史跡
Historical sites
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Historical sites
暖地の海岸に生える常緑高木で,高さは20mにもなる
幹の周りから縄を垂らした ような気根を伸ばし,それが地中に入って 新しい幹となる
また幹を傷つけると乳白色の汁を出す
葉は長形で葉柄が長く,1年に2~3回落葉するがすぐまた新芽を出す
イチジクに似た実がなり花期は4~5月である
海岸沿道にその巨大な幹や枝を張り,道路を覆って立ち並んでいる姿は壮観である
アコウの一部は平成22年(2010),鹿児島市の景観重要樹木になっている
庚申塔(こうしんとう) の文字碑は寛文3年(1663),青面金剛像(しょうめんこんごうぞう) は寛保3年(1743)に建てられたものである
この2基が並んで建てられて いることから当時80年以上庚申講が続いて いたことが推察される
土地の人々はこの庚申塔を「金咲っどん」「かわさんどん」「かあさんどん」などと呼んでいるが庚申殿(かのえさるどの)がなまった呼び方と思われる
平成17年(2005),鹿児島市の有形民俗文化財(民俗資料)に指定された
島津家17代当主義弘が関ヶ原の戦いの後,慶長6年(1601)4月徳川氏に恭順の意を表すために藤野へ移り,2ヶ月ほど藤崎家に蟄居した
その時の宿所が藤崎家第11代の屋敷である
切妻型の屋根を持つ屋敷門は古びてはいるが格式ある藤崎家の象徴として,昔のおもかげをとどめている
平成17年(2005),鹿児島市の記念物(史跡)に指定された
義弘は築山を造り,楊梅(やまもも)を植えたといわれる
樹齢 約400年と推定され,現在,目通り3mほどの大楊梅(おおやまもも)となっている
平成17年(2005),鹿児島市の天然記念物(植物)に指定された
昭和40年代(1965~74)までは町内各地域で石畳の生活道路を見ることができたが,自動車が普及するようになると環境も変わり,道路は舗装拡張され,今では,ここの石畳道が過去の生活を物語る桜島地区唯一の石畳道になってしまった
今日の道路は,舗装され側溝の付設が普通であるが,当時は路上を生活廃水や雨水が流れて道の中央部は侵食されて低くなり,いたる所に水溜(みずたまり)ができて,通行に不便をきたすばかりでなく,衛生的にもよくなかった
これらの解決策が石畳道であったが,この道にも苔(こけ)が生えたりして滑りやすく,水汲み運搬,一般歩行にも用心しなくてはならなかった
逆修(ぎゃくしゅ)五輪塔2基と宝塔残欠(ざんけつ)1基がある
昭和4年(1929)頃,地中から発見され, 現在地に移された
宝塔の塔形は基礎と笠が方形で塔身は円筒形,頂上に相輪を置いている
なお塔身と笠の間に首があるのが特徴である
現在、宝塔は笠のみ残り,笠以外の部分は五輪塔のものである
中坊(なかんぼう)の五輪塔は,ミカン園の火山灰の中に埋もれ,空輪風輪だけが地上にあったものを,昭和57年(1982)8月発掘し現在地に安置したものである
この中には水輪の中に骨を納める穴を掘ったものもある
造立は,鎌倉時代前期の建長年間(1249~1256),鎌倉時代中期の文永年間(1264~1275),永仁年間(1293~ 1299),正安年間(1299~1302)のものと推定される
特に鎌倉時代前期の五輪塔は県下でも少なく,たいへん貴重なものとされている
西道の逆修五輪塔,宝塔群と20m程離れた民家の庭に逆修(ぎゃくしゅ)宝塔がある
この宝塔は,相輪下部の請花(うけばな)と9輪のう ち3段を残して上部を欠損している
塔身 の主部の高さが5㎝あるので鎌倉末期の造 立であろうと推定される
塔身の形の類系から薩摩川内市の薩摩氏,串木野氏の類系と同族の鹿児島氏であろうと考えられる
鹿児島忠吉は川辺氏の末弟で平安末期の人物である
なお,この宝塔の下から陶器の小皿と素焼皿,中国宋時代の珠光青磁の小皿3枚が出土している
舟形光背(ふながたこうはい)の石像が3基存在するが,一部 欠損・風化している
仁王らしいが,独鈷(どっこ)もしくは剣を右手に持ち,左腕に蛇をからませ,頭は河童らしく,風変わりな様相の像である
造立時期など不明だが,海辺近くにあるため海難水難よけの神として信仰されていたと考えられる
昭和59年(1984)二俣橋之尾工事現場から五輪塔,貝塚及び古銭が発見された
工事のため土地が掘り崩されていたが,五輪塔4基分は取り留め,五輪塔の形に整えられた
しかし,その他の残欠(ざんけつ)があるためそれ以上の数が存在していたと思われる
五輪塔の出現によって当該地が寺か神社で あったことが推察される
また,空輪,火輪の形状,石材質などから鎌倉中期のものと推定さ れるが,すべてが同時期のものではなく長期間にわたって建てられたものと考えられる
古銭は多種類の中国の宋銭(そうせん)であり,かつてこ の地が広く他地域と交易していたことが分かる
無縫塔(むほうとう)とは台座の上に卵形の塔身を載せた石塔で,卵塔(らんとう)ともいう
主に僧侶の墓として建てられたものである
白浜丸尾の豊受神社の後ろにある無縫塔は江戸時代のもので「安永九子天,七月二十八 日,當寺前住晃玉禮昌大和尚」と刻まれていることから,安永9年(1780)に建てられたも のであることがわかる
そのほか,元禄12年(1699),文政2年(1819)のものもある
出展元 鹿児島市史跡めぐりガイドブック五訂版(平成28年3月発行)