大森東いまむかし~


あっと驚く?! 大森東の歴史

※かっこ()内記載のコース番号は、「いつつのわ!健康ウォーキング&魅力再発見マップ」のコース番号と対応しています。

①中富小学校はかつて海苔干し場だった?!(コース①、コース⑤)

旧呑川・潮見橋付近の海苔干し場の風景(大田区提供)

 中富小学校(大森東5-6-24)

 

 中富小学校は、昭和25年(1951年)に大森第四小学校からわかれる形で開校しました。開校に向けて広い土地を確保する必要がありましたが、その当時は海苔養殖が真っ盛りの時代であり、海苔干し場として利用されていた土地を提供してもらうのに苦労したそうです。

 校内には、かつての海苔養殖の様子を伝える海苔資料室があります。写真資料をはじめ、大小さまざまな海苔道具や、海苔取船などが展示されています。 

②大森東中学校には大きなガスタンクがあった?! (コース①)

 大森東中学校(大森東4-1-1)


 大森東中学校は昭和57年(1982年)に開校と、大森東地区では比較的新しい学校です。

 実は学校ができる前、この場所には巨大なガスタンクが建てられていました。

 ガスタンクが建設されたのは、終戦直後の昭和23年(1948年)のことです。当時、既に別の場所にガスタンクが設置されていましたが、羽田空港を離着陸する飛行機の邪魔になるという理由で、現在の大森東中学校の位置に新たなガスタンクが建設されました。

 建設から約30年間周辺地域へのガス供給を続けていましたが、役目を終え、昭和56年(1981年)の春に取り壊されました。

ガスタンク

昭和39年 石原裕之氏撮影 大田区立郷土博物館提供)

ガスタンクのある風景

(昭和41年10~11月 横山宗一郎氏撮影 大田区立郷土博物館提供

③源義経も参拝した神社がある?! (コース④) 

三輪厳嶋神社(大田区撮影)

 三輪厳嶋(弁天)神社(大森東4-35-3)


 三輪厳嶋神社には、源義経にまつわる伝説が残っています。

 義経が治承4年(1180年)に郎党を率いて関東に至った際、多摩川を渡る折に強風に見舞われ、大森の沖まで流されてしまいました。漂流する船の上から陸地に目をやると、神社の森に社があるのを見つけます。義経が社に向かって海上平穏を祈念すると、やがて風もおさまりました。

義経は船を浜につけ、地元の人間に社の名を尋ねると、「厳嶋神社」であったので、その加護を感謝し社殿を修理して、船をつけた浜辺に注連竹を建てました。この注連竹に付着した海藻が海苔であったそうです。

④旧呑川が直角に曲がっているワケ (コース②、コース④)

 旧呑川緑地


 かつての呑川の河道跡である旧呑川緑地は、管内西部の「ヤマザキショップ」付近で直角に曲がっています。この部分は「かんまがり」と呼ばれ、「川曲がり」がなまったものではないか、といわれています。

 通常、川は高いところから低いところに向かって真っすぐに流れようとします。起伏の少ない大森東地区で、なぜこのように川が直角に曲がっていたのでしょうか。

 その原因は、元禄16年(1703年)の大地震であるといわれています。江戸時代の『新編武蔵風土記稿』によると、大地震により呑川の流れが変わったと書かれており、それまでまっすぐ流れていた呑川が、地震の地殻変動の影響で現在の緑地のような直角の流れに変わったことがうかがえます。

吞川橋から見た「かんまがり」(大田区撮影)

写真奥で右に大きくカーブをています

「かんまがり」の位置(大田区作成)

⑤旅館が立ち並ぶ鉱泉街の風景が?! (コース②、コース③、コース④)

 森ヶ崎(大森南5丁目付近)


 現在は森ヶ崎水再生センターや森ケ崎公園が立地する森ヶ崎地区は、明治期から戦前にかけて鉱泉街として栄えていました。

 明治32年(1899年)に掘り当てられた鉱泉に皮膚病などへの効能があることがわかると、森ヶ崎には明治40年代にかけて数多くの鉱泉旅館が開業しました。旅館の周辺には釣り堀や養魚場がつくられ、東京近郊の保養地・湯治場として栄えました。

 しかし、第二次世界大戦が始まる頃には物資の不足により旅館の営業が困難となり、鉱泉街は衰退してしまいました。

鉱泉旅館

(「絵葉書大森名所森ヶ崎温泉 養生館」 明治末頃 大田区立郷土博物館提供)

鉱泉旅館と釣り堀

(「絵葉書 府下森ヶ崎大金旅館鯉池之景」 大正~昭和初期 大田区立郷土博物館提供)

⑥海水浴場や別荘、遊園地が?! (コース③、コース④)

 森ヶ崎(大森南5丁目付近)


 森ヶ崎が鉱泉街として栄えていた昭和初期から戦時中にかけて、現在の森ヶ崎海岸公園の辺りには海水浴場が設けられていました。海水浴場には水泳教室もあり、桟橋には飛び込み用のヤグラが組まれていて、潮が満ちてくると水泳指導が行われていたそうです。

 また、海水浴場近くには遊園地もあり、小さなプールやローラースケート場、野外舞台が開設されていたそうです。

海水浴場の風景

(絵葉書 大森森ヶ崎海岸 大正~昭和初期 大田区立郷土博物館提供)

森ヶ崎海岸

(絵葉書 東京府下 森ヶ崎海岸 大正~昭和初期 大田区立郷土博物館提供)

⑦日本でも数少ない構造物が大森東に?! (コース③、コース④) 

羽田可動橋(大田区撮影)

 羽田可動橋


 森ヶ崎海岸公園を南に進み、大森第一中学校の裏、海老取川の河口にさしかかると、海岸に途切れた橋のような構造物が見えます。これが「羽田可動橋」です。

 羽田可動橋は、首都高羽田線の羽田トンネルにおける事故を防ぐために、1990年に建設されました。海老取川沿いには鉄工所などが立地しており、大型の船の航路を確保する必要があったため、通常の橋ではなく「可動橋」という形での建設となりました。

 日本で建設された可動橋は、現存しないものも含めると100件ほどありますが、その半数以上が「跳開橋(跳ね橋)」という構造で建設されています。しかし、羽田可動橋は空港に近く、跳開橋のような高さのある橋は建設できませんでした。そのため、日本でも例の少ない「旋回橋」という構造で建設されました。

 可動橋は1994年に首都高湾岸線の開通後も使用が続けられましたが、交通量の減少などを理由に、1998年、建設からわずか8年後に使用が停止されました。

【参考文献】

・元大森海苔漁養殖業者+編集委員会編『海苔のこと 大森のこと』ノンブル社、2010年

・中富小学校ホームページ「https://www.ota-school.ed.jp/nakatomi-es/index.html

・『大田区の文化財 第七集 大田区の神社』大田区教育委員会、1971年

・呑川の会編『わたしたちの都市河川 呑川』呑川の会、2022年

・「絵地図に見る森ヶ崎界隈の今昔」『水道公論 2009年11月号』4-8頁、2009年

・伊東孝「可動橋一覧と近代橋梁の利活用」『土木史研究 22号』333-339頁、2002年