1868年(明治元年)に第12代大村藩主大村純煕候が、戊辰戦争で受難した大村藩士を祀るために建立したのが始まりです。
※詳細は、右の▽印をタップして下さい。
建立当時は戦死者を祭るための招魂場 と称されていましたが明治7年に官祭大村招魂社、昭和14年に大村護国神社と改称され、建立以来150余年の歳月を経て現在に至っています。
現在の社殿は令和5年に建て替えらえたものです。
天保10年(1839)福岡県早良郡の生まれ。大村藩内に勤王思想を広め大村三十七士の思想的な指導的として、また大村藩を尊王倒幕へ導く原動力として活躍しました。
明治直前の慶應3年(1867)に松林飯山は佐幕派によって暗殺されますが、これををきっかけに大村藩の佐幕派(幕府側)が一掃され大村藩は倒幕に方針を決定します。その偉業をたたえ翌年墓碑が建てられました。
現在の墓碑は明治15年に再建されたものです。
神社神殿の脇に墓碑があります
大村・西大村出身の日清、日露、日独戦争、満州事変及び大東亜戦争における殉職者の名が刻まれています。
手前の名碑は、建立から70年余り経過し土台が傾き倒壊の危険性があったため故石坂軍次氏による浄財にて修復されました。
三十七士とは、明治維新に大村藩を尊王倒幕運動に導く原動力となった人達のことです。
ペリー来航以来、国内は「開港か攘夷か」「勤王か佐幕か」をめぐり騒がしくなりました。大村藩では、松林飯山や渡辺昇を中心にして三十七士が活躍し藩論を尊王に導びきます。
その後大村藩は、兵制を改革し西洋銃隊を編成、戊辰の役では朝廷側(新政府軍)として東征北伐に参戦し目覚ましい活躍を果たします。この功により大村藩は小藩ながら3万石の賞典を受けました。
この碑は三十七士の功績を讃えるため死没の順に建てられたもので、明治36年に建設が始まりその後順々に追加されて大正6年に37基になりました。
※新政府の論功行賞により大村藩に与えられた賞典は、薩摩、長州、土佐に次ぐ三万石であり、倒幕における大村藩の活躍が高く評価されたことがうかがえます。
●旧円融寺庭園
円融寺は承応元年(1652年)4代藩主大村純長により創建された天台宗の寺跡です。
大村純長は大村藩3代藩主である大村純信の養子となりました。しかし、純信が跡目を引き継ぐ前に純長が亡くなったため、大村藩の存続が危うくなりましたが、徳川家光の裁可により跡目相続が許されました。純信はその恩義に報いるため、徳川家の位牌を祭ることを願い出て、特別に許可を得たゆかりの寺です。
この寺は、明治元年に廃寺となり、その跡地が今の大村護国神社となっています。
●旧円融寺庭園(国の名勝)
境内奥の斜面を利用して、約400個もの石を用いて築かれた枯山水式の庭園です。
特に3つの立石を組み合わせた、三尊方式とよばれる立石が配置され、中央と東側には白い玉石を使って川と滝を表した枯流、枯滝を見ることができます。その姿、規模ともに、たいへん優れた庭園です。
●社名碑
平成8年2月(2016年)に戦後50周年を記念して故石坂軍次氏( 前大黒屋会長)から寄贈されたものです。
幅1,2m 高さ約4mの社名碑は香川県の御影石が使われています。
設置前は段ボールに書かれた「護国神社」の案内板が木枝にぶら下がっていたそうです。散歩中にそれに気付かれた石坂氏が「これでは英霊が悲しまれるだろう。」と社名碑を寄贈して頂きました。
(大村護国神社の全体図)