熊本市中央区の新屋敷を貫流する大井出川沿いに,白壁と瓦を埋め込んだ瓦土塀に囲まれた古い屋敷があった.その風情のある風景を背景に映像を撮っている撮影クルーを見かけたことがあった.その古屋敷も一連の熊本地震で大きな痛手を受け,崩れた家屋や土塀にブルーシートが掛けられていた(タイトルの背景写真参照).我家から南100mの位置から連日響く工事音は地震復興の槌音と思っていたが,一段落した後にその変貌ぶりを見て驚いてしまった.家屋は解体撤去され,屋敷林も伐採されて駐車場に変わっていた.
左上 以前撮影した大井出川と古屋敷,この時期には川沿いに柳の並木が存在した.
右上 2012年 Googleストリートビュー
左 駐車場と化した古屋敷と屋敷林
表題の背景写真 地震で崩れた川沿いの塀.ブルーシートが掛けられていた.
8月中旬からは反対北側30mからの工事音が付近一帯を覆っている.一般家屋の修復にしては工事音が大きいので家の前に出てみると,交差点斜め向かいの善行寺(ぜんぎょうじ,大江1丁目)本堂の取り壊しが進行していた.平成28年熊本地震の近所の被害で山門が傾いている写真を紹介した寺である.山門はかなり前に撤去されていたが,今回は鉄筋コンクリート造りの本堂,鐘楼,納骨堂を大型重機で壊していた.木造の庫裏は修理で済んだと聞いていたが,地震被害の地質依存度に改めて驚かされた.
地震後の善行寺(正面写真)
重機の位置に本堂が在った(交差点側から撮影)
託麻郡本庄手永
本庄荘大江村 高三百八十石餘
里俗ノ説二往古此ノ邊二豊饒ノ長者栖シトテ其遺名有ト云エドモ不分明
蠶ヲ多ク養タリト云傳フ
私案白川筋子養ノ渡(子飼の渡し)二近シ
和名類聚(わみょうるいじゅ, 平安時代中期に作られた辞書)二出タル蠶養(こがい)ト云ルハ此所二ハアラスヤ
蠶今ハ子二作ル?又長者天神ヲ信仰セシト云傳フ
善行寺 眞宗西派府ノ浄行寺末寺慶長十九年浄了開基之年貢地也
(補)往生院跡事跡通考編年考微ノ三往生院ノ條二云寺記ノ畧日往生院古ハ白川ノ邊二アリ
託磨郡大江村二其跡アリト云フ翕巷考フル二今其証跡ナシ然レドモ村ノ西南畑ノ中井ヲ穿ツニ古骨多シト云ヘリ此邊往昔ノ寺中ヵ知ルへカラス尚詳カナル ヿ (コト)ハ熊本往生院の條ヲ参見スヘシ
肥後藩の「町在」事項一覧に, 主要な寺には○○寺支配. ○○支配医師といった役職が設けられているが,善行寺についても善行寺支配. 善行寺支配医師が存在するので,藩の保護のもとにあった寺のひとつと考えられる.
以前,往生院と放牛地蔵で紹介したように,山門の横にブロック塀で囲われた一角に放牛石仏がある.福井氏のブログによると光背と台石にそれぞれ道歌が刻まれている.
放牛地蔵は熊本県全域にわたり,番号が付いているものだけでも100体を超える.そのうち,熊本市内には65体が祀られている.善行寺の放牛地蔵は風雨に晒されかなり風化が進んでいるが,同じ大江町4丁目の是法神社の地蔵(第92体)はお堂に祀られ保存状態がよい.
毎年,善行寺の除夜の鐘を聴きながら年を越してきたが,今年は聴くことはできないようだ.寺の再建が順調であることを期待したい.
ところで,現在住んでいる町名は新屋敷三丁目であるが,戦後しばらくは大江町居屋敷であったと記憶している.大江神社が新屋敷三丁目にあることを考えると付近一帯は大江であった.新屋敷は幕末に安政橋(当時の安巳橋)の対岸に新しい武家屋敷町 = 新屋敷として造成されたらしい.この地は,熊本鎮台司令長官 陸軍少将種田政明邸(神風連の乱) や夏目漱石の第3旧居跡等で有名である.夏目漱石が,那古井(小天)へ出かけたのは,三番目の大江村401番地(新屋敷)の家に住んでいた時(明治30年9月~同31年4月)である.
町村合併や町名変更で由緒ある町名が消えていくのも問題である.住居表示に関する法律には,「継承を図るため、標識の設置、資料の収集その他必要な措置を講ずるように努めなければならない」とある.Googleのストリートビューは映像を使ってその役目を果たしていると言っても過言ではない.
大地震後,町のあちこちに空地が増え,その土地に以前どんな家や商店があったのか分からなくなり,小さい歴史が失われようとしている.そんなことはどうでもよいではないかと言う人もいるが,一方では新町・古町地区では町並みを保存しようという動きも活発である.今回のようなことも町の小さな歴史として書きとめておく必要があると思いブログでとり上げた次第である.
追記
大江遺跡群について
戦前の大江町は軍隊の町と化していたことは,Stanford大学地図アーカイブで紹介した.戦後,それ以前の歴史が発掘調査により明らかにされ,大江遺跡群として位置付けられている.熊本県文化財調査報告には次のように記載されている.
大江遺跡群は、 熊本平野北側の白川下流左岸に位置する。 その規模は東西・南北ともおよそ1.4kmにも 及ぶ広範囲なものと考えられている。 具体的には北は熊本県警察学校、 南はJ R水前寺駅、 東は託麻原小学校、 そして西は県道熊本高森線 (通称電車通り)まで及ぶ。
大江遺跡群からは,古代の遺構や土器、 縄文時代の土器などが出土し、 埋蔵文化財の残存が確認された.これまでの大江遺跡群の発掘調査の結果から、 奈良・平安時代の集務跡が数多く見つかっており、 この時期に大江遺跡群が集落として発展していた地域であると考えられる。 大江遺跡群から見つかっている遺構には、 住居跡・溝・水田跡・道路跡・土抗・掘立柱建物跡などがある。 また、 出土遺物に瓦、 円面硯、 墨書土器など特徴的なものも少なくない。 古代以外では、 縄文時代の早期や晩期の土器が見られるほか、 古墳時代から近世・現代にいたるまでの遺構も発見されている.
参考資料
熊日写真ライブラリーに 熊本市新屋敷の住宅街に残る屋敷林(撮影日:平成23年01月29日)のタイトルで類似の写真が残っている.
福井さんちの 夢 を届けるホームページ(18年前から放牛石仏について情報発信されてきましたが,平成29年3月31日をもってホームページを閉鎖されました).以下はその引用です.
(石仏) 舟型をした光背付き、地蔵菩薩の立像になっています。両手に宝珠を持っています。光背の傷みがはげしく、周辺がでこぼこです。また風雨にさらされたためでしょうか、表面が磨耗しています。光背上部の道歌は読みにくくなっています。台石はありません。この石仏は、享保10年(1725)の建立です。
(測定) 蓮華座の底辺から測った全体の高さは、100cmでした。仏像の高さは57cmあり、蓮華座の部分は16cmです。光背の幅は39cmあり、蓮華座底辺の幅は30cmです。
(文字) 光背上部に、道歌があります。光背の右側に「二十九体目」、左側に「他力願主放牛」と彫られています。なお文献には、台石にも道歌があったということです。
福井氏のホームページの画像(撮影時期が異なる)
大 江 遺 跡 群(熊本県文化財調査報告 第211集 2002 PDFファイル)
住居表示に関する法律には以下のような条文がある.
第9条の2(旧町名等の継承)
市町村は、由緒ある町又は字の名称で住居表示の実施に伴い変更されたものについて、その継承を図るため、標識の設置、資料の収集その他必要な措置を講ずるように努めなければならない。