑑とも言える少年であった。
少年は愛されていた。両親の寵愛を受け、妹に慕われ、友人とは喧嘩もしながら真っ直ぐに向き合っていた。
そのような少年には、幸せの足下で蠢く悪意がどんなかたちをしていて、どこに潜みこちらを睨めつけているかなど、到底、考える由もなかった。
【約束だって魔法】
「ザック! この後遊びに行こうぜ」
「……師匠と訓練があるから、明日な」
「けち。お前、最近はシショーのことばっかり」
松葉色の髪の少年が服に纏う土埃を払いながら、悪びれもせず唇を尖らせた。そしてすぐにザックに向き直り、歯を見せて笑う。たった今の不機嫌などなかったかのように。
「じゃ、また明日な! 約束だからな、忘れるなよ!」
「わかった、わかったから」
ザックと呼ばれた男は、感情をすぐ表に出すことを嫌い、しかし激情家な面も持つ、年齢相応な少年であった。見習いといえど、騎士であるなら騎士らしく。常に冷静沈着に。けれど眼前の光景に揺り動かされるのを止められない、純真無垢な一面もあった。
対してセクタは、表情と感情が目まぐるしく移ろう少年だった。明日より今を優先し、苦難よりも娯楽を。しかし他人の困難に手を差し伸べることを戸惑わない。ひとところに留まるを知らない、天真爛漫さを持ち合わせていた。
まるで正反対。時には反発さえする二人だが、それでもけして離れたりなどしなかった。初めから共にいることが当たり前であるかのように、自然に隣で、無意識に歩幅を合わせながら寄り添い合っていた。
それなりに幸せだった。信じることを疑わなかった。
◇
太陽の輪郭が西の地平線に触れる瞬間ぴったりに、そこまでと声が凛と響いた。幼い影が激しく肩を揺らし呼吸しながら、竹刀を杖にして膝をつく。橙色に照らされた輪郭が、小さな足跡で埋まった砂土に長い影を落としている。
「うんうん、イイ感じだ。このまま続ければ、君ならすぐにモノにできるだろうさ」
「はい、師匠」
石造りの塀の上で靱やかに組まれた脚に頬杖をつき、目尻の垂れた目を更に蕩けさせながら、線の細い和装の男がけたけたと笑った。師匠と呼ばれたその男は、値踏みでもするかのように弟子の姿を上から下までじいと見る。
ザックと『師匠』の出会いは、ただの偶然であった。落とした財布を、ザックが拾って手渡した。応酬にもならない、ただ目が合ったその一瞬で男はザックに才を見出し「僕の弟子にならないか」と口説いたのである。
――君、直剣より刀を持ちたまえ。きっと、いい武人になれる。
以降、ザックは見習い騎士の訓練後に、足繁く男の元へと通い詰めた。男の見立て通り、ザックは早々に侍としての才能を開花させた。せいぜいセクタと互角であったはずの剣術は刀法として昇華され、あっという間に見習い騎士卒業試験に手が届くまでに成長した。
ザックは感謝と恩義から男を師匠と呼び慕ったし、男もまたザックを一番弟子だと自慢し誇った。どこから誰がどう見ても、仲の良い師弟であった。だからこそ、セクタがそれを快く思わず不満を漏らすことに不服を覚えた。
『シショーのことばっかり』
そして同時に、拗ねてそっぽを向いたセクタの横顔が脳裏に蘇る。眉間に皺を寄せて悔しさを隠さない純真な姿を思い浮かべるたび、絡まり解けなくなった糸玉のような燻りが胸の奥で育つのを感じた。
それを断ち切るかのように、たんと小気味の良い音が塀の上から響く。男が鞘を突いて立てた音であった。立ち上がる弾みで華やかな飾り紐を揺らしながら、刀を帯に差した。黒い装束、黒い髪の輪郭がひらりと揺れる。
「次は手合わせをしてあげよう。二日後の同じ時間、ここに来るように」
だって、こうやって稽古をつけて、強く育ててくれているのだから。誰よりも早く強くなれるのだから。迷うことも、疑う理由もない。そうやって言い聞かせた。説き伏せて、無視をした。
◇
がむしゃらに蹴り上げられた炉端の石が、緩い曲線を描きながら家屋の影に消えた。目測とは到底遠いところへ逃げ仰せた小石に舌打ちをして、目的地のない足で、再び闇雲に粗目の砂を蹴り上げる。
一人きりでの過ごし方など、セクタはとうに忘れてしまっていた。何をするでもなく苛立ちをぶつけるように石を蹴って、歩いてはまた蹴って、宵も近いというのに町外れまで来てしまった。
共に過ごした時間なら、俺の方がずっとずっと長かったのに。ザックのことを何も知らない癖に。砂だらけになってしまった靴にすら苛立ちを覚えた。
くそ、とまた舌打ちをして、セクタは先ほど見失った小石を追い、薄暗がりへ足を向け。
「……。…………、……。」
人の声に、立ち止まった。
ゴルトオールの人口は多くはない。セクタが小石に導かれたこの区域も、今は殆どの家屋を空き家が占めている。
誰もいないと踏んだから思う存分砂を蹴っていたのに。セクタは歯噛みした。そしてすぐ、嫌な可能性に行き当たる。
まさか、先ほどの痴態を見られてやいないだろうか。
セクタは〇〇だ。しかし、〇〇にして騎士である自覚がまずあった。例え相手が大人であろうが誰であろうが、ゴルトオールの騎士(見習い)が拗ねて石を蹴ってひとり遊びしていたなどと、黒歴史にもなりかねない恥を知られたくはなかった。大人から見ればただ愛らしいと片付けられるそれは、セクタにとって守り通したいプライドであったし、騎士としての意地でもあった。
見られてしまってやいないかと、ならせめて誰がいるのかと、夕暮れの濃い影に潜んで、路地裏を覗き込んだ。
ザックと一緒だったなら、きっとこんな惨めな気持ちにはならなかったのに。
「……は、お代の通りに」
「き……美味しい〇〇……なりますよ」
首を捻る。聞き間違いでないのなら、有り得ない単語の組み合わせが語られていることになる。そして、人数は――大きい影がひとつと、やけに大きい影がひとつ、細い路地の真ん中に重なるように並んでいた。
あれらは、何を話している?
「……からもうすぐ……騎士の……が出荷…………」
「それは…………ですね」
「弟子に……があり…………」
ドクドクと心臓が血液を送り出す音が次第に激しくなるのを、セクタは服を握りしめることで押さえつけようとした。先の〇〇じみた鬱憤など、とうに宵の影に溶けてなくなってしまっていた。
あの影たちが話している内容は、ザックに無関係ではないと確信する。薄暗がりに慣れた目が脳に訴えかけ、警鐘をけたたましく鳴らしていた。
「……っと使える……すぐ……」
手前にいる小さいほうの影は、刀を差していたから。そしてそれは、見覚えのある形の紐飾りを提げていた。
大きいほうの影は、ただ人物が巨大なのではなかった。誰かが、荷物を肩に抱えている輪郭線が見える。そして。
その小さい荷物は、もぞもぞと蠢いてもいた。
蠢く小さい――ただの物体としては米俵と比べてもやけに大きい――荷物を携えたふたつの影は、砂漠に向かって並んで消えていった。
与えられた情報を脳が処理し繋ぎ合わせると同時に、じりじりと頭の奥が炙られるような感覚がした。背筋がすうと冷えて視界が狭まる。いつの間にか口を押さえつけていた両手は、小刻みに震えていた。
何がザックを脅かすのか、セクタには分からなかった。しかしザックが何かに脅かされるのなら、騎士である俺が守ってやらなくてはならないと思った。
セクタはすぐさま駆け出した。縺れる足で、砂を蹴って。
陽は沈み、辺りは暗くなっていた。ただ街の向こう、砂漠の果ての空が、じとりとした橙色に滲んでいた。
◇
次はお前が連れていかれる。
訪ねてきたセクタがまず言い放った言葉がそれだった。半ば引きずるように空き地に連れてこられたと思えば、要領を得ない言葉をつらつらと吐き出し続けたのだ。
そしてそんなセクタの訴えは、心から師匠を慕うザックが受け入れられるものではなかった。のべつまくなしに己の危機を捲し立てるセクタに対し、人違いだとか証拠がないとか、信じない理由をザックは述べた。否、ザックにとって嘘か真かなどはどうでもよかった。嘘であるための理由を必要としていただけなのだから。
「あんな奴のとこになんて行っちゃダメだ!」
「うるさい! お前なんかが師匠の何を知ってるって言うんだ!」
嘘であってほしいという願いは否定される。押し潰されてしまうから抗って、どうにかしてなかったことにしてしまいたかった。
口論は次第に意味を為さなくなり、気づけば二人とも声を荒らげ、半ば叫んですらいた。切迫した声には妥協も譲歩もなく、互いに本気であったし、本気だからこそ受け入れる訳にはいかなかった。
「お前はだまされてるんだぞ、あいつに、あんなやつに――」
たかが〇〇の喧嘩だ。〇〇であるからこそ、退くことを知らなかったのだ。
手に走った衝撃と、しんと消えた幼馴染の声。何が起こったのか、何をしたのか、少しの間わからないでいた。そうして、頬を押さえながらこちらを睨みつける幼馴染の目を見てようやく、してはいけないことをしてしまったのだと理解した。
しかしセクタの目はつよく、ザックを見据えていた。怒るでも悲しむでもなく。じいと、何も言わずに。
対してザックは目を見開き、後退りはせずとも目線をさ迷わせていた。先ほどの威勢はなりを潜め、己に立ち向かわんとする幼馴染にただ当惑する。ザックには分からなかったし、決めあぐねていた。
『師匠が働く何らかの悪事』を訴えるセクタ本人と、師匠は良い人であるという崇拝にも近い信頼。どちらも大切なものたちだ。疑いようもなかった。当たり前のように、これからも、どちらも隣にあり続けるものたちだと信じ込んでいた。だのにそれが損なわれようとしている。ザックは首を横に振った。いやだと言って、真似るように睨みつけた。
セクタは絶対に嘘をつかない。少なくとも、セクタは一度として、ザックに嘘をついたことなどなかった。そして、だからといっておいそれと認めてしまっては、弟子として失格なのではないかとも思った。
それより咄嗟に手を上げてしまったことを謝らなければならない。そうでなくとも何かを言わなければならないのに、上手に声が出なかった。まるで、涙が溢れる直前の息苦しさによく似ていた。
「確かめに行こう」
いつも通りの声に、ザックはようやくセクタと目を合わせることができた。
確かめなければならないと言った。騎士団の端くれとしても、弟子とその友人としても。男の悪事の真偽を、自ら見定めなければならなかった。
セクタは僅かに言い淀むも、頬を押さえながらいつも通りに笑おうとしていた。
「確かめに行って、人違いだったら……謝る。でもそうじゃなかったら――」
「やあ」
まるで、硝子のコップを刀で真っ二つに割った音のような鋭さを以て、セクタの声は封じられた。途端に足が重くなったのがわかった。足裏から根を張ったようにひたりと地面に張り付いて、駆け寄ることも逃げ出すことも叶わない。それどころか心臓がけたたましく耳の奥を低く打ち鳴らしている。間延びした穏やかな声が、うまく聞こえない。
「もう暗いのに外にいちゃあ危ないよ」
「お前みたいなのに拐われるからか」
「ははは、直球だねえ」
すぐ後ろの塀の上から声がする。すぐ目の前から声がする。なのにどちらも壁一枚を隔てているかのように、遠くに感じられた。何を言っているのか、理解するにも時間を要してしまう。
どうして。
「……し、しょう」
「やあザックくん、言い忘れたことがあったからね、こうして来てやったというわけだ」
「ザック! 聞いちゃだめだ!」
否定するセクタの声が聞こえる。
「ししょうは、なんで、ここに」
「きみは、僕と一緒に来る気はないかい」
否定できない自分の声が聞こえる。
「きみならきっと、僕を超えられる。そして僕以上に絶望を金に変えられる。どうだい」
否定してくれない、師匠の声。
錆びついたように重い首を動かしてようやく振り向けば、あの飾り紐が揺れているのが、かろうじて見えた。そしてそれはすぐにセクタの背中に覆い隠される。
「お前なんかにザックはもったいないぜ」
「ああ君、僕はね、君みたいな〇〇が一番嫌いなんだ」
笑うような、ため息にも似た音を出して男は言った。
そして「奇遇だな」とセクタが竹刀を構え、笑う。
「俺もずっとお前が気に食わなかったんだ」
どっこいしょ、と声がして、夜の影に染まった輪郭がゆらりと揺れて縦に伸びる。塀の上に男が立てば、それは〇〇たちにとって、立派な壁のように感じられた。飾り紐を揺らし、外套の裾を風にはためかせながら、男は繰り返す。セクタの肩越しに、真っ直ぐにザックを見つめて。
「残念ながら予定が変わってね、すぐにここを発つよ。ザックくん……一緒に来る気はないかい」
――男と、師匠と一緒に街を出ていけばどうなるか、想像がつかないわけではなかった。
きっと誰よりも強くなるだろう。セクタなんて目じゃないくらい、この国の誰よりも強く。望んだ通り、師匠に望まれるがままに力を手に入れられる。そうして……。
ザックは、ちらと幼馴染の横顔を見た。その左頬は微かに色づいていた。
決断を迫られている。そして、どうすべきかもわかってはいる。それでも葛藤をしてしまうのは、セクタを、師匠を信じきれないでいたから。どちらにも踏みきれなかったから、幼馴染を傷つけ、あまつさえその背中に隠されてしまったのだ。
師匠からもらったものが嘘だったなどと、受け入れたくなかった。師匠とも、セクタとも離れたくなかった。どちらも大事で、当たり前にあり続けると信じて疑わなかった。
「師匠」
ザックは顔を上げ、砂を踏み、セクタより前に出て、かつて師匠だった男を見据えた。これは、報いだ。
「俺は……行けません。この国の騎士だから」
「……へえ?」
「約束したんです。こいつと一緒に騎士になるって」
すぐ背後でほうと安堵するような吐息が聞こえ、それで微かに肩の力が抜けたのを感じた。
そして同時にくらやみの中、男の目が細められる瞬間をザックは見た。竹刀の柄を強く握り、震えを押しつぶす。ふふと軽やかな笑い声と、男の草鞋が砂を踏んだ音が同時に響く。
「残念だ」
言って、ゆるりと首を傾けた。さらりと揺れたその髪は、夜になった空気の色に溶けそうなほど黒い。艶めかしさすら覚える仕草にもかかわらず、左手は最初からずっと、刀の鞘にかけられている。いつ抜刀されてもおかしくはない。男をアンバランスに纏う空気に気圧されたくなくて、無理やり唾を飲み下した。
そうして聞こえてきた呆れるような、或いは落胆するような声は、今までに聞いたこともないような色をしていた。
「君ならついてきてくれると思ったのになあ」
「……なんで」
「うん?」
「どうして、〇〇を連れていったんですか」
未だ、男を許せる理由を求めている自分に失笑しそうになりながら、ザックは問うた。次はお前が連れていかれると嘆いたセクタの言葉が、どこかしら間違えていればいいのにと未練がましく思ってしまっている。すっかり冷たくなった風が一様に髪をなびかせ、男の目の色は伺い知れなくなった。
「金になるからに決まっているからさ。〇〇の使い道っていうのはね、色々あるんだよ。それに……」
風が止む。再び合間見えた男の目には、何も映ってはいなかった。何を見てもいなかった。落胆し、浮かべていた哀れみの色さえ消えてしまっていた。
「ザックくん。きみは、僕の手で壊してあげたかった」
そこには、何もなかった。
◇
斬られることも、傷つけられることもなかった。
セクタは拳を握りしめてずっと耐えていたし、男が抜刀することはなかった。手合わせをする約束は守られず、最後まで言い出すこともできなかった。
月が砂漠の向こうに消え、太陽が砂を照らした頃にようやく事の重大さを思い知り、そして失ったものの大切さに打ちのめされた。
稽古をつけてもらっていた広場に向かってみたが、男はいなかった。当たり前のように塀の上に座り、飾り紐を揺らしながら目を細めて不敵に笑う。そんな師匠は、いなくなっていた。
夢でも幻でもない。昨夜、別れを告げられた。〇〇を誘拐したことも、騙していたことも、否定されなかった。
「……う、うぅ」
それをようやく実感した。男に出会ってからすっかり使い込まれ、色の変わった竹刀を抱きしめて、ザックはその場に座り込んだ。
何もかもがザックを打ちのめしていた。男に立ち向かえなかったこと。迷わず竹刀を振り上げられなかったこと。セクタを疑ってしまったこと。なのに庇われる一方であったこと。修行で得た力は役に立たなかったし、ろくに言い返せもしなかった。〇〇だから。俺が、〇〇だったから。
しばらくうずくまっていると、じりじりと皮膚を刺す日差しが幾分か和らいだように感じられた。誰かが日陰になる位置に立っているのだ。眼前に見えた靴は――見慣れた、幼馴染が愛用するスニーカーだった。
名前を呼ばれる。けれど顔を上げることができない。ザックはただただ地面を濡らし、唯一の竹刀に縋るしかなかった。
否。他にできることはある。男に従事した弟子としての責任を果たせるのなら、むしろそうすべきだとも思った。そうすれば幼馴染への罪悪感から逃げ出せるという算段もあった。けれど、その案は言い出す前に頓挫することになる。
「出ていこうなんて思うなよ、ザック」
はたはたと滴る後悔は、大きく高い波となってザックを覆い、叩きつける。弟子であった自分にも落ち度があるのだからと、せめて言い訳をさせてほしかったのに、それすら許されなかった。不甲斐なさに息もできないまま俯いていると、再び日差しの熱に照らされるのを感じた。セクタがしゃがみこんだのだ。思わず顔を上げた。そこで笑っていたのはいつも通りのセクタだった。差異といえば、左頬に大きな絆創膏が貼られていたくらいである。
無性にいたたまれなくなり、何も言えなくなる。喉が思い通りに動かせず、ごめんの一言さえも出てこなかった。それも見越しているのかセクタは続ける。
「俺がさ、お前の居場所になるから、だから」
だからあんな奴が、お前の世界のぜんぶなんかであるもんか。
そう言って、微かに、しかしまちがいなく傷つきひび割れたザックの世界に、ぴったりと寄り添った。絆創膏を貼った頬で笑った。そうして、年相応にぶっきらぼうで感情を押し殺し続けていた少年はようやく、年相応に声を上げて泣いたのだった。
◇
あれからどれだけ探しても男の行方は掴めなかった。大人になり『街を出た』後も先々で少なからず目を配ったが、それも徒労に終わった。
もしかしたらもう、どこかで死んじまったのかもしれないぜ。セクタはからからと笑ったが――それがどんな悪人であろうが訃報を笑うような奴ではなかったのに、眷属というものは末恐ろしいなと思った――ザックは鞘を握り、首を横に振る。そんなことはけしてないのだと。
「次こそは、俺が――」
「真面目だなぁザックは」
「お前がいるからな」
「俺のせいかよ!」
いつか決着をつけたいと願っている。それがいつになるかは分からなくとも、せめて、元弟子としてのけじめだと思った。あの日に悔いて泣いた幼い人の〇〇への手向けだと、信じた。
「ザック! セクタ~! まっしろふわふわでしよ~」
金髪の少年が新雪に足跡をつけ遊んでいる。彼はこの純白が濁った緋色に染まっても、絶望の色をきれいだと言って微笑むのだろう。
「あんまはしゃぐなよ、これから忙しくなるんだからなー」
言いながら、セクタはセレネの元へ歩いていった。
その腰には、黒い外套に半ば隠すように、抜かれなくなった直剣が提げられている。
――あれから。師匠と決別してからすぐ、セクタは進んで剣を振らなくなった。端的に言えば魔法に傾倒したのだ。剣はお前が振ってくれるだろ、などと言って、回復から支援、妨害に至るまで、水を吸うスポンジのように見る間に吸収していった。まるで刀を学んだ時の俺のようだと、思った。
気を遣ったのかどうかはわからない。俺と競うこともやめたようだった。何かあったのかと聞いても、からからと、ただ変わらない顔で笑うだけだった。
すれ違いざまに見えた彼の左頬は真っ白だった。あの日、思わず叩いてしまった頬はすぐ腫れも引いて治っていた。絆創膏も一日で剥がされていた。今では片鱗すら、彼の内には記憶さえなくなっているかもしれない。それでも、似ても似つかない大人になった彼は、あの頃の幼馴染のままだった。
ただの皮肉でしかないことはわかっている。結局は、あの男と同じ邪道に転げ落ちているのだ。あらゆる大人を絶望に落とした。数多の〇〇を絶望に染めた。とうに同じ罪を〇〇ている。そして罪の愚かしさと後悔を身をもって理解したからこそ、あの男はこの手で止めなければならないのだと決意した。
「ザック! 早く行こうぜ」
「! ……ああ、今行く」
どんなに変わってしまっても、俺の居場所は変わらない。泣いて、笑って、約束をした。
それがけして、正しいかたちでなかったとしても。
◇◇◇
ザックのような人間は光の届かぬ深淵の中でこそ輝くものなのに、友を名乗る少年に奪われてしまった。ああ、ああ、実に惜しい。
「そうは思わないかい、君たち」
嘆息とともに視線を手元に落とす。乱雑に巻かれた包帯の下から伸びる十本の指は、輪郭や色がそれぞれに微細な違いを持っている。これらのかつての持ち主たちとも、浅からぬ愛憎劇があった。愛と憎悪。そう――男にとって、確かに愛であった。そうでなければ、わざわざ身体に接いだりなどしない。
名を変え、声を変え、姿を変えて。何もかもを挿げ替えた今ではもう、彼の『師匠』だった当時の片鱗も僅かばかりになってしまった。
次は、どうしようか?
「そうだなあ、久しぶりにまた弟子を取ってみるのも悪くはない」
今度は友達なんてもののいない、孤独で哀れな子どもにしよう。そうしたら、きっと良い子に育つ。僕の跡も立派に継いでくれるだろう。
これから何者でもない男の腕に手繰り寄せられるだろう、血濡れた未来への期待に胸を膨らませ、包帯の下で眠る目玉を煌めかせた。
『弟子を取らなくなってもう暫く経つけど……あの時教えた彼や彼女は今どうしてるのかなあ』
「元気でいてくれよ――ザックくん」
※匿名希望様から寄稿していただきました。
アリメンタという街は、火山帯に位置する。毎日掃き掃除をしたところで、次の日には再び火山ガラスと斑晶が降り積もってしまう。雲はもくもくと流れ、山は次へ次へと息をする。活発で、生命力に溢れた土地だ。だからこそ、アリメンタはそこに在り続けた。
よい風が吹いた日であった。通りを走り回る仔犬の姿は無く、名物を売り歩く屋台もその暖簾を降ろしていた。砂埃が地を洗い、突風が空気を研いだ。
びゅうびゅうごうごうと窓を叩いた旋風は、火山帯の雲と埃のいっさいを攫いながら、どこか遠くへ走り去っていった。風に磨きあげられた空は澄み渡り、青黒い一帯の中で、白や赤や緑の光がぎらぎらと冴えるように燃え盛っている。空は近く、暗く、強く、深海に抱いている幻想にもよく似ていた。煤けた匂いと厚い雲に覆い隠され続けているものが、こんなにも衝撃的で恐ろしい姿をしていると知った日には、震え上がったものであった。
星の終わりは命の終わりだ。頭上では数え切れない命たちが、終わりに向かって突き進んでいる。人の尺度では到底測れず、神にすら追いつけないかもしれない規模と速度で。
恐ろしいことだ。こんなものを毎日見る羽目になった暁には、きっと気が遠くなってしまうだろう。だからこそ火山は雲を煙を撒き散らすのかもしれない。人の想像も及ばぬほどに、世界はよくよくうまく出来ているから。
◇
「では行ってきます、ノッドノクス様」
「はいはあい、気をつけて行くのよ。楽しんでらっしゃい」
すっかりと様になった看護服からモノクロの私服に着替えたリステンとアルテンが、ぴったりと角度を揃えて一礼する。ノッドノクスは手を振り彼らを見送った。
『あんたたちが来てから初めてじゃないかしら、空がこんなに晴れたのは。せっかくだから見に行ってらっしゃい。アリメンタの夜空は大きいわよ』
まだ幼い彼らは、この空を見て何を思うだろう。一面の眩い輝きに瞼を伏せてしまうだろうか。それとも瞳のかたちをしたレンズいっぱいに焼き付けだろうか?
双子の成長に期待を寄せながら、窓際に肘――もちろんダリアのものである――を着き、はあと息を吸って吐く。すると回路が音を立てながら信号を受け流し、ボディの隅から隅まで電気エネルギーが行き渡る気がした。吸って吐いて、吸っては吐いて。つもりの行為ではあるけれど、少しでもダリアに伝わってほしいのだ。空を見上げる虚ろな目に、白い星が光を灯すように。手を伸ばせば浸してしまえそうなほど近くに広がる星の海を、ほんの僅かだって感じられるように。
「こんなに大きくて広いんだもの。みっちゃんもきっとどこかで見てるわ」
或いは、この星たちの中のどれかが、みっちゃんのものでありますように。願いながらノッドノクスはダリアの額を無骨な手で静かに撫でた。すると。
「あら」
電気信号でもない、脊髄反射でもない。なのにダリアの頬が緩んだように見えたから、ノッドノクスは目を閉じた。
もうここにはいないふたりの願いが、夜空を賑やかすあなたたちのようにいつまでもさんざめいていられますように。
1. ダリア・ノッドノクス――星に願いを
◇
あまりにも夜が眩しいので、外に出た。
もはや寄り付く理由もなくなった公園のブランコに座ると、鎖が擦れて寂れた悲鳴を上げた。何年ぶりになるだろうか、こうして公園で寛ぐのは。シルバは嘆息して空を見上げた。真に〇〇の少ないこの街では、公園や遊具もただの持ち腐れなのかもしれないと思いながら。
「リステン、シルバ様がいます」
「あら珍しいですね、アルテン」
「おや?」
聞き慣れた、しかし懐かしい声に顔を上げる。リッターシルトで制服のように着ていたシスター服に身を包んだ双子のハイゴーレムが、手を繋いでこちらに向かって歩いてくるところであった。まったく同じ歩幅で歩くふたつの影を、公園の電灯が照らし出している。
「こんな時間にどうしたんだ? まさか――」
「ノッドノクス様が、空が綺麗だと仰ったので」
「大きな星空というものを見に来たところです」
――まさか、ノッドノクスと喧嘩、などする訳もなく。それは良かったと安堵し、それもそうかと苦笑した。自作のゴーレムのことになると、発想がネガティブな方向へ傾いていくのは悪い癖だ。バントーは〇〇想いだとか何だとか笑っていたが、自分自身では過保護だと、思う。
そして同時にシルバは、まるで発言を遮るかのように双子が揃って反論を述べたことにも驚かされていた。シルバが認知している範囲では、双子は大人に対しここまで流暢に意見などしなかったし、出来なかった。そんな風には作らなかった。それがきっと彼女の、エミシアの望みだったから。
「そうだな、私はひどい親だ」
「大丈夫ですか、シルバ様」
「体調が優れないのですか」
「ふふ」
私は、ひどい親だ。ゴーレムのためだと言いながら、エミシアの思い通りになる人形を作った。そして今、他者を傷つける機構を持たせてしまった息子達が真っ先に人を労る心を持てたことを、こんなにも嬉しく思っている。身勝手な親だ。けれど、幸せな親だ。
常に背負い続けているはずの、〇〇た罪の重ささえ綿雲になってしまいそうなほどの幸せが胸の内から湧き出てくるのをシルバは感じた。私の〇〇たちは立派に育ってくれている。
恐ろしくて、訊けなかったことがある。彼らの不幸を作り出し、後押ししてしまった負い目もあった。彼らの未成熟な感情に甘んじて目を背け続けた。
親として、造り手として持つべき願いがあった。私はそれを叶えられなかった。けれどそれで良かった。けして不幸せになどならなかった。
「お前たちは今、幸せか?」
「はい、空が綺麗なので」
「シルバ様もいますので」
「……そうか」
ブランコの鎖がきいきいと軋んだ。シルバは立ち上がり、双子の頭を撫でてから、視線を合わせて不器用に笑って見せた。
「そうだな」
2. シルバ・アイアーン――天の光はすべて星
◇
「先生ほんとにありがとう! パパと、ママと、プーちゃんの次に大好きよ!」
綿を入れ換えられ、丸みを取り戻したぬいぐるみを愛おしそうに抱きしめて、少女はほころぶように笑った。
そのプーちゃんは、母からの贈り物であったらしい。少女から見た祖母が、夢で見たまんまるい生き物に惚れ込んだらしく、せっせと縫い付けて再現したのだという。そしてそれは母に贈り伝えられ、少女の手に渡る頃には随分とぼろぼろになってしまっていた。中綿は固まり、毛並みもだいぶ荒れた様子だった。少しばかり入院を要したけれど、きっと生まれたて当時の健康を取り戻してくれたのではないかと思う。
少女は元気になったプーちゃんを見て、またいっぱい悪い夢を食べられるねと語りかけた。
「どういたしまして。気をつけて帰るんだよ」
「はあい……あ!」
いつものように患者を送り出すために玄関の正面扉を押した瞬間、感嘆の声を上げながら少女が飛び出した。危ないよと声をかけるが、少女は興奮を隠せないようで、上空を指しながらぴょんぴょんと跳ねる。
「せんせえ! おそら! すごくきれい!」
「……ああ、本当だ」
少女の指先を追って上を向いた瞬間、見えたのは厚い雲ではなく、圧倒的なスケールの夜空であった。大小様々なサイズの星々が天上に散りばめられ、煌々と光を放ち合っている。一体どんな仕組みなのか、赤や青や緑に光る星もあり、それらを見比べて数えているうちに意識を呑まれてしまいそうな荘厳さと雄大さでアリメンタを覆い尽くす。
目眩すら覚える光景に、思わずメディッカは扉へ寄りかかった。
「まるで落っこちてきちゃいそうね」
先ほど治療したばかりのプーちゃんを空へ掲げながら少女が言う。きらきら、ぎらぎらと。無数の光を浴びながら。
いつだって不安に思っている。アリメンタの未来と、アリメンタを生かした〇〇の行く末を。幸せという言葉の意味すら分からなくなるほどの犠牲と生贄を捧げてきたアリメンタという街の歴史に、恐怖しなかった日は無かった。
『先生、ありがとう』
それでも、必ず言われた。何度も言われた。持ち主に、患者を愛おしそうに抱きしめながら。皆一様に、幸せだと笑いながら。
「ほんとうにありがとう、先生! 先生にも、いっぱいのしあわせがやってきますように」
高らかな声にはっとして顔を上げた。星空が覆う坂道の上で、少女が大きく手を振りながら、さようならを告げていたところだった。
3. クロウ・メディッカ――銀河鉄道の夜
◇
今ここで向こうへ逝けるなら、私には不釣り合いな、うつくしい風景が見られるかもしれない。そう思いながら点滴の針を引き抜いた。
自身を取り巻く数多の医療機器の電源をひとつずつ落としていく。生体情報モニタが暗転し、部屋からひとつ、またひとつと光源が失われていく。そうしてすべて消え失せる頃には、いつもなら、部屋は真っ暗闇に覆われる。しかし今宵はそうではなかった。
空が、星があまりに眩しく見えたから。それをしかと眺めてみたくなったのだ。目を閉じ、暗闇に目を慣れされる。暫くそうして、微睡みが訪れそうになる頃、ようやく瞼を開いた。
世界と自身を隔てる窓枠の向こうには、見たこともないほど巨大な星空が広がっていた。言わば紛うことなき絶景であり、誰もが認めるうつくしさである。
それを見た瞬間、えも言われぬ衝動に肉体を支配されたように感じた。しかし培ってきた知識を端から並べて探しても、それを例えられる最適な言葉はついぞ見つからなかった。
いずれにせよ、この空は、私の知らない何かを感覚で思い知らせ、叩き伏せ、平然と打ちのめす無慈悲さを内包しているのだと結論づけた。
うつくしさとは、凶器だ。
――とある少女に、星空の下で天使のお迎えがやってくる内容の絵本を読んでやったことを思い出した。ふと、奥底に押しやっていた記憶が呼び覚まされる。
少女はちょうど、この星空によく似たうつくしさを持ち合わせており、無垢で残酷であった。私の掲げた最終的な目標がどれだけの骸を積み重ねるものであると知った時も、彼女は変わらず微笑んでいた。微笑みながら、私の手を取った。
今思えば、彼女も何かが破綻していたのだろうと思う。私は理論を以て情緒を廃した科学者だったが、彼女は愛で倫理を殺した被検体であった。何をするのか、されるのか、すべてを知って尚、自らこうなることを望んだ、おそろしい女だった。しかし、彼女ほどの逸材をただの被検体にしてしまうのは惜しいと初めて感じた。正しい知識を与え育て上げれば、恐らく記録的なの成果を生み出す科学者になるだろう。科学者に有るまじきことであるが、直感がそう叫んだのだ。
しかし結局、私は彼女の望みを叶えた。彼女の願いを礎に、骸を踏み台にして、作りたかったものを作りあげた。だからこの話は、ここで終わり。それ以上の報いは無く、祝福も不要であった。私の記憶には彼女の微笑みがこびり付いた。ただ思い出と、結果だけがあった。
どれだけ醜かろうと、これだけは私のものだ。
窓枠に頬杖をついていると、視界の端で赤い光が瞬いた。振り向くと、赤い髪を持つ看護師の少年がバインダーとランタンを手にして立っていた。その姿は、絵本に出てきた天使によくよく似ていた。
「私を連れていってくれるのかい」
「すまなかったね、天使様じゃなくて」
そう、ありもしない、有り得もしない、都合のいい夢だった。検診だと笑う少年に向かって、八つ当たりのように笑ってやった。
4. クラリス・エルドリッジ――よだかの星
◇
「だめだろう、点滴を外しちゃあ」
「余計な光を消したかったのさ。空が見たくてね」
振り向いた瞬間に見えた、皮肉とも苦笑とも取れる悲しそうな笑顔に、僕は何も返せないでいた。しかし無理に繕って見せるのも彼女にとってはただの苦痛でしかないのだろう。己を納得させながら、脈を確認するために彼女の細すぎる手首を取った。
彼女はこうすると、必ず不要だと言う。ベッドの周囲には、人間を遥かに上回る速度で計算し、保護し、治療するための機器がごまんと散りばめられている。確かに手ずからの検診など無用なのだ。しかし、だからといってそれを辞めてしまうことは避けたかった。
「僕にはね、いつだって責任があるんだ」
「責任?」
この街に住まう者すべての人生とも言えるアリメンタそのものに手を出してしまった者が、人として、せめて医者としての最低限の責任を果たすにはどうすればいいかを、いつも考えている。だからこそ外法の科学者であろうと、外れに住んでいようと、アリメンタの者であり、身体を患っているのであれば例外は無かった。アリメンタに灯る命を無作為に失ってはならないと強く感じたからこそ、彼女の元へも定期的に足を運ぶようにしていた。
脈を計り触診をする間も、彼女は窓の外をじいと見つめていた。灰色のペンキを厚く塗ったような空が、今夜だけはぎらぎらと光を弾けさせている。星に魅せられているのか、星に何かを思っているのかは分からなかったが、普段は下を向いてくすんだままの目が、星の光を浴びながら瞳の色を強く放ち輝かせていた。それを見て僕は、やはりこの行為には意味があるのだと確信を持てた。
「もちろん君だって、たくさん、たくさんのひとたちに責任があるのさ」
彼女がどんなことをしてきたのかを直接聞いたことはなくとも、神の権能に頼らずとも、この施設自体が物語っている。けれど今更彼女に向かって人に関わる責任だとか、命を背負う責任だとかを説くつもりはなかった。ただ彼女には今があり、これからがある。それを守るのが医者の仕事なのだ。
「生きてくれよ」
誰もが誰かへ願う想いだ。それは彼女の人生に関係なく、命そのものへの想いである。
「星たちだって、こうして生きてる」
苦しかろうと、悲しかろうと。
燃え盛りながら、強い灯りに照らされながら。
空を見上げたままだった彼女の相貌がゆっくりと動き、振り返る。その瞳は星空を背にして尚光を湛えながら煌めき、まっすぐに僕を見据えていた。うつくしい、星を掬った瞳であった。
5. ステラ・ヒール――星の王子さま
※匿名希望様から寄稿していただきました。
もうだいぶ昔のことのように感じる。一度辞めたのが、幼い部下が出来た時。そして晴れて禁煙に失敗したのが二週間前。何となく口寂しくなった時に思いついた────思い出した先が、これだった。今更どれだけ吸ったところで体調が悪化することも無いし、そもそも何か変化するような真っ当な人間なども周りにいない。それでも、どことなく悪さをしていることに気づいた子どものような気分に駆られ、年甲斐もなくこっそり隠れて吸っていた。
なのにわざわざ自白するように見せびらかしたのは、ふと、どうでもよくなってしまったからだ。露呈した時には、きっと俺のことを一丁前に窘めたり叱ったりなどするだろう。あくまで良き相棒を演じる男は、例え俺が隠れて煙草を吸っていようが、心の底では何とも思っちゃあいないくせに。加えて、煙草のにおいを隠し通すのもなかなかどうして面倒くさいのだ。ならば、いっそ見せつけてしまおうと思った。
案の定、目を丸くした眼前の男に向けて、知らなかっただろうと笑って見せた。見せながらも、視線は程よく逸らせるところへ。ちょうど、揺らめく煙が霧散していく辺りを見上げてしまっていた。何かと理由をつけたところで気まずいものは気まずいし、あの頃のセクタという故人を裏切ってしまった罪悪感にも見舞われた。
もうどこにもいない俺自身は、禁煙に成功して笑っていたというのに。
砂と埃にまみれた路地裏の地べたは硬く、冷たい。黒い外套はきっと真っ白に汚れてしまうだろうと思った。それで、構わなかった。
煙草は失敗だったかもしれないなと笑ってはぐらかした。どうしたって、失ったあの頃を思い出してしまうし、俺も、お前も、煙のにおいにまみれてしまうし。何もかもを文字通り煙に巻くなんて器用な真似は、今の俺には出来そうになかった。
無口で仏頂面の生真面目な男は、砂埃も厭わず、俺の隣に座り込んだ。いつもの謹厚な所作を忘れたかのような粗雑さに安心しながら、建前で「いいのか」と問えば、構わんと言われた。
「お前がまた煙草を吸っていたのは知らなかったが、お前は隠れて煙草を吸うような奴だからな」
よく知っている。知っていた。昔から。生まれ直したって変わらなかった。
そんな今まで通りが、あまりに寂しかった。
ただただ、煙のにおいだけがいっぱいになっていた。それでもよく微笑んでいた。珍しくも朗らかな横顔に、そうだな、と頷いた。
もうそこにあの頃の俺たちはいなくて、自慢の後輩だっていなくて、追い縋れなかった平凡に未だに夢を見ている。煙の終わりみたいにぐにゃぐにゃになりながら霧散していく人生の終わりを、未だに諦められないでいる。それでもいいと言われた。お前はそういう奴だから。
今にも落ちそうな灰を無視して、黒い黒い外套の裾を見た。ふたり分のどちらもやはり白にまみれてしまって、本当の色がわからなくなっていた。
それでもいいと強かに放つ男の声を、煙に巻いて無かったことには出来ない。戻れなくとも、変わりたかった。
ずっとずっと昔から、確かにお前はそういう男だったと、思い知らされながら。