2022/11/28
ネルソングッドマンの『芸術の言語』を読む。私は彼のシンボル理論を異常なまでに拡張してみたいと考えていることに気づいた。私は、明確に描かれたもの、書かれたものであるシンボルだけではなく、書かれざるシンボルも含めて議論したいのだ。それは感情のシンボルであり、ペルソナのシンボルであり、経験のシンボルである。これらの書かれざる経験たちもまた、シンボルとしてのかたちを持っている。というより、シンボルにされなければこれらは認識されえないのだと感じている。もちろん、すべてがシンボル化されているわけではなく、当然、グッドマンが言うようなあいまいさはつねにシンボルの統語論と意味論のそれぞれの中でも存在するわけだ。しかし、シンボルがシンボル化されることによって、私たちの感情の認知能力が高まりもし、逆に不満を一緒くたに集めていると、認知の歪みを惹き起こす。私たちは世界の解像度をそれぞれの世界に沿って上げる必要があり、そのためにはシンボルはつねにすでに効力を持っているのだ。

2022/11/21
冗談の哲学(2)

いじりはそもそも傷つけるような冗談であるということが確認されたうえで、傷つける冗談ではあるがいじりとは少し違う冗談もある。それがあざけり(sneering)である。これはより社会的な側面を強くもったユーモア行為である。社会的な場面である政党の党首であったり、政治家をあざける、特定のカテゴリに属する人々をまとめてあざける。何をしているのか?O'brienいわく、社会的価値を感じさせている、と言われる。"sneers are acts that express the attitude of contempt or scorn, with the aim of socially downgrading, or confirming and emphasizing the downgradedness, of their object."(O'brien 2022)。つまり、いじりがあくまで信頼関係のなかでの成功とか失敗とかを言うものであり、あくまで「ウチ」の人間同士のあいだでの笑いを目指すものだとすれば、あざけりとは、明らかに、笑いのターゲットを「ソト」のものとしてはじき出し、社会的価値を低めようとするユーモア行為である。もちろん、あざける方からみれば、あざけりとはいじりにしかならないのかもしれない。内集団・外集団という区別と、笑いをどこから見るか、笑われるか、笑うかという区別、それから社会的価値の操作の如何によって、笑いのマッピングをすることもできそうだ。冗談の倫理的価値については、今回はそこまで深く扱いたいかというと、他に関心のあり、そして価値ある研究をしている原鼓太郎がいるため、自分はより感性的な側面にフォーカスしてみたい。

こうも言える。いじりとは、あざけりのフリであると。つまり、いじりとは、冗談の冗談なのだ。冗談(あざけり)が冗談(いじり)ではなく、冗談(あざけり)として効果を持ってしまったとき、それは、相手の社会的地位を格下げるようなキツイ言語行為として成立してしまう。他方で、あざけりの冗談として成立すれば、それは高度な信頼を与え合うことになりうる。だが、あざけりがそもそも攻撃的である以上、どんなに成功したいじりも、加害的であるのは確かだろう。そうした加害性を少しでも許せない、という態度は、べつにおかしな態度ではないようにも思う。

と、ここまで来て、そもそも冗談とはなんなのか? それは一体全体どういったたぐいの行為なのか? というのが気になってきただろう。私もよく分からなくなってきた。フィクションの場合もあるが、フィクションに尽くされるわけでもなさそうだし、いったいなんなのだろう? 冗談の特徴について考えたくなってきもした。

冗談の悪用とはまさにここにある。〜は冗談だよ、と言うことで、ほんとうは冗談ではないものを冗談にしてみたりできる。同時に、ほんとうに冗談だったかもしれない。洒落にならないのはいつか?

トニ・モリスン『ビラヴド』を84ページまで読んだ。読んでいて、ずっとつらい小説だった。読みきれるのはいつになるだろうか?
2022/11/20

Frankenstein in Baghdad, or the Postmodern Prometheus おもしろそうな研究。

ファンタジー研究をされているエスカンド・ジェシさんに研究をじっくりと聞く機会を設けていただく。ファンタジー研究と表象文化論研究のおもしろみを体感した。ジェシさんの博論は出版されれば、ファンタジーの表象文化論はぐっと前進するだろう。

冗談の哲学を勉強している。
論点は無数にあるが、私が取り組んでいるのは、傷つくような冗談を言われたのに、かえってすがすがしい気分になるような経験について、言語化・図式化を試みることである。例は不用意には出せないが、何か失敗をしたときであったり、自分の悪癖について笑われること、明確に言語などによっていじられることが考察の対象だ(いろいろ人の話を聞いていると、そもそも傷つくような冗談がいつなんどきもイヤだ、という人もおり、興味深く思える)。

傷つくような冗談が(1)いつ成功するのか?(2)成功するとはどういうことか?(3)その仕組は既存の冗談の哲学研究から分析できるのか? これらが今の所の関心である。

まず、基本的なところから言えば、冗談が発生するとき、(1)冗談を言う人(2)冗談を聞く人(3)冗談のターゲット、の3つのエージェントがまずある。この3つは重なったりするとされる(Abrams 2020)。そして、これらのなかで、冗談を言う人と冗談を聞く人のあいだで信頼が必要になると言われる。たしかに、同じ冗談を言われても、面白く感じられる場合と、不快になるだけの場合の違いとは、信頼の有無にあるだろう。信頼の細かい分析はおくとしても説得的である。それだけではなく、信頼から冗談を考えるといくつかの実践的な帰結も生まれる。ある冗談が不発に、さらにはたんに傷つけるだけの結果に終わるとき、聞き手から冗談の言い手に対する信頼が成立していない。冗談の言い手が聞き手と同じ苦労をした上で、聞き手の失敗を冗談にしているのか、それとも、経験を共有していないのにいじっているのかによって、このどちらを正しいと聞き手が思っているかによって、冗談の印象は変わる。なので、冗談は、往々にして、聞き手からの信頼を冗談の言い手が見誤った場合に大失敗する(この消息は(Deen 2020)が詳しく論じている)。

さて、こうした信頼に並んで、冗談の特徴それ自体にも成功条件がある。アンダーソンは、傷つけるような内容を使って笑いをとる「いじり(roasting)」が失敗するのは、内容そのものに聞き手のフォーカスが移ってしまい、冗談の形式的特徴にフォーカスが移動できない場合だと言う(Anderson 2020)。正直アンダーソンの論文では「形式的特徴にフォーカスが移動できている」状態がどういう状態なのか詳しく書かれておらず、私の解釈が入るが、以下のようなことだろう。ある人が他の人をいじるとき、そのいじりの内容が攻撃的なのに、そのいじり方が冴えている場合に、傷つきつつも同時にしてやられた、という喜びと笑いが生まれる、こういう次第を述べているように思われる。

もちろん、こうした攻撃的な内容が実効性を持った非難やslurにならないためには信頼が必要であろう。いじりのおもしろさとはおそらく、言葉の内容だけみると、非常に攻撃的であるにも関わらず、その形式的特徴ゆえに冗談行為の意味が別の行為の意味へと転じている、その危険な賭けにあるのだと思う。いじりとは、攻撃的な内容だからこそ、その毒を昇華できた瞬間に美的価値を生み出すという危険なものなのだ。それゆえ、生半可な関係や関係の見積もりの甘さが命取りになる、というわけだ。傷つける冗談を冗談として成立させるためには、信頼とわざが必要なのであり、失敗を失敗として受け入れられないなら最初から言わないほうがいい(もちろん、冗談が冗談として受け取られない不運な空間に冗談が切り抜かれた場合には、それはこういうコンテクストにおける冗談なのだ、という言い訳はある程度正当である)。

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Winning Over the Audience: Trust and Humor in Stand-Up Comedy: Abrahamsがたいへんおもしろかった。冗談が成功するためには、冗談を言う人とそれを聞く人のあいだで信頼が成立しなければならないと指摘する。人種差別として成立しかねない冗談を、その人種内グループの者が、しかも、その人種であるがゆえの経験を確かにしてきた者が言う場合には冗談は成功しうるが、他のグループの者が同じ冗談を言っても成功しない。なぜなら、後者は信頼されないからだ。それが冗談なのか、それがヘイトスピーチなのかがあいまいになってしまうから。

What Could It Mean to Say That Today's Stand-Up Audiences Are Too Sensitive? はユーモアへの反応がメリット反応であるというゴートの話を使って、あるユーモアが面白いかどうかは、たんに記述的な話ではなく、規範的でもある(しかし、完全にオーディエンス独立でもない)という話を踏まえて、「さいきんの客はセンシティブ過ぎる」のようなコメディアンの嘆きが何を嘆いているのかを明確化している。枠組みとしては他の論文と組み合わせると理解が進みそうだ。

『世界のエリートはラテン語を学んでいる』という、あながち嘘でもないビジネス書は出てほしい、と友人と話していたら本当に出ていた。次は『世界のエリートはギリシア語を学んでいる』が出て欲しい。なぜなら参考書が売れて絶版になりづらくなるし、教養が高まると素晴らしいからだ。

いく人かの人に「メタバースは「いき」か」を読んだ感想を、しかも思ってもみないほど楽しんでもらった感想をいただき、恐縮し、嬉しく思う。もともと気になっていたトピックで、友人との会話の中で書いてみたらおもしろいんじゃないか、と後押しをしてもらったものだ。私の人生観が如実に出ていて気に入っている文章の一つだ。

2022/11/19
いじりが失敗するのはいつ?親密さや攻撃ではないというサインが担保できず、攻撃的な内容がそのまま攻撃的な内容として伝わるとき。いじりは、攻撃的な内容を用いながら、その形式のおもしろさにオーディエンスの注意を向け直せたとき成功する。
Roasting Ethics: Anderson

モノマネはいじりの最たるもののひとつで、こういう男性をステレオタイプ的にいじる。しかしこういう男性を攻撃的に戯画化しつつそれだけではないこともしているのがおもしろい。