タイトル:五月闇
作家 :やちだけい
展示会 :やちだけい個展 残り香は蒼く
購入日 :2024年6月5日
サイズ :12号
技法画材:絹本、墨、アクリル絵具
この作品を最初に見たとき、鑑賞者たる私はどこに位置しているのかアングルが気になった。鑑賞者たる私とは「彼女を見ている画中に存在する誰か」と置き換えても良い。いずれにせよこの作品は彼女を高い位置から見下ろすアングルになっている。人を見下ろすアングルで、しかも全身を描く構図は珍しいのではないか。日常生活の視点を考えると、誰かを見下ろす場面は、身長差がある、立っている人が座っている人を見る、階段など立ち位置が異なる場合であろう。彼女は脚の低い椅子に座っていることから、近づけばこのように見下ろすこともできる。しかし、もし誰かが傍に寄れば、彼女はその人の方を振り返ったはずである。また、この作品ではかなり急な角度であるため、例えば階段から降りてきた人が彼女を見下ろすという場面は想像しにくい。つまり、この作品では彼女以外の具体的な誰かは近くに存在せず、また鑑賞者が絵の役者としてそこに立つことも想定されていないと考えられる。
個展風景①《残る花》
もっとも絵画であるのだから、具体的なシーンと切り離して人を描くことは普通であり、いわば神の視点で彼女を捉えても問題はない。それを前提にしても私がアングルに関心を抱いたのは、彼女の実存感にある。単純に人物を描いただけでは生じえない鑑賞者と作品を結び付ける実存感。今回の個展「残り香は蒼く」では《残る花》というポラロイドカメラを手にした女性の作品が展示されていた。その写真には何が映っているのか分からないが、鑑賞者は誰しもそこに映るものを想像し、それにリアリティを感じたはずである。それと同様に《五月闇》も私がその場にいなかったとしても、それを見ているという実存感がある。念写というとやや怪しげに聞こえるかもしれないが、何かを通じて私はこのシーンに遭遇しているような気がしてならない。写真や映像とは異なる「実存感」はやちだけいさんの作品に通底する魅力である。
五月闇とは「梅雨が降るころの夜の暗さ、また、その暗やみ」である [1]。彼女が着ているのはパジャマの類と思われる方も多いであろう。私も当初はそのように思ったのだが、長めのワンピースということであった。とすれば彼女は一旦眠ろうとしたが、眠れずに起きてきたのではなく、着替えることなしに夜が更けていったことになる。さらに、彼女の服はこの作品の背景にあるストーリー性だけでなく、卓越した技術が込められている。左腕の肘にあたるところを観察すると、うっすらと肌の色を感じさせる。姿勢からすると布地が引っ張られているためであろう。レースのように透過しているわけではなく、厚手の生地ながらその下にある肌を意識させるのが素晴らしい。単純に服を描けば、それは服の絵でしかない。服を着ている人の絵を描く必要があるということにあらためて気づかされた。この作品の実存感は人の体が的確に描かれていることも要因であることがわかった。それにしても描くに難しい服を複雑な姿勢で描いているではないか。白地に薄い青の二重線とシンプルな柄である。そのため膝を抱える姿勢は生地のあちこちに皺と歪みが生じ、シンプルな柄であるがゆえに複雑な衣装になってしまう。絵画で白い服は珍しくはないが、すらりとした立ち姿で描かれることが多いように思われる。油絵は陰影表現に適しているが白をベースにすると陰影が重苦しくなりかねない。一方、日本画は陰影をつけにくい傾向にある。やちだけいさんは絹本にアクリルと墨を用いているが、真骨頂は細やかな陰影表現にある。複雑な姿勢による服の皺や歪みは白い布地がもっと目立つ。それを柔らかな陰影とでも言うべきか、青い線と合わさり心地良いリズムを生み出している。背中のあたりの繊維の伸び、膝にかかるワンピースの裾などは西洋画に劣らないリアリティがある。ワンピースの縫い目や型も精緻に表現されているのも見逃せない。椅子の手すりの影もうっすらと見える。より写実的に描くのであれば、もっと濃い影の方が正しいのかもしれない。しかし、それでは黒が強くなりすぎ朧げな雰囲気を害してしまう。全体的な色調の美が保持されているのだ。
服の表現
個展風景②《早桃》
人物画では肌の表現も大切である。やちだけいさんの場合、輪郭線はあるものの一般的な日本画に比べると淡い。そのため人物は背景に溶け込むような空間が形成される。また、肌に微妙な陰影がほどこされている。さらに、手の甲を注意深く観察すると、どこか青っぽく見える部分がある。血管は浮き出ていないが、ごくごくわずかながら血のめぐりを感じさせる。以前別の作品について作者にお話をお伺いしたところ、実際に肌に青を含ませることがあるということであった。この作品も同様の可能性はある。直感的に青を感じてしまえば不自然であり、違和感が生じかねない。鑑賞者が気づかなくとも、無意識のうちに影響を与える技である。火照った顔、虚ろな瞳、そして自然な唇の赤みと彼女が描く女性像には共通点があるが、それらは繊細な肌の表現と結びつくことでより美しさが増すのである。
次に少し離れて鑑賞すると構図の妙が見えてくる。彼女の頭と膝、爪先を結ぶと一つの斜線を引くことができる。もし背もたれの椅子が垂直であった場合、どのような印象を与えるだろうか。右側に垂直の補助線が引かれる形になるため、直角三角形に近い構図となり、堅苦しい印象になってしまったと思われる。過去の作品から推測すると、この籐の椅子はもともとあったもので、日常的に使っていたのかもしれない。しかし、この籐の椅子の作りは、彼女の背中に沿って斜めに補助線を引くことになる。つまり二等辺三角形に近い均衡のとれた構図となる。その安定感があるからこそ、椅子のへりに踵を乗せ、宙ぶらりんになったような足先がより意味をなしてくる。不安な気持ちを代弁するように足先を開いたり閉じたりしているように見える。
補助線を引いた場合
垂直の背もたれを仮定した補助線
この作品において籐の椅子は非常に重要な役割を果たしていることに気づいた。籐の椅子がなければ成立しえないと言っても過言ではない。背中のラインをサポートしていることは先ほど述べた通りであるが、腕のラインもサポートしている。例えば一般的にビジネスチェアの肘掛は水平になっている。それでは横の直線が強すぎてしまう。この籐の椅子は肘掛が「く」の字に曲線を描いている。直角に曲がる部分はない。丸みを帯びた椅子は、絵画としての彼女の姿勢を阻害することなく、柔らかさを強調してくれる。色合いも穏やか。初夏の季節に涼やかさをもたらしてくれる。クッションのセンスも良い。籐の椅子の直に座ると編み目が多く、絵画としては目立ちすぎるおそれもあろう。薄い青を敷くことで落ち着きのある色彩となる。もちろんクッションの陰影も巧みであり、容易には真似できない。
冒頭で作品のアングルについて触れたが、なぜ少し上から見下ろすアングルにしたのだろうか。塞ぎ込む様子を表現するには絶妙なアングルであるのは確かである。さらに細かく考えていくと、うなじが見えやすくなり独特の色気が醸し出されることに気づいた。個展のタイトルにもあるようにこの作品にも香りが秘められている。後襟がやや引っ張られているのは姿勢というより、作品の意図によると思われる。真横からではその効果を最大限に引き出すのは難しい。後ろ髪をしばってアップにしているのも襟足へと視線を誘導させるためと思われる。ほどよく解けた髪が美しさを引き立てる。また、斜め上から見下ろすと前髪によって瞳が隠れがちになるのもポイント。正面から見るのに比べ表情をうかがい知るのは難しくなるが、そのため彼女が何を考えているのかより知りたくなり、作品に引き込まれていく。また、手の甲、足先と作品のポイントとなる箇所がより見やすくなる位置関係になっており、入念に検討された構図であることが理解できよう。
最後に背景に注目してみたい。この作品では黒ではなく薄い紫色が広がっている。黒のグラデーションであれば夜という時間軸が意識されやすい。それに対して薄い紫色のグラデーションは事象としての暗さだけでなく、心理的な憂鬱さと結びつく。時間という概念からも取り残されてしまった如く彼女はぽつねんとしている。薄い紫は夜更けの暗さではなく、梅雨時の湿り気を感じさせる効果もある。五月闇は、梅雨時は月が雲によって隠れやすいということも意味している。それは照らすものが欲しいという彼女の心理を象徴しているのかもしれない。(2024年10月27日)
[1]goo辞書 デジタル大辞泉(小学館)https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E4%BA%94%E6%9C%88%E9%97%87/
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