・MBTI
INTP(論理学者)らしい。
・趣味
読書:日本人の著作を中心に、新旧、フィクション・ノンフィクション問わずいろいろ読む。好きな作家は夏目漱石、幸田露伴、森見登美彦、江國香織など。
ランニング:後述するように中学・高校と陸上部の中長距離を専門にしていたので、走ることは昔から好き。マラソンも数回完走している(現在は中断中)。
音楽鑑賞:洋楽のロック、それもオルタナ系と言われるものが中心。趣味はベタで、人に言わせると古臭いのをやたら好んでいるらしい。特に好きなのはU2, R.E.M., My Bloody Valentine, New Order, Radiohead, Teenage Fanclubなど。邦楽はやや雑食気味で、LUNA SEA, Thee Michelle Gun Elephant, BOOM BOOM SATELLITES, andymori などがお気に入り。若い頃はライブにもよく足を運んでいた。あと2023年からどういうわけか New Jeans にはまっている。
あとは妻・娘・息子
・好きな言葉
初心忘るべからず。(世阿弥)
Experience is the best of schoolmasters, only the school-fees are heavy. (Thomas Carlyle)
むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく。(井上ひさし)
まァ、他人の噺ィきいてみて、『こいつァ、俺よりまずいな』と思ったら、まず自分と同じぐらいの芸ですよ。人間にゃ誰だって多少のうぬぼれがありますからね。『俺と同じくれえかな』と思うときには、向こうのほうがちょいと上で、『こいつァ、俺より確かにうめえや』と感心した日にゃァ、そりゃァもう格段の開きがあるもんですよ。(古今亭志ん生)
・生い立ち
1981年1月13日
兵庫県姫路市の病院で生まれる。見に来た人たちが思わず吹き出すような面白い顔だったらしい。
1985年
兵庫県三田市に移り住む。当時、大阪で働くサラリーマンらのベッドタウンとしての都市開発が始まったばかりで、周囲は空き地だらけだった。バスも近くを通っていなかったし、今思うとなかなか不便な場所だったが、数年後からマンションやショッピングセンターが続々と建つなどして、11年連続で人口増加率日本一の市となる。
1987年
三田市立武庫小学校に入学。一年後、新設された三田市立狭間小学校に転校(単に校区の関係)。
1990年
4年生の冬、なぜか一念発起して、校内マラソン大会に向けたトレーニングを毎朝早起きして行う。かなり力をつけたものの、あろうことか本番前日に風邪をひいて当日無念の欠席。ちなみに翌年は健康管理に気をつけたため、無事優勝して雪辱を果たす。この頃から長距離走に対する強い思いが芽生え始める。
1993年
三田市立狭間中学校に入学。迷わず陸上競技部に入部する。専門は1500mだった。3年間のベストタイムは4分35秒ぐらいだったと思う。1年生のとき、地区新人戦で走った2000mで大会新記録を出す。ちなみにその年は1位から4位までが皆大会新で、私は4位だった。2年生の終わり頃に生徒会長に立候補、信任投票(つまり立候補者が私しかいなかった)の結果、当選する。生徒会執行部の仲間たちとそれなりに楽しい1年間を過ごした。
1995年
阪神淡路大震災。家族には怪我人は出なかったものの、かつてないほどの大きな揺れに見まわれ、家の壁や洗面台にひびが入る。
1996年
兵庫県立北摂三田高等学校に入学。迷わず陸上競技部に入部する。こちらでも専門は1500mだった。3年間のベストタイムは4分14秒。3年生時にはキャプテンを務めた。リーダーシップを認められたというより、同学年の男子部員が私しかいなかったというのが主な理由である(事実、より頼り甲斐のありそうな女子部員をキャプテンにしようかという話も出ていた)。3年生の夏にインターハイを終えて引退し、受験勉強に専念、などと思っていたのだが、顧問の山中先生に「秋の駅伝も走ってみてはどうか」と言われ、走りたい気がしたので結局11月まで引退を先延ばしする。今考えても、このとき走っておいて良かったと思っている。とにかく高校生活は勉強か部活のどちらかで占められていた。ある日、国語の円増先生が、廊下ですれ違いざまにいきなり「良い事考えたぞ。東大行って箱根駅伝に出ろ!」と言ってきたことを覚えている。
1999年
円増先生には申し訳ないが東大には行かず、京都大学理学部に入学。部活・サークルには入らなかった。三田市の実家から通うことにしていたため、勉強以外のことをやる時間がないと思っていたのである。今考えると別にそんなことはなかったかもしれない。大学で学ぶ数学、物理があまりに面白すぎて、やたらと勉強した。2回生の頃まで数学と宇宙物理どちらで系登録するか迷っていたが、ある数学の演習で黒板を何面も用いてノートも見ずに問題を解いている同級生を見て、こんな奴には勝てっこないと思い、宇宙物理を選択することを決める。後にその同級生はしっかり数学でアカデミックポストに就くことになる。
2001年
宇宙物理学教室で課題演習。ゼミをやったり泊まりがけの観測実習に行ったり。しかしまだ数学と物理の魔力にとらわれ続け、天文とはまるで関係無さそうなルベーグ積分などの分野も勉強し、試験だけ受けて単位をとったりする。
2002年
物理学教室の天体核研究室で課題研究。同期には山口弘悦くん(現・宇宙研)や横山修一郎くん(現・名古屋大)がいた。前期は犬塚修一郎助教授(当時)の指導のもとでランダウ・リフシッツの「場の古典論(通称バコテン)」を輪読、後期は千葉剛助手(当時)のもとで重力レンズについて学び、とりあえずレポートみたいなのを仕上げて単位をもらう。卒論というものを出す必要がないのは拍子抜けであった。院試では基礎物理学研究所を受け、特に何をやろうと決めていなかったが、とりあえず面接で物理に対する思いを先生方に伝え、合格。
2003年
大学院に進学し、基礎物理学研究所に机をもらったのはいいものの、一体自分は何をやるべきなのか分からず、とりあえず事務に「僕の指導教官ってどなたでしたっけ」という電話をかける。「嶺重慎先生(当時基研教授)です」との返事だったので、「そうか、ということは自分はブラックホール降着円盤の研究をするのだな」と納得する。後日新入生歓迎会の自己紹介で「指導教官は嶺重さんです」と言うと嶺重さんが驚いて軽くワインをむせていらっしゃった。ご存じなかったらしい。
その後、嶺重さんの指導のもとで、降着円盤からの相対論的鉄輝線プロファイルに関する研究を進める。それなりに時間がかかってしまったが、投稿用の論文と修士論文をほぼ同時期に仕上げる。論文は博士課程に上がって少ししてから受理された。
なお、物理学教室の天体核研究室(同期に横山くん、當真賢二くん(現・東北大)、井上剛志くん(現・甲南大)がいた)のゼミ等に出る一方で、宇宙物理学教室の火曜雑誌会(同期に小林正和くん(現・呉高専)がいた)にも顔を出すなどして発表機会が多くちょっと忙しかった。あとコミュニティによって同じ話でも受け方が全く違うのが、今考えると興味深い現象であった。
2005年
博士課程に進学。学振(DC1)に採用されていたので、学費や生活費も全部自分で出しつつ京都で一人暮らしを始める。この年の4月、JR福知山線脱線事故が起こる。事故を起こしたのは、かつて通学にいつも使っていたのと同じ列車であった。一方研究面では、この年からガンマ線バーストの中心エンジンについての仕事を始める。
2008年1月
「ブラックホール降着円盤コロナからのX線放射の理論モデル」というタイトルで博士論文を提出。筆が全然進まず、間に合わないかもしれないという不安と戦いながら這々の体で仕上げた(正直言って、当時の記憶は殆どない)。嶺重さんにも多大なるご迷惑をおかけした。それでも粘り強く指導してくださり、本当にいくら感謝してもしきれない。提出後間もなく、東京大学の茂山俊和准教授(当時)からビッグバンセンターの研究員に採用したいとの電話を受ける。どこにも行けないかもと軽く不安だったので、正直かなりほっとした。
2008年4月
東京大学大学院理学系研究科附属ビッグバン宇宙国際研究センター・特任研究員に着任。初めて触れる東大独特の文化にいろいろと感心する。御殿下記念館にあるトレーニングジムに足繁く通い、体を鍛える。特任研究員の任期は1年だったので、早く次を見つけねばといろいろ応募していたが、ある日ジムに向かう途中、KEK(高エネルギー加速器研究機構)の小玉英雄教授(当時)から「うちの研究員に応募してくれたけど、いつから来られる?」との電話を受ける。結果、半年で東大から去ることになる。
2008年10月
KEK・素粒子原子核研究所の博士研究員に着任。つくばの広大な土地と家賃の安さに感心する。ここで住む以上絶対必要だというわけで、中古ながら人生初めてのマイカーを購入する。物凄く古い型の日産キューブであったが、私にとっては全く問題なかった。直属の上司は井岡邦仁准教授(当時)。この頃、PAMELAの観測結果が話題になっていたこともあり、宇宙線を新たに研究テーマに加え、井岡さんらとともに仕事を進める。KEKには2011年まで3年間在籍し、宇宙グループスタッフの小玉さん、郡助教(当時)を始め他分野の先生方ともポスドク・学生らともとても仲良くさせてもらった。
2011年1月
イスラエル・ヘブライ大学のTsvi Piran教授から「ポスドクに採用したい」とのメールを頂く。高エネルギー天体物理の大家として著名な彼が自分を見つけてくれたことに感動するも、イスラエルという国のイメージに若干戸惑う(当時は殆ど知識がなかった)。他に国内のポスドクの内定も頂いていたこともあり、かなり迷ったのだが、嶺重さんや井岡さん、郡さんと相談しているうちに、海外に飛び出すなら今しかないという思いが強くなり(それと同時に、イスラエルに住むなんてネタとしては最高じゃないかとも思い始め)、秋からヘブライ大学に行くことを決める。人生の大きな決断であった。
2011年3月
東日本大震災。当時研究室の中間発表会の最中で、ちょうど私が前に出て発表していた頃だった。つくばは震度6弱だったらしく、床から崩れ落ちるのではないかと思うような強烈な揺れであった。自宅の電気は丸一日止まり、水道は数日間にわたってまともに使えず。しばらく自宅勤務となる。
2011年10月
イスラエル・エルサレムにあるヘブライ大学・ラカー物理学研究所のポスドクに着任。上司にも同僚にも恵まれ、研究面でも生活面でも本当に楽しい時間を過ごす。ボスのTsviは日本人の研究者からは「会議で見かけても怖すぎて近寄れない」などと恐れられていたが、実際に会ってみるととても優しくてにこやかでジョークの好きな紳士であった。ただ、いい加減な議論を許さない迫力はあったので、そういう意味では怖かった。ガンマ線バーストの中心エンジンの研究に加え、Tsvi のすすめでブラックホール探査というテーマに出会ったのもここであった。エルサレムは私の来る少し前ぐらいから路面電車(LRT)が開通し、市場や新市街・旧市街へのアクセスがとても便利になっており、気候も良くて大変住み心地の良い街であった。二年ぐらい住むなら、ヘブライ語も勉強しようなどと思っていたが、とうとう身につかずじまいだったのは残念。その代わり、英会話能力は相当上がったと思っている(元々がひどかったという説もある)。
2012年11月
イスラエル-ガザ間の戦争が勃発。空襲警報のサイレンを聞いてシェルターに避難すること2回。争いと平和について考える日々。
2013年3月
エルサレムマラソン(Jerusalem Marathon)に出場。人生初の42.195kmを3:50:02(ネット)というタイムで無事完走する。アップダウンがややきつかったものの、エルサレムの風景を走りながら堪能できる素晴らしいコースであった。現地の方たちの熱い応援も印象に残っている。いつかもう一度走ってみたい。
2013年5月
東京大学大学院理学系研究科・天文学教室の助教に着任。5年ぶりの本郷キャンパスへのカムバックを果たす。任期は5年ということ以外、普通の助教と同様に教員会議に出席したり教育関連の雑務を担当したりしたが、そこまで大変ではなく、研究に集中できるとても良い環境であった。ポスドク・学生も優秀かつフレンドリーな方ばかりで楽しかった。直属の上司は高エネルギー天文学・宇宙論で世界的に著名な戸谷友則教授。京大にいらっしゃった頃から何かとお世話になっていたが、相変わらずのノリで楽しく有意義な議論ができた。ちなみに天文学教室のメインフロアは理学部1号館11階で、北側にある戸谷さんの居室からは東京スカイツリーや六本木ヒルズ、東京ドーム、都庁、あと天気のいい日は富士山が見えるのだが、南側にある私の居室からは遥か彼方の筑波山しか見えなかった。
2016年10月
京都大学大学院理学研究科・宇宙物理学教室の特定准教授(白眉プロジェクト)に着任。8年半ぶりに古巣京都にカムバック。ここでもまた任期は5年なので今までどおり、いやそれ以上にがむしゃらに研究に取り組んでいきたいという思いをあらたにする。受入研究者は学生時代の指導教員・嶺重慎教授(当時)。前職場の東大と同様、スタッフ間の距離が近くいろんな情報が入ってくるので興味の幅も広がり、とても良い環境だった。また、白眉プロジェクトのイベントで文系理系問わず様々な研究の話題に触れることができ、自分の研究を客観的に見るきっかけにもなった(ここを見ている若手研究者の方へ、おすすめです)。授業や市民講座の類を本格的に始めたのもこの頃で、最初の頃はうまくやれているか不安だったが、特に文句も聞こえなかったのでどうやらうまくやれていたようである。任期中、いわゆる「コロナ禍」で自宅勤務の期間があったのだが、自分には合わなかったようで仕事が思うようにいかない感覚があった。有症感染を経験しないまま、いつしかコロナ禍は終わる(?)。
2021年10月
白眉任期をフルで終えたがテニュア職に就けず、京都大学基礎物理学研究所にてポスドクとして研究者としての再スタートを切る。5年前から教授に着任されていた井岡さんをはじめ、優秀な上司と同僚に恵まれたおかげで、意欲を衰えさせることなく研究を続けることができた。驚いたことに、図書室の司書の方が10数年前に大学院生として所属していたときのことを覚えてくださっていて、たびたび雑談に花を咲かせていた。
2023年4月
縁あって国立天文台 ALMA プロジェクト特任研究員となる。出向先は東京都立大学で受け入れは藤田裕教授。観測的研究どころか電波天文学自体ほぼ初めての体験だが、研究の幅が広がるのは楽しいもので、だんだん感覚がつかめるようになっている。単に観測の論文を仕上げるだけではなく、理論出身者としての面目躍如と言えることをしてみたいと密かに計画している。
2024年7月
このページを作り始める。ここまで書いておきながら言うのも何だが、いざ振り返ると特筆すべきことがあまりに無さすぎて愕然とする。