2022年10月のPJW1を経て今日までの、各ゼミ生の新作を掲載。
飯島透太 error code:6B6s7k
菊地輪
「穴男」制作委員会
相方瑠伊「収差」
2022年10月のPJW1を経て、各ゼミ生のヴァージョンアップした活動を新規掲載。
※一部、前回のPJW1のポスターを流用しているゼミ生もいます。ページ下部の【2022.10】ポスターもご覧ください。
制作:哲学―メディアー藝術ゼミ
「シ」というタイトルの映像作品を作る。
それ以外の情報は何もない。そこから対話し、探索し、作られた映像作品。「シ」は何を問いかけ、何をもたらすのか? 見るものそれぞれの「シ」を浮かび上がらせる試みである。
各個人の試みに向かう前段階としての共同制作作品。
飯島透太
菊地輪
「本物」と「本物っぽいもの」の違いは何だろうか。
同じ言葉でも、その言葉が「本物」か「本物っぽい」かは、使い方やその言葉を放った人の表情、思い、姿によって左右される。だが、その境界線は曖昧で、「本物」の言葉かどうかを見極めるのは困難だ。
「本物」の言葉やあり方を求める試みとして、試験映像を作った。
「死にたいなんて言うなよ。諦めないで生きろよ。」は一見綺麗事で正しそうな言葉である。そんな言葉で心が変わるくらいなら、それは馬鹿げている。綺麗事だろうが、心のからの言葉だろうが、何かを考え、苦しみ、悩み続けようが、一日中惰眠を謳歌しようが、結局人は皆いつかは死んでいく。それでも必死に足掻いてい生きていくことを叫んだ曲、「命に嫌われている。」を使用した。本家ではなく、まふまふの「歌ってみた動画」の音源を使用したのは、本家の電子音(初音ミク)よりも彼の声の方が本物のあり方や言葉を叫ぶような歌い方をしていて、今回の問いと一致させやすいからである。一見本物に見えてしまう言葉が溢れかえり、「本物」と「本物っぽいもの」が曖昧になった中で、「本物」の言葉を今一度求めながら叫ぶ。これ以上、「本物」の言葉を減らさないためにも、少しでも「本物っぽい」ものを「本物」へと戻す。この映像はそれを表現したものである。
菊地輪
アクションペインティングにおける「本物」とは何か?
それは、徐々に変化する絵と舞そのものである。
このアクションペインティングは、「本物」は存在していながら、見ることはできない。映像も写真もカメラを媒体として見るもので、その複製技術によって、誰もが本物の「コピー」を見れるようになった。今回の作品は、徐々に変わっていく絵と舞そのものを「本物」としている。変化する絵と舞自体は、一回性である。なので、出来上がった絵も、映像もすでに完結した、あるいは再現されたものであって、「本物」ではない。
現代は、「本物」と「コピー」の境界が曖昧である。「本物」を再現したものである映像で、あえて一回限りの舞と変化する絵そのものを映す。これは「本物」を存在させておきながら、すでに映像として再現されたものとして「本物」を見えないように、つまりは「本物」を秘匿させるということである。複製技術がどんなに発達をしたとしても、一回性であるライブや舞、変化する絵など、「本物」を見ることはできない。
一回限りのものは、その時その場所でその瞬間見ることによって初めて「本物」を見ることができる。このアクションペインティングは、「本物とは何か?」を本物を秘匿することによって逆説に示したものである。
神田敦喜
みなさんが日々見ているいわゆる働く車と呼ばれている車たち、特にタクシーやバスなどはデザインは平均化され、利便性、効率性を第一に作られているため、「見て美しい」と私たちに感じさせにくい傾向にあります。
それと対照的に、自家用車、特にスポーツ趣向の物は所有者の趣味やセンスによって全く毛色が変わってきます。その現実を見て「自動車は自己表現の方法であり、芸術である」という思想や
「デザインの多様性」の重要性などを感じるようになりました。
その感性をそのまま映像化しました。
中島康成
菊地輪
菊地輪
青山泰三
飯島透太
大塚有楠
金子練人
神田敦喜
黒澤諒・清水絢心・鈴木健志朗
菊地輪
中島康成