今回は、宗旨・宗派について(神道編)です。
仏教と同じように、神道にも様々な宗派があります。
黒住教・神道修成派・出雲大社教・扶桑教・実行教・神道大成教・神習教・御嶽教・神道大教・神理教・禊教・金光教・天理教・神宮教の14教派で、神宮教が明治32年(1899)解散したため、一般に神道十三派と呼ばれました。
それぞれの教えと特徴をご紹介していきたいと思います。
【黒住教】
教祖は、黒住宗忠(くろずみむねただ)。
黒住教の教えは「誠の教え」です。よりよく生きるための「五つの誠」を掲げ、実践することを呼びかけています。「五つの誠」とは、以下になります。
・祈りの誠
・孝養の誠
・奉仕の誠
・感謝の誠
・反省の誠
祈りの誠では、毎朝日の出を拝む日拝を神聖な祈りとしています。親の心に添い、恩返しに勤めるのが孝養の誠で、支えが必要な人を励まし支援するのが奉仕の誠です。信仰の原点である自然の恵みなどへの感謝の誠と、常に心を祈りにより祓い清めるのが反省の誠です。
【神道修成派】
教祖は、新田邦光(にったくにてる)。
四国阿波(あわ)(徳島県)の武士であった邦光が、明治維新後宗教活動に専念し、1873年(明治6)に修成講社を結成したのが始まりです。1876年には神道修成派として、黒住(くろずみ)教とともに十三派のなかではもっとも早く一派独立しました。『古事記』から引用した「修理固成」「光華明彩」の語が教えの根本を示す語として重要視され、また儒教倫理が教義に強く反映しています。
【出雲大社教】
教祖は、千家尊福(せんげたかとみ)。
主に中国地方をはじめとする西日本各地に拠点を有しており、日本全国に120万人を超える信者がいると言われる規模の大きな教団です。
この出雲大社教は出雲大社の祭神である大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)を奉斎し、幽顕一貫(ゆうけんいっかん)と顕幽一如(けんゆういちじょ)という2つを教義として有しています。
その意味するところは、人間が死ぬとその霊魂は大国主大神が治める幽世に戻り、生前に善行を行っていれば大神によって過去の先祖たちとともに心の安寧を得ることができ、やがて現世に戻ってくるということです。
【扶桑教】
教祖は、宍野半(ししのなかば)。
富士信仰を中心とする山岳信仰を基盤として、明治維新後に組織化されました。薩摩(さつま)(鹿児島県)出身の宍野半(ししのなかば)が1873年(明治6)に結成した富士一山講社が、1875年に神道事務局所属の扶桑教会、ついで1882年に扶桑教として一派独立します。当初は、丸山(まるやま)教を傘下教会に有していたため大きな教団でしたが、1885年丸山教の脱退後、勢力はかなり縮小しました。
【実行教】
教祖は、柴田花守(しばたはなもり)。
近世に広まっていた富士信仰を基盤とし、明治初期の宗教政策の影響の下に教団化されたものです。長谷川角行(はせがわかくぎょう)を開祖に置く不二道(ふじどう)の流れが中心にあります。富士信仰を中心としますが、教会は全国に広がります。本部は埼玉県さいたま市北区。
【神道大成教】
教祖は、平山省斎(ひらやませいさい)。
1882年に神道大成派として一派独立しました。教派神道のなかでも、教団としての統一性がもっとも弱いものの一つです。平山省斎は『本教真訣(しんけつ)』(1882)など教義書的なものをいくつか書き記していますが、個々の教会の活動はそれとはほとんど無関係だそうです。明治時代には蓮門(れんもん)教、禊(みそぎ)教の一派が傘下教会として所属し、教勢に大きな比重を占めていたこともありました。本部は東京都渋谷区神宮前。
【神習教】
教祖は、芳村正秉(よしむらまさもち)。
作州(岡山県)津山藩士であった正秉が、明治維新後宗教界に身を投じ、教部省、神宮司庁に勤めたのち、1880年(明治13)に神習講を結成したのが始まり。翌1881年神習教会となり、1882年に神道神習派として一派独立、同年、神習教を名のります。正秉は富士山、御嶽(おんたけ)山、二荒(ふたら)山などで修行して宗教体験を深めたので、教義にも山岳信仰や修験道(しゅげんどう)の影響が確認できます。教団としての統一性は高いほうではないので、形式上の所属教会もかなりあります。東日本に比較的多くの教会をもつのが特徴です。
【御嶽教】
教祖は、下山応助(しもやまおおすけ)。
御嶽教はもともとが山岳信仰から派生したということもあり、特定の教祖が存在していないという特徴があります。その教義は、人間の霊魂は聖なる山である御嶽山から生を受けてこの世に誕生するが、死後には再び御嶽山の神のもとに帰るという伝統的な御嶽信仰に基づいており、御嶽大神を祀り、真心をもって奉仕することを旨としています。
その教義が明確に表れているのが「朝は希望に起き 昼は努力にいきる 夜は感謝に眠る」という御嶽教三教言と呼ばれる教えです。これ以外にも、御嶽教には七五三の教えと言われる三教律、五教言、七行道などが存在しています。
【神道大教】
教祖は、稲葉正邦(いなばまさくに)。
教派神道の一派独立が相次いだとき、独立するに至らない教会をまとめる形で、1886年(明治19)に「神道(本局)」が結成されました。初代管長には、幕末に老中を務め維新後に神道事務局の管長を経験した稲葉正邦(いなばまさくに)(1834―1898)が着任。以後、稲葉正善(まさよし)(1848―1902、第5代館山(たてやま)藩主)、本多康穣(ほんだやすしげ)(1835―1912、第14代膳所(ぜぜ)藩主)、長谷信成(ながたにのぶなり)(旧公家(くげ))といった、もと武士・公家階級の出身者が管長を継ぐことになります。神職の出である神崎一作(1867―1938)が5代管長となってから、教義面での整備も多少なされました。1940年に現在の神道大教と名称を変えます。第二次世界大戦後も、全国の神道系教会の事務局的性格が強い教派です。
【神理教】
教祖は、佐野経彦(さのつねひこ)。
起源は筑前 (福岡県) の地方的な巫部的神道ですが,その名称のように神道に一つの理論化を試みた点に特色があります。教祖は豊前 (福岡県) の人,佐野経彦。始祖をニギハヤヒノミコトとし,濁った池に生きる人は,祓 (はらい) によって天の明るみのほうに向い,大元気として生命力に満ちた神の恩恵に浴しうるといいます。
国風高揚のために神学,神画を教授し,古来の礼法を保存するために神楽,生花,茶道を奨励するなど,実際には,庶民の日常に処する世俗倫理として機能していました。教戒の一つに「世は大いなる一家なることを忘るるなかれ」とあるのはそのような性格の現れでしょう。 1880年に立教の認可を受け,84年神道本局に属し,88年御岳教の管轄に移り,94年 10月一派として独立しました。
【禊教】
教祖は、井上正鐵(いのうえまさかね)。
神祇伯白川家の禊の古伝を得て唱えたのを始まりします。正鐵は幕府のため三宅島に流されましたが,遺徒がその道をひろめ,1894年一派として公認されました。造化三神等をまつり,禊祓(はらえ)により純一の至誠を得て安心に至ることを教旨とする教派です。本部は東京都世田谷区瀬田。
【金光教】
教祖は、金光大神(大陣)(こんごうだいじん)。
金光教の教えは、神へ無礼を働けば凶事を招き、神の願いにかなう正しく基本的な生き方を行えば、神に守られて生活ができるという教えを説いています。
神と人の関係性についても、人は神への祈りや神の助けを必要とし、また神も人を助けることで神としての働きを行える、という関係を説いています。
また、金光教の特徴とされるのが「取次」です。金光教において、人は結界内で生神金光大神の代理(てがわり)である取次者に、祈りや願いを伝えます。人は取次者を通じ神に祈りや願いを届けることで、神から助かりを授かります。
厳しい戒律などは存在せず、すべての人は神のいとしご(氏子)であるという考えから他のすべての宗教を否定しないという思想も持っています。基本的な生き方を行なっていれば、多少の逸脱を咎めない、という寛容性を持つ特徴が金光教にはあります。
【天理教】
教祖は、中山みき(なかやまみき)。
天理教は「陽気ぐらし」を掲げ、人たすけなど行っています。
教えの中には、人間の体は神様からの借り物であり、心だけは自身の物であること(かしもの・かりもの)。悪い心遣い「八つのほこり」をしないように。十全の守護と呼ばれる、10個の働きがあるなどがあります。
【神宮教】
教祖は、田中頼庸(たなかよりつね)。
伊勢神宮の神官を中心に、明治15年(1882)神道神宮派として独立し、同年神宮教と改称。伊勢神宮崇敬を中心とする活動を行いました。明治32年(1899)解散し、財団法人神宮奉斎会となりました。
以上が、神道十三派と呼ばれている教派神道です。
ざっくりとしたご紹介になりましたが、宗旨・宗派は本当にたくさんあり、教えや思想も様々ですね。
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