2月 失敗したチョコクッキー
2月 失敗したチョコクッキー
灯りを落としてベッドに横になり目を閉じる。寝具を最高級のものに新調してからずっと寝つきがいい。完全に寝る体勢を整えて既に夢の中に片足を突っ込んでいた。
眠りにつく直前、コンコンッとドアを軽快にノックする音が聞こえてきて、こんな夜更けに緊急の用件かと飛び起きる。
ドアを僅かに開けると、この時間には相応しくない明るい声を浴びせられた。
「ハッピーバレンタイン!」
呆気に取られている間に部屋の中に入り込んできた招かれざる客は、許可も取らずに椅子に座ってテーブルの上に荷物を広げている。
「なんのつもり?」
ロベリアが持ってきた小さな箱を開けると甘い香りが漂う。チョコのかかったクッキーが詰まっているのが見えた。わざわざ俺の部屋まできて誰かの手作りチョコを食べに来たのか。相変わらず行動が読めない男だ。
「これ、艶がないだろう。温度調整を失敗したんだ」
確かにロベリアが肩を落としながら言う通り、お菓子屋さんで買うチョコレートと違って白く濁っていて艶がない。
「安心してくれ、団長にはちゃんと成功したものを贈ったぜ」
どうやらロベリアがチョコをかけたもののようだ。失敗作の処分なら他所でやって欲しい。嫌そうな目で見ても全く伝わらずに微笑みかけられてしまう。
箱ごと差し出され、一枚だけ摘む。ガリガリという堅い歯応えのクッキーは、味はまだしも食感が悪い。チョコがかかってなかったら食べられたものじゃない。こんな堅いクッキーをどこで買ってきたのだろう。
「これ、チョコだけじゃなくてクッキーもイマイチだね」
正直な感想を言うと、ロベリアはあからさまに傷心した顔をし始めた。口を尖らせてもにょもにょしている。その様子にクッキーまで全てが手作りだったのだと思い至る。
「べ、別に不味いまではいかないよ。普通のクッキーよりも堅いだけで……」
「口に合わない訳ではなさそうだな。遠慮しないでくれ、この箱は全てシエテの分さ」
団長や他の団員から貰ったチョコもあるのに、失敗作の処理を手伝わされるのか。せめて珈琲やお茶も用意してくれたらいいのに口の中がやけに甘ったるい。
渡してすぐに帰らないということは、食べ終えるまではこの場に留まる気でいるのか。どうも何を考えているのか分からない。普通なら特に仲が良いという訳でもない団員の部屋には訪れない。
「キミは甘いものが好きだろう?」
にっこりと微笑みかけてくる。そんな話をした覚えがない。そもそも話をしたといえるのは、今日で三度目だったはずだ。
以前に話した内容を思い出そうとしたが、眠気がやってきて欠伸を噛み締める。
「持って来るの、明日でも良かったよね」
「ラ・サンヴァロンタンじゃないと贈る意味が薄まるじゃないか」
バレンタインデーに渡したいということか。それならもっと早くに来い。なんて言おうか迷っていると、ロベリアの指先がやけに赤くなっていることに気がついた。こちらの視線に気がついてポケットに手を隠しても遅い。大好きな団長の為に、火傷が残るほど集中して作ったのだろう。団長に贈る分が成功するまで時間がかかったからこんな夜遅くになったのか。
わざわざ失敗作をここに持って来た目的も全く思い当たらない、ということでもない。思い当たる理由はある。部屋に入れる時点でその可能性も考慮している。ただ、そうじゃなければいいという希望もあった。
「仲良くなりたいと、キミが言ったのに……」
そんなことは言ってない。仲良くしないかとは提案した。同じ団の仲間として敵対したくなかった。険悪にならない程度に協力し合えればいい。それだけだ。必要以上に馴れ合うつもりはない。
ロベリアはわざとらしい溜め息を吐いた後、距離を詰めてきた。
「ついこの前、仲良くしたばかりじゃないか」
肩に手を置かれると背筋がゾワッと泡立つ。思わず拳に力が入ってしまう。
微笑みかけてくる表情が、甘ったるい空気を纏うように緩んでいてむず痒い。
どういう訳かロベリアとは体の関係を持ってしまった。つい先日まで開催されていた古戦場終わりの熱気にあてられたせいか、酔っ払って気が緩んだせいかは分からない。ちょっとした油断をして一線を越えてしまった。あんなに警戒していた相手だというのに、少し話したくらいで打ち解けた気になってしまった。
「そのことは口には出さない約束だったよね」
「ここには二人しかいないし、密室とはいえ誰にも聞かれないようにしているさ」
パチンッと指を鳴らしてから、チョコクッキーを摘んで口に運んでくる。唇に押し当てられて、捩じ込まれるのを黙って受け入れる。不味くもないが、特別美味しくもない。もう眠るところだったのに完全に目が覚めてしまった。
ザクザクゴリゴリという咀嚼音が部屋の中に響く。ロベリアは音に興奮しているのか、頬を赤く染めてこちらを見つめている。そんな目をして見てこないで欲しい。
「この程度で懐柔されないからね」
顔が寄ってくるのを手で阻み押し返す。距離感がおかしい。簡単に部屋に入れてしまった俺の判断はもっとおかしい。
「来月」
「うん?」
「キミからのお返しを楽しみにしているよ」
何を言っているのだろう。失敗作を強引に押しつけてきてそれはない。他の義理チョコへのお返しで手一杯だ。
「お前相手に借りを作りたくないんだけど」
既に食べてしまっていて返せないクッキー二枚程度なら、飴玉二個くらいで勘弁してもらえないだろうか。
「それなら今すぐ返してくれてもいいぜ」
唇を重ねてくるのを、今度は黙って受け止めた。
やたらと巧妙な舌の動きに翻弄されて呼吸をするのが困難で頭が回らなくなる。一回も二回もそう変わらないかと諦めるまでそう時間はかからなかった。
✧✧✧
カーテンが開かれて、日の光に照らされる。全身がほんの少しだけ怠い。朝食を食べに起きるのが面倒だ。テーブルに置かれた空になった箱を眺めていると頭上から特徴的な笑い声が聞こえた。
深夜に腹が減り、ロベリアの持ってきたチョコクッキーは二人で食べきってしまった。団長たちに貰ったチョコは取っておいてゆっくりと大切に食べる予定だ。それになんだか今はチョコを食べたいと思えない。そうなると身支度を整えて朝食を食べに行くしかない。
起き上がって服を着る。後処置はされていて体も寝具も汚れていない。すぐに用意が出来た。
椅子に座ってずっとこちらを見ているロベリアが、にっこりと微笑みかけてくる。
「もっと上手く作れるようになったら、また食べてくれるかい?」
何か作ってこられる度にこんなことはしていられない。迷惑だと断るのは簡単なことだ。テーブルの上の空き箱をもう一度見る。空腹時に食べるなら、そう悪くなかった。美味しいものなら食べてもいい。
「言っておくけど俺、美食家だよ」
明確に否定も肯定もせず、難易度だけは上げておく。曖昧な関係だから、曖昧な返事で充分だろう。
「くはっ! 確かに、火遊びの相手にオレを選ぶくらいだ」
綺麗に手入れされている指先が頬を撫でてくる。唇に触れられて顔が寄ってくるのを避けると溜め息を吐いた。
目と目が合い、探り合うような視線が絡み合うが、すぐにロベリアの目が細められて閉じてしまった。俺の背後から差す日の光が眩しいのだろう。瞼を縁取る長い睫毛に魅入られそうになって目線を外した。
靴を履いて外に出る準備が終わると、とっくにいつでも外に出られる格好をしたロベリアが口を開く。
「また仲良くしに来ても?」
「いいって言うと思った?」
大きな笑い声が収まるまで一呼吸置くと、ドアを開けて背筋を伸ばして歩き出す。ロベリアは何も言わずに後を付いてくる。
食堂まで行くと何事もなかったかのように別々のテーブルで食事を取った。こうした距離感を間違えない相手なら、続きそうだと嫌な予感がする。
昨日のバレンタインデーの影響か団員たちは皆いつもより幸せそうな顔をしていて、ふと視界の端に見えたロベリアの横顔も幸せそうに笑っていた。慌てて視線を皿の上に動かす。何かよくないものを見てしまった気がして、一気に水を飲み干して席を立った。
俺は、火傷をするような失敗はしない。そう自分に言い聞かせ、頭の中のもやもやしたものを全てバッサリと切り捨てて日常に戻る。
冷たい風が首元へ吹き込み、体に少しだけ残っていた熱を奪っていった。