旅立ちの朝
旅立ちの朝
薄い雲の合間から太陽が昇り始めるのが見える。グラン・サイファーの甲板の上はまだ暗く、普段の賑やかさとは程遠い静けさに包まれている。風も穏やかで旅のはじまりにはとてもいい空模様だ。
隣で鼻歌を口ずさみ、パチンと指を鳴らした男の存在を除けば、最高の旅立ちの朝になったはずだ。
「ねぇ、本当についてくるつもり?」
「くはっ! キミと一緒にいると、退屈しないで済みそうだ」
今日、この艇から去る。団にも十天衆にも戻る気はない。仲間たちとは別れ、島と島を渡って悪人を退治する生活に戻ることを決めた。団長と星の海を見る約束も叶って世界も以前よりはずっと平和になってもうこの場所に心残りはない。世界の為に犠牲になる必要もなくなってしまって足元が覚束ない感覚がある。皆と一緒にゆっくり過ごしたい気持ちもあるが、腑抜けた姿を見られたくない。大人の男として格好つけたい。
大人数を相手に挨拶して回る気はなく、ウーノにだけは事前に話を通してある。皆、俺がいなくても何の問題もない。十天衆の面々も団長たちも長い旅の道中で大きく成長した。最後まで無事に見届けられて本当に良かった。
誰にも気取られないよう明け方に、一人で小型艇に乗って出立するつもりだったところを、たまたま通りかかった人物に呼び止められてしまった。荷物も何も持っていないが、全空一の魔術師には旅立ちの準備は必要がないらしい。
「その辺に遊びに行く訳じゃないんだよ?」
「わかってるさ。きっと素敵なヴァカンスになるぜ」
そんな調子のいいことを言っていても、きっとすぐに別々の道を行くのだろう。あれだけ団長のことを恩人と言って慕っていたのだ。離れるのは余程の理由があるに決まっている。
世に放ってしまってもいいのか悩ましい存在だが、このままこの団に置いていっても団長たちの手を煩わすことになる。かといって処分するほどのことは団に入ってから一度もしていない。むしろ陰ながら貢献していた実績がある厄介な存在だ。
イスタルシアに辿り着き夢を叶えた団長を壊したいと言って挑んだのは、理由はどうであれ正々堂々と戦っていて、俺が咎めることではない。負けてしまったと笑って話す姿がほんの少しだけ羨ましく見えた。
「団長ちゃんに挨拶はしなくていいの?」
「そんなことをしていたらキミはオレのことを置いていくだろう。団長に用があればメサージュを送ればいい。それに、必ずまた会える」
便利な能力を持っていると、随分と気軽に旅立てるものだ。連れて行くしかなくなってしまう。
こうして小型艇の前で出発に手間取っていると背後から声が聞こえた。
「一人くらいは同行者がいてもいいんじゃないかい?」
もう当分の間は聞くことがないであろうと思っていたウーノの声に驚き、心臓が跳ねる。
「ウーノ、どうして」
近いうちに去るとは伝えたが、いつ出発するかまでは言わなかった。気取られない時期をうがかって決めたのに見つかってしまった。別れの言葉も言わずに去ることに幾ばくかの後ろめたさがありばつが悪い。
「商会の未来のお客様に今一度挨拶をしておきたくてね。私は君のことを、いつだって歓迎するよ」
ウーノは、やはり商売をすると決めたのだ。
差し伸べられる手を握る。強く握り返される手の温度に出会った日のことを思い出す。ウーノとの出会いが、他者との繋がりのきっかけになった。
「全く、商売上手だなぁ」
これから先の予定など余計な話はしてこない。黙って出ようとしたことを責める気もないようだ。ウーノは今までに様々なことを教えてくれ、選択肢を広げてくれた。ウーノと出会わなかった可能性の自分自身も見た。出会わなければこんな輝かしい旅立ちの朝は迎えられなかった。
涙腺が緩みそうになったその瞬間、コンコンッと軽快に金属を叩く音がした。音の鳴った方を振り向くと、ロベリアがこちらに背を向けて艇に触れて首を傾げている。大事な艇を壊しはしないだろうが信用ならない。しんみりとした空気が散ってしまった。
ほんの少しだけ息を吐いて、ウーノと目を合わせる。
「またね、ウーノ」
「君と会えて本当に良かったよ、シエテ」
細くなった瞳の端が光って見えたのは、朝日の煌めきだけではないと思いたい。
「……こちらこそ、ありがとう」
大きく手を振って、笑って別れることが出来た。
艇の操縦は安定している。この空域は穏やかで操舵士でなくても飛ばしやすい。なにもかも旅立ちにはもってこいのタイミングだった。やり残したことも悔いも何一つないと思っていたのに、艇から離れていくうちに涙が溢れてきた。気取られないように拭おうと舵から手を離すと、ロベリアがハンカチを顔に押し付けてきて黙って受け取る。意外なことに何も言わずに少しだけ距離を置いてくれた。
落ち着いた頃に再び近づいてきて、まだ潤む目元を親指で乱雑に拭われる。湿っぽいハンカチをそのまま返す訳にもいかず、鞄に仕舞って大きく息を吐いてから口を開く。
「それで、何が目的なんだよ」
「目的?」
俺の目元を拭った指を舐めて、白々しくも首を傾げた。
「そう、お前の旅の目的」
ここで破壊だのなんだの言い出したら叩き落とすしかない。空気を読んでくれよと祈る。
「そうだなぁ。キミと美味しい食事を食べたい。美しい景色を見て、新しい音を聞こう。それに、キミの幸福の手助けをしてやってもいいぜ」
「俺の幸福?」
「……人助けだろう?」
力を持つ者の義務ではなく、守り、助けたいと心から思うようになった。思うままに生きても許される世界になっても、誰かを助けたい気持ちは根幹に残っている。より多くを助ける為にも団長の元を離れ、団長の手の届かない遠くの人々を一人でも多く救いたいと曖昧に思い描いた。
それが俺の幸福かどうか、今はまだそう言い切ることは出来ない。旅の主な動機ではある。それを手伝うというのだ。あの自身の幸福を最優先するロベリアが、だ。こちらの考えを推察しているだけでも驚きだ。俺のことなんて興味がないと思っていた。
「団長ちゃんにボコボコにされた時に頭でも打ったの?」
「酷いな。オレは正気だ。それにキミだって団長に負けていただろう」
「俺はロベリアとは違って負けてはないよー」
正確には、負けてはいないし勝ってもいない。ギリギリ引き分けて勝敗は次の機会に持ち越すことにした。きっと次はもっと成長してきて、負かされる可能性が高いという予想はしている。どうせ負けるなら極力苦戦させたい。その為にはこれからも鍛錬は続けないといけない。今まで成長を見守ってきたのだから越えられることは嬉しいことだ。わかっていても負けるのは悔しい。もう数戦は引き分けに持ち越して結果を引き延ばしたい。自然と眉間に皺が寄ってくる。
「くはっ」
ロベリアの特徴的な笑い声が響く。
「なんだよ、急に」
にやにやと笑みを浮かべてこちらを見てくる。
「シエテ」
「だから、なんだよ」
名前を呼んでくるくせに用件は言わない。
「くはっ、くはははっ! 」
なにが楽しいのか笑っている。
面倒で無視していると手が伸びてきて、指先で眉間を撫でてきた。
「ふふふ……キミを、独り占めだ」
「それはよかったねぇ~。艇の操舵の邪魔はしないでよね」
独り占めしたから何だというのか。こいつとは会話のテンポは合うが、発言の内容は理解出来ない。
「団長も、他の団員も、本気で怒るだろうな。あぁ、トレビアンッ、見つかった時が今から楽しみだ」
何か恨まれるようなことでもしたのか。逃亡の手助けをしたと思われたら困る。ある程度は責任を持って監視しないとならない。
「俺の目の届く位置にいるうちは大人しくしててよね」
「ウィ、キミがオレとタワーとの旅に慣れるまではいい子にするさ」
気楽な一人旅とはいかなくなった。日が高く昇って、これから先の旅路を照らす。目の前には晴れやかな空だけが続いていく。