「バナナ画廊(仮)」
茂木淳史 Atsushi Mogi
美術館の中で突如ギャラリーを運営し、作品販売をする作品。段ボール箱をギャラリーと見立て、作品を展示する。作品の購入が決まればその場で段ボールを閉じ、宅急便の伝票を貼り、コンビニに発送しに走る。
本作品は1993年に行われたギンブラートの出展作家である小沢剛さんの「なすび画廊」のオマージュです。2020年から続くコロナ禍でWEB展示や、最近流行しているNFTなどの、作品を情報化し実物を見ずに鑑賞することへのアプローチと、同じくコロナ禍で需要が爆発した宅配サービスを掛け合わせて、展示状態を保存したまま購入者へお届けする、画廊ごと宅配できるサービスを作った。
文:茂木淳史
出展作家
伊藤 快斗 Kaito Ito
斎藤 昂祥 Koyo Saito
関野 正祥 Masayoshi Sekino
小島 樹 Itsuki Kojima
本岡 景太 keita Motooka
「YES?」
渋井 智輝 Tomoki Shibui
「これは、、おパンツ丸見えじゃないか、、!」2月の終わり頃私がchimpom展を見た際に思った1つの感想である。
しかしこれは私だけが感じた事ではなく、多くのそんな声を耳にした。
兼ねてから日本全国のパンチラスポットをマップ上に記し、日本全国パンチラスポットマップを作成しようという試みがあった私にとって突然に現れた新しく作られたパンチラスポットである。それが六本木のど真ん中の六本木ヒルズ森美術館にあるという衝撃が忘れられなかった。たかがパンチラ、されどパンチラ。設営の段階でそういったスポットになってしまう事に運営側が気づかないはずがない。これは仕組まれたトラップなのだろうか。
今回私はあの場でしか出来ないパフォーマンスをしようと兼ねてから考えていたため、この構造を利用するしかないと思った。
私覗く側の人間で、なんなら覗きたい。パンツを見たい。ずっと見ていたい。そんな夢を抱いた同志に私が見せてあげる。私が作品としてそこに立つ。下から覗く同志はあくまで作品鑑賞をしている。覗きという卑劣外道な行為を作品鑑賞という高貴な行為に変容させた。
文:渋井 智輝
「アイを知るまでは」
広瀬 里美 Satomi Hirose
「私に紙テープを巻いてください。アイを知るためにはあなたが必要です。」
この作品は作者本人が支持体となり、そこに鑑賞者が紙テープに文字を書き、作者本人に巻きつけていく作品。
タイトルは『アイを知るまでは』。これはあいみょんの「愛を知るまでは」のMVの一場面から想起されたオマージュ作品である。
色とりどりの紙テープを大量に用意し、「私を巻いてください」という指示書とマジックペンを置いておき、通行人(鑑賞者)は紙テープに自由に何かを書くことができ、それを私に巻いていってもらうことで成立する。結果的に写真を見てもわかるようになかなかにグルグルにしてくれた。顔まで巻かれるとは正直思っていなかったがそれも良い。参加してくれた人たちと協力してくれた仲間たちには感謝しかない。
この行いにはタイトルからも察せられるように「愛」と「I(私)」を知る狙いがあった。愛を知るためには自身を知らなければならないし、自身を知るためには他者を知る必要があった。知るには至らなかったかもしれないが、多くの人がテープに言葉を残し、私(作品)と関わってくれた。その関りの数だけ私はどんどん身動きが取れなくなっていき、量が増して存在感も増していった。そうして私自身の形は認知できなくなっていった。僅かな時間だったが私は他者がつくり出したエネルギーの蓄積の中に身を置くことができたのだ。この時私はそこにいたが、いなかった(かもしれない)。
巻いてくれた紙テープは現在保管し、言葉は全て書き留めた。
文:広瀬里美
「箱の中身」
関野 正祥 Masayoshi Sekino
[箱の中身]
喫煙者なら理解できるであろう、道端に落ちているたばこの箱。
自分が吸っている銘柄でなくても私はつい拾って中身を確認してしまう。
中身が入っていることはめったになく、この自分の行動と日々の社会からの喫煙者差別に苛立ちを感じる。
入っていない場合はそのまま道に捨てて立ち去り、次にその箱を見つける喫煙者のトラップになるのだ。その時私の苛立ちは期待へ変わった。
しかしそれは非常に限定された人への小規模なトラップであり、何より釣をする自分にとって人が捨てたプラスチックゴミが風で飛ばされ川を流れ行くのを見ると、またその自分の行動に苛立ちを感じた。
私の作品は、重さ856gから成る無垢鉄でできた煙草の箱の作品で、道の作品に置くことで全ての人へのトラップになり、公道のゴミに目を向ける機会を作ることを期待した作品である。
私は展示会場に直接行くことはできなかったが、道の作品を掃除するホストの人たちが、私の作品を不思議そうに眺めている写真を見せてもらった。
私は鑑賞者にゴミに目を向ける機会を作り、少しだが良いことができたと嬉しく思ったが、それは結局他人任せになっていた事に気づきまた苛立ちを感じている。
文:関野正祥
「野営する」
柏木 崇吾 &タオリグ・サリナ Shugo Kshiwagi & Sarina Taorige
柏木崇吾は普段から、生への執着が表面化されにくい現代の環境において、単純な目的や使命を持たないオブジェクトや事象を介入させる制作を展開している。
彼は今回、会場に突如テントを設置し、美術館にプライベートな空間を作った。
あの場所に立ち会う人々は、目前の出来事をいかに消化し、理解しようと努めるのか。
空間はいずれ想定を超えた出来事を引き起こしながら加速していく。
その行為は、公と自、人工と自然、都市と田舎、境界線を引かれる場を厳静に解体していた。
文:茂木淳史
「他人の顔」
北原明峰 Akiho Kitahara
趣味で人の証明写真を集めています。私が関わって来た人達が分かる痕跡でありただの人の顔の画像である写真で相関図を制作します。
名前を知られる事のない私やその周りで関わる人達が生活している事を確認して今日もいい1日を過ごしていますように。
文:北原明峰
「Bomb」
小島 樹 Itsuki Kojima
観光地で見られる恋人がお互いのイニシャルを書いた南京錠をフェンスにかける行為はそのほとんどは永遠の愛の誓いの名の下に許可無く行われる。
これは人の営みか、あるいは落書きか。
文:小島樹
「夢の地図」
高橋 晴久 Haruhisa Takahashi
道端に作品が落ちてたら、、、というシュールな妄想から今回の作品を作りました。美術館に入って美術品を見る時の敷居の高さというか、ある種の構えというか、そういうのもなにもなく、雑多な人混みの路上空間に落とし物のように小さな宇宙が落ちてる、、というぼんやりしたイメージでした。作品は靴で踏まれる事も想定してシリコン製にしたのですが、実際に展示してみると作品に気づいて踏まないように気をつける人や踏んでも気づかない人、手にとって触って確かめている人やしゃがんで凝視する人などいろんな反応があって、遠くから見ているとその物体が作品なのか落とし物なのかがよく分からなくなっていてシュールな光景でした。
出来るだけ絵であるとか彫刻であるという形式もあやふやな訳の分からないものを路上に溶け込ませてシュールな光景を作れたら、という点では自分なりに満足しているのですが、一方で「道」の上で選挙演説があったり、マッサージをやっていたり、占いをやっていたり、変人がいたり、インパクトのあるポスターが沢山貼られていたり、そのうえ最終日でもあるということでお客さんの数もかなり多く、完全に飽和状態。その中でゲリラ美術品としてもう少し目立ちたかったなぁという寂しさはありました。
文:高橋晴久
「 オルゴン発生装置」
多々見 草太 Sota Tatami
無機物(金属板)と有機物(木板)を用いてオルゴンエネルギーの発生を目指します。また、そのエネルギーを用いて会場内の人々の病や悩みを治す事を試みます。
文:多々見草太
「日本人の善意を信じてみる」
手塚 美楽 Mira Tezuka
手塚美楽は「無抵抗です」という紙を一枚置き、道に横たわり続けた。鑑賞者にその体をそのまま、全て預けた状態である。
女性がこのようなパフォーマンスを行うのは大変な危険行為で、過去にマリーナ・アブラモビッチがこのようなパフォーマンスをした際には、服を切り裂かれ、上半身丸出しになり、剃刀で首を切られている。
手塚の日本人の善意とは国民性への挑戦である。海外の方から見て、よく「日本人は礼儀正しく仕事熱心だ」というイメージを持たれている。しかしそれはマスメディアによってミームとなっているとも考えられる。だか、だからこそ手塚は、そんな日本人の善意を信じ3時間の間、体を人の手に委ね会場を見つめ続けた。
文:茂木淳史
「無題」
深田 拓哉 Takuya Fukada
いま、できることしかやりません。
深田拓哉は、その日たまたま持っていた麻雀牌のみを持ち込み、会場で他の方が配っていたパンフレットを床に敷いて、鑑賞者と麻雀をやっていた。
今日そこで、できることをその場にいる人とやり、何か足りなくとも、何かで補い、生きている。
文:茂木淳史
「 ゲリラ個展20
「令和かれすゝき」-(オレンジのやつ3) 」
本岡 景太 Keita Motooka
これまで大学内や街中、電車内で、合計19回にわたって行った、自身のゲリラ個展の延長として、この場を考えてみる。
美術館の中、この強い紫外線の中でも、僕らのゲリラ個展は成立するのだろうかという問いを皮切りに、作品の性質を確認したい。
文:本岡景太