大垣祭レポート

大垣市企画部秘書広報課(2016)より

美濃 佑輝

情報科学芸術大学院大学 メディア表現研究科 博士前期課程一年

はじめに:「軕は生き物」

大垣祭が終わって間もない,2022年5月19日に,大垣出軕運営委員会のメンバーとして大垣祭の運営に関わった大垣市役所の職員さんに取材に伺った.2022年は,新型コロナウイルスで二年もの間大垣祭が中止になった直後の年で,奉芸と短縮版の巡行のみを行い,出店も禁止,という条件での開催であった.どうして開催に踏み切れたのか,という話題になったところで,職員さんから「軕も生き物だから」と,地域の方の発言があったんですよ,と教わり,大変感銘を受けたのを覚えている.軕は生き物だから,動かさないと死んでしまう.このままではコロナ対策で芸の練習もできず,伝承が途絶えてしまうから,今年はぜひ大垣祭を開催してほしい.芸の練習を許可してほしい.そういう意味だそうだ.

大垣祭は長い伝統ある祭だが,生物としての側面をたしかに持っている.軕はなんども焼失の憂き目に遭い,そのたびに再建されてきた.それは僕たちにとっては怪我のようなものなのかもしれない.時代とともに周囲の文化を取り込み,ときに懸装品を交換し,ときに改装され,たまに大きく姿を変えるのも,僕たちの成長や老化と似ている.神社前で頭を下げ,町中を人々ともに巡行する姿も,どこか生物の趣がある.軕は動き続けることで生きる.軕は多くの人の支えで動いているから,一人の人間の意志ではやめるとも動かすとも決められないと,職員の方も言っていた.その「ままならなさ」でさえ生物らしい.

このレポートは,著者が過去の資料集の内容をまとめ,それをもとに,異なる軕のあり方を提案するためのものである.実際のところ,レポートというよりもノートに近いものになってしまったが,読者の皆様には,新しい姿を持つ軕が新しく生まれる可能性に,ひととき思いを馳せていただければ幸いである.

本レポートの目的

大垣祭は大変長い伝統のある行事であるが,何度も断絶の危険にさらされてきたことも事実である.そうした逆境にも負けず伝統が続いてきたのには,どのような理由があるのだろうか?

本レポートでは,岐阜県での伝統ある祭り「大垣祭」について,美濃の行ってきた取材と,文献調査の結果をまとめる.加えて,その調査をもとに,AR技術を利用した大垣祭の拡張を提案し,その企画の意義と実現可能性を示す.

本レポートは二部構成となっている.第一部では,美濃が取材と文献調査を通じて理解した大垣祭を紹介する.第二部では,第一部で見てきた大垣祭の姿をもとに,AR技術を応用した新しい大垣祭の姿を構想し,その実現の意義と,今後の課題を整理する.

文献調査は,大垣市文化遺産活用推進実行委員会(2014)『大垣祭総合調査報告書』の膨大な記述によるところが大きい.以下ではこの資料を頻繁に引用する.便宜のため,以降はこの文献を「総合調査」と呼ぶことにする.第一部の文章はこの総合調査を全面的に参照している.

第一部:大垣祭レポート

大垣祭で注意を引くのは,やはり市内を巡行する13輌の豪壮な軕々である.

第一部では,まず大垣祭の全体に軽く触れ,祭の主役たる「軕」については少し踏み込んで説明する.その後,それらの軕が経験した複数の焼失と再建の歴史を振り返り,最後に軕を支える人々の実像に,仕組みの面から迫る.

大垣祭へのイントロダクション

大垣祭は,370年もの伝統を誇る祭りであり,特徴として,13輌の「軕」と呼ばれる大型の華美な人力車が,毎年6月中旬に大垣市内を巡行する.軕は江戸時代に当時の大垣藩主から賜ったと伝えられる「三領軕」と,市内10の町で個別に管理される「本軕」に区別される.それぞれの軕にも個別に特徴があり,大垣独自の様式のもの,名古屋風のもの,現滋賀県の長浜地域の特徴を受けたもの,原始的形態のものなどがある.どれも金工・漆・彫刻・染織の技術を用いて絢爛な装飾がなされており,見る者を楽しませる.祭りの当日では,からくり芸,地域の子どもたちによる踊り,お囃子の演奏,軕の曳き廻しといったパフォーマンスが,各町ごとに神社前で披露される.

祭りの趣旨や形態は,時代とともに変化してきた.そもそも,祭りの始まりは大垣藩主による神社の改築を町民が喜んだことにるとされ廃藩置県までは,藩主に供する祭りという目的で,巡行中に大垣城を必ず経由し,藩主観覧のもとで芸を行っていた.また,祭りの初期は,人が担ぐ「神輿」の巡行が軕の巡結びついていたが,現在では軕の巡行との結びつきは薄まってきている.もうすでに藩主はおらず,神輿の存在感も大きく変わってきているが,祭りの趣旨や形態が変わっても,大垣祭自体は今日まで廃れることなく続いている.

大垣祭は単に370年が経過したというだけではない,注目すべき粘り強さがあるように思われる.以下ではその粘り強さに迫るため,祭の中心である軕について紹介する.

大垣曳軕

軕の紹介に入る前に,説明の準備として,軕の各部分の名称や,軕の分類について触れる.

大垣の曳軕は,主に最下層の車輪部分を成す「台車」と,その上の大まかに直方体型の「山(軕)」の部分,そして最上層をなす「屋形」で構成される.一部の軕には前方に舞台があり,ここで芸が披露される.山(胴体)は染織が覆っており,軕の印象はこの染織が大きく影響する.胴体はまず「胴幕」で覆われたあと,その上に「水引」が掛けられる.胴体の上部には手すり状の「勾欄」が作られるが,木材は漆塗りされた上で金細工の装飾が嵌められる.

軕の基本的な内部構造(「総合調査」より引用)

軕の外観と染織(「総合調査」より引用)

様々な種類の軕があることも,大垣祭固有の特徴である.大垣は滋賀県の長浜と名古屋を結ぶ交通の要所として栄えたため,その双方から影響を受けた.からくり芸を行う「からくり軕」,日本舞踊を披露する「芸軕」,さらには,かつては出軕の形式を取らず,練物を行う町もあった.加えて,大垣独自の変化も加わったので,右に示すような四種の軕が併存している.町民の手による軕と,領主からもたらされた軕の共存という点でも珍しい.このような多様な軕が併存している祭は,全国で見ても他に例がない.

軕の類型(「総合調査」より引用)

また,各町で個別に管理する「本軕」と,領主から下賜され,複数の町で共同管理する「三輌軕」の区別がある.10輌の本軕は,次の地図に示す大垣市内の10の町によって個別に管理されている.軕を収める蔵も各で所有している.一方の三輌軕は,各町の持ち回りで毎年担当を変える決まりである.なお,「本軕」は軕の胴体部分を指す言葉でもあることに注意.

軕巡行の略地図と,軕を持つ10の町

パンフレット(大垣まつり実行委員会2020)より抜粋し,著者が改変した.

以下,全13輌の曳軕を,上述の分類別に解説する.画像はすべて「総合調査」より引用.

三輌軕

神楽軕

恵比寿軕

大黒軕

三輌軕はいずれも,屋形屋根のない露天型である.構造は比較的単純であり,台車上に本軕だけが載っていて,前軕・後軕がない.この形式は大垣祭の初期の軕の姿を伝えるものとして目されている.これら三輌はかつて町民が藩主から賜ったものという伝承があり,祭りにおいて重要な立場にある.かつての大垣藩主戸田家の九曜紋の水引に,三色の胴幕が特徴的な外観である.

この三輌は直接の担当地域を持たず,一年ごとに担当を交代する形式で運用されている.例えば,神楽軕の場合は,本町,長町,新町が一年ごとにローテーションで担当するのである.他の二輌についても同様に,大黒山は魚屋町,竹島町,俵町が,恵比寿軕は船町,伝馬町,岐阜町,宮町が交代で担当する.順番に当たった町では,その年は本軕と三輌軕の二輌を受け持つので大変なのだが,この担当番が自分たちの町に巡ってくることは,芸の稽古を活気づかせるのに役立っているようだ.

前山型(名古屋型)

相生軕(本町)

布袋軕(長町)

榊軕(竹島町)

菅原軕(新町)

浦嶋軕(俵町)

愛宕軕(岐阜町)

台車上に本軕・前軕・後軕を作り,その上に屋形屋根を作る形式.いずれもからくり人形を持つ「からくり軕」であり,4種の軕の中では最も数が多い.布袋軕と浦嶋軕の二輌が素木仕上げなのが目を引くが,特に浦嶋軕の丸屋根は特徴的で,よく目立つ.胴幕に用いられている印象的な赤い布は緋色の羅紗といい,16世紀の大航海時代に南蛮貿易を通じて伝来した羊毛の織物で,それまで国内に見られなかった「猩々緋」色が珍重された.浦嶋軕は画像では白色の胴幕を利用しているが,【ライブ】大垣まつり(R4.5.15) や「総合調査」によれば,他と同じ猩々緋色の羅紗を胴幕に用いている.

出樋型

鯰軕(魚屋町)

猩々軕(宮町)

前山のない,大垣独自の形式のからくり軕である.この形式の軕を持つ町では,正面に張り出した樋の上でからくり芸を披露する.鯰軕が1800年頃から続く貴重な軕である一方で,猩々軕は2001年に再建されたばかりという対照的な二輌である.

舞台型(長浜型)

玉の井軕(船町)

松竹軕(伝馬町)

名古屋式と比べて,この形式の軕は前山がなく,そのかわりに舞台が設けられている.この二輌は芸軕と言って,町の子供達がお囃子に合わせて日本舞踊を披露する.松竹軕では同時にからくり人形によるからくり芸も行う.これらの芸軕を担当する船町や伝馬町では,お囃子のほかに舞踊の稽古も必要となる.

以上で13輌の軕を紹介した.長い伝統の中で多様な軕が生まれ,共存してきたことこそが,大垣祭の特徴である.

曳軕の喪失と再建の歴史

大垣の曳軕は,これまでも幾度となく焼失の憂き目にあってきたが,そのたびに再建され,存続してきた.特に1891年の濃尾震災と,1945年の大垣空襲では,同時に複数の軕が被害を受けた.この際の地域の人々の再建に向けた対応を振り返り,大垣祭存続の背景を探る.

濃尾震災

1891年の濃尾震災では,神楽軕,布袋軕,船軕(新町)が失われた.

三輌軕の一輌である神楽軕は,軕の巡行では必ず先頭を行く習わしでありその役割は大きかった.神楽軕は震災4年前の1887年の火事でも焼失の憂き目に遭っており,その際はすぐに再建を受けている.しかしこの震災においては翌年,翌々年では休軕とし,さらにその次の年の祭りでは,大黒軕を神楽軕風に装飾することで代用したという.再建が具体的にいつなのか,イチから新造したのか買い入れたのかなどは資料が判然としないが,震災から8年以内には三輌軕が出揃っていたようである.

布袋軕の再建は,神楽軕に遅れて1902年であると記録が残っている.布袋軕はもともと漆塗りがほどこされていたが,再建当初は白木となった.その後,1923年に町が有する土地を売却して漆塗りの費用を捻出し,漆塗りを施した.

以前の船軕は,船を模した形で,三輪で曳き,浄瑠璃の芸が行われたようである.しかし,震災で船軕を失った新町は,1916年に題材を菅原道真に変更して名古屋型からくり軕の菅原軕を建造した.菅原道真は,地域の氏神の天神神社にちなんだものである.

震災で焼失した3つの軕がすべて再建されるには,25年もの歳月が必要であった.軕の再建には多額の費用がかかる.こうした長い空白の期間があってなお再建の機運が損なわれない点は大変興味深い.

大垣空襲

大垣祭史上最大の試練は,間違いなく大垣空襲であったと言える.1945年の空襲において,神楽軕,大黒軕,相生軕,布袋軕,浦嶋軕,松竹軕,猩々軕の7つの軕が焼失し,鯰軕が一部焼失という甚大な被害を受けている.

  • 神楽軕は1948年に人形を制作,軕と付属品は担当である本町・新町・中町で費用を拠出して1949年に再建され,1992年に揖斐の久保田某作の勾欄の金具が新調された.

  • 大黒軕も1949年再建であり,1974年には勾欄部に金具の装飾が追加されている.

  • 相生軕の再建は1996年,滝脇建設(岐阜県神戸町)の工匠滝脇純一による.事前に軕蔵を立て,町の氏神の本宮から御神木の下げ渡しを受け取るなどの息の長い準備を行った末,1994年から再建のための委員会を発足させた.その後,その相生軕には2005年,2006年に岐阜県高山市の彫り物師東勝広氏により彫刻が追加され,2012年,2013年に名古屋市の名古屋創作工芸によって漆塗上,金具工事が施されている.この際,金具は意匠が厳密に検討され,精緻な復元がなされた.総額では1億1865万円ほど(うち,大垣市からの補助金約6093万円)をかけての再建となった.

  • 布袋軕は姿が似ていると言われた菅原軕を参考にし,2011年に揖斐川町の高橋建設の棟梁,坂下雅美の手で再建されている.このときの費用総額はおよそ6006万円(うち,大垣市からの補助金約4314万円)だった.

  • 浦嶋軕は,ほとんど参考資料のない中で2012年に総額8575万円ほど(うち,大垣市からの補助金約6300万円)をかけて再建された.短期間での施工となった.水引には中国蘇州の蔣雪英,京都の藤林徳扇両名の作品が用いられている.

  • 猩々軕は,2001年に総額6385万円(うち,大垣市からの補助金約3112万円)をかけて再建された.再建は1998年の建設委員会設立より始め,岐阜県揖斐川町の高橋建設に依頼している.その後,擬宝珠を大垣市の田辺塗箔店で行った.

再建時期の早さからみて,やはり三輌軕の存在感の大きさが透けて見える.その他の軕も,多額の経費と時間をかけながらも再建と装飾が行われており,長い時間をかけた軕との付き合いを読み取ることができる.一方,その費用には多額の税金が投入されているようで,経済的な支払いは市に頼っている実情がある.

大垣祭の裏側

大垣祭の実現には,無論のこと非常に多くの人々が関与している.それぞれの町ごとに伝承と軕運営のための組織があり,からくりの操りや,舞踊,お囃子の練習などを毎年各町で行っている.さらに,10の町をまとめ上げるための実行組織として,大垣祭出軕運営委員会がある.戦後のこれら人々の関わりの変化を紹介する.

現在の祭の運営は市役所所管の大垣祭出軕運営委員会による委員会制であるが,かつては軕を持つ10の町による総町集会が運営を行っていた.しかし,社会の変化に対応できなくなってきたため,1978年から市役所や警察も交えた現在の委員会制に移行した.委員会制度のもとでも総町集会同様に,各町に祭の責任者として担務員長を置き,担務員長は運営委員会に出席することになっている.

それぞれの町では必要に応じて多様な組織が作られている.たとえば本町では,もともとは軕の再建のために結成した再建委員会が「育成会」の傘下で存続しており,三輌軕と本軕でも役割分担をした組織構造をしている一方で,中町では,三輌軕と本軕の運用組織が同一で,その内部構成も簡素である.新町は出軕運営委員会に届け出る担務員長と,実質的な運営を担う担務員はあるが,別段の運営組織は設けていないようである.

出軕運営委員会内部でも新しい試みが行われている.特に2022年の大垣祭では,新型コロナウイルス感染症対策のために大垣八幡神社前をチェーンで囲って奉芸のためのスペースを確保した.また,神社前への殺到を緩和するため,地元のケーブルテレビ局の応援のもと,奉芸のYouTube配信も新たに試みられることになった.大垣まつり実行委員会に参加する観光協会の職員の方に取材したところ,軕の周囲に人がいない状況で専門的な機材で映像を収録することができたために,意図せず大変良質な映像資料を得たとのことだった.動画はYouTube上で公開されている(【ライブ】大垣まつり(R4.5.15) ).

まとめ:大垣祭の生態

大垣祭はこのように,軕の焼失を何度も経験しながら,そのたびに資金を集め,時間をかけて粘り強く再建してきた.また,軕の運用と技の伝承に関しては,各町それぞれで独自の仕組みをもち,独自の関わり方をしている.結果として,多様な形態の軕が祭りに参加し続けている.大垣祭を支える10の町では,焼失後の時間の経過で再建の機運が途絶しないこと,それぞれの町で個別に軕を管理していること,管理の仕方が各軕に任されていることは,今回の調査で得た新たな学びである.こうした属性が祭の断絶を効果的に防いでいるのではないだろうか.

一方で,再建には多額の費用がかかり,市からの支払いの割合も大きい.大垣市は現在では市街地だけでない多くの地域を抱えており,こうした支払いには議論の余地があるだろう.

第二部:「14輌目の軕」計画

企画の趣旨

 「14輌目の軕」計画は,祭りに参加する習慣をもたない大垣市民のための,新しい3Dモデルの軕,および,それに伴ってデザインされる一連の市民活動である.この軕は,毎年視覚デザインを更新し,同時に,人々がそのモデルの見た目に簡単に関与できる仕掛けを取り入れる.そして,大垣祭の当日に大垣市内にてARショーを執り行う.それによって,これまでの祭りを補完・拡大し,より多くの人々が大垣祭に参加することが可能になるのである.

ごく単純な例を挙げるならば,市内に新しく転入してくる人々をターゲットに,市役所のオフィスに軕の3Dモデルを映すディスプレイを用意し,転入届の際に簡単な操作で軕のアクセサリーを増やせるようにしておく.そして,大垣祭り当日にはそれら多数の転入者によって豪華になったモデルに市内を巡行させる.祭の参加者は,ウェブサイトからリアルタイム動画を見たり,スマートフォンアプリのカメラ機能を使って実世界映像に重畳表示されたモデルを見ることで,祭に参加する,というものである.

つまり,言い換えるとこれは,デジタルデータという新しい属性を持った軕を作り,それを14輌目として大垣祭に加えよう,というものである.すでに先述の通り,大垣祭は決して不変のものではなく,時代に合わせて変化する余地を持っている.また,この企画には相応の資金が必要になると予想されるが,一両の新造に多額の資金が必要になるのもいわば従来どおりである.したがって,この新しい形態をもって大垣祭の拡大を狙うことは,決してこれまでの大垣祭の文脈を無視したものではないと言えるのではないだろうか.

背景と動機

第一部ですでに大垣祭について調べてきた.しかし,大垣市には大垣祭に直接参加していない地域も広大にあり,むしろ広大な大垣市のなかでは上記10の街区は相当に小さい存在である.そのような大垣祭のために,たとえば再建費用のために市から高額な補助金が支出されている.一方で,たとえ面積比では小さいものだったとしても,大垣祭が大垣市に与える影響もまた無視できないと推測される.そこで,大垣祭により多くの大垣市民が参入できる仕組みを計画することは,資金投入を正当化し,大垣祭という重要な文化遺産を市全体で活用するために有意義な企画であろう.

デザインの要件について

大垣祭の軕を新しくデザインするにあたっては,すでに存在する13輌の軕の金工,彫刻,染織といった懸装品がよい参考となる.「総合調査」には図面もふくまれており,こうした情報を利用すれば,ひとまずの軕を新しく考えることは可能であろう.とはいえ,祭と計画の性質上,今後解決しなければならない課題も複数残っている.

多様な要素と歴史的背景をどう扱うか

大垣の曳軕をデータとして表現するには,構造の種別,からくりの仕組み,木装飾のデザイン,金工デザイン,胴幕・水引・見送りのデザインなど多くの要素が必要になる.その上,それら一つ一つには参考にすべき歴史的な文脈がある.他の軕との一体感をなるべく損ねることのない軕を設計するためには,知識と根気が必要になるであろう.また,歴史的な文脈に沿うように細部までデザインを凝らすのは労力がかかるだけでなく,デザイナーの創意の余地がない狭苦しい企画とも捉えられよう.これまでの歴史的な文脈に沿わないデザインをどの程度許容できるのかも重要である.

大垣の人々に愛されるための相互作用を設計できるか

大垣市には10万人以上の人々が居住している.大垣祭の拡張を目指すという計画の趣旨に照らせば,ご年配の方々を含めて,広く賛同が得られることが望ましい.しかしどうしても情報デバイス中心になりがちな企画であるため,従来の祭りとの違いの大きさについて,ご年配の方々などから反発を受ける可能性もある.こうした方々に広く門戸を開く,という企画の目的に合わせるには,たとえば公共の往来のある場所で常時展示したり,周知を徹底するなど,多くの人々に受け入れられるような工夫を重ね,なおかつ,なるべく多くの人々に祭に参加したという実感をうまく演出することが必要となる.

デザイン通りの挙行をどう実現するか

多くの人々が一斉に同じARショーを同時に観覧する,という条件は決して世界初のものではないだろうが,例えば大量のスマートフォンアプリでの位置合わせなど,技術的に挑戦的なトピックを含んでいるのは間違いない.祭り現場での技術トラブルへの対応なども課題である.

意義の確認と今後の課題

実際のところ,現在の大垣祭は後継者や人手の不足に悩んでいる.町外からの参加を歓迎している町も多いため,手を挙げさえすればだれでも参加できる状況であるらしい.とはいえ,例えば市外からマンションに入居すると,大垣祭に参加できる,ということを普段から意識することはあまりないであろう.この点は「総合調査」でも指摘されているが,未だ根本的な解決には至っていないのではないか.新しい形態の軕は,これまでとは異なる層の人々の参加の入り口にもなりうると期待している.

しかし,上述の通りの決して簡単ではないデザインを完遂するためには,本業のデザイナーの方に一定の対価を支払って依頼することが望ましいと思われる.この企画は市役所の方々にとっても新しい試みと映るはずであるから,予算の獲得のためには市役所の方々にOKを出してもらえるほどの説得力のあるリサーチが必要となるであろう.一方で,説得力のある資料を作るためにはデザイナーさんにある程度の見通しを示してもらうことが理想的である.よって,この企画の実現には少々鶏卵問題気味な課題が残っていると言える.クラウドファンディングなど,別の資金調達の方法を考えながら,次の一歩を模索していきたい.

提案のまとめ

大垣祭に中心的に参加してきた10の町は,面積でいえば大垣市のごく狭い地域にも関わらず,軕の再建等に大垣市から多額の補助金を投じられてきた.一方で大垣祭の各町は人手の不足に悩んでいる.そこで,これまでとは全く異なる形式の軕を導入することで,これまで訴求できていなかった新たな層が大垣祭に参加することを狙う.今後は,デザインと資金面で解決すべき課題が残っている.

最後に

これまでで資料集をある程度読み込んだので,基礎的な知識は十分についたと感じている.今後,この提案により一層の説得力を持たせるため,各町を回って取材を深めたり,稽古を体験するなどの活動を行っていくつもりである.生き物としての軕の姿に,今後もより一層迫っていく.

今回の調査では,大垣まつり実行委員会,大垣祭出軕運営委員会,大垣祭保存会のみなさまに取材に応じていただいた.この場を借りて感謝申し上げたい.

参考文献

大垣市企画部秘書広報課2016)『大垣祭の軕行事』(グラフ大垣No.33大垣市役所.

大垣まつり実行委員会2020)「大垣まつり」(パンフレット),大垣まつり実行委員会

大垣市文化遺産活用推進実行委員会(2014)『大垣祭総合調査報告書』大垣市文化遺産活用推進実行委員会