基調講演
バイオソーシャルなうつ病論の光と影:医療人類学的視点
バイオソーシャルなうつ病論の光と影:医療人類学的視点
講演者:北中淳子(キタナカジュンコ) 先生
慶應義塾大学文学部教授。専門は医療人類学。シカゴ大学社会科学MA、マギル大学人類学部・医療社会研究学部Ph.D. 主著Depression in Japan (Princeton University Press, 2012;フランス語版2014、ペルシア語版2021、韓国語版2023『うつの医療人類学』日本評論社 2014)とうつ病研究に対して、米国人類学会フランシス・ シュー賞等国内外5つ受賞。アメリカ医療人類学会役員、学会機関誌Medical Anthropology Quarterly, BioSocieties, Transcultural Psychiatry(Associate Editor)等欧米の主要なジャーナルの編集委員を務める。
「振り返りのない人生は生きるに値しない」との哲学的伝統のもとに、精神療法の影響が強かった北米においても、1980年代以降の新世代抗うつ薬の隆盛は、バイオロジーの覇権と精神療法の終焉をもたらすとまでいわれた。それまでのbiopsychosocialモデルに対して、bio-bio-bioモデルが精神医学の地図を塗り替えつつあるとの懸念さえ高まった。ところが、抗うつ薬に対する熱狂が醒め、バイオモデルに対する疑問が表明されるようになる中で、あらためて心理社会的相互作用を重視したアプローチが模索されている。
その点で世界的にみても画期的なうつ病論を展開してきたのが日本の精神医学だ。すでに20世紀前半から、うつ病における病前性格と過労状況の相互作用に注目し、「バイオソーシャル」とでもいえるうつ病論を展開してきた日本においては、この病をその人の生き方のみならず、歴史的社会状況との相互作用として捉える独自の臨床観が培われてきた。
さらに、2000年に最高裁判決の出された電通事件以降、うつ病が「過労の病」「ストレスの病」として語られるようになる中、これを個人のバイオロジーを超えたより社会的な病として捉える見方が一般の人びとの間にも浸透している。ただし、バイオソーシャルなうつ病論が画期的な社会変革を可能にした一方で、個人のpsycho――いわば主体化と自己変革の可能性――が十分に議論されてきたとはいえない。日本のうつ病論がどういった可能性をもたらし、どのような課題に直面しているのか、医療人類学的視点から考えてみたい。