!:荼が炎に塩対応/ホー荼毘ともとれる描写
邦画のツラいヤツが好きじゃない。スクリーン越しでも、傷だらけの子どもがうつむく姿を眺めるのは居心地が悪い。いてもたってもいられなくて、ハンカチで目を押さえる観客たちの合間を縫って羽根を飛ばしたくなる。もう俺に翼はないのに。
背中に穴のないシャツを身に着ける度に、自分の大切なものをどこかに置き忘れてきた心地がする。それでも俺は、頑張っている人の背中を押すために前に進みたい。ヒーローが暇になる社会を夢で終わらせないために、使えるものは何でも使って。
「公安委員長、またセントラルですか?」
「そう。ちょっと野暮用がありまして。留守番任せますね」
「承知しました。いってらっしゃいませ」
黒いスーツの部下に軽い会釈をされて、俺は笑顔で手を振りながら「行ってきまーす」なんて返す。デスクにいた何人かが眉をひそめたけれど、それに気がつかない能天気さを演じるのは昔から得意だ。
「また? ここのところ毎日ですよね」
「委員長、アレにご執心なんですよ」
「ああ、あの死刑囚か。俺ホークスに憧れて公安入ったんだけどさ……なんかな。やっぱり俺らよりああいう手合いの方が気が合うのかな」
剛翼がなくても聞こえる噂話は聞こえないふりをして、笑顔を振りまいて素早くフロアを出る。荼毘の暴露動画以降、少しは予想していたけれど、断ち切ったはずの鷹見の影はいつまでもつきまとっていた。
長いエスカレーターで地上へ下りてゆけば、カラフルなヒーロースーツを着た学生たちの列が、徹夜明けなのかふらふら歩く目良さんの後に続いていた。みんな期待と不安の入り混じった表情で、目新しそうに辺りを見回している。そのうちの一人と目が合った。瞬間、その目が大きく見開かれる。
「ホークスだ!」
思い切り指を差されて、へらへら笑って左手を振りながらも反射的に右手が背負った刀へ伸びる。声を上げた学生は俺の体勢に気づく様子もなく周囲の肩を叩いていた。
「見ろよ、ホークスだ! 本当にいるんだ」
「ホークス? 誰?」
「オール・フォー・ワンとの決戦で活躍した元ヒーローだよ。知らないの?」
「それはデクだろ」
ダイナマじゃないの、と問う声に、現役だろ、とツッコむ声が続く。笑い声が広がって、目良さんが「えー、お静かに」と咳ばらいをしたからか、俺を見つけた生徒も次第に仮免試験の話題へ移っていった。一人ゆっくりと右手をおろした時には、もう俺を見ている人間はいなかった。一階のフロアには忙しそうに行き交うスーツの大人たちと、ところどころで円になって集まるヒーローの卵たちで溢れている。俺の視線の先では、獣の顔をしたヒーロースーツの学生が、不安そうな友人の背を撫でて励ましていた。
「……よかった」
思わず口からこぼれた言葉に、自分でもどきりとする。
きっとあの子たちが夢見るのは、みんなを分け隔てなく照らし出す太陽のようなヒーロー像だ。けして、俺のような汚れたヒーローなんかじゃない。
ヒーローの頃は事務所へ帰ることなんてほとんどなかった。サイドキックたちが事後処理を完璧に終わらせてくれるから、俺はひたすらに空を飛んだ。たまに街を歩いていると市民から「ホークスが歩いとる!」と指をさして珍しがられたぐらいだ。だから、今でも建物の中でじっとしているのはどこか息苦しい。それでもセントラルに通うのは理由がある。
最上階は現状日本で最高のセキュリティ対策が施されている。あらゆる変装を見破る“個性”もちによる本人確認、身体検査、持ち物預かり、三度の暗証番号入力を経て、ようやく「関係者立ち入り禁止」のプレートがかかった金属製の扉が現れる。センサーに親指を押し当てて入れば、ドアがゆっくりと閉まり自動ロックがかかる音がした。念のためドアの取っ手を引いて鍵がかかったのを確認してから、部屋の大部分を占める装置の前に進み出る。そこでようやく、医療という檻の中に閉じ込められた男が姿を現す。
『なァ、そろそろ死なせてくれよ、公安委員長サマ』
生命維持装置のガラス越しに聞こえるかぼそい声は、音量増幅スピーカーのおかげではっきりと聞こえるがノイズ混じりだ。深海に潜っているような呼吸音が部屋中に響いているのは、どうにも慣れない。
『その背中の刀、ヴィランがよく斬れるって評判らしいな。このヘルフレイムにも溶けねえ強化ガラスも斬れんのか? ちょっと試してみてくれよ』
荼毘はほとんど炭化した全身のあちこちにパイプをつながれ、磔にされた焼死体のような姿で俺を見下ろしている。この姿にも未だ慣れない。デトネラット社製の黒衣を羽織って常に薄っすらと笑っているのが俺の中の荼毘だ。でも、そんな感傷はおくびにも出さず軽く笑って返事をする。
「ダーメ。お前はまだ上告中なんで生きててください」
『裁判って長ェな。ちんたらやってたら死刑になるより先に死んじまう』
荼毘がため息をつく音がした。ここで落ち着いた返事をもらえるのは上々だ、そっと胸をなでおろす。今日は体調がいいらしい。医師からは、次に癇癪を起こしたら死ぬ可能性があるとまで言われている。
『エンデヴァーはどうしてる』
「公安でしっかり働いてくれてますよ。賠償金の支払いのためだって今日も出張です。お前さ、最近ニュースは見た?」
『いや。最近は鳥の鳴き声もしねえから静かで、ほとんど寝てた』
淡々とした返事だけど、目が笑っている。こいつは剛翼を失くした俺のことをまだ鳥扱いする。この嫌味を聞くたびに背中に力が入るのがやるせないけれど、済んだことは仕方がない。
最速で平和を手に入れたい。剛翼のない俺は、今まで以上に使えるものは何でも使わなきゃいけない。もうとっくの昔に死刑囚になった男に、俺は裁判が長引いている嘘をついて言外に免罪符をちらつかせ、にこにこ笑って機嫌を取り続けている。だって、荼毘は「使える」んだ。
「ここのところ妙に火事が多くて、放火の専門家にご意見を伺いたいんだよね」
荼毘はつまらなそうに『まァた火事か』と目を閉じたけれど、生命維持装置の真正面のモニターにスマホ画面を映す。ポインターで指し示しながら、ここひと月ほどニュースをにぎわせている連続放火事件の経緯を説明した。
『どれもしみったれた火だな。俺より燃えてんのか?』
「まだ事件か事故か微妙な線かな。規模としては泥花市の火災とは比べ物にならないし、お前個人の事件より数もずっと少ない。厄介なのが住宅の密集地域ばかり燃えてるってところで、もし故意なら暫定炎熱系の個性もち。やりそうなヤツ知らない?」
『さあな。バイオレットに俺の下位互換が何人かいたが、みんな俺の指示なしじゃ動けない可愛い弱火ばかりだった。今もそうだろ、たぶんな』
「たぶん?」
『ヒーローの卵どもと違って、ヴィランのヒヨコは俺の指示通りに動いているとは限らねえ。それに十年も経てば人は変わるだろ』
冷めた声に俺は顔を上げた。特殊な硝子でできた蒼い目と視線が合う。眼球は決戦時に焼け落ちていて、特殊な素材の硝子が眼窩にはめ込まれ、視神経とつなげられたと聞いている。あの新しい目玉に俺はどう映っているんだろうか。
オール・フォー・ワンとの戦いから十年が経つ。超常解放戦線で生き残った幹部はほぼ全員タルタロスへ送り込まれている。ヴィラン連合での罪も含め、荼毘は最速で深部の独房にぶち込めるはずだった。死刑が確定すれば高額な医療器具は取り払われ、炭同然の体が海底へ運ばれる。誰もが、荼毘の死をそう遠くないことだと考えていた。
話がおかしくなったのは、エンデヴァーさんが荼毘の治療費を払い始めた時からだったかもしれない。公費の上限を悠々と突破する元ナンバーワンヒーローの財産をつぎ込まれ、荼毘はセントラルの一室を半永久的に貸し切ることになった。今さらだが父親面をしたくなった、とほうぼうに頭を下げすぎて丸まった背を見ていれば、俺は何も言えなかった。
『それよりヒーロー、愛情は金で買えると思い込んでいる哀れな父親の幻想を粉々に打ち砕いてやる日は決まったか?』
きた。これを言い出すと詰むんだ。
荼毘はどうも治療費の支払いをやめさせてほしいらしい。俺にそんな権限はないと何度説明しても聞く耳を持たない。次第にエンデヴァーさんへの怨嗟が噴き出し、俺が話をそらしても堂々巡り、挙句の果てに出火する。荼毘は緊急治療を受け、俺は医師たちにお小言をもらい、知らせを受けたエンデヴァーさんに白い目で見られる。
誰も得しない最悪の会話だ。なんとか軌道修正しないと。焦りを悟られないように呆れ顔を貼り付ける。
「さっきも説明したよな。俺さあ、今週忙しいの。お前をかまうヒマなんかないのに、こうやって合間を縫って来てやって、返事を急かされる身にもなってよ」
『面倒になってきたか? じゃあそれに懲りて、さっさと殺してくれよ』
荼毘のこの返事にどきりとした頃が懐かしい。あの荼毘が弱音を、と混乱している間に装置横のモニタで様々な数値がどんどん上がり、アラームが大音量で鳴り出して医師がすっ飛んでくるんだから困り果てたものだった。
ただ三回を超えたあたりから俺もコツを掴んできた。哀しいかな、速すぎる男はここでも理解が速かったらしい。まともな神経で考えれば、絶望的な気持ちになっているだけで「そんなこと言わないで」とか「殺せるわけないよ、死なないで」で落ち着かせるのが最適解なんだろうけど心が複雑骨折しているコイツはそうじゃない。
「ハイハイ殺してやるからさあ、お願い聞いてくれない?」
そして営業スマイル。これが一番効く。
思った通り上がりかけていた数値はすべて平常値まで下がり、蒼い硝子の瞳はわずかに輝いた。
『なんだ?』
「今ヒーロー公安委員会はライトリーラボと協力してヒーロー専用サポートアイテムの開発をしています。誰もが思いのまま自由に動けるようになるヤツって触れ込みなんだけど、公費のプロジェクトだから失敗は許されない。一回試験運用してみたいんだよね。ご協力お願いします」
『モルモットになれってか?』
「そ。被験体よろしく」
荼毘の瞳がわずかに揺れる。装置横のモニターを確認すれば、心拍数は安定している。もう一押しかな。
「初めはエッジショットさんのための研究だったそうです。体が元に戻らないなら義体を作ればいい。ミルコさんの義肢みたいに。それでもヒトの体全体を複製して神経をつなげるのは難しいんですって。で、それよりも簡単なのがオール・フォー・ワンの死柄木乗っ取りでした。元々ある体に神経だけつなげる。理にかなってると思いません?」
『適当な死体に神経をつなげるってか? それで俺の出番ってワケだ。いよいよ脳無の仲間入りか、嬉しいね』
「安心して。お前を殺したり、死体に神経をつなげたりするようなことはない。外に出たいだろ? 人だけじゃなくて、街も十年で変わった。どう、見たくない? お前の好きな手打ち蕎麦屋まだあるよ」
『食えねえだろ』
「大丈夫、味覚も視覚も嗅覚もぜーんぶ貸してやるから」
『ハ? 貸す?』
怪訝そうな声に微笑み返してやる。胡散臭いと言わんばかりに半分降りてきた人工の瞼から薄っすらと蒼い硝子の光が透けて見えた。
俺は知ってる。荼毘は、本人が言うように誰も信じていないから社会貢献なんて一ミリも興味がない。でも、目の前に性能のいい道具があれば、上手く使ってみたいタイプだ。誰だって道具は便利に使いたいけど、荼毘はそれだけじゃない。最高のタイミングで最大限に活用して自分を見せつけたい、って欲がある。だから、こういうプレゼンには乗ってくるはず。
「俺クタクタなんだよ。朝から晩まで駆けずり回ってさあ、それでも前よりちょっと暇になったぐらい。暇がほしい。でも公安委員長は一人だろ。お前は毎日ヒマそうなのに」
荼毘は黙って目を細め、俺の口の動きを追っている。ここ数年で鈍くなった聴覚を補うために俺が教えた読唇術で声を読み取っているらしい。たとえヴィランでも少し胸に来るものがある。「だからね」、俺はゆっくりと発声した。
「お前にこの体貸してあげるよ」
『へえ。お優しいことだな、ヒーロー。お前の身体で』
視線が俺の頭のてっぺんから爪先までを舐めた。最後にばちりと目があう。男は十年前よりもかすれた声で懐かしい台詞を吐いた。
『何ができる?』
「何ができる?」
口の端を金具で縫い留めた唇からこぼれる落ち着いた低音にどきりとした。そもそも神野の悪夢以降、ヴィラン連合自体の行方が全くつかめず散々日本全国を探し回ったものだから、やっと荼毘の姿を拝めて感慨深い気さえする。
公安に促され飛んで向かったのは、中国地方の山間部にある街だった。事務所のある福岡の市街地とは違う、昔住んでいた荒屋があった場所と同じ空気の匂いがした。
男を見つけたのは夜になってからだった。街唯一の繁華街といえる駅周辺の店々が明かりを消した頃、三階建てのビルと駅舎の隙間に男はふらっと現れた。街灯は内部に虫の死骸がたまって切れかけた弱い光を、ちょうど男の前後のアスファルトへ向けてスポットライトのように照らし出していた。夜闇に溶け込みそうな黒いフードの下、手に燃える蒼炎だけが男の顔を青白く浮かび上がらせている。
白い肌に無理やりつなぎ合わされたケロイドが目立つ。きっと、ろくな治療を受けていない。警察から渡された捜査資料の写真よりも遥かに蒼く、深い湖底を思わせる瞳に、宙に浮かんだ俺が映っていた。
「えー、この剛翼で手の代わりとか?」
俺はへらへらと笑いながら羽を数枚飛ばし、未だどす黒い煙を上げる焼死体を持ち上げた。羽根も焼け焦げそうだったが、ぐっとこらえる。
「この人、誰? 知り合い?」
「さあな」
死体を地面に下ろし、顔にハンカチをかけてやる。
「……こんな田舎じゃすぐ足がついちゃうよ。助けてあげようか、荼毘さん。俺はきっと役に立つ」
「さんはいらねえ」
「ひょっとして年下?」
「そうだな、小学校を出たばかりだ」
「……じゃあ荼毘。俺は使えるよ。たとえばこんな風にさ」
ふいに大通りの方からサイレンが近づいてきて、あっという間に建物の影からパトカーがエンジン音とともに現れた。ヘッドライトが俺たちを照らす前に翼を大きく広げて荼毘の姿を覆う。
「また通報かよ……ついてないな……」
ぼやきながら警官が二人現れ、のろのろとこちらの方へ向かってきた。荼毘がびくりと身動きしたが、翼で押さえつける。のんびりしていた警官たちも、さすがに焼死体を見つけると慌てて駆けてきた。そのうち俺のハンカチに気づいたらしくはっと顔を上げてこちらを向いた。わざと荼毘の方ではない翼を大きく広げて羽音を立てる。
「ご苦労様です。残念ですけど、俺も遅かったみたいです」
「ホークス!」
二人はそろって敬礼を取り、急に姿勢を正した。荼毘がふ、と笑うのが伝わってくる。その様子を目で追ったのが悪かったのだろう、警官の一人が荼毘に気づいたようだった。
「ホークス、その人は?」
俺は人差し指を口に当ててしーっと小声で言った。「怖かったみたい」、その一言だけで警官は心得たようにうなずいてくれる。
「では、その方は任せますよ、ホークス」
二人が増援を呼び始めた頃、俺は適当な理由をつけて現場から飛び去った。
波止場までやってくれば、見渡す限り誰一人いなくなる。潮風が心地よく、蒼炎相手だと危機管理もしやすい。俺は灯台の傍のベンチに荼毘を降ろすと、その前に翼を広げたまま陣取った。
「ね、俺って便利だろ?」
「……ハハッ」
「何?」
「お前、自分を商品みてえに言うんだな」
俺は思わず男の目を見た。蒼い目は俺の上に細く光る三日月のように弧を描いている。
「気に入ったよ、ヒーロー。てめえが無造作にバサバサ散らしてる羽根には一枚一枚破格の値段がつく。ただ、高え買い物には慎重にならねえとな」
おもむろに手を伸ばされ、翼を撫でられたかと思うと、金具が引っかかった一枚の羽根をそのまま引きちぎられた。
「痛ッ」
思わず声を上げると、男はにやっと笑った。
「ああ、ごめんな。あんまり綺麗だからほしくなっちまった」
手遊みに羽根をくるくると手のひらで転がされる。まだ少し熱の残る指で触れられるたび、ぞわぞわと背筋に寒気が走った。かさついた肌が羽と擦れあう音が脳内に反響する。それらを一切悟られないように俺は眉根を寄せた。
“剛翼”は一枚一枚が軽量で怪力のマジックハンド、というのが公表されている個性の概要だ。感覚まで備わっていると知られれば諜報活動はできない。手始めに荼毘のコートの裾に小さな羽を貼りつかせていることは絶対に知られてはならない。
「初めから言ってくれれば何枚でもあげるのに」
「一枚で十分だ。ナンバーツーの羽根か……競りに出せば高値が付くかなァ」
「ホントに売るのはやめてよ。非売品なんで」
見破られてはいないはずだ。大丈夫だ、いける。
不満そうな表情を作って嘆息した瞬間、荼毘の口が大きく開き、ツギハギだらけの手がその中に羽根を放り込んだ。何するんだコイツ。ねちゃ、と唾液が絡みつくような感触に吐き気がこみあげてくる。思わず口を片手で押さえると、荼毘の喉仏が上下に動いた。ごくりと飲み下す音がする。
「ん……やっぱり美味くねえよな」
荼毘はおかしそうに笑い、呆然とする俺の頬に音を立ててキスをした。
「ナンバーツー、また連絡する」
気ッ色悪ゥ……アイツ何?
波止場に置き去りにされた後、俺はしばらく放心状態で黒い海を見つめていた。翼を傷つけられたり羽根をちぎられたり、そんなの公安のヒーローとしては日常茶飯事だ。でも、アレはないだろ、アレは。
という感想を除けば、初対面の感触は悪くなかったのが唯一の救いかもしれない。
あのオール・フォー・ワンがバックについてるもんだから、連合レンゴウって威張っちゃいるけど、所詮ヴィランの寄せ集めだ。特に荼毘は目立った前科も特にない。絶対に経験値の差を見せつけてやる。俺は無理やり抜かれてひりひりと痛む翼を広げ、夜空をかっ飛ばして福岡へ帰った。
ちなみに飲み込まれた剛翼は、数時間してからえずく音ともに吐き出された。公安内部でさえ数人しか知らないが、遠距離だって俺の剛翼はつながる。神経を研ぎ澄ませていれば、荼毘はその羽根を流水で洗い、丁寧にドライヤーか自らの蒼炎で乾かしていた。その後くすくすと笑う低音が響いて、
「俺が気になンのか?」
冷や汗が流れた。盗聴しているのがバレたのか――いや、そんなハズない。考えているうちに俺の羽根は熱にのまれ、あまりの高温に感覚ごと遮断するしかなかった。数十秒後、再接続を試みた時にはもう感覚が途切れていた。
公安にすべて報告すれば、むしろ荼毘は俺を気に入った、と結論付けられた。よくやった、と肩を叩かれ、へらへら笑いながら「まあ、気を緩めずやりますよ」なんて答えたものだった。
ところが、それからは困難の連続だった。かぐや姫のごとく無理難題を突きつけてくる男相手に、俺は必死になって贈り物をした。器量よし気立てよしのお姫様なら銀の実をつける金の枝や海底に棲まう竜のもつ宝石なんて手に入るはずのない美しい品々を欲しがるけれど、ホラー映画に出てきそうな全身ツギハギだらけのヴィランは、麻酔薬、ガソリン、身寄りのない犯罪者の戸籍――ギリギリ手に入れられるクソみたいな物品を所望する。極めつけはベストジーニストさんの死体だ。公安が仮死状態にする薬を開発していなかったら、あれはきっとうまくいかなかった。
今回のプロジェクトだって、初めの感触がいいからと油断していると足元をすくわれる。荼毘に探りを入れた翌日から、俺は入念に準備を始めた。案外思慮深い荼毘には考える暇を与えない。プロジェクトの具体的な説明をするのは、荼毘が被検体になった後だ。
「ごめん、連絡遅れて」
そんなこんなで二週間経った。セントラルの部屋に駆けこめば、二週間前より医療器具が増えていた。これは焦らしすぎたきらいがある。慎重に行かないとヤバいな。
『これはこれは委員長サマ。まだご存命だったようで』
荼毘は硝子の眼球をぐるりと動かして言った。あのひどい呼吸音もなく、今日は静かだ。
マズい。コイツは多少呼吸音がひどい方がおとなしく、比較的俺の話を聞いてくれる傾向にある。腐ってもヴィランだ、元気であればあるほど悪事を働く。俺はとりあえず笑顔を作って様子を探ることにした。
「今日は体調よさそうだね。何かしてたの?」
『なぁんにも。あんな話を持ちかけておいて、急に来なくなったんだ。てっきりお前が死んだと思ってたからなァ、一日中壁を見ながら墓には何を供えてやろうか考えてたんだ』
ヤバいヤバい。アラームが鳴れば医師たちがすっ飛んできて話ができなくなる。 俺はモニターの数値がどんどん上昇していくのを横目で確認し、慌てて「ごめん」と話を遮った。
「羽の準備に時間がかかったんだ。お前も飛べるようになってほしかったからさ」
『……へえ』
荼毘は俺をじっと見つめ、機械の力を借りてゆっくりと下へ降りてきた。視線が合い、それから下へズレていく。荼毘は俺の口元を見ているようだった。よかった、とりあえずプロジェクトに興味はあるらしい。
「この間説明したとおり、実験モニター中は自由に外出ができます。もちろんずっと俺が一緒だからお前の自発的な行動は制限されるし、主に公安の仕事に付き添うことになる」
『犯罪者にバラしていいのか?』
「トップシークレットの場所は五感を遮断します。お前はここに強制送還されるわけ」
『黒霧のワープみてえな個性で、ってか?』
「ちょっと違うかな。ま、百聞は一見に如かずだよ」
俺はポケットの中にある小型装置を取り出してスイッチを押した。ヴンと鈍い音が骨を伝って響いてくる。目の前が一瞬白く光って眉をひそめる。発目博士が言うには、「接続」さえすれば馴染んでくるらしいけど、まだ相手がいないせいかうまく作動していない。
これのために極秘で外科手術を受けて一週間入院してリハビリを行いました、なんてバカ真面目に申告する気はないけど、俺にだってそれなりの覚悟がある。
『サポートアイテムか』
「そうです。目と口は貸してあげる。あとは手、左か右、選んで」
『ハ?』
「どっちか決めて。あと五秒、四、三……」
『ひだり』
荼毘はゆっくりと言った。蒼い硝子の眼は蛍光灯を反射してきらきらと無機質な輝きを返してくる。
『とうとう俺もハイエンドの仲間入りか? ホークス……」
その瞬間だった。荼毘の眼が見開かれたまま氷漬けになったように停止する。その光景を最後に、俺の視界は真っ黒に塗りつぶされた。
「どうした、ホークス?」
俺の名前を「俺の声」が言った。妙な感覚だった。俺の喉を使って誰かが話している。
「……なんだこれ。どうなってる。説明しろ」
「俺の声」が吐き捨てた。身体のところどころに麻酔がかけられたような感じがする。手品で助手の身体が箱に入れられてばらばらになっていく、あれを地でいくようだった。
「あ。あーあー」
声を出してみれば、意外とすんなり通る。俺の左手が何かを構えるような体勢をとった。おそらく蒼炎を放出しようとする際の動きだろう。咳ばらいをすれば、その手がこわばるのが分かった。どうも俺の全身のすべての権利を荼毘に渡すわけではないらしい。
「俺の身体を貸しました。具体的には俺の目と口と左手。俺は今何にも見えてない状態なんで、むやみに左手を動かさないようにね。居心地はどう?」
「気持ち悪ィ……。これも夢の平和な社会のためとやらの一環か? よくやるな」
「何とでも言って。今は無理だけど、そのうちお前専用の義体を作ってもらうつもりだから」
「不可能なんじゃなかったか?」
「この実験が成功すれば、不可能は可能に一歩近づく。お前の神経と人形をつなげる実験も成功するかもしれない。そうすれば自由に動けるようになる」
「自由に……」
荼毘の声に珍しく喜びの色がのった。
世間は大量殺人犯の治療を続けるエンデヴァーさんを親バカ、荼毘は甘えた息子だなんて言い放題だが、実際に治療を受けている荼毘を見れば見る目が変わるかもしれない。医師から説明を受けた限りでは、このポッド内であっても焼死する一歩手前の激痛が死ぬまで続く。きっと荼毘にとって、この病室はタルタロスにも匹敵する。特にここ数年は。
「お前と……歩けるのか?」
前半は聞き取れそうもない小さな声だった。俺はあえて聞こえないふりをして、優しく頷いてやる。
「歩けるよ。荼毘はどこ歩きたい?」
「ハ」
ピッ、とモニターの数値が上がる音がした。これ以上は話させない方がいい。
「どこでもいいよ。また教えて」
その言葉で、俺の意思とは関係なく目頭が熱くなるのを感じた。荼毘の感情に反応したのだろう。すぐに熱いものが頬を伝っていくのが分かった。
かわいそうなヤツだと思う。俺と違って運がなかった。たったそれだけで、こんなに身体をボロボロにして死刑囚になってしまった。
「お前の行きたいところに連れてってあげる。今度こそ本当だ」
「俺」が何度も瞬きをする。ポッド内の荼毘の心拍数が上昇する機械音がした。
「このまま、ちょっと外に出ない?」
できるだけ優しく、少し懇願するような声を意識する。俺は知っている。この男は今でも俺が好きなんだってことを。
「いいぜ、ホークス」
穏やかな声だった。群訝山荘で二人きりになった夜に聞いた声と同じ言い方だった。
スパイだからと嘘ばかりついているわけじゃない。俺の言葉はほとんどが建前で、ときどき本音だ。ただ、その合間にほんの少しだけ嘘を紛れ込ませているだけ。
「懐かしいね、こういうの」
「そりゃお前だけだな。俺ァ群訝山荘のこと許しちゃいねえよ、ヒーロー」
「ハイハイ、俺が悪かったね」
俺は本心から肩をすくめた。見られると喜ぶクセに、あんまり寄り添いすぎると不信感を抱かれる。荼毘は慣れていても扱いが難しい。
「お前の顔でお前の声か。第三者から見たらトゥワイスみてえなんだろうな」
「……ごめん、そういうこと言うなよ」
傷ついた声を出し、意図的に荼毘との接続を切れば、また体の内側から鈍い音がして、体の自由が戻った。
荼毘はガラスの内側に戻っていた。これまで何年もそうだったように様々なパイプにつながれたまま、俺に抗議の声も上げず瞬きもせずにただじっと見てくる。付き合いの長くなった今でも、この目は苦手だった。まぶたがなく瞳孔が開き気味で吊り上がった目は、蛇を連想させる。まもなく荼毘の視線が追っているのは俺の手で、無意識に頬の傷跡をなぞっていることに気づいた。
「……あれは俺が悪かったんだ」
『へえ? ヒーロー様にも自覚があるんだな』
「だから中から変えたいんだ。公安が表に出て堂々と誰かを救えるようにしたい」
『ふぅん』
蒼い硝子の目はじっと俺を眺め、その背後にある大きな窓にかかったカーテンの隙間を見ている。誰かを祝福するような晴れ空が広がっていた。
『ホークス、もう一度やってみせろ』
「それ何? 命令?」
『いいや? “お願い”』
俺は大げさに肩をすくめてからもう一度スイッチを押した。今度は口と五感を少しだけ。鈍い音とともに、男の意識が入ってくるのを感じる。
「……熱い」
俺の声が言った。一瞬視界がぼやけるが、やっぱり体の主導権は俺にあるらしく、目に力を入れれば視力が戻ってきた。ただし、いつもよりはぼんやりとしている。
「ホークス、外に出たい」
どうせ死刑になる男なんだ。それまでは目いっぱい甘やかしてやるし、荼毘が喜ぶようなこともしてやる。それで、ちょっと進んで俺の言うことを聞いてくれれば万事上手くいく。
「いいよ」
俺はできるだけ優しい声で答えた。
今度は上手くやる。前回と同じ轍は踏まない。トゥワイス――分倍河原は説得に失敗した。ヴィランになる前に手を差し伸べない限り、俺の手をとるなんて土台無理な話だった。でも、誰からも見放されたこの可哀想な男なら、こんな汚れた俺でも救ってあげられるかもしれない。死ぬ間際までずっと夢を見せてやる。
俺は部屋の入口まで歩いて行って、ドアのノブに手をかけた。俺が――いや、荼毘が小さく息を飲む。 ゆっくりと扉を開く。
最期まで気づかせない。もう一度俺に裏切られたなんて。